ここには、童話や物語らしきものを掲載します。ぜひ、忌憚のない、忖度なしのご意見を待つことにしたいと思います。前に進むために、助けると思って、感想をお寄せください。お待ちします。

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月例増刊号 FANTASY 12 「緑の葉を抜ける光 光3部作第2弾」








 緑の葉を抜ける光











 *

 Kがいなくなってしまってからは、ずっと心にぽっかりと穴が空いたようだった。なんだか自分一人だけで、砂漠かジャングルのようなところに取り残されたような気分になったのだ。

 別にそれほど頻繁に会っていたというわけじゃないし、とくに最近は年に数回くらいしか会うことがなくなっていた。だから、物理的にはそんなに変わったというわけじゃない。しかも、最後の方のKの様子は明らかに変だった。自己否定や自己憐憫が端々に現れて、ちょっと辛い時もあった。

 それなのに、彼が僕の前から消えると、二度と手に入れることができないものを失ったような気がしていたのだ。もしかしたら彼が、僕自身の中にあるそうした部分を代替してくれていたのかもしれない。だからたぶん、自分はそうしたことからしばらく遠ざかることができていたのでは、と思ったりすることもある……。

 でも、もしかしたら、いくらかでもその穴を埋めることができるかもしれない。今は、そんな気がしている。少なくとも、しばらくの間はあかるい気分になることができる。まあ、もしかしたらまた……、という不安がないわけじゃないけれど。でも、先のことを案じてばかりいるのもつまらない。







 *

 ある晴れた日曜日、気分転換のためにいつもとは少し違う道を試してみようとした散歩の途中で、思いのほか歩く距離が長くなって、道沿いにあった小さな公園のベンチで、ぼんやりと空を眺めていた。いかにも春らしい柔らかな青空に一つだけぽっかりと浮かんだ雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていくのだ。その時、足元につまづきかけた人がいた。

「Oh, very sorry !」
 外国人の女性のようだった。
「OK. That’s my fault. 大丈夫?僕が足を伸ばしていたのが悪かった。ごめんなさい」
 咄嗟に言って、顔を上げた。と、
「Oh. こんにちは! 覚えていますか?」
 その人は、そう言ったのだ。

 驚いて、もう一度よく見てみると、ひと月ほど前に、海辺の鄙びたバーで偶然隣り合わせた日系カナダ人女性のIだった。その彼女と、ばったり出くわしたのだった。
「もちろん ! どうしたの?」
「道に迷ったようなんです。それで、ちょっとぼんやりしてしまって……」
 視線をそらして、恥ずかしそうに言った。
「ふーん。でも、また会えてよかった」
 ぼくは、驚いたけれど、なんだかとても幸運なような気がした。率直にいえば、再会したことが嬉しかったのだ。
「私も!あなたは、今日は何を?」
 彼女が訊いた。
「散歩の途中だよ。退屈しのぎにやっている。で、君は?」
 僕はそう答えて、訊き返した。
「町の探検、かな。ふつうは自転車なんですが、今日は、ゆっくり歩いてみようと思って。でも、道に迷いました」
「そうなんだね。あれから、どうしてた?日本での生活にはもう、慣れたのかな?」
「まあ、少しずつ……。なかなか、簡単じゃありませんね」
「ああ、確かにね」
 言葉も思うようには通じず、文化も習慣も何もかも異なる国で暮らす、というのは簡単じゃない。
「実は、あの後で、あのバーにも何回か行ったんです」
 と、Iが言った。予想もしなかったことだった。
「へえ」
「でも、会えませんでした」
「ああ。それは、悪いことをしたね。実は、僕もしばらく行っていないんだよ……」
「そうなんですね」
「ああ、いろいろあってね。ところで、君はいま、すごく急いでいるの?」
「いいえ」
「じゃあ、よかったら桜を見に行ってみないか?」
 あんまり期待しないで、訊いてみた。期待しすぎるのは、問題だ。そうした時の答えは、だいたい想像がつくのだ。
 すると、Iの顔がパッと輝いた、ような気がした。 そして、
「ええ、ぜひ。私も、とても見たかったんです」
 と言ったのだった。
 ぼくは、ちょっと驚いたけれど、それで、近くでまだ満開の桜が見ることができて、しかもあんまり人の多くなそうな場所へ行くことにした。一つだけ、よく知っている場所があったのだ。それほど遠くじゃない。歩いて行けるところだ。それで、海沿いの道をゆっくり歩いて行くことにした。

「ホームシックにはならない?」
 歩きながら、訊いた。
「少しだけ、かな。いつもは忙しいから、あんまりそういうことはないけど、お休みの日はちょっと寂しいです」
 この時ばかりは、まさに異国でゆきくれた人のように、沈んだ声で答えた。
「ああ。そうだね。誰だって、寂しくなる」
 僕も相槌を打つ。
「ええ、そうですね。ありがとう」
「この辺りは海といっても、グランヴィルの景色とはずいぶん違うものね」
「ええ。でも、あんがい好きです」
 彼女が言ったのだった。
「へえ。どうして?」
「まず、海。海には変わりがありません。そして、素朴な気がします」
「ああ。なるほど。確かにね」
「そう……。でも時々、おばあさんが恋しいです。父と母はメールやチャットで話せるけれど、まだおばあさんとは、話せていない」
 今度は、ほんとうに寂しそうで、まるでおばあさんに甘える年頃の少女のようだった。
「ああ、そうなんだね」
「ええ。でも、もうすぐ話せそうです」
 また、元のあかるい口調に戻った。
「それはよかった。きっと、おばあさんも喜ぶね」
「はい。とっても、楽しみにしてるんです」
 彼女が言い、僕もなんだかすっかり安心した気分だった。

 しばらくすると、桜の咲いている場所に着いた。ここは、久しぶりだ。小さな公園だけれど、それでも桜の木は何本もあって、じゅうぶんに見応えがある。

「さあ、着いた。桜を見るのは、ここだ」
 そう言いながら、ちょっとばかり複雑な気分になった。ずっと前に、Kたちとここで花見をしたことがあったのだ。
「おお。なんて綺麗なんでしょう」
 Iが声をあげた。まだ、満開の時を過ぎてはいなかったのだ。
「気に入ってくれたようだね。よかった」
 僕は、ホッとして言った。
「ええ、とっても。ありがとう。ああ、これが、日本の桜なのね⁉︎」
 ずっとこの時を待っていた、というかのようだ。
「そう、でも、バンクーバーにも桜はあるんだよね?」
 僕は、少し訝りながら訊いた。
「ええ。スタンレーパークとか、街のあちらこちらに。日本からの贈り物です」
「ああ、そうだった。確か、最初は横浜や神戸からだったんだよね?」
「ええ、そうです」
「それでも、日本の桜は格別?」
「ええ。やっぱり、元々の場所で見る方が、ずっと素敵」
「ということは、これも地産地消、かな?」
 僕は、Iと初めて出会った海辺のバーでのやり取りを思い出しながら言った。
「そうですね」
 Iが笑った。
「日本ではね、お花見といって、家族や友人たちと集まって、食事やお酒と一緒に、桜を楽しむ習慣があるんだよ」
 僕が説明した。と、彼女は、
「へえ。私も、ぜひやってみたいわ」
 と言ったのだ。
「でも、桜の季節は短いからね。もうすぐ終わる」
「そうですね」
「残念だけどね」
「ええ。ほんとうに残念。来年か、再来年か。また今度ですね」
「ああ。帰国しても、またいつか来ればいい」
「はい。そうですね。ぜひ、そうしたいわ。でも、今はこの桜を楽しむことにしましょう」
 と、Iが言った。たしかにそうなのだ。明日のことよりも今日、今この時を大事にしなければならない時があるのだ。
「ああ。そうしよう」

 それからしばらくの間、黙ったまま、桜を眺めていた。時々口にした言葉といえば、「綺麗だね」、「はい」、「とても美しいわ」、「いいねえ」、「ええ」、「ほんとにね」、くらい。

「実はね、この隣が、Kが働いていた場所だよ」
 思わず、口をついて出たのだった。
「はい。そうなんですね。彼は元気?」
「いや、それがね……」
 言わないでおいたほうがよかった、という思いがよぎった。でも、もう遅い。一度口を飛び出た言葉は、もう飲み込めないのだ。
「何かあったんですか?」
 彼女が訊いた。
「ああ。いなくなってしまった……」
 と、答えるしかなかった。
「えっ。どうしたんですか?」
「消えてしまったんだよ」
「消えた?なぜ?どこに?」
 心配そうに訊く。
「それがわからない」
 もどかしかった。
「はい……」
「連絡も取れないし、目の前からいなくなってしまったんだよ」
「どうして?」
「……」
 何も言うことがなかった。
 それで、しばらくの間、沈黙が続いた。

「君さえよければ、そのうちに、ゆっくり話せるような時があったら話すことにしよう」
 僕が言った。話題を変えたかったのだ。
「ええ。そうしましょう。もし、迷惑じゃないのなら」
 彼女が応じた。
「とんでもない。君の方こそ?」
「助かります!」
 すっかり元の姿に戻ったようだったのが、救いのように思えた。
「それはよかった。もともと暇だしね。それに、近くに友達もいない。Kも消えてしまったのでね……」
 また、言ってしまった。
「ええ。残念ね」
「ああ」

 それから、また咲き誇る桜を眺めた。今度は無言のままだった。

 しばらくの間、眺めていたその後で、メールアドレスを交換し、近いうちにまた会うことを約束して別れた。

 帰りながら、Iとまた会えたことは嬉しかったが、K のことを思い出すと、また辛くなった。







 *

 それから何日か過ぎた頃、僕は久しぶりにバーのカウンターの前に座っていた。まだ、お客は誰もいない。バーは、開けたての凜とした空気に満ちていた。この雰囲気が好きなのだ。背筋が伸びるような気がする。それは、鄙びたバーでも変わらない。いつでも、どこでも変わるところがない。

 あの日と同じ壁から3つ目の席に陣取って、壁側の席には荷物を置いた。今日は、ここを空けておかなければならない。カウンターの向こうの店主兼バーテンダーに小さく声をかけて、スコッチに少しだけ水を足したものを頼んだ。

「お久しぶりです」
「ああ。いろいろあってね。来れなかった」
「ええ。今日は、ハイボールじゃないんですね?」
「うん。ちょっとね」
「このスコッチの飲み方は、Kさんでしたよね?」
「そうだね」
「そういえば、このところKさんも見ませんけど?」
 彼が言った。はっきりと訊くわけではないが、明らかに知りたがっているようだ。
「ああ。それなんだよ……」
 ちょっと困ったけれど、仕方がない。
「はい?」
「いなくなっちまった」
「えっ?」
「姿を消してしまったんだよ」
「へえ。何かあったんですか?」
「それが、さっぱりわからない」
 また、同じようなことを繰り返さなければならなかった。

 ちょうどその時、バーのドアが開く音がして、Iが入って来るのが見えた。今日は、白いTシャツの上に薄手のジャケットを羽織って、下はやっぱり細い黒のジーンズだ。

「やあ、いらっしゃい」
「こんばんは」
 挨拶を交わしながら、奥の席の方にやってきた。

「こんばんは」
 Iが、あかるい声で言った。
「やあ、こんばんは」
「お待たせしました?」
「僕も、ほんの少し前に来たばかりだよ」
「そう。よかった」
「元気にしてたかい?」
 あの桜の日からさほど日は経っていないにのに、僕はホッとして言った。
「はい。あなたは?」
 彼女も訊く。
「よかった。僕は、まあまあってとこだね」
「まあ。この間はありがとう。あなたのおかげでとってもいい経験ができました」
「どういたしまして」
 僕が言うと、彼女は隣に座って、小さな鞄を壁際の椅子の上に置いた。今日は、うるさい若者もいないし、まだ早いせいで常連の老人たちもいなかった。

「あら。今日はクラシックがかかっているのね」
 Iが気づいて、言った。
「ああ、小澤征爾が亡くなったようなんだ」
「ええ。残念ね」
「ああ。小澤は知ってる?」
「ええ、まあ。セイジ・オザワはトロント響の専任だったことがあるから……。名前は小さい頃からよく聞かされていたわ」
「ああ、そうだった。海外で活躍する日本人指揮者の草分けだった」
「そう。それに、バンクーバー響にはカズヨシ・アキヤマがいたのよ」
「へえ。そうなんだ」
「今は、世界中のどこでも日本人指揮者が活躍しているますね」
「そうだね。ところで、君はクラシック音楽が好きなのかい?」
「ええ。クラシックだけ、というわけじゃありませんけど」
「そうなんだ」
「家では家族が皆、楽器を弾いて、それでよく合奏していたんです」
「へえ、いいね。うらやましいな。それで、君は何を弾く?」
「ヴァイオリンを少々、ね」
「ふーん」
「あなたは?」
「残念ながら、聴くだけだね。まだ小さかった頃、家にはピアノがあったけれど、弾けるようにはならなかった」
「それは、残念」
「うん。今でも、後悔している」
「どうして?」
「やっぱり、自分で弾かないで、音楽を楽しむと言ってもね。なんだかね」
「そうなんですか。でも、どうして?」
「怠け者なんだね。それにね……」
「何?」
「きっと、何に対しても中途半端な性格のようなんだね」
 そう言いながら、まるでKのようだと思った。彼がいなくなってから、なんだか急に似てきたようだ。でも、余計なことを言うのは、いいことじゃない。

「そう?」
「それで、君はどういったものを弾くのが好きなんだい?」
 話題を変えようとして、訊いた。
「やっぱり、バッハかしら……、ね」
 ちょっと考えてから、言った。
「やっぱりね。バッハはいいよね。特別だ。Kも好きだった。フランクも気に入っていたようだった……」
「あら。わたしもフランクのソナタは好きよ。あなたは?」
「フランクのものは、いくつかCDを持っているよ。昔は、バッハやモーツァルトが好きだった。でも、今はあんあまり高尚じゃないものが好きなようだという気がしている」
 僕の喋りたがりは、治らないようだ。
「コショー?ペッパー?」
「いや、コウショウ。あんまりハイブロウなものより、もう少し柔らかいものが好きなようなんだ」
「なるほど。たとえば?」
「バッハよりもヘンデル。モーツァルトよりもシューベルトやブラームスと言えば、わかるかな?」
「うーん。はい、なんとなくだけど。でも、わたしもヘンデルは好き。合奏協奏曲は、家族と一緒に弾いたことがある」
「指揮者になる前のブリュッヘンの弾く『木管のためのソナタ全集』もいいよ。休日の朝にぴったり、と思うけどね」
「へえ。聴いたことがないな」
「じゃあ、今度貸してあげよう。気に入るかもしれない」
「楽しみだわ。ぜひ、お願いします」
 そう彼女が言ったのが、嬉しい気がした。

 僕はこれまでずっと、バッハとモーツァルトが一番好き、と思っていた。もちろん、それは今でもそうだけれど、もしかしたらバッハよりもヘンデル、モーツァルトよりシューベルトが好きなのかもしれないと思うようになったのだ。それに、シューマンもブラームスも、メンデルスゾーンも。バッハと同時代のヘンデルは別にして、皆ロマン派と呼ばれる人たちだ。ヘンデルも、構成の緻密さというよりも、愉悦感や寂寥感といった感覚の方が優っているような気もする。バッハやモーツァルトにも愉悦感に満たされたものはたくさんあるけれど、それらの奥にはもっと別のもの、哀しみや厳しいものが隠されているような気がするのだ。それが、ちょっときついように感じる時があるのだ。

 思えばこれは、自分の性向をよく示している気がする。構成や精神性といったものよりも叙情(というか、もしかしたら情緒というべきか)、全体よりも部分のほうを気に入るのだ。なぜなのか、わからないけれど、ちょっと残念な気がしないでもない。それは、全体を把握する力や仕組みを理解する力が不足しているということなのかもしれない。いや、それもあるには違いないけれど、構造や構成よりも感覚的で情緒的なのが第一なのだ。それは、クラシック音楽だけじゃなく、ポップスやロック、そしてジャズでも変わらない。確かに、考える力は不足しているのかもしれないと思う。ポップスやロック、それにジャズの時でも変わらない。
 
「で、クラシック以外は?聴かない?」
「もちろんちがうわ。当然、ポップスやロックも聴く」
 当たり前でしょ、というように言った。
「あ、そういえば、ニール・ヤング、ザ・バンド、それにラッシュのようなちょっと知的な歌詞と難解で複雑なプログレなど。カナダ出身のロックスターはたくさんいるね。それに、ジョニ・ミッチェルも忘れてはいけない」
「ええ。でも、残念ながらそのいずれもが、おばあさんの時代のアイコンね」
 彼女が笑いながら、言った。
「うーん。そうか。新しいものは知らないんだ」
 改めて自分の年を思い知らされた気になったけれど、実際そうなののだからしかたがない。
「私も、日本のグループのことはよく知らないし、正直に言うと、カナダのグループもそうなの」
 と彼女が言った。慰めようとしてくれていたのかもしれない。
「そうなんだ。じゃあ、なにを聴いていた?」
「ジョニ・ミッチェルは好きよ。でも、ちょっと恥ずかしいけれど……、まだ幼かった頃は、ガールズバンドや女性のスターをよく聴いていた。主にアメリカね、ちょっと古いもの。例えば、ジョーン・ジェット、シンディ・ローパーなどね。懐かしいわ」
 彼女は、ちょっと微笑んで、遠くを見るように顔を上げて言った。少女時代を思い出したのかもしれない。でも、たいして昔じゃない。僕なんかに言わせれば、ほんの少し前っていうところだ。それでも懐かしいのだろう。
「へえ、なるほどね。でも、それもおばあさん、とは言わないけれど、お母さんくらいのものじゃないか?」
 今度は、僕が訊いた。
「ええ。そうね。大学に入った頃からは、もうほとんど聴かなくなったけど」
「ふーん。そうなんだね。でも、なんとなくわかるような気がする。でも、黒づくめのファッションは?」
「ああ、あれね。初めてここに来た時に、着ていたもののことね?」
「そうそう。てっきり、ハード・ロッカーかと思った、それもヘビーメタル系の」
「ふだんはあんまり、あんな格好はしないけど。きっと、それは祖母の影響ね」
「えっ?ところで、おばあさんとはもう話せたかい?」
「いいえ。まだなの。父がちょっと忙しいようなの。でも、もうすぐね」
「それはよかった」
「彼女は若い頃は、フランソワーズ・アルディやマリアンヌ・フェイスフルが好きだったみたい。とくに、イギリス人のマリアンヌのほうね。彼女を真似た、黒づくめの服装の写真を見たことがある」
 やっぱり、フランス系カナダ人というせいだろうか。
「なるほどね。それはたぶん、アラン・ドロンと共演した映画だ」
「そうなの?でも、祖父はフランソワーズの方が好きだったみたい……」
「ふーん」
「彼は、亡くなる前に白状したのよ。他に誰か会いたかった人がいるかって訊いた時に、『フランソワーズ・アルディ、かっこよかったな』、と言ったの」
「へえ。やっぱり、映画みたいだ」
 そう言いながら、『みなさん、さようなら』は、たしかカナダじゃなかったか、と思った。
「確かに、そうよね。そんな話は、全くしなかったのに。祖父のことは、ずっと堅物だと思っていた……」
「ああ。でも、案外そんなものかもね。誰に対しても、全部を話すわけじゃない」
 不意に、またKのことを思い出した。
「そうね。でも、よかったわ……」
 Iが言った。きっと、彼女も祖父のことを思い出していたのに違いない。
 
 
 それからしばらく話をした。そして、遅くならないうちに帰ることにした。何にでも潮時というものがある。

 そして、何日か経ったあと、僕は思い切ってIにメールしてみることにした。
「終わりかけの桜の下で、もう一度ピクニックはどう?お花見だよ?」
 すぐに返事が来た。
「うれしいわ。ぜひ、そうしましょう」

 まあ、あんまり興味はないだろうと思っていたのに。少々大人びた外国人とは言っても、何しろまだ、20代の若い女の子なのだから。







 *

 で、またあの場所で会うことになったのだ。このあいだの公園で待ち合わせをして、お昼ご飯を持ち寄っての、ちょっとしたピクニックだ。

 僕は行楽弁当の定番を作った。鮭とかつぶしと梅干、彼女のためにカニカマ(バンクーバーで食べたカニが、美味しかったことを思い出したのだ)とツナマヨのおにぎりに、卵焼き、牛肉のしぐれ煮などを詰めた。彩りのために、スナップエンドウやトマトを添えることにした。彼女は、ローストビーフを挟んだカスクートと、見た目も鮮やかなシーザーサラダを作って来た。

 とくに、ローストビーフは絶品だった。僕が知っているローストビーフといえば、ビュッフェ形式の時に出てくるものだったが、大抵は薄切りで、しかもパサついていた。それが、ジューシーで厚さもあって、いかにも肉を食べていることが感じられた。

 残念ながら、桜の花はほとんど散ってしまって、もうほとんど葉桜と言っていいくらいになっていたから、周りには誰もいなかったけれど、それでも日本風にブルーシート(さすがに、緋毛氈は無理というものだ)を敷き、座ることにした。念のために、彼女が楽なようにと折りたたみの小さな椅子も用意したのだったが、
「ありがとう。でも、必要ないわ」
 と、言われた。本当は楽じゃないのかもしれないけれど、あくまでも、日本風を楽しみたいのだろう。
 
 ほんとうに、楽しかった。彼女も喜んでいたみたいだった。時々、2人顔を合わせて、にっこりした。それから、また桜を見た。目が合うと、彼女が微笑んだ。素敵な笑顔だ。笑顔を見るのは嬉しいことだ。

 満開の桜が美しいのはもちろんだけれど、わずかに残った花もまた、なかなか風情があっていいものだ。

 その時、ほとんど緑の葉ばかりになった木々の間から一筋の光が差し込んで、彼女の顔を照らした。続いて、僕の顔も。

「あっ、眩しい」
 彼女が言う。
「あっ、僕もだ」

 それからも、時々会うことになった。年甲斐もなく、なんだかあかるい気分になった。単調な生活に少し彩りが添えられたようで、久しぶりに楽しいと思える日々が戻って来た気がしたのだった。しかも、何であれ避けようとするのではなく、いったん受け入れて、それから前に進むということを教えられたのだ。

 ただ、Iは1年も経たないうちに、帰国するのだ。そのことはもう、わかっている。今の僕は、彼女にとっての日本での父親みたいな役割だ。年からいえば、祖父と言う方がふさわしいかもしれないけれど。ともあれ、その役割を楽しんでいるのだけれど、本当の父親はもっと若くて、背が高いくてかっこいい。それに比べるとこちらはちょっと貧相、背も低いし、足も短い。ま、しかたがないことだ。戻ったら、すぐに忘れるのかもしれない。ま、これもしかたがない。
 
 その役割も、やがて終わる。始まりがある限り、終わりもまたある。ま、それもしようのないことだ。それでも、きちんと引き受けることができるようにならなければならない。しばらくの間ともに過ごした時間を通じて、彼女が教えてくれたように。そして、前に進むのだ。

 前に。前に、進まなくてはならない。先のことを思い患っていても、いいことはないのだから。







 **

あとがき

今回は、前回の続編。前回のものは、見切り発車(ま、いつもそうしたものだけれど)だったし、ファンタジーとはいいにくかった。それで、続きを書くことにしたのですが……。さて、首尾はどうだったか。一応、来月の臨時増刊号での第3部完結編をめざして、取り組もうと思ってはいるのですが……(ちょっと気取って、「光3部作」)。

月末の予定が不明なので、少し早く掲載します。それに、読み返せば、色々と思うところが出てきて手を入れたくなるのですが、それではいつまでたっても終わらない。それだけじゃなくて、そうし続けていると、いっそう冗長になるばかりのようなのです。

何れにしても、まあ、読む人はほとんどいないでしょうけど……(この間は、「私たち(若い人)は、長い文章は読みませんから」、と言われた。映画やドラマでさえ、倍速にして見るらしい。忙しいんですね)。
 





2024.05.26




読んでくれて、どうもありがとう。














月例増刊号 FANTASY 11 「罰を受ける日」





「暮しが仕事 仕事が暮し」
「確かなものを作りたかったら、確かな暮らしをせよ」ー 河井寛次郎







 罰を受ける日




 桜は遅かったけれど、辺りはすっかり春めいてきて、もはや夏日を通り越して真夏日というところがあるらしい。変なことは、気象だけにとどまらない。地球上の異常は、いったい、いつまで続くのだろう。

 最近は、人と会うことがほとんど無くなった。コロナ禍を経験して以来、外出することがすっかり減ってしまって、それが今でもずっと続いている。とくに、若い人と会うことがなくなった。何より、働く環境を始め、生活を取り巻く環境が大きく変ったことがあるに違いない。そして、お互いに、と言うよりはこちらが一方的に歳を取り過ぎたことのせいが、大きいのかもしれない。まあ、それも仕方がないことだ。

 もとより、若さに対する信仰があったわけではない。それどころか、早く老成することに憧れていた(いまから思えば、たぶん、若者としての自分が他者に受け入れてもらえそうにないことを感じ取っていたためなのだ)。
 また、ハタチを超えたばかりかというくらいの若者が「もうおばさんなので」とか「もう若くないから」とかいうのを聞くと腹立たしいようで、「馬鹿言うんじゃない」と叱りつけたいような気分になったくらいだった。それでも、年を取っていざ老年期に入ると、若さがまぶしく思えてくることがあるし、羨ましくなることもある。若い人たちが自分たちの世界のことで忙しくて、年寄りとつき合う時間が無くなるというのは、さもありなんという気にもなる。




 *

 そのとき、僕たちは海辺の小さな町の古いバーのカウンターの隅に座って、久しぶりに飲んでいた。
 僕はハイボール、Kはシングルモルトに水を少しだけ入れたものを。Kは最初の職場を定年退職した後の第2の職場で働き始めたばかりだったし、僕はといえばずっと自由業のようなものだったけれど、周りの環境が変わって働き方について考え直さなければいけない時期だったのだ。二人ともが、そろそろ来し方行く末を考えてもいい時期でもあった(もしかしたら、少しばかり遅いのかもしれなかった)。

 その日は、金曜だったせいなのか、お店にはいつになくお客がたくさんいて、にぎわっていた。ただ、ふだんとは違って若者のグループが多くて、彼らはそれぞれテーブル席のソファに陣取って大声をあげながら話しており、カウンターに座っているのは僕たちと同じかそれ以上の年恰好だけで、隣を含めていくつか空席があった。
 その時に何を話していたのかは、もうほとんど忘れてしまった。ほんとうに久しぶりだったから、たぶん近況報告のようなものだったのだろう。そのせいもあってか、けっこう早いペースで飲んでいたような気がする。

 音楽の聴き方が変わったことについても話をした。最近は、ラジオで聴くことが増えた。それは、いったいどうしたことだろう。新しい音楽に触れるためなのか、それとも面倒を避けるためなのだろうかか。
 古い曲が新しくアレンジされて演奏されるものもよくかかる。
 だから、もしかしたら、こんな話だったかもしれない。
「新しいかどうかというより、懐かしさの方が先に立つんだよね」
「ああ。どうしたことだろうね」
「一挙に、当時の時代に舞い戻るような気がする」
「そうなんだ」
「といって、当時のことを具体的に思い出すことはないのにね」
「へえ。昔のことはほとんど覚えていない、と言っていたものね」
「若い人は、新しい曲として聴くのかね」
「うーむ。どうだろうね」
「ごくたまに、なんだこれは、と思うこともないわけじゃないけれど」
「うん」
「ただ懐かしい、という気分だけなんだよ」
「へえ。そうなんだ」
「新しくCDなんか買ったことはある?」
「そういえば、ないなあ」
「僕もそうだけれど、たまに買うのは中古の古いアルバムなんだよ」
「どうしたことだろうね」
「まずいよね」
「ああ」
「生きる力が欠如し始めている、ということなのか?」
「なんだか、とってもまずい気がしてきたよ」
「うん。……」
「……」


そして、忘れられないことがある。




 *

「ごめんなさい。ここ、いいかしら?」
 と訊く声が聞こえたような気がした。声の方向を見ると、いつの間にか人が立っていた。暗かったし、おまけに陰になっていたが、若い女性のようだった。
「どうぞ」
 Kが、素っ気なく応じた。
「ありがとう」
 と言うと、その女性は、Kと壁の間の一つ空いていた席に座った。バーテンダーが、やあいらっしゃいと声をかけながらやってくると、
「何か、さっぱりとしていて軽いカクテルをお願いします」
 と言った。それから、ホッとしたように、フーッとひと息吐くと、
「ここは、いつでもこんな風なのかしら?」
 と、独り言とも尋ねるともつかない口調で呟いたのだった。
「ああ、今日はなかなか賑やかのようですね」
 と、またKが言った。彼が見知らぬ人に応じるのは珍しいことだった。
「というと?」
 若い女性は、こちらを向いて、確かめるように訊いたのだ。今度は、その姿がはっきり見えた。周りの大学生よりは、少し年上のようだった。大きな目をしていて、髪をポニーテールに結んでいた。体をピッタリ包む黒の革ジャンとジーンズ、そして同じく黒のロングブーツというかなり目立つ出で立ちだ。おまけに、姿勢がいい(残念ながら、姿勢が良ければすべて良し、というわけではないけれど)。膝の上には、金色に光る2つのCが重なる小ぶりのバッグを載せていた。
 若いのに、カウンターにバッグを載せないのは好ましい、と僕は思った。うんと昔、まだ若かった頃に恩師に連れて行ってもらった老舗のバーで、カウンターに荷物を置いたお客がたしなめられたのを覚えていたのだ。荷物は床に置かれたりして汚れていることがある。これをカウンターに載せたら、他のお客が不快に思うことがあるかもしれない。だkら、荷物をおいてはいけない。肘をつくのもだめだ、と教えられた。バーは、凛とした空間の中で飲む場所なのだ。とすれば、愚痴じみた話や湿っぽい話題は似合わない。

「ふだんは、いたって静かなものだよ」
 今度は、僕が答えた。
「へえ、そうなんだ」
 彼女がうなづいた。訝る様子はなかった。
「上品な年寄りばかりだ」
「それで、彼らは?」
 彼女が、問いただすように訊いた。
「めったに見ないね。他が空いていない限り、来ないようだけどね」
「ああ、それはよかったわ。どうもありがとう。お話を邪魔してしまいました。ごめんなさい」
 そう言うと、背筋をピンと伸ばしたまま向きを変えると、携帯を眺め始めた(やっぱり、今時の若者なのだ)。
「なんでもないさ」
 そう言って、僕たちはまた二人の会話に戻った。




 *

「あんまり旅行することもなくなったね」
 Kがポツリと言った。
「ああ。コロナがあったしね。年を取ると、いろいろむづかしいことばかりが増える」
「そうだねえ」

「たまには、美味いものを食べに出かけたいもんだねえ」
 今度は、僕が言った。せめて日常のダラダラと続く閉塞感を打ち破りたい、と思いながら言った。情けないけれど、そのくらいしか思いつかなかった。
「うん」
「ところで、地産地消って言うだろう?」
 思い出すことがあって、訊いた。
「ああ、言葉ばかりで、あんまり経験することはなくなったようだけどね」
「どう思う?」
「やっぱり、獲れたての新鮮なものはうまいよね」
「ああ、魚や野菜だね」
「それに、近隣の住民同士の関係が生まれる」
 しばらくそんな話が続いた。
「昔、初めてカナダに行った時にね、バンクーバーだったけれど、同行した先輩が言ったんだよ」
 僕はうんと若い時のことを思い出して、懐かしい気分で、言った。初めて外国旅行をした時のことだった。
「ああ」
「カナダのビールはこれが一番うまい、って」
「うん」
「でもね、それが。これを日本へ持って帰って飲んだら、全然うまくないんだ、って言うんだ。もう名前は忘れたけどね」
「なるほどね。ほら、ビールは新鮮さが大事だし、飲むときの温度もある。これは気候と大きく関わるんじゃないかね」
「うん。初めは、全然信じられなかったけどね」
「おまけに、食べ物と飲み物はその土地のもの同士を合わせるのがいいんだね。なんて言ったって、同じ水と空気の中で育ったものだらね」
「ああ」
 今は運送手段が発達して、世界中のなんでもすぐに手に入る。そうした時代に慣れすぎてしまった。その代わりに失ったもののことは、すっかり忘れて。

 と、その時、
「ああ、懐かしいわ」
 と言う声が聞こえた気がした。隣の女性のようだった。
「えっ?」
 また、反応した。
「あっ、ごめんなさい」
「いえいえ。どうしたんですか?
「私、ずっとバンクーバーに住んでいたんです」
 と言うのだった。
「あらま。それはそれは」
 今度は、Kが言った。
「グランヴィル・アイランドのマーケットとか、小さい頃から祖母に連れられてよく行ったから」
 話をしているうちにわかったのは、どうやら、会社の研修で1年ほど滞在する予定らしかった。両親ともに日本人ということだったが、父方の祖母はカナダ人で、バンクーバーで生まれて、ずっとそこで育ったらしい。父親の転勤でカナダの内外のいろいろな場所で暮らしたこともあったようだけれど、本人が働きはじめてからは、一時ロンドンにもしばらく住んでいたことがあるらしかった。だから、もしかしたら、ここにもパブのつもりで入ったのかもしれなかった。

 今や世界の住みたい都市の最上位の常連となったバンクーバーは、ある時から地産地消にこだわった街づくりをするようになったということらしかった。アリッサ・スミスとジェームズ・マッキノンの二人が著した「THE 100-MILE DIET~A YEAR OF LOCAL EATING~」という本がきっかけで、2010年前後に始まったようだ。ダイエット等のはもともと日常の飲食物という意味があるから、「100マイルダイエット」というのは、住んでいるところから100マイル(約160キロ)の範囲で獲れるものを食べようという地産地消の運動らしい。僕が訪れたのはそれより前のことだったけれども、それでもマーケットや獲れたてだという魚介類を食べさせる店もあったようだった。当たり前と言うか、それが基本という気がするけれど、それが当たり前でなくなってからもうずいぶん長い時間が経った。そのため、多くの食べ物が誰の手になるものかわからず、添加物まみれになった。

 そんなことで、しばらくの間、思いもかけない時間を過ごすことになった。そして、
「じゃあ、私はこれで失礼します」
 不意に、彼女が切り出した。
「ああ。なんだか質問ぜめにしたようで、悪かったね」
「いえ。こちらこそ、すっかりお邪魔してしまいました」
「おかげで、楽しかった」
「私も」
「楽しい日本での暮らしを。お元気で」
「ありがとう。また、お会いしましょう」
「ああ。ここにいるよ」
「ええ。それでは、さよなら」
 彼女は、帰っていった。




 *

 彼女が去って、また二人だけになった。なんだか急に寂しくなって、明かりがひとつ消えたような気がした。やっぱり、ふだんは若い人、特に女性と話す機会がないせいなのだろうか。こうした彩りに欠けること、おびただしいのだ。だから、彼女が会話に加わって入る時は、つかの間、華やいだ気がしたようだった。それで、二人して、顔を見合わせると、ふっとため息をつき、黙り込んだまましばらくグラスを弄んだ。それから、

「この頃は、なんだか、自分は罰せられているような気がする時があるんだよ」
 Kが唐突に、ポツリと呟いたのだった。
「えっ?」
 僕は思わず訊き返した。
「自分は罰を受けているのではないか、と思うんだ」
 Kがもういちど言った。今度は、少し大きな声で、はっきりと。
「いったいどうしたっていうんだい。何があった?」
 僕は驚いて、訊いた。すると、Kも、
「いや、何でもないさ」
 と言ったので、ああまたからかっているのかと思った。彼は、ふだんからよくそうすることがあった。しかも、自虐的と言うのか、自嘲的な言い方で。だから、そのときもそうだと思ったのだ。

「でも?」
 なんとなく訊いた。
「何も起きないんだよ。何をやってもうまくいかない」
 と、Kが言う。
「たとえば?」
「たとえば……」
「たとえば?」
「新しい仕事も楽しめないし、環境にも馴染めない、とか」
「それだけ?」
「自分が作った書類には、ミスプリントが目立つ、とか」
「ふーむ。他には?」
「何を書いても、反応がない」
「ああ」
「誰も読まない……」
「そうなのか?うーん」
 Kは、ブログやら短い物語風のものを書いている、
「いろいろ考えて、手を変え品を変え、工夫をしてはいるんだけどね」
「うん」
「でも、なにも変わらない。誰も読まない。楽しんでいる人はいないようだし、喜ばないんだね」
「そう?」

 それから、Kはテレビで見たという人たちのことを語り始めた。曰く、
 無名の人の働きの偉大さ、すごさ、素晴らしさ、志の高さには驚かされることが多い。声高に主張することなく、地域の住民の思いを汲み取り、人々にとっての望ましい姿やあるべき姿を思い描き、実現すべく地道に作業を続け、取り組む。

 例えば、震災後の鉄道の再開のために尽力した会社の人々。「日常を取り戻す光」のための一助にしようと労を惜しまずに取り組んで、地震からおよそ3ヶ月後に実現にこぎつけた。また、地元の高校生たちは、駅の清掃を行った。

 また、日本初という難工事に取り組んだと鳶職をはじめとする職人や現場で働いた人々の奮闘ぶり。ちょうど東日本大地震と重なり、倒壊の危険を減らすために自身の命を顧みず、鉄塔に登った人たちがいたこと。

 あるいは、Jリーグに参加することでコンビナート砂漠と言われた町で町おこしを図ろうと立ち上がった人々。当時のチームは、とても参加できる状況にはなかったし、しかも要件を満たすスタジアムもなかった。しかし、彼らの尽力で、チームの親会社はチーム名から会社名を外し、賛同者は増えて参加が認められたという。しかも、初年度には優勝した。

 たいしたものだし、本当にえらいものだと思うけれど、自分はこうした志を持って努力した人々と全く違うのだ、と言うのだった。
「何かを成し遂げられなかった、ってことか?」
 僕が訊いた。
「いや。それもないとは言わないが、いちばんはやるべき努力をして来なかったということだね」
 Kが言った。
「そうなのか?」
「ああ、うまくいくかいかないかが問題じゃないんだ」
「うん」
「真剣に取り組むことができなかった。それは、ちゃんと生きて来なかったということだよ」
「じゃあ、今からやればいいじゃないか」
「ああ」
「そうすればいい」
「価値のない、とても卑小な人間のような気がするんだよ」
「過ぎたことを言っても、仕方がないよ。これからどうするかが大事さ」
「こないだは、早く目覚めてラジオをつけた時に、「愚か者」という声が聞こえたんだ。まいったね」
 と言った。なんでも、若くして亡くなってしまった俳優の特集で、その中の歌詞に出て来たらしかった。さらに、
「メールには、返事さえ来ない。来るのは通販の会社だけだ」
 と続けた。
「ああ、僕だって似たようなもんだ」
 僕は、なんとかこの話を終わりにしようとして、言った。しかし、
「誰からも相手にされず、なんだか社会から切り離されたというか、放り出されたような気がする」
 Kは、なおも続けたのだ。
「そう?でも、悪いことばかりじゃないだろう?」
「ああ。そうかも」
「そうだろう?」
「まあ、昔からそんな気もするけどね。でも、考えもしなかったような相手に、手ひどい仕打ちを受けたことも何度かある」
「えっ?」
「信じられないような裏切りも。一度ならずね……」
「ああ、それなら僕にだってある。嬉しいというわけじゃないけどね」
「うん。不当だと思うけれど、でも、彼らなりに理由があるのだろうね。盗人にも三分の理。想いは、人それぞれだから」
「……」
「やっぱり、持って生まれたものなのかね……」
 と、独り言のように呟いたので、
「何?」
 と聞いた。

 しばらく間があいて、Kはこう言ったのだ。
「おまけに、宝くじには当たらない」
「買ったのかい?」
「いや」
「それじゃ当たるわけがない」
「前に買ったときも当たらなかった」
「……」
 僕は、ほっとして、笑い出しそうになった。やっぱり、今度こそ、からかっていたんだな。しかし、Kはさらに
「年賀状にも、当選番号はなかった」
 と言ったけれど、いつまでも言い続けて、何か変な感じだった。
「ああ」
 僕がうなづいてから、またしばらく間が空いた。

 その時、テーブル席でまた、ひときわ大きな笑い声が起こった。なんと場をわきまえない若者たちであることか。まあ、ちょっとムッとしたけれど、それでもすぐに気を取り直した。なんと言っても、若者たちなのだ。希望と自信に溢れていて、自分に悪いことなんかは起こりはしないし、ありもしない。自分に非があるなんてことは思いもしない。少なくとも僕は、私は、と思える時なのだ。世界は、夢に溢れた場所のことなのだ。確かに、若者は少々ハメを外すこともあるし、それがどうしたっていうんだ。それで、誰かに大きな迷惑をかけるというわけじゃない。仮に少しばかり不快な思いをした人があったとしても、さほど大きなことじゃない。

「彼らを見習うといいよ」
 と、大きな声の方を顎で示しながら、僕は冗談のつもりで言った。
「ああ。羨ましいな。この歳になっても、自分の気持ちに正直になれない。素直に伝えることができないようなんだな」
 Kが小さな声で続けた。
「……」
「受け止められてもらえないかもしれないし、誤解されるかもしれない。変な圧力をかけることになることだってあるかもしれない。力があるわけじゃないから、別に実害はない。でも、気分はね。なんと言っても、たいていの場合、だいぶ年上だからね。そんな気がしてしまうんだよ」
「そう?でも、きっと思い過ごしだよ」
「ああ、確かに。そうかもしれない。ただね、それがまた、悪い方に働く」
「そうだよ。気にしすぎるからうまくいかない」
 僕は言った。
「負の連鎖ってやつかもしれない」
 彼は、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「そうさ。だって、たいていのことが、そんなにうまくいかないのがふつうだろう?」
 僕だって、いい時ばっかりじゃない。むしろ悪い時が多いくらいだ。
「ああ」
「ねえ、そうだろ?僕は君と知り合ってから、もう長いよ。これまで、ずいぶん話もしたし、一緒に出かけたりもした。それに、よく飲みもした。僕が知っている限り、君はそんなに悪いやつじゃない」
 僕は言った。まあ、確かにそう思っていたのだ。

「ありがとう」
「だから大丈夫だよ」
「ああ。こんなことを言ったからと言って、別に大きな罪を犯したわけではないよ。もとより、気が小さいし、自分では人との争うことを好まないたちだと思っている。ただ、そうとは気づかずに傷つけた、または傷つけているということは大いにありそうだと思うんだよ。もとより、僕は聖人君子なんかではないのだから」
 Kが、自分の心の中にずっとくすぶっているものを吐き出そうとしているかのようだった。
「もちろん。誰だってそうだよ」
 僕は、他に言いようがなくて付け加えた。
「小さな嘘や裏切り、精神的な圧力だってあっただろうと思うよ。まあ、お互い様ということもあるかもしれないけれど。それから、こちらは大きな罪だな。筋金入りの怠け者ということだね。等々、挙げればきりがないよ」
「だから、それもこれも誰にもあることだよ。聖人君子じゃない限りね。そうそう、僕なんか柿ピーを一度に2袋食べてしまうことだってある」
 僕は、そろそろ終わりにしたいと思って、言った。

 Kがようやく笑った。それで僕はほっと一安心したけれど、
「自己憐憫が過ぎているんじゃないかという気がすることもある」
 と、Kはさらに続けたのだった。
「うん」
「もう一方で、そう言う声が聞こえる気がする……」
「なら、やめればいい」
 僕は、慰める代わりに、思い切って突き放すように言ったのだった。
「何を?」
「その自己憐憫ってやつを」
「うん」
「自分を哀れむことを、やめるのさ」
「やめてどうする?」
「ありのままを受け入れるんだよ」
「ああ。それで、受け入れてどうなる?」
「楽になる」
「それだけ?」
「ああ。簡単なことだろ?他に何を?」
「そう?」
「そうだよ。でも、それだけで十分じゃないか?」
「そうか?」
「そうさ。他に何を望む?」
「ああ」
「じゃあ、すぐにやめればいいんだよ」
「うん」
「新しく始めればいい」
「ありがとう」
 そう言うと、彼はしばらく黙ったままだった。

 たぶん、Kもそのくらいのことは、自分でもわかっているのだ。ただ、それでも、これまでの何か澱のようなものが、残っているのに違いない。長く生きれば、当然、誰にだってあることだ。人は、そうしたものを抱えながら生きるしかないのだろう。それがなんなのか、それは人によって違うだろうだろうから、言っても仕方がない気がしたのだ。だけど、つい言った。
「それが、人生というものだろう?」
「ああ」
 Kは、心ここに在らずというようなふうだった。

 なんだか、もうここにいても仕方がない気がした。話をしても、もはや届かない。言葉は若者たちの声とぶつかり、闇の中に吸い込まれて、ついに届くことなく、居場所を失って、宙を彷徨うだけだ。
 それで、僕たちは帰ることにした。バーでは、相変わらず若者たちのうるさくて明るい笑い声が響いていた。




 *

 駅まで一緒に歩いた。途中で、彼はふいに、

「自分の好きにしつらえた家に住みたかったな。
 結局、何にも手にすることができなかったな。
 誰のせいでもなく、自分のせいだけどね」
 
 と呟いた。そして、
「世の中には、偉い人たちがたくさんいるものだね。それに、このところはなぜか、賛美歌の451番ばかりが口をつくんだ。以前は、ほとんど声に出して歌ったことはなかったし、それにクリスチャンでもないのに」
 とも。

 駅に着くと、彼は改札口に向かい、僕はバスの乗り場まで歩いた。

 そして、それ以来、Kとの連絡がふっつりと途絶えてしまった。メールを出しても、電話をしても、手紙を書いても返事はなかった。他の何人かに聞いても同様で、やっぱりわからなかった。彼は、突然、僕たちの前から姿を消してしまったのだ。いまでも、その行方はようとして知れない。生きているのか、どうかさえもだ。




 **

あとがき
今回は、見切り発車。しばらくほったらかしのままだったのに加え、ファンタジーとはいいにくい。おまけに、少しばかり付け加え過ぎて、まだ、生煮えの感がある。ちょっと気恥ずかしい気がする。でも、代わりになるものもないし……。まあ、読む人はほとんどいないから……。




2024.04.30




読んでくれて、どうもありがとう。














緊急増刊号 FANTASY 10 「キャンディが好きだった子」(β版)










キャンディが好きだった子(β版)










 君はキャンディは好きかな。あの丸いものや四角いもの、星の形をしたりしたものもある。色もいろいろだね。赤やオレンジ、黄色や緑、金色なんてものもある。たいてい、大きなガラスの瓶に入れて売られていました(今はどうなのだろう)。あのきれいで、甘いお菓子。うんと昔は小さな町にでも、子供がおこづかいで買えるキャンディをたくさん並べて、売っていた駄菓子屋さんがいくつかあったんだけどね。今はあんまり見かけなくなってしまったようです。

 それに、甘いと言ったけれど、今はけっこういろいろな味があるようですよ。世界のたくさんの国で、それぞれ特徴があるんだね。日本のものは、砂糖や水飴を主原料としてるから甘い。フランスには塩バターキャラメルがあるし、修道院で作られていたという、大麦を煮詰めて作った自然な甘みを凝縮した香ばしい風味のものなんかがある。アメリカには、チョコボールやペパーミント味のものがあって、これが人気のようなのです。こんなふうに、世界中で色々なキャンディが売られているんだね。そういえば、南の島の警察の人も(もちろん、もう立派な大人ですよ)、引き出しの中の小さな缶に隠していて、時々食べているようです。

 でも、子供の頃は好きだったのに、どういうわけか大人になったら食べることが少なくなってしまうもののひとつなのだね。なぜだろうね。これから話すのは、小さな子供の時からキャンディが大好きで、大人になっても変わらなかった、それどころかますます好きになった人のお話。もし、君が子供だったり、子供の時と同じように複雑じゃないものが好きなら、気に入るかもしれない。だけど、何しろ今はたくさんのものがありすぎて、みんな手の込んだものが好きのようだからね。
 
 でも、小さいころから大人になてもずっとキャンディが好きな子供がいました。今回はそのお話です。
 あ、名前がないとややこしいいので、とりあえずその子のことをアメと呼ぶことにしましょうか。









 アメはうんと小さい頃から、もうキャンディが大好きだった。ある年の誕生日に、遊びに来たおばあさんからお祝いにおこづかいをもらった(おばあさんは離れたところで暮らしていたから、アメが何が欲しいのか、わからなかったんですね)。その額はといえば、キャンディが500個ほども買えるくらい。アメはお礼もそこそこに、町の商店街を目指して駆け出した。なにを買うつもりだったんだと思う?君ならどうするのでしょうね。

 アメがいちもくさんに飛び込んだのは、もちろん小さなお菓子屋さんだった。









「おじさん、キャンディをください」
「おお、アメ、いらっしゃい」
「こんにちは」
「こんにちは、今日は、何にするんだい?」
「ぜんぶください」
「えっ?」
「これで買える分を、ぜんぶください」
 とって、お金を見せた。
「そんなにかい?それじゃあ、500個ほども買えるよ」
「はい、ぜんぶください」
「ほんとうに?」
「もちろん。いろいろまぜてね」
「ああ、はい。わかったよ。500個もねえ」
 そう言って、おじさんはいろいろな瓶から綺麗な缶に入れてくれた。
 まあ、キャンディはすぐには悪くならないからね。

 そして、キャンディを500個も抱えて帰ったというわけ。









「ただいまあ」
「やあ、おかえり。おや、その缶はどうしたの?」
 お母さんが訊きました。
「キャンディだよ」
「そんなにたくさん?」
「おばあさんにもらったお祝いで買ったんだよ」
「へえ。おばあさんにも見せなくっちゃね」
「うん」
「じゃあ、おばあさんのところに行きましょう」
「うん、そうする」












「おばあさん、これを見て!」
「おや、どうしたっていうんだい⁉︎」
「キャンディ。おばあさんにもらったお祝いで買って来たんだよ」
「へえ、そうなのかい。それにしても、そんなにたくさん!」
「そうなんですよ。この子ったら、いくらキャンディが好きと言ったってねえ」
 お母さんが呆れた顔で言った。
「そうだねえ。ところで、お前さんはいったい、どうしようっていうんだい?」
 おばあさんがやさしく訊いた。
「うん。アメはね、キャンディ屋さんになるんだよ」
 今度はアメが、大きな声で言った。
「えっ、お店を開くのかい?」
 おばあさんはびっくりして、たずねました。
「そうだよ。でも、今じゃないよ。大きくなったらね」
「へえ、そうなのかい。じゃあ頑張らなくちゃあね」
 おばあさんは、今度はホッとしたように言いました。だって、小さな子どもがお店を開くというのはむりでしょう。
「うん。世界でいちばん素敵なキャンディ屋さんだよ」
 アメは、高らかに宣言したのでした(まだ10歳にもならないというのに)。









 それから何回もの誕生日が過ぎ、アメもすっかり成長して、もう大人と呼んでもいいくらいの年になりました。青年となったアメは、キャンディをつくる大きな会社や販売会社、それに町の小さな駄菓子屋さんで働きました。小さい頃のキャンディ屋さんになるという夢を大きくなっても忘れずに、ずっと持ち続けていたんですね。









 その後アメは、ある大きな街に住んでいました。そこにはとても広い公園があり、大きな川と海がありました。それで、この大きな街をぜひおばあさんに見てほしい、きっとよろこぶに違いないと思ったのです。だって、おばあさんが住む街には大きな公園も、大きな川も、大きな海もありませんでしたからね。

 それで、おばあさんを招待して、何日かかけてゆっくりと街のあちことを案内して回りました。たいていは歩いてでしたが、時には自転車のように人がこぐタクシーに乗ることもありました(何と言っても、おばあさんも年でしたから)。そして、あるお店の前を通った時のこと。









「おや、アメ。見てごらんよ。素敵なキャンディ屋さんがあるよ」
 おばあさんが言うように、ガラス越しに見えるお店の中には、いろいろな色や形のキャンディがたくさんの大きなガラス瓶に入って並んでいました。
「ああ、そうだね」
 アメが小さく答えました。
「お前が小さい頃になりたいと言ったキャンディ屋さんは、きっとこんなお店だよ」
 おばあさんが言いました。
「ああ、そうかな」
 アメがそっけなく答えます。
「そうだよ。楽しそうじゃないか。ちょっと入ってみないかい?」
 おばあさんは、ドアを開けようとしましたが、開きません。どうやら閉まっているようです。
「閉まっているようだね、残念だね」
 おばあさんが、ぽつりとつぶやきました。
「そう?」
「せっかくだから、写真を撮ってもらうのはどうだい?それがいいよ」
 おばあさんはそう言うと、歩いている人に写真を撮ってくれるように声をかけたのでした。

「入れないのは残念だけど、まあ写真が撮れたのだからいい、としないとね」
 おばあさんは、それでもとても残念そうでした。
「入ってみたいの?」
 アメが訊きました。
「ああ、だってお前が夢見ていたものだもの。ぜひ見てみたいよ」
「そんなに?」
 アメがにっこりしながら、言います。
「ああ」
 おばあさんが、ちいさな声で答えました。
「じゃあ、入ろう」
「えっ。でも……」









「さあ、どうぞ」
 アメはポケットから鍵を取り出してドアを開けると、おばあさんを中に招き入れたのでした。
「いったいどうしたっていうんだい?」
「ようこそ、わたしのお店へ」
「おお!」
 とちいさく叫ぶと、おばあさんはアメの腕の中に倒れ込んでしまいました。









 アメはおばあさんをソファに座らせると、それから綺麗な缶にキャンディを詰めはじめたのでした(でも、500個はなかったようでしたが。だって、おばあさんは重くて抱えきれないでしょう)。









 やがておばあさんが目を覚ますと、アメはリボンをかけた缶入りのキャンディを手渡しました。おばあさんは、もういちどアメを抱きしめました。それからアメは、おばあさんを駅まで送り、抱えるようにして電車に乗せて、おばあさんを見送ったのでした(もちろん、車掌さんにおばあさんのことを頼むのも忘れませんでしたよ)。













 あとがき

 今月の臨時増刊号は、久しぶりに絵本を(読んでくれる人がいるのかどうか、怪しいですけど)。

 つい先日ニュースを見ていたら、大学の卒業式の場面が。彼らはコロナ禍の中で3年間を過ごし、最後の1年間はキャンパスで過ごすことができた(不幸中の幸い)。一方で、コロナ禍の最中に卒業を迎えた人たちもたくさんいたということですね。で、思い出して、大急ぎでなんとか24日に臨時増刊号を出そうとした次第です。

 この時期は、色々と新しいことを始める季節ですから、ちょうどいいのではないかと思ったのです。ただ、主人公を男の子とも女の子ともわからないようにしようと思ったのですが、そのせいで絵や言葉遣いがなんだか不自然のところもあるような気がする(考えてみたら、子どもが読むわけはないから、意味がないかもしれませんけど)。

 絵は、まだ色鉛筆(おまけに、黒がないまま)ですが、近いうちにiPadで書くことに挑戦してみようと思っているところ。そんなことで、題名にβ版と付記しました(もしかしたら、物語の方も、そして題名も手を入れなくてはいけないかもしれないし、α版とした方がよかったのかもしれませんが)。

 まあ、一人や二人くらいは楽しんでくれる人がいてくれるのではないか、と期待していますけれど。

 感想や意見が届けばいいのですが。 




2024.02.24




読んでくれて、どうもありがとう。
おわりにお願い:ご意見と感想をいただけたなら助かります。













4週連続特別企画増刊号・第4弾 FANTASY 9 「穴のあいた小石のある場所」



穴のあいた小石のある場所




 こじんまりとしたホテルの小さなロビーで午後の紅茶を楽しんだ後、ぼんやりと外を眺めていたら、何日ぶりかに日差しが出てきた。これは、これは。ぜひとも、散歩に出かけないわけにはいかない。
 この地方は、1日のうちに四季があると言われるほど、天気が変わりやすい。しかし、この数日はずっとどんよりとした厚い雲に覆われたままだった。
 このため、外の新鮮な空気を吸いたかったし、何より光を受けた村の景色を見たかったのだ。飛行機で12時間ほども離れたところまでやってきて、さらにフェリーを乗り継いで来たのだから、いかにもこの地方らしいという気もしないでもないが、厚い雲に閉ざされた景色だけ見て帰るのはいかにも残念な気がした。旅行で得た印象は誤解を生むだけ、一面しか知ることができないということはわかっていたけれど、それでもたくさんの表情を見たかったのだ。


 海岸までゆっくり歩いて行くと、若者が一人、何かを探しているようだった。何か大事な物を落としたのか。例えば婚約指輪とか、何かの鍵とか。もしかしたら、ただのコインかコンタクトレンズかもしれないけれど。


「やあ」
 私は思い切って、声をかけた。
「やあ」
 同じように、挨拶が返って来た。
「何を探している?」
 私は、近づいて行くと、ごく短く訊いた。何しろ慣れない言葉だ。
「これだよ」
 右手に持った小さなものを指しながら、彼が答えた。母語のはずにも関わらず負けず劣らず短かった。
「えっ。特別の石なのか?」
 さらに訊いた。
「よく見てごらんよ」
 若者が今度は、諭すように言った。残念ながら、私はどうやら注意力や観察眼に欠けているようなのだ。昔からのことだ。今に始まったことじゃないのだ。
「うーん」
「ほら、小さな穴があいているだろ?」
 もう一度、今度は指で指し示しながら、やさしく教えてくれた。よく見ると、あらゆる角が取れて丸くなった三角形の形をした小石は、真ん中より少し上に小さな穴が空いていた。
「ああ、ほんとだ」
 これまで、丸い穴があいた小石なんて見たことがなかった。
「適度な重みがあって、ちょうどいい大きさのものを探していたんだよ」
「へえ」
「このあたりの石は、なぜか穴があいているんだ」
「そうなのか?で、何にするんだい?」
 見当もつかなかった。
「釣りに使うのさ」
「へえ」
 と言ったものの、どういう風に使うのかさっぱり見当がつかなかった。
「ついてくるかい?」
 若者が訊いた。やっぱり短い。できるだけ節約しようとしているようだった。言葉の使いすぎはためにならない、というかのように。
「ああ、見学させてもらうよ。もしよければ」
「じゃあ、行こう」
 若者が顎をしゃくって促した。私はそれに従って、ついて行った。歩いて行きながらあたりを見ると、海の上にほぼ垂直に切り立った崖の高さは様々のようだけれど、どれもその上は平らな面になっている。


 彼は、海面から3mほどもありそうな切り立った崖の先端まで行くと、くたびれた帆布製のバッグの中から道具を取り出した。それは道具というほどのこともない、きわめて簡素なものだった。まずは糸、というよりは紐という方がいいくらい太かった。これにテグスをつなぎ、釣り針をつけ、先の小石の穴に通した。はあ、なるほどそうだったのか。
「これで、道具立ては完成だよ」
 それから、針先には海岸で拾ってきたという小さな貝を刺した。
「えっ。竿は?」
 釣り人が、擬似餌の他に一番こだわるものといえば、竿ではなかったか(しかし、すぐにと思いなおした。彼らは、遊びでやるわけではないのだ)。
「竿は使わないんだ。ここからこうやって垂らせばいいんだよ」
 彼が半分身を乗り出すようにして、やって見せてくれた。
「なるほどねえ。でも、ちょっと怖いね?」
「そうだね」
「君は怖くないのかい?」
「まあ、慣れているからね。でも油断はしない」
 少し厳しい口調になった。
「なるほどね」
「大波が来たら、あっという間もなくさらわれてしまう」
 小さい声だったが、自分にも言い聞かせるように厳しい口調で言った後は、また穏やかな表情に戻った。
「えっ。そうなんだね」
「ああ、島のものなら、誰でも知っている」
「うん」
「あ、何かかかったようだ」
 ことも無げに言った。こんなふうに静かに話す若者と会うのは久しぶりのことだった。いまでは、感情をことさら露わにするように話す若者も少なくない。このほとんど絶滅危惧種のような若者は、慣れた手つきでゆっくり紐を手繰り、引き上げてゆくと海面に30cmくらいの黒っぽい肌の魚が現れた。
「やったね」
「ああ、ベラだね。ちょっと小ぶりだけどね」
 やっぱり、静かに言った。
「ふーん。これでもね」
 それからしばらく釣っている間に、ベラの他にも小さな魚が何匹か釣れた。
「さあ、家に帰ろうか。おかずも釣れたことだしね」
「ああ。どうもありがとう。楽しかったよ」
「今日の晩御飯はベラだよ。君もどうだい?」
「ほんとうに?迷惑じゃないのかい?」
 私は驚いて、彼のほうを見た。何しろ私は、彼らのようなヨーロッパの人間とは明らかに違うことが一眼でわかる扁平な顔をしている。どこから来たのかもしれない、旅行者風の年寄りなのだから。
「大丈夫さ。ただ、たいしたものはないよ。見ての通りの土地だからね。それでよかったら、どうぞ」
 こんなに穏やかな青年が、こうも気さくにもなるのかと驚いた。その土地には、「見知らぬ人はまだ会ったことがない友人」という言い方があるらしいことは、聞いて知ってはいたけれど。私は、悪いとは思いはしたものの、甘えることにした。なんといっても、地元の人々の日常生活を垣間見れる機会は滅多にない、ましてこんなところではと思ったし、ホテルの少しばかり気取った食事にも飽きて来たところだった。
「いいのかい?ほんとうに甘えてもいいかな?」
「ああ。さあ行こう」
 また、短く言った。


 緩やかに壇状に連なった、石垣で囲まれた畑の間を、ポツリポツリと話しながら歩いて行った。若者は口数の多いタイプじゃなかったし、私の方には使い慣れない言葉の問題があった。少し行くと、畑の先には、軒の出のほとんどない簡素な切妻屋根が乗った石造りの家が何軒か、少し離れて建っているのが見えた。家の祖形と言いたいくらいで、美しい景色だった。ずいぶん前に、シングルモルトの銘品の宝庫、アイラ島の民家を見たときにも、同じことを感じたことがあった。


 この島は、氷河期に海底が隆起してできたため、そのほとんどに石灰岩に覆われた岩盤で出来ているらしい。しかも、周りの海からはいつも強風が吹きつける。そのため、高い木は育たない。島民は何世代にもわたって、石灰岩を掘り起こし、粘土を敷き詰めた上に、岩盤を砕いて海藻を混ぜたものを重ねることで、土を作り、畑を生み出してきた。そうして作った貴重な土が強い風に飛ばされないように、石垣で囲った。ここで暮らしてきた人々の知恵と努力の結晶なのだ。こうして出来上がった畑で、ジャガイモなどを作るのだ。贅沢な野菜を植える余裕はない。何しろ、畑の面積は限られているし、さして広くもないのだ。


「ただいま」
 扉を開けると、若者が大きな声で言った。家に帰るとほっとして、嬉しくなるのはどこの国でも変わらないようだった。すっかり贅沢に慣れた国でも、そうではない場所でも。
「おかえり。あら、お友達かい?」
 出迎えた母親らしい女性が、なんでもないような口調で訊いた。
「ああ、海岸で会ったんだよ。日本から来たらしい」
「そうなのかい。それじゃ、こちらへどうぞ」
 彼女も、息子と同じように、まったく気取ったところがなかった。
 訝る様子も、ためらうこともなく、すんなりと中に通してくれた。家の中は、外観と同様に簡素な作りで、設備もごく質素なもののようだった。華美なものは一つもなかったが、それが新鮮で好ましかった。居間と食堂と台所は1室にまとめられていた。台所のコンロの上では、鍋から勢いよく湯気が出ていた。なにか茹でているのだろうか、それともその準備をしていたのかもしれない。


「今日は何が釣れた?」
 奥の方から、潮風にさらされてしわがれた、男の声が聞こえた。たぶん、彼の父親なのだろう。
「ベラだよ。そのほかに小魚が」
 若者が答えた。
「じゃあ、ムニエルにするか?」
 父親が言った。
「いいね」
「そうしましょう」
 若者と母親が、声を揃えて言った。
 それから、台所の方に出てきた父親が、ちらりとこちらを見ると
「やあ。いらっしゃい」
 と声をかけて、簡単な会釈をよこした。愛想はないけれど、こちらも怪しむ気配は全くなかった。調理台の前に立つと、慣れた手つきでウロコを取り、魚をさばきはじめた。それから、塩コショウをし、粉をはたき、油をひいたフライパンの中にそっと入れた。見かけによらず、繊細な手つきだった。すぐに、いい匂いが漂ってきた。母親の方は、茹で上がったじゃがいもを大量にお皿に盛ると、バターの入った器とともに目の前に置いた。まもなく、ムニエルも焼き上がり、フライパンごと運ばれてきた。父親が、お皿に取り分けてくれた。


「さあ、どうぞ。遠慮なく召し上がれ。たくさん食べてね」
 母親が、にっこりと微笑みながら勧めてくれた。父親も顎でムニエルの方を示して、うなづいた。
「ありがとう」
 私は短く言うと、早速ナイフとフォークを手にすると、まずはこんがりといい色に焼けたムニエルを切り分けて、口に入れた。
「うまい!」
 思わず、日本語が出た。ほんとうにおいしかったのだ。素材そのものの味を久しぶりに味わったような気がした。茹で上がったじゃがいもにバターを添えただけのものも、ふだん食べているものよりも味が濃いような気がした。特に手のこんだものでもなく、まして高級なものでもない、ごく簡素な食べ物。それにもかかわらず、それは格別の味がした。すぐそばで取れた新鮮な食材を、手早く調理しただけのもの。もしかしたらそのことに加えて、作り手の気持ちも味の中に閉じ込められるのだろうか。


「それはよかった」
 3人が口をそろえて、そしてにっこり微笑んだ。私も、同じように、にっこり笑った。初めて会ったばかりの人たちと、こうしてこんなにも打ち解けた気分になれることに驚いた。だいたい、私は慣れているはずの人たちとさえも、緊張しないではいられない質なのだ。


 彼らの小さな島での過酷な生活のことや、私がここにやって来た理由など、しばらく話をした。私はなれない言葉に苦戦したけれど、たいした障害にはならなかった。生活は楽ではないのは明らかのようだったけれど、一方で確かに自然とともに生きているという実感がしっかり伝わってきた。コーヒーと地元産だというウィスキーを数杯味わった後、遅くならないうちにと思って、お礼を言って引き上げることにした。そうしないと、居心地が良くて、ずっと座ったままになりかねない気がしたのだった。


 帰り際、ドアのところまで送ってくれた父親が、まだしばらく滞在しているならパブへ連れて行く、と言ってくれた。なんでも、この小さな村にはパブが数軒あって、そこが村人たちの集う場所になっているということらしかった。私は、ヨーロッパの人たちのプライバシーとコミュニケーションのバランス感覚にはいつも驚かされる。我が国においては、たいていどちらかに偏るし、偏り方はプライバシーの方に大きく振れるようなのだ。


 外に出ると、空は、満天の星だった。今まで、どこでも見たこともないような星空、たくさんの星々が静かに、白く輝いていた。文字通り、初めて見るものだった。


 ゆっくりとホテルの方へ向かう途中、私はしばし空を眺めては、「幸せ」というのはいったいなんだろうと思い、そして、腑に落ちたような気がしたのだ。


 それから、あの穴のあいた小石のことを思い出した。穴があいた小石は、釣りの時の重りにするのには極めて好都合だ。やがて、不意に、天の配剤、天の恵みという言葉が思い浮かんだのだった。









 それにしても……、と思い出すたびに考えざるを得ないことがある。彼らはなぜ、住み続けているのか。あの荒涼とした景色と過酷な自然の中で暮らしていくのは、決してたやすいことではないはずだ。望めば、うんと豊かになるわけではないかもしれないが、もっと安全で安心できる場所に移り住むことができたはずなのに。実際、そうした人々もいる。それなのに、なぜ踏みとどまるのだろうか。その島では、神々が妖精となって人々を守っているというのだが、彼らは日々そのことを感じ取りながら暮らしているのだろうか。









短いあとがき


特別企画の第4弾。一応、これで終了。短い間に、いささか粗製乱造(⁉︎)の気味がありましたが、ま練習ですから。それに、反響はもとより、反応さえ皆無なのは、相変わらずですし。まあ、いったい何をしているのだろう、と自問することもなくはありませんけど。
この島だったか、あるいは同じルーツを持つ別の地域のことだったか、そこでは、「最も大きな誇り、それは倒れないことではない。倒れるたびに立ち上がる、それが誇りなのだ」、と言うようですから。




2024.02.29




読んでくれて、どうもありがとう。
おわりにお願い:ご意見と感想をいただけたなら助かります。













4週連続特別企画増刊号・第3弾 FANTASY 8 「「幸福」の情景」






 まえがき

 先日のブログでもちょっと触れたように、雪の日の電車で見たときに思いついたことをもとに、書きました。何しろ短い時間だったので、最初の部分はその時のブログを援用したところがあります。おまけに短い。すぐ読めます。








「幸福」の情景








 私は、今でも時々思い出すことがある。彼女と彼を初めて見たときのこと、私の住む街で何度か見かけたこと。そして、そのあとのことも……。

 その日は、赤坂で、遅ればせながらの新年会だった。それなのに、あろうことか当日は大雪の警報が出ていた。もう昔のことだ。たいていのことは、忘れてしまった。

 家を出る頃には、もうちらつき始めていて、赤坂見附駅についた時には、すっかり本降りの様子で、さらに滑りやすくなっていた。ただ、路上の車や人通りはうんとすくなく、お店もガラガラのようだったのは、雪だけのせいじゃないかもしれない。経済関係者たちはいよいよデフレ脱却と浮かれている向きもあったようだけれど、あんまりそういう気はしなかった。

 雪は、その降る様や積もったときの景色は美しいが、その後が厄介だ。歩こうとすると、足を取られたり滑ったりする。しかも人が歩いた後は、真っ白だったものが泥やゴミの黒が混じって、いっぺんに汚らしくなる。おまけに、翌日の朝は凍って、いっそう滑りやすくなっていることが多い。雪の多い場所に暮らす人は、雪かきや雪下ろし等々、さぞ大変なのに違いない(僕などはきっと、生き延びることさえできにそうにもない)。

 その帰りのこと。久しぶりの会食、久しぶりの東京、久しぶりの雪でいっときの非日常の時間を楽しんだ後は、みぞれ混じりの雨の中をようやく地下鉄の駅にたどりつき、改札を抜けてエスカレータを降りて行くと、すぐ目の前にすらりと伸びた脚が現れた。綺麗な足だ。しばし見とれた。
 その上の丸いお尻を包んでいるのはぴったりとした小さな布。ショートパンツでもなくキュロットでもなく、ごくごく短いスカートだった。ちょっとびっくりして、そっと目をあげると、金髪の外国人女性だった。どちらかというと素朴な感じのする顔立ちだった。背が高いのはいうまでもないけれど、その足のなんと長いことか。丸いお尻とその上の細い腰が、まるで私の顔の高さにあるようで、驚いた。ついでに言うと、その隣に立っていた男性は、彼女よりももっと高かったが。

 ようやく来た電車に乗り込むと、乗客はずいぶん少なかった。立っている人はほとんどいないくらいで、車内を見渡すことができた。ほとんどの乗客が、スマートフォンに見入っている。時代遅れになったことを自覚しないわけにはいかない。そうでなければ寝ているか、だ(こちらは、昔も今も変わらないようだ)。ドアが閉まろうというとき、半ば閉まりかけたときに、スーツ姿の恰幅のいい男が駆け込んできた。まあ、こういう事態だから、次の電車はいつ来るかわからない。ようやく間に合ったとばかりに、あたりを見回し空いてる席を見つけて座ると、さして長くもない足を目一杯広げたのだった。足元はと見ると、立派そうな革製のスニーカー。やっぱりね、と思った。
 向かいの席には若いカップルの姿があった。まだ10代のように見える女の子は目を閉じており、それよりも少し年上のように見える男の子が伸ばした腕をしっかり両方の手のひらで握りしめている。一方、隣では小さな男の子が若い母親にもたれるようにして眠っている。いずれも安心しきっているようだ。しばらくして目を開けた女の子は、今度は、男の子の腕を抱きしめるように抱えこんだ。微笑ましくて、なんとなく温かな気持ちになった。

 車両が地上に出ると、窓が白くなって外は全く見えないが、乗客はさらに少なくなった。間隔調整はなおも頻繁に行われ、速度も遅くなる。これらの状況をその都度知らせるアナウンスが面白かった。うんと若い女性のようだったけれど、随分さっぱりした言い方で好ましかった。いつも耳にする妙に慣れたような、慇懃な調子がないのだ。ただ、「……して、申し訳ありません」という時も同じような調子で、全く申し訳ない感じがしないのがおかしかった(それは、彼女が意図したことだったかどうか)。

 顔を上げると向かいの席には、まだあの若いカップルが座ったままだった。どこまで行くのだろう。私の降りる駅は、そろそろ近づいてきた。傘を忘れないようにしなくては、と言い聞かせて立ち上がった。すると、向かいのカップルも、立ち上がったのだった。そして、同じ駅で降りた。彼らは相変わらず手を繋いでいた。改札を出ると、私は左へ、彼らは右へ歩いて行った、やっぱり手を握りしめたままだった。

 その日は、電車も遅延や運休が相次いだ。慣れてないせいか、ほんの少し積もるくらいの雪でも、影響するのだ(しかも、相互乗り入れが進んだせいで、影響が大きい。便利さは、それだけを手に入れようとしてもうまくいかないようだ)。いざ走り出しても、前を行く電車との間隔調整が頻繁に行われた。駅を降りてからも、シャーベット状の雪の上を歩くと、危うくころびそうになるのをようやく踏ん張るのだった(幸い、一度も尻餅をつくことはなかった)。その脇を、何人かの若い女性が追い抜いていった。おかげで、無傷で生還はしたものの、赤坂見附から家にたどり着くまで、通常の倍ほども時間がかかってしまった。

 翌日は、もう雪は止んでいたが、家の前庭には薄く雪が積もっており、民家の屋根も白くなっていたが美しかった。でも、これにつられて外出などしてはいけない。そう思い定めて、その日は昼はイングリッシュブレックファースト(⁈)にして、ビールを片手に雪景色を楽しむようにしようと決めたのだった。もはや昼酒を楽しんだとしても、幸か不幸か、誰も文句を言わない。大した害もないだろう。しばらくして、外に目をやると、珍しく小鳥が何羽も電線に止まっていた。彼らも、久しぶりの雪景色を楽しんでいたのかもしれない。



 *



 その雪の日のことはすっかり忘れていたが、ある時に思い出した。スーパーマーケットで買い物をしていたら、どこかで見たような若いカップルを見かけたのだった。同じように女は、男の手をしっかり握り締めていた。ああ、あの時の……。

 それからも、時々見かけることがあった。そして、ふっつりと見かけなくなった。まあ、不思議なことでもなんでもない。そんなに大きな街ではないが、住んでいる人はたくさんいるし、スーパーだっていくつかある。個人商店だってあるし、コンビニはなおさらだ。出くわさないことは、不思議でもなんでもない。むしろ、見かけたことが珍しいことだったのだろう。



 *



 あれからどれほどの時が経ったものか。ずいぶん長い時間のような気がするけれど、案外短いのかもしれないが。また、あのカップルを見かけたのだ。

スーパーに車を停めて、近くの図書館に行こうとして歩いていたら、出くわした。これまでと同じように女は男の手をしっかり握り締めていたが、もう一方の手には赤ん坊を乗せたベビーカーのハンドルを握っていた。反対側には、男の手がやっぱりハンドルを握っていた。ああ、1年も経てば、若いカップルには赤ちゃんが生まれたとしてもおかしくないのだ。なんだか、心の中にほの温かいものが灯るような気がした。お幸せに、とそっと呟いた。それから、図書館で本を返した。



 *



 そしてまた、時が経ったある日のこと。

 冬の寒い日が続いた後の、たまたま温かい日のこと。気晴らしにと思って、ドライブに出かけることにした。それにしても、この辺りの冬はいい天気のことが多い、しかもたいてい文字どおりの快晴だ。私が育った地方の、どんよりとした雲に覆われて寒々しい眺めとは大違いだ。それでも、風はさすがにまだ冷たかったので、幌は下ろしたままにした。
 途中で、広い駐車場の向こうに、ガラス張りの大きな窓のあるドライブインが目に入った。ここで、何か軽く食べることにしよう。散歩中には、何か食べたくなる。足じゃなくて、車で歩いてでも、だ。美味しいものを食べて、お腹が満たされると、いくらかでも気分が良くなる。今度はお弁当を持って出かけることにしてみようか。ささやかなピクニックのようで、いいかもしれない。幸い器はいくつか残っている。そんなことを考えながら車から出ると、冷たい風が吹き付けた。いくら暖冬だと言い、日差しは温かいと言っても、まだ冬なのだ。早く店に入ろうと、歩を早めた。

「いらっしゃいませ」
というウエートレスの声に迎えられて入ると、もう昼時を過ぎていたせいか、ガラガラで客はほとんどいないようだった。

「どうぞこちらへ」
 白いシャツの上にブルーのエプロンをかけたウエートレスに導かれて、席に着いた。
「何になさいますか。もうお決まりですか」
「ごめんなさい、も少し待ってくれませんか」
 顔を上げると、ウエートレスは髪を頭の上にまとめていた。どこかで見た気がした。でも、思い出せない。気になったが、まさか、訊くわけにはいかない。
「どこかで、お会いしましたか?」
 気味が悪いと思われるのがせいぜいだ。

 それから不意に、思い出した、ような気がした。ずいぶん前に電車の中で会い、そのあとで街でも見かけた女性ではないか。へえ、こんな所で働いているのか。ちょっと疲れているようにも見えるけれど、元気で働いていてよかった。夫もあの赤ん坊も元気にしているだろうか。きっと仲睦まじく暮らしているのに違いない。もしかしたら、妹が生まれたりしているのかも(弟かもしれないが)。

 なぜだかそんなことを思って、ひとり微笑んだ。食事を済ませて、店を出ると車に乗り込んだ。エンジンをかけると、幌をあげようと思った。なんとなく、気分がよかったのだ。そして、冷たい風を受けながら、住み慣れた街に戻った。気持ちは温かいままだった。

 その時に何を食べたのだったかは、よく覚えていないが、サンドイッチ、だったかもしれない。そうそう、表面だけをこんがりと焼いた3枚ではなく、2枚のパンの間にハムとチキン、それにレタスときゅうり、そしてマヨネーズを挟んだだけの少し簡略化したクラブハウス・サンドだった。そんなに悪くない味だった。一緒に頼んだノンアルコール・ビールはうまくはなかったけれど(なぜなのだろうね。登場してから、ずいぶん経つし、その間技術も進んだろうに)。



 *



 それからまた、時が過ぎた。

 日曜の朝、散歩の途中にあった公園で休むことにした。ベンチに腰掛けてあたりを見ていると、3人連れの親子を見かけた。こちらに向かって歩いてくる。あ、どこかで見たことがある。父親の方を見ると、やっぱりそうだった。あの雪の日、電車で見かけたカップルの男の子に違いなかった(もはや、立派な大人の男のようだった)。よちよち歩きの男の子は、あの時の赤ん坊に違いない。思わず、またニンマリとした。ああ、少し大きくなったんだな。時の経つのは早い。うかうかしていると、あっという間だ。


 人は歳をとるが
 悪いことばかりじゃない
 不意に楽しい思い出に出会うことがあり
 素敵なことだ

 そうしたことがたまにでもあれば
 生きていける
 生き続けることができる
 前へと進むエネルギーを手に入れることができるのだ


 嬉しい気分になって、もう一度連れ立って歩く3人を見た。すぐ近くまでやってきた。見たことのある顔に、見たことがない顔が混じっているような気がした。

 さらに、彼らが楽しそうに話しながら、近づく。やっぱり、何かが違っているようだった。で、もう一度、目を凝らして見直した。

 あ、女の顔が違う。よく似てはいるが、あのとき見た顔とは違っていた。もう少し若いようだった。

 彼らは周りを気にすることなく、なんの屈託もないように笑いながら、私の前を通り過ぎて行った。相変わらず、まさに「幸福」という言葉がぴったりのようだった。



 *



 時々、ドライブインのウエートレスのことを思い出す。あの3人の、幸せを絵に描いたような家族とすれ違った時のことも。
 そのあとで私は自身のこれまでのことに思いを巡らせるのだ。それが、とりもなおさず、私の人生だ(もし、そう呼べるとしてのことだが)。そして、私は決まってモーツァルトのレコードを取り出す。ターンテーブルの上に乗せ、そっと針を落とすのだ。それから、気持ちがどこかへ沈んでいくのを感じる。しばらくその感情に身を任せた後は、音楽に集中する。と、不意に現実に引き戻される時がある。そして、声に出さずに呟くのだ。


 今こそがさよならを告げるべきとき
 その思いが楽しいものであれ
 あるいは苦しいものであれ
 さらには願いに
 それが甘いものであれ
 苦いものであれ
 さよならだけが
 人生 なのだから



 *



 今度はやや短い、あとがき

 反応も反響もないのは、相変わらずですが、まあ練習ということも同じ。ということで、また掲載することにしました、4週連続企画特別増刊号第3弾。ブログに書いた、あの雪の日に見たことをもとにしたもの。前書きにも書いたように、一部を流用しながら(まあ、練習ですから)。

 今度は、ちょっとアニエス・ヴァルダふう、かも……(?)。




予告:次週は、いよいよ最終週。


2024.02.22


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4週連続特別企画増刊号・第2弾 FANTASY 7 「2度鳴る電話」





2度鳴る電話




 私は、電話が苦手だ。かけるのはもちろん、受けることもだ。できることなら避けたい、と思う。だから、メールでも済ませることのできる場合は、たいていメールの方を選ぶ(と言って、メールが好きなわけじゃないけれど)。でも、夫は私に輪をかけて電話が嫌いだ。というより、憎んでいると言ってもいいくらいかもしれない。たぶん、出るまで相手の状況が全くわからないことが、気分を重くするのだ。



 *



 ある朝、電話が鳴った。夫はいつものように、
「出なくていいよ」
 と、言う。まあたいていのものは、そうしたものに違いないのだけれど。中には大事な電話もあるかもしれない。いずれにしても、かかってきたものは仕方がない。出ることにした。
「あなたの実家からかもしれないわよ」
 と言いながら。ソファから立とうとしたら、すぐに切れてしまった。ああ、やっぱり間違い電話だったんだ、と思った。

「ほらね。そうしたものさ」
 夫が、わかっただろう、と言わんばかりに呟いた。

 別のある日の午後に、電話が鳴った。夫はいなかった。出ようとして受話器の方へ歩いて行ったら、やっぱりすぐに切れた。こうしたことが、不規則に何日か続いた。

 また別のある日、電話が鳴った。今度はお昼近くだった。ソファに座って、新聞を見ていた夫に声をかけた。

「出てみなさいよ」
 台所から、私は声をかけた。
「君のお母さんからかもしれないよ」
 夫が応じた。電話に出たくないのだ。出たら、まあふつうに受け答えできるようなのに。すると、電話の呼び出し音がやんだ。

「母はもう、電話をかけることはできないわ」
 今度は、リビングの方まで出て行って、言った。
「ああ。そうだった」
 夫は、こともなげに言う。
 
 私の母は今、ここからはるか遠く離れた小さな町の施設で過ごしている。若いうちから年の離れた父親の介護のために、何年も病院で寝泊まりしていたこともあってのことだろう、骨粗鬆となり、やがて腰の上の骨を骨折してぐずぐずの状態になった部分をコルセットで固め、長距離を移動することができなくなっていた。それでも、ずっと携帯電話で話すことができていた。それが、コロナ感染症の流行後は、面会がままならなくなり、私や妹でさえも部屋に入ることも叶わなくなってしまった。そして、さらに足を骨折した。しかも、2度も。
 それ以来、自分で電話を取ることができなくなった。もちろん、かけることはできない。さらに悪いことに、電話で話すことにすっかり関心をなくしてしまったようなのだ。以前は、電話で話していると、同じ話を繰り返すことが多かったけれど、なかなか切ろうとしなかった。それが今では、施設のスタッフに取ってもらっても、少し話すと、
「ありがとう。みなさんによろしくね」
と言って、すぐに切ってしまう。

 夫は不在がちだ。実家の両親の世話をするためだ。私は、そのことはあまり気にしていない、というか気にならない。
夫の義父は年の割には元気で、よく飲み、よく食べる。自分のことは、たいてい自分でできる。パソコンも携帯電話も、使いこなしている。電話嫌いの夫よりも、よほど上手かもしれない。ただ、家の中のこと、家事のうちでも調理や掃除は全くできない。というか、ほとんどやらない。全く関心がないようなのだ。
 一方、義母は手すりを伝いながらようやく歩くことができるくらい。それも、短い距離だ。以前は、街に出かけるのが好きだった。おしゃれをして、買い物や食事に出かけることが楽しみだった。それはいまでも変わらないけれど、もはやなかなかままならない。それに、記憶力のこともある。この二つが、コロナ禍以降急速に進んだ。でも、私を見ると、にっこり笑うときがある。邪気のない童女のような笑顔だ。いっしょに食事をしていると、何かと世話を焼きたがる。ただ、それが全くのマイペース、周囲の動きとは関係なしなのだ。何か言われても、おかまい無し。義父は、昔主婦として取り仕切っていた時のことを思い出してのことだろうと言うのだが、そのことを夫に指摘されると、一瞬無表情になり、それから、私の方を見ると、目を大きく開けてニンマリとしてみせる。

 それで、夫はほぼ実家の方にいることが多くなった。フリーランスのカメラマンだ(だった、と言う方が適切かもしれない。もう半分リタイヤしたようなものだ)。だから、時間は自由になるのだ。私は、会社勤めだけれど、職種の関係で在宅ワークが認められているので、平日に外に出るのはむづかしいものの、やっぱり家にいることが多い。

 例の電話は、いろいろな時間にかかってくる。そして、取ろうとしたらすぐに切れる。そうしたことが続くうちに、気づくことがあった。呼び出し音は、きっかり2回で切れるのだ。これはふつうの、よくある間違い電話じゃない。

 また、電話が鳴った。

「切れる前に出てちょうだい」
「君が出ればいいだろう」
 夫がそういう間に、また切れた。やっぱり2回だ。
「ほら、また2回よ」
「だから、さっさと出ればいいじゃないか?」
「いやよ」
「どうしてさ?」
「だって、きみがわるいもの」
「出てみなきゃわからないよ」
「だったら、あなたが出なさいよ」
「知ってるだろ。電話は苦手なんだよ」
 時々、そんなやりとりを繰り返すことが続いた。

「ほら、まただわ。きっとあの電話よ、出てみてよ」
「そんなに気になるなら、君が出ればいいだろ?」
「だから、言ったでしょう」
 今度は、つい咎めるような口調になった。すると、夫は、読んでいた新聞をソファに放ると、無言のまま2階の自分の部屋に行ってしまった。
自分が、なんだかすごく惨めな気がした。夫がいなくなった場所に目をやると、読みさしの新聞や雑誌が乱雑に積み上げられていた。

「ねえ。これなんとかしなさいよ!」
 私は、たまらず声を荒げて、叫んだのだった。
「ねえ、ねえってば!降りて来なさいよ!」
 何度か言ううちに、夫がようやく降りて来た。
「どうしたのさ?」
 いかにも面倒、というような言い方だった。
「見てごらんなさいよ」
「えっ?」
「えっ、じゃないでしょ」
「だから、どうしたって…」
「なんで片付けられないの」
「ああ、そのことか」
「そうよ。いったい、何度言えばわかるのよ」
「ああ、悪かったよ」
「じゃあ、片付けなさいよ」
「あとでちゃんとやるよ」
「今すぐに!」

 夫は、無言のまま、くるりと背を向けると、そのまま出て行った。



 *



 妻とちょっとした諍いがあったせいで気分がむしゃくしゃして、行く先も決めずに車で出てきた。車を走らせている間、先ほどのことが思い返されて、気分はささくれ立つばかりるばかりで、いっこうに収まらなかった。

 それでもそのまま走り続けると、道路沿いに1軒、店らしきものが見えた。カフェだろうか、それともレストランか。

 広い駐車場に車を向けると、ガラス張りの大きな窓の、瀟洒な建物が目に入った。ここで、何か軽く食べることにしよう。お腹が満たされると、気分も落ち着くだろう。ともかく、ざわついた気持ちをなだめる必要があった。

「いらっしゃいませ」
 というウエートレスのあかるい声に迎えられて入ると、中はそれほど広くはなかった。ゆっくりとあたりを眺めると、けっこうお客が入っていたが、奥の席が空いているようだった。

「どうぞこちらへ」
 白いシャツの上にブルーのエプロンをかけたウエートレスに導かれて、席に着いた。
「何になさいますか?」
「あ、はい。も少し待ってくれませんか?」
 改めてみると、そのウエートレスは髪をポニーテールに纏めて、その上から青いバンダナを巻いていた。
「はい。わかりました。それでは、お決まりになりましたら、声をかけてくださいね」
 そして、席から離れていった。

 メニューを手にしたものの、さほどお腹が減っているわけじゃなかった。それでも何か選ばなくてはいけないので、いちおうは見たものの、これはというものはなかった。ランチメニューと大書きされたメニューには、オムライスの写真が載っていた。オムライスか、久しぶりだと思って、これに決めかけたけれど、そこには今やすっかり定番となったようなチキンライスの上にオムレツを乗せたものだった。他には見当たらなかった。これを発明した伊丹十三は敬愛するけれど、オムライスはやっぱり少し焦げ目のついた薄い卵で巻かれた昔風のものが好ましい。ソースは、ただのケチャップよりはもう一手間かかったものが好きだけれど、ホワイトソース風のものは御免被りたい。
 ないとなれば、なおさら食べたい気がした。そんなわけで、もう一つ、別のメニューがあったので開いていくと、平たいスパニッシュオムレツ風のものが目についた。フリッタータ(イタリアン・オムレツ)とある。あとで足した、手書きのかっこ書きがおかしかった。ちょっと気分がほぐれたような気がした。よし、これにしよう。それからサラダと飲み物があれればいい。

「お願いします」
 僕は、声をかけた。

「お決まりですか」
 例のウエートレスがやってきた。
「ええ。これとこれとノンアルコールの白ワインをください」
「承知いたしました」
 と言うと、注文した料理を繰り返した。

 運ばれてきたフリッタータは、見慣れたスペイン風のトルティーヤとは違って、片面焼きで表面はとろりとした黄味が残っているようだった。さっそく、取り掛かることにした。冷めたら美味しくない。この頃はこうした洋風の食べ物であっても、たいていのものは箸で食べる。その方が断然楽だし、口に触る時の感触もいい。でも、なければ仕方がないし、わざわざ頼むほどでもない。ナイフとフォークで切り分けて、食べた。シンプルなサラダも、たまねぎがたっぷり入ったドレッシングがうまかった。

 食べ終わると、泡立つようだった気持ちも、少し落ち着いた。妻の気持ちも、わかるような気がした。

「もう、おすみですか。それじゃあ、お皿を下げますね」
 ウエートレスがやってきて、言った。
「ええ。お願いします」
「お飲み物はいいですか?」
「ありがとう。けっこうです」
「承知しました」
「ところで、フリッタータは片面焼きなんですね?」
「ええ。シェフの好みのようです。両面焼きの方が良かったですか?」
「いやいや。そういうわけじゃないけれど」
「もし両面焼きの方が良ければ、今度はどうぞおっしゃってくださいね」
「ああ。どうもありがとう。ごちそうさまでした」

 店を出ると深呼吸をして、車に乗り込み、キーを挿してひねった。
でも、なんの音もしない。うんともすんとも言わず、なんの音も立てず、全く反応しなかった。エンジンがかからないのだ。そういえば、以前から不調だった。アイドリング中にエンジンの回転数が不安定な時が時々あったし、走行中でも、急に回転数が落ちることがあったことを思い出した。何しろ、古い車なのだ。それで仕方がないから、JAFに来てもらうことにした。それから、一瞬躊躇したが、妻に電話をした。

 妻は、すぐに出た。
「……」
「もしもし。どちら様でしょうか」
 事務的で不安げな声だった。
「もしもし、僕だけど」
「ああ、あなたなのね」
 低く、抑揚のない声で言った。
「ああ。さっきは悪かったよ」
「……」
「もしもし。さっきはごめん」
「ええ。私も」
「この頃は、気持ちが落ち着かないんだよ」
「そうね」
「ああ」
「とにかく、できるだけ早く戻って来てちょうだい」
「それがね、……」
「どうしたの。もう怒っていないわ」
 少し落ち着いたようだった。
「ああ。でも戻れないんだよ」
「えっ。何かあったの?」
「エンジンがかからないんだ」
「えっ、それは大変だわ」
「ちょっと不調だったからね」
「大丈夫?」
「今、JAFを待っているとこなんだよ」
「へえ、そうなのね」
「ああ」
「とにかく待ってるわ」
 少し、ハリのある声に戻ったようだった。
「うん」
 少しホッとして、電話を切った。

 仕方がないので、また店に戻ることにした。もうお客の姿はほとんどない。今度はJAF
の車を見逃さないよう外がよく見えるように、窓際の席に座ると、例のウエートレスがやってきて、不思議そうな顔をして見た。
「ああ。エンジンがかからないんだ」
「あら!それは大変。大丈夫ですか?」
「ああ。JAFを呼んだから、来るまで待たせてもらいたいんだけど、ここでいいかな」
「はい。ええ、どうぞ。大変でしたね」
「それじゃあ、コーヒーをもらおうかな」
「かしこまりました」

「コーヒーのおかわりはいかがですか」
「ありがとう」
「コーヒーをお持ちしましょうか」
「頼みます」
「おかわりは?」
「いや、もうけっこう。どうもありがとう」

 なぜ、イラついてばかりなのか?この頃は、特にひどくなってきたようだ。なぜ、読みさしのものをそのままにする?何杯もコーヒーを飲んでいるあいだ中、自問自答した。
たぶん、いつの間にか、ストレスが溜まっているんだ。ずっと実家の両親の側にいて、時々世話をする。両親も、仕方がないとはいえ、楽しげな様子の時はほとんどない。特に負担がかかることもしていない代わりに、どこにも出かけることがない。仕事もしていない。それらが、いつのまにか不満となり、次第にたまっていたのが、爆発することなく、少しずつ放出されていたのだろう。そして、ある時に噴火した。そんな気がしたのだった。

 それから数時間ほど待っていたら、JAFの車が見えた。ようやく来てくれた。
回転数が安定しなかったことを含めて、これまでの経緯を説明した。いろいろとみてくれたのだけれど、結論は、
「ええっt、ガス欠ですね」
「(えっ……)」

 ガソリンを補給し、タブレット端末を見ながら作業を説明してくれた。そして言った。
「ここにサインをお願いします」
僕がサインをすると、彼は「気をつけてくださいね」と声をかけると、何事もなかったかのように、来た道を引き返していった。
やれやれ。なんとも情けない気持ちになった。それから、気を取り直して、また妻に電話をかけた。

「もしもし。あら、大丈夫だった?」
 もうすっかり、元に戻っているようだった。
「ああ」
 こちらは、すっかり力をなくしてしまっていた。
「どうだったの?」
「実は、えーっと……」
「どうしたの?」
「うーん、……」
「だから、何があったの?」
「ガス欠だった」
「えっ⁉︎」
 妻が笑い出し、そして、二人して大笑いした。

 それで気分一新とはいかないけれど、ともあれガス欠は解消した。車は、動くようになった。妻も笑った。今のところは、何も問題はなくなったような気がした。それから、来た時よりもゆっくりと車を走らせ、自分の住む街へ戻った。

 家に着いた時はもう暗くなっていたが、電気は消えていた。どうしたのだろう。はやる気持ちを抑え込もうと深呼吸をして家の中に入った。リビングルームの電気をつけると、妻がうつ伏せになっていた。きっと疲れたのだ。その下からは、何やらメモのようなものがのぞいていた。毛布をかけると、そのままにしておいた。

 それから2階へ上がると、キース・ジャレットのCDをかけた。まず、「スティル・ライブ」。彼がまだ元気だった頃のものだ。この時は、前ヘ前へと進むエネルギーに満ちてる。1枚目が終わると、今度は、病を得て束の間立ち直った時に自宅で録音されたという、「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」を。こちらは音の一つ一つが慈しむかのように鳴らされ、バラバラになる寸前にかろうじて踏みとどまっているかのようだ。

 人は歳をとるのだ
 病気もする
 昔のままではいられない
 寂しいことだ

 いや 寂しくはない
 受け入れて 成熟していけばいいことだ
 そうかも知れない
 ただ 人は変われるものなのか



 *



 それから、もうあの電話はかかってこなくなった。どういうわけか、ピタリと止んだのだ。
 小競り合いは相変わらずだけれど、少なくとも、あの電話をめぐっての争いはなくなった。



 *



 ふたたび平穏な時間が訪れて、時々、私は母のことを思う。

 この街から遠く離れた小さな室で ひっそり眠る
 もはやひとりでは 歩くこともできなくなってしまった
 灰色の細胞には 記憶も長くは留まらなくなってしまった
 あなたは いったい 何を抱えて眠っているのだろう

 もしかしたら 寂しさに耐えて
 孤独であることを 閉じ込めようとしたのだろうか
 それまでの記憶を 手放そうとして
 現在を諦めたのかもしれない ような気がした

 電話をかけることが できなくなり 
 取ることさえも 叶わなくなってしまった
 それでも不意に思い出して ボタンを押したり

 それから不安になり 切るのだろうか
 あるいはまた 電話を目にして なにか不思議なものを見た気がして
 適当にボタンを押したのだろうか



 *



 それにしても……。
 あの電話は、いったい、誰からのものだったのだろう。
 誰が、何のために、何回もかけてきたのだろう。
 しかも、呼び出し音はきっかり2回鳴るだけで切れた。

 それとも、白昼夢のようなものだったのだろうか。
 それから少し落ち着いて、冷静さを取り戻すと、いったい、私は何をしているのだろう、
と思ったりする。



 *



 ちょっと長めのあとがき

 相変わらず反応も反響もありませんが、まあ練習だし。と思って、第2弾を掲載することにしました。ちょっと今までとは違った試みだし、もう少し推敲するために、順番を変えようかとも思ったのですが。まあ、どうせ同じことだし、勢いを大事にしようと思い定めたのでした(また、書き直せばいいことだ)。

 ハッピーエンド症候群から少しだけでも逃れるべく、ちょっと変わった味をと思って、カーヴァーのものを思い出したのでしたが……。

 それにしても、世の中には才人がたくさんいるものですねえ。朝刊の下の欄、本の宣伝を眺めていると、知らないアイドルグループの人かと思うような人が、小説や絵を描いて評判を集める。出版もされる。単なる余技ではなく、立派に世間に通用する仕事のようだ。まあ、多才な人というのは昔からいましたね。例えば音楽に限らず美術論も相撲論も書いた人がいたし、文学から政治まで縦横無尽に論じるほか、歌い継がれる童謡の歌詞も書いた。そのほかにも、何人かのイラストレーターたちは、その枠に収まらず、様々な分野で活躍した。そして無知であることを自覚して、本物となることの重要さを身をもって教えたあの才人も。すごいですねえ。羨ましいなあ。せめて小才でもと思ったりもするけれど、ま、できることをやり続けるしかありませんね。

 捨てる神あれば拾う神あり、とはいかないものかとも思った。けれど、すぐに忘れることにしました。なぜなら、その理由は、(もちろん、自身の能力ということもありますが)それより何より今の世界の状況を見たなら、明らかのようですから。








2024.02.15


読んでくれて、どうもありがとう。
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臨時増刊号 FANTASY 6 海辺のランチ





まえがき

最初は、練習のためにスタインベックの「朝めし」をもとに自分だったらこうするということで書いてみようと思った(いわゆる翻案。いや、というよりも訳し直しか)。絵本もうまくいかないようだし。でも、開高の本を読んでいたら、「書きたいことを書きたいときに書きたいように書く」のがよろしいとあったので、なるほどと思い、方針を変更して、ひとまず出来上がったのがこれなのですが。





海辺のランチ



 さて、いつのことだったか。今となってはもう、よくは思い出せないが、そろそろ遠出のドライブは無理だろうと思って、最後のよすがに小さな岬まで行ってみようと思い立った。広がる海を、うんと近くで見たかったのだ。で、日は少しずつ長くなっているとはいうもののまだ冬の、たまにほんの少しだけ春が顔を見せるような頃のある晴れた日の朝、出かけることにした。

 出発したのは、まだ日が昇り切らず山の端あたりがオレンジ色に染まる頃だったが、途中でゆっくりしたせいもあって、岬に着いたのはもう昼に近かった。近所に、食堂らしきものは見当たらない。それどころか、人家さえも見えない。まだ温かいとまではいかず、時折吹いてくる風は冷たかった。いそれでも、遠くまで広がる海、たっぷりの水の景色を満喫した。海面は濃い青緑色で、おだやかで、春の陽の光を受けてきらめいていた。草の上に腰を下ろして、目の前の光景を見つめていると、飽きることがなかった。それでも、風が吹き始めると少し冷たかった。ちょうどおなかもすいてきたので、そろそろ引き上げることにしようと思った。

 帰りは、来た道と違った、さらに海沿いの道を通ることにした。少し細くて、しかも曲がりくねっているようだったけれど、まあ昼間のことだし、対向車も少なそうだ。ゆっくり行けば、問題はないだろう。それに、来た時の道沿いには、ここからしばらくは食堂もなかったようだった。まあ、これはこの道も同じことだろうけれど。窓を開け放ち、時折海に目をやりながら走った。風は少し肌寒かったが、むしろ気持ちが引き締まるようで心地よかった。ただ、いよいよおなかが減ってきたのには参った。

 遠くの方に、煙が立ち上っているのが目に入った。ああ、あの辺りには、何かあるかもしれない。悪くても、聞いてみることくらいはできるだろう。それで、その煙に導かれるように、急ぐような気分で走らせたのだった。煙が少しばかり先に見えるところまで行くと、路肩に車を寄せて、エンジンを切った。
煙の元は、バーベキューか何かの火のようだった。車を降りると、肉の焼けた匂いが、かすかに鼻腔を刺激した。香ばしく、甘い香り。思わず、目を閉じて吸い込んだ。と、ぐーっとおなかがなった。

 キャンプかピクニックかをしていたのだろうか。こんな時期にも、と驚いたが、人影はどこにも見当たらなかった。

 しばらく眺めていると、一人の女性が現れ、近寄って来た。まだ女の子と呼びたいくらいの歳だ。ぴったりと体に沿ったニットのセーターと重ねたカーディガンの下に、若い女性らしい柔らかな曲線が見て取れた。艶やかで、長い髪を後ろで縛っていた。家の近所では見ることのない、まだ若いにも関わらずどこか洗練された感じがする女の子だった(今時の若者は皆、こうしたものかもしれない)。ただ、食事の時間は、すでにもう終わっているようだった。

「やあ」
 声をかけると、その女の子も、
「こんにちは」
と、見かけによらず気さくに応じ、そして訊いてきた。
「どうしたの?」
「どこか食べるところを知らないかい?」
「そうねえ。もう1時間半ほども行かなきゃダメかも」
「うーむ」
「おなか、空いてるの?」
「まあね」
 同時に、またぐーとおなかが鳴った。
「ふーん」
「ちょっとぼんやりしすぎた。久しぶりに、海を見ていたんだ」
「あら残念。でも、かわいい車ね。色もシックだわ」
「ああ、持ち主同様、だいぶくたびれているけどね。気に入っているんだよ。塗り替えたんだ」
「へえ。そうなのね。元は何色?」
「赤だった。若気の至りさ」
「ふーん。赤もいいけど、グレイの方が上品な感じがして、好きだわ。あ、ごめんさい。おなか減っているのよね。ちょっと見てくるわ」
 そう言うと、彼女は身を翻した。

 しばらくして戻って来ると、彼女はこう言ったのだ。
「パンとハムのサンドイッチならできそうだけど。残念ながら、野菜はほとんどなくなっていたわ」
 僕は嬉しくなって、思わず訊いた。
「え?なにか食べられるの?」
「ええ。できるのは、たぶんサンドイッチくらいね」
「ありがたい。助かるよ」
「それに、コーヒーもあるわよ」
「いいね。ぜひ、お願いできたらありがたい」
「ええ。それでは、こちらにどうぞ。ついていらっしゃいな」

 それで、やさしい言葉に甘えることにした。ついて行った先には、バーベキュー用のスタンドの残り火が目に入り、肉の焦げた強い匂いが鼻をついた。それから改めてあたりを見渡すと、女の子よりも少し年上らしい男が二人と同じように若い女性が一人、車のこちら側で待っていた。いずれ劣らず都会の若者らしい洗練された様子だったけれど、不思議なものを見るような目で、こちらを見ていた。

「やあ、どうした?」
若い男のうちの一人が訊いた。
「おじいさんが一人、飢えかけている」
 女の子が答える。
「そうなのかい?」
「ああ、悪いね」、
「何も食べてないのかい?」
 男が、ぶっきらぼうに訊いた。
「いや、朝早くにコーヒーとトーストを一枚だけ」
「それきり?」
「ああ。ちょっと急いでいたものだからね」
「ふん。そりゃ大変だ」
「もうあんまり残ってないけど。まあ残りものでよければ、どうぞ」
 男のうちの一人が、保冷庫を開けながら、言った。
「おじいさん、ラッキーだったね。ハムが少々残っていたよ。あ、レタスも隠れている。それから、バゲットもたぶんまだ3分の1本ほどあったはずだ」
「ああ、それはありがたい」
「じゃあ、カスクートね」
「そうだね」
それから、男はバゲットを軽く炙り、手際よくおなかを裂くと、そこにレタスとハムを挟んだところに、マスタードとマヨネーズを合わせて乗せた。
「さあ、できたよ。どうぞ、召し上がれ」
「ありがとう。お、うまい」
「でしょう?」
「彼はシェフなのよ」
「まだ、見習いのようなものだけどね」

恥ずかしながら、あっという間に平らげた。
「ああ、おいしかった」
 心の底から、そう言った。
「それは何より。よかった」
彼らが声を揃えて、笑った。

「コーヒーは、僕が淹れることにしようか」
「そうね。ここも、プロに任せるのがいいわね」
 二人の女がまた、声を揃えた。
「そうなのかい?」
「まあね。僕らは、お店がご近所同士なのさ」
 あいかわらず、ぶっきらぼうな口調のままだ。
「ふーん。そうなんだ」
「久しぶりにみんなの休みが揃ったので、のんびりしようとやってきたんだよ」
 取り繕うところのない口の利き方が、むしろ親密な気がして、心地よかった。
「へえ。羨ましいね」
「そうかい。まあ、悪くはないよ」
「どうも、ごちそうさま。ほんとにおいしかった。ありがとう。すっかりお世話になったね」
「いえいえ。どういたしまして。喜んでもらえて、嬉しいよ」

 それから少しばかり話をした後、遅くならないうちに、と思った。
「じゃあ、そろそろ行くよ。どうもありがとう。本当に助かった」
「それはよかった」
「僕の街に来たら、ぜひ寄ってください」
「ああ。そうしますよ」
「会えてよかった」
「楽しかったわ」
「面白い体験だった」
「とっても」
 彼らは口々に言った。

「じゃあ、またね。どうもありがとう」
 私は、名残惜しかったけれど、もういちど別れを言うと車に戻り、エンジンをかけ、アクセルに足を乗せかけた。

 すると、最初の女の子が追いかけて来た。
「これをどうぞ」
 と言って、ペットボトルの水とちいさな紙片を差し出してくれた。
「どうもありがとう。至れり尽くせりで、私はついているね」
「また、私たちの街に来たら、寄ってみてね。お店の名前と住所が書いてあるわ」
「ああ、ぜひそうしよう」

「ほんとに、かわいい車だわ。インテリアもウッドパネルだし。あ、ちょっと大変かも。燃料計が」
「あ。どうしよう」
「ガソリンスタンドは、ずっと先のはずよ」
「大丈夫かな」
 以前、JAFに来てもらった時にガス欠が原因だったことを思い出した。
「うーん。まいったな」
 それから女の子は、後ろを振り向くと、大きな声で言った。
「みんな、来てちょうだい」

「どうした?」
「ガソリンが尽きかけているかも。燃料計が0を下回っているの」
「そりゃ大変だ」
「ガソリンスタンドまでは、持たないかもな」
「そうね」
 もう一人の女の子が、心配そうに言う。
「うーん。どうしたものだろう?」
「僕らの車はどう?まだたっぷりあったはずだけど?」
「ちょっと見てくる」

「どうだった?」
「ほとんど満タン」
「よかった」
「ところで、あなたの車のガソリンは?」
「ほとんど、空」
「じゃなくて」
「ああ、ごめん。ハイオク、だった」
「そうなのね」
「まいったな」
「どうしたの?」
「僕らのは、レギュラーなんだよ」
「そうか」

 それから、彼らは色々と考えてくれた。結局、ガソリンスタンドに来てもらおうということになった。
「でも、電話番号は?」
「調べればわかるよ」
「うん。そうよね」
「ああ」
「よかった」
 皆が、わがことのように喜んでくれた。

 それから、ガソリンが運ばれてくるまで、私たちは太陽が少しずつ海に近づくにつれてその表情を変えていく、穏やかに光る海を眺めながら話をした。遠くの方には、光を反射してきらめくものが見えた。

「やっぱり、海はいいね」
「うん、時々見たくなる」
「いや、毎日見たいよ」
「ああ」
「見ることができたら、素敵だわ」
「たっぷりの水を見ると、なぜかほっとした気分になるんだ」

「そろそろ行くよ。暗くなってしまう前にね」
「そうね」
「じゃあね」
「気をつけてね」
「またね」
「どうもありがとう」
 そうして、私たちは今度こそ別れた。車に戻ってドアを開け、運転席に座るとキーを差し込み、ひねった。そして、もう一度、ありがとう、さよならと言った。それは、エンジンの音に紛れて、彼らには聞こえなかったかもしれないけれど。ギアを1速に入れ、アクセルを踏むと、バックミラーに手を振る4人の姿が写ったが、やがてそれは小さくなり、すぐに見えなくなった。

それから私は、少しずつ茜色を濃くしていく空と海を時折見遣りながら、自身の迂闊さに呆れたものの、思い切って出かけてきて良かった、と束の間の幸運な経験のことをしみじみ思い返したのだ。

今ではもう遠くまで車を運転することもできそうにないが、この時のことを思い出すと、決まって胸にこみ上げるものがあり、それまでの気持ちがどうであれ、きっとほの温かくなるのを感じるのだ。








あとがき

先の開高の本というのは、「完本白いページ」だったのですが、「書く」の項目に「自分が何もしていないときは手当たり次第に乱読するが、何か書く気にかかっているときは他の本は読まないように、目にふれないようにしたくなる」とあった。

読めば、「おれはだめだ。なにもかも書かれてしまっている。おれの這いこむ余地がない」と思えてくるから、というわけです。ならば、書いた後に、参照しようと思ったのでしたが(まあ、「朝めし」が元、というのには変わりがありませんけど)。

で、いちおう出来上がったものを読み返してみると、やっぱり筋を変えずに、翻訳に徹する気持ちで、表現の仕方だけを練習するつもりで書く方がよかったかもという気もしますね(うーむ)。まあ、せっかく書いたから掲載することにして(貧乏性)、これから色々と手を入れてみようかな(まあ、練習ということには変わりがないだろう)。

お気付きの点は、なんでも、お知らせください(自分では気づかないことが多いし、何よりいけないことに、何度か推敲するうちに急に飽きてしまうのです)。


2024.02.01


読んでくれて、どうもありがとう。
おわりにお願い:ご意見と感想をいただけたなら助かります。













クリスマス特別増刊号 FANTASY 5 プチとクリスマスのおはなし





今年もいよいよ終わりの月。いい年だったという人もそうではなかった人も、皆同じです。12月といえば、クリスマス。クリスマスといえば、楽しみなのがプレゼント。でも、何もあげるものがありませんから、クリスマスのお話を書き上げることにしました。これをさしあげようと思うのですが……。と言っても、ささやかなものですから、いわばそれぞれの人にとっての本当のクリスマスプレゼントの前座、露払い、プレ・クリスマスプレゼントのようなものです。

クリスマスらしいお話を、というつもり。積もり積もったお話というわけではありませんけれど。自分の技量のことは脇に置き、おまけに脇目も振らずにというわけでもありませんが、即席でこしらえたものです。ですから、悪い人も意地悪な人も出てこない、悪いことも悲しい出来事も起きないお話です。でも、たぶん、早起きは出てきたかも。約束はできかねますが。それもこれも、最終的には、できあがるまでの出来心次第。

あの映画に倣って、5週前からの連載開始しようと思いましたが、1週前にいっぺんに(何と言っても前座ですから)。





プチとクリスマスのおはなし




             


 
「それじゃ行ってくるよ」
 プチが、おばあさんに言います。またもや、なんだかウキウキしているよう。それまで降り続いていた雪混じりの雨も、今朝はもうすっかり上がったよう。家の外もなかも、お日さまのあかるい日差しがたっぷり。

「気をつけて行っておいで。今度こそ遅くならないようにね」
 おばあさんが、やんわりと釘をさします。
「はい」
 プチは、また言われちゃったと思いながら、言われても仕方がないこともわかっていたので、素直に答えました(何しろ、これまで何回か遅くなって心配をかけたことがあったのですから)。
「でも、慌てるんじゃないよ」
 おばあさんは、プチのことを誰よりも大事に思っているのです。
「うん。わかった」
 今度は、プチも元気よく、返事をします。

 家を出たプチは、街へ急ぎます。家にマッチはあったかな?今日は、クリスマスイブ。クリスマスの準備をするための買い物に、出かけるのです

 買うものはといえば、もう決まっています。きれいな炎の出るローソクを立てた小さなデコレーションケーキと、おばあさんへのプレゼント。晩ごはんは、とびっきりの海のご馳走をアオが届けてくれることになっています。イカもあるといいかも。あるかな。タラもあったら、きっと満足。

 クリスマスツリー用のもみの木は、山に生えているものを使うから、買わなくてもいいのです。



             

 
 問題は、おばあさんへのプレゼント。何にしよう?何がいいのだろう?プチは、このことをずっと考えながら歩いています。実は、これが難題で、もう何日も前から考えているのでしたが、なかなか決まらないのです。渡したときに、「なんだい」といわれるのはこまるので。その一方で、プチは、サンタさんは何をくれるのかなと、楽しみにしているのです。

 そんなふうに考え事をしながら、ぼんやりと歩いていたものですから、プチは川のそばに積もっていた落ち葉の上で、つるりと足を滑らせ、転んでしまいました。地面の上で湿った落ち葉がたぶん、凍っていたのです。あっという間もなく体がはんぶん地面に着いたかと思ったら、たちまちプチは川の中へ、するりと一直線。落ちてしまったのでした。しまったと思っても、後の祭り。





          


 いつもの浅瀬でも、このところ降り続いていた雪や雨で増水した上に、川底がつるりと滑って、なかなか立ち上がることができません。流されてゆくばかりです。はじめは、早く着けそうだと喜んでいたのですが、川のところどころに顔を出している大きな石にぶつかりそうになって、ヒヤリとします。水がかかると、顔がひんやり。そのうちに、体もひんやりしてきました。

 なんとかよけると、ふーっと吐き出した息も、たちまち白くなります。プチも立ち上がれません。水もとても冷たいのです(もう、すっかり冬ですからね)。すると運よく、岸の大きな木から張り出した枝が目に入りました。プチはすかさず、えいやと飛びつきます。枝は大きくしなりましたが、大成功。なんとか無事に川から抜け出すことができました。



             


「ああーっ、助かった」
 安心したのもつかの間、凍りつくような水をたっぷり含んだ体が冷えてきたのです。雲一つ無い快晴だというのに、冷たさがいや増すと、プチは思わずああ嫌と顔をしかめて、苦悶の表情、泣きそうになったくらい。プチは、2度、3度ぶるっと体を震わせると、また歩き始めました。と、向こうに、何か光るものが見えます。近づいてみると、それはお日様の光を浴びてピカピカ光っている大きな石で、さわると温かい。お日さまの熱をたっぷりと吸い込んで、貯め込んでいたのですね。そこで、プチは体を横にして、冷えた体を温めました。

 濡れた体も乾いてあったまったプチは、すっかり元気になり、またふたたび街を目指して歩き始めました。マタタビでも目にしたよう。今度は、足元によおく注意しながら。ああ、滑らない足袋を履いてくればよかった、と思っても、これまた後の祭り(もしかして、このお話も股旅物か)。




          


 ようやく街に着くと、あちらこちらでクリスマスの音楽が鳴っていました。お店の人が何人か、がなっています。プチは、クリスマスがきたことを嬉しく思いながら、わくわくしながらお店を見て歩きます。といっても、小さな街ですから、そんなにたくさんのお店があるというわけじゃありません。雑貨屋さん、手芸屋さん、魚屋さん、お肉屋さん、八百屋さん、お料理屋さん、お菓子屋を兼ねたパン屋さんなどがあるだけです。それから、小さいけれど本屋さんも文房具屋さんも、ちゃんとあります。プチは、あちこちを何度も行ったり来たりして、まだ迷っています(おばあさんへのプレゼントのことですよ)。

「きれいな色の毛糸はどうだろう?おばあさんは、編み物が好きだし……。毛糸玉を何色か。あ、僕は、手玉に取られている?」
「メガネが落ちないための、紐はどうかな?おばあさんは、いつも私の読書用のメガネはどこって言っているし、探す手間も時間もたいへんかも……」
「お魚は?アオが持ってきてくれるから、いらないか。イカはなくてもいいか?」
「お肉は?だしがきいたあたたかいシチューにするとおいしそう……。でもプレゼントだしなあ。うーむ」
 考えは堂々巡りするばかり。
「果物は?りんごとかみかんとか、色とりどりでいいかも。でも、山の鳥たちに取られたらかなわない……。僕は、おばさんにはかなわない」




         


「お菓子もいいかな?ああ、だめ、ケーキがあるしなあ。でも、きれいなキャンディは、長持ちするぞ、おばあさんの長持の中に入れておけばいいかも」
「それとも、本にしようかな?おばあさんは、読書が好きだしな……。でも、小さな字を読むのは嫌だし、と言っていたしなあ。なら、絵とか写真の本は?本を選ぶのは、ほんとにむづかしい」
「あ、厚い表紙のノートもいいかも。おばあさんは、いつも日記をつけたり、スケッチを描いたりしているものね。そしたら、ペンもいる?あ、ニッキの匂いがしてきたぞ。ああ、お腹すいたあ」
 と、まあこんな具合。それまでのテンポの良さもどこへやら、天保の飢饉は1883年から1887年まで3年間も続いた。このままじゃ溶けた雪の上でじゃ行き倒れになるかも。それじゃあ残念。じゃあ、何か食べなくちゃあね。じゃないと、このジャーニーもおしまいになってしまいそう。

「うーん、どうしようかなあ。何がいいのかなあ?」
 プチは、まだ迷っています。どれもよさそうな気がするし、決めかけると今度は何かが足りない気がしてきて、いつまでも決まらないのです。おまけにプチの頭の中は、クリスマスイブの晩ごはんやサンタさんのことも気になって……、もうぐちゃぐちゃ、なんだかわからなくなってしまったようでした。

「困ったぞ、困ったぞう。ゾウさんはいないけど、ほんとに困ったぞう」
 思わず口に出した時、道路の脇に小さな看板が置いてあるのが見えました。近づいてみると「新しいお店ができました。海のそば(でも、蕎麦はありません)」とありました。

 そういえば、新しくお店ができたということを聞いていたのを思い出して、そこへ行ってみることにしました。そのお店は、少しだけはなれたところにあったのです。プチは初めてで、慣れてはいないのですけれど。街の商店街には、空いているところがなかったせいですね。




          


 それは、海沿いの道に面したところにありました。道路に面した方には薄茶色の綿のテントが張ってあって、テーブルと椅子が出してありました。お客は、小さなぬいぐるみのクマがストローでジュースを飲んでいるだけで、ほかには誰もいませんでしたけれど。

「あれ。新しいお店というのは、カフェか何かなのかな?」
プチは、ちょっとがっかりした(コーヒーやお茶を飲むところなら、街中にもありましたからね)。それでもせっかく来たのだからと、ちゃっちゃっとお店の入り口のところまで行ってみることにしました(ミルクなら飲んでもいいかな)。




      

 
 入り口の脇には大きなショウウインドウがあり、そこには色とりどりのセーターやコートなどのすてきな洋服を着たマネキンたちがいて、おばあさんと同じうすい茶のセーターの上に淡いピンクのショールを巻いたものもいました。

「なんて綺麗な色だろう」
「おばあさんに合うかな?いや、きっと似合うよね。うん」
「でも、いったい、いくらくらいするんだろうか?高いのだろうか。きっとクラクラするほど高いに違いない、か」
「買えるかな?やっぱり足りないかな?足りないだろうなあ?やっぱり帰るかなあ」
 プチは、頭の中でずっと、一人で質問して自分で答えることを、何度も何度も繰り返していました。




         


 そんなふうに、どうしようか、迷いに迷ってショウウィンドウの前に立っていたのですが、考えているうちに頭の中はシチューのように煮えている気がしましたし、そのうちに外はすっかり寒くなってきたことに気づきました。まるで、冷蔵庫のよう。雲が広がって(出るときは、雲の影ひとつ無い快晴だったというのに)寒さが増すと、プチは思わず顔をしかめて、苦悶の表情を浮かべます。海の方から、冷たい風が吹いてきたようなのでした。時折、激しく吹き付けることもありました。プチの体は、自然にぶるっと震えたくらい。思わず、涙も溢れたくらい。

「寒くなってきたぞ。さあ、早く決めないといけないぞ」
そう自分に言い聞かせるのですが、なかなか決心がつかないのでした。プチは、値踏みのことも忘れて、足踏みを始めました。でも、効果はあんまりありませんようでしたね。




            
            

 
 するとその時、ドアが開いて、お店の中から女の人が出て来ました。頭に巻いたスカーフから長くて綺麗な髪がのぞいています(まるで、しっぽみたい)。

「ああ、またおこられるのかな」
 プチは、身を固くしました。少し前に、川向こうの大きな街に出かけた時に、お魚屋さんのお兄さんに手ひどく追い払われたことを思い出したのでした。

「ほら、そんなところに立っていないで!」
 女の人が、プチに言いました。
「(ああ、やっぱり)ごめんなさい」
 プチの毛はもうすっかり乾いていましたけれど、まだ毛並みは乱れたままだったので、邪魔にされても仕方がないかと思ったのです(じゃあまあ、これでと、お暇すべきなのか?)。

「いったい、どうしたっていうの?」
 女の人が、今度はやさしく訊きました。
「(あれっ?そういうのはぜんぜん予想していなかった)ちょっと……」
プチは、ばつが悪そうに口ごもります。

「外は寒いでしょう?この時間になると、冷たい風が吹くのよ。しようがないのよ。さ、どうぞ、中へお入りなさいな」
 スカーフを尼僧のように巻いた女の人は、いっぺんにそう言いながら、ドアをはんぶん開けて、招き入れてくれました。マネキンたちも、たぶん。
「ありがとうございます」
 プチはそう言うと、するりとお店の中に入りました。なんといっても、本当に寒かったのです。




            

 
「ああ、あったかい」
 店の中のあたためられた空気に触れて、プチは心の底からほっとして、思わず口にしました(そりゃあ、嬉しいよね。君もこんな経験をしたことがあったかい?)。
それから、ようやく落ち着いて店内のそこかしこを見回すと、中にもいろいろな洋服が飾られていました。素敵な置物はあったけど、お着物はないようでした。
「ああ、なんて綺麗な服なんだろう。いいなあ」

「ようこそ、私の店へ。あなたは、今日のお客の第1号よ」
「えっ。(ところで、イチゴのジュースはあるのかな。好きなんだけれど。クマは何を飲んでいたんだろ?)」




          


 しばらくして、女の人は、温かいミルクの入ったカップを運んできてくました。カップからは、湯気が立ちのぼっています。プチからはすっかり、物憂げな表情が消えました。
「さあ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「寒かったでしょう?いったい、どうしたの?」
「ええ」
「ああ、ごめんなさい。さ、どうぞお飲みなさいな。もしかして、お腹も空いてる?でも、鯨の尾の身はないけどね、あったまるわ。遠慮することはないわ」
「ありがとうございます」
 と言いながら、プチはなかなか口をつけようとしません(少し前に、眠り薬の入った紅茶を飲まされたことがあったことでしたしね)。
「あら、大丈夫よ。ただのミルクだもの。そんなに熱くないはずよ」
「はい(ただだよね?お金の余裕はないはず)」
 プチは、カップにそっと口を近づけて、ミルクを一口飲みました。ねこ舌にも熱すぎないちょうどいい温度でした。
「ああ、おいしい!(石井くんに出会った時は、「お、いしい!」)

「それで、どうして店の前にずっと立っていたの?こんなに寒くなったというのに」
「あのショールが綺麗だなって思って」
「そうね。確かに綺麗だわね。でもね、あなたにはどうかしらね?」
「ええ。(そんなこと言われても、おいらは知らね)」
「そう。わかっていたのね。それならいいわ。わかっていて、よかったわ」
 女の人はそう言うと、次の答えを待っているのか、プチをずっと見つめています。

「おばあさんへのプレゼントをさがしていたんです」
 プチはそう言うと、年をとって、ずっと病気がちでベッドの上にいることの多いおばあさんのことを話しました。おばあさんに素敵なプレゼントを見つけて、元気づけようとしていることも忘れませんでした。それから、山の上の家でずっと二人で暮らしていることも、です。

「そう、ならピッタリね」
「はい。でも(ここは奈良じゃないし、お金もない)……」
「うん?それなら何か気に入らないことがあるの?何も遠慮することはないわ。言っておしまいなさいよ」
「いえ。えーっと、ずいぶん高そうだし……(そうだとしたら、もうおしまいだし)」
 プチは、恐る恐る言いました。

「うーん。たしかに、安くはないわね」
 女の人がまた、こともなげにあっさりといいました。
「そうなんですね。だから、僕に買えるかなあって……」
 はんぶんは自信なさげ、もうはんぶんは投げやりな気持ちで言います。
「ふーん、なるほど。そういうことね」
「いくらくらいするんですか?もし買えるのなら、足りない分は、あとで持ってきます……」
 プチは、思い切って訊きました。
「ふーん。あなたは、いくら持っているの?」
プチは、テーブルの上にお小遣いを貯めて用意したお金を並べてみせました。




       


「あら、まあ大丈夫みたいね」
「えっ?(あらま!)」
 プチは、狐につままれたような気になりました。
「ちょうど、大幅値下げをするところだったのよ」
「ほんとうに」
「きれいな色で好きなんだけれど、大人が巻くのにはちょっと小さかったのね」
「いいんですか?」
「もちろんよ。それに、なんと言っても、クリスマスだもの」
 それを聞いて、プチはびっくりしましたが、すっかり嬉しくなりました。

 女の人は、プチのところにショールを持ってくると、うす紙でくるみ、さらに紙で包んで箱に詰め、赤いリボンをかけて、それを綺麗な袋に入れると、もう一度緑のリボンをかけて持たせてくれました。
「はい、どうぞ。お待たせしたわね」
「ありがとうございます」
「でも、これはとっておきなさい。クリスマスの夜には、とっておきのケーキもあったほうがうれしいでしょ?」
 そう言って、机の上のお金の大部分をプチの方に押しやりました。
「はい、とっても。ありがとうございます(何回目のありがとうでしょうね?)。でも、ほんとうにいいんですか?」
「もちろんだわ。でもね……」
「でも?」
「ひとつだけ条件があるの」
「はい(やっぱりね……)」
 プチは、諦めなければならないのかと思って、顔を曇らせました(お店の外は、元から曇っていましたけど)。
「今度来たときには、ぜひおばあさんが巻いてみたときの感想を聞かせてね」
 女の人は、そう言ったのです。ただ、それだけ。
「ええ、もちろん」
 プチは、ホッとして元気な声で答えました。
「じゃあ、お行きなさい。さあ、早く持って行って、おばあさんを喜ばせてあげてちょうだい」
「はい」
「その前に、わすれずにケーキも買うのよ」
「はーい」
 プチは、すっかり嬉しくなって、景気のいい返事もそこそこに、店を飛び出しました。




       


 それから、おばあさんの待つ山の家へと走り始めました。なんと言って、おばあさんのプレゼントを手に入れることができたのですから。でも、しばらく走り続けているうちに、ケーキのことを思い出し、
「あ、いけない!」
と口に出して、くるりと向きを変えると、今度は一目散にケーキを売っているパン屋さんを目指して走り出しました(おかげで、足はもうぱんぱん)。危機一髪。危うく、ケーキを買うのを忘れるところだったのでした。

「ああ、やれやれ」

 パン屋さんに着きましたが、今宵の月はまだのよう。でも、ショーウインドウの中を見ても、今度は迷いませんでした(ケーキのことですよ)。クリスマス用のケーキは、大きさが違うだけで、形は一緒だったのです。2人分の大きさのものを買うと、今度こそおばあさんの待つ山の家へと全速力で走り始めました。

 と、まもなく、プチは何か軽いものにぶつかり、よろけてしまいました。




         


「また⁉︎」
 プチは、ケーキとショールの入った袋のことを気にしながら起き上がると、痩せこけたおじいさんが、ぜえぜえと息を吐きながら、両手と膝をついていました。おまけにとても寒そうにしていて、震えているのがわかりました。

「だいじょうぶ?」
 プチが心配して声をかけましたが、おじいさんは、
「うーん」
 というだけで、とても辛そうです。
「さむくない?」
「うーっ、寒い」
 おじいさんは、ガタガタ震えていて、止めることができないようでした。それから、ごほんと咳をしました。マフラーの1本も巻いていないのですからね。
「よっぽど寒いんだね?だって、こんなに薄い服じゃあね」
プチは、急いで緑のリボンをほどき、赤のリボンもほどくと、買ったばかりのショールをおじいさんにかけてあげました。
「これでどう?」
「ああ」 
「少しはあたたかくなった?体温も高くなった?」
「ああ」
「ああよかった」



 
         


 それから、プチは、おじいさんを家まで送っていきました。その家も、やっぱり着ていたものと同じくらいにみすぼらしくて、あちこちから隙間風が吹き込んでいました。それで、プチはショールを着せたままにし、ケーキもはんぶんほど分けてあげることにしました(ついでに手についた分と少し。何と言っても、クリスマスなのですから)。

「ありがとう」
 おじいさんはプチの手を握ると、そう言いました。
「いいんです」
「ありがとう。このショールは?いいのかい?」
 おじいいさんは、ショールの方に手をやります。
「いいんですってば。でもね、病気にならないよう、気をつけてね」
「ああ。ありがとう」
 また言いました。ありがとうならミミズはハタチ、蛇は二十五で嫁に行く。だったら、ねこは幾つだろ?僕は嫁には行けない、来てもらわなくっちゃいけないほうだけど。
「じゃあ、行きますね。家で、おばあさんが待っているんです」
 プチが済まなさそうに言うと、おじいさんに
「ああ。早くお行き。ありがとうね」
 とうとうと言われて、とうとう去ることに。
「本当に、気をつけてね」
 もう一度プチが言います。

 またまた、遅れることになってしまったプチ。ショールとケーキのことを思うと、さすがに気が重くなって(荷物は軽くなっていましたが)、しばらくは、とぼとぼとあるくことしかできませんでした(あたりには、「飛び出す鹿に注意」の看板しかありませんでしたが)。

 それでも、おばあさんのことをしかと思い出だすと、早く帰らなければという気持ちが湧いてきました(なんだか、前にも同じようなことがあった気がしますけど)。

 それで、また全速力で走り始めたのでした。ずっと全速力で駆け続けました(プチはこねこでしたが、山で鍛えていますからね)。プチは、寒さに耐えて走ります。こういうことが、このところ絶えることがありませんが。




          


「ただいまあ」
 家に着くと、プチはおばあさんのところへ走り寄りながら、精一杯の大きな声で言いました。
「おかえり。それにしても、お前は懲りない子だねえ」
 おばあさんは、安心したような、呆れたような顔をして言いました。
「ごめんなさい(でも、おばあさんのお顔は、ああきれい」
「本当に困った子だよ。でも、無事に帰ってきてよかったよ。少し遅れたって、かまいやしないさ(もう、釜も使えやしないし)」
「……」
「いったい、どうしたというんだい?」
「ごめんなさい」
 プチはしょんぼり。さっきの元気はどこへやら、やっぱり小さな声であやまるばかりです。
「何があったんだい?」
「うん」
「話してごらんよ」
 おばあさんが、促します。
「うん」
 プチは、生返事をするばかりで、煮えきらない。なかなか言い出すことができません。
「さあ」
「あのね、ケーキがね……、はんぶんになっちゃったんだ」
「なーんだ。そんなこと?なにか悪いことがあったのかと、心配したじゃないか」
 おばあさんは、やっと安心したようでした。
「ごめんなさい」
「そんなことなら、なんでもないよ。遠くまで行ったんだから、お腹もすくってもんさ。お前が食べたいだけ、食べればいいさ」
 おばあさんは、プチが帰り道で我慢できなくなって、食べてしまったと思ったようでした。
「おまけに、プレゼントがないんだよ(今晩の食事どきは前途多難。それもしかたがないけど。カマンベールはあるのかな?)。ごめんなさい」
「それも全然気にしないよ。でも、いったい何があったというんだい?」
 おばあさんは、プチが貯めたお金を持ってプレゼントを買いに行ったことを知っていましたから、心配になったんですね。

 プチは街へ行ってからのことを話しました。お店の女の人がお婆さんへのプレゼント用にうんと安く分けてくれたショールのこと、それを寒そうにして凍えていたおじいさんにあげたこと、ケーキもはんぶん置いてきたことを含めて、ぜんぶ話しました(といっても、森の中で滑って川に落ちてしぶきをあげた上に、あやうく流されそうになったことはしっかり省きましたけれど)。




      


 それはいいことをしたねえ」
 おばあさんは怒るどころか、それより何より、嬉しそうに言ったのでした。
「えっ?」
「お前のその優しい気持ちが、プレゼントがないより、何より嬉しいよ」
 おばあさんはプチを手招きすると、力の限り抱きしめたのでした。
「悲しくないの?プレゼントがなくてもほんとに平気?」
「もちろんさ。いいに決まってる」
 おばあさんはもう一度、プチをせいいっぱいの力で抱きしめました。

「それじゃあ、食事にしないかい?アオが持ってきてくれた飛び切りの魚があるよ。もう切り身になっているよ」
「うん」

 それから二人は、アオのとびきりのお魚をなかよく切り分けて食べたあとは、はんぶんよりも少なくなった上につぶれかけたケーキを食べました(ケーキは、ほとんどをプチが食べたのですけどね)。たっぷりのご馳走というわけにはいかなかったのですが、いつも以上に美味しかったのは、いうまでもありません。

 それからすっかり食べ終わると、今度は二人でクリスマスツリーの飾り付けをしました(もちろん、おばあさんがやり方を教え、指示を出して、相談しながらプチが飾り付けをしたのですが)。プチは、ことしはなんだか特にうれしい気持ちになったようでした。

 飾り付けがすむと、二人はやすむことにしました。
「おやすみなさい」
「ああ、ゆっくりお休み。疲れただろう?あしたはクリスマスだよ」
「うん。ぐっすり寝ます」




         


 翌朝、ぐっすり眠ったプチ(なんといっても、いろいろなことがあって、疲れていたのです)が目を覚ますと、クリスマスツリーが冬のお日さまの光を受けて、キラキラと輝いていました。家の中にもあかるい光が満ちていました。それからプチは、その下に赤と緑のリボンがかけられた箱がふたつあるのを見つけました。




          


 いったい何だろうと思いながら、プチは大急ぎでふたつの箱を抱えると、おばあさんのところへ行きました。

「もう、起きた?」
 プチは、今朝起きた不思議なことを伝えようと、声をかけました。
「おはよう、プチ。よく眠れたかい?」
「はい。おはようございます」
「おや、それは何だい?」
 おばあさんが訊きました。
「うん。起きたらね、ツリーの下にあったんだ」
「何だろうねえ?」
 また、訊きます。
「何だろう?」
 プチもわからずに、言いました。
「プチとプチのおばあさんへ、とあるね」
「ああ、そうだね」
「開けてみるかい?」
「うん」
「開けるかい?」
「うん」
「じゃあ、開けてごらんよ」




          


 プチが、急いで開けると、赤のリボンが結ばれていた方の箱には、あのおじいさんにあげたはずのショールが入っていました(もちろん、ちゃんと洗ってあって、アイロンもかかっているようでした。新品同様。いやもしかしたら新品なのかも)。それに、手紙も入っていました。

「おやまあ、なんて綺麗な色だろう。おまけに暖かそうだねえ」
「羽織ってみてよ」
「えっ?」
「いいから、早く羽織ってみせて」
 プチがせかせます。
「いいのかねえ?」
「早くてっば」
「じゃあ。どうだい、似合っているかい?」
 おばあさんは、嬉しそうです。ほんとうに気に入ったんですね。木にはいっていなくて、紙の箱に入っていたんですけどね。
「うん。とっても、おばあさんに合っているよ」
 プチがそう言うと、
「そうかい。これは、お前が選んだのかい?」
 と、また訊きました。
「うん。そうだよ(運んだのは、運送屋さんかもしれないけど)」
「あったかいねえ。うれしいねえ。買いに行った甲斐があったかい?」
「あったさ」
「ああ。よかったねえ」
 それからおばあさんは、また、
「あったかいねえ。うれしいねえ」
 と、なんども繰り返しました。




            


 もう一つの、緑のリボンがかけられていた方の箱には、素敵な色のニットの帽子が入っていました。プチが、前から欲しかったものでした。こちらにも、手紙が入っていました。

 送り主は、どうやらあのみすぼらしい格好をして、寒さに震えていたおじいさんのようでした。おじいさんは、ほんとうは山のふもとの街の町長で、クリスマスの町の人たちの様子を見るために変装して出かけたのですが、すぐにプチとぶつかってしまったのでした(それにしても、たいそうお芝居上手ですね。プチも体操が上手ですけど)。そして、女の人の手紙も入っていました。プチは、なんとなく町長の娘さんのような気がしました(ただの直感でしたけれど)。

「よかったねえ」
おばあさんが、嬉しそうに言います。
「うん」
「お前が、困っていた人に親切にしたせいだね」
「そうかな?」
 と言いながら、プチも悪い気はしないみたいでした。
「でも、何かをしてもらうために、親切にするんじゃないよ」
 おばあさんは、今度はまっすぐプチの顔を見て、真剣な顔をして言ったのでした。
「うん」
「わかったかい?」
「うん。わかったよ」
 プチが答えます。
「なら、よかった(ずっと昔に行ったことのある、奈良も良かったわ)」
 そう言うと、にっこりして、思い出したように訊きました。
「ねえプチ。ところで、もう一つ箱はなかったかい?」
「えっ、どこに?」
 プチは思わず、訊き返しました。
「もちろん、お前の枕元さ」




         


 プチは、急いで自分の部屋に走り出しました。それからしばらくして、細長い箱を抱えて戻ってきました。




         


「あったよ。起きた時は気づかなかったのは、どうしてだろう?」
 プチは、とっても不思議そう。こんなことは、そうそうあるものじゃない。
「それより…。さ、開けてごらんよ」




          


「あっ、レッグウォーマーだ。ちゃんと4本あるよ」
「ああ、お前がずっと欲しかったものだね?どうだい、気に入ったかい?」
「うん。とっても」
 それは、プチの好みを知り尽くしたサンタさんからの贈り物でした。
「よかったねえ」
「うん!」

 そんなことがあって、プチとおばあさんは、ふたりで暮らすようになってからいちばんのクリスマスを過ごすことができたのでした。

 プチは、洋服屋の女の人と約束した通り、早くおばあさんが喜んでくれたこと、そして不思議なプレゼントが届いたことを伝えなければ、とおもいました。




      


 今日は街のお店はお休みなので(何と言っても、昨日はクリスマス・イブでしたから、どこの店も忙しかったのです)、明日一番で、さっそくあのお店にいくつもりです(今度こそは遅れないようにしよう、と思っているようですね)。それに、ようやく見つけた野の花を摘んで花束にする準備も、もう済ませたようですよ。




おしまい

みなさんに、素敵なプレゼントが届きますように。




読んでくれて、どうもありがとう。
おわりにお願い:ご意見と感想をいただけたならうれしいです。













急募!ダメ出しボランティア






今年も「プチと山高帽の紳士のおはなし」を加筆修正して、昨年はかすりもしなかった「絵本大賞」に応募しようと思います。

 そこで、原稿を読んで、ダメ出しをお願いできる人を探しています。何しろ急に思いついたことなので、時間もないし、そんなに暇のある人もいないとは思いますが、ダメで元々のつもりで募集します。もしやってもいいという方がいたら、上のバナーかここをクリックしてお知らせください。折り返しワード仕様の原稿をお送りします。


内容:以下のようなことをはじめとして、なんでも気づいたことを気軽にお知らせいただければ
   大いに助かります。
   ① このところがわかりにくい。
   ② こういう場面を足す方が良い。
   ③ ここに挿し絵があればいい。
   ④ 挿し絵の描き方。
   ⑤ 誤字脱字等の指摘。
   ⑥ その他、何でも。

期限:10月8日。
   提出期限が、10月10日なので、可能な限り早い方が助かります。


どうぞよろしくお願いします。




日曜特別増刊号 FANTASY 4 プチと山高帽の紳士のおはなし






プチと山高帽の紳士のおはなし




はじめに

 今回のおはなしは、こないだのおはなしの続きからです。もしかしたら、あのあとプチが間に合ったかどうか心配した人があるかもしれませんからね。でも、もうすっかり忘れているかもしれません(何と言っても、人は忘れやすいものですからね)。












 また遅れてしまいそうになって、あせっていたプチに、隣に停めた車の中から声をかける人がおりました。
「もしもし、ずいぶんとお急ぎのようですな?」
 びっくりしたプチは、思わず答えました。
「ええ、はい」
それを聞いて、その人はまた訊いてきます。
「どこまで行かれるのかな?」
「あの山の上の方までなんです」
「じゃあ、私の車に乗って行きませんかな?」
 まだ若そうな見かけとはちがって、ずいぶん古めかしい言い方でしたが、親切にもその人は、そう申し出てくれたのです。
「えっ?」







 プチがおどろいて返事につまっていると、車の中から男の人が出てきました。山高帽をかぶり、手には杖を持ったその人は、きちんとした身なりをしていました。ちょっとばかりぽっちゃりした体つきで、いかにも気さくな紳士のようでした。そして、もう一度やわらかな調子で、こう言ったのです。
「私が、送って差し上げましょう」

 プチも、そのいかにも親切な紳士らしいようすを見て安心したせいで、思わずまた
「いいんですか?」
 と、訊き返したのです。
「ええ。もちろん。それにしても、先ほどの宙返りはお見事でしたなあ!」
 山高帽を被った紳士は、あらためてプチの顔をながめながら、言いました。
「いえいえ、急いでいたので、つまづいてしまったのです」
 プチは、てれながら、こたえました。恥ずかしかったけれど、ちょっとうれしくなったのですね。
「いやあ、見事なものでしたよ」
「そんなことはありませんよ。ふだんなら、つまづいたりしないもの」
 プチは、こんどは少しムキになって言いました。もっとうまくできるもんといいたかったのでしょうか(やっぱり、まだ仔どもっぽいところがあるんですね)。
「ええ、そうでしょうとも。さ、どうぞ、お乗りくださいな」
 山高帽の紳士は、さらにプチの気持ちをよくさせようと、やさしい口調でさそいます。
「ほんとうに?」
 
「もちろんですとも。遠慮はご無用ですぞ。さあ、どうぞ、どうぞ」
 山高帽の紳士人はドアをあけて、促しました。
「それでは、よろしくおねがいします」
 プチは礼儀正しく言うと、すばやく乗り込みました。疲れていましたし、それになんといったっておばあさんをそれ以上待たせたくなかったのです。

「さっ、まいりましょう」
 山高帽の紳士は、そう言うやいなや、車を急発進させました。
「はい」
 プチが返事をするまもなく、車はあっという間にスピードを上げていきます。
「すごいなあ!」
 プチは思わず声に出しました。
「ところで、お住まいはどちらでしたかな?」
「あの山の上の方なんですが……」
「そうでした、そうでした。それじゃあ、いそぐことにいたしましょう」
「あ。でも道は途中までしかないんです……」
「そうですか。それじゃあ、とにかく行けるところまでごいっしょいたしますよ」
「ほんとうに?」
「もちろんですとも」
「お願いします。おくれそうなんです。いや、もうておくれているかも……」
 プチは、小さな声で言いました。
「じゃあ、いきますよ」
 山高帽の紳士はにやりと笑うと、さらにスピードを上げました。許されるスピードギリギリかもしれません。超えてなければいいのですが(誰も見ている人はいないのですが)。
「はい。よろしくお願いします」
「いやあ、ほんとうに見事な見ものでしたな。あれなら何回でも見たくなりますなあ」
 山高帽の紳士は、またプチを褒めて言いました。プチは、すっかりいい気持ちになってきたようでした。褒められて悪い気はしませんものね、とくにプチのようなまだ小さなこどもにとっては。

 まもなく、おばあさんの待っている家の近くまでやってきました。スピードを出して走ってきた車は、キーッという音を立てると、急停車しました。車はここまで。これ以上は進むことができません。

「着きましたぞ。どうやら、ここまででのようですな」
「どうもありがとう」
「いえいえ。どういたしまして」
「おかげでとっても助かりました」
「なんのなんの。気になさることはありませんぞ。困ったときはおたがいさまですからな」
 なんだかずいぶんもったいぶった言い方も、プチは気になんかしませんでした。というより、気がつかなかったという方がいいかもしれません(きっと、ようやく帰ってこれたことに安心したのでしょうね)。
「はい、ほんとうにありがとうございました」
「間に合いそうですかな」
「さあ。それは、どうかな……」
「それじゃ、いそいでお行きなさい」
「ええ。でも、ちゃんとお礼をしなくちゃいけません」
「とんでもない、気になさらないでよろしいよ」
「ありがとうございます」
「また、どこかで会いたいものですな。あの見事な宙返りを見たいものですから」
「ええ。ぜひ」

 いかにも紳士らしい男の人に親切にも助けてもらったプチは、嬉しい気持ちでいっぱいになって、走り出しました。おばあさんお待っているうちはすぐそこです。












 窓から明かりが見えていました。急いでつくと、思い切りドアを開けて、大きな声で叫びました。
「ただいまあ」
「おやおや」
 出てきたのは、アオでした。
「アオ!待っていてくれたんだね」
 プチは、思わず大きな声で言うと、アオのところへ走り寄りました。
「ああ。もちろんさ」
「遅くなってごめんなさい」
「いいさ。それより、おばあさんが待っているよ」
 アオは、プチの肩に手をやりながら、やさしく言いました。
「うん」

「ただいま」
 プチは、大きな声で言うと、おばあさんところへ駆け寄りました。
「おかえり、プチ。無事に帰ってきたんだね。よかった」
「うん、ごめんなさい。もうごはんは食べた?」
 今度は、小さな声で訊きました。
「これからだよ」
「えっ?」
「アオがつくってくれたんだけどね。お前が帰ってくるのをもう少し待とうと思ってさ」
「……」
「どうしたのさ。おかしいねえ」
「ごめんなさい」
 もういちど、プチはおばあさんのほうを見てあやまりました。 

 そこへ、アオがお皿を持って、入ってきました。
「お待たせしました」
「いつもすまないねえ」
「ありがとう」
「どういたしまして。さ、召し上がれ。プチもお腹すいただろう?」
「うん」

 その夜のばんごはんは、いつにもましてのご馳走のように感じました。美味しかったことは、いうまでもありません。

 食べているあいだ中、もちろん、口の中に食べ物が入っている時は別ですけれど、プチは新しい街で見たことや新しい友だちのこと、それから街に戻ってきてから、車で送ってくれた山高帽の紳士のことを話し続けました。

「間に合わないと思って、諦めようとしたり、また走ったりしているときに、ちょうど車が通りかかったんだよ」
「うん」
「僕のそばに止まると、中から山高帽とステッキを持った、とっても素敵な服を着た男の人が降りてきたんだよ」
「そうかい」
「でもね、僕は油断しないようにしなくちゃ、と思ったんだ。悪い人だったら困るからね」
「そうだよ。気をつけなくちゃいけないよ」
「でも、その人はとても礼儀正しくて、優しかったんだ」
「うん」
「僕が何をしているのか聞いて、約束の時間に遅れそうだということを知ると、車で送りましょう、と言ってくれたんだ」
「そうなんだ」
「僕が走っている途中で宙返りしたのも見ていて、とても上手だったと褒めてくれたんだよ」
「ふーん。で、お前は上手だったのかい?」
「うん。くるりと回って、転ばずにふわりと着地したんだ」
 得意げに言ったのでしたが、でも、なぜ宙返りをして見せたのかは、黙っていました(だって、やっぱり恥ずかしかったんですね)。おばあさんも、アオもなぜってたずねることはしませんでした(これは、どうしたことでしょうね?)。
 
 それからも、ずっとプチは話を続けました。おばあさんとアオは、やさしい顔で聞いていました。途中で口にしたことといえば、「そう」、「よかったね」くらいでしたが、最後に、「知らない人について行っちゃダメだよ」と言うことは忘れませんでした(実は、悪いことが起きなかったからいいようなものの、とても心配だったのです)。

「ちゃんとお礼をしてないから、しなくちゃね」
「親切にしてもらった時にはね」
「うん。だから、あの山高帽の男の人にもね」
「うん。でも、それはできないかもしれないね」
「そうかなあ」

 やがて、遅い時間になると、アオも帰って行きました。






 そのあと、しばらくの間は、プチはその親切な山高帽の紳士のことを熱心に話していましたが、日が過ぎるにつれて、いつの間にか、忘れてしまったようでした。毎日の新しい体験や遊びの方が、なんと言っても楽しいですからね。それで、おばあさんも少し安心しました。プチはまだ子どもでしたから、騙されて辛い思いをしないようにと、心配していたのです。

 ある時、プチがおばあさんのところに駆け込んでくるなり、言いました。
「ねえ、ねえ。今日とってもいいものを見たんだよ」
「おやおや、どうしたんだい?」
「あのね、うっ…」
 プチは、勢い込んだせいで、うまく喋ることができませんでした。
「ねえ、プチ。ちゃんと聞くから、ゆっくり話してごらんなさいな」
「うん」

 プチは大きく息を吸い込み、吐き出すと、ゆっくり話し始めました。







「あの男の人がいたんだよ」
「男の人って誰のことだい?」
「ほら、こないだ話したでしょう。おそくなった夜に、僕を送ってくれた山高帽の人」
「ああ。その人がどうしたんだい」
「だから、その人がね、町外れのところにいたんだよ」
「へえ。で、お礼をいうことはできたのかい?」
「いいや」
 プチは残念そうに言いました。
「どうしてさ?」
「また、誰かを車で送って行くところのようだったんだよ」
「へえ」
「声をかけようとしたら、やっぱりすごいスピードで走って行った」
「おや、それは残念だったねえ」
「うん。でも、また会えるかもしれないね?」
「ああ。そうだね」
 おばあさんは、ちょっと心配になりましたが、プチをがっかりさせないように返事をしました。
「やっぱり、とっても親切な人だったんだなあ」
 プチは、すっかりあの山高帽の紳士のとりこになったようでした。

 そのあとでも、同じようなことが何回か続いたので、おばあさんは、心配になって、アオに相談しなくてはと思いました。






「ねえ。明日のお昼にちょっと出かけてきていい?」
 プチが、弾んだ声で、おばあさんに言いました。
「どこへ行くんだい?」
「少し先まで行って見たいんだ。でも大丈夫。夕ごはんの前にはちゃんと帰ってくるよ」
「いいけどね。でも、遅くなっちゃダメだよ」
「うん。今度は遅くならないよ。約束するよ」
「そうかい。ならいいよ」
 おばあさんは、あの山高帽の紳士のことをうっかり忘れてしまっていたのです。
「うん、よかった」

 翌日、お昼ごはんを済ませたプチは、
「行ってきます」
と大きな声で言うと、いそいそと出かけて行きました。
「行っといで。気をつけるんだよ」
「うん」「遅くならないようにね」
「わかっているよ」







 プチが急いで山を降りると、道の所に車が止まっていて、そこにはあの山高帽の紳士が立っていました。

「おじさーん」
 プチは待ちきれずに声をかけました。
「やあ、プチ。よくきたね」
「よろしくおねがいします」
「楽しみにしてもらっていいですぞ」
「はい」
「それでは、行くとしますかな」






 プチは、つい何日か前に、ここで山高帽の紳士、こないだプチが遅れそうになった時に親切にしてくれた男の人と出会ったのでした。







「大きな川はいいですねえ」  
 プチは、こないだ渡った川のことを話していました。
「そうですな。でもね、もっといいものがありますぞ。湖は見たことがありますかな?」
 山高帽の紳士が、尋ねました。
「みずうみ?」
「そう。湖は、もっといいですよ」 
「へえ。どんなところ?」 
「とっても広くて、水がたくさんあってね、でも、海とは違って、しょっぱくはないんです」  
「へえ」 
「わたしの夏用の小屋もありますぞ」
「そうなんだ」
「そうそう。あなたの友だちになれそうな動物たちもおりますぞ」
「へえ!」
 プチは、いよいよ行ってみたい気持ちを抑えることができないようでした。
「興味はありますかな?」 
「うん!はい」
 とうとうプチは、がまんできずに言いました。 
「どうです、行ってみますかな?」
「はい。でも遠いですか?」
 プチは、こないだのことを思い出したのでした。 
「そうですなあ。ちょっとばかり時間がかかるかもしれませんなあ」
「そうですか」
「どうかしましたかな?」
「ちょっと」
「そんなに見たいというわけじゃないんですな?」
 山高帽の紳士は、わざと焦らすように言いました。
「いえ。そうじゃないんです」
 プチは、あわてて答えました。
「どうしました」
「実は、家におばあさんがいて……」
「それじゃあ、アオが来てくれる時にしますかな?」
「はい」
「いや、せっかくですから、ちょっと見るだけでも行ってもいいですぞ」
「はい。でも……」
「だいじょうぶ。お昼ごはんのあとに出かければ、夕ごはんまでには戻れます。わたしがちゃんと、送りますからな」
「はい」
「そうしませんかな?もう、道もわかっていますからな。心配はいりませんぞ」
「ええ」
「あしたのお昼過ぎに、ここであいましょう」
「はい」
 つい、プチはそうこたえのでした。こんなことがあったので、プチはあの紳士と湖を見に出かけることになったのです。




 6

 よく日、プチは連れて行ってもらうことにしました(おばあさんにはないしょでした)。いくつかの街の中を通り抜け、上がったり下がったりする道を過ぎると、やがて広いところに出ました。その向こうには何やらキラキラ光っています。
もう少し進むと、山高帽の紳士は車を止めて、
「さあ、ここからは歩きましょう。湖はもうすぐですぞ」







 どんどん歩くと、やがてあの川よりももっと穏やかで、たくさんの水のある場所につきました。
「どうです?」
「すごい」
「お気に召されたかな?」
「ええ。こんなに静かで、たくさんの水は見たことがありません」
「そうですか。それはよかった。それじゃあ、戻ることにしますかな?」
「えっ。もうですか?」
「ええ。また、くればよろしい。今日は、遅れないように帰ることにいたしましょう」
「はい」
「今度は、私の小屋にもお招きいたしましょう。お友だちもいますぞ」

 プチと山高帽の紳士は、来た道を引き返しました。今度は、まだ陽のある時間までに、山の上に着くことができました。おばあさんに心配をかけることも、ありませんでした。プチは、ほっとしました(あの山高帽の紳士が戻りましょうと言ってくれなかったら、きっと遅くなったのに違いないと思ったのです)。

「ありがとうございました」
「湖はどうでしたかな?」
「とっても楽しかった」
「それは良かった。それじゃあ、日曜のお昼にいつものところでお待ちしておりますぞ」
「はい。ありがとうございます!」
というと、プチはおばあさんの待つ家に向かって、走り出しました。

 家に帰って、おばあさんと夕ごはんを食べている時も、今日のこと、初めて見た湖のことの話しはしませんでした。おばあさんに心配をかけたくなかったのです。いや、ほんとうは、止められたら嫌だなあと思ったせいかもしれませんが。












 それからというもの、プチのウキウキしている様子は誰にもあきらかで、おばあさんも思わず、
「プチや、お前は、いったいどうしたっていうんだい?」
と訊くのですが、その度にプチは、
「えっ?なんのこと?なに言ってんのさ」
と、とぼけるのです。きっと知られたくないのですね。
「へえ、そうなんだね。でもね、私のことは心配することはないよ。好きなところへ行っていいんだよ」
「どこにもいかないよ」
 そう言うのですが、プチの気持ちは半分以上、初めてちょっとだけ見た大きな湖のことでいっぱいでした。プチはそのことを抑えて、おばあさんのことを考えようとしましたが、それはなかなかむづかしいことでした(しっかりしているとはいっても、プチはまだ仔どもの猫でしたからね)。

 プチは、アオが来てくれることになっている日曜日が、待ちどおしくてたまりませんでした。






 やがて、その日がやって来ました。

 アオの姿が見えると、すぐにプチは走り出しました。

「やあ、アオ。こんにちは」
「やあ、プチ。ずいぶん待っていたようだね?」
 アオが尋ねます。
「うん。今日は、ちょっと遠くまで出かけようと思ってさ」
 プチは、急ぎたい気持ちを抑えようとして言ったつもりでしたのですが、……。
「ふーん。でも、こないだのように遅くならないようにね」
 アオは、そんなプチの気持ちがわかって、やさしく諭すように言います。
「うん」
「おばあさんに、あんまりしんぱいをかけないようにしなくちゃね」
 もう一度、念を押します。
「ちゃんと、わかってるよ」
プチも、こんどはアオをしっかり見て、言いました。
「それならいいんだ」
「じゃあね。行って来るよ。おばあさんのことをよろしくね」
「ああ」
 アオがそう言った時には、プチはもう下の方をめざして、一目散に走り出していたのでした。







「やれやれ。どうしたっていうんだろう?」
 アオは不思議に思いながら、おばあさんのところへ急ぎ足で歩いて行きました。アオも、おばあさんとお話しするのが、まちきれないほどに大好きだったのです。






 プチがいつもの場所の近くまできて、下の方を見ると、もうあの山高帽の紳士と車が止まっていました。プチは、全速力で降りて行きました。

「こんにちは。お待たせしました」
「やあ、プチ。ずいぶん早くにお着きになりましたな」
「はい。いそいできたんです」
「ふーん。よほど楽しみにしていたのですかな?」
「ええ」
「それじゃあ、さっそく出発することにしましょう。遅くなるといけませんからな」
「はい、おねがいします」
「さあ、行くとするか」
 男の人は、ニヤリとすると、それまでとは違った口調で言いました。しかし、プチは、そのことには全く気が付きませんでした。

 プチは一度見たことがある景色でしたので、前の時よりも早く進んでいるような感じました。その途中で、山高帽の紳士は、道沿いの大きな駐車場の中に車を入れました。

「食事の材料を買っていくことにいたしましょう」
「え。はい」

 広い駐車場の向こうには、大きなお店があります。おじさんは入り口の近くに車を止めた後、
「ここで、待っていてもらえますかな。買ったら、すぐに戻りますので」
 と言って、山高帽の紳士は店の方に歩いて行きました。窓は少しだけ開いていました。
「ええ。はい」

 プチは退屈になって、少し空いた窓から外を眺めることにしました。見たことのないような大きなお店の駐車場で、あたりを見回していると、窓をたたく音と呼びかける声がしたような気がしたのです。振り向いてみると、新しく友達になったばかりのポチのようでした。







「やあ、プチ!」
「やあ、ポチ!ここで何をしているんだい?」
「ちょっと仲間のところに寄ったのさ。きみこそ、いったいどうしてここに?」
「湖を見に連れて行ってもらうところなのさ」
「へえ。よかったね」
「うん。実は2回目なんだ」
「ふうん。湖はいいよね」
「君は見たことがあるんだね」
「ああ。大きくて、たっぷりの水が静かにしている。いいなあ」
「うん。そうだね」
「じゃあまたね。楽しんでね」
 
 お店から山高帽の紳士が出てきました。
「あ、あのおじさんが来た」
「えっ」
「あの人だよ。黒い帽子をかぶった、ちょっとぽっちゃりした男の人だよ」
 山高帽の紳士が、すぐ近くまでやってきていました。
「あの人かい。君を湖に連れて行ってくれるって人は?」
 ポチは、少し声を小さくして訊きました。
「ああ。とても見た目どおりのいい人だよ」
「そう?じゃあ、またね」
 なぜだかわかりませんが、ポチはそういうと、すぐに駆け出したのでした。
「あれ?どうしたっていうんだろ?」

 走って家に着いたポチは、すぐにこのことを妹のハナとおじいさんに伝え、三人で作戦を練ることにしたのでした。

「お待たせしましたな。たくさん買ってきましたぞ」
 山高帽の紳士はそう言うと、ドアを閉めて、また車を走らせました。
「急ぐとしますかな。遅れるといけませんからな」
「はい」
「とびっきりのお昼ごはんを食べさせますぞ」 
「うれしいな」 
 プチは、お昼ごはんのことを聞いて、ますます楽しみになりました。

 やがて、車は湖のそばに平らなところに着きました。駐車場の脇にはいくつかの倉庫もありました。

「さ、参りましょう」




10

「さあ、着きましたよ。どうぞ、お入りなさい」
 と言って、ドアを開けてくれました。
「はい」
 プチが中に入ると、そこは大きな部屋で、大きなテーブルと台所がひと続きになっていました。
「わあ、ひろいなあ!」
「そうですか?」 
「ええ。はじめてみました」
「そうでしたか?」 

 その時、ドアの向こうから何やら音がした気がしました。
「あれ、なんか聞こえませんでしたか?」 
「ああ、あれね。あれは君のお友だちの声ですな」
「そうですか」
「ちょっと行って、連れてきましょうかな。会ってみたいですかな?」
「ええ。もちろん!」  
「少しだけお待ちなさい」 
 と言うと、ドアを開けて中に入って行きました。それから動物たちのちいさな声と山高帽の紳士が何か言う声が聞こえましたが、何を入っているのかはわかりません。







 しばらくすると、山高帽の紳士がとってもちいさな犬を抱えて、戻ってきました。

「待たせたね。これは、ひなといいますぞ」
「こんにちは、ひな。ぼくはプチ。よろしくね」 
「こんにちは」
 ひなは、体と同じように小さな声で言いました。 
「それじゃ、この子を戻して、食事の準備をすることにしようか」
「はい。何かお手伝いしましょうか?」
「いや。そこに座っていてくれればいいよ」
 なんだか、いつものあのもったいぶったような昔の人のような口調とは違います。


「さあ、どうぞ。お食べなさい」
「はい。あの子は?」 
「あの子たちのことは、気にしないでけっこう」
「そうですか?」
「さ、食べなさい」
 すすめられるままに、プチはお皿に手を伸ばし、口に入れました。
「とってもおいしいです」
「そう……?」
 山高帽の紳士が言う声が遠くなって、プチはなんだか急に眠くなったような気がしました。まもなく、すっかり眠り込んでしまったのでした。




11

 そのころ、ポチたちは途中で仲間たちのところへ寄りながら、プチのいる小屋を目指していました。大きな道路の交差点に集まりました。そして、目の前に大きなトラックが止まった時に、後ろの荷台に飛び移ったのです。

 いっぽう、おばあさんからはなしを聞いたアオもだまってはいませんでした。すぐに街に引き返し、仲間の猫に会うと、すぐにプチが乗った車のゆくへを突き止めるよう、言いました。その中には、あちらこちらの街で悪さをしたあとにアオやプチたちと戦って、やがて改心した猫たちもいました。彼らは、いろいろな街のことを知っていました。

「プチはだいじょうぶかな?」
「ああ。すぐに売られるわけじゃない」
「そうなの?」
「芸を覚えさせたあとに、売るんだ……」

 古くさい口調の山高帽の紳士は、街で見つけたまだ小さくてかわいい動物たちを騙して小屋に連れて行き、芸を仕込んだあとに、売りさばくことを商売としていたのです。少し前に、ポチの仲間がその餌食になりかけたことがあったのでした(そのときは、ポチの機転で助かったのですが)。

 小屋の中では、あの山高帽の紳士がすっかり眠ってしまったプチを抱えて、食堂の隣の部屋に運んだところでした。部屋にはたくさんの檻があって、そのいくつかの中には小さな猫や犬や、ウサギなどが入れられておりました。
 男の人はプチを、檻の中に入れると扉を閉めて、鍵をかけるとまたニヤリと笑いました。

 山高帽の紳士は、ミルクのたっぷり入った紅茶を淹れることにしました。
一仕事終えて、すっかりくつろいだ気分だったのです。
「あの仔ねこは、ほんの少し教えるだけでよさそうだ」
 とつぶやくと、紅茶を一口飲みました。
「うまいなあ。やっぱりうまくいった後の紅茶が一番だ」
 また独り言を言いました。

 とその時、小屋の外が何やら騒がしくなりました。男の人は、水鳥たちが戻ってきたのかと思いました。
「まあ、気にすることはない。うまく行った後だし、少々うるさくたって、かまうことはないさ」
 もう一度、椅子に深々と座りなおすと、紅茶を口いっぱいに含みました。

 そのときのことでした。
 たくさんの犬や猫たちが、いっせいに駆け込んできたのです。おどろいた山高帽の紳士は紅茶を膝の上にこぼしてしまいました。
「あちっ!」
 ズボンに着いたしみはきっと取れないことでしょうね。でも、山高帽の紳士にとっては、履けなくなったって、もう困ることはないかもしれません。
 
 犬たちが一斉に山高帽の紳士に飛びかかり、服を食いちぎり、ついでに耳や鼻もかじりました。手も足も、外に出ているところは全部。山高帽の紳士は(この時はもう山高帽はありませんでしたが)、必死で手足を振り回し、ようやく振りほどくと、それでも噛みついてくる犬たちから逃れようと、急いで外に出ました。犬たちは逃すものかと、追いかけます。山高帽の紳士は、やっとの思いで湖のところまでたどり着くと、飛び込みました。そして、やがて見えなくなりました。

 一方、アオたちは、檻の中からプチやひなたちを出してやりました。プチは助け出された後、喜ぶよりもしょんぼりしているようでした。たぶん、騙されて皆に迷惑をかけたことを、恥じて悔やんでいたのでしょうね。

 そんなプチを見て、アオは声をかけました。
「プチ、見てごらん。湖がキラキラ光っているよ。とってもきれいだね」
「うん」
「こんなに綺麗なら、僕もまた見たいな」
「ごめんなさい」
 プチは自然に口にしました。
「ああ。気をつけなくちゃあね」
 アオは、叱ることもせず、そう言いました。
「うん」
 プチは、心の底からホッとして、にっこりしたのでした。

「こんなに綺麗なら、誰だって見たくなるさ」
「そう?」
「そうだよ」
「怒っていない?」
「ああ」
「僕が騙されて、心配をかけるようなことをしたのに?」
「はじめは腹を立てたさ。おばあさんもとても心配してたからね」
「うん。ごめんなさい」
「ああ。でも、僕だって騙されたかも、と思いなおしたんだ」
「そう?」
「そうさ」

 プチは思わず飛び上がって、アオに抱きついたのでした。アオも、しっかりと受け止めて、抱きしめました。

 一方、アオたちは、檻の中からプチやひなたちを出してやりました。
 それから、プチやポチ、青とその仲間たちは湖のそばで、しばらく過ごしました。

 やがて、トラックがやってくるたびに、来た時と同じように、荷台に乗り移って、それぞれの住む街へ帰って行きました。







 プチも、もちろんおばあさんの待つ家に帰りました。そして、おばあさんといっしょに、アオが置いていてくれた夕ごはんを食べながら、得意げに話したのでした。もちろん、檻の中に入れられたことはしっかり省きましたけど(これは、おばあさんに余計な心配をかけたくないということもあるでしょうけど、きっとそれよりも、失敗を知られたくないせいでしょうね)。

 ところで、あのちいさな仔犬のひなは、おじいさんのところで、ポチとハナといっしょに暮らすようになったそうです。






ひとまず、おしまい。

読んでくれて、どうもありがとう。




おわりにお願い:ご意見と感想をいただけたなら助かります。参考にして完成させたいと思います。よろしくお願いします。



日曜特別増刊号 FANTASY 3 仔ねこのプチのもうひとつの冒険のおはなし 第5回






 はなれていくまちは、たくさんのいろとりどりのあかりがともっていて、
プチは、そのけしきをあらためてとてもきれいだとおもいました(それに、なんといっても、あたらしいともだちもできたことですし)。

 それでも、あんまりすみたいという気にはならないようでした。




 

 
 やがて、ふねがプチのすむまちにちかづいてくると、
あかりのかずこそすくなかったのですが、
やっぱり、きれいだなあ、とかんしんしたのでした。
 
 ふねがつくと、まだしっかりとまらないうちに、
プチはぜんそくりょくでかけおりて、
りくちをめがけてとびだしました。

 さらに走っていると、やがてひもほとんどしずんで、
あたりくらくなり、
ほとんどたかさもかたちもちがわないたてものがシルエットになり、
まどにはすこしずつあかりがともりはじめました。

 なんてきれいなんだろう。

 しばらく見つめながら、
プチはちょっとこわいような気もちになりました。

 プチがふだんくらす山のなかとはあまりにもちがって、
まるでべつのせかいにまぎれこんだかのような気がしたのでした。

 プチは、よるのまちをよくみたことがなかったのです。




 


 あ、いけない。
 プチは、またいそいではしりだしました。

 すっかりくらくなってしまうまえに、もどらなくちゃ。
 おばあさんの夕ごはんのときまでには、つかなくっちゃ。

 やくそくしたんだもの。
 こんどこそはまもるんだ。

 だけど、あたりはますますくらくなり、
おまけに、ちょっと風もでてきたようでした。

「ああ、またか。まにあわないかもしれないな……。
ゆっくりしすぎちゃったのかな」

「さあ、いそいでかえろう」




 


 プチは、山のほうをめざして、
まどのあかりも少なくなってくらいなかを、
また、いちもくさんにはしりはじめました。

「はやくもどらなくっちゃ」

 さいわい、車も、人どおりもないので、
だれともぶつからずにすすみます。

 それからすぐのことでした。




 

 
「あっ」

 プチは、またまたちゅうにまったのです。
きょうはなんと3どめでした。

 どうやら、ほどうのじめんからかおをだした、
木のねっこにつまづいたようでした。

 でも、こんどはくるりとからだをまるめてかいてんすると、
ひらりとちゃくちしました。

「ああ、またか」
 プチはため息をつくと、こんどこそまにあわないかもしれない……、
とあきらめかけたのでしたが。







 それから、顔をなんどかよこにふると、
プチは、またいちもくさんにはしりはじめました。

 プチはしらないまちで、
しゅっぱつのまえにおばあさんがしんぱいしていたように、
やっぱり、
はじめてみるものにむちゅうになりすぎてしまったのかもしれませんね。

 さあ、プチが、なんとかまにあうことができればいいのですけれど。







 おしまい(このあとのことは、またいつか)





日曜特別増刊号 FANTASY 3 仔ねこのプチのもうひとつの冒険のおはなし 第4回



 いたいなあ、いったいどうしたことだろう。

 とおもってあたりを見まわすと、
すこしはなれたところに、おなじようによこたわっているものが、
見えました。




 


 おそるおそるちかづいてみると、仔いぬのようでした。
おなじくらいのとしのようです。
 さらにのぞきこむと、仔いぬはゆっくりと顔を上げ、
「うーっ」とほえました。

「だいじょうぶ?」
 と、プチがききます。

「うん。ああ」
 仔いぬがちいさな声でこたえました。

「ほんとうに?
「うん。まあ。なんともないよ」
 そういって、仔いぬはバツがわるそうに、ちいさくニッコリしました。
「そうかい。よかった」
 プチはいうと、またききました。
「どうして、そんなにいそいでいたんだい?」
「港に、おじいさんをむかえに行くところさ」
「へえ。あ、僕もいそがなくちゃいけない」




 


 と、ギーッという音が聞こえました。
はね橋が上がり始めたのでした。おおきな船がとおるようです。
あわててプチと仔犬は走りだしました。
 
「きみは、どうしてさ。なぜ急ぐんだい?」
 こんどは、仔いぬがききます。
「おばあさんが待っているんだ」
「へえ。港でかい?」
「いいや。川の向こうさ」
「じゃあ港まで急ごう。船が着くから、それに乗っていけばいいよ」
「うん。じゃあ、急ごう」

  ならんではしっていた仔ねこのプチと仔いぬは、さらにスピードを上げました。

 ようやく港へ着くと、ちょうど船が着いたところでした。
「ああよかった。まにあった」
「うん。よかったね」







 と、仔いぬが、きゅうにはしりだしました。
海のほうをみると、おじいさんがゆっくりおりてきたのでした。
ヒゲをはやした、
おおきくて立派なおじいさんでした。
足取りもしっかりしているようでした。
 
 プチははしってかれらのほうにちかづくと、
「よかったね。じゃあ、またあおう」

 と、いうと身をひるがえして、ふねにはしりこみました。

 ぶじにふねにのりこんだプチが、
はなれかけていたきしのほうを見ると、
仔いぬとおじいさんが手をふっているのがみえました。

 プチもまけずに手をふり、おおきなこえで、
「またねぇっ」
 とさけびました。

 そこに、もう一ぴきの仔いぬがはしってきていました。


 




 そして、とおくからおんなの子のこえで
「ありがとう」
 というこえが聞こえたような気がしました。
首に赤いリボンをまいた、もう1ぴきの仔いぬのこえのようでした。


 


 プチもおもいきり両手をふって、
もういちど、せいいっぱいおおきなこえで、
「またねぇっ」
 とさけびました。




続きます。





日曜特別増刊号 FANTASY 3 仔ねこのプチのもうひとつの冒険のおはなし 第3回






 




 でも、だいじょうぶ。
 仔ねこはまるでコップの中のミルクのように体がやわらかくて、
ぶつかってもへいきなのでした。

 ちいさな船は、プチにとって親しみのある匂いがしました。
 そう、魚のにおいです。プチがおちたさきの船はちいさなつり船だったのです。

 ああ、よかった。
 プチは、ふーっとおおきなためいきをはきだしました。

 むこうがわに目をやると
見しらぬ街の景色が目にとびこんできました。
 いままで見たことのないような、高くて、しかくなたてものが
たちならんでました。

 ああ、あの街に行ってみたい。
 でも、どうやって……。









 


 でも、すこしずつ街が近づいてきたようでした。
 あれ⁉︎やがて船は、さん橋に着きました。どうやら、つり船の
はっちゃく所についたようでした。

 プチはおもいきっりとびおりると、いちもくさんにはしりだしました。

 街にはたくさんのたてものがあり、その中にはお店があり、
道路には、テントやら屋台やらが出ていたり、
楽器をひきながらうたっている人がいたりして、
大勢の人で賑わっていました。







 プチは、はじめて見るけしきに、すっかり見いっていました。

「たのしいなあ。はじめて見るものばかりだ」

 と、だれかがぶつかって、あやまることもせずに
とおりすぎていきました。

 やれやれとおもっていたら、こんどはおみせのなかからでてきた人から、

「しっ、あっちへいきな。そんなとこにいられたら、じゃまなんだよ」


 




 


 しかたなく、とぼとぼとあるきはじめると、
なにやら赤いものが目に入ったのです。すてきにきれいな色です。
首にまくリボンのようでした。

 しめた。

 これをじぶんがまいたらにあうかな。いやおばあさんのほうがよろこぶかも。 
 もってかえってやろう。おばあさんはどうおもうだろうな。
ちょっとワクワクしました。

 するとなんだか、声がきこえたような気がしたのです。
「プチ、ねえ、プチ」

 おばあさんの声のようでした。そしておもったのです。

「ああ、いけない。ごめんなさい」 










「こまっている子がいるかもしれないね。さがさなくっちゃ」

 さっそく、あるきはじめました。すこしいったところで、
とおくのほうに目をやると、むこうのほうからとぼとぼと、
あたりをみわたしながら、ゆっくりと歩いてくる仔いぬがみえました。

 もしかしたら、そうおもったプチははしりだしました。

「なにかさがしているの?」
「ええ」
「おとしたのかい」
「赤いリボンがないの」


 プチと仔犬





「あっ」
 プチは、いそいでつつみのなかから赤いリボンをとりだしました。
「きみがさがしているのは、これ?」
「ええ。どうしてそれを?」
「とちゅうでひろったんだ」
「かえしてくれる?だいじなものなの」
「もちろんさ。どうしたのさ」 
「おじいさんにもらったの。だからとてもだいじなの」
「そうなんだ。はいどうぞ」
「ありがとう」


 


 いつのまにか、あたりはもうくらくなりかけていました。
 おっといけない。またおそくなってしまう。
プチはあせりはじめました。

「じゃあね」
「はい。ありがとうございました」

 仔いぬのこえはきこえたのですが、その時はもういそいで
はしりはじめていたのです。


 




 そして橋のうえにたつと、
うえからながめるゆうぐれどきのおおきなどうろは、
赤、黄、白のあかりがとぶようにながれさって、とてもきれいでした。
そのむこうのそらも、茜いろにそまっています。

 プチはおもわずたちどまって、じっとながめていました。
なんといってもはじて見るけしきだったのです。


 




「なんだかなあ」

 みながいそいでいて、ゆっくりすることがなく、やさしいきもちを
わすれているような気がしたのです。

 プチは、だんだんじぶんの街がこいしくなってきました。

 さあ、はやくかえろうとおもって、はしりはじめました。







 すると、まもなく、プチは、またちゅうにまったのです。





続きます。





日曜特別増刊号 FANTASY 3 仔ねこのプチのもうひとつの冒険のおはなし 第2回


2










 やくそくどおりアオが、いつものようにつつみをかかえて
プチのところにやってきました。

「やあ、まってたかい」
「うん、いつもありがとう」
「よし、じゃあ、おばあさんのところにいこう」
「うん」
「ところで、こんどはどこへいくつもりなんだい?」
「となりの街だよ。こないだとははんたいがわのとってもおおきな橋の
むこうの街のほうさ」
「へえ」







 さっそくおばあさんのところにいって、いいました
「おばあさん、じゃあいってくるよ」
「ああ、たのしんでおいで。でも、気をつけるんだよ」
「えっ?」
「あら、こないだのことはわすれたのかい」
「あ、そうだった。気をつけるよ」
「じゃあ、いっといで。うんとたのしんでおいで」

 おばあさんはプチが出かけることができるようになって、
うれしいのです。こうしたことができるようにと、
ときどきアオがそばにいてくれるようになったことを、
ほんとうにありがたくおもっています。

 アオも、おばあさんとおしゃべりをするのが、
たのしみになっています。
 いろいろなはなしをきくのがゆかいだし、
ほんとうのかぞくのような気がしているのです。







「おべんとうはもったかい?」
「うん」
「じゃあ、いっといで。楽しんでくるといいよ」
「ありがとう」
「でも、くらくなる前に帰ってくるんだよ」
 アオが念をおすようにいいました。
「ああ。わかっているよ」
 プチもへんじをしました。
 ほんとうにわかっていれば、いいのですけれど。
プチは、おもしろいものを見つけると、むちゅうになって、
時間のことを忘れてしまうことがあるのです。

 え、きみもそうなの?
 でも、気をつけてくださいね。




「いってきます」
 まえを向いたままいうと、プチは早あしで歩きはじめました。頭のなかは、
これからはじまる冒険のことでいっぱいなのだね。













 よくはれたあおい空には太陽がまだのぼりはじめたばかりで、
葉っぱのあいだをぬけてくるひかりにてらされた小川の水が、
キラキラと光っている。岩もうすい金いろにかがやいている。







「なんてきれいなんだろう」
 ずっと見てきたはずだなのに、いままで、いそぎすぎて、
わからなかったことに気づいて、息をとめるようにして
見入ったのでした。

 見なれた森を抜け、街をぬけてさらにすすむと、
プチはおおきな川のところに出ました。すこし向こうには
おおきな橋もあります。
 プチは、いままでこんなにおおきな川を見たことがありませんでした。
よし、むこうまでいってみよう。




 りっぱでおおきな橋のところまで来ると、
川がもっとよく見えるようになりました。
ときどき人をのせたおおきな船や小舟がのんびりとゆきかいます。







「ああ!」

 プチはすっかりかんしんして、見いりました。もっと見ようとおもって、歩道をすすんで、さらに欄干にとびのって顔を出しました。
 とその時、走り去る人がぶつかってきたのでした。どうしてだか、
その人は、プチの町にはめずらしくいそいでいたようなのです。

 たまらずプチは、あっというまに欄干のそとにほうりだされたのでした。みるみるうちに、水面が近づき、おおきな船のうしろ姿が見えました。

「わあっ!」







 そのあとすぐに、ドンと何かにぶつかる音がして、衝撃を感じたプチはおもわずそっと後ろを振り返ったのでしたが……。




続きます。





月曜特別増刊号 FANTASY 3 仔ねこのプチのもうひとつの冒険のおはなし 第1回






仔ねこのプチのもうひとつの冒険のおはなし






きみは、仔ねこは好き?



 
 
「うん。好きだよ」
といってくれたならうれしいのですが。

じつはね、また仔ねこのプチのおはなしをしようとおもっているのです。








仔ねこのプチは、ときどきひとりで、
すこしとおくのほうまで出かけるようになりました。


でも、いっしょにくらすおばあさんがいるので、
いつもっていうわけじゃありません。

年のはなれたおにいさんのようなアオが、
おばあさんといっしょにいてくれるときだけです。





これまでとちがった場所にいけば、
いままでみたこともしたこともないことに出あいます。


いつもというわけじゃありません。
だから、よけいにプチはたのしみにしています。


きょうが、その日。

もうそろそろ、アオがやってくるころです。









続きます。





日曜特別増刊号 FANTASY 3の予告と、少しだけ



予告の前に、少しだけ。

手仕事(と言うほどのことはしませんが)は、まあ好きなほうだと思う。メモは頻繁につくるし、いったん書いた文章に手を入れる*ことは苦にならないどころか、始終やっている。というのは、何もマメな性格ということじゃなくて(確かに、ヒマではありますが)、そうしないとできない。文章であれなんであれ、2桁の数字2つだけのごく簡単な計算だって、目に見えるようにしないと何もできないのです。他にも、スタンプを使って手帳を自作したり、ブログのための写真の加工(ごく簡単なものですけど)も、厭じゃない。


 
 
だから、しばらく前からまた取り組むようになった小さな物語につける絵も、いちおう自分で描く。と言っても、それは簡単な線画で、ラフにさっと仕上げる文字通りの素描。正確に細かいところまで描いたものではない。と言うか、ていねいに描こうとしても描けないのだ(上手か下手かということについては、いうまでもなく論外のこと)。

細かな作業に取り組んで、これを続けることが苦手。要するに、ていねいな手仕事、辛抱を必要とすることができない(ちょっと致命的なような気がするけれど**、できないものは仕方がない)。まあ、やれる範囲でやるしかない。年取ったら、完璧をめざすよりも、まずは実践や完成が大事なことになるようなのです(何しろ、若い人と違って、時間がありません)。

話の大筋は比較的早くできた(何と言っても短い)。出来ばえについては、あんまり気にしないようにしようと思います。でも、やっぱり根気のいる長いものは、なかなか……。そして、いざ絵を描こうとすると、ていねいに……と思ってはみるものの、先にも書いたように、どうしてもささっと走り描きしたような、極めて大雑把なものになってしまうのだ。このままでは、また、完成しないまま放置することになりかねない。




先日の夕日通信に届いたお便りの中には、プチとアオが一目でわかるとよいともあったのですが、なるほどと思い、おおいに惹かれるものの、残念ながら手に余ります(うーむ)。

そんなことで、いよいよ、明日、6月26日(月曜)から連載開始です。

しかし、箴言めいたことを書くのは柄じゃないし、まして独自性のあるものというのはとても無理。おまけに、ハラハラ、ドキドキするような大きな事件も起きない。さて、これで、読み進めてもらうことができるものかどうか(ちょっと不安。で、予防線を。ま、ボケ防止のためが第1ですが……)。

こんなことを書きつけていたら、ちょっと恥ずかしくなった。いい歳をして、一人ではしゃいでいるような気がしてきた(でも、ご覧の通り、結局は掲載しました)。なんと言っても、あるものは使うというのがモットーなのだから。端材だって、何かに使えないかと思うし、取っておいたりするのです(結局は、これが元凶かも)。

* この場合、削ることよりも付け加えることが多くなる傾向にあるので、いじくりまわして、余計なことを書き加えるだけのことも少なからずありそうです(自戒)。
** ただ、住宅の計画には案外いいかも。人の生活や嗜好は変わるから、あんまりきっちり作り込み過ぎてしまうと、家に従わなければならなくなる。強度等安全性に関わる事柄は別にして、計画は基本を押さえたなら、あとは少し抜けているくらいの方がいい気がします。





日曜特別増刊号 FANTASY 2 こねこのプチのちいさな冒険 一挙掲載





 
 
 こねこのプチのちいさな冒険




 



 きみには好きなどうぶつはいるのかな。





「いるよ」
 といってくれたならいいのだけれど。なんといっても好きなどうぶつがい
るっていうのはうれしいし、まい日がたのしくなりますね。

 でも、きみはなにがいちばん好きなのでしょうね。

 うさぎでしょうか。いぬでしょうか。それとも、おにわにやってくる
とり?ことりを見たら追いかけずにはいられない、こねこはどうでしょう?
好きだったらいいのだけれど。もしそうじゃなかったら、このおはなしを
読んで好きになってくれるとうれしいのですが。





 





 こねこの名まえは、プチ。茶色と白のまじった色の、すばしこいねこ
す。おばあさんと山のほうでくらしています。

 このためずっと、とおくへ行ったことはありませんでした。なんといっ
ても、年をとるにつれてからだが、だんだんよわってきたおばあんのお
せわをしなければならなかったのですから。

 でも、あるときに知りあったアオというともだちがいます。こちらはす
こし青みがかったような灰色の毛なみがとてもうつくしいねこです。アオ
は、プチにとっては年のはなれたおにいさんのようなものでもあります。
プチと同じまちですが、海べにすんでいます。

 ある朝のこと、いつものようにアオがプチのところにやってきました。
なにやらつつみをかかえています。きっとおさかなでしょうね。アオはこ
うやって、プチとおばあさんとこころにおさかなをとどけてくれるのです。
少しまえのことですが、プチとアオはわるさをするねこたちにたいし、い
っしょにちからをあわせてたちむかったことがあってなかよしになったの
です。




「いつもありがとう」
「いいんだよ。ぼくたちのところでは、さかながたくさんとれるからね」
「うん」

「ところで、プチ。きみはこのまちを出て、とおくへ行ったことはあるか
い?」
「いいや。ないよ」
「行ってみたいとおもったことはないかい?」
「もちろんあるよ!」
「行ってみたくないかい?」
「うん。でもね」
 こうこたえたプチは、ちょっとさびしそうでした。
「おばあさんのお世話のことだね?」
「ぼくがいなくちゃいけないんだよ」
「うん。つらくはないのかい?」
「ぼくは、おばあさんのことが大好きなんだ」
「でも、だいじょうぶ。きょうはぼくが、おばあさんのそばについて
よ」
「ほんとうに?」
 プチは、うれしそうでしたが、まだ信じられないようです。
「ああ」
「いいの?」
 アオを見あげて、ききました。

「じゃあ、おばあさんのところに行って、はなしをしよう」
「うん」






 さっそくおばあさんのところに行ってはなしをすると、おばあさんもと
てもよろこんで、
「ぜひ、行ってらっしゃいな。でも気をつけるんだよ」
といったのでした。おばあさんも、まだちいさいのにじぶんのせわをして
くれるプチのことが、ずっと気がかりだったのです。

「ぼくがいなくてもだいじょうぶ?」
「だいじょうぶさ。アオもいてくれるといってくれているしね」

 それで、プチはさっそく出かけることにしたのでした。もちろん、アオ
がよういしてきてくれたおさかなを、おべんとうに持っていくのもわすれ
ませんでした。ちゃんとつつんで、首にかけました。

「どこに行ってもいいけど、となりまちの海のどうくつだけはダメだよ」
 アオがねんをおすようにいいました。
「えっ、どうしてさ?」
 海のどうくつときいて、いっそうきょうみを持ったプチはいそいできき
かえました。
「おおきなどうくつのなかには、おおきなおおきなさかながいるんだ。
くたちでも、とてもかなわない。おぼれさせられたなかまもいるんだよ」
「ああ、わかったよ」
「くれぐれも気をつけるんだよ」
「うん、気をつけるよ」
 プチはそういいながら、もうこころはとおくへ行っていたようでした。
「じゃあ、たのしんでおいで」




 歩きはじめたプチは、はじめは木々、ついで街なかをとおりぬけ、そして
海べを行きすぎます。これらはプチにとっても見なれたけしきでした。

 さらにすすむとしだいにちがったけしきが、目のまえにあらわれだしま
した。プチははしって浜べにおりて、どんどんすすんでいきました。

 すると、おおきな波やちゅうくらいの波、そしてちいさな波がおしよ
てきます。おおきな波がきたときに、プチはずぶぬれになってしまいまし
た。

 なんて気持ちがいいんだろう。プチはとちゅうで見かけたちいさなさか
なをつついたりしました。おどろいたさかなはあわててにげだします。プ
も追いかけます。こうしてますますたのしくなったプチは、じかんのた
のもすっかりわすれたようでした。アオのいっていたことも!




 いっぽう、アオとおばあさんはすっかりうちとけて、たくさんはなしを
しました。プチのことについてもいっぱいはなしをしました。

 プチがおかあさんとおとうさんをなくしたときのはなしもききました。
それで、アオはいままで知らなかったプチのことがだんだんわかってきた
のでしたが、このはなしはまたいつかすることにしましょう。




 プチがどんどんすすむと、やがてぽっかりと大きく口をあけたどうくつ
のようなものが見えてきました。穴のしたはひかりをはんしゃして青くひ
かっています。

 プチは、ちかくでまた小ざかながはねるのを見て、おもわずとびこむと、
こんどはつかまえることができた。プチはあたらしいけいけんがたのしく
てたまらず、すっかり熱中するようになりました。そうしているうちに、
どうくつのほうにどんどん近づいて行きました。




 そのとき、すこしさきのほうでなにかがキラリとひかったようでした。
 と、おもったら、なにかが飛びはね、おおきなおとがして、あたりにし
ぶきが上がり、ぜんしんに水をかぶってびしょぬれになったプチはもう、
なにも見えなくなったのです。




 プチがようやく目をあけることのできたときには、おおきなさかながこ
ちらへむかってくるのが見えました。あわててにげるプチ。あっとおもっ
たら、きゅうに足がとどかないことに気づいた。いそぐあまり、浜べのほ
うではなくて、海のほうにすすんでしまったようでした。おまけにとおあ
さの浜べがきゅうにふかくなっていたのです。




 おおきなさかなは、ぎょろりと目をひらいて、ながい舌を出してプチを
つかまえようとします。プチはもがきながら、ひっしで手足をうごかしま
した。そのときに、しっぽのほうがぬるりとした気がしました。うしろを
らりと見ると、おおきなさかなのかおがせまっています。長くてあかい
たでペロリとなめられたようでした。さらに、なにか首がグイッとひっ
られた気がしました。




 それでも、プチはこんどこそひっしで浜べのほうにむかってにげだして、
すな浜にあいたおおきな穴にとびこんだ。




 ああこわかった。たすかった。プチは、フーッとおおきな息をはきだ
て、あんしんしたのでした。それもつかのま、下のほうからなにかにさわ
られたような気がしたのです。




 おおきなハサミのようでした。プチがはじめて見る生きものでした。
ニですね。

 プチは、またまたおおいそぎでにげだしました。そのときに、背中がか
るくなっているような気がしたのですけれど、気にしてなどいられません。

 ようやくしずかなばしょにたどりついたプチは、きゅうにおなかがへっ
ていることに気づきました。アオがよういしてくれたおべんとうのことを
おもい出して、ホッとして首に手をやったのでした。

 あれっ。ない。




 なんかいも手をまわしてたしかめたのですが、やっぱりありません。

 ああ、あのおおきなさかなに追いかけられたときにとられたんだ。ちか
づかなければよかった。でも、こうかいしても、もとにはもどりやしませ
ん。




 しかたなく、プチはトボトボあるきはじめました。そのとき、すぐそば
でおおきななにかがはねるおとがした。おどろいて、そちらのほうを見る
と、またあのおおきなさかながはねていました。にっこりとわらったよう
した。もしかしたら、ただあそびたかっただけだったのかもしれません
ね。

 それでも、プチは、またまたおおいそぎではしって、にげだしました。




 それからどのくらいたったのか。はしりつづけたプチは、もうはしれな
いとかんねんして立ちどまってしまいました。

 すると、うすぐらいなかで目こらすと、みなれた海べのすがたが見えた
のでした。そして、アオのなかまたちもいた。どうやら、プチをさがしに
きてくれたようでした。

 すっかりあんしんしたプチは、きゅうに気がぬけてしまい、ばったり
たおれてしまいました。気をうしなってしまったのです。

 やがてプチが目をさますと、そこは山のなかのおばさんとくらすうち
した。アオのなかまたちがはこんできてくれたのです。そこにはもちろん、
アオもいました。




 アオがやさしく声をかけました。
「やあ」
 プチは下をむいて、ちいさな声でこたえます。
「おかえり」
「ごめんなさい」
「なあに?」
「いいつけを守らなくて、ごめんなさい」
「まあ、しかたがないさ。はじめて見たら、だれだってこうふんするもの
だよ」
「ごめんなさい」
 もういちど、あやまりました。
「あたたかなミルクでものんだらおちつくよ」
「うん」

 アオがはこんできてくれたミルクをのむと、プチはあたたかなベッドに
もぐりこんで、すぐに目をとじてねむってしまったのでした。

 それを見とどけたアオは、なかまたちとおばあさんのところに行って、
いっしょにおさかなをたべたのでした。

 それからどのくらいたったのでしょうか。




もういちど目をさましたプチは、それを少しはなれたところのおふとんの
なかからながめながら、すっかりあんしんして、こんどこそはふかいねむ
りについたのでした。




 おしまい






読んでくれて、どうもありがとう。
感想やお便り等をこちらから。ご遠慮なくぜひどうぞ。



お願い
 
今回は、5才程度の子供も読めるようにしようと思って、つくりました。
と言いながら、5才の子供の実態はまったくわからないのです。
なにより、自分で書いたものが果たして他の人にとって面白いものになっているのか、そうではないのか、さっぱり見当がつきません。
ひらがなと漢字の使い分けなんかも同様です(今回はふりがなは省いてあります)。
そこで、大急ぎで掲載して、皆さんの感想やご意見を待つことにしました。どんなことでもいいので、感想をお知らせいただければ助かります。

ぜひ、よろしくお願いします。




FANTASY 1 海のそばの猫、山にすむ猫 8



12


 
 
 ある穏やかに晴れた日の午後に、またアオがやってきました。朝早くにお魚を届けてくれたばかりだったので、今日はもう2回やってきたことになります。

「やあ、どう…」
 と挨拶をしようとするまもなく、アオが、
「ちょっとこまったことになりました」

 ちょっとどころかほんとうに困ったようにいったのです。だいたい、アオはいままで弱音を吐くことはありませんでした。だから、ほんとうににっちもさっちもいかない気がしていたのでしょうね。いつもはピンとしている長いしっぽもだらんとしているようです。それで、いそいで聞きました。
「どうしたのさ?なにがあった?」
「ぼくたちがつかまえた猫たちのことをおぼえているでしょう?」
「ああ、もちろん。わすれたりはしないさ」
 といったあと、なにか悪いことが起こったのかと思って、すぐに続けて聞いたのです。
「あの猫たちがどうしたって?」
「そろそろ外に出してくれないか、というのです」
 とアオが答えた。
「で、どうしたのさ」
「実は、意見が分かれているのです」
「そうなんだ、それは困ったことになったね。ところで、きみはどう思っているの?」
「ぼくは、正直にいうと、出してあげたいのです」
「ふーん。どうして?」
「時々おりをのぞいてみるのですが、あの猫たちもほんとうはなかよくしたいと思っているようなのです」
「ふーん。きみはそれを信じるのかい?」
 そういいながら、アオの寛容さに感心しました(ぼくは、そうすることがいいことがわかっていても、そんなに寛大になれない時があるのです)
「ええ、まあ。でも、反対する猫たちは、出せばまた悪さをするに決まっているというのです」
「うーむ。それもむりもないかもしれないな。だって、あれだけ悪さをしたのだからね?」
「そうですね。だからぼくも、反対する気持ちもわからないわけじゃないんです。実際のところどうなるのかは、やってみなければ、わからないですからね」
 そういって、アオは顔をゆがめた。いつもはキラキラと光っている目もくもっているようでした。そして、意を決したようにいったのです。
「ねえ。一体どうすればいいと思いますか?」
 アオが、ぼくに意見を求めることはあんまりなかったから、正直にいうなら、ちょっとおどろいた。
「でも、きみが信じていることを、もう一度ていねいに、反対派のみなさんたちに説明したらどうだろう?」
「そうですね。そうするしかなさそうですね?」
 アオはそういったあと、
「ありがとう。それではまた」
 と大きな声でいうと、いつもよりも素早い足取りで帰って行きました。







13


 そのつぎの朝、ぼくはいつも以上に早起きをして、アオが魚を持ってきてくれるのを待ちました。

「やあ、おはよう」
「きのうはありがとうございました。おかげでたいへん助かりました」
 といったあとに、こう訊いたのでした(だって、こうしてぼくが待ちかまえていることはいっとう最初の時だけで、ほかにはなかったのですから)。
「でも、今日はどうかしたんですか?」
「今日は天気もいいことだし、あんまり寒くもないから、たまにはいっしょに山の方へ行くのもいいかなという気がしたのさ」
「ああ、なるほどね。それはいいですね」
「プチもいっしょに朝ごはんを食べたら楽しいだろうな、と思ったんだよ」
「そうですね。それはいい。ぜひそうしましょう」
「ありがとう。でもきみは仕事はだいじょうぶなのかい?」
「だいじょうぶ。ぼくがしばらくのいなくたって、もう困ることはありませんよ。みんなしっかりしていますもの」
 そういって見上げた瞳は元のように輝いていました。どうやら、きのうの話がうまくいきはじめているようでした。
「そうだね。じゃあ、いっしょに行ってもらうことにしよう」
 それから、うちの中に入ってもう用意してあったおべんとうを三つとってきました(実は、ぼくは、アオがなんといおうとも、ぜひいっしょに行ってもらうつもりだったのです)。









 それから、ふたりならんで歩きはじめたのです。もうすでにいったとおり、天気はよかったし、とおり道のそばのあちらこちらに咲いている花や草もとてもきれいだったのです。野の花や草はあんまりほめられることはないし、はなやかでもおおきくもないけれど、よく見るととてもきれいですから、みなさんもこんど歩くときは、ぜひよく見るようにするといいと思います。そうやって歩いているうちに、山のふもとまでやってきました。
 そこでぼくは、
「プチがあらわれたら、自然にふるまうよう、くれぐれもおねがいするよ」
 と念を押しました。
「ええ、もちろん。でもどうしてそんなことをいうのですか?」
 それで、ぼくはこのところのプチの行動について教えました。
「ふーん。でも、かわいいですね。しっかりしているように見えても、やっぱりまだ子どもらしいところがのこっているんですね」
「そうなんだ。だから、よろしくね」
「ええ。もちろん」
 そして、こう続けていったのです。
「プチはぼくにとっても、年のはなれた弟みたいなものですからね」
 それを聞いて、ぼくはすっかり安心したのでした。

 そうしていると、すこし先の枝がちょっと揺れたような気がしました。ほら、やっぱりね。
「あれ?今日はどうしたのですか?」
 ぼくたちを見たプチが訊きました。
「やあ。あんまり天気がよかったからね。ところで、きみこそどうしたんだい?」
「おばあさんの朝ごはんをすませたあとに、まだ早いからちょっとお散歩に出たんだよ」
「ふーん。ところで、きみはもう朝ごはんはすんだのかい?」
「いいえ。実をいうと、おばあさんの朝ごはんは早いのですが、ぼくはまだなんだ」
 よくわかります。年をとると、朝がとても早くなるのです(その分、夜も早くなります。ん、逆でしょうか)。
「じゃあ、いっしょに食べるかい?」
「ええ、もちろん。でも、どうしよう?三人ぶんの朝ごはんなんてどこにもないよ」
「だいじょうぶ。ここにおべんとうが3つあるし、アオがいつものように用意してくれた魚もあるさ」







 それからぼくたちは、川べりの陽だまりを見つけるとそこにすわって、おべんとうをひろげたのです。
 すると、プチが大きな声をあげた。で、僕も思わず聞きました。
「どうしたのさ?」
「これはなんですか?とってもきれいだ」
 そこには焼いた鮭やら卵焼きやらブロッコリやらがいろどりよくならんでいたのですが、プチはいままでおべんとうを見たことがなかったのだね。
「これはおべんとうといってね、外に出かけるときに持っていくんだよ」
 といって、作り方についても教えました。
 それからしばらくのあいだ、おべんとうを食べながら話をしましたが、楽しかったな。アオとぼくのおべんとうばこはすっかりからになっていたのですが、プチのおべんとうばこはそうではありませんでした。まだたくさん残っていました。
「もうおなかいっぱいになったのかい?」
「ええ。ぼくはもうおなかいっぱいだし、おばあさんにもね、食べさせてあげたいなと思って」
「ああ。そうするといいね。またおなかがすいたら、アオのお魚を食べるといいよ」
「ええ。ありがとう」
 そういうと、プチはおべんとうばこをかかえて走って行きました。たぶん、プチは自分だけのためじゃなく、おばあさんのためにうけとって、ほとんどを食べないでのこしたのだね。

 しょうじきにいえば、ほんとうは、あのおりの中に閉じ込められていた猫たちがその後どうなったか訊きたかったのだけれど、おべんとうの時間が楽しくて、そのことをすっかりわすれていたのです。いったい、どうなったのでしょうね。








 さて、皆さんは、どう思うのでしょう。





 (おしまい)


FANTASY 1 海のそばの猫、山にすむ猫 7



10

  
 ぼくはあいかわらず山へ散歩に出かける毎日です。アオは約束どおり魚を持ってきてくれるけれど、会うことはあんまりありません(残念ですが、きっといろいろと忙しいのにちがいないのです。新しい猫たちとのつきあいも増えたことだしね)。それでも、ぼくたちは時々、窓辺で話をします。




 こないだは、音楽のはなしをしたな。でもまずは、天気のはなしからです。
「今日は、いい天気だねえ」
「ええ。朝もやをとおり抜けてきた太陽)の光はかくべつでしたよ。ちょっと幻想的だったな」
「そうだね。ぼくも早起きしたよ」
 だいたい、年を取ると遅くまで寝ていることがむづかしいのです。もう、残された時間がすくないせいでしょうか。

 さて、その日の音楽のはなしのことですが、猫たちはぼくたちのようにレコードやCD、インターネットで聴いたりする習慣はないようです。それには理由があるのですが、みなさんはなんだと思いますか。アオは、ぼくたちと同じ音楽も聴くようになったようでしたが、それでも大きな音で聴いたり、イヤフォンで聴くことはぜったいにないそうです。

「ところで、昨日は何か聴いた?」
「ええ。バッハのゴールドベルクを」
「それはまた、どうして?」
「朝が早いので、よく眠れるようにと思ったんです」
「なるほどね。ぼくは、シューベルトを聴いたよ。他にはどんなものを聴くの?」
「やっぱりバッハ、モーツァルトかな」
「どうして?」
「聴くがわの気持ちをじゃましないところでしょうか」
「やっぱりね」
「でも、私たちの暮らしている場所のまわりにある自然の音、海の音や雨の音、風の音なんかがいちばんかな」
 それはぼくたちがわすれかけているとてもだいじなことのような気がするのですが、みなさんはなんの音、どんな音楽が好きなのでしょうね。
 しばらくそんな話をした後に、アオが突然いいだしました。
「私たちのところへはなかなか招待できずに、ごめんなさい」
「どうもありがとう。きみたちが暇になったらね」
 ぼくは一刻も早くもう一度訪れたくてたまりませんでしたけれど、アオたちが忙しくしているのを知っていたから、そういったのですが……。






11


 いっぽうその代わりに、プチとは時々川辺の陽だまりでおしゃべりをします。ぼくがいつものように川べりをとおると、ぐうぜんあったようにして、あいさつをしてくるようになったのです(たぶん、てれくさいのと、ほんとうはさびしがりやだということを知られたくないのだね)。

「やあ」
 ぼくもたまたま見かけたのでというように、声をかけるのです。
「こんにちは」
 プチも、そっけなく答えます。
「元気かい?」
「うん。いつもありがとう」
 近頃は、こんなふうに礼をいうようになったのです。
「会議はどうだい?たいへんじゃないのかい?」
「まあ、うまくいっているよ」
「それはよかった」
「アオがうまくやってくれているからね」
「そうなんだ」
「ああ。それに知らないことを、いろいろと教えてくれるんだ」
 プチがそういった時、ぼくはすっかり安心したのでした。プチは小さいながらも、山の猫の代表(こんどは正真正銘の)として忙しいようなのだけれど、なんといっても若(わか)いし、まだ子どものようなところもあるのです。そんな年頃で、おおきな責任を負わされるのはたいへんなことなのですからね。実は、ちょっと心配していたのです。
「ふーん。アオとなかよくなったんだね」
「うん。そうだよ」
 この時のプチはほんとうに子どもらしかったな。アオのことをすっかり気に入ったようすで、尊敬できる、すこし年のはなれたお兄さんができたように思ってよろこんでいるようなのです。
「これからも、いろいろと教わることができたらいいね」
「うん」
 こんなに素直なプチを見たのははじめてのことでしたが、きっとずっと肩にのしかかっていた責任をわかちあうことができて、緊張が解けたのだね。




 そんなふうにして、プチとぼくはすこしずつ仲良くなっていった。ぼくには子どもがいませんから、プチが友だちというよりも子どもみたいな気がしてくることがあります。ほんとうなら孫というところなのかもしれませんが、子どもをとばして孫というわけにはいきません。プチの方もおとうさんとおかあさんが早くになくなったために、おばあさんに育てられたようなので、そんなふうに感じたのかもしれません。

 それから、川面をスクリーンにして映画を見たりしました。プチは冒険ものやファンタジーがすきですね。あの『トムとジェリー』も気に入っているみたいです(猫はたいていネズミにやられるのにね、なぜでしょうね)。それで、しばらく見ないと、
「ねえ。あれ見ない?」
 といってさいそくしてくるのです。やっぱり、何といってもプチはまだ子どもの猫なのだね。
「あれってなにさ?」
 ぼくは気づかないふりをして、聞き返します。すると、
「あれだよ。わからないの?」
 とむきになっていうのです。この時のプチはあきれたなあというような顔をしながらも、ちょっと得意げなのです。そういう時のプチをみなさんにも見せてあげたいと思うのですが、彼らと会うのにはちょっとしたコツがいるし、今はなにかとあたらしいことがおおくてけっこういそがしそうですからね。もうしばらくのあいだ想像しながら、待っておいてくださいね。とにかくも、こういうときにはぼくは、
「わからないな」
 といって、焦らすのです。ちょっとばかりいじわるのようですけれど。こうすると、プチが子どもらしくなるのですから、やめるわけにはいきません(でも正直にいっておくと、残念なのですが、時々ほんとうの意地悪になることがあるのです。みなさんはどうですか)。そうやってすこしばかり焦らしたあとに、
「そうだ、あれ見ようか」
ときくのです。するとプチも、
「えっ?あれってなんのこと?」 
と負けずにいうのです。
こんなふうに質問したりされたりをしばらく続けるのですが、たいていはプチの方が根負けして、きっというのです。
「ねえ、『トムとジェリー』を見ようよ」
「うん、そうしよう」
 この時はもう、あっというまに決まります。こうなるともう、プチは気どっていたりすることはできません(なんといったって、子どもなのですから)。たまにはこうしなければ、あたまがパンクしてしまうのに違いないのです。


 (続きます)


FANTASY 1 海のそばの猫、山にすむ猫 6



08

  
町がうるさくなったのは、それからしばらくしてからのことでした。どうやら町の外から猫の一団がやってきたらしいのです。以前に見たプチを取り囲んでいた猫たちは、そのなかまだったようでした。そうして、もとからいたあのアオのいる集団との争いが始まったというわけです。この戦いはすぐに決着がつきました。外からの猫の一団は力自慢で戦いにあけくれていたようでした。一方、アオたちは、戦うことになれていなかったし、争うことが得意じゃなかったのです。このため、アオたちはあっというまに追いやられてしまったのでした。

 それでも、アオを中心とした猫の一団はあの海があるので、食べるものには困ることはありませんでしたけれど、ただ町の中をのんびり歩いたり、塀の上の陽を浴びながら寝そべることができなくなってしまったのです。わがもの顔でそこら中を歩き回る新顔の猫たちを見て、町の人たちもはじめは顔をしかめて見るだけでした。しかし外来の集団は次第に、平気で庭の中に入ってきたり、時には住まいの中まで侵入して食べ物を持っていくようになったのです。

さらに悪いことには、これに乗じて、ほかの猫もやってきたのです。おまけに、たとえ追い払ったとしても、彼らはすぐに戻ってきてしまうのです。これには町の人たちもほとほと困りはててしまいました。どうしたら、町を荒しまわる猫たちがいなくなって静かになり、もとのおだやかな生活が取り戻せるのだろうか……。
 いい案が浮かばないまま、ぼくはいつものように散歩に出かけて、お魚を届けた後、山道を下って帰るときに、小川のそばの石に腰かけて「どうすれば、いいのかなあ」とつぶやいたのでした(あの時は、ほんとうに、なすすべがなかったのです)。

 それから何日かたったある日、どうしたことなのか、プチとその仲間の猫たちがあらわれて、新参(しんざん)の猫軍と戦うことになったのです。数は少なかったけれど、なんといっても山でくらしている猫たちですから、変幻自在に動くことができるのです。



 09




 こうして、町の中は、色とりどりの毛並みの猫たちが入り乱れて戦う戦場となりました。やがてそのうちに、すこしずつ様子が変わってきたようでした。新参の猫たちは散りじりになって戦っているようでした。
というのも、山の猫たちの戦いぶりは、こちらと思えばまたあちらから仕掛けるというぐあいで、外からきた猫たちはやがてつかれてしまい、どこに向かっていけばいいかわからなくなり、一匹ずつがバラバラに行動するようになってしまうのです。ただ、それでも多勢に無勢なので、なかなか決着はつきません。

 そのうちに、アオたちの一団もうわさを聞きつけて、町の中にふたたび出てきました(だいたい彼らは、おだやかに暮らすことを好み、戦うことをしたくなかったのです)。そして、アオとプチの仲間が協力して戦うことになりました。そレからは、形勢は一挙に動きました。プチたちが外からの猫たちを追い回して、一匹ずつバラバラにしたところを、アオとプチの連合軍が取り囲んでつかまえてしまったのです。

こうして、外からの猫たちは全員がとらえられてしまいました。この猫たちをどうするのか、町の人たちも興味津津で見ていました。中には、「一匹のこらず袋に詰めて、海の中に放り込んでしまえ」という人もいました。実際、猫たちの中にも同じ考えを持つものもいたようでした(プチの仲間の猫はその代表でした)。そうしないと、また同じことが起きると考えたせいでした。みなさんはどうですか。

このため、外からの侵入してきた猫たちは、まだがんじょうなおりの中に閉じ込められたままです。

ともあれ、こうして町はもとの静かな姿に戻ったのでした。



 (続きます)


FANTASY 1 海のそばの猫、山にすむ猫 5



06



  
ある時、近所からすこし足をのばして歩いていると、近くで猫の高い声やうなり声が聞こえました。何匹かが争っているようでした。何かと思い、それで音のする方に歩いていくと、すっかりのびた草の向こうで見なれない3匹ほどの茶色の猫がブチの猫を取り囲んで、大声で威嚇していました。ブチの猫も、負けじと低い唸り声をあげながらなんとか睨み返しているようでした。

「やあ。きみたち、一体どうしたんだい?」。
3匹の猫は散歩でこんなふうにすこし遠くまで来た時に、たまに見かけたような気がしたのですが。一方のブチの方は、どうやらこないだ代表して来たとうそをついた、あの仔猫のようでした。よく見ると、ブチの方はいたる所の毛が抜けており、しっぽの先はかじられたようになっていました。
 おどろいたぼくは、あわてて
「もしもし、どうかしましたか?」
 ともう一度、声をかけました。
「知らない人は、だまっててくれないか」
「そうだ、そうだ」
「だまってればいいんだ」
 3匹の猫は、口々におおきな声でいいました。
「でもね、そうもいかないようなんだ」
 ぼくは、引き下がらずに、いいました。
「どうしてなのさ、わからないな」
「そのちいさな猫は、知りあいなんだ」
「知りあいといわれてもね、こいつを許すわけにはいかないね」 
「なにか悪いことでもしたのかい」
「したもなにもない。こいつはおいらたちの食べものをぬすんだのさ」
「それはいけないね」
「ああ、そうさ」
「でも、ここはぼくに免じてゆるしてくれないか。食べものの分(ぶん)は弁償するから」
 そういったら、3匹の猫はようやくブチの猫を解放してくれました。

「どうして助けたりしたんだ?」
 ブチの猫は、吐き捨てるようにいいました。
「だって、いじめられているところを見たら、だまっているわけにはいかないさ」
「ふん。よけいなことを」
「だって、あのままじゃ、きみはコテンパンにのされていたかもしれないよ」
「ひとりでも、大丈夫だったさ」
「そうなのかい?」
「ああ。そうさ」
 ブチの猫はあくまでいいはります。これじゃ堂々巡りだと思ったぼくは、
「そりゃ、悪かったね」
 といったあとで、訊いたのです。
「ねえ、きみはあの時、どうして代表だといったんだい?」
「あんたには関係ないことだろう?」
「そうでもないよ。ぼくだって町の住民のひとりなんだからね」
 それからはしばらくのあいだ、沈黙が続きました。それでも、ぼくはがまんして、じっと待ちました。
「そうでもいわなきゃ、いうことを聞いてくれないからさ」
「どういうこと?」
「食べるものがなかったんだよ。もういいだろう?」
 そういうと、ブチの猫は振り返ることなく、尻尾を立てて一目散に走り去って行きました。



 
07





 あるとき、また例の青みがかった灰色の美しい猫がやってきました(そうそう、呼びやすいように名前をつけることにしましょう。アオではどうでしょう。ついでに、ちいさな猫はプチ)。そこで、ためしにきいてみることにしたのですが、アオのはなしによると、山のほうはちいさな川しかないため、もともと魚がすくなかったのに、嵐のためにもっと取れなくなった。山の方でくらす猫は少なかったようですが、その中には年おいたおばあさんの猫もいるそうだということでした。それで、がてんがいきました。

「ねえ、お願いがあるのだけれど」
 ぼくはいいました。
「ええ。なんでしょう?」
「すこし魚をわけてもらえないだろうか」
「えっ。また足りなくなったのですか」
「そうじゃないんだ」
「じゃあ、なんのために?」
「あのブチの猫のことだよ。プチと名前をつけた」
「ああ」
「ところできみの名前はなんていうんだい?アオと呼ばせてもらおうと思ったのだけれど」
「いいひびきですね。気に入りました。いいですよ。で、どうしたのですか」
 これもあとでわかったことですが、どうやら猫たちの間では人間のような名前がないらしいのです。
「ブチの仔猫、つまりプチってことだけれど、は、おばあさんを助けるために嘘をついたと思うんだ。たぶん、わるい子じゃないと思う」
「だから?」
「うん。だから、たすけてやりたい。それで、きみたちの力をかしてほしいのさ」
ぼくはそういい、そのための条件(じょうけん)を話し合った。アオはお礼なんか気にしなくていいですよといったのだけれど、甘えるばかりというわけにはいかないので、魚一匹につきクリームたっぷりのスコーン一つということで折りあうことができました(どうでもいいことかもしれませんが、スコーンにしたのは、その色からして、アオがスコットランドと関係ありそうだという気がしたからなのです)。

それからは、毎日アオたちがとどけてくれたお魚をあのプチのいる山まで持っていくことになったのです。すこし遠くなったのですが、あたらしい散歩コースにしたので、ぜんぜん苦にはなりませんでした。だって天気のいい日に、うつくしい木々のあいだを歩いていると、木もれ日や野の草や花を見るのもたのしかったのです。ただ、雨の日はちょっといやだったな。ぬれてつめたくなるし、ベタベタとまとわりついたりもする。ずぶぬれになったぼくを見かねたのか、ある時アオが、雨の日は私たちが届けましょうといってくれたのです(ぼくは、すなおにあまえることにしました)。

届けるときには、プチに気(け)どられないように、すこし川下の方におくようにしました(猫たちにはそれぞれにプライドがあって、ぼくのように甘えるのがむづかしいようなのです。プチもまだうんと若いけれど、すでにちゃんと誇りを持っているようです)。



 (続きます)


FANTASY 1 海のそばの猫、山にすむ猫 4



05



 
 
 そんなことがあってからしばらくたって、ようやく町が落ち着きを取り戻した午後に、ぼんやりと窓の外を眺めていると、一匹の猫がやってくるのが見えました。

「こんにちは。誰かいませんか」
 と、おおきな声で呼ぶのがきこえました。
 すると、近所の誰かが出てきて、いいました。
「やあ、猫さん。こんにちは。こないだはありがとう。おかげで、みなおおだすかりでしたよ」
 で、ぼくも窓をあけて顔を出したのです。えっ、ヒトのことばを話せる猫がいたのか(だって、僕はこないだは猫語で話したばかりだったのですから)。すると、見た覚(おぼ)えのない小さなからだのブチの猫がいました。
「どういたしまして。それはよかった。お役に立てて何よりでした」
 とブチの猫はにこやかにいって、それから顔を曇らせて、ちょっといいにくいのですがと前置きして、こう続けたのでした。
「今日は代表してきたのですが、こないだはわたしたちも、ちょっとした損害があったのですよ」
「それはたいへんでしたね。でも、あんなにおおしけだったのですからね」
「それで、こんどはすこしばかり助けてもらいたいのです。まことににもうしわけないのですが、2日に1度は魚を届けてもらえればありがたいのですがね」
と伝えたのでした(たぶん、魚をつかまえるのは得意なはずだけれど、なまけものの猫なのかもしれませんね)。
 近所の人はちょっとおどろいた様子で、すこしだまってから、こういいました。
「わかりました。みなさんと相談してから、すぐにお返事します」
「また近いうちにおうかがいしますから、その時に返事をお聞きします」
そして、さらに続けて、
「そうしてもらわないと、今度またおおしけが続いても、
助(たす)けることができないかもしれませんよ」
 と、おだやかに脅したのでした。

 町の人たちはすぐにあつまって相談した(当然、ぼくも参加しましたよ)のですが、そうなってはこまるから(何といっても、すでにいちど経験したばかりだったのですから)、いやもおうもなかったのです。このため、しぶしぶながらも、
「それでけっこうです」
 と答えたのでした。

 また、ふたたび、例の壁を通り抜けた猫がやってきたのは、それからまもなくしてからのことでした。あんまりたくさんのことは話してくれませんでしたが、じつは、ブチの猫は代表者でもなんでもなかったということがわかりました(それを伝えるときは、ちょっとさびしそうでした)。
 さらにその後、何匹かの猫が悪だくみをしたといううわさが聞こえてきましたが、さてどうしたのか、なにがあったのでしょうね。

 (続きます)


FANTASY 1 海のそばの猫、山にすむ猫 3



04



 
 それからしばらくたったころに、このあたりでおおきな災害が起きたのです。町には暴風雨が吹き荒れ、道路には水があふれて、何本かの木も倒れてしまいました。僕は、外が荒れていても、家の中から外を眺めているかぎりは、守られている気がしてうれしい気分になります。しかし、今度ばかりは、そうも言っていられません。海もおおしけがつづきました。だから当然ですが、魚はとれません。近頃は、こうした異常気象がひんぱんに起きるようになってしまっているのです。

 そうした日がしばらく続き、近所の人たちが、力がつくたべもの、とりわけおいしいお魚がこいしくなったころに、ぼくもつい…、
「お魚が食べたいな」とつぶやいたのです。
 でもね、とうぜんむりな願いなのです。だって、おおしけがまだずっと続いていたのですから。

 翌日、眠いまま起き出して、新聞を取りに外に出ると(こんな天気でも、ちゃんと新聞をとどけてくれる人がいるのですね。会ったこともないし、これからもないかもしれませんが、ほんとうにありがたいです)、そこに何か見なれないものがおいてあった。
「なんだろう?」
 ふしぎに思って、よそのうちはどうだろうと思って眺めてみると、同じようなものがどこのうちの前にもあるようでした。
「へんだな。おかしなことがあるものだな」




ちょっといぶかりながら、もう一度よくみてみると、にもつの上に手紙らしきものが載っていました。おもてには、「みなさんへ」と「猫たちより」の文字が見えました。それで、おもいきってさっそくあけてみると、それはこないだの猫さんたちからのものでした。そこには、こんなことが書いてありました。


  みなさんへ

  おはようございます。
  いかがおすごしですか。海があれてたいへんですね。 
  私たちは、全然気にしませんが。
  ということで、すこしですが、おすそ分けです。
  どうぞお召し上がりくださいね。
  いつもやさしいみなさんへの心ばかりのものです。


  きんじょの猫より


 海のそばの猫たちからの贈り物だったのです。そういえば、町の中でもゆっくりと歩いていたり、塀の上でからだをのばしている猫をときどき見かけていたことを思い出しました。きっと近所の人たちは、かわいがっていたにちがいない。みな、猫のことが好きだったのですね。

 それで、近所のみなが久しぶりのお魚にありつけたというわけ。当然ですが、とってもおいしかったな。おかげで、全員が元気をとりもどすことができたのです。

 ところで、きみたちはお魚は好きですか(もし食べず嫌いだとしたら、もったいない)。あの猫たちのことはどうでしょうね。

 ぼくは、またあの入り口の向こうで会いたいものだと願っていますが、まあきっと、そのうちに会えるでしょう。また会ったら、そのときのことをおしらせすることにしましょう。

 でもどうやって、猫たちは魚をつかまえたのだろう、と疑問に思った人もいるかもしれませんね。気になって眠れなくなる人がいたらいけないので、そういう人たちのためにそっとお知らせしておきましょう。あとで知ったのですが、彼らの目の前の海は、私たちの海とは違って、いつもないでいるようだし、おまけにあの猫のみなさんたちはみながすばらしい漁の技術の持ち主だということでした。

 (続きます)


FANTASY 1 海のそばの猫、山にすむ猫 2





 03






 
 ようやく落ち着いて、よく見ると、他にも何匹かの毛色や尻尾の長さが違った、それぞれに美しい猫たちがいました。

「ねえ、みなさんはどうやってここを見つけたの?」
 なんといったって気になりすることなんてできません。で、少々無作法だとは思いましたが、思い切って訊いたのでした。
「ん、そんなにむづかしくないでしょ?」
 そばにいた猫が、あたりまえのようにいいます。
「えっ?」
 ぼくは、そういうものかと思って、それ以上たずねることはしませんでした。ぼくたちだって、あんまりあたりまえすぎることをあらためて訊かれると、こたえられないことがあります(まあ、いばれることではないのですが)。

 それで、あらためてまわりを眺めたのでしたが、ほかの猫たちは、お行儀よくテーブルについておしゃべりをしながら、お魚を食べていたのでした。みんながくつろいでいるようでした。ここはいつでもお魚がつかまえられる、秘密の場所なのかもしれません。

 そう思いあたったぼくは、またまた驚きました。こんな場所で、しかもテーブルで食事をしているなんて!。おどろいたままぼんやりと眺めていたら、今度は一匹の輝くような黒い色をした猫がやってきて、
「あなたもおひとついかが?」
といってくれたのでした。
「ありがとう。でも、遠慮しておくことにします」
 ぼくはていねいに断りました(ほんとうは、とてもおなかがすいていたのですが)。
「えっ。どうして?」
 黒い猫はわけがわからないという感じで、たずねたのでした。
「だって、みなさんたちの食べるものをとったら、わるいでしょう?」
「そんなことないですよ。心配しなくても大丈夫」
「でも…、やっぱりねえ」
「ほら、見てごらんなさい。何が見えますか?」
「ああ、海ですね。きれいですねえ」
「そうでしょう。だから、いつでもつかまえられるのですよ」
「あ、なるほどね…」
 ぼくはそういうものかと感心して、うなづきました。
「もしかして、なまのお魚が苦手なの?」
「ええ、まあ…。食べられなくはないですけれど…」
猫さんたちには内緒にしていたのだけれど、白状すれば、なまのお魚は苦手なのです。
「なーんだ、やっぱりね。大丈夫、それなら焼くことだってできますよ。お望みなら、煮ることだって」
「へえ?」
「ほら、よく見てくださいな。七輪があるでしょう?」
 七輪の中では、炭がまっかに燃えていたのです。やっぱり猫さんたちは魚が大好物だけあって、いちばんおいしい食べ方を知っているのだね。
「あ、ほんとうですね。でも、やっぱりねえ…」
 ちょっと、いや相当に心惹かれたのですが、ぼくが食べると猫さんたちの何倍も食べそうな気がしたのです(この時は、自分が小さくなっていたことをすっかり忘れていたのです)。
「心配しないで。どうぞ、遠慮なく召しあがってくださいな」




 というわけで、ぼくはお皿の上にきれいに盛りつけられたお魚をごちそうになったのでした。

「ああ、おいしかった。どうもごちそうさまでした」
「それはよかった」
「すっかり遅くまでおじゃましてしまいました」
 ぼくは、そろそろ帰らなくちゃと思い、いいました。楽しくおしゃべりをしながら食べていたら、いつのまにかずいぶん時間がたっていたようなのです。
「いえいえ、どういたしまして。また来てくださいな」

 それから、ぼくはとんでもなく大事なことに気づいたのでした。
「どうやって帰ったらいいのだろう?」
道はおぼえていないし、だいいち壁には扉もついてなかったぞ。それに、自分が猫さんたちと同じくらいに小さくなってしまっていたことを思い出したのです。
これはまずいことになったぞ。どうしよう。無事に町に戻れるだろうか。うんと時間がかかるんじゃないか。だいいち戻れたって、こんなに小さい体じゃ、町の人だって気づかないかもしれない。そうなったらどうしようなどとと思ったりして、不安になったのです。
 すると、最初のあの青みがかった灰色の猫がやってきて、またまた声をかけてくれたのでした。
「だいじょうぶ、ちゃんと出口まで案内しますよ。体も元どおりになりますから、心配しないで」
 猫たちは、人の気持ちもわかるようでした。きっと相手のことをよおく見ていて、思いやるのでしょうね。

 それで、穴のところのところまで案内してもらい、ぼくはぶじにもとの場所に戻ることができた、というわけなのでした。
そして、一緒に坂道の入り口のところまで来ると、体もすっかり元の大きさに戻っていることに気づいたのです(この時ばかりは、ほんとうにほっとしたな)。
「どうもありがとう。すっかりお世話になりました。今度はぼくが、ごちそうしなくちゃいけません」
「いえいえ、どうぞご心配なく」
「さようなら」
「ごきげんよう。それでは、また」
 そういうと、きれいな色の猫ははじめのときのように、すばやくきびすを返して帰っていったのですが、やっぱりあっというまに見えなくなってしまいました。

 それで、ぼくはときどき家の裏にそっとミルクの入ったびん(だって、魚はいくらでもありそうでしたから)をおいておくのですが、いつのまにかなくなって、ちゃんと洗われてきれいになった、からのびんが戻っているのです。きっと、あの猫さんたちが飲んでくれているのだね。そのたびにぼくは、あの坂道の向こうでのことを思い出しながら、うれしい気持ちになるのです。

 (続きます)


FANTASY 1 海のそばの猫、山にすむ猫 1



海のそばの猫、山にすむ猫




 01






 しばらくのあいだ、あたりがなにかとうるさかった時が、あったのです。






 「そうですね」という人もいるかもしれないけれど、たぶんぼくがいうのとはちょっと違うような気がします。だって、ぼくがいうのは猫たちの争う声なのですから。なにしろ朝も昼もないのです。みんなが寝静まるような夜だって止むことがなかったのです。どうやら町に集まった大小の集団が入り乱れての戦いが勃発していたようだったのです。海の猫軍団、山の猫軍団、外からの猫軍団にその他の猫軍など。ちょっと迷惑。町の人はみな、ほとほと困っていたのです。今までは、こんなことはなかったのに。

 ところで、みなさんは散歩はしますか。ぼくはこのところ、カメラを持ってよく散歩をします。気になるものを目にするとすぐに写真を撮ります。最近は、草花がお気に入り。ゆっくり歩いていると、忙しくしていた時には気づかなかったことに気づくようになるのです。




 02

 すこし前のことですが、うちの近くのマンションのそばをゆっくりと歩いていると(なんといったって散歩ですし、雲ひとつない青い空が広がっているような、すばらしくいい天気だったのですから。少々寒くたって気にしません)、通路のようなものが3つあるのに気づいた。今までも何回も見ているはずなのに、ぼんやりしている証拠ですね(やれやれ)。一つはすぐ先が行ど止まり、もう一つはずっと向こうまで続いていた。そして最後の一つはちょうどその中間、行き止まりだけれど、向こうの壁の一部はあいていてどうやら坂になっていて、駐車場に続いているようでした。

 と、その時そのぽっかりとあいた口に何かが飛び込む姿が見えたのです。ちょっと光っているようだった。初めはぼんやりと見ていたのですが、すぐに猛烈に気になってきた。あれは何、猫のようにも見えたけれど…。どこからきたんだろう。それより何より、いったいどこへいったんだろう。

 それで、悪いとは思ったのですが(なんといってもよその家なのですから)、ちょっと近づいてみようとして歩いていったのです。別に変わったところはないようでした。よく町の中のビルで見るのと同じ、地下の駐車場に続くスロープのようだったのです。しかし、猫(?)のすがたももうありませんでした。よおく目をこらして見たのですが(坂の先は暗くなっていたのです)、やっぱりどこにもいないようでしたし、他のなにも見えなかった。

 あきらめてもう戻ることにしようとした、ちょうどその時、また、目の前をものすごい勢いで走るものが見えました。それはぼくの目の前で、ピタリと止まったのです。おどろいたな。いったいなんだろう。なんだと思いますか。もう、気づいた人もいるにちがいないのですが、そのとおり。先ほどぽっかりとあいた口に勢いよく飛び込んでいった正体不明のもの、やっぱり猫だったのです。すこし青みがかったような灰色の毛並みがとても美しい猫です。




 それで、なかば呆然として猫を見つめていたら(びっくりしていましたし、なんといったってとても美しかったのです)、その猫がちょっとだけ首を振ったような気がしたのです(猫の方だっておどろいたのかもしれません)。

 ついでにそっというと、ぼくは猫や犬とはあんがいすぐになかよくなることができるし、実は、その気になればすこしだけことばもわかるのです(ほかのもの、とくに人とはなかなかそうはいきません。ちょっと残念ですが、これは昔から変わりません)。ただ、あんまり話(はな)しかけたりすることはありません(だって、他の人が見たら変に思うでしょう)。

そこでもう一度しげしげと眺めていると、猫もやっぱりもう一度首を穴の方に傾けた。ちょっと誘うようなしぐさに見えた。それから、いちもくさんに駆け出したのです。それで、ぼくも遅れてはならじと走り始めました(ちょっとヨタヨタしましたけれど)。いつまで走っても、駐車場には行き着きません。どうやら、ふつうの駐車場に続く道とは違っていたようでした。おまけに、ぼくは猫とおんなじくらいに小さくなったような気がした。

 そうやってようやくの思いで後に続いていくと、猫はピタリと走るのをやめて、じっと壁の方を見ていました。ノックするわけでもなく、ただじっと見つめているだけです。すると、壁の一部にいつのまにか穴があらわれて、猫はそこに入っていきました。ぼくは、立ったまま見ていたのですが、しばらくしてから座り込んでその穴にぐっと顔を近づけたのでした。

 と、あっという間に吸い込まれて、スキーで勢いよく蛇行しながら滑っているときのように(ほんとうはボブスレーのようなというほうがいいと思うのですが、残念ながらボブスレーの経験はないのです)、ずっとぐるぐる目が回るような気がしていた。そしてようやく出口まで達すると、目の前には岩にかこまれたたいらな場所があって、その先にはおだやかな海が広がっていたのです。

 でも、それにしても、猫はどうやってこんな場所を見つけることができたのでしょうね。のんびりしているように見えますけれど、あんがいすばしっこいところがあるようなのですね。

 (続きます)