原点に帰って考える、生活を学び直す 86
朝の憂鬱とささやかな幸福
このところは、朝からすっきりとした秋晴れということが少ない。今日も、リビング側のカーテンを開けると、夜中に雨が降ったのを知った。東南の空を見上げると、雲がかかっているので、さらに玄関の扉をあけて西の空を見ると、さらに黒くて厚い雲に覆われている。
これが、困るのだ。何が困るかというと、散歩に出かけるべきかやめるべきかということ。散歩には出かけたい。しかしカメラが濡れるのは困る。このため、見極めが大事になるのですが、天気予報もあんまりあてにならないので、これがむづかしい。
散歩を止めるのはせっかく身についた習慣が崩れそうなのだ(作り上げるのは時間がかかり、壊すのはあっという間)。それに、何より1日サボると、翌日の散歩にてきめんに響くのです。
薄いあかね色の空
で、思い切って、出かけてみることにした(万が一に備えて、ポケットには防水用のビニル袋を入れた)。海の見えるところまで行くと、東の方の海の上の空は薄いあかね色に染まっているのも見えているのに、こちらではすぐに小さな雨つぶがポツリポツリと(うーむ)。まずはカメラをかねて用意のビニル袋の中に入れて、歩き始めた。すぐに家に帰るか、それとももう少し歩くか。結局、もう少し歩いてみることにした(雨が強くなりそうなら、帰ればいい)。
葉の上の水滴
こういう日の色の異なる雲の重なりもなかなか美しいのですが、カメラを濡らしたくないので、写真を撮るのがためらわれるのです(小心者?)。それでも、途中には上にまるい水滴を載せた葉っぱが目に入ってくる。それで、急いでいくつか撮った。
帰ってきてしばらくしたら、雲間から日差しが射して明るくなったのでした。やれやれ、こうしたものかもと思っていたら、すぐにまた、雲が勝った。なかなかにめまぐるしい。これも、また人生?(ちょっと大袈裟だけど)
こんな日は、拾い集めた枯葉を使って、皿の上で遊んだりしながら静かに過ごすのがいいのかもしれない。ちょうどゴンチチのラジオからは「もう森へは行かない」のギター版が流れてきて、フランソワーズ・アルディを思い出したので、彼女のCDをBGMにすることにして。
小さな蕾
ところで、先日の根元から伐採された方に続いて、ツツジの生垣の中の芙蓉にも蕾が見つかりました。こちらの方は、なぜか青虫にやられて穴の空いた葉っぱの間に、ごく小さな蕾をつけていた。
もう、今年は無理かもしれないけれど、来年はきっとまた花を見ることができるに違いない。不幸中の幸い。悪いことばかりではない、と思えということ?
2024.10.05
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原点に帰って考える、生活を学び直す 85
四角い部屋を丸く掃いたとしても
ようやく涼しくなったと思ったら、寒いくらいだったり、また雨が降ったり、おまけに雨が降ったりと、なかなかすんなりと秋らしい気候に移行というわけにはいきませんね。
そのせい、というわけでもないけれど、久しぶりにローリング・ストーンズを特集したDVDを見た。DVDの棚を少し整理しようと眺めていたら、目に入ったもの。
まあ、懐かしい曲ばかり、たいていは60年代から70年代のものだったわけだけれど、たまに80年代のものが混じるというようだった。
それで思ったのは、ストーンズのメンバーたちがこれを見たら、どう思うのだろうということだった。映像の多くが全盛時代、絶頂期のものが使われるから、若い時のものだ。当然、今の彼らの姿との違いは大きい(ロックスターとしての存在感は、さほど変わらないかもしれませんが)。まあ、彼らが好んで見ることはないないでしょうけど、目に入ったり、それについての評判が耳に入ることはあるかもしれない。その時、彼らは否応なしに当時との落差を目の辺りにすることになるわけですが。
若さゆえの未熟さを粗っぽくて青臭いと思うのか、それとも嫉妬するのか。はたまた、懐かしく思い出すだけか。ちらりと一瞥をくれた後は、無視するのか。
QW
さて、こちらは相変わらず平々凡々、代わり映えのしない日々ですが、最近になって、毎日QWすることがようやく定着してきた。QWというのはクイックルワイパー(一般的な呼び方はフローリングワイパーというらしいです)のことで、掃除下手の僕が、少しでも家を綺麗にしなくてはと思って、毎日やるべきことの一つとして課したのです。埃に閉口したのと、リタイアした年下の友人が毎朝やっていると話すのを聞いたせい。それがようやく定着してきたというわけです。
と言っても、文字通り四角い部屋を丸く掃く、というか相当に丸く掃くのですが。これを完璧にやろうとすると、たぶん僕の場合は続かない。だから、移動家具も動かしてやるのはたまにでいいと思い定めた。若い頃と違って、本格的じゃなくてもいい、10のうち1でも0よりはマシだ、というわけです。
こうしたことを通して感じることは、才能があるとかないというときまず一番は「続ける」能力だということですね。掃除はやろうと思えば、誰でもできる。続けていれば、まあまあの掃除はできるようになるだろう。しかも、経験を積むうちにいろいろと工夫もするから、さらに上手にできるようになる。しかし、それを実際に続けて実践できる人ばかりではない。他のことでも同じではあるまいか。ただ、できるということと一流の腕になることは当然違うから、続けた先に一流になるかどうかというときに、初めて才能の有無ということになるのではないか、と思ったのでした。
そう言えば、2年連続でダントツの最下位だったプロ野球日本ハムの新庄監督も、3年計画の最終年目にして結果を出したようです。
だから、まずは多くを望まず、なんでも続けることから始めよう、と思うのでありました。
2024.09.28
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原点に帰って考える、生活を学び直す 84
少しだけ新しいもの
散歩の帰り道、例の芙蓉の成長の具合を見ようと思って、行ったのですが。なんだか様子が変だった。
残ったわずかな芙蓉の葉
初めはどうなったのかさっぱりわからなかったのだけれど、よく見ると葉はわずかに残っているだけだったのでした。それで、もしやと思って気をつけて見たら、ツユクサも消えていた。また、刈られたようだった。ああ、無情!一体、誰が、なんのために?他の大部分は変わらないようなのに、これはどうしたことだろう?
土曜の朝少し遅く起きてラジオのスイッチを入れたら、現代音楽が流れてきた。先日亡くなった、湯浅譲二の特集らしかった。
僕は音楽に関しては保守的な人間なので、あてになりませんが、現代音楽を聞いて思うことは、音の連りは僕をどこにも連れて行かないということ。音のつながりは短い単位で閉じられて、僕の気持ちもそこで切れ、投げ出されてしまう。もちろん一つの音や一つの音の集団、集団と集団の間が感覚や感情を刺激しないわけではなく、何かしらの思いを抱くわけだけれど、なんだか宙づりにされたまま、何処へにも行かないような気になってしまうのです(ここでも、自分が感覚的な人間であることが知れる)。
英国3人衆
CD棚を片付けていたら、ヴォーン・ウィリアムズの管弦楽曲集があった。有名な「グリーン・スリーヴス」も入っている。ディーリアスみたいに聴けるかもと思って(何と言っても、「グリーン・スリーヴス」ですから)、取り出しておくこことにした。
ある朝、聴いてみると、現代音楽とはまったく違う。予想した通り、いやそれ以上に良かった。
ディーリアスは心地よいけれど音が気持ちに任せて流れていくような気がするのに対して、こちらはもう少し構築的のようだ(何と言っても、正規の音楽教育を受けている)。20世紀に入ろうかという頃に王立音楽大学で学んだとは言え、イングランドの伝統的な民謡を採取した人ですから、彼の管弦楽曲は耳になじみやすい。エルガーも幼い頃から楽器の手ほどきを受けていたとはいえ、正式に音楽の高等教育を受けたわけではないようだ。
3人はほぼ同時代を生きた。ヴォーン・ウィリアムズが一番若く1872年に生まれ、順にディーリアス(1862年生)、エルガー(1857年生)。同時代のヨーロッパの作曲家には、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ドビュッシーらがいる。僕には、英国組が一番しっくりくるようだ。
僕は、ディーリアスやエルガーの音楽を聴くことを好む。我流はややもするとある癖をおびて、それが気になることもあるけれど、ディーリアスやエルガーはそれを感じさせない、というか嫌じゃないのだ。形式張った堅苦しさというものと無縁のせいだろうか。
別に音楽に精通しているわけではない者が聴くとき、耳馴染みの良さというのは最も大事な要素だという気がする。その枠内で、あるいはほんの少しだけ逸脱した実験的な試みを加えるというのがありがたい作曲家かもしれないと思った(ちょっと図式的な考え方だけれど、なじみが良すぎてもつまらない気がするし、少し新しいところがあると面白いのではあるまいか)。
何か一つでも、小さなものでも、ごく少数の人にだけでも届くような、そうしたものを作れたらいいと思うのですが。
2024.09.21
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原点に帰って考える、生活を学び直す 83
ドイツで一番小さなビル醸造所のブラウマイスター
まだまだ暑い日が続きますねえ。それでも、吹く風はもう涼しいものを含んでいるようです。さて、ひと月ほど前にバッサリと伐採されてしまった路傍の草花のうち、一番最初に花を咲かせたのはツユクサ。
花をつけたツユクサ
ごく細い茎の先に小さな花をつけていました。可憐で儚げだけれど、たくましく蘇った。
先日、ウィスキーを取り上げた番組のDVDを見ていたら、久しぶりにシングルモルトを飲みたくなった(すぐに影響されてしまいます)。
幸い到来物のカリラの12年があったので、飲んでみることに。封を切って蓋を開けた瞬間、結構強いピート香が鼻を襲った。
飲み方はカリラを入れた後、水を少しだけ足す。カリラの蒸溜所のあるアイラ島の元ボウモア蒸留所のマネージャーでブルックラディ蒸留所(こちらも、未開封のものがあるかも)の責任者だったジム・マキュウアンが、一番美味しい飲み方だと言う*もの。番組の中でアイラ島のパブのバーテンダーは、ほとんどの人がストレートで飲むと言っていましたが、ここはウィスキー造りの名人に倣うことにしました。
飲んでみると、あの強烈なピート香は全く気にならなかった。美味しい。やっぱり、安いブレンデッドウィスキーとは全く違うようだった。
ウィスキーの後はビール。同じDVDに入っていたので、続けて見た。ドイツは言わずと知れたビール大国。1200の醸造所(ブロイ)と5000を超える数の銘柄がある**。バイエルン州の州都ミュンヘンで9月半ばから10月上旬にかけて開催される有名なビール祭りオクトーバーフェストは、世界最大規模の祭りで、毎年600万人ほども集まるらしい。
しかし、ビールの消費量が減っているともいう。女性や若い人たちに、苦味が敬遠されているようなのだ。そのせいで大きな会社は、ホップの量を減らして苦味を抑えたビールを作り、中小の醸造所を買収して顧客を増やそうとする。
若きブラウマイスター
これに対し、旧東ドイツの人口4000人の小さな村にただ一つあるブロイをビール作りの名人だった父から引き継いだウブ・オープストフェルダーは、ホップの苦味と香りを生かした個性的なビールを作っている。
易きにつかず、機械化に頼らず、週に1回行う仕込みの時は、早朝の3時から100年前の蒸気機関を動かして蒸気を送り出し、薪をくべてお湯を沸かすと、温度管理に気をつけながら大きな袋に入った麦芽を投入する。頃合いを見極めながらホップを3回に分けて投入する。最初の2回は苦味をつけるためのビターホップ、最後の1回は香りをつけるためのアロマホップ。それが終わると今度は蒸気機関の回転数を上げて、冷却槽へ。さらに、発酵タンクに移して、酵母を投入する。ここまで休むことなく16時間に及ぶ作業を終えた後の笑顔はにこやかだ。その後も、蒸気機関の手入れをする。
貯酒タンクで寝かせて、完成までは50日。瓶詰めや樽詰めまで手のかかる100年前の昔ながらの方法で醸造過程の全てを一人で行い、ビールを作る。さらに、隣接した店での給仕もほとんど一人で行う。出来上がったばかりのビールを試飲して、「ビールはこうでなくちゃ」と言った時の笑顔は幸福感に満ちていた。
工場で働く職人には彼のような作り方で作ることができない。すなわち、昔ながらの古い機械を扱うことができないし、工程のすべてに関わることがない。ビールを見るのは出来上がってからのみというのは寂しいと言ったか、残念と言ったのだったか。彼の独特の個性を持ったビールは、そうした機械化された工場で大量生産される平均化されて違いはラベルだけというものとは一線を画す。ビールに対して愛情を持って仕事をし、父の教えに従って良いビールを作るために時間と労力を惜しまず、一つのことに打ち込む。
出来上がったばかりのビールを「できたてです、おいしいですよ」と言ってお客に差し出す時、彼の表情はほんとうに嬉しそうだ。しかも、苦味を嫌う若者が注文した、丹精込めて作ったビールにレモネードを注ぐ時は笑顔が消えたようだけれど、そうした客にも優しく接する。
ともあれ、僕はこうしたDVDを時々見て、その姿勢に感心し、学んで、自身の心を奮い立たせるのだ(そうしないと、僕は自堕落なままになってしまう)。
「最後にあなたにとって一番大切なものは?」と聞かれて、彼が答えたのは「家族が一番大切」ということだった。少し離れたところにいた9歳の娘が、「もちろんそうよ」と言ったのには笑ったけど。さらに、ビールを作ることはと聞かれて、「生活のためさ」とさらりと言う。この気負いを見せないところも素敵だと思った。
ドイツには、「ビールは醸造所の煙突の影が落ちる範囲で飲むもの」という言い方があるらしい。すなわち、できたてのビールを飲めということだ。それができるというのは、いいなあ。
ウィスキーのマキュウアンもビールのオープストフェルダーも、自分の作ったものに誇りと愛情を持っていることがよく知れる。そのことこそが、最も羨ましいと思った。
* 村上春樹『もしぼくらの言葉がウィスキーであったなら』1999年 平凡社
** NHK BS2「地球に好奇心 ドイツ 男たちのビール人生 ~誇りをかけた醸造所の闘い~」2002年放送時
*** 写真はNHKのサイトから借りたものを加工しました。
2024.09.14
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原点に帰って考える、生活を学び直す 82
思い切って、東京
先日の月曜日は久しぶりに天気が良かったし、思い切って東京へ出かけることにした。
眼鏡店
目的の一つは、修理が済んだメガネを受け取りにアメ横へ。完了の連絡を受けた後、しばらく放っておいたのだった(できれば、上野の美術館に行くついでにと思っていたが、なかなか見たいと思うものがなかった)。
もう一つは、AVアンプへの熱が冷めないので、秋葉原へ。もとより高級な機器を購入するつもりもできもしないので、高級専門店は敷居が高くてパス。量販店で品揃えが豊富なところ(つまり、中にはマニアックな店員がいるのではないかと思ったのだった)へ行くことにしたのだ。ここ何年かは、以前に古い機器の修理を頼んだところに配線等も任せていたのが、できなくなってしまったのだった(オーディオ業界の不振のために、担当していた息子が辞めてしまったと言うのだ)。その代わりを、と思って出かけたのでしたが。
前者は、行った甲斐があった。丁寧な調整をしてくれたし、ずいぶん久しぶりに掛けてみると思った以上に不自然さはなく、馴染んでいるような気がした。一方、後者は残念な結果に終わった。相談した人は丁寧に受け答えしてくれたのだが、設定のサービスについては、詳しいスタッフがいないので自分でやる方がいいと言うのだった。このところは、重いものを動かすのは億劫だし、配線などもミスしそうで怖いので、望みを持って行ったのだが、残念。自分でやるしかないけれど、動かすのが大変。さて、一人でできるかどうか(何しろ、重いものが多いのだ)。
秋葉原電気街
秋葉原の電気街はすっかり姿を変えてしまったし、風景は相変わらずカラフルでバラバラで雑駁だけど、道幅は広いし、歩道には並木があって案外いい気がした。さて、どうでしょうね。ともかくも、ちょっと残念な思いを抱えてアメ横へ。
アメ横
昼ごはんをと思って、目星をつけていた居酒屋風の店に行ったが、閉まっていた。張り紙にあった開店時間を過ぎても同様。ならばと思って他を探してみたけれど、さっぱり見つからないし、わからない。仕方がないので、上野寄りに少し歩いたところの何回か行ったことのあるちょっと高めの洋食屋を目指したのだが、以前はエレベータの前にあったメニュー表がなかった。高いのもなんだかなあと思って諦めて、別の方面を探してみたけれど、やっぱりわからない。しばらく歩いていたら、先の洋食屋と同じ名前の店があった。やっぱりメニューはなかったけれど、下町の洋食屋とあったのでいくらかは安いかと思って行ってみることにした。
エレベーターを降りると、いきなり店内に。しかも、目の前にはスタッフが立っていた。これでは、もう引き返すことはできない。まあ、店内は明るくて、雰囲気も悪くない。中央の大きなテーブルの端に座ってメニューをみると、先の洋食店と変わらないようだった。仕方がないので、ちゃんとしたお店のものはどんな味がするのかと思って頼んだのは、メンチカツ。待っている間に、先客たちの皿をみると多くがカレーのようだった。待つことしばし。運ばれて来たのは、やや小さめな皿に盛られたキャベツの上にもたれ掛けるように置かれたメンチカツ。それから、小さな壷に入ったドミグラスソースと玉ねぎドレッシング。
ん、と思った。食べてみたら……。
残念。スーパーのお惣菜のメンチカツとさほど変わらなかった。少なくも8倍ほども違う値段の差はなかったようでした。この理由はと考えたら、3つほど。
一つは、高級洋食店のメンチカツも実は大したことがない。二つ目は、メンチカツは味の差が出にくい。そして、3つ目が自分に味を見分ける舌がない、ということ。たぶん、素直に考えるならば、3番目が最も可能性が高いということになりそうです(参ったなあ)。
さらにこれとは別に、自分の味覚や嗜好はどうなっているのだろうと思った。以前にも書いたけれど、ハンバーグは好きじゃないのにハンバーガーは時々食べたくなる。メンチカツは好きと言っていい。同じように、刺身は食べないけど、握り鮨は食べたくなる時がある、といった具合。どうも、一貫性に欠けるようなのです(この辺りは、必ずしも味覚だけにとどまらないようなのが、我ながら情けない)。
残念といえば、もう一つ、サンフランシスコの『グルメ探偵』があっという間に失踪してしまったので、今のところはシアトルの『赤毛探偵』を(と思っていたら、こちらもすぐにいなくなった)。
2024.09.07
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原点に帰って考える、生活を学び直す 81
夜に、レコードを聴く
利休に倣って、朝顔を一輪。まだ雨の残るアパートの脇の小さな庭に、葉の陰でひっそりと咲いていた。他のいくつかは、雨に打たれたせいかもう萎んでしまっていたけれど。
雨滴の残る朝顔
朝顔は摘んできて急いで生けても、すぐに萎んでしまう。利休の逸話は、どうしたのだろう。秀吉がやってくる直前、ギリギリの時に……ということなのだろうか。それができたのだろうか。
ミステリードラマはなかなか見たいものに行きあたらないけれど、つい最近までは時々、イギリス製ミステリーの『美人検視官ジェーン』を見ていた(別に、美人という言葉に惹かれたわけじゃありません)。原題はただの『THE CORONER』、検死官というだけ。
いつの頃かもう長く続いているようですが、このところのわが国では、なぜか説明的な長い題をつけるようになった。同じことを言おうとするとたいてい英語の方が結構面倒な言い方をしないと表現できないような気がするのですが、一体これはどういうわけでしょうね。
彼女が美人かどうかは措くとして(ただ、ちょっと若作り)、何しろ1時間に満たない短さが好ましい(手持ち無沙汰の埋め草のような気分のようでもあるけれど)。これも無料視聴の分は終了してしまったので、次に見るものを探しているのですがなかなか見つからない。今のところ、
『グルメ探偵ヘンリー』はどうか、と思っているところ。1回だけ見たのですが(ちょっと酔っ払って)、主人公の組み合わせは『キャッスル ~ミステリー作家は事件がお好き』の作家を料理コンサルタントに置き換えたようで、ほかにも部下や検死官等の設定もよく似ているところがある。それでも、レストランの厨房や料理の一皿が出てきたりするし、坂の街サンフランシスコが舞台というのにもちょっと惹かれる。それにしても、アマゾンプライムには『〇〇探偵……』というのが多いです。まあ、それだけ量産されているということだから、ヒット作を真似たようなものが出て来ても不思議じゃないけれど。
さて、あるときから、1日1枚レコードを聴くことにしようと思った(ま、たいてい夜になるでしょうけれど)。レコードやレコードプレイヤーのためにもなるし、精神にもいい気がしたのです。特に、レコードをジャケットから取り出し、盤面を拭いてからターンテーブルに載せ、さらにブラシで埃を払って、そっと針を下ろす、という一連の所作が何やら儀式めいて心を落ち着かせるし、音楽に集中させる気がするのです(もともとレコードの片面は20~30分なので、何かをしながら聞くということがむづかしいのですが)。
いったい、何から聴くのがいいものか。
ミケランジェリ/『映像』
で、取りしたのはミケランジェロが弾くドビュッシーの『映像Ⅰ・Ⅱ』。これがよかったのか、それともそうではなかったのか。ミケランジェロが紡ぎ出す美しい音の連なりは、内側に沈潜するばかりのようなのだった(まあ、聴く方のその時の気持ちのありようもあるでしょうけど)。
やがてA面が終わり、盤をひっくり返すとしばらくしてぷつっ、ぷつっというのが聞こえた。いったん取り出して、拭き直してみたのですが、変わらない。やっぱり、傷が入っていたのだ。いったいどうしたのだろうか。乱暴に取り扱ったことはないはずなのに(昔は、グラスを手にして聴くことが多かったから、酔っ払ってしまったのか)。さすがにこれを、傷があるのもまた好ましい、とは言い難い。
夜に聴くレコードは、ピアノソナタなど単一楽器の演奏で、しかも音の綺麗なものがいい。もとより夜には大きな音が出せないということもあるけれど、それよりもその日がどんなに雑駁なまま過ごした1日だったとしても、心を穏やかにして1日を閉じるためには、音の振幅が大きくてダイナミックなものやリズミカルなものよりも、静かなものがふさわしい気がするのです(ま、沈潜しすぎる危険もないではありませんが。そうした時は、また別の1枚を)。
2024.08.31
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原点に帰って考える、生活を学び直す 80
優先順位の!?
最近は、コーヒーはもっぱらドリップバッグ式のものにしているのですが、湯に浸すタイプは早く出るが雑味や苦味が出やすいという。
ヘン!?
ならばと思って、カップの上にドリッパーを載せて、この上にドリップバッグをセットして淹れてみた。これなら、湯に浸かりっぱなしにならない(思えばマヌケなことに、このための装置を自作しようかと考えていたのでした。ま、洗う手間は減らせるかもしれないけど)。
さて、肝心の味はどうだったかといえば、大して違わない気もしますが、強いていえばスッキリした味になったような……。これからはこのやり方にする方がいいのか。
でも、これならペーパーフィルターに粉を入れてお湯を注ぐのと変わらない。豆を挽く手間がなくなるだけだ。豆を挽くのは大した手間じゃないし、香りもいい。手間なのは、ミルの掃除がやりにくいことだけだ。
さて、ドリップバッグ式にするがいいのか、元のやり方に戻す方がいいのか。
われながらふしぎと思うことは、他にもある。
今の一番の必需品はパソコンだ。パソコンの新しくするのが急務。これはもう確実で、動かしようのない事実だ。毎日よく使うし、HPもこれがないとやれない。しかし、古いせいで不具合が目立つ。よく強制終了が必要になったり、自動的に再起動することが増えた。
それでも、今はアップルストアに行くことよりヨドバシ等の家電販売店に行くことが、大きな関心事なのだ。
問題のAV機器
というのは、ラジオとテレビの音をもう少し聞きやすくしたいのです。AVアンプとセンタースピーカーを買い換える方がいいのか、それとも簡便なサウンドバーにするべきか。と言って立派なものに変えようというわけではないし、今使っているヤマハ製も不具合な点があるとはいえ、一応ちゃんと鳴っているのだ。だからいずれにせよ買い換えたところで、いっときは嬉しいに違いないけれど、しばらくすると慣れてしまってその喜びも失せるだろう。
もしかしたら、アンプの方が工夫の余地がある、想像する楽しみがあるということだろうか。パソコンの方は機種は決まっているし、CPUの速さはどれであれ問題ないし、メモリの容量は少し多く積むのが安心というくらい。となると、せいぜい画面サイズと色くらいしか悩みどころがない(しかも、古いため新しい機種へ移行できるものも少ない)。これに対して、AVアンプの方は、AVアンプを買い換えるならどのメーカーで機種は、センタースピーカーは?と考えるし、サウンドバーにした場合は機種選びはもちろん、既存のスピーカーはオーディオ用のアンプに繋いで(このためにはセレクタがいる。これをどれにするかも問題)ロック用にしたらどうだろうとか、想像することは多い。
それにしても、優先順位はパソコンの方が圧倒的に高い。それがわかっているのに、この物欲の在りようは我ながら変だと思うのです。
でも、こうしたことが時々、いやよくあるのです。ものに限らず、やるべきことの優先順位は分かっているのに、それに従わない。どうしたことなのだろう。へそ曲がり、いやただのバカということなのか。
2024.08.24
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原点に帰って考える、生活を学び直す 79
聽き比べをもうひとつ
大型台風が去ったと思ったら、今度は危険な暑さになるという(台風の置き土産)。「暑さ寒さも彼岸まで」は、もはや通用しないようです。
この一画だけ!
さて、先に一網打尽と書いたのですが、翌朝見ると不思議なことになぜか1箇所だけ見逃されていた。小さなピンクの花が残っていました。なぜかはわかりませんが、どうせ残すなら、今年花を咲かせていなかった芙蓉も残して欲しかった。こちらの背もそんなに高くならないので、視界を妨げることはない。
聴き比べをもう一つ。ずっと後になってからのことですが、たまたま家にあったヘンデルの「木管のためのソナタ全集」とバッハの「フルート・ソナタ全集」も、聴いてみた。最近は、ヘンデルばかり聴いて、バッハを遠ざけていたのでしたが。フルート(の前身、フラウト・トラヴェルソ)は、同じブリュッヘン。バッハはもうひとつ、こちらも古楽器によるクイケン盤も聴いた。いずれも名盤という世評があります。
世評といえば、村上春樹はクラシックのレコード評を出すくらいですが、名盤には興味がないという。そんな風に言えればいいと羨ましい気もするのですが、僕はまずは名盤から入門することにしてきた。いくら自分自身の感性が大事と言っても、いきなり自分の感性だけを頼るのは危険と思ったのでした。自分の耳に自信があればいいのですが、そうではなく音楽的素養もない場合には、まずはそうする方が適当である気がしたのです。その中から次第に自分の好みというものを見つけようというわけでした(さて、身についたものやら)。
バッハとヘンデル
一聴したところではまあ、2つともがよく似た印象です(特に、ブリュッヘンのもの)。ただ、バッハの方は贋作の問題もあるようなのですが、構築的でより構成(仕組み)を感じさせるのに対し、ヘンデルのそれは愉悦感を大事にしているように思えた(ただの大雑把で感覚的な感想に過ぎませんが)。
このところの僕はずっと、ヘンデルの立場、曲の方を好ましく思いながら聴いていたのですが、またバッハも聴くようになった。と言って、作曲するわけではもちろんないから、ふだんの住宅のインテリアに対する好みと同じようなものです。
なんのことはない、住まいのインテリアにおいても論理的な整合性よりも感覚的な喜びを優先したい、というだけのこと。まあ仕事もないし、これは元々の性格に加えて、実体験も影響しているのかもしれません。
住んでいるのが借家だし、大掛かりな変更はできない。しかもその借家になぜか40年ほども暮らしているのだから、ものは多くなるし、家具を動かすのも簡単じゃない*。したがって、勢い小さなことの組み合わせで対応せざるを得ないのです。しかも、あるものは生かしたい、生かせるかもという性分**だから、ものは増えるばかりで、すっきりと片付いたインテリアは望みようがないという事情も重なる。
なんだか、憧れとは別のところを歩いてきてしまったような気がしてきます。
最近は、片付けができていないと、逆に、片付けだけの人生になりそうで、怖くなります。せめて、見苦しくない景色の中で暮らしたい、と思います。正直なところ、限られた時間を片付けにだけ費やすことは、御免被りたいという気持ちもある。
やっぱり、「何事もしっかりと向き合わなければ、わからない」、ということでしょうね(自分自身のことも含めて。最近はこんな風に、今更ながらということが多くて、本当に恥ずかしくなるのだけれど)。
ついでに、もう一つ。夕方の散歩に出られそうになかったので、少し早めに済ませることに。習慣になると、止めるのが逆にむづかしい、というか惜しくなるのだ(なんとか、片付けを習慣づけたいものだ)。夕方の光の方が綺麗だからどうせ撮らないだろうと、カメラは持たずに出かけた。海の見える小さな公園に行くと、彼方には青く美しい海が輝いていたのでした。やっぱり、浅知恵で備えを忘れた我が身のマヌケぶりに呆れた次第(いつも後になってから気づくのだ。やれやれ)。別の、これまた誰もいない公園の光るベンチは歩数計代わりのiPhoneで撮ることにしたのですが。
* 色々と考えてみてはいるのですが、なかなか実行するには至らない。その作業量の多さ(とくに改装に取りかかる前の片付け)を想像すると、つい二の足を踏むのです。そして、せめて目にいるところだけでも見苦しくないようにしなければと呟くのです。
** でも、これを言い訳にして、風呂屋の釜兵衛氏にならないよう、心しなければ……。
2024.08.17
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原点に帰って考える、生活を学び直す 78
久しぶりに……
ある時、久しぶりにレコードを聴こうと思って、何を聴こうか考えた(何かしながらというのではなく、ちゃんと聴こうと思ったのでした)。夜も遅かったので、大きな音は出せない。
ブレンデルのLP
しばし考えて、シューベルトの『即興曲集』を取り出した。ピアノを弾くのは、アルフレッド・ブレンデル(1931年生/1972年録音。手に入れたのは1979年発売のもの)。その当時は、吉田秀和が書いたように、音のきれいなピアニストとしてずいぶん人気があった。ざっと見たところ、レコードは、これ1枚しか見当らなかった。何しろLP盤は高かったのだ(おまけに、この頃僕は恥ずかしながら、まだ学生だったのだ)。
レコードを中袋から抜き出し、テーブルの上でしっかり拭いてから、そっとターンテーブルに載せる。針を下ろすと、あれっと思った。真剣に聴こうと思った時だけ取り出す、フリードリッヒ・グルダの最晩年の方のCD(古い録音もあるけれど、いずれもCDしかない)とはずいぶん違って聞こえる。前者が少し小さめの音のあっさりした出だしで始まる(でも、レコードの音は温かみがあるようで、やっぱりいい気がします)のに比べて、後者ははじめから感情がたっぷりと込められている。
ふだんは情緒的な音楽は遠ざけようと思っているのだけれど、この曲に限ってはグルダの方に断然惹かれる。グルダの感情は甘い感傷ではなく、最晩年の澄んだ寂しさを含んでいるように感じられる。
最近は、キース・ジャレットの、やっぱりブレンデルの頃のものですが『ソロ・コンサート』や『ケルンコンサート』はずっと遠ざけたまま、演奏活動の最後期の『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー*』を時々聴くようになっていたから、こちらの気持ちのありようが変化しているのかもしれない。ただ、それでもやっぱりたまに聴きたくなる荒っぽくも滾るようなバーンスタインのドヴォルザーク『交響曲第9番』やスメタナの『モルダウ』なんかを聞くと、クラシック音楽といえども音楽はやっぱり感情の芸術の一面を持つのだなあ、という思いを強くするのです。
CD4種
他にないかと思ってCDの棚の方も探したら、昔はよく聴いたラドゥ・ルプーのCDが見つかった(ちゃんと整理しなければいけません)。ただ、稀代の叙情派として知られたルプーの弾くものは、最晩年のグルダと同じく感情が込められたゆっくりしたテンポで、一見グルダのものと似ているようだけれど、音の深度というようなものが全然違う気がした。自身の心の中に沈潜していくような、ある種の凄みといったようなものが感じられなかったのだ。だから、今やさほど惹かれない(たぶん、こうした感情は、僕のような感覚的に聞くだけの聴き手にとっては、その時の気持ちのありように大きく左右されるのでしょうね)。
それにしても、同じ曲を聴いてこんなに異なった印象を受けたのは、ほとんど初めてのような気がする。CDを何枚も揃えて、誰それの演奏が好きと言ってはいるものの、その大部分は作られたイメージによっているのに違いない。たいしてわかっちゃいないのだ(僕の場合です)。それでも、本当にきちんと向き合ったなら、小さな差異でも逃がさずに感じ取ることができるのかもしれない。もしかしたら、楽器がピアノが1台だけで、音の重なりが少ないこともわかりやすくしているのかもしれませんが。
久しぶりをもう一つ。こないだの朝の散歩の途中で、携帯電話の着信音が聞こえた。何かと思って見ると、LINEが来ているようだった(散歩中は歩数計の代わりとして必ず持参します)。近くの公園まで行って、そこのベンチで見ることにして、開いてみたら、卒業生からのものだった。
13時の新幹線に乗るので、それまで会いませんかという誘いだった。幸い予定も何もなかった(ま、いつもたいていそうですが)。それで10時に横浜駅で落ち合うことにして、久しぶりに街に出かけた(というか、誘ってくれたおかげで出ることができた、という感じです)。
最後に会ったのは、たぶん4・5年ほども前のはずだけれど、見た目は少しだけほっそりしたかなというくらいでほとんど変わるところがない。やっぱり若いんですね。ランチは11時からというので、まずはお茶を飲むことにして、店に入った。注文時に支払いをするのでしたが、なんと「ここは私が払います」と言われたのだった(いやはや、歳をとったのだ)。
そこで、近況を聞いたのだけれど、ちゃんと仕事をしそのための勉強もしていること、2本立てだった生活を1本に絞ろうとしていること等々、浮ついたところがなくすっかり安心しました。そうして、お茶を飲み、ご飯を食べながらの2時間半はあっという間に過ぎたのでした。それにしても、卒業してもう10年近くにもなるということに驚いた。
* 今はまた、これも聴かなくなった。ジャズもポップスも、とくにジャズを聴くことがうんと減ったのだ(なぜだろう)。
2024.08.10
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原点に帰って考える、生活を学び直す 77
忘れないために
最近は、いったいどうなってしまうのだろう、と思うことばかりですが。今回は気象の異常ぶりについて、から。毎日、命に関わるというほどの危険な暑さが続き、熱中症警戒アラートが出ない日はない。あちらこちらで大雨に見舞われ、中には1日に1月分も降ったというところもある。このところは、洪水、道路の冠水、家屋の浸水被害等々のニュースの絶えることがない。
今や、こうしたことが常態化しているように見えるのですが、昔も同じだったのだろうか。乏しい記憶を辿ってみても、それほどでもなかったような気がしているのですが……。「線状降水帯」等の新語も生まれているようだし、……。温暖化等を含め、これまでの酷使に耐えてきた地球が、いよいよ悲鳴を上げているのだろうか。
さて、今日の話題は、「後押し」。はやりの「推し」とは違って、というかちょうど逆で、後押ししてもらう方です。
僕には、何をするにしても、背中を押してくれるものが必要のようなのだ。言われるまでもなく、もすでにわかっているはずなのに、聞いたり、読んだりしてようやく、決心がつく。いった、どうしたことなのだろうね。そのため、ずっとお手本を探して、できる範囲で見習おうとしてきたような気がします。
敷き方を変えてみた
クローゼットもぎゅうぎゅう詰めではなく、風通しよくゆとりをもって並ぶようにしたいと思っていたのですが、なかなか踏ん切りがつかないままだった。そこで、わが国でも流行った『フランス人は10着しか服を持たない』を手に入れて(まさか、これを手にとると思わなかった)、後押しの力になってもらおうと思った。読んでみると(すぐに読める)、ほとんどもうすでにわかっていることばかりなのですが、それでも後押しとしては有力な助けになるはず(と願っている)。
それに、案外洒落た言葉もある。例えば、「いつも服装や身だしなみを整えておくのは、敬意を表すこと」とか(これは、他のことにも当てはまりそうです)。
着るつもりがあるのか、本当に着るだろうか。残したいと思っているのか。これらの条件を満たすものだけを残して、あとは人に譲るか、捨てるかする。ものが少なくすれば、手入れも目が届いてしやすくなるし、着る頻度も増える。愛着も出てくるだろうし、いいことづくめだ。死蔵したまま、手入れもままならないというのが一番始末が悪いのだ。
こうした必要は、残念ながら、洋服だけにとどまらない。靴、DVD、その他いくつか。とにかく、軽量化、風通しをよくすることが緊急課題(特に靴)。
片付けるために生活するような生活から、一刻も早く脱却しなければならない。
ところで、反応がないまま、一定の人たちに対してものを書いたり、作ったりする、あるいは返事のない手紙を書き続けることに意味があるのだろうかと考えていた時に、ちょうど朝刊に以下のような文が載っていた(こういう偶然の巡り合わせも、面白いものですね)。
新しい若葉
「詩には、うまいのと、へたなのが、あります。でも、詩を書きたいという……思いには、うまいも、へた
も、ありません*」
「それ自身の中で、精一杯な、だけです」と続く。
というのですが。
そうか、上手いか下手かは気にしないで、いいのか。そういえば、無名の芸術家たちは書きたいもの、作りたいものに没頭してきたのだったなあ、とも思ったりしたけれど(芸術家じゃないし、若くもないし……)。するとつい先日、同じ欄に今度は、
「僕が考える「読者」というのは、実は、僕の本を読んでくれそうもないような他者ですね**」
という文が載っていて驚いた。発言の主は、柄谷行人。一方では、ごく限られた人たちにさえも読んでもらうのがむづかしいというのにね。やっぱり、志からして違うせいか。
翻って、果たして自分には書きたい、書かなければ、という強い思いがあるのか、何より本当に書きたいことがあるのかと問い返してみれば、それもよくわからないのです(これじゃあね)。
読者のいない(または、反応のない)文章や物語は、自分1人のために作る料理と似ているかもしれない。いずれも、自分にとっては意味がある。ならば、これを公表する必要があるのか、という気がしてくるのですが(あるとすれば、まあ1種の希望、可能性のようなものだろうか)。僕の場合、公表しなければ、サボってしまうような気もします。ならば、せめて自分が、自分のことを忘れないために、もう少し続けることにしよう。
* 松下育男 2024年7月19日 朝日朝刊 鷲田清一『折々のことば』
** 柄谷行人 2024年7月27日 朝日朝刊 鷲田清一『折々のことば』
2024.08.03
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原点に帰って考える、生活を学び直す 76
結局のところは
先日、テーブルの上の模様替え(?)をした。
といっても、新しいことをなにかしたわけじゃなく、テーブルランナーの敷き方を変えただけのこと(あとは、細々としたことを少々)。
敷き方を変えてみた
見てのとおり、それまでとは違って、テーブルランナーを長手を方向に敷くのではなく、直交するように置いた。ただ、それだけ。ただし、一方に寄せて。
これには実際的なわけもあって、我が家の細長くて短辺がちょっと短目のテーブルでは、通常のような敷き方をすると、平滑な部分が狭くなって使いづらい時があるのです。しかも僕の場合は、ここで書き物をしたりするから、モノを置いていいスペースと空けておくべき部分を区画するようにしたかった。そこで、テーブルランナーを境界として、いわば緩衝帯または中間領域のような使い方をしてみようというわけです。
まあどうなるものか、しばらくこれで行くことにしようと思うのですが。
実は、このところとみにヘマをやらかすことが増えたことを痛感しているのです(とほほ)。ものを落としたり、こぼしたり、忘れたり、おまけにパソコンの変換ミスも目立つようだし、その他色々。上に書いたことは、ヘマの後始末だった。初めから計画したわけじゃなく、やむなくそうせざるを得なかったためでした。白状すると、コーヒーをこぼしたのでした。
それで、テーブルランナーを外して洗う羽目になって、テーブルの上のモノをどかして拭かなければならなくなった、というわけ。まあ、そのおかげでちょっとした片付けや整理をすることができた、と思えば悪いことばかりでもないのですが。
これは、年をとったということももちろんあるだろうけれど、秘かに、毎日の刺激に欠けた、代わり映えのしない生活の仕方に原因があるのではないかという気がしているのですが、どうでしょうね。日常的に職場に出かけていた時、人と会っていた頃は、ヘマをしなかったとは言わないけれど、今よりうんと少なかった、と思っているのですが。周囲への注意を払う必要がなくなって、きっとこの力が減少し、さらには散漫になっているのだ。
新しい若葉
赤いつぼみ
最後に、ちょっと嬉しいことを。先日伐採された芙蓉の切り株はもう葉をつけていて、それが日を追うごとに大きくなっているのです(すごいねえ)。おまけに、少し先に行ったところのツツジの生垣の中の芙蓉の蕾には赤いものを覗かせていたものがあった。翌日には、少し小さいけれど、ちゃんと花をつけていた。自然は強い。
2024.07.27
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原点に帰って考える、生活を学び直す 75
散歩のたのしみ
いよいよ梅雨が開けましたね。一段と暑くなるのはのはこたえるけれど、これで時間帯さえ選べば、散歩がしやすくなります。
散歩をしていてたのしいことの一つには、路傍に咲く草花を眺めたり、写真を撮ったりすることがあります。たまには、摘んで帰ることも。当然、花ならなんでも同じくらい好きというわけではもちろんなくて、好きな度合いが異なる。
白いランタナ
ピンクと黄色のランタナ
好きな花の条件はといえば、あたりまえのようですが、その色合いと花びらのかたちと大きさなんかが大きい。どちらかといえば、華やかなものよりは可憐な方を好むのだ。淡い色で小ぶりな方が、見ていて飽きない(もちろん、芙蓉のような例外もあるけれど)。例えば、ランタナで言うなら、白が一番(ベージュの壁を背景にした近所のそれに陽が射すと、まるで日本画のように見える時があるのです)。一方、ピンクが勝ったものは、あんまり好まない。でも、路傍で摘めむことができるのはピンクと白の組み合わせのみ。しかも案外長持ちするのだけれど、初めは薄い色合いだったのが、だんだん濃いピンクが大きな部分を占めるようになるのはどうしてか。そしてまた、色を失い、小さくなっていき、やがて枯れてしまうのだ。
先日の花をつける直前の芙蓉が伐採されるのを見て、思いだしたのが、少し前の法地でのこと。庭とはまた別のところから何やら機械音が聞こえてきたので、ベランダに出てみると、向かいの住宅と集合住宅に挟まれた小さな法地が刈られていた。ここは僕のところのアパートとは違って、一面に何種類かの小さな花が咲く。これを刈ってしまうとは、と思ったのですが、よく考えてみると、ほとんどもう花は終わっていた気がする。だから、これはこれでいいとしなければいけないのかも。ま、いずれにしても自然はしぶといから、心配するには及ばない。
で、もう一つ。アパートの庭に残ったさつきの一株。残されたのはいいのですが、以前にはここのまわりには芙蓉も咲いていたのだ。こちらの方は、いつだったかバッサリやられて、それ以来咲くことがない。こうした時、たいていの場合は、人間の仕業にめげることなく復活するのだが、この場合はダメだったよう(根こそぎ抜かれたのだろうか)。
さらにその前には、歩道には桜並木があった。今でも、歩道を歩くと、車道側のツツジの植え込みの間には、ところどころぽっかり空いたところがあって切り株が残っている。一方、車で出ようするときに、視界を遮るようなところがあってもほったらかしのままだ。実用性を重視しているのかと思いきや、花をつけていたり、まもなくつけそうだということなどとも関係なしに、ただ時期がくれば特定の場所を機械的にバッサリやるようだ。なんだかなあ(やれやれ)。
このところは、ひどく疲れやすく、すぐに横になりたくなって、起きているのが辛かった。一時は体感温度も変で、暑い日でも寝ていたら寒いと感じる夜もあった。まるで、季節までもがすれ違うような気がしていたのだった。それが、ここにきてようやく元に戻りつつあるようで、短い散歩にも出られるようになったし、お酒も少しだが飲めるようになった。年をとっても新しい経験というのはあるものですが、それがうれししいことばかりではないことにも気づいて、平凡な日々を過ごせることの得難さ、そして健康であることのなんとありがたいことか、としみじみと思い知ったことでした。
霧雨に煙る景色
先日の夕方は、あいにくの雨で、散歩には出れなかったものの、家の目の前のふだんはどちらかといえば雑駁な景色が霧雨にけむってなかなかに美しく、趣がありました。
2024.07.20
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原点に帰って考える、生活を学び直す 74
字幕派、それとも吹き替え派?
このところはずっと、散歩もなかなかできずにいたのですが、先日すぐ近くのの花を摘みに出かけた。ついでにと思ってさらに足を伸ばして(と言ってもせいぜい5分程度)、例の芙蓉のところに行って見た。
すると芙蓉は、思いのほか大きく育っていて、もう蕾もつけていた。この分だと、花を咲かせるのも遅くないかもしれない。もう7月だから花をつけてもおかしくないけれど、この芙蓉はいつも遅かったような気がする(この時は、あいにくカメラを持っていなかった)。それで後日、曇り空だったけれど、思い切って写真を撮ろうと出かけてきた。ところが、見当たらない。場所を間違えたか(⁉︎)。まさか……と思いながら、少し先まで歩いて見たが、やっぱりない。
もう一つの芙蓉
またしても!
それで、元の場所の戻ってもう一度確認すると、新しい切り株が目に入った。またしても、花が咲く前に伐採されてしまったのだ(ああ!)。ただ救いは、同じように伐採されて昨年は花を咲かせることのなかったツツジの中に紛れていた芙蓉が、今年は蕾をつけていた(花が咲くまで、伐採されることがありませんように)。
さて、外国の映画やドラマを見るときは、基本的には字幕派と吹き替え派の両派に分かれるわけですが、みなさんはどうでしょう。僕は、断然字幕派。どこの国の映画(ちょっとご無沙汰)であれドラマであれ、変わることがない。その方が、うんと自然に楽しむことができるのだ。逆に、外国人たち全員が流暢な日本語を話しているというのは、どうにも違和感を感じて馴染めない。
字幕版
で、かねて馴染んできたフランス産のミステリードラマ『アストリッドとラファエル』を、字幕付きで観た。よりいっそう楽しめるのに違いないはずと楽しみにしていたのです。確かに面白いことは面白いのだけれど、なんだか変な気がした。正直にいうなら、吹き替え版の方がより楽しめるような気がしたのだ。これは初めての経験だった。これまで、たとえば『ルイス警部』も『モース主任警部』も字幕付きの方がうんと楽しめたのに。
それはフランス語のせいじゃないか、という人があるかもしれませんね。確かに、フランス語は、ふだん耳にすることがない。でも、それをいうなら、英語だって僕にはたいして変わらない。認識して理解する力が衰えているのではという疑念はひとまず措くことにして、それでは何が違うのかと考えてみたら、吹き替えの俳優(この場合は、貫地谷しほりさん)の力によることに気づいた。これまでほとんど経験したことがなかったけれど、日本語による吹き替え版の方が、自閉症という主人公の特別性(個性)が圧倒的に際立つようなのだ。やっぱり演じる人の表現力の持つ力はすごいと、改めて思った次第。
文章もかくありたいものだと願うのですが、こちらはなかなか簡単ではありません。
そうそうもうひとつ、この話題とは関係ありませんが、散らかっているのを嫌うアストリッドが自分の机に限らず、きちんと整列させるよう並べ替えるのを見ると、その度に自分もきちんと整頓しようと思うのです(ドラマの効用⁉︎)。
2024.07.13
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原点に帰って考える、生活を学び直す 73
自分を作るもの
道端で、ツユクサを見つけたので、さっそく摘んできた。
ツユクサ
美しいが、すぐにしぼんでしまう。その佇まいと同様、ほんとうに儚い。
さて、僕は行動的な人、というよりは明らかに読書派である。といって、大量に本を読んだわけでもないし、名著をことごとく読み尽くそうとしてきたわけでもない。系統的であるよりは行き当たりばったりで、内容もむしろ軽いものが多い(だから、ただの怠け者というのが正しい)。思想書よりは小説やエッセイ、一時はほとんどミステリー小説ばかり読んでいた(それでも、受け取るものはある)。いまとなったら、それがどうであれ、受け入れるしかない(変えることができるのは、これからのことだけだ)。
ところで、最近気になることの一つに、本を読んでいても、長く読み続けられないことがある。最近になってようやく、ベッドの上以外で読むことを再開することができはしたのだが、このところはまた元に戻ってしまった。しかも、感心させられる1行と出会っても覚えられないのだ(これはまあ、昔から)。それで、こんな調子ではいったい本を読む意味があるのか、と思わないでもない時がある。
先人を引き継ぎつつ
しかし、何であれ先人たちがいたから、次の世代が作られたし、今の自分があるのだ。極めて当たり前、のことだ。バッハやヘンデルらがいたから、ハイドンやモーツァルトたちが現れた。ザ・フーやスモール・フェイセズに憧れたせいで、ザ・ジャムやポール・ウェラーが生まれた。同じように、過去の自分がいたから今の自分があるし、今の自分があるということはきっと未来の自分もいる(そのありようの可能性は、いくつかあるだろう)に違いない、そう思って過ごすしかない。
そして、これまで読んできた本が僕の考えを作ったのだと思う。たとえ忘れたとしても、丸ごとそのままの形でなくとも、形を変えて定着したはずだ、と思う。むしろ、それで良かったのかもしれない。評論家や批評家じゃないのだから、引用するために読むわけではないのだ。
丸ごと覚えることができていたら、直接的な影響を受けて、もしかしたらそのまま自分の考えだと思い込んだかもしれない。かつて読んだAの論旨もBの主張も覚え得られないので、少しずつ(あるいは大幅に)変容して、今の考え方を形成しているのだろう。それが正しいことだったかどうかはわからないが、少なくとも完全なコピー、というか縮小コピーにならなかった。どんなに素晴らしい人物だったとしても、そのコピーになるのはつまらない気がする。
今回も、少し前に書きかけていたものに、ほんの少し手を加えた。
2024.07.06
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原点に帰って考える、生活を学び直す 72
またしても、欲望が(4)
先月末からずっとは慣れないことが続いて、いよいよくたびれ果てた(お酒も飲みたいと思わないくらい)。そこで、今回は簡単に。というか大急ぎの仕事です。
言い訳をしたところで、まずは、その(3)でやり残した窓際から。
窓際のカウンター
有り合わせのものでこしらえたカウンター様のものを、簡単な木製家具で置き換えた。ここに座るときは、ステーで支える伸張式のものとし、棚に膝が当たるのを避けるようにした。
入居時の写真
最後の3つ目は、寝室。こちららは現状の写真が載せられないので、入居時の様子と簡単な改装案の図面だけ。当時の部屋は、本当に物が少ない(ということは、これでも暮らせるってことだ⁉︎)。
主な課題は、以下の通り。
①ものが溢れているので、もう少しスッキリさせたい。
②ヘッドボードの部分は、学生の時に組んだ棚(写真)と箱を流用していたから、面が揃わず使いづらい。
③衣服の収納が一部ブティックハンガーで、見苦しい。
寝室側面
そのために、
・ものを捨てる(これはどのコーナーにおいても不可欠)。
・衣服の収納を再考し、必要に応じて家具を置く(和室のため、突っ張り棒はむづかしそう)。
・ヘッドボードを作り直して、バラバラ感をなくす。
等のことを考える。
でも、ものを捨てなければいけないのに、そうはなってないのが問題だ。また、よーく考えて、黄色のトレーシングペーパーを減らすようにしよう。果たして、どこまでやれるか。仮に考えるだけだとしても、やらないよりはマシだろう(少なくとも、錆びついた脳と手の運動にはなる)。
2024.06.29
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原点に帰って考える、生活を学び直す 71
またしても、欲望が(3)
槇文彦がなくなりましたね。95歳だというから長生きですが、新国立競技場の時には積極的に発言していましたが(もう10年以上も前!それでもたいしたエネルギー‼︎)、神宮外苑の環境問題についてはどうだったのだろう。学生時代のスターたちがもう、ほとんどいなくなってしまった。
久しぶりの東京都美術館
先日、久しぶりに出かけて見た「デ・キリコ展」も、学生の頃に抱いていたイメージとずいぶん違ったような気がした。
ささやかな欲望の第3弾を。
ふたつ目の具体案は、リビング、というかA&Vのための場所。お酒を飲むときに使うこともある。
ここでの課題をもう一度整理すると、
①センタースピーカーとディスプレイが干渉しないようにする。
②できるだけ多くのCDとDVDを置けるようにしたい。同時に、寝室との間仕切りともなるので、ベッドのヘッドボードを兼ねたカウンターとの連続性を考慮する。レコードプレイヤー及びレコード盤を置くために使っている既存の家具は重みがあるので、これを併用する(経済のことがないわけじゃありませんが、使えるものは使うというのが習い性となっている)。
③窓際のテーブル席は、書き物をするときに使ったり、お酒を飲むときに使うが、昼、テラス席で食べたり飲んだりする時の感覚に近づける。
それで考えてみた。こちらもやっぱり、突っ張り棒と棚受けと棚板の組み合わせで(何しろ借家のことゆえ、簡便性と解体のしやすさが求められる)。
正面
寝室側側面
・正面は、現在使用しているものをポールの分だけ前に出す(AV機器類は安定することが肝心なので、ポール+棚板で受けることは避ける、ディスプレイは、ブロックの上の厚板に載せる。直接でもいいかもしれない)。
ついで、ディスプレイの上は飾り棚として、上部は空けたままにする(でも、描いてみたら、突っ張り棒を横に使って、絵を吊るようにしたり、スクリーンを吊るのがいい気がしてきます)。
・寝室との境は、レコードプレイヤーとレコード、CD、DVDのためのコーナーとする。レコードプレイヤーを置く台はレコード盤のための既存の家具を使用し、支柱と棚板の間に挿入する。
ジョエ・コロンボのワゴン、「トビー」の位置を再考する。レコード棚と同じようにしたほうがいいか、それとも独立させるのがいいのか。一番望ましい気がするのは、反対側のテーブルに隣接するように置き、文具とお酒関係のものの場所とする(使う場面に応じて、向きを変えればいい)。
まあ、これもいっぺんには無理かもしれないけれど、課題の①と②はいっぺんにやるのがよさそうです(少なくとも、あんまり間を空けずに)。でも、窓側の部分は手つかず。道のりは厳しい。
色々と難題がありそうですが、もう少し考えてみることにしよう。別に、他にやることが、たいしてあるわけじゃない。
2024.06.22
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原点に帰って考える、生活を学び直す 70
またしても、欲望が(2)
先日、散歩の途中の、とある駐車場から海を眺めた後、写真を撮っていたら隣の家の人に声をかけられた。
「ここで写真を撮らないで」、と言われたのだ。貸しているので、立ち入られたら困るということなのだ。私有地なので仕方がない。詫びて早々に立ち去ったけれど、残念。なぜか何よりも、ショックが大きいようだった。すぐ隣の一段低くなった小さな公園からも海は眺めることができるけれど、写真を撮ろうとすると、伸びた草とすぐ下のマンションの屋上と電線が邪魔になる。なかなかままなりませんね。
さて、先日の抑えがたい欲望の続き、第2弾を。
今回は、食堂の具体的な改装案を少し考えてみたのですが。
間仕切りパネルの上部*
その前に、ここでの課題をもう一度整理しておくと、
①通路の間隔を75cm超確保する(直近の課題としては、これが1番かも)。
②テーブルの高さを少し低くする(680→665前後)。合わせて、天板を厚めのものとしたい。
③余力があれば、ワークスペースの机の後ろの棚(うんと昔に作ったロの字型の箱を流用)を、置き換えて、すっきりさせたい。
改修案1
①の通路の間隔を確保するために、間仕切り用のパネルを20cmほど移動する。この時、食器棚下部の扉の開閉と干渉しないことと、天井灯(めったに使わないけれど)を避けるようにしなければいけない。
または、上部は突っ張り棒と棚受けと棚板、下部はキャスター付きのワイヤーラックをの組み合わせる。冷蔵庫などの大物は横にして運ぶことにして、この時には下部のラックだけを移動する(これができれば、間仕切りパネルの移動は不要になるかも)。
②のテーブルについては、天板の厚味とともに無垢材の質感を生かすために、たとえば柱用の角材を横に並べて圧着したものを使用する。脚は、黒のスチールをコの字型(空きを確保したいけれど、バランスが問題)。
③の部分は、新設する棚で不要になったワイヤーラックを流用することも考える(できるだけあるものを使う、というのが身上)。
これを実践するためには、まず片付けなければならず、なかなかハードルは高そうです(特に、精神的なもの。一方で「片付けのためだけに時間を使うな」という声も聞こえるような気もする)。もう一つ、ずっとスケッチをすることがなかったから、こちらも簡単じゃない。何しろ、このところエネルギーの不足が著しい。だから、簡単な展開図でお茶を濁すことにします。
何れにしても、実際にやることになったら一人では無理で、まあ適宜力を借りながらやるしかなさそうですが。まずは、同時に、ものを取捨選択して減らすことを考えることが肝要かも(これも簡単に行きそうにはありませんが、そうしないと、結局元の木阿弥ということになりかねない)。
ともかくも、ちょっと考えることから始めてみなければ。黄色のトレーシングペーパーは、こういう時に使うためにあるのだ。
* 下の扉は枠材より20mmほど出ている。。LED灯は、上から水が降ってきたときに取り替えてもらったもの。天井に染み付いた汚れを見ただけでも、長い年月がわかるようです。片付かないままで恥ずかしい。
2024.06.15
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原点に帰って考える、生活を学び直す 69
またしても、欲望が(1)
妙な夢を見た。慣れた建物の中で誘われてついて行くと、なぜか石が高く積み重なった柱のようなものが並んでいるのが見えるところに着いた。誘った人はその一つの上に立っている。狭い上に、安定しているのかもわからない。見ているだけでクラクラするようだった。高いところが苦手なのだ。これはいけないと思って、もう一度寝ようとした。そしたら、もう一度、夢の中で同じような場面が現れたのだ。目を開けても、まだなんだかムズムズしていた。一体、どうしたことだろう。
こないだアマゾンプライムで、フロリダの海沿いの街で住宅をリノベーションする番組を見ていたら、またもや自分でもやってみたくなった。そこに登場するのは、大きな家でしかもけっこう大がかり、だけど工期は極めて短い(可能なのか?)。そのデザインはモダンかつ華やか過ぎるようで好みとは合わないけれど、住む人の住まいに対する嗜好や要求が強いことを思い知らされて、自分の住宅に対する想いの強さについて再考させられるようだ。
その我が身を顧みれば、ぼんやりしているうちに、もはや自分が設計した家に住むのは遠い夢になったような気がしてくる。それで、野の花を摘んできてみたり、飾り棚やら、テーブルランナーやら、クッションカバーやらを試みてはいたのですが。所詮、小手先のことはやっぱり小手先にすぎず(ま、うまくやれば、状況によっては満足度は上がるかもしれませんけれど)、一時しのぎであることからは逃れられない。それでも、なかなか簡単には諦めきれない。
で、借家に手を入れるのはどうかと思い始めた。実は、前にもそういう時があったけれど、踏み切れなかった(きっとまだ、密かに望みを持っていたのだ)。たいしたことはできないけれど……。何しろ、40年ほども引越しをしないまま住み続けてきたのだから、ものはたまる一方なのだ(これが、元凶かも)。
55cmの通路
まず、一つ目は、ワークスペースと食堂(といっても独立した部屋というわけじゃないけれど)から台所に至る通路が55cmしかない(だから、たとえば冷蔵庫が不調になって取り替えようとしても、このままでは無理)。おまけに、収納量を増やすために古いものを騙し騙し使ってきたワイヤーラックも少しかしいでいて、いつダメになるかわからない(床が水平じゃないためもあって、実際に1本足元のキャスターを取り付ける部分が折れた)。たいていのものが、不要になったものやあり合わせのもので、賄ってきたのだ(いわば、その場しのぎで、計画的なものではない)。
そこで、以下のように改善する。
まずは、通路の間隔を20cmほど拡張する。間仕切りパネルの移動に加えて、ワイヤーラックを突っ張り棒と棚受けと棚板の組み合わせに取り替える(それにしても、改めて眺めていると、職場に置いていた本を捨てて、家にあった雑誌が残ったのは返す返すも残念な気がする)。さらに、テーブルの高さをほんの少しだけ低くして(680mm→665mm前後)、天板を厚めのものとしたい(そうすると、Yチェアの収納がしやすくなるが、テーブル下の棚の行き先を考えなければいけない)。
A&Vコーナー
ふたつ目は、リビング、というかA&Vのための場所。センタースピーカーとディスプレイが干渉しないようにしたいし、できるだけ多くのCDとDVDを置いておきたい。今は、別の部屋に置いてあって、これをいちいち取りに行ったり戻したりするのが面倒(ものは使い終わったら元に戻すというのが鉄則、というのは重々承知しているのですが)。このため、すぐにCDやDVDが積み上がることになる(これも、厄介)。
プロジェクタとスクリーンの組み合わせも魅力的だけれど、大型ディスプレイにも慣れてきたことだし、面倒なことはできるだけ忌避したいと思うこのごろは、もうこちらはいいかと思い始めている(うーむ)。ここも、突っ張り棒を活用して棚を作るのが簡単かもしれない。それに、レコードプレイヤー及びレコード盤を置くために使っている既存の家具を併用する。窓際の小さな机も、もう少し使いやすくしなければいけない。
3つ目は、寝室。衣類だけじゃなく録画DVDなどもあって、ものがいっぱいなので、いくら目につきにくいとはいえもう少しスッキリさせたい(ということで、現況写真はなし)。ベッドの頭のカウンターも、既存の棚と箱を流用しているために、凹凸がある。したがって、棚とクロゼットが課題(こちらは納戸との関係もあるが、納戸まではちょっと欲張り過ぎかもしれない)。こちらはもともと和室だから、箱状の家具を作るしかないようだ。
他にもいろいろあるけれど、それを言い始めたら、新しく建てるしかない(それが無理なのだから!)。
思い悩むより、やってみるというのが正解なのだろうか?(経済的にはちょっと簡単ではないけれど、少なくも1部だけでも)。さて、何からやればいい?
ともかくも、ちょっと考えてみることにしよう。黄色のトレーシングペーパーの出番だ(何しろ、まだたくさん残っている)。時間は、どうだろう。
2024.06.08
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原点に帰って考える、生活を学び直す 68
段取りがイマイチ
模様替えをもう一つ。と言っても、例によってごく簡単なもの。
夏用クッションカバー
ずっと気になっていた、ソファのクッションカバーを変えた。このところはソファに座ることがなかったせいもあって、ずっとそのままになっていたのを、ようやく夏用に取り替えることができた。黒っぽいラインが入ったものと青のギンガムチェックのもの。貰い物ですけど、まあ似合っているような気がする。実はいま、もう少し、家のことを本気で整えなければいけないと思うようになってきている。なぜかについては、またの機会に。
ちょっと訳あって、だいぶ前のことになりますが……。生姜焼き用の肉が余ったので、さっと焼いてハニーマスタードソース添えにしようとおもった。ところが……。
肉が幅があるので大きいフライパンで焼いて、ソースも同じフライパンで作ろうとした。これが間違い。底面積が大きいので、水分がすぐに蒸発してしまうのだ。もう少し小さなフライパンで作るべきでした(やれやれ。考えてみれば、すぐにわかりそうなことなのに)。おまけに、この時の写真も撮るのを忘れた。段取りが悪いのだ。
そのあと、到来物の高級牛肉のすき焼きを堪能する幸運に恵まれた。そのあと、お肉を少し残してもらっておいて、すき焼き丼を作ることにした(山形牛と宮崎牛の豪華二本立て)。小さめのフライパンに野菜を炒めたところに豆腐やしらたき(僕は、すき焼きの中では、これが一番好き。しらたきのことです)を入れて、割り下で煮込んだ。その傍で、もう一つのフライパンでお肉をさっと焼き、2つを合体させた。
そして、かねて用意の丼にご飯とすき焼きを乗せた。とまあ、ここまではそこそこ順調に運んだのですが、大事なものを一つ忘れていました。それは、最終的な盛り付けの要(⁉︎)となる卵の準備。すき焼きの時とは違って生卵というわけにはいかないので、ごく浅く茹でたゆで卵を載せるつもりだったのですが……。すっかり失念していた(一度に覚えることのできる容量が、ますます減っているのかもしれない)。
卵が寄った牛丼
で、ないのも寂しいので、急いで湯を沸かし強火のまま卵を茹でること3分ほど。柔らかさはともかく、殻をうまく剥くことができなかった上に、丼の真ん中に載せることができずに、黄身の部分はするりと滑って端に寄ってしまったのでした(ああ!)。具材のところにくぼみを作っておかなければいけなかったのだ(またしても‼︎)。
初めて作ったブリティッシュブレックファストの時も、そうだった。パンとマッシュルームがないのに気づいた。仕方がないので、パンは諦めることにして、マッシュルームのかわりにカリフラワーを添えることにした(何と言っても、臨機応変。あるものでなんとかする)。おまけに卵がうまく割れずにからもいってしまった。箸で取ろうとしたら、黄身が崩れてしまったのだ(なんという段取りの悪さよ!)。仕方がないので、ここでも両面焼きにすることに方向転換。
最近はこんなことばかりのような気がしますが、ここでも手順表というか計画を事前に立てておくことが肝要のようです(歳をとったら、特に)。
そして、もう一つ。盛り付けがなかなかうまくいかないのはもはや周知の事実だけれど、やっぱりちゃんとスケッチしておくことが大事なのだろうか。盛り付けばかりに凝って肝心の味がイマイチというのは論外だけれど、盛り付けは料理の大事な要素の一つ。これを無視するのもつまらない。優れた料理人の盛り付けを見るのは楽しいし、それらはなんと素晴らしいことか、とつくづく思います。
2024.06.01
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原点に帰って考える、生活を学び直す 67
鍛冶屋に挑戦してみた
先日はまた外出する機会があった。おおよそ3週間ぶりで、引き籠りがちの身にとっては、かなりのハイペースだけれど、ありがたい。
夕方の屋外席
おかげで、たっぷり、おしゃべりを楽しむことができました。やっぱり、屋外席で飲むのは格別です。ただ、その時の写真を送ってくれたのですが、改めて見てみると、背中が曲がっているし、思った以上におじいさんですね(驚きました。やれやれですが、自分を客体化して見ることの大事さは知れます)。
懐かしのアンディ
最近は、またしてもCD(といっても中古品がほとんどですが)を買うことが増えている。ついこの間は、アンディ・ウィリアムスの3枚組を手に入れた(紙製のジャケットが脆くて、すぐに破れた。おまけに、取り出すのもむづかしい)。これに限らず、古いものばかりだ。これはいったい、どうしたことだろう。もちろんそれに入っている歌や演奏が好きということもあるけれど、それと同じくらいに、あるいはそれ以上かもしれないが、懐かしいのだ。アンディのものは、「ムーンリバー」、「モア」、ダ「ニーボーイ」等々の歌ももちろんいいのだけれど、うんと昔『アンディ・ウィリアムズ・ショー』という番組があって、家族で見ていた気がする。具体的なことは何一つ覚えていないのだけれど、つい手にしたくなるのだ。
さらには、久しく聴いていなかったCDやLPと取り出してくることになる。その結果、クラシック音楽を聴く時間が減り、ロックを聴くことが増えた。たまには、たっぷりとした声で歌われたやポップスも悪くない。それでも、中には懐かしさを満たしたらそれで十分という気がして、一度だけしか手にしないものもある(うーむ)。
さて、以前に柄の交換をしようとして、いびつな形になってしまった雪平鍋は捨てるには忍びなく、ちょうどいい大きさと厚さで、下茹で等にピッタリだった。それで、あんまり手入れもせず便利だということだけで使っていた。使用上には全く差し支えないものの、それでも見るたびに歪んだかたちと黒ずみがなんとも気になってしまう。
それでもう捨ててしまおうかとも思ったのですが、なかなか捨てられない(この辺りは、かのイタリア人気質に近づいているのかも?)。そんな折に、ちょうど鍛冶屋の仕事ぶりを見る機会があったので、ダメで元々のつもりで金槌で整形を試みたのでした。案外簡単だった(まあ、アルミは柔らかい)。
整形した行平鍋
なかなか真円というわけにはいかないけれど、まあまあの形になった。案ずるより産むが易し(なぜもっと早く思いつかなかったのだろう。やれやれ)。そこで、ものはついついでとスチールウールのたわしにクレンザーをつけて磨き、さらにクエン酸で黒ずみを取ることにしてみた。まあまあ回復したようだ(本腰を入れて磨くと、もっと綺麗になることはわかっているけれど、今回はここまで)。これで、また気持ち良く使うことができる。
やってみればいいのだ。
今更のようですが、ものであれ、ことであれ、思うことがあるのなら、まずはやってみるのがいい。もちろん可能な範囲でということですが。たとえば、いきなり棒高跳びの世界記録を超えて飛びたいと思っても無理でしょうけど、棒高跳びを始めることはできる。もちろんケーキ作りだっていい。もしかしたら、意外な能力に気づくことだってあるかもしれないのだから、これだって低く見積もることもない。失敗したら、やり直せばいいだけのことだ。
むやみに新しいものを欲しがらずに、いま手元にあるものを大事にする、使いこなすということも心がけなければいけませんが。それに、何かと面倒だからとうっちゃってしまいがちなところも(これは、僕の場合)。
せめて、使い捨てのやり方から遠ざからなければ、と思う。それは、道具だけに限らず、音楽だって同じことだ。さらにいうなら、ほとんど全てがそうなのだろう。心しなければいけない。
2024.05.25
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原点に帰って考える、生活を学び直す 66
目に見える成果を
初めて古着で手に入れたもう一つのベストが、クリーニングから戻ってきた。
初めての古着2号
改めて見ると、今の季節には、デニムの方が合うかも。さてどうだろう。それに、こちらもポケットがちょっと変わっていて、片方が2段になっている(選んでいた時は、全く気がついていなかった。やれやれ)。
ところで、もう5月もあと数日で下旬に突入する。早い。本当にあっという間。そう思うと、人生は短い。極めて短い。
それで、せめて何か成果が目に見えるようなことをしようと、卓上の模様替えをした。と言っても、基本はオレンジ色や茶色の入ったテーブルランナーをラベンダー色(ちょうどラベンダーの季節とも合うはず)のものに変えたくらいだけれど。
それに、ガラスの板は仕切りのためのミースとコルビュジエの両巨匠のパネルの下に移動して、ものを置くスペースとふだんは何もない場所の二つを明確に区画しようとした。悪くない考えだと思ったのですが、そこで、ちょっとした問題が発生した。
最近はこのテーブルで書き物をすることが多いのですが、パソコンを動かすたびにテーブルランナーの方がよれてしまって、美しくない。これが厄介。気になって、その度に直すのだけれど、なんだか落ち着かないのだ。
何もない状態
模様替え後
できれば、ミースとコルビュジエの両巨匠のパネルの向こう側もさっぱりさせたいと思うものの、まあスペースのこともあるし、負け惜しみのようですが、あんまり何もないような片付きすぎたのも好きじゃない(だから、きちんと並べなおすくらいがいいのかな)。
それからもう一つ、園芸店で買ってきたハーブの苗の植え付けも行った。植えたのは、家でよく使うイタリアンパセリとスウィートバジルの2種。前者は二年草、後者は本来は多年草だそうだけれど、寒さに弱いので日本では一年草として扱われるよう。
連作を避けて、古い土を再生させるための土をかぶせたり、腐葉土を足したりしてみたものの、後で改めて育て方を調べてみると、色々と注意事項が書いてある。例えば、土は元の苗についている土より少し低いか同じくらいにするとあった。初めてというわけじゃないので、とくに留意することもなくなんとなく植えたので、うまく育つかどうか心配になった。ただ、お店で苗の見分け方を聞いた時には、バジルの苗は強いので大丈夫ですよと言っていたので、まあ問題なしだと思うけれど……。
ま、なかなかうまくいかないものです(やれやれ)。
2024.05.18
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原点に帰って考える、生活を学び直す 65
また、初めてのこと
復活!
まずは、例の芙蓉について。順調に成長して、一目見ただけでもう芙蓉だということがすぐにわかるような葉をつけていた(嬉しい)。
このところは、ブリティッシュ・ベイクオフが面白くて、ビデオはもっぱらこればかり。あっというまに、シーズン5まできた。そろそろ映画に戻りたいのだけれど……。
ともあれ、見ていると自然と応援したくなる人が出てくる。もちろん直接知っているわけがないし、知り合うチャンスも皆無だから、なんだか、むしろ自分の性向の一端が明らかになるようだ。柔和で少しはにかんだような笑顔の人、創造力に富みながらも独善的であることから遠い人等々、でも彼らがたいてい1位になれないのはどうしたことだろう。と言っても、出場者のほとんどがそれに当てはまるようだし、謙虚なのだけれど。それに、常に最善を尽くそうと努力するのが素晴らしい。
時々、巻き戻しなんかしながら見ている。ま、暇っていうことでしょうか(先の草上のピクニックの時には、ついにドラマでも倍速で見るようになったという告白もあった)。
ところで、先日また、初めての経験をした。この年になって初めてというのは、なかなかに感慨深いものがあります。まあ、何にでも初めてということがあるし、それはいくつになっても変わらないのだ。
それがなにかといえば、中古の洋服。すなわち、初めて古着を買ったのだ。これまで、お下がりは別にして、古着を買ったことはなかったし、さして関心もなかった。特に理由があってのことじゃない。なんとなく縁がなくて、遠ざかっていたというだけなのですが。
それが、中古のものを購入することに慣れてくると、洋服だってと思うようになったのだ。若い人たちは、古着に対する偏見は全くないようだし、むしろ特別の価値を見出しているような気配もある。
ところが、僕と同じくらいの年代の人間には、少なからず抵抗があるようなのだ。本を収納する場所を失った時に、全部売ってしまって、本当に必要なものがあればまた買い直せばいいとアドバイスしてくれた友人たちも、古着はねえ、人が着たものだからなどと言う。
僕の場合、いまや、本やCD、それにDVDについては、中古を購入するのはすっかり当たり前になったし、抵抗もなくなった。元々は、新刊が手に入らなかったことからやむなく始めたのだったが、今では経済的な理由の方が大きい。
だいたい、洋服にしても新品で買ったところで、1回着てしまえばもう中古なのだ。時々、探してみていたのだけれど欲しいものが、新品ではなかなか見つからない。運よくあったとしても、うんと高いこともある。カジュアルなものが欲しいので、まずは安い古着を試すのが良いという気がしたのだ。ただ、どこへ行けばいいのかがわからない。初心者というのは、何にしてもむづかしいものです。
それが、近くのブックオフに本とCDを探しに行った時に、2階に古着も売っていたことに気づいたのだ。それで、ものはついでと覗いてみることにした。実際に見てみると、ずいぶん安く売っている。180円の値札がついたコーナー(驚くべし!)には、シャツの類がずらりと並んでいた。これはと思って、その他のコーナーを探してみると、ジーンズだって売っていた。銘柄やサイズもピッタリというものもあったのですが、こちらは裾上げのことを考えて諦めた。
初めての古着
ついで、ベストのコーナーを探してみると、数は多くなかったけれど、いちおうあった。ずっと、カジュアルな黒のベストが欲しいと思っていたのですが、なかなかそれにピッタリあうというものはない。それでも、細い縦縞が入った綿のものが目についた。元はスーツ用のようで、背中がポリエステル製。前身頃と共布じゃないから、カジュアルにはどうかという気もしたのだけれど、税抜きで980円だし、さらに特別セール中でなんと30%引きというので、物は試しと買ってみることにした。ついでに、少し大きいかという気もしたデニムのベストも(こちらも同じ値札がついていた。いずれもが、ブランド名は知らないものだった)。
さて、首尾よく行くかどうか。黒のベストは、写真を撮る前にクリーニングに出した(ちょっと焦りすぎたかも)。デニムの方は、すぐに洗濯することにした。改めて見直したら、ポケットの形が気になったけれど、まあ着れなくはないだろう。
デニムのベストは、まずは白いシャツに合わせるのが良さそうだ。たぶん、そんなに変なことにはならないだろう。Tシャツにもいい気がする。あるいは、着たきりの黒のモックネックの上にでも。もしかしたら、ささやかな変化が起きるかも。着た切り雀、同じ格好から抜け出ることができるかもしれない。
2024.05.11
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原点に帰って考える、生活を学び直す 64
空中の和食、草上のお弁当
大型連休(ま、我が身にはあんまり関係ないようにも見えますが)の中盤からは天気に恵まれた。日差しは5月というよりも7月くらいの暑さだけれど、日陰で風が吹くとやっぱり5月なのだと思わされるような塩梅、けっこう大変です。そんな中、珍しいことに、この間に遠出が二日続いた。
まず、1日目は大学の同期生の集まりのために、渋谷に。あらかじめ渋谷の変化が著しいから気をつけてと聞かされていたので、横浜からは会場に近いはずの東急東横線で行くことにした。混んでいることを覚悟して乗り込むと、案に相違して空いていて、席はよりどりみどり。ゆっくり座って行くことができた。
ただ降りてみると、改札口からすぐのはずの会場へはなかなかたどり着かない。不安に思いながらも、こちらの出口のはずと頭上の案内板を頼りに進む。ようやくたどり着くと同じ番号にaとbの二つがあって、思わず地図を探しに戻ったりした。
地上に出ても、事情は変わらず、会場があるはずのビルの中のお店のお姉さんに聞いて、ようやくたどり着くことができたのでした。
会場に集まったのは4人だけ。体を壊したり、帰郷したりして、減ってしまった。あと数人は近隣にいるはずだけれど、それぞれに事情があるのだろう。集まった4人とても、いろいろな事情を抱えている。この年齢の集まり例に漏れず、病気の申告があり、高校や卒業名簿を使って生存率を計算した報告もあった。これによれば、大学の同期の生存率はおよそ8割ほど。まあまあの好成績らしいけれど、残りの皆が万全というわけでもないし、状況が不明の者も含まれているのだ。
出かける前は、ちょっと気が重いところがなくもなかったけれど、それでも久しぶりに会うと、やっぱり楽しかった。でも、こういう会を持つためには、世話好きというか企画を立ててくれる人が不可欠ですね。
空中の眺め
会場からの眺めは素晴らしかったが、ただ、それは街の美しさというより、眺望の開放感のせいのような気がする(写真で見ると、余計にそう思います)。
また、サインを頼りにしないと歩けない、というのは人が暮らす街としてどうなのだろうと思わざるを得なかった。もはやここに住んでいる人は多くないのかもしれず、通勤や通学、買い物をしたり食事をしたりする街、すなわち消費するだけの街になって、住むための街ではなくなっているのだろう。果たして、大勢がそれを求めているのだろうか。大規模な開発や再開発を統括した坂倉準三先生や内藤廣先生はどう思うのでしょうね。
2つ目はその翌日、こちらも快晴、みなとみらいでピクニック。卒業生が企画して、連れ出してくれた。
その日が祝日だったせいで、電車は満員。座ることはできなかった。駅を出て臨海パークまでは近づくにつれ人が少なくなったのだけれど、いざ着いてみると、好天気と景観に恵まれたせいか、たくさんの人が出ていた。
草上の人々
芝生の上のあちらこちらにテント(!びっくりしました)やシートを広げてくつろいでいる人がいるかと思えば、フリスビーやバドミントンを楽しむ人たちもいる。それに海のすぐそばあたりでは、ヨガのグループも。
日本の公園の使われ方が、ずいぶん様変わりした様子に驚きました。良くも悪くも欧米化、洋風化が進んで、差が小さくなったのでしょうね。極めて当たり前のことながら、世の中は変化していて、かつてと同じではないのだ(うーむ。反省)。
誘ってくれた卒業生たちも皆元気で活躍していて、ちょっと気になることもないではなかったけれど、なかなか心強く安心した次第でした。
帰りは、パシフィコを抜けて横浜まで歩くことになったのだけれど、歩道の両脇にはたっぷりの柔らかな若葉をつけた木々が並んでいて、丸の内の三菱一号館美術館あたりの一画と同様、ちょっと日本離れした景観で、こちらにも驚いた。
おかげで、楽しくて、いい時間と景色を楽しむことができたこの2日間でした。これで、気分も変わるといいのだけれど。
ところで、遠出するときにできるだけ身軽にしようと思って、写真はアイフォンに任せることにしてカメラを持たずに出かけたのですが、確かに軽いのは良かった。ただ、パソコンに取り込むのが面倒のよう。iCloudで同期すると簡単かもしれないけれど、すぐ容量がいっぱいになりそうだし。何事も一長一短、ということか。いいことばかりを望むのは、虫が良すぎるってことですね。
2024.05.04
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原点に帰って考える、生活を学び直す 63
ディスプレイの中が世界
久しぶりに晴れたので、散歩に出ることにした。外に出てみると、先日の寒さとは打って変わって初夏、というかほとんどもう夏の暑さ。
霞む海
遠くの方に海を見ることのできる場所へ行くと、建物も野島も海もみな霞んでいた。そうか、春霞か。その前は青々とした海が見えていたのに。初夏、なのに春霞?もしかしたら、景色も迷っているのかもしれない。
前に触れた「ブリティッシュ・ベイクオフ」では毎回、敗退者が出る。一人か二人は、競争から外れなければならない。当然、誰もがそうはなりたくない。だから、調理を終えて結果が発表されるまでの間、不安と期待の板挟み。とくに思うように作ることができなかったと思っているベイカーはそうだ。反省と悔恨と、なぜという自問が交錯する。それでもなんとか残りたいと願って、その表情は歪んでいる。
しかし、一旦結果が明らかにされると、彼らの表情はすぐに笑顔に変わる。敗北を認め、勝者を讃えるのだ。勝者も喜びこそすれ、奢ることなく敗者を抱きしめる。退場者へのインタビューでは、恨み言も言い訳もなし。その多くが、ときにユーモアを交えながら、前を向く。さっぱりとして潔く、素晴らしい。
こういうのを見ていると、何かを成し遂げるというのも大事だけれど、努力をして、その結果にかかわらず、人としての品位を保つ振る舞いをすることが尊いのだと教えられるのだ。それはいわゆる上品さ、すなわち洗練された品のよさというより、素朴であっても粗野じゃないということのような気がする。
それにしても、テレビを見ていると細かいところが気になる。とくに、料理番組やドラマの中での食事の場面(料理にしか興味がないのか⁉︎)。
たとえば、小皿の醤油をなみなみと入れる、刺身や握り鮨を何回か醤油に浸してどっぷりつける、といった場面(しかも鮨の時、ご飯の方の場合は最悪)。食通と言われる人やその設定、あるいは食レポ担当の場合は、とたんに興ざめしてしまう。信用できない気になるのです。何しろ、味に敏感な食通という設定だからね。そうでなければ、ま、人それぞれ、好き好きなのでとやかく言う筋合いはないのだけれど。
だから、自分が食べるときに、小皿に醤油を注ぎすぎたりすると、しまったと思うのです。見て、美しくない気がする。それよりも悪いことは、そのことを気に留めていなかったということに他ならないのだから(正式なマナーのことはよく知らない)。
歳をとると、そうした細かいことが気になってしようがないのです。偏屈になっているのに加え、世界が狭くなり、さらには退屈しているせいに違いない。おまけに、我が身のことを思わざるを得ないのだ。
何をするにせよ、所作を美しく、見苦しくないようにしなければいけない。歳をとると、ついそのことを忘れるし、おまけに知らず知らずのうちに姿勢が悪かったり、みすぼらしくなっていたりすることが少なくないのだ。だから、危険だし、よけいに自覚しなければと思ってはいるのですが。
人と会わないでいると、ついそういうことも忘れてしまうのですが、仙人たちは偉いなあ。彼らは人と会わずとも、自分を律することの達人なのだから。
とすれば、人の目を気にするということは、必ずしも悪くないのかもしれない。自分で見えないところを他者の目で見てもらうということでもあるのだから、自分を客観的に見るための有効な手段のひとつになりうるのではあるまいか。そう考えるならば、悪くないどころか、むしろ不精なものにとっては、必要なことのようなことのように思えてくる。
と書きつけていると、なんだか自分にとっての素敵な場所はテレビのディスプレイの枠の中にあるようで、ちょっと……。
それでも最近は、散歩していても花壇や庭だけじゃなく、路傍にも野の花が咲いているのを見かけるようになった。また、摘んで来ることができる。閉じ込められていた世界が少し広がるかもしれない。徐々に広げていかなければ。
2024.04.27
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原点に帰って考える、生活を学び直す 62
「ミステリー in パラダイス」の日々
もう四月も半ばを過ぎた。あっという間。早いですねえ。新しい生活を始めた人は、ようやく慣れ始めた頃か……。
みずみずしい緑
辺りの木々の緑もみずみずしさを増して、すっかり春らしく、というか、時には春を通り越して初夏の様相を呈することもあるくらい。新しい生命の息吹は、生きる力になるような気がする。世の人々は、どんな風に過ごしているのでしょうね。外に出て、戸外生活を満喫しているのだろうか(働いている人は、休みの日しか無理でしょうけど)。
僕は、このところは散歩もあんまりしないで、皿の使い方(というか盛り付け)が面白くなってきた。先日の黒い皿に気を良くして、何年か前に植木鉢の水受けのために450円だったか480円だったかの特価で買った皿をよく洗って使ってみたりもしている(こういうところは、なぜか労を惜しまないでやることができるのです)。
植木鉢用皿の再利用
盛り付けは時間がかけられず、しかも一発勝負なので、即興でやるとなかなかうまくいかない(何しろ不器用だし、物覚えも悪い上に、センスも経験値も乏しい)ので、あらかじめスケッチして検討しておくことが大事なようです(こちらは、まあ嫌いではないので、実践するようにしようと思います。計画倒れになることも多いですけど。モランディ・2の予告編も書いたことだし)。
それ以外には、はじめはただのつなぎにと思っていた「ミステリー in パラダイス」をしっかり見たりなんかしているのですが、こちらは至って快調。
死体の後は相変わらず、殺人事件にはおよそ似つかわしくないような、のんびりした曲が流れる。でも、もうシリーズ10まできてしまった。
話の筋は完全に形式化されているのに、飽きずに見てしまう(ほかに楽しみがない⁈)。うーむ。美しい風景と、コメデイタッチに本格的推理の要素を少し(過程は、だいぶ省略されているけれど)。案外新機軸なのかもしれない。
マンネリ化を避けるためか、シリーズごとに主だった人が少しずつ入れ替わっていて、主人公でも例外ではない。その主人公はといえば、一癖も二癖もある人ばかり。シリーズ9から登場した4人目の主人公(警部補)は、神経過敏で、敏感肌で、花粉症、蚊にも恐ろしく弱い。あらゆる神経症を引き受けているようだし、精神的なプレッシャーを感じるとすぐに発症する。
ある事件の警察官の対応の適法性についての査察のために、マンチェスターからやってきたのに、やむを得ず捜査の指揮を取る羽目になり、どうやらしばらく居つくことになりそうだ。やっぱりジャケットにネクタイは欠かさないよう。ただし、格子柄のシャツはボタンダウンだし、ネクタイもけっこう鮮やかな色のものが多い。昔に見たイギリスのテレビのコメンテイターのネクタイの派手さと悪趣味ぶりに驚いたことを思い出すけれど、それに比べるとそれほど悪くない、と思う。おまけに背中には、いつもリュックサックを背負っている(初代は、手提げ鞄だった)。
ある時、「生きるのは下手だけど、謎を解くのは得意です」などと言っていたけれどね。まあ、得意なものがあるというのは、ちょっと羨ましい。
でも、だんだん馴染んできたよう。主人公が馴染むのはいいけれど、主人公に馴染むのはちょっとまずい、かも?
2024.04.20
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原点に帰って考える、生活を学び直す 61
長いアプローチのあるお店
帰省したついでに、病を得て九州に戻った友人と会うことになった。予定していた日の天気予報はあいにくの雨だったのだが、当日になると曇りに変わり、しかも日差しもあった。改札は一つと聞いていたのだが、いざ降りてみると出口は2つあるようだった(こんなことが時々ある)。携帯電話もカメラも、電話番号をメモしてくることさえも忘れてきたのでどうしたものかと思ったけれど、ままよと思い、大きい改札はどちらか聞いてそちらから出ることにした。と、すぐ脇の待合室から彼が出てきた。
それから、予約しておいたというお店の方に歩き始めた。私鉄に乗り換えていかなければならない。歩いていると、前日までと打って変わって風が冷たく、寒いくらいだった。「この辺りは、昔はずらりと商店が並んでいたんだけどね。今はすっかり寂しくなった」と、彼が言う。こうした状況は地方の中小の都市ではどこにでも見られるし、なかなか改善されない。大都市集中、通販の普及にコロナ禍の影響も加わったのに違いない(ボールペンの替え芯を買いたいと思っていたのだけれど、結局手にいらなかった)。
私鉄に乗り換え、目指す駅に着くと、赤い柱と梁が目を引いたけれど、それ以上に人の多さに驚いた。まだ予約の時間までには間があるというので、天満宮へ。ほんとうに久しぶりだったけれど、ここでもさらに人の多さにびっくり。外国人観光客が多いらしいのだが、日本人も少なくなかった。まさに、「浅草に行くようなものだね」ということののようだった。
参道沿いの木組みのスターバックスのファサードは写真の方が良い気がしたし、藤森風をもっと大掛かりにしたような仮本殿にもあんまり惹かれなかった。すぐそばで若者が、「ああ綺麗」と言ったのだけれど。こちらの感性がへそ曲がりなのかもしれない。
それからお店の方に向かった。
「ここは覚えているんじゃないか?」
と言う。
「えっ?」
「歴史博物館の方だよ。通ったんじゃないか?」
僕は、全然覚えていなかったけれど、アルバイトをしていたことがあって、敷地内だったか公園だったかの中の公衆トイレを設計したことがあった(初めての実作!)。
のれんのある門*
長いアプローチ*
静かな道を少し行ったところに、目指すお店があった。こちらはひっそりとして落ち着いた佇まいで、暖簾をくぐると長いアプローチがあって、風情があった(こういうお店にも久しく縁がない)。
豆腐づくしのお店だという。彼はお酒が飲めなくなっていたのだったけれど、舐めるだけと言って、ビールと日本酒を一口。あたりの静かさとは打って変わって、大いに話が弾んだ。読んでいる本のこと、日々の暮らしぶりのこと等々。
ただ、話題は楽しいばかりにとどまらない。彼が参加している会のことから始まって、いつの間にか現在の政治状況や新国立競技場以来の樹木の保全の問題になると、とたんに二人ともがっかりしてしまう。時の権力者や利権者は、運用の際の解釈が変わるだけでなく、場合によっては都合の良いものに変えてしまう(ま、権力者とは関係ないけれど、我知らずわがままになっていたかもしれない自分のことは一旦脇に置いて。というのは、僕の話)。
それから彼の家へ。こちらは2.5軒目。一度建てたものを壊して建て直し、それから戻るときに改修した。羨ましい限り。僕は、今頃になって自分で気に入るようにした家に住みたくなったというと、家は3回くらい建てないときにいるものは手にいらないというね、と。もはや無理なようだけれど。彼は、よく事務所勤で家が建てられたなあと思う、と言っていたけど。
家は、ヤコブセンのセブンチェア、アアルトの安楽椅子、それに懐かしいニーチェア等が置かれ、イサム・ノグチのテーブルは留守の間住んでいた娘夫婦が置いていったものらしい。照明器具は、ヘニングセンやレ・クリントの北欧デザインのもののよう。ただ、ショールームのような気取りすぎた感じは全くないのが好ましかった。建て具は木製からアルミにほとんど変えたということだった。一方、僕だったらこうしたいなあ思いながら見ているうちに、やっぱり自分が好きな空間で暮らしたいという気持ちがまたぞろ頭をもたげてきた。
ピアノを練習し、お茶を楽しみ、漱石を読み直し、もはや興味はないと言いつつも手元に残った建築関係の本も読むようにしているらしい(うーむ)。さらに、買い物もするし、朝食作りも担当している(その後の片付けももちろん)というのだが、その中身を聞くとけっこう品数も多くて僕がつくるものなんかよりもあるかに充実しているようだった(偉いものだ)。
丁寧に暮らすということを実行することは易しくないけれど、もう一度気持ちを切り替えてやり直さなければ、と思った次第(さて実践できるか。それが問題、だ)。
* 写真は、友人が携帯電話で撮ってってくれたものを加工しました。
2024.04.13
読んでくれて、どうもありがとう。
お便りなど、こちらから気軽にどうぞ(全くないので)。
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* こちらは未だ、相変わらず急ごしらえのままですが、名称を「みんなの間取り相談所」に変更してみました。お試しでも、連絡は「こちら」。お気軽に、ご遠慮なくどうぞ。
原点に帰って考える、生活を学び直す 60
読書の練習が必要
本が読めない。読むべき本はたくさんあるのに、長時間読み続けることができなくなったようなのだ。
出番を待つ本
名作を知らないままでいるというのはいかにも残念なので、読書の名人たちが勧める本を借りてきたり、(古本で)買ったりして読もうとするのですが、なかなかはかどらない。昔なら一晩で読み終えていたはずの本も、今では寝る前のごく短い時間に少しずつ。したがって、ひと月ほどもかかることがある。いくら味わいながらゆっくり読むといっても、これじゃああんまりだ。小説などはもう、前の筋をすっかり忘れてしまう。
その代わりに、夜は「ミステリー in パラダイス」なんかを見たりしている。昼はランチごっこの前後に、旅行や料理番組を収録したDVDを見ることが多い。映画はさっぱり観ることがない。じゃあ何か他のことをしているかと言えば、そんなことはなくて(と威張って言えるようなことじゃありませんが)、片付けも全く進まない。要するに、ただぼんやりしているだけ。
「ミステリー in パラダイス」の合間には、「トスカーナの大衆酒場の事件簿」を見た。というのも、「ミステリー in パラダイス」の主人公が不憫に思えた時があったから。こちらは、酒場に集まる年寄りの傍若無人さが、逆に慰めとなる。2話(4回)で終わってしまったので、今はまた「ミステリー in パラダイス」に戻って、シーズン6あたりまで来た。主題曲のようにのんびりした感じがあって、話はあんまり深刻になりすぎないし、たいてい賑やかな雰囲気で終わる。海の景色は相変わらず美しい。寝る間を惜しんで(?)、続けて見たりすることもある。
先日見た回はラブ・アクチュアリーで女性にもてないのは英国女性のせいと思い込んでアメリカに出かけた若者を演じていた人が主役で、しかもコリン・ファースが演じるジェイミーがオレリアが働くレストランで求愛した時とそっくりな場面が出てきたりして、この辺りもなかなか面白い。そのほかにも、見たことのある顔としばしば出会うというのは、それだけ英国製のドラマを見ているってことですね。
届いた歌集
さすがにこれではいけないと反省して、午前中や昼間には読書をしようと思っていたところに、友人から綺麗な装丁の歌集が届いたので、これ幸いと始めることにした。何と言っても歌集だから、一つの文(短歌)は短く、31音しかないのであっという間に読める。幸い、いくつかの歌ごとにタイトルがついているので、これを単位に読む練習をすることにしようとしているところ。
目次を見ていたら、最後のほうに一緒に出かけた展覧会の名前を見つけた(一部は、すでに読んでいるはずだけれど)。ゆっくり読み進めて(何しろ短歌ですから)たどり着くことを楽しみにしよう。
ふと気づけば、3月も終わり。もう1年の1/4が過ぎた、ということなのだ!
2024.03.30
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原点に帰って考える、生活を学び直す 59
「ガレージセール…… 」の次は南の島のミステリー
「ガレージセールミステリー……」 が見られなくなってしまったので、今度は「ミステリー in パラダイス」(原題は、“Death in Paradise”)、イギリスBBC製。と言っても、舞台がカリブ海に浮かぶ島だから、英国製の重苦しさはない。歴史を感じさせる建物や緑豊かな田園の風景もないが、その代わりに海辺の美しさが魅力的。シーズン12まで製作されているというから、本国では人気があるということでしょうね。
ミステリー in パラダイス*
シーズン1と2の主人公は、ロンドンからやってきた警部補。海辺の簡素な建物に、もともと棲みついていた緑色のトカゲとともに暮らしている。
生真面目で、ちょっと間が抜けたところがあるように見えるのだが、大詰めの頃になると打って変わって閃く(まあ、閃かないと、事件が解決しないわけですが)。それから、関係者たちを一堂に集めて、犯人を明らかにしていく。
暑いのをぼやく事しきりなのに、スーツにネクタイを締めることを決して忘れない。出かけるときは、必ず手提げ鞄を持っているし*、汗を拭くためのハンカチが欠かせない。さらに、食事の後には、紅茶を飲まずにはいられない(まあ、英国人であることの強調ということでしょうけど、この辺りが、ちょっと面白く感じられて、見ているわけです)。おまけに、頭部はもはや薄くなりかけている(もちろん、中身のことではありません)。
「こんなに暑いのか?」
「いいえ」
「(えっ?)」
「もっと暑いわ」
あるいは、
「癒しの水を求める人が大勢来ます。信じませんか?」
「彼らは医療よりもその水を信じると?」
「信じませんか?」
「科学的証拠しか信じない古い人間ですから」
なんていう会話も(時々ですけど)。
物語は定型化されていて、話の筋も主人公の振る舞いもほぼ決まっているので、飽きそうだけれど(そのせいもあるのか、主人公が何シーズンかごとに変わっているらしい)、今のところは楽しむことができている。でも、何と言っても、毎回出てくる一直線に伸びた水平線の海の景色ですね。朝も昼も夕景も等しく美しい。これだけで十分、あとはおまけのようなもの、と言ってもいいかも。
時々、こういうものを見るより映画を観たらいいのにと思うことがないわけじゃないけれど、今はこのくらいがちょうどいいようです。
使わずじまいの鞄
僕もほとんど使っていない手提げカバンをいくつか持っているから、ダレスバッグのような厚みのあるものは無理だとしても、ブライドルレザーの薄手のカバンはなんとか使えないかと思っているところ。ただ、カジュアルな服装しかしないから、むづかしそうですが(となると、逆にスーツやジャケットを着ることにすればいいのか?)。あ、それより何より、外に出なくては始まらない!
* 写真は、Amazon Prime Videoから借りたものを加工しました。
2024.03.23
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原点に帰って考える、生活を学び直す 58
風景式庭園の誕生に学ぶ
ヨーロッパの庭園といえば、宮殿や貴族の館に付随する庭をイメージする人が多いのではあるまいか。たとえば、フランスのヴェルサイユ宮殿の庭やオーストリアのシェーンベルン宮殿(行ったことありませんけど)あたりがよく知られていますね。明確な軸線を持ち、左右対称で幾何学的な形態が特徴で、平面幾何学式庭園と呼ばれる。17世紀機から18世にかけて主にフランスで発展したので、フランス式庭園と呼ばれることも多い。
これに対して、英国では、18世紀半ば前後頃からやわらかな曲線や起伏を多用して、より自然に見える庭が生まれた。風景式庭園ですね。フランス式庭園に対して、イギリス庭園と呼ばれることもある(われわれにも馴染みやすいのではあるまいか)。
その創始者の一人が、ランスロット・ブラウンという人らしい。このあたりからは、2度目のイングリッシュガーデン探訪の「イングリッシュガーデン 大英帝国 庭物語*」(2004年)を頼りに書くことになります(ただでさえ覚えられないのに、まして造園家の名前までは手が回りません。小堀遠州、重森三玲くらいがせいぜい)。
風景式庭園が登場したのは当時台頭してきたジェントリーと呼ばれる階級、貴族ではないけれど、商業的に成功して力をつけた地主層。彼らは自分たちが育った自然な風景を好んだ。そこで、平面幾何学式庭園(フォーマル・ガーデン。イギリスでは、こうも呼ぶらしい)に代わって、風景式庭園が流行することになったというわけ。ちょっと横道に逸れますが、このあたりはわが国の浮世絵の流行と新興町民階級の関係に似ているようで、面白い。
ハンプトンコート
庭に対するこだわり、愛着、執着は、ブラウンのような造園家のみならず所有者においても凄まじいものがある。幾何学式庭園の時代には、あのヘンリー8世は、臣下が所有する庭園(ロンドンにほど近いハンプトンコート。この時代はフォーマル・ガーデン)を気に入って何度も訪れるうちに、ついに強引に差し出させた(さもありなん。隣の芝生は青い、あるいは嫉妬ということがあるのかも知れない)。また、風景式庭園となってからは、ジョージ3世が庭園に植える植物を世界中から集めるためにプラントハンターを派遣し、世界に名だたる植物園「キューガーデン」の発展の礎となった。
ブレナム宮殿の庭園
風景式庭園の代表的なものの一つである「チャッツワース・ハウス庭園」は、ブラウンのデザインになるものですが、当主の4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュは、理想の風景を手に入れるために、川の流れを変えたばかりか、村ごと移転させてしまった。また、同じくブラウンの手になる「ブレナム宮殿の庭園」では、川を堰き止めて人工的な湖を作り出した。理想の庭園を実現するためには、こんなにも強引なことが行われなければならなかったか(こんなことが許されたのは、力が全てという時代だったせいに違いない)。
ブラウンは。いつも「この庭には「改善する可能性がある」と言ったというので、可能性のブラウンと呼ばれた。ミドルネームにケイパビリティをつけて、ランスロット・ケイパビリティ・ブラウン。いつの世にも、革新を成し遂げる人がいるものですね。そのためには、(可能性を信じすぎることの弊害もあるけれど)やっぱり探究心や好奇心、そして可能性の追求が不可欠ということなのでしょうね。しかし、このことは、過剰な自己主張とは異なるものである、と思う。
アイデアを実現するためには、デザイナー一人では果たせない。依頼人の理解も欠かせません。この他にも、形あるものに作り上げる技術者や職人といった人々の尽力も。偉くなった人は忘れがちなようですが(もちろん、凡人にとっても忘れるわけにはいきません)。
それにもうひとつ、蛇足めきますが、芸術もデザインも、そして自己表現も、過剰になってはならないものだ、と思うのです。
それにしても、このところの日本の政治を見るにつけ、自分のことしか考えない、その場しのぎ、その時の利益の追求だけのよう。掲げてきた原理原則は、もはや完全に忘れ去られてしまったようだ。
* NHK BSプレミアム ハイビジョン特集 魅惑のイングリッシュガーデン 大英帝国 庭物語(2004年)
2024.03.16
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原点に帰って考える、生活を学び直す 57
久しぶりにApple専門誌 iPadほぼPC化作戦
Mac Fan 4月号
久しぶりにApple専門誌を買った。たぶん、スティーブ・ジョブスが亡くなった時以来だから、ほぼ10年以上ぶりくらい。Macfan4月号の特集1「iPadパソコン化計画」に惹かれたのでした(何と言っても、超がついている!)。
以前書いたように一度は挫折したのですが、Instagramを教えてもらったおかげで日常的に使う、というか触るようにはなったので、再度挑戦してみようと思ったというわけ。さて、首尾よく行けばいいのですが、ちょっとやって見たところでは、あいかわらずむづかしそうだけれど(またまた、二の舞になるのか?)。
当初は、手持ちのBluetooth接続の純正キーボードとトラックパッドをつないでやってみたのだけれど、キーのタッチやらトラックパッドの反応やら、なんだか使い勝手がよくない。だから、自然と遠ざかる。したがって、上達しないまま。悪循環ですね。そこで、無駄になるかもと思いながら、少しでもMacBookに近づけるべくトラックパッド付きのキーボードを検討して、安くて評判のよかったロジクール製のCombo Touchを購入(できるだけ節約ということで、たまたま目にしたアマゾンのアウトレットを)。
Combo Touchを装着
デザインは外装が布っぽくてイマイチだけれど、使い勝手はずいぶんと向上した(という気がしたけれど、使うにつれてMacとの違いが明確になってきたようでもある)。今のところ、MacBookの代わりにはとてもなりそうにない。第一、HP作成ソフトは動かせない。笑われそうだし、自己満足のようでもあるけれど、これが実はヨウテイ、カンジンカナメなのだ(まずはボケ防止が目的だけれど、気晴らしにもなっている)。ともかくも、iPadにも馴染んできたし、画面にタッチして操作することにも少しずつ慣れてきた。Instagramの原稿やメールチェックには十分(のはず)。あとは、お絵描きソフトを購入するだけだ(これが、どうやるものかも、ちょっと不安)。
新型MacBook Airも出たことだし、そのうちにMacBookとiPadのそれぞれの特性を生かしたうまい使い分けができればいいのですが。使い分けのめどがたてば、MacBookの方は15インチが使いやすいかもしれないと思ったりしているところ。
2024.03.09
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原点に帰って考える、生活を学び直す 56
カラフルの研究・パエリア編
『ひとり美食倶楽部』の有力なメニューの一つであるパエリアは、週末に男が野外で作って振る舞う料理だという。で、とある休日に作ってみようとした(毎日が日曜日の身にとっても、生活にメリハリをつけることが必要なのだよ。大勢で囲むという部分はパスした)。でも、あいにくの天気だったので翌日に延期。気分が大事ですね。パエリアには曇りや雨の日は似合わない。
パエリアは好きだったけれど、本場スペインで食べた時は、あんまり美味しいと思わなかった(バルセロナと、発祥の地と言われるバレンシアでも食べた)。ついでに言うと、パスタについても同様で、イタリアで食べた時は感心しなかった。期待が大きすぎたのか、レストランの選定を誤ったせいか(ま、いつも貧乏旅行だったのだ)。
バレンシアの火祭りの時には、パエリア・コンクールもあるよう。参加するのは、およそ30組。材料も違。となれば、当然味も違うのだろう。隠し味にはローズマリというグループの一人は、畑に出てローズマリーを摘まなかったなら、その人には愛がないのだと言うのですが。
パエリアの作り方については、実はずっと気になっていることがあるのです。わが国の料理本や料理番組のレシピではほぼ例外なくアルミ箔で蓋をして15分ほど炊いた後、さらに10分蒸らすとあるのに対し、スペインではそうしたことがないようなのだ。もしかしたら、お米の違いのせいだろうか。
シーフードパエリア
で、スペイン人に教わることにした。これだって、人によって違うことは十分にありそうだけれど。さて、どんな仕儀になるのか。退屈してしまう前に、まずは今回の出来上がりの写真(サフラン入り)から。
「まずはじめに言っとくと、こうでなくっちゃというのはないからね。具材も含めて、自由に作るのがパエリアだよ。今日はシーフードのパエリアだね」
「サフランはどう?入れなくてもいい?」
「僕にはちょっと、風味が強くなりすぎる気がするけどね。でも、好きならどうぞ*」
「うん」
「さあ、始めましょう。まず、フライパンにオリーブオイルを」
「油はけっこうたっぷりなんだね」
「そう。その中でみじん切りの玉ねぎとにんにくをじっくり炒める。そして、……と言うと思うかもしれないけれど、熟練の料理人はそうしない」
「ん?」
「手間が増えるからね。取り出さずに、端に寄せておくのさ。どうせまた戻して、煮込むからね」
「なるほどね」
「同時に、もう一つのコンロで、あさりのスープというかワイン蒸しを作っておこう」
「うん」
「あさりの口が開いたら、取り出しておきましょう。貝は火を通しすぎると、硬くなって美味しくないからね」
「確かにね。僕は、普段は貝は食べないけれど、パスタとパエリアの時は例外なんです」
「そうなんだ。でも、おいしいからね」
「ええ」
「それから、短冊に切ったパプリカを炒めて、同じように端に寄せる」
「うん」
「それから、魚介類、と言っても今回はシーフードミックスですが。これを炒めます。ハーブもね。今日は、ローズマリーも入れてみようか」
「はい」
「そこに、トマトを投入。炒めすぎないでね」
「はい」
「ここで、よけておいた具材を戻しましょう」
「忙しいね」
「そう?それから魚のだし、フュメ・ド・ポワソンを作っておこう。さっきの貝を蒸した時の汁も使いましょう」
「えっ、フュメ・ド・ポワソン?」
「顆粒のものが売っているよ。なければ、チキンブイヨンでも大丈夫」
「どのくらい?」
「米を入れた時に、しっかり隠れるくらい程度にたっぷり入れる」
「え?でも、大体の目安は?」
「うーむ。僕はお米の量の2.5倍と少し。蓋をしないからね。でも、多めに作っておきましょう」
「そうなんだ。大体アルミ箔をかぶせると書いてあるけれどね」
「それはしないでおこう」
「はい」
「ちょっと味見をして、塩で調整を」
「はい」
「さあ、いよいよ米を入れますよ」
「蓋はしないんだよね」
「うん。今の所はね。その代わりに、最後にオーブンに入れるんだよ」
「ふーん。あっ、でも日本の家庭ではオーブンがない家もあるから、むづかしいかも」
「うん。でも表面をこんがりとさせたいから、その時はオーブンに入れる代わりに最後の3〜5分くらい蓋をしてもいい。世界一のパエリアを作るともいわれる女性シェフはブドウの木を燃やして、その火を鍋の中まで入れるんだよ」
「へえ」
「今回は、まず強火で8分ほどね。この時、お米が見えないようにします。足りなければ、スープを加えて」
「はい」
「そのあと中火に落として5分ほど。この間は、お米が隠れるくらいにします」
「はい。だから、スープは多めに作っておくんだね」
「そう。もう水分がほとんどなくなって来たよ。そしたら、蓋をしましょう。もう水分は足さなくていいよ。弱火で3分くらいね」
「へえ。そうなんだ」
「チリチリいう音がしてくると、汁気がなくなって、お米がちょうど美味しくなったしるしだよ」
「なるほど」
「蓋を取るよ」
「はい」
「どう?」
「美味しそうです」
「その前に具材をちょっと綺麗に並べ替えたら、出来上がり。さ、レモンを絞って食べましょう」
「はい」
「どう?」
「うまい!めちゃくちゃ美味しいです」
「ね」
「お米がカリッとしている」
「ね。だから、日本風に蓋をして炊いた後にさらに蒸らすやり方じゃないほうがいい、という気がするんだよ」
「確かに。炊き込みご飯じゃないんだからね」
「そうだよ」
* でも、サフランをうまく使うと、色がきれい。ターメリックより薄くていい香りがして、好ましい気がします。
注:複数の番組で見た作り方に、自分で試した結果をもとに構成したものでした。悪しからず。
2024.03.02
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原点に帰って考える、生活を学び直す 55
盛り付けの練習
今日は久しぶりに日差しがあって嬉しい。五十肩もようやく治りつつあるし、散歩に出るのにも絶好だ。
ところで今は、どこに行っても、出てきた料理を写真に撮るところを目にしますね。食べることよりも、写真の方が大事なのかと思うこともあるほどです。やっぱり、たいていはSNSの流行のせいなのでしょうね。自分のための記録という人もいるだろうけど。
豚肉とプラムの赤ワイン煮
僕はもともと、料理を撮る習慣はなかった。それが最近は、けっこう撮るようになった。家でのものに限られますが。
と言っても、ブログのためではありません。まあ、ブログに載せることも増えたけど。動機は別のところにある。それが何かといえば、「盛り付け」。
ラタトィユ再利用パスタ
これが、僕はどうもうまくできないのです、というか下手。言い訳をすれば、実際の食事の際には、盛り付けを気にしている時間はあんまりない。できるだけ早く、出来立てを食べなければいけない。何と言っても、熱い料理は熱いうちに食べるというのが鉄則だから、盛り付けにこだわってばかりというわけにはいられないのです(これは、写真を撮る時も同様。素人の写真は構図が一番大事と思っているのですが、これも時間はかけられない)。
なんと言っても、食べるための料理なのだから。それでも、食べられればそれでいい、というわけにはいきません。見た目も味のうちというし(ま、これだけというのは論外でしょうけど)。それに、ただ食べられればいというのでは、ちょっと侘しい(ほかに、楽しみ、取り柄があればいいのでしょうが)。ただ、先に書いたように、盛り付けに時間をかけるわけにはいかない。ということは、その出来はセンスってこと、か?
それでも、いやだからこそ、練習が必要だと思うわけなのですが。ところが、これがなかなか上達しない。トングや箸をうまく扱うことができないせいか。それとも、やっぱりセンスが決定的に欠けているのか。まあ、練習不足、またはお手本の不在くらいにしておきたいのですが。さて、どうだか。覚えられないことや段取りの悪さもある。
煮込みハンバーグ
ということで、本日の練習は煮込みハンバーグ。若い時はほとんど食べたことがなかった。ハンバーグがそもそも好きじゃない(とくに、食感)。肉を焼くならステーキの方がいい、と思っていました。ところが、最近はちょっとした訳があって、時々作るようになった。ま、慣れて来ると、案外いいもののような気がしてきた。ナポリタンなんかとおんなじですね。おまけに、どちらも冷めにくい。でも、これらはあんまり盛り付けの差が出にくくて、練習にはなりそうにないですけど(うーむ。なかなかうまくいかないものですねえ)。
2024.02.24
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原点に帰って考える、生活を学び直す 54
器を楽しむことにしよう
コルビュジエに光
この時期は、家の奥まで光が差し込む。コルビュジエも、久しぶりに日を浴びて眩しそうだ。朝起きて見た時の、コントラストが強烈だったので、この時の写真から。
今年は器を楽しむことにしようか、と思っているところ(また?と言われそうだけれど)。
と言っても、何も名品を集めようというわけではありません。第一、そんな経済力もない。ただ、食事の際に、手持ちのものを中心に、できるだけ料理にふさわしい器を選ぶように心がけて、食卓に変化を与えようというだけのこと。
まあ、はっきり言ってしまえば、料理の不足を器の変化で補おうということですが、いくらかでも楽しさが増すかもしれない。
僕は基本的に無地の器が好きですが、これはシンプルさを好むということのほかに、自信のなさの表れかもしれない。なかなか選べないということなのですが、使い方を想像する力に欠けているのかもという気もする。
豆皿におつまみ
それでも、模様のあるものの中では、蛸唐草が何故か気に入っている。でも、これらも久しくしまい込んだまま、使ってこなかったのだ。で、こないだ豆皿に盛ってみた。元はお刺身の時の醤油を入れるものなのか、いかにもちょっと小さすぎたけれど。で、ほかになかったかさがしてみたら、これより3回りほども大きいものがあった(ただこちらは、ちょこっと盛るには大きすぎる。中間のものがあればいいのですが)。他には、大皿もあった。
出番を待つ豆皿(一部)
ともあれ、豆皿、小皿の類はたくさんあるので、小皿料理風の食卓を作るのも楽しそうだ。インターネットをみると、豆皿でおつまみという特集はいくつかあるし、その昔小皿料理で名を馳せたお店もあった。なんにせよ、僕の場合、基本は、西洋料理には西洋風の器を、和食には和風の器を用いる。まあ、江戸時代には有田焼等が輸出されて、もてはやされたようだから和を洋に、あるいはその逆を合わせられなくもないかもしれないけれど、たとえばコーヒーや紅茶のカップは和風のデザインのものでは、どうもしっくりこないのです。ただし、卓上の食器を同じもので揃えることにはこだわらない。とすると、今はどうしても洋風料理が多くて、和風の食器の出番が少ないのだけれど、これを機に和風料理にももっと挑戦するのがいいかもしれない(健康にも良さそうだし)。
いずれにしても、あるものはできるだけ活用しなくちゃいけません(なにしろ、あるものでなんとかするというのが、元々の信条なのだから)。それに、盛り付け方の練習も課題の一つ。
2024.02.17
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原点に帰って考える、生活を学び直す 53
ティーポットで紅茶を
もう2月。早い!と思っていたら、はや10日。飛行機並みに速い⁉︎1月は喉の痛みから始まって50肩(なぜか60肩、70肩という呼び方はないようだから、もしかしたらまだ若い?)に悩まされ、パソコンやら住宅の設備機器の問題に振り回されるなど散々だった。まあ、これ以上悪いことはないだろうから、今後は良くなる一方のはず、と前向きに考えることにしよう。
Arzberg製
カフェで供される紅茶は、ティーバッグでというところも多いようだ。しかも、ティーカップにお湯とティーバッグをあらかじめ入れたものを持ってくることもある。それでも、ちょっとこだわったところでは、銀の急須にお湯を入れたものとティーバッグを別に運んできて、カップにティーバッグを入れてからお湯を注ぐやり方をする。で、やってみようとしたのですが……。ただ、家にあったのは、いかにも大きすぎた(ちょっと屠蘇器の形にも似ている)。もしかしたら、6客セットだったから、6人分がいっぺんに入る大きさなのだろうか。
で、もう少し小さなものがないかと思って探したら、ひとつ出てきた。デザイン的には今ひとつのようだが、大きさ的にはぴったり。帰省先で入手した地元産の紅茶は、一般のものが2gなのに対して3gと多めなので、少しお湯を多くするのにもちょうど良い(む⁉︎)。とりあえずしばらくは、これで試すことにしよう。
サンリオ製
何しろ家のことなので、温めたティーポットにティーバッグをセットしたところに沸かしたての熱いお湯を注ぐことにした(たぶん、こちらの方が正当なやり方に近いはず)。やってみると、なかなか良かった。何杯か飲めるし、味や色の変化も楽しめる。おまけに冷めにくい。広くて飲み口の薄いカップも好ましい。
紅茶の場合は、汲みたての水道水を沸かして100度のお湯を入れる。同じお茶でも、日本茶の場合は、高級になればなるほど、低めのお湯で淹れる(ただ、抹茶の場合はまた別のよう)。どうしてでしょうね。まあ、蒸らしはいずれも大事なようだけれど。
と思って、ちょっと調べてみると、渋みやら苦みやら何を出して何を出さないかということのようなのですが。緑茶は渋みの元のカテキン(80度以上100度に近いほどたくさん溶け出す)を出さないようにして、50度で溶け出す旨味成分のテニアンを抽出しようということらしい。一方、紅茶の方は、95度以下だとカフェインだけが溶け出してえぐみが目立つようになるらしいのだね。知りませんでした(やれやれ)。
また、汲みたて沸かしたてのお湯じゃなきゃダメというのは、お湯が空気を含んでないと、茶葉が沈んでしまい、ジャンプしないのでうまく出ない、ということらしいのです。空気を含ませるというのはなんとなく覚えていたのです(お茶を入れるときに、高いところから注いだりするのを見たこともある)。しかし、これが汲みたての水道の水(ペットボトルに入ったミネラルウォーターではいけないそう)と沸かしたてのお湯に関係しているとはねえ。
ともあれ今年は、こうした基本を学び直すとともに、道具(この場合は器)にも気を使うようにしてみようと思っているところ。それにしても、ついこないだ今年の目標を書き留めたと思ったら、次々に新しくやるべきことが出てくるというのはどうしたことだろう。日頃から、もう少し真剣に向き合わなければなりません。
そういえば、肩よりも痛いのは腕だったりするのに、50腕ということはない。おまけに、痛いのは二の腕からその先に広がったのだけれど、この部分はなんていう?で、ちょっと検索してみたら、日経新聞のサイトには以下のような記事*があった。
「大辞林」(三省堂、第3版)をめくってみると、意外な説明がついていた。
にのうで【二の腕】 (1)肩から肘までの間の部分(2)肘と手首との間の腕
さらに、
いちのうで【一の腕】 肩から肘までの腕
というものも載っていたというのですが。えっと思って、手持ちの電子辞書「デジタル大辞林」や「広辞苑」、「明鏡国語辞典」には、(1)しかありませんでした。手持ちのデジタル辞書を見る限りでは、一の腕や三の腕という言葉も載っていない。ということは、少なくとも今は、どうやらなさそうです。ま、言葉は生きもの、日々変化するのだから。
それにしても……、知らないことが多すぎる。
* 夏に気になる二の腕、昔は「一の腕」だった? 日本経済新聞 2013年6月19日 6:30
2024.02.10
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原点に帰って考える、生活を学び直す 52
庭師に学ぶこと
もう今年最初の一月は終わってしまって、はや2月。今日は節分だけれど、ちょっと寒い。明日は立春。暦の上ではもう春。しばらくしたら、本当の春がやってくるだろう。
さて、庭の愛好家や庭師たちの、なんとよく手をかけることか。
とある昼下がり。肩に加えて腕の方の痛みは引かず、さりとて横になるとさらに痛いので、英国の庭を特集したDVDを見ていた時のこと。
彼らは、美しい花を咲かせ、素晴らしい庭を作り上げるための労を厭わない。酷寒の冬には土や苗の準備をし、少し暖かくなり始める頃になるとあらかじめ計画していた場所に苗木を植え、育ってきたら今度は剪定やら芝生の端の処理まで、ずっと手を抜くことがない。その甲斐あって、2月には茶色い枝や茎、葉ばかりが目立っていたのが、5月には若々しい緑にあふれるようになり、やがて色とりどりの花が咲き誇る。
代々続けて庭師だという親子の、父親が言う。
「もしお金が欲しいなら、庭師は良い仕事ではないかもしれません。ただお金では買えないものが得られます。私たちは常に自然と季節の移り変わりを実感できます」
彼らは、庭という冬はマイナス5度から夏は37度という温度差のある環境で働き続け、その中で様々なことを学びながら、去年より今年、今年よりは来年と常に高みを目指して努力することを通じて、何ものにも変えがたいおおいなる喜びを受け取るのだ。
それで、オックスフォードのあるカレッジで話を聞いた、若いガーデナーのこと*を思い出したのでした。
St Catz College
たぶん、セント・キャサリン・カレッジ(Catzと呼ぶらしかった)ではなかったかと思っていたのだけれど、その時のブログ*を見てもは出ていないから、ちょっとあやしい。ところで、Catzは当時のオックスフォードの一番新しいカレッジで、建物をデザインしたのはあのアルネ・ヤコブセン。
Magdalen College
ともかくも、各カレッジにはたいてい専任のガーデナー(庭師)がいて、庭の維持管理を担っているようで、いくつかのカレッジで彼らから聞いたところでは、異口同音に、素晴らしい環境で働くことができるのは幸運だと言うのでした(先の庭師と同じです)。たしかに、カレッジの建物や庭は素晴らしいものが多くて、羨ましくなります。その中の一人の青年(この彼と出会ったのが、セント・キャサリン・カレッジだったと思い込んでいたのですが……。やれやれ)が、「友人たちの多くは高い給料を求めて働きに出たけれど、自分は好きなことをこのように美しい場所でできて、とても幸せだ」と誇らしく言った。ああ、えらいものだなあ。たいしたものだなあ。こうでなくちゃいけないのだなあ、と感心したのを覚えているのです。
どうやら、労を厭わずに仕事(生計を立てるための職業に限らず、生活への取り組み)をするほかに、喜びの時間を手に入れる方法はないことを、改めて教えられたようです。何事も促成栽培ではうまくいかない。頭で理解するのはたやすく、実践するのはそうではないのですが、そういうことを言っている限りはダメでしょうね。少ない努力で、多くの見返りを期待するというわけにはいかない(残り時間が少ないなら、なおさらだ)。
* オックスフォード通信 オックスフォードの中のモダンデザイン
** ガーデナーたちのことは、こちらで取り上げていました。
2024.02.03
読んでくれて、どうもありがとう。
お便りなど、こちらから気軽にどうぞ(全くないというのは、ちょっとさびしいのです)。
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原点に帰って考える、生活を学び直す 51
今度はパリ
ヨーロッパの路地裏をめぐる旅を満喫したあとは、パリの20区のカフェ中心とした姿を訪ねるようになった(10年ほども前に楽しんで以来かもしれない)。こちらも、なかなか興味深い。
パリにも、色々な国から様々な事情で、移住してきた人たちがいる。トルコからやってきたというカフェのオーナーだったか、あるいは常連客だったかの男性もその1人。クルド人の多くは政治的な活動をしないのに、クルド人というだけで迫害されると言い、それを逃れるためにパリにやってきた。
トルコ・寺院
トルコ・グランバザール
それで、僕は今から20年ほども前のことを思い出した。ロンドンからトルコへ向かう機中で隣り合わせになった男性が、なぜそういう話になったかは覚えていないが、苦しんでいるクルド人がたくさんいることを忘れないでくれ、と言ったのだ。ウクライナに侵攻したロシア、イスラム教の組織とイスラエル、その他諸々、近年になってますます自国の利益のみを考えた行動が多くなっているようだ。
さて、パリ市の区の名称は、市の中央部からかたつむりのように螺旋状に各区に付けられた番号を基にしているようですが、その16番目に当るパリ16区は、市の西部に位置していて、東西をセーヌ川に挟まれている。ブローニュの森を含んでいる。セーヌ川を挟んでエッフェル塔の対岸にあたる16区北側地域一帯は、高級住宅街としても有名であるらしい。
その16区の焼きたてのパンを中心としたカフェ”Carton"の常連客の、若きチェリストが言う。
「ただ演奏するだけでは音楽とは言わない。共有してくれる観客がいて初めて音楽になる」
「コンサートはご褒美のようなもの……。僕たちはばかみたいに練習するけれど……。観客に感動を与える。代わりに、観客が笑顔をくれるんだ。その笑顔のために、一生懸命練習する」
「演奏会の後、観客が良かったと言いに来てくれる。これほど感動的なものはないよ」
別の地区のカフェのシェフも、同じようなことを言っていた。これらは、演奏家やシェフに限らず、作曲家や作詞家、脚本家等々に取っても同じ。音楽や料理だけでなく、建築であれ、住宅であれ、文章であれ、絵であれ、なんであっても、あらゆる仕事や活動に当てはまるのだろう。逆に、他者に伝わらなければ、喜びもうんと減るに違いない(と言うのは、能転気にすぎるだろうか)。
一方、シャーロック・ホームズの例もある。
「僕は天然繊維について、ブログを書いた」
と言ったのは、ホームズ*。
「誰も読まない」
間髪いれずに応答したのは、ホームズとワトソンが暮らす下宿屋の女主人の、ハドソン夫人。
うーむ。あのシャーロック・ホームズでさえ、と思うと、考えざるを得ませんね。
久しぶりの生花
それにしても、自らの利益や力や与えることだけでなく、相手から貰っているものを意識して、平等な相互扶助の立場に立った、このようなもの言いをしたのが、21歳の若者ということに驚く。
でも、ヨーロッパにはこうした若者が少なくないようなのだね(日本でもそうなのだろうか。いや、少なからずいるに決まっている、と思いたいのですが**)。もちろん、街の伝統に関心がなく、住民同士の関係にも興味を示さない若者が増えたという意見もあるようだけれど(ま、これは、どこに限らず、あることかもしれません)。
他方、わが国は酷い国になった。このところの日本の政治やこれに関わる出来事のありようを見るにつけ、何よりお金儲けと保身が大事で、責任感や立場の自覚、矜持といったものは、カケラさえもなさそうに見える。世界全体が疲弊して、悪くなるばかりのように思えてくる。
追記:今週は、パソコンの不調への対策にてんてこ舞い。後半は、メールさえ読むことができなかった(この顛末は、来週にでも)。
* シャーロック、シーズン3、EP1
** スポーツ選手がよくいう「お世話になった全ての人々……」や「感動や力を……」というのは、ちょっと違う。
2024.01.27
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原点に帰って考える、生活を学び直す 50
ウィーン・ドロテア通りの靴職人
丁寧な暮らし、それを実践するための第1歩は、例えば、紅茶の淹れ方から。
茶葉を蒸らす
紅茶は、ずっとリーフではなくティーバッグを使ってきた。なぜだろうね。日本茶は、茶葉から入れるのがごくふつうのことなのに。だから、せめてその時に、きちんと蒸らすように蓋をしてみようと思った。本当なら、急須に入れるのがいいのだろうけど、今のところはマグカップに小さなお皿で蓋をする。
そのうちに、急須と飲み口の薄い紅茶用のカップで淹れてみようかしらん。
さて、ウィーンのドロテア通り、この地で200年以上も続く老舗靴店を継ぐことになったのは、まだ20代の職人。名人と謳われた師匠の先代オーナーが急逝して、後を引き継いだ。
その師匠については、自分のことを「先代の本当の息子であるかのように愛情を注いでくれたのです」、お客に対しても「仕事の面でも常に支えられていて、心配してくれてのことか、2足も注文をくれたたりするのです」と、感謝を忘れない。
同じく靴職人で、近くの店で働いているという父は、毎日息子の店にやってきては、アドバイスする。ルーマニアからの移民だという彼は、「家族を幸せにすることだけに力を尽くした」せいで精神を病んだこともあったらしい。その彼が、ようやく安定を取り戻して、以来息子のことを見にやってくるようになった。そして、いまでは息子のことを、「ちょっと遅いですが、その分正確で、美しい靴を作る」と評する。
また、息子の方は、師匠の店について、こうも言うのだ。
「この店が、僕を大人にしてくれた。もはや歩みを止めることはありません」
雲間の光
偉いですねえ。大したものだなあ。こういうものを観るにつけ、心はほのかにあたたかくなるのだ(一方で、羨ましいとも)。僕は、テレビ放送を番組表の時刻通りに見ることはあんまりありませんが、録画してもらったDVD(もはや観きれないくらい)は時々観るし、最近では配信番組も観ることがある。なんだか、これらに慰められ、励まされ、支えられているような気がしてくる。
また、ウィーンの別の通り、ショッテン通りにあって1日に500~600食ほども出すというレストランの社是、というか方針は、若者を育てることだという。事実、何百人も育っていったらしい。裏切られたような思いをしたことはなかったのだろうか。そして、オーストリアでは、人間も犬も平等だという。わが国ではどうなのだろうね。
それにしても、靴屋の若き職人は違うけれど、ヨーロッパの路地に暮らす人々には、思い切った転職組がけっこう多いようだ。前の仕事が嫌で辞めたというより(ま、それもあったのかも知らないが)、天職(になりそうだと思ったもの、好きな仕事)を見つけたのだ。それからの展開が、早い。まあ、いいと思ったことはすぐにやらなければ、時間が勿体無いということなのか。ぐずぐずしていたら、時期を逸してしまう、ということもあるのかもしれない。
でも、どうしてこんなに、人の暮らしを扱った番組に惹かれるのだろう。もしかしたら、無い物ねだり、成し得なかったものを擬似的に埋めようとしているのか。
靴磨きも、定期的にしなくちゃいけません。
2024.01.20
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原点に帰って考える、生活を学び直す 49
書き初め その2
ふだん、パスタのソースを作るときは、アルミのフライパンを使う。ある日のこと、別の料理をしたフライパンがあったので、ざっと洗ってそのままソース作りに使うことにした(味に影響はないはず)。確かに、味のできに大した違いはなかった。
フライパン2種*
でもね、あんまり嬉しくなかった。なんといっても、気分が盛り上がらないのです。作っていても、その気にならない、と言うか……。僕の場合、実質よりも見かけってことか?やれやれ。
その時に見ていたのが、コペンハーゲンのオウン・バンデッド通りの人々の暮らしぶり。
そのコペンハーゲンには、コロニへーブという集合家庭菜園があって、花や野菜を育てるだけでなく、そこに小さな小屋を建てて、週末や休日を過ごすことがあるのだそう(元々は、人が住むための最小限の住宅をテーマにした卒業設計の時に知ったのですが、これを思い出した)。
コロニーは集落や集合体のこと、これと庭の意のヘーブを組み合わせた合成語ですね。似たようなものとしては、ドイツのクラインガルテン(小さな庭)というのがある。これらを総称して、コミュニテイ・ガーデンともいうくらいだから、ここを使ったり、訪れたりする人々の交流の場所ともなっている。市が格安で貸してくれるところもあるようだ。とても人気があって、そういえば、ドイツでは何年待ちというほどの人気だ、というのを聞いたことがある。
僕は、特に菜園に関心があるというわけではないけれど、料理に使うハーブを育てたり、ちいさな英国式庭園を作るのは楽しそうと思ったことがあるし、実践していることもある(あるカレッジの小さな空き地のために、空想したこともあった)。しかも、そこで暮らすわけではなくても、住まいの近くに趣味のための場所があるというのは魅力的だ。
菜園に付属する小屋平面図
で、考えてみることにした。小さな小屋で分棟にするのはどうかという気もするけれど、雨天時の作業場(農家の土間のようなもの)と考えれば、さほど不思議なことでもあるまい。この部分の屋根は、簡単な可動式のテントにしてもいい。そのほかにも、変なところがあるかもしれないけれど、先回同様、即日設計だし、手の訓練、頭の体操だ。
今から新しく住宅を手に入れるというのはいささか無理がありそうだけれど、週末小屋のようなものならね(「可能性」は危険、ということもあるけれど)。
それより何より、空想するのは楽しい(紙と鉛筆があればいいしね)。現実逃避と思われるかもしれないけれど、それももう許されてもいい年だろうという気もするし……。
* ちょっと磨き直さなければいけないよう。
2024.01.13
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原点に帰って考える、生活を学び直す 48
書き初め その1
先日、間口2間ほどの小さな店を見ていたら、自分だったらと、久しぶりにスケッチしてみようと思い立った。その店舗はといえば、ミニカーの販売店だったが、ここにはいろいろな思いを持った人々が集まってくる。
自分がかつて所有していた車やら、子供の頃に父親に乗せてもらった車やら、思い出を求めてやってくるのだという。だから、年配の客が多いのだけれど、中には子供や孫を伴ってくる人もいる。この店は、そういう人たちの交流の場ともなっているらしい。
僕が考えたのは、書斎コーナーのある小さなカフェ。お客がある時は、簡単な飲み物や食事を出すのはもちろんだけれど、お客がない時は本を読んだり、書き物をして過ごす。窓越しに通りをゆく人々を眺めるのもいいかもしれない。まあ、お客は滅多に来ないだろうから、忙しくなる気遣いはない。
それでもたまにやってくる常連客があったとしても、料理が出てくるのが遅いなどとは言わないだろう(むろん、味についても同様。僕はテキパキと仕事をこなすなどということは、到底できないのだ)。待っている間は、おしゃべりでもしていればいいのだ(それが嫌だという人は、2度とやってこないはず)。
ここで、問題発生。書きつけたはずのスケッチが見当たらないのだ(ま、こうしたことはしょっちゅうあることだけれど)。となると、また新しく考えるほかない。これもまあ、たいした問題じゃない、手間のこと以外は(僕は、これまで何度も言った通り、頭の中で検討することができないので、時間がかかる)。そもそも、残念がるほど素晴らしいアイデアがあったわけじゃないのだ。
書斎付きカフェ平面図
最初の案(下の図)を清書ししてみたら、客席がいかにも少ないのに気づいた。ラフスケッチの時は、テーブル席もあったのに(まあ、却っていいのかもしれないけど)。
で、客席を増やすべくキッチンのレイアウトを変えてみたのが第2案。こちらは、書斎コーナーとキッチンがちょっと遠いのが気になる(そしてまあ、シンクと冷蔵庫の関係もセオリーからはずれているといえば、そうだけど……)。
ほかにもたくさん朱を入れられるかもしれないけれど、何と言っても、即日設計だからね。完成度よりも最初の思いつきこそを大事に。おまけに、描き直す時間もないのだ。
清書の前に、コロニヘーブのことを思い出して、こちらもスケッチしてみたのですが、またの機会に。
2024.01.06
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原点に帰って考える、生活を学び直す 47
ああ、またしても!
12月に入ったと思っていたら、なんともはや残りわずか2日となっていた(ああ!)。おまけに、日もまだずいぶん短い。
黄金色の葉をつけた木
裸の木と月
家の前の美しい黄金色の葉をつけた木も、あっという間に、文字通りあっという間に、葉を落としてしまった。しかし、裸になった木も悪くない。すっくと屹立していて美しい。おまけに、その上には月が。嬉しくなって、また写真を撮った。こういう幸運が、ほかにもあるといいのだけれど。
思い返すと、今年もどこにも出かけなかった。散歩以外に外に出かけたのは何時間か、電車等の公共交通機関を利用したのは合計で何日くらいあっただろう、というくらい。なんと代わり映えのしない毎日であったことか。それにしても、いったい何をしていたというのだろう(めぼしいことは、何もない)。我ながら呆れてしまう。
さて先日、絵本コンクールの応募先から封書が届いていた。中身が入っているのかどうかと思うくらい薄いものだったので、やっぱりと思った。案の定、またしても落選。カスリもしませんでした(ま、それはこちらの欄も反応なしで、変わらないようです。ちょっと新しい試みをしてみたのですが、反応なしということは、小手先ってことか)。それにしても、ダメですねえ。何をしても、うまくやることができません。
なぜか。なんとなく検討はつくし、原因はだいたいわかる。たぶん、いちばんは平凡だということですね。ま、他にもあるでしょうが、最も大きな要素はこれだという気がする。何かもうひとつ、決定的なものが欠けているようなのだ。人間もごくごく平凡(いや、平凡とも言えないのかもしれない。並外れてぼんやり)だからねえ。さらにそのほかには、新奇性も、驚きも、それにテーマ性というのか何か立派な教えを含むものでもない。おまけに、あまちゃんにも関わらず、それも中途半端だ。あげ始めてみると、まあキリがないね。
ただ、原因がわかったとしても、どこをどう直せばいいのかがいいかが、わからない。それがまた、大問題。何と言っても、いちおうは自分なりによりよくしようと思って、何回か手を入れた結果なのだからねえ。おまけに正直に言えば、多くの人が好きだというものが、僕はそうじゃないということがけっこうあるのです。うーむ。やっぱり、力がないということなのでしょうね(ま、しかたがありません)。
また、どこかに応募することを目指すようにしよう。こういうことに対しては、まあ、あんがい立ち直りが早い。果たして、3度目の正直、はあるのか⁉︎(ま、2度あることは3度あるもと言うけど……)
押し葉
それでも、先日手に入れたスタインベックの短編集のうち、まずはお目当てだった「朝めし」を読み、次いで初めから読もうと思ってページを繰っていくと、小さな押し葉が2枚現れた。ああ、同じようなことをしていた人がいたんだ、と思った。ちょっとジンときた。少し嬉しくなった。
ところで、少し続けてこれを読んでくれている人なら(もしいたなら、ということですが。どうもありがとう)、毎日毎日、代わり映えしない写真(あるいは文章も)を撮っていったい何が楽しいのか、よほど暇なのか、よくも飽きないものだなあと訝る人がいるかもしれない。
自分でも、そう思わないでもない。実際のところ、暇だしね。でも、目にするたびに違っているようだし、その都度、おもしろいなあ、きれいだなあ、ああ美しいと思って、つい撮りたくなるのです(もしかしたら、ただ覚えが悪いだけかもしれないけどね)。ま、これも文章と同様ですが、生存確認のための報告(本当にしてくれているのか?)とボケ防止のための定例作業というべきものでしょうね。
気分を新たにして、来年も(僕の場合は、こそ、か)頑張ることにしましょう。
呆れずに、ずっと読んでくれたことに感謝します。それでは、また来年。
良いお年をお迎えくだい。
2023.12.30
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原点に帰って考える、生活を学び直す 46
わが食卓へようこそ
電子辞書を調べていて、また別の項をみよ(⇨)というのが出てきて、またかと頭にきたのですが、一応開いてみて、次に何とは無しにジャンプのボタンを押したら、下の欄に移行してハイライト表示になったので、さらに下矢印のボタンを押すと、無事に別の項へ飛ぶことができた。ああ、ちゃんとできるようになっていたのね。僕は、ただ知らないまま腹を立てていたのでした。ああ、恥ずかしい!こんなことが多すぎる。無駄に年を取ったのだ。
このところは、ものが減るよりも増えることが多い。そこで、新しく我が家へやってきた道具やもののうちから食器をいくつか。
新しい器のいくつか
大ぶりのお椀は合鹿椀といい、元々は石川県の能登半島の輪島市にほど近い合鹿地方で作られていた漆塗りの飯茶碗で、農作業の時に持って行ったというもの。床に直接置いても食事ができるように、一般的なものより高台が高くなっている。これと対になる汁椀は小ぶりで、高台も高くないが、飯茶碗の中にすっぽり収まって、合理的だ。かつて、合鹿地方では住民がみなこれを持っていて、直しながら長く使ったという。
実は、高台なしでもっとモダンなかたちの山中塗の拭き漆のものとどちらにしようか悩みましたが、まずはこの合鹿椀にした。手軽に使えそうだし、最近になって毎朝飲むようになった具沢山の味噌汁のための器を、と考えたせい。手に持った時に熱くなることがなく、飲むときの口当たりがよく、しかもたっぷり入る大振りなものにしたかったのだ。山中塗の方は、黒ではなく、赤にするのがいい気がしていた。こちらは味噌汁だけでなくスープや洋風のちょっとしたものを盛るのにもいいかもと思ったのだった。
もう一つは、猪口。もしかしたら、本来は小鉢かもしれない。いや、僕にとっては、やっぱり酒器かな。磁器で、ぽってりとしているので、冬に冷酒を飲むのにいいかと思って持ってきた(燗酒用には、陶器の黒薩摩がある)。
それに、少し前に妹にもらった沖縄の職人の手になるグラス(安いものだそうですが)。これは、水のほかに昼のワイン、ときにビールとけっこう活躍している。
「父と母は器を選ぶセンスが良かったと思うよ」、と妹が言った。僕が、赤の小鉢が酒器にちょうど良さそうだったのを見て、「これ、持って帰っていいかな?」と言った時のこと。
「それは、私が陶器市の時に波佐見で買ってきたのを母が見て、『それいいわね』と言ったので、置いていったのよ」
そんなやりとりがあって、我が家へやってきた。ただ、改めて食器棚を眺めてみると、他にも使えそうなものがあることに気づいた(硬直化⁉︎)
こんなふうだから、ものは増える一方なのですが、飲んだり食べたりするというのは、雰囲気を楽しむことでもあるから、仕方がない。僕の場合は、こちらが主かも。腕の不足は器で補うしかなさそうなのです(馬子にも衣装)。前に書いた錫製のちろりを欲しいと思ったのも、このためだ。たいていのものは、必要かそうじゃないかといえば、どうしても必要だというものは、案外少ないのではないか。ラーメンもうどんも同じ器で済ませようとすれば、それで十分ことは足りる。でも、そればかりでは、やっぱり楽しさに欠ける。
楕円形の皿
それからしばらくして、今度は楕円形の皿がやってきた(これも妹のところから)。フィンランドはアラビア社製(アラビア社といえば、昔のリトルマーメイドがおまけにくれたものもそうではなかったか)。リムがない代わりに深さがあるので、ソースをたっぷりかけるようなものに合いそうだ。さっそく目玉焼きを乗せたハンバーグ(実は、あんまり好きではないのですが、目玉焼きは大好き)を盛り付けてみたのですが。よくみるとトマトから出た汁が見えていて、やっぱり繊細さが欠けている(やれやれ。あ、センスの問題には触れないことにしようと思う)。おまけに、肝心のたっぷりかけるはずだったドミグラスソースを忘れた(やれやれ)。
こうしてみると、僕は、見分ける力、選ぶセンスは受け継がなかったかもしれないけれど、それでも、ものを好きになる能力はかろうじてあるかも(あ、もしかしたら、欲しがるだけ?)。
2023.12.23
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原点に帰って考える、生活を学び直す 45
ブロードウェイマーケット通りの土曜も、市場の日
ふと思い立って、久しぶりにお弁当を作ることにした。ピクニック遊び、いや昼の小さなイベントごっこというべきか。すっかり出番のなくなったお弁当箱たちを使ってやらなくては、と思ったのでしたが。作ったのは紅鮭海苔弁当。ふだん食べることはあまりなかったのに、なんだか気になっていたのです。
途中でブロッコリーがないことに気づいたので、カリフラワーで代用。僕は、彩りにはブロッコリだけれど、食べるのにはカリフラワーが好き。あんまり人気がなかったようですが、このところ、手に入れやすくなった(ということは、人気が出てきた?とすれば、めでたい)。
久しぶりの弁当
でも、やっぱり彩りが不足しているのは明らか。それにしても、なんだかなあ。センスと繊細に欠けるなあ、と思った。でも、そう言ってしまえば我ながらさすがに寂しすぎるので、平凡というくらいにしておこうかな。詰め方のことです。料理においては、盛り付けは大事な要素のひとつだと思うのですが。
再び鮭海苔弁当
だから、その後すぐさまリベンジを試みたのですが、詰めるものがたりなくて急遽ほかのものを足したりするなど、センスや繊細さばかりか計画性の不足も露呈してしまった。お手本を探して、練習しなければなりません(いくつになっても、お手本が必要みたい。やれやれ)。
世の中には盛り付けに気を遣いすぎるばかりで、味はイマイチというところもあるようだし、なんでも同じような盛り付けをするシェフもいた。例えば、その当時流行った、メインの料理の周りにソースやスパイスを散らすやり方(今は、ソースを皿の上に描くように敷くやり方か)。いずれにせよ、これだけでは驚きも何もなくて、つまりません。それにしても、一流の料理人たちの盛り付けは見事です。美しさに対するセンスもこれを支える繊細な手さばきも素晴らしい(どうやって身につけたのでしょうね)。
大事なのは見た目よりも味でしょ、と励ましてくれる人がいるかもしれない。あるいは、どうせ食べてしまうのだから、という人もあるだろう。でも、こう言っちゃおしまいのような気もするけれど、それを言っちゃ、文字通り「おしまい」なのではあるまいか。溢れ返るモノに囲まれて暮らすことになっても、何も不思議ではない。どうせあした使うんだから……。どうせまた汚れるし……。これでは、ダメですね(と書きながら、口ほどにもない自分が恥ずかしくなる)。
ところで、ロンドンはブロードウェイマーケットストリートの土曜も、市場の日。ここに暮らす人々も、他の街と同様に地域との関係が深い(不思議なくらい)。
平日に各地で中古家具を見つけてきて、それを自らの手で直し、マーケットの立つ日に販売する家具職人の中古家具販売店店主 サラ・バンクロフトは、中古家具は「かつて誰かのお気に入りだった」と言う(確かに。肝に銘すべし)。
若き元シティの金融マンのリチャード・ヘイフィールドは、高層ビルから真夜中の街を見下ろした時「深夜に僕は何をしているんだろう」と思い、別のある日、川向こうから高層ビル群を見ながら、自分は「夢をつかんだはずなのに、全然楽しくなかった」ことに気づいて、ブロードウェイマーケットストリートの鮮魚店の主に転身して、周囲を驚かせた。彼がいわく。
「ここには、面白い芝居も音楽もあるよ。でも、何より人が一番面白い。圧倒的に……」
お金よりも、人との関わりが大事だったというわけだ。
また、通りの入り口近くには、有名な花屋がある。店名は反逆者を意味する『レベル・レベル』。個人用の花束はいうまでもなく、大きなイベントの飾り付けから王室の仕事までをも請け負っているという店のオーナーは、フラワーデザイナーのアテナ・ダンカン。もう一人のオーナーと二人三脚で経営している。
アテナは40歳になるまで、テレビの仕事をしていて、忙しく充実した毎日だったというのですが、自分が同じことしか繰り返していないことに気づいて、転身を決めたらしい(うーむ)。
いずれもが自分の暮らし方に対して積極的で、思い立ったら迷うことなく実践するというのが、なんと潔く、羨ましくも素晴らしいことか。
表通りから一歩入った向こうに現れたもの、見えたものが街のほんとうの素顔だとしたら、ヨーロッパの、少なくともいくつかの路地裏のなんと素敵なことか(しかも、他のものを見ていても、変わるところがないようなのです)。
ところで、BGMには、時には映像を邪魔しないクラシック音楽よりも、観る者に積極的に働きかけるポップな軽音楽が好ましく聞こえる時がある。相乗効果の例だろうか。加えて、斉藤由貴のナレーションもよく似合っている。田舎育ちの僕が言うのもなんですが、ちょっとイントネーションが変じゃないかと思うところがあるけれど、それよりも全体のトーンがいいのだと思う。この場合は神は細部ではなく、全体性に宿っているようなのだ。
2023.12.16
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原点に帰って考える、生活を学び直す 44
ポートベロー通りの土曜は、マーケットの日
壁に映った木の影
用事があって、昼過ぎの早い頃に外に出てみたら、アパートの壁に葉を落とした木の影が映っていた。緑の葉をたくさんつけた木の姿もいいけれど、茶色や赤の葉をわずかに残すだけになった木も、そしてその影も、なかなか美しい。それで、しばし見入った。でも、歩道からではゆっくりと眺めているわけにもいかないのが、残念。
もう何回も書いているように、相変わらず日々ぼんやりと過ごしてばかりなのですが、勤めを辞めた後でも、今日は土曜、あるいは休日だからと考えます。いや、勤めている時は日曜も職場に出かけていたから(別に仕事をしようとしていたのではありませんけど)、その当時以上に気にかけていると言えるかもしれない。
曜日の感覚を忘れないようにして、オンとオフを明確にしながら、なんとか生活のメリハリを失わないようにしようという魂胆なのですが。
まあ、その姿勢は、決して間違っていないと思うのですが、ただ計画するのと実践の間には少なからぬ隔たりがあるのが問題。なかなかむづかしいのです(ああ、むづかしいことだらけ)。
今日は週末だからのんびりしよう、片付けや掃除は休んでもいいことにしようと思って、これを実践するのは極めて簡単なのですが。でも、平日にしっかりと作業に取り組むというのが、至難の技。どうしてなのだろう。もちろん、そうしよう、そうしなければという気持ちは、人に負けず劣らず、いやそれ以上にあるのです(たぶん)。にも関わらず、気がつけば結局は何もしないまま、のんべんだらりと過ごしてしまうことになってしまう……。
急拵えの第2の飾り棚
それで、自責の念に駆られて、急遽、少しだけ片付けを始めたり、ちょっと暗かったこれまでの場所とは別のところに飾り棚をこしらえたりしてみるのですが、いずれもがいかにも小手先という感は免れない……。さて、ここをどう使ったものか(最初のところはそのままか、あるいは一部を移して、その分を本棚として使うのがいいか)。収納の場所を減らせば、自ずとものも減らさざるを得ないので、まあいい方向に働くかもしれません。
「今日はどんな一日になるのかしら。ドキドキするわ」
そう言うのは、ロンドン西部のノッティングヒル地区にあるポートベロー通りで、有名なファッションカメラマンだったという父親から頼まれて引き継いだ、古いファブリックを扱う店を営むヴィジ・ソードン。こんな風に1日を始める、というのは素敵ですね。
ノッティングヒルは、映画「ノッティングヒルの恋人」や、ロンドンで最大級と言われるアンティーク・ストリートマーケットで有名ですが、土曜になると、通りには露店が立ち並び、人で溢れかえる。この日は、ヴィジも、平日のお店とは別に露店を出す。毎日お客の相手をし、通りの住人と会い、家族の食事を作り、休みの日には、まだ小さな子供といっしょに遊ぶ。極めて忙しく立ち働いているのだが、それでも毎日の生活に誠実に向き合い、住み慣れた場所での暮らしを喜び、楽しんでいるのがよくわかる。
もう一人、老齢に差し掛かかり始めた歌手のアール・オーキン。かつてはポール・マッカートニーとウィングスのツアーの前座を務めたこともあったといい、一度は栄光を掴みかけたが、果たせなかった。それでも投げやりになることなく、小さな会場で自作の曲を演奏したり、そのコレクションは1万枚以上という78回転のSPレコードをCDに移してポッドキャストで公開して古い音楽の良さを伝えたりしながら、日々活動している。母を亡くし独り暮らしとなったアールは、少し寂しいのを紛らわせるためにいつも自分を忙しくするようにしているらしい。
その彼が、間違いはあるけれど、人に「不誠実なやつだと思われたくない」、人は時にわがままなものだけれど「だから、わがままにならないように努力しています」、さらに「人に嫌がられないような人物でありたい。それがすべてです」と静かに語るのに、胸を突かれた。
彼女や彼を見習って、彼らのように、生活のありようを見つめて、今一度きちんと暮らすということを考え直さなければいけない。前からわかっていたことですが。言うは易く、行うは難し。うーむ。なぜできないのだろうねえ(なんて、言っている場合じゃないのだ)。
2023.12.09
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原点に帰って考える、生活を学び直す 43
ひとり遊び
空港
空港は、というより飛行場と言いたくなるのですが、いつも高揚した気分になります(というと、年が知れるようですが。ま、昔は今と違って、飛行機に乗るというのは特別のことだった)。それより何より、空間的な広がりや開放性が、別世界への期待へとつながっている気がするせいなのかもしれません。
先日、久しぶりに外で飲んだ(と言っても、八景でしたが)。その時に、家にいるばかりで、人と話すことは滅多にないと言うと、すかさず「それはまずいですよ。人と会うようにしなきゃ、やばいですよ。仕事をしたらいんじゃないですか」と返されたのですが。
確かに、経済のことよりも何よりも(こちらも、決して心配がないというわけではありませんが)、ボケるのを防ぐために人と関わる何かをすることが急務かも。とは思うものの、これは、たとえそうしたくても何分にも相手があることなのでねえ。だいいち、できる仕事があるかどうか。ぼんやりしているし、すぐ忘れるし。テキパキと仕事をこなすなんてことは、とうてい無理。
そういえば、少し前の定期検診では、CT検査の結果は、今度も特に変化はない、すなわち進行性ではさそうだということで一安心。ただ、暗算(100から8を引いて、さらに8を引くということを何回か繰り返すだけのものです)や、4つほどの言葉を伝えられてしばらく他の問答をした後で、先の言葉が何だったかというような問題では怪しかった(目新しいことではない気もするけれど、やっぱりまずい?)。
昔から暗算や物覚えは悪かったのですと言ったら(担当医は2回毎くらいで変わる)、笑われたけれど。そして、もし心配なら認知症の検査をしますか。薬は高いですが、早めに服用しないと効果が薄いと言われたので、しばし呆然としていたら、現在生活上支障はありますかと訊かれた。で、特に支障はない(自信はないですが)と答えたら、それならいいでしょうという答えが返ってきて、ホッとした。
また、ふだんはどんな風に過ごしていますかという問いには、本を読んだり、文を書いたりしていますと答えると、それはいいですねと言った後、できるだけ外に出るようにしてください、とのことでした。新しいものに触れ、人と話すことで脳に刺激を与えなさいということでしょうけど、これは冒頭にも書いたように、簡単じゃない。
川本三郎は、古本屋の主人に「もっと人と喋らなくては。ボケちゃうよ」と言われて、週に一度くらい親しい編集者たちと飲むようにしている、という話を思い出したりするのですが……。ま、そうしたことができれば幸いだけど、これも自分の気持ちだけではどうにもなりません。友達がいないのだねえ(不徳のいたりといえばそれまでだけれど、まいるなあ)。あ、英会話の練習に取り組むというのはどうだろうね(テレビですが)。役にたつのかな。
まあ、嘆いてばかりでは仕方がないので、こうやって文章(駄文ですが)を書いたり、幸い料理をするのと飲むことは苦にならないので、毎日「パブ」ごっこや、「バル」ごっこ、「居酒屋」ごっこ等の「ひとり遊び」に精進しているのですが、さて、効果があるものやらどうやら。
洋食の定番
それで、ひとりでもできることの一環(?)で、黄色の研究の対象の一つのであるオムライスを、先日久しぶりに作ってみた。これは、ひとり「洋食屋」ごっこですね。ただ、何しろ卵はコレステロールの大敵と聞き知っているので、毎日というわけにはいかない(他にも、卵焼きとか目玉焼きとかも食べたいしね)。それでも、こちらはだいぶ安定してきたようです。と言っても、フライパンをトントンと炊いてあっとうまに綺麗に巻いてしまう技とは程遠い。フライパンの縁を当てて移した後に整形する、松尾シェフの教えによる方式ですが。
フライパンの柄を叩いて巻くたいめいけんや北極星の名人のやり方は(ちょっと憧れるのですが)、たまにやるくらいじゃうまくいかず、毎日食べるつもりで作って練習しないと、身につかないようです(やっぱり、職人芸というか技術はそういうものなのでしょうね)。
ひとつのことに打ち込んだ人はすごいなあと、改めて思わずにはいられません(一方で、我が身の不甲斐なさを思うと、ちょっとまいります)。
オムライスの写真は、撮るのを忘れていました。で、その代わりに昨日の赤ワイン煮の写真を。盛り付けまでは気が回っていないようなのが、ちょっと残念。
2023.12.02
読んでくれて、どうもありがとう。
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原点に帰って考える、生活を学び直す 42
「声」の効果
こないだ書いたように、しばらく前から、またポピュラー音楽をよく聴くようになったのですが、ただ、それが相変わらず同じようなものばかりなのは、無精なせい?
10ccのCD
中でも、よく手にするのは、「10cc」(とくに、『オリジナル・サウンドトラック』)。70年代に活躍したイギリスのバンドですね。ちょっとしゃれた感じが、アメリカの「スティーリー・ダン」や「ブライアン・ウィルソン」なんかに似ているかもしれない。もしかしたら、『ソープ・オペラ*』の頃の「キンクス」の雰囲気にも(キンクスの方がデビューは早いし、なにかにつけてちょっと賑やかだけれど、この2つのアルバムは、時期的には同じ1975年だから、どうでしょうね。影響というのあったのかどうなのか)。
「オリジナル・サウンドトラック」を聴いていたら、そのうちの1曲”I’m not in love”をテーマ曲として使った「ヨーロッパ路地裏紀行」を観たくなった。こういうことがあるから、すでに観たDVDもなかなか捨てられないのです。
世界のさまざまな都市の街路のうち、メインストリートから1本中に入った裏通りに暮らす人々の日々の生活を、住人の1人か2人に密着することを通じて、垣間見せてくれる。
そして、その魅力を支えている一つが、「花の都、水の都、霧の都。四季の色に染まるヨーロッパの街並み。……。華やかな表通りの一歩向こうに街の素顔が待っている」と始まり、「化粧をした表通りに、真実はない。人生のすべては、路地裏にある」、と締めくくられるナレーション。担当しているのは、斉藤由貴。僕は他の出演作はほとんど知りませんが、ちょっと抑え気味の落ち着いた声で語る言葉は、映像によく合っていると思う。こうした例は、他にも。たとえば、「欧州鉄道の旅」の伊藤東吾、「世界遺産」の寺尾聡等。また、ラジオですが、「音楽遊覧飛行」の中の「映画音楽ワールドツアー」の先々代の中川安奈さんもよかったなあ。そう言えば、こちらも気負わず、気だるいようで、ちょっとだけ投げやりのような趣があった(でも、気だるい感じだったり、ちょっと投げやりなだけではいけません)。
これはどうしたことだろう。声の質だろうか。「声は人間の生理の、深く柔らかな部分に直結している*」ということらしいのですが、この場合(僕の好み)は、そうではないような気がする。むしろ語り口ではあるまいか。これはすなわち、技ですね、ただ、演技と言っていいのかどうか。単なる技術というよりは、そこに付け加えられた言葉の内容に対する理解のしかた、ひいてはその人となりに関わるような気もする。僕がよく手にして繰り返し観たくなるるDVDは、映像はもちろんだけれど、たいていの場合、このナレーションに関わる部分も少なからずあるようなのです。
* 川田順造、「折々のことば」、朝日新聞、2023.11.15
** ウィキペディアによれば、これはグラナダ・テレビの依頼を受けて製作されたミュージカル『スターメイカー』(1974年9月放送)用に録音された9曲に3曲追加して製作されたコンセプト・アルバムらしい。となれば、「オリジナル・サウンドトラック」とも関連性がある?ところで、このあいだ聴いたビートルズの新曲やローリング・ストーンズの新アルバムには、皆が言うほど心を動かされなかった(ラジオで聞いただけですけど。やっぱり、硬直しているのか?)
2023.11.25
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原点に帰って考える、生活を学び直す 41
やっぱり、ちょっと変
少し前のことですが、東京ビエンナーレのニュースの中で、驚いたことがありました。映し出された展示場所や意見を書き込むシートは、YEARとかCOMMENTだとか、すべて英語表記のように見えたのは、どうしたことだろうね(もしかしたら、見間違いだったのか?あるいは、別の理由によるものか?)。なんだか、ここはアメリカか(行ったことないけど)と思いたくなるくらい。
別のニュースでは、「ファクト・チェック」が大事と何度も繰り返される。この言葉は、日本語では表されないものなのか。政府が使う用語でさえも、いたってふつうの言葉でも何かにつけて、英語に置き換えて言うのが今ふうのようだ。
つい先日のニュースでは、少数派の人々の雇用だか何かの話題で経営者が、皆が「 “アライ“であることが必要」と言うのですが。みんなが「新井」さんになる、ってどういうこと?それとも、注文はみんなまとめて、「洗い」にしましょうということかしらん?皆さんは、わかりますか。まあ、元は”ally”(支持者)で、性的マイノリティの人たちを支援すること、あるいはそれを実践している人々のことを指す言葉のようなのですが……。これを日本語に置き換えて言うことはさほどむづかしくはない気がするのですがね。しばらく前にずいぶん使われていた「ダイバーシティ」も同様。潜水夫やダイビングを楽しむ人々の街を作るってことかと思った?ふつうに「多様性」と言えばすむはずなのにと思う。こうしたことは、枚挙にいとまがない。
日米地位協定のこともあるし、経済も相当に危うい。しかし防衛のためと称して軍備の増強には熱心のようですが、それよりもまず日本語が問題ではあるまいか。英語表示やカタカナ語が多用されていて、日本の行方という意味ではむしろ、この「言葉」、「国語」の問題が大きいように思えるのですが、さてどうでしょう。
それにしても、(馬鹿の一つ覚えのようでも、懲りずに何度も書きますが)どうして国語、自国の言葉を大事にしないのだろうね。だいたい、権力者が住民を支配しようとする場合、自身の言葉を使うことを強要し、その住民特有の言語を禁止するのが常だった。だから、共同体の一員であることの意識は、言葉によって育まれるだろう。それが、わが国の場合は、自ら米国にすり寄っているように見えてくるようです。アメリカが好きか嫌いかということとは、まったく無関係に、なんだかなあと思うのです(物覚えが悪い、ことに外国語に疎いこととも関係ない、たぶん)。
そして、変といえば、建売住宅の玄関と庭と駐車場の関係も。
道路と庭と居間の関係
たいていの家では道路から入ると(門扉や駐車場の扉はあったりなかったり)、まっすぐ進むんだ奥に玄関があり、その手前のところにはリビングルームに面した庭があって、その庭と玄関に至るアプローチにの間には出入り口がある(扉はないことも多い)。ま、動線の利便性を重視したということなのだろうけれど、ほとんどの場合、庭での生活というかプライバシーのことは考えられていないように見える。塀や生垣があったとしても、その高さが足りなかったり、隙間が大きすぎるのだ(とくに視点②の方向は、ほとんど無防備)。その結果、当然のことながら、庭は生活空間として使われることはないということになっている。
こんなことを思ったり、スケッチしたりしていると(まあ、黄色のトレーシングペーパーは、まだたっぷりあるのだ)、またぞろ住宅願望が頭をもたげてくる。となると、あの「一攫千金」に頼るしかないのか?でも、こないだの新聞には「可能性は危険だ」ということが書いてありました。確かに、と思う部分もあった。可能性を信じてばかりいると、欠乏感に苛まれ、結果として人生自体が「ミッション・インポッシブル」になり、ひいては自分が自分自身の「使用人」に成り下がる*というのですが。ああ、悩ましい。
バイクにうさぎ
横に這う木
イタリアにハワイ?
風見イルカ
ちょっと変わったものを、口直しにいくつか。
* 「折々のことば」、2023・11・5朝日新聞朝刊
2023.11.18
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原点に帰って考える、生活を学び直す 40
続・あるバーでのこと
またしても、ない!
水曜日にHPをアップロードした後の夕方散歩に出かけたら、またもやあの芙蓉が根元からバッサリ切られていた。朝には、まだ花が咲いていたというのに。まあ、花が終わると大きくなリすぎないよう細かい枝を切り詰めて、全体を小さく整えることがあるようなのだけれど。それでも、また復活すると知っているから、その時には挿し木を試みることにしよう。
偶然の並び
先日の枯葉を盛った皿は、写真を撮ったあと皿を下げて、そこに残りの葉を放り込んだら、ちょっと良く見えた。残念ながら、いくらかでもよく見えるように並べようとしたものよりいい気がしたのです。作為がない分、そう見えたのだろうか(これって、並べる側のセンスに問題ありってこと?)。もしかしたら、アクションペインティングのポロックたちもそんなことを思ったことがあったのだろうか。なんにしても、並び方一つで同じものが違って見える。で、せっかくだからと写真を撮ろうとしたのですが、入ってきた風でまた変わった。もう一度、「モランディに倣う」をやってみようかな。
さてさて、また思い出したことが……。
「なあ、どう思う?」
ひとつ空けた隣に座った年配の男が、問いかけた。
「えっ?なんです?」
若いバーテンダーが、訊き返す。
「最近の風潮だよ」
「というと?」
「ここでもよくいるだろう?シングルモルトこそが、本物のウィスキーだっていうやつ」
(ドキッ)。
トワイスアップで飲む
「そうですねえ。増えましたね。特に若い人に。なんだかブームのようで」
「で、どう思う?」
「どう思っているんですか?」
バーテンダーは、若いのにうまくはぐらかす。
「俺はね、ふつうのブレンディッドのウィスキーで十分さ」
男が言う。
「いかにも、らしいですね。でも、ここでは両方を飲むんですよね?シングルモルトの方が多いかも、それも断然」
「まあね」
「それって、矛盾してませんか?」
「ま、家では飲まないものをってことで……」
話を変えるかのように、
「ところでね、最近はなんだか年寄りの話題が増えたよな?」
と男が言う。
「ええ。確かにそうですね」
「どう思う?」
と尋ねながら、男はさらに続けた。
(うむっ、今度はなに?)またもや、つい聞き耳を立ててしまったのだった。
「年寄りはのんびりしている。面倒を楽しむことができるらしい(今の僕がつける注:たぶん、時間があると思われているせいですね)。年寄りは、優しい(同じく注:もしかして、煙たがられないようとして、甘くなったのか?)。年寄りには、知恵がある(同注:やっぱり、時間に鍛えられた人が多い?)と、思っている」
「うーむ。言われてみると、そうかも?まあ、確かにそんな気もしますね」
バーテンダーが同意するように応えた。
すると、男は、
「ほんとかね?面倒を楽しむなんて……?」
と呟いたのだった。
「えっ。そうじゃないんですか?そのとおりじゃないんですか?」
すると、今度はバーテンダーの方が驚いたように訊き返した。
「実際のところ、なかなかそうはいかないもんでね」
「いつだって、そう見えるんだけどなあ」
「そう、どうもありがと。でも、これは俺のことだけじゃないよ」
男が言うと、
「じゃあ、同年輩のお仲間のことを、どう思っているんです?」
もういちど、バーテンダーが訊いた。
「うーん。たいていは、せっかちだし、だから面倒なことは嫌い。自分中心で、直情径行な傾向がある、ってところじゃないかね?」
男が、穏やかな口調ながらも、断言するように言うと、
「えっ、そうなんですか?」
バーテンダーは、不意をつかれたように、小さな声で漏らした。
実際のところは、どうなのでしょうね。で、今度は、以前に見たテレビのことを思い出した(こちらは、比較的、最近のことです)。
白のTシャツとジーンズ姿のすっかり頭が薄くなった年配の男が、台所で語っていた*。なんと、「面倒を楽しむ」のだと言う。
その家は、正方形のリビングを中心に、これを囲むようにして食堂や台所等が配置された、「中心のある家」と名付けられたコンクリート打ち放しの建築家の自邸。知る人ぞ知る名建築のこの家を設計したのは、阿部勤。この人こそが、「面倒を楽しむ」と言う人。台所にはもともとあった1列型のキッチンに直交するようにして付け加えられた第2のシンクとIHヒーターを備えたキッチンカウンターのほか、様々な不思議な道具が目を引く。料理好きだったという奥方を亡くして以来、「男がひとりで生きていくキッチンを作ろうと思っ」て作った**と言うのだ。
その彼が、料理をするときには、できるだけ手間をかけて、それを楽しむらしいのだ。パスタは生地からはじめるようだし、ソースはもちろんのこと、サラダのドレッシングも当然手作りする。しかも、手間をかけて。
「便利なだけじゃ、面白くない。面倒なことをとことん楽しむのがいい」
のだと言う。
歳をとったら、「なるたけ面倒くさくする」と言うのは、「なんでも簡単に手に入る時代だからこそ価値がある」し、なにより「楽しい」ということのようなのだ(「ボケ防止」のためなどと言っている僕なんかとは、全然違う。もしかしたら、これこそがほんとうの暮らしを豊かにする極意なのかもしれませんね。でも、恥かしながら、あの時の男と同じように、たいていの高齢者はこうはいかないのではないかという気がするのです。やっぱり、だいたいまあ、高齢者のイメージは、おっとりとしている、文字通り老成した大人、というあたりのようだけれど。でも、実際はそうじゃない人も多いのではあるまいか。むしろ、短気でわがまま、自分のことしか考えないという人の方が多いのかもしれない(『老害の人』という本もあるようだし)。
僕も、恥ずかしながら、そうした老人に近いところがあって、阿部のような態度に憧れつつも、なかなかそうはいかない。楽しいことは面倒でも嬉しいけれど、わざわざ面倒を選ぶということは、正直なところ、したくない。それでも、時々面倒なことをやる時があるのです。いうほどのこともないけれど、例えば麺類は、打つことまではいかないものの、レンジでチンで済むものは使わない(今の調理済み食品の優秀なことは知っているけれど)。ソースもつゆも、既製品は使わない。
なぜかと考えてみたら、暇があるからというより、「演劇性」というと大げさだけれど、代わり映えのしない日常に刺激を与える非日常を持ち込む手段のような気がする。年をとると、こうした変化が必要な時があるのだよ(それは年取った時の楽しみですね、なんていう人がいたら参るけど)。
ま、これを一般化するのは無理があるような気はしますけれどね。
* 人と暮らしと、台所〜夏 (6)「阿部勤(建築家)」
** web magazine 100% LiFE
2023.11.11
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原点に帰って考える、生活を学び直す 39
あるバーでのこと
咲き続ける花
こないだ、道端で見かけて摘んできたごく薄いピンクの花が、長持ちしている。花を1輪だけと思って摘んだつもりが、上の方に蕾がいくつかついていたのが、続けて咲いたのだった。
さて、いつのことだったか……。
「こないだ、ふっと気づいたんだよな」
誰かに語りかけた、というより独り言に近いかもしれなかった(そんなふうに思うのは、実は自分でも、最近はこうしたことが多くなったせいだ)。
「えっ、なんです?」
客が少ない日だったせいもあってか、カウンターの向こうの若いバーテンダーが、驚いて、素早く反応した。彼は、こちらから話しかけない限り、口を挟むことはしない。それで、つい聞き耳を立ててしまったのだった。
「えっ?あっ、ごめん。なんでもないんだがね……」
2つ席を空けた隣の男が、バツが悪そうに言った。
「はい?」
バーテンダーは、少し戸惑った様子で訊いた。
「ほら、還暦って言うだろう?」
グラスを見つめながら、男が話し始めた。
「60歳になったら?」
「生まれた年に戻るって」
「そうそう、そうでした」
「この頃、確かにそうだと思うんだよ」
「へえっ。でも、……。ごめんなさい。もう過ぎましたよね」
「とうの昔に。でもね、なんでも人より遅いんだよ」
「ふーむ」
「で、今頃になってようやくその意味に気づいたような気がしたんだな。遅ればせながらね。昔は一周遅れのトップランナー、なんて言っていたがね」
(うん、うん。これは、今の僕が思うこと)。
ウィスキー
「へえ」
「うんと若かった頃に戻るんだな、きっと」
「はい」
「もしかしたら、少しでも未来に希望を繋ぎたいと思っているのかもね」
「なるほどね」
「もちろん、気持ちだけのことだけがね」
「そうなんですか?」
「そりゃあね、若い頃と同じエネルギーは無理だろう?」
「確かに。そういうものでしょうね」
「君は、いつも正直に言うねえ」
「えっ、そうですか?」
「そうさ」
「ちょっと、まずいですか?」
「うん?まあね。いやいや、そうじゃない」
男が言った。
「そうですか?」
バーテンダーが、心配そうに訊く。
「少なくとも、年寄りにとってはね。たぶん」
「はあ」
「年寄りの言うことを、たまには素直に信じてもいいと思うがね」
「はい」
「わかればよろしい」
「はあ」
「もう1杯だけもらおうかな」
「ええ、わかりました」
「水は少なめに、ね」
「了解。心得ていますよ」
「あ、どうもありがとね」
それから、男は一息にグラスの半分ほどを飲み干した。
「ところで、ひとつ訊いてもいいですか?」
(当然、気になるね)
「何?」
「その、気持ちってのはなんなんです?」
「ああ、そのことね。おっと、いけない、思い出したことがある。それじゃあ、帰るとするよ」
「えっ」
「ごちそうさま」
「相変わらず、素直じゃないですね」
「えっ、なんだって?」
「なんでもありませんよ」
「そうかい。じゃあね」
「それでは、また。よろしくお願いします」
「おやすみなさい。バイバイ」
そう言って、彼はスツールから離れた。
「(はぁ)」
バーテンダーは、何がなんだかなあといった顔をして、見送った。
僕もつられるように、なんだったんだろうという子供っぽい疑問を持ったまま店を出たのでしたが。そして、男と同じくらいの年になって、時々いくらかの酸っぱいような気分を抱えながら、思い出すのだね。まあ、歳をとるとね、色々とあるし、だいたいは想像もつくようになった……。
2023.11.04
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原点に帰って考える、生活を学び直す 38
「知る」ということ
新しい器にカルボナーラ
先日、新しく手に入れた器に、カルボナーラを盛ってみたのですが。
その器はジャスパー・モリソンのデザインだけれど、以前に手にしたものとはずいぶん趣が異なる。元々あったものが厚手でカジュアルなのに対して、新しいこちらは薄手で流麗だ。前者がフランスのメーカー製、後者がドイツ製。両国のイメージからすると、なんだか逆のような気もするけれど、そうではありません(これまでずっと、上っ面だけを見てきたようで、なんだかちょっと寂しい気になりますが)。それでも、ふだん使いには、厚手のカジュアルなものの方が使いやすそうに思えるのは、貧乏性(貧乏)の故か?
カルボナーラは、今回は落合務流に倣ってやってみた。ボウルにあらかじめ卵とチーズと黒胡椒を混ぜておくということだったので、全体に濃い色にはなったけれど、カルボナーラの語源となった炭焼き職人風、「炭がかかったように」見えるというのとは違うようでした。
ところで、最近は録画してもらった番組(映画とドキュメンタリー)を見るだけでなく、自分でも定刻に見ることがある(地上波)。実際に見てみると、テレビも案外ばかにしたものでもありませんよ。
実のところ、今はさほどテレビ好きというわけでもないと思うのですが、録画してもらったもののほかにも、地上波で見る教養番組や海外ドラマ(こちらは、多くはありませんが)がけっこう面白いのです。
例えば、最近では、『笑わない数学』(シーズン2)。数学の難題に取り組んだ数学者たちの姿が垣間見れて、面白い。その真摯さ、今まで誰も知り得なかったことを解き明かしたいという気持ちがすごいことに圧倒されます。ま、上っ面をなでるだけなのかもしれないけれど、それでも興味が尽きません。そういえば、うんと昔には『ガロアの生涯』など、少し前のものでは『素数の音楽』などという本も読んだ(ま、自身にないものへの憧れなのだろうか?)。だからと言って、数学の真髄が理解できたのかというと、いうまでもないことなのですが……(うーむ)。
ところで、「知る」ということは、極めて当然至極のことですが、新しい経験です。それまで知らなかったことを知ると、やっぱり嬉しい(ただ、僕の場合、それが多すぎるのが残念。と言って、特別なことでもなんでもない、見慣れた花の名前だったり、木の種類だったり、ごくふつうのことについてです)。
公園の木
こないだは、近くの公園でムクノキやらクスノキ等の木を見ながら、それにつけられた名札を見て、なるほどこれがケヤキの木だったと思ったりしたのですが、しばらくすると木肌の特徴や葉っぱの形も、やっぱりすぐ忘れてしまいます(残念!)。でも、逆に考えるなら、いつも新鮮ということなのかも⁉︎(じゃないか?)
まあ、知るということは、苦い思いを引き受けることでもあるかもしれませんが、ほかにもたくさんのことを知らないままでいるのだということを思い知ることでもあるから、いくらかでも傲慢になることから遠ざかることができるのではないか、という気がするのです。
2023.10.28
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原点に帰って考える、生活を学び直す 37
秋に備える
ようやく秋がやってきたと思った後の、何回めかの暑い日の昼食は、マルゲリータ。さっそく窓を開け放って、即席のセミオープン席をしつらえました。
食べた後ですけど
で、お供にイタリアのDVDを見ようと思って見始めたのですが、旅行者役の若い女優がやたら大きな声を上げてはしゃぐばかりで、うるさくて閉口した。ならばと同じシリーズのバルセロナ編にしてみたら、ここでも、もう少し年配の女優でしたが、何かにつけて「かわいい」を連発するのでした(やれやれ)。でも、ローマやバルセロナの街の景色は美しいし、食べ物も美味しそうで、楽しい。これからしばらく、お昼ご飯の時は世界の都市を巡ることにしてみようかしらん(ただ、訪問先と案内役は選ばなくてはいけません)。
イタリアの食事はおいしいと評判ですが、僕はあんまりそんな気がしなかったのが残念。ま、これはイタリアの街のレストランや食堂のせいではなくて、貧乏旅行のせい?ともあれ、ローマ発祥のパスタといえば、カルボナーラ。一時これが気に入っていた時があって、よく作っていた。そのために、チーズおろし器も買ったし、パンチェッタの研究にも取りかかろうとしたけれどこちらは結局つくらずじまい(これが弱点。やれやれ)。また、作ってみようかな(カルボナーラのことです)。新しく手に入れた器で試すのもいいかも。
飾り棚
そして、今度こそはいよいよ秋も深まりそうな様相なので、秋への備え*をすることにした。といっても、ささやかな模様替え。ファンヒーターを出したり、テーブルランナーを交換したり、飾り棚周辺をちょっと手直したりするくらいの、ごくささやかなものです。それでも、空間の印象も自身の気持ちも変わるはず(首尾よく行けばいいのですが)。それにしても、いつもながら小さな作業しかできないことに、呆れてしまいます。
テーブル
手持ちのテーブルランナーの色合いは秋に相応しいけれど、ちょっと幅が広すぎる**ようだった(テーブルの幅もやや狭い)。食器を並べるにしても、書き物をするにしても平滑な面が不足する。バインダーがあったはずと探したけれど、またまた見つからない。で、たまたま手元に残してあったガラス板(引き取り手がなかった)を載せてみることにした。風情の他にも、大きさやら、こびりついた汚れやら、問題がなくはないけれど、しばらくはこれで試してみることにしよう。
照明や灯りを楽しむのにもいい季節ですが、手持ちの小さな蠟燭(M印製)がちょっと残念。すぐに炎が小さくなる。たぶん、芯が短すぎるせいですね。蠟が溶け出すと、すぐに芯が埋没してしまうのだと思う。で、物は試しと、凧糸を切ったものを埋めてみたら、長い炎がしばらく続いた(不幸中の幸いといえば、まあそうだけれど。まだたくさんあるので、やっぱりそうするしかない⁉︎)。
がんばる芙蓉
そういえば、あの芙蓉もそろそろ終わりなのだろうか。先日はまだ午前中というのに、もう花はほとんどしぼんでいた。先に咲いた近所の芙蓉の一部は、もう花をつけなくなったものもある。いよいよかな。咲いていた期間は短かったんだなあ。と思って、翌日もう少し早い時間に行ってみたら、ちょっと小ぶりの花がたくさん咲いていました。今しばらくは、楽しめそうです。
少しずつ、ぼちぼちと、ゆっくりと、着実に。Little by little、Step by step、Slowly、Steadilyを念頭に。
* 冬支度という言葉はあるのに、秋支度とは言わないようです。
** テーブルランナーにも一時関心があって、家にあるものは、そのころたまたま時々イギリスに出かけていた人からの土産物。
2023.10.21
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原点に帰って考える、生活を学び直す 36
ハロウィーンのかぼちゃ
この頃はうんと涼しくなって、朝夕はもう寒いくらいですが、今頃になって、夏にはいなかった蚊に狙われるようになった(もう10月も半ば!)。しかもその数も、少なくないようなのです。夏の間は、昼間窓をあけっぱなしにしていても、まったくそんなことがなかったのに。これも異常気象のせい? あの憎たらしい蚊も、異常な暑さには弱いってこと?それとも、よほど飢えていたのか?ま、「異常」には、たいてい誰だって、なんだって弱いだろうけれど。
10月といえば、最近はハロウィーン。すっかり定着したようですね。元々はアイルランドの古代ケルトの信仰から発生したというのですが、その後ジャガイモ飢饉でアイルランド人が大挙移住した(あのケネディの一家の祖もそうですね)アメリカで普及した。ケルトの信仰にもキリスト教にも関係のない日本で流行るのは、お祭り好きのせいか。いや、若者中心ということだから、イベント好みということだろうか。
門柱の上のハロウィーン
近所にももう、かぼちゃ(ジャック・オー・ランタン)が飾ってるところがあった(もちろん本物ではなくて、陶器の置物ですけれど)。この家は、玄関まわりがいつも季節の花を中心に飾り付けられていて、そばを通るたびに楽しい。こういうところは、きっと家の中も清潔で綺麗にしてあって、気持ちがいいのに違いないでしょうね(うーむ)。
沖縄のシーサー?
なぜか後ろ向き
この他にも、散歩の途中で、家の前(玄関脇や、門柱の上等)に置かれているのを幾つか目にしました。飾ることによって、家をよく見えるようにしようということでしょうね。ただ、中には、こうした思いが全体に及ばないでいるように見えるのが残念(人のことは言えませんが。なお、写真とこのこととは関係ありません、念のため)。
さて、そろそろ頑張らないといけません。
ところで、最近は、あんまりパンを食べることが少なくなってきたのですが、ごくごくたまにトルコ名物、イスタンブールのサバサンドが食べたくなって(ビールとともに)つくります。ま、うまい。
でも、できたての、焼きたてのバゲットが一番のような気がする。飽きないし、バターもなんにもなくても、いくらでも食べられそうです(いや、実際に食べられる)。これに、赤ワインがあれば、言うことなし!です。
美味しい秋の到来!
いや、その前においしく食べられるような環境づくりだ‼︎
2023.10.14
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原点に帰って考える、生活を学び直す 35
すごい!
花を増やす芙蓉
あれから芙蓉は順調に花をつけているようです。日曜の朝は3輪、翌日は5輪に増えた。「でも、そのほとんどが根元の方というのはどうしたことだろう?」と不思議に思っていたら、その後は、上の方にも花をつけるようになってきた(よかった。ちょっと、葉の勢いに押されているようだけれど)。
この数日、急に季節が進んだと思っていたら、昨日はそうでもなかった(それでも、朝晩はまあ寒いくらいですが)。
ここしばらくは、具沢山の味噌汁を飲むための木の器を探しているところ。だから、ちょっと大振りのもの(手持ちの輪島のものは、ちょっと小さい)。当然、漆器が気になります。生地を生かした拭き漆のものか、漆そのものを楽しむ塗り漆のものにするか。拭き漆の場合は、木の種類は何がいいのか、ケヤキ、サクラ、クリ、カエデ、ナラ等がある(思えば、こういうことも知らないまま来た)。また、塗り漆では生地が木の場合と樹脂と木粉を混ぜた木乾樹脂というのがあって、こちらは安価で強度が増しているようだ。いっそ、両方を合わせたような、飛騨の春慶塗りはどうだろう。
そこでWeb上で調べてみたり、録画した漆器や木製品を扱った番組(結構あります)を観たりするのですが、今や伝統的な製品だけではなく、驚くような新しいアイデアを盛り込んだものまで様々。
それでも、感心するのは、やっぱり伝統的な作り方における様々な工夫。たとえば、津軽塗りでは凹凸のある器が特徴なのですが、これを実現するときに菜種を使う。他のものではダメらしい。ガラス玉での実験では、菜種には漆を吸い上げる性質があるのに対して、ガラス玉には吸着力がなくうまくいかない。菜種に至るまでには、当然その地域で手に入る様々なものが試されたのに違いない。また、飛騨春慶塗りでは、木目を生かすために漆が木地に染み込みすぎないように大豆の絞り汁を塗るという。いったい、どうやって発見したのだろうね。偶然発見されたこともあっただろうけれど、多くは試行錯誤の果て、ということではあるまいか。
他にも、片や様々な道具を使い分ける職人技があるかと思えば、また一方では一つの道具だけを駆使して全てを生み出して、出来上がったものはいずれもが素晴らしい。
むろんこのことは漆器に限らず、他の木製品や刃物や器等の金属製品でも同様。考え抜くことはもちろんだけれど、わずかな力の入れ具合は手が覚えていて、手の感覚を頼りに微妙に加減する。こうしたことが地域ごとに現れていて、実に多くの知恵と工夫があることに驚くのだ。しかも、自身の関わるところの出来に関しては妥協を許さない。技と知恵だけでなく、こうした職人の魂と呼びたくなるような気概もすごい。
遠い海と秋の空
そして今、そうした「職人」に憧れるのです(むろん、今からなろうとしてなれるものではないことは重々承知していますが)。
加えて、それら先人たちの知恵と工夫と技を受け継ぐ現代の職人たちの創意も立派で、いずれ劣らずと思うのですが、やっぱり先人たちの卓見と技に見入ってしまうです。何年もかけて次第に研ぎ澄まされ、やがて身体化して、真に美しいものを生み出してきた。現在ではもっと早く効率的にしかも安く実現できることもあるには違いないけれど、それらとは違う何かを訴える力が宿っているような気がするのです。
日常的な工芸品の職人のみならず、同じように志を持った農作物や酪農、漁業等の担い手たちは一様に、決して声高に主張することはないけれど、彼らの粘り強さや愚直に努力する姿勢を、せめて学びたいものだと思うのです(こうしたことに気づくのに、いかにも遅きに失したけれど。思えば、ずっとこの繰り返しのようだ)。
2023.10.07
読んでくれて、どうもありがとう。
お便りをこちらから気軽にどうぞ(全くないというのは、ちょっとさびしい)。
* こちらは未だ、相変わらず急ごしらえのままですが、名称を「みんなの間取り相談所」に変更してみました。連絡は「こちら」、遠慮なくどうぞ。
原点に帰って考える、生活を学び直す 34
何かしなくちゃいられない?
ある日の散歩の途中で、ほとんど望み薄だと思つつ、例の芙蓉のところへ行ってみた。すると、なんと小さいながらも蕾をつけていたのだ。嬉しい。その少し前に、向かいの家の芙蓉は早くから花をつけていたのに、この家の芙蓉は日が当たらないせいかずっと咲きそうになかったのが、小さいながらも花を咲かせているのが目に入って、そこで、もしやと思った次第。さて、いつ咲くのだろう。
再び蕾をつけた芙蓉
それにしても、すばらしい生命力。さて、どんな花が咲くのか。遅い芙蓉が、楽しみになった。たいしたものですねえ。ただ、そのあとも見に行ってみるのですが、同じ植え込みのもう少し上の方にあった芙蓉はまたもやバッサリと切られていたし、蕾をつけた方も大きくはなっているものの、なかなか花を咲かせません*。
ところで、散歩の途中で見るのは、ヘンなものもある。例えば、電柱に巻きつけられた針金に引っ掛けられた傘や空き缶等。
電柱に傘
電柱にボトル
排水孔にゴミ
どうやら、人は穴と見たら何か入れたくなるようだし、引っ掛けるものがあればなんでもかけたくなるようだ。
猛犬注意?
そうしたくなるといえば、英語表記もそうなのかも。表札のローマ字表記は言うに及ばず、猛犬注意の類のパネルもあった。これで、効果はあるのか(図で知らせるということ?文字も含めて)。ちなみに、この家の表札には漢字表記の日本名がありました。
ま、何かしたいという欲求の表れかもしれませんが、いずれも、あんまり面白いものではなく、うまくいっているようには見えません(とは言え、かくいう僕だって何かしなければ。いやどうにかしなければいけませんが、なかなか……)。
玄関脇の犬
で、最後にこれはどうでしょう。
* 昨日、念のためにと行ってみたら、なんと下の方に1輪だけ、しかもけっこう大きな花を咲かせていた。さっそく家に戻り、カメラを手に取って返し、パチリ。自分が育てたわけじゃないけど、嬉しい。でも、さすがに摘んで帰ることはできませんでした。
一方、昨夜は中秋の名月で、しかも満月(次は7年後)。朝から雲が多くて心配したのですが、なんとか見ることができた。ただ、暗いので、写真はなかなかうまく撮れませんね。
咲いた!
中秋の名月だけど
2023.09.30
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原点に帰って考える、生活を学び直す 33
外に出る練習、久しぶりに美術館
今日の水盤の花は、ツユクサ。
摘みたての小さな花
いつの間にか、道端にひっそりと咲いていました。なかなか可憐で好ましいのですが、長持ちしないのが残念。わずか半日もしないうちにすぐに閉じてしいます。やっぱり、花の命は短い、ってことか?
先日、久しぶりに展覧会へ出かけてきた。そごう横浜店の中のそごう美術舘で開催されている「アーツ&クラフツとデザイン ウィリアム・モリスからフランク・ロイド・デザインまで」展。
コロナ前はほぼ一月か二月に1回くらいの割合で出かけていたのに、コロナ禍になって以来、行くチャンスが減り、こないだのマティス展にも結局行けずじまい。そんな時に、この展覧会を監修した友人が招待券を送ってくれたのでした。これを機会に、また出かけて行く気力が戻ったら、嬉しい。
なぜか暗い入り口
デパートの中の美術館というのも、初めての経験のような気がする。それにしても、入り口がずいぶん暗かったのは、どうしたことだろう(やっていないのかと思ったくらい。もしかしたら、例の売却騒動の影響かとも)。アーツ&クラフツ展は人気があって、数年に1回はやられているような気がするけれど、モリスからライトまでを辿った展覧会というのは初めてだった。
入ってすぐのところだったか、ライトがデザインしたステンドグラスの窓を見ていたら(ずいぶん直線的であることに驚いたけれど)、なんとなくスコットランドのC.R.マッキントッシュのことを思い出して、やっぱり二人ともがアール・ヌーヴォーから出発してアール・デコへいたる端境期にいた人なのなだなあと思いました。ただ、それぞれの展示物がちょっと少なかったのが残念。これがどういう理由によるものかはわからないけれど、もしかしたら今の日本の経済力を示しているのか、と思ったりした。
それでも、図録があったので、いつも通りちゃんと買って帰りました。
久しぶりなのは美術館に限らず、横浜へ出かけるのも何ヶ月ぶりかのことだった。最初に帽子屋に寄って秋冬用の帽子を見てから高島屋へ行こうとしたら、様子が違っていて驚いた。西口の方ヘ歩いていくと、CIALの大きな入り口が現れたのに、びっくり。高島屋への経路も増えていたようだった(なんだか、浦島太郎のようでした)。
展覧会の後は、まずは蕎麦屋(何しろ、まだ3時をようやく回った頃)で一杯。その後、これまた久しぶりに同行したY氏が以前に下見をしておいたという、ビストロ風の店に入ることに。
席に着くと、すぐに若いウェイター(じゃなくて、ギャルソン?)がやってきた。
「ティータイムが終わって、これから食事の時間になるのですが、大丈夫ですか?」
カフェとビストロが併設されていて、我々が入ったのはビストロの方だったのだ。
「食事というか、おつまみとお酒を少し飲みたいんだけどね」
「はい、大丈夫です」
なんとか、受け入れてもらえたようだった。改めて店内を見回すと、女性客ばかりだったから、確認しようとしたのかもしれない。
ビストロの店内
「ここ、いいでしょう?」
と、Y氏。ちょっと得意げ(発見の喜び⁉︎)。
「なんだか、パリの裏路地あたりにありそうだよね」
「そうでしょう。きっと狙っているんですよ」
「うん」
「ガランとしていて、近所の人たちの集まるお店ですね」
「うん、観光客相手じゃなくてね」
「ね。ちょっと、いい感じでしょう?」
「もうちょっと天井が高くて、赤いソファなんかがもっとやれた感じがあれば、完璧な気がするけどね?」
「まあ、新しいですからね。それはしようがない」
おつまみを何品か*と、カラフェで頼んだ赤ワインを何杯か。かつての展覧会へ出かけた後の恒例行事が復活したようで、楽しかった。
実は、定期検診の際には、「できるだけ外に出かけるようにしてください」と言われたのですが(これは認知症予防のためですね)、僕の場合、これがなかなかむづかしいのです。めったに、出かける機会がありません。逆に、もう少し若い人たちは、忙しすぎてなかなか家で過ごす時間がないという人も多いようですが(なんにしても、偏在するのが常のようで、なかなかうまくいかないものです)。なんとか、人や街から刺激を受けて、新鮮な気持ちでいるためには、外に出かける練習しなければいけません。
* これを巡って、ここのビストロでも、蕎麦屋でも、アルバイトゆえのことだろうなあという出来事があって、今や飲食店の多くはこうしたアルバイトの人たちの支えられているのだろうなあと思って、ちょっと複雑な気がしたのですが、このことについては、また別の機会に。
2023.09.23
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原点に帰って考える、生活を学び直す 32
常識に従うべきことは多いけれど インテリア編
先日、また機会があって、海のそばのレストランへ行ってきた。あいにく、天気は曇りがちで良くなかったのだけれど、目の前の浜辺には大勢の人が出ていた。そして、空をおおう雲は刻一刻と形や色を変えて、やっぱり圧倒的だった。
海辺の夕景1
海辺の夕景2
こうした景色を毎日、見ることができたらいいねえ。
と思っても、叶わぬことだから、海辺の景色の方は家とは別に考えることにして、それとは違う楽しみ方を。
残暑が去ってから、秋の夜長を楽しむ時の一つは、照明。アラも隠れて、ほどほどにいい感じになります(というか、アラを隠すことばかりを考えているような気もしますが)。もしかしたら、他所の家は、隠したくなるようなアラはないのか。
本当ならば、自身の理想通りのインテリアやロケーションの家に住むことができればいちばんいいに決まっているけれど、なかなかそうはいかないことが多い(と思う)。この場合は、今ある状況の中で、いかに楽しくするかを考えるのが良い。
で、少しずつ。
複数の照明を楽しむ
照明は、天井灯は基本的には使わない。その代わりに、部分照明(アームライトやスタンドライト)をいくつか。器具は、できることならばもちろん、名品がいいに決まっているけれど、こだわらない(こだわれないと書くのが正確ですが、いちいち書くのはなんだか落ちつかないので、以降は省略)。やっぱり、一つ二つでは寂しいし、変化に乏しくなる。で、いくつか用意して、これらの中で点灯するものの組み合わせを変えて楽しむ。けっこう面白いです。たまに、ローソクを加えるのもさらに趣が増す。
さて、「おはようございます」は午前中まで(できれば10時頃までとする)と言うと、皆言っていますという声が返ってくるのは必定ですが、水商売でもないのにおかしいと思う。また、人の家を訪問する時には、ほんの少しだけ遅れていく。
これと同じように、住宅の場合にも従う方べき基本がたくさんあります(まあ訳あって、ちょっと知っている)。たとえば、キッチンセットの並び順(ご存知の通り、シンク−調理台−コンロが基本。冷蔵庫はシンクに近い側に置く)。これは、作業工程に一致していて、合理的。火を使うガスレンジの脇に、冷蔵庫を置くようなことは避ける。
こうした常識にはできれば従う方がいいと思うのですけれど、そう言っておきながらもう、先の写真でバレてしまったと思いますが、僕の家では、人にはやってはいけないと言っていたことをいくつかやっています。
窓の前に机
すなわち、大きなガラス窓の前に家具を近接しておいてはいけない、という鉄則。こうすると、せっかくのガラスの透明性の持つ良さを損なってしまいます。つまり、たいていの場合、常識は、ただの慣習というのではなく、ちゃんとした合理的な理由があるのですね。
それでも、相応の理由があれば、これに縛られることはない。すなわち、絶対ではなく、相対的に考えるのがいい。
僕は、外を見ながらお茶を飲んだりお酒を飲んだりするのがとても好きですが、ただ残念ながら、家にはこれを楽しむためのベランダや庭がない。こうした場合どうするか。で、迷わず、ガラスの掃き出し窓の前にテーブルを設置することを選んだというわけです。
背に腹は変えられない別の理由もあって、ちょっとものが多くて、すっきりした印象にはならずに、ややくたびれた生活感が漂いますが、僕は断捨離を極めたような住宅にはまったく惹かれません(これは、負け惜しみでもなんでもない、本心です)。
したがって、インテリアデザインというよりも、せいぜい部屋の中のしつらいで遊ぶというくらいのものです。ま、小手先といえば小手先の仕業に違いないのですが。だから、名作家具や器具で揃えようともしないし、見てもわかるように、あり合わせのもので間に合わせることも少なからずあります。ただ、これもやりすぎてバランスを欠くと、散漫で安っぽい感じになってしまうので注意が必要(このことも、見るとすぐにバレてしまいそうです)。
むづかしいことは得意じゃないので、これからは、目に入るものをできるだけ好きなもの(いろいろと制約があって簡単には行かないので)、まずは、嫌いじゃないものに置き換えていくのがいいのではないか。と、いう気がしています。
マリー・フランスという人だったか、「家はそこに住む人そのもの」というようなことを言ってましたね。まあ、当たり前といえばごく当たり前のことだけれど、そうだとしたら、今の状況は、あまりにも恥ずかしい。くれぐれも、このことを自覚して過さなければいけません。
片づき過ぎた家は、目指ざさない。とは言ったものの、モノが多すぎてごちゃついていることは気に入らない(9月が勝負だ!と思い定めていましたが、少し修正の必要を感じているところで、ちょっと弱気)。恥ずかしい、と思わずにすむような家になるようがんばろう。まずは1日に一つでも、嫌いなものをイヤじゃないものに置き換えていくことから始めるというのではどうだろう。
2023.09.16
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原点に帰って考える、生活を学び直す 31
海もいいけど、光も
刻々と変わる様が楽しい、おもしろい。一刻たりとも、同じではないのだ。なんのことかといえば、夕暮れ時の家の前の景色(ま、これに限らず全てがそうだけれど)。
ある日の夕景1
ある日の夕景2
黄昏時、それまで灼熱の光線で全てを昼白色にくっきりと光らせていたのが、次第に鮮やかさを閉じてゆく。そして、いったん光を失い、くすんで見えた景色が、ある時刻には、いつの間にか透明感のある黄色みがかった光に照らされて黄金色に輝く。いっとき、黄色味を濃くし、鮮やかさを増すけれど、それからはまた、少しずつ不透明の幕がかかって、鈍い輝きとなり、やがて光を失う。しっとりと落ち着いた感じから、あっという間に平板な景色に変わってしまう。しかし、彼方の薄い雲は、ごく薄いピンクと紫に染まるのだ。
この様子を眺めていると、海や川の魅力にも負けないという気がしてくる(ちょっと、負け惜しみの気がないわけじゃないですが)。でも、本当に美しい、と思わずにはいられない。おまけに、朝と夕には、時々、目の前に小さな海、いや湖が出現することもあるのだ。それで、ついカメラを向けるのだけれど、写真に写し取るのはむづかしい(機材と技術の2重苦)。
最晩年の録音2種
さらに時間が進んで、闇と静寂に包まれるころになると、夜にはグールドの『ゴールドベルク変奏曲』か、それともグルダの弾くシューベルトの『即興曲集』を聴こうかという気になる時がある(でも、実際に聴くことは、めったにありません)。
この2つの演奏は、特に遅い時間、真夜中に聴くのにふさわしい気がする、遅いことで有名なグールドが最後に録音した「ゴールドベルク変奏曲」も、こちらも最晩年に、自宅で録音したというグルダが弾く「即興曲集」も、極めてゆっくりと始められて、遅い。確かに遅い。いや、うんと遅い。
時々聴き返したくなって、しかもごく稀にしか聴かないというのは、それが、死を意識したあとの痛切な思いのようだからか。そのせいで、胸を突かれる。しかし、さらに進むと、そうした感覚は薄れてそれほどでもなくなるような気がしてくるのは、もしかしたら、音楽家の性で、諦観あるいは達観の境地で弾き始めたとしても、いざ弾き始めたら、曲そのものに没入しきってしまうせいなのかもしれない。
演奏家が音楽に没入して一体化するというのが、作曲家の音楽を正しく伝えるのか。はたまた、込められた演奏者の思いの丈が、技巧や技術的な正確さを超えて特別に訴えるものを持った演奏となるのだろうか。
そして、また、ふっと我に返ったように遅くなる。ぎりぎりで、なんとか旋律を感じ取ることができるくらいの遅さ。
その繰り返し、のような気がするのだけれど……。陰と光。陰と陽。閉鎖と解放。何より、そこに込められた思い。ま、こう言ってしまうなら、音楽、いや音楽に限らず、芸術、およそ人の手で作り出されるあらゆる作品の基本でしょうけれど。
2つの音楽は、最後はまた、うんと遅くなって、閉じる。
家の外では、光によって変化する景色を楽しみ、家の中にあっては、音楽や本、あるいは映画を楽しめばいいのかもしれない。そう思い定めるなら、海の見える家に憧れながら、手に入れられないもどかしさに煩わされることもない。今住む家の中を整えることを優先するのが、最良なのかもしれない。
でも、海を見たらすぐに、やっぱり……と思ってしまう。なんだか、こんなふうに繰り返してばかりで、ちっとも前に進まないでいるようだ。
2023.09.09
お知らせ:「アーツ・アンド・クラフツとデザイン ウィリアム・モリスからフランク・ロイド・ライトまで」展の招待券(1枚)を差し上げます。
開催日時は9月16日〜11月5日、開催場所は横浜そごう美術館。
ご入用の方は、メールでお知らせください。1枚だけですが、先着の方に、お送りします。
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原点に帰って考える、生活を学び直す 30
もうひとつの人生
「描き始めると没頭して、細部まで描きたくなるんだ」
と言うのはクラウス・フォアマン。やっぱり成功する人は、突き詰める能力があるのだね。
連日、暑い日が続きますね。窓を開け放っていても、じわりじわりと汗が滲み出るような暑さです(この間は、危うく熱中症になりかけた、たぶん)。何しろ危険な暑さと言うほど暑いことをいいことに、片付けも何もしないで、未見のDVDをいくつか見ていたときのこと。そのうちの一つ、「サイドマン 〜ビートルズに愛された男〜*」の中でのこと。
リボルバーのジャッケット
クラウス・フォアマンは、グラフィックデザイナー、ベーシスト、プロデューサーとして活躍した。ハンブルク時代のビートルズと出会って以来付き合いが始まり、「リボルバー」のジャケットの絵を描いた(グラミー賞のベストデザイン賞を受賞)。その後ベーシストに転じて、ジョンやジョージ、リンゴのソロ・レコード制作に参加。アメリカに渡って、ニルソン、カーリー・サイモン等々多数のレコーディングに参加した。やがて、アメリカのロックの業界に嫌気がさして、ドイツに戻ったあとは、頼まれたからやったというプロデューサーとしても成功。プロデューサーは向いていないと言って退いてからは、また美術の世界に戻った。その彼の70歳の時のドキュメンタリー。ついでながら、カーリー・サイモンは、初めて彼と会った時、そのあまりの美形ぶりに圧倒されたと言っています。
才能がある人はいいですねえ。ただ天賦の才に恵まれたというだけでなく、多才。しかも、どれもが一流。羨ましいなあ。
その彼にしても、
「別の人生があったかもしれない」
「自分の人生に十分満足していると言える人はいないでしょう」
と、言うのだ。「常に流れに従って……、ずっと漂っていたのです」とも。そういうものなのだろうか。
画面の中の彼は、なかなか素敵でした。穏やかで、偉ぶったところがないし、背筋をピンと伸ばした姿勢もよかった。
ブライアンの新旧の傑作
一方、その後で見た「BSエンターテインメント『ビーチ・ボーイズ フォーエバー』**」、クラウスと同世代、やはりベーシストで、曲作り、アレンジ、プロデュースまで、最盛期のビーチ・ボーイズの音楽ををほとんど一人で支えていたブライアン・ウィルソンは、年間に2〜3枚のアルバム作り続けるのにプレッシャーはなかったのかと問われて、
「私は飲み込みが早くて、なんでもごく自然にこなしていたね」
とさらりと言うのを聞いて、やっぱり才能に恵まれた人はいいなあと、羨ましく思いました。やがて、過度のストレスからいったんステージに立つことをやめていた彼が復帰して行うようになったソロ活動も成功した頃、音楽の最終目標として、これぞロックンロールというレコードをプロデュースしたいと言ったのちに、「あなた自身の目標は?」と訊かれて答えたのは、意外にも、
「何も心配する必要がないくらい、有名になることだね」
「もう有名だと思いますが?」
「もっと有名になりたい」
ということでした。
ちょっと驚いたけれど、これは、すでに名声を得ている彼がさらに有名になれば、自分の曲がもっとたくさんの人に届く、音楽に対する思いを遂げやすくなるということですね。リアリスティックなロマンチストということでしょうか(何かを成し遂げたいと夢見るだけでなく、現実のものとしたいと強く願う人のあるべき姿、だと思いますが、……)。
先のクラウスと、ブライアンの違いは、ヨーロッパ人とアメリカ人の違いなのだろうか、それともただ個人的な資質の差なのか(なんとなく、前者のような気がするけれど)。制作年が7年ほどブライアンの方が早いことが影響しているのか。
ああ、いいなあ(と言ったところで、どうにもならないから、先人たちに憧れつつ、できることを少しずつ。ちょっと遅すぎるけど)。
プリンターが使えないのは、もどかしい(修理センターは夏季長期休業中)。この際、文章をもっと短く書く練習をするべきなのかも。
* BS12010年1月2日
** BS22002年9月1日(BSプレミアム2014年8月8日再放送)
2023.08.19
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原点に帰って考える、生活を学び直す 29
やわらかさにご注意
アルミは柔らかい。想像以上に、やわらかい。
以前、ここでも触れたように、アルミの雪平鍋の柄を取り替えるべく奮闘努力していたのですが、その甲斐もなく、劇的に改善することなく、今に至っている。というか、それどころか、悪化したというべきかも。
取り寄せてみたものの少し太すぎた柄をなんとか生かすべく、往年の名品肥後守で削って取り付けようとしたのですが……。相当に硬い木で、なかなか簡単にはいかなかったけれど、それでも、毎日、地道に少しずつ削りました。
その甲斐あって、やっと、取り付け口の径よりも細くなったようだったので、勇んで入れてみたのですが……。ところが、どういうわけかすんなりと入ってくれない。そこで、挿し入れた柄を金槌で叩いて、押し込もうとした。それでもダメだったので、いったん諦めて、取っ手のないままで、麺を茹でるのに使ってみることにしたのですが、あるとき上から覗いていたら何だか変。何が変なのかはよくわからない。おまけに、洗い上げた後で、横から見たら両端が上がっているように見えた。
それからまた、別の日に、再チャレンジ。削って、また金槌で叩き込んだ。やっぱり途中までしか入っていかない(先の方が細い形にでもなっているのだろうか?)。そして、気づいたのでした。入っていかない原因ではなく、変だと思った理由。
変形した雪平鍋
正円であるはずのアルミの鍋の形状が、変形していたのだった。それで、わかった。柄を金槌で叩いて、無理に押し込もうとした時に力がかかって、そうなったに違いない。アルミは柔らかい。想像以上に、やわらかいのだ(こんなことにも、ずいぶん後になってようやく気づくしまつです。とほほ)。
それで、叩き込むのは諦めて、さらに削りましたよ。で、いちおう入ったけれど、ぴったりとはいかず、叩き込むという荒技もちょっと怖いので、今度はなんだかフィット感がない(うーむ)。
無理やり叩き込もうとしても、それはやっぱり無理、ダメだということですね。傷つけてしまうことにもなりかねない。きっと何であれ、そうしたものかもしれません。
肝に銘すべし。忘れないようにしておかなければなりません。
ところで、お盆休み直前にプリンターが故障して、大いに困っているところ。仕方がないので、再び修理に出すべきか新しく買い直すべきか悩んで、あちこちに問い合わせたり訊いたりしてみたのですが、悩むまでもなかった。選択肢は修理するしかありませんでした。このHP用に使っているソフトが対応する、OSのバージョンに適合する新機種はないのでした。ここでもマーフィーの法則が生きていた⁉︎兎にも角にも、パソコンをどうするのか、真剣に考えないと。
2023.08.12
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原点に帰って考える、生活を学び直す 28
レター・ソール(?)
「レター・ソウル(?)」(「魂の手紙」か?書けたなら、いいね。いや、そうだとしたなら「ソウル・レター」か。ということは、「文字魂(?)」これも悪くないけれど)。それとも、「ラバー・ソウル(?)」(ビートルズの中では、いちばん好きなアルバムかも)、のはずはない。何かの拍子に、思い出そうとしていて、あれこれ思い浮かべるのだけれど、どれも正しくない。それにしても、今日の昼に観たばかり、というのに。
写真集
あ、今、やっと思い出した。「ソール・ライター」、ドキュメンタリー映画の主人公の写真家の名前。順番が逆でした(やれやれ)。やっぱり、ビートルズが、強大だってこと?(違いますね。わかっているのだよ、そのくらい……、って?)。
やれやれ。こんなことが頻発する毎日(まいるなあ。かなりこまります)。これも、ぼんやりとしていたうちに、いつの間にか年取ったゆえ、ということか(やれやれ)。思い出せないばかりか、時々、わけがわからないことを思い浮かべたりする。もしかして、壊れかけているっていうこと?(ソール・ライターは、そんなことを呟いていたけれど)。
写真家の映画2種
それにしても、同じ写真家といってもも、ずいぶん違います。まあ、あたりまえといえば極めて当然のことだけれど。たとえば、晩年には絵ばかり描いていたというブレッソンが描くのは、彼が撮っていた写真とは全く異なって、もっぱらヌードのようだったし、ライターの方は、相変わらず街の写真を撮り続け、彼が描く絵もその写真と同じく、いくらか抽象化されたような具象画が多いようだった。
また、同じニューヨークでファッションカメラマンとして活躍したビル・カニンガムとは、質素な生活振りこそ共通しているようだけれど、その生き方は正反対と言いたくなるほどに違う。カニンガムはいつも笑みをたやさず、明るくて外交的なのに対し、ライターはむっつりとしていて、内向的で厭世的に見える。でも、どちらか一方だけに惹かれるということがないのは、不思議。
ところで、御多分に洩れず、原稿はパソコンで書くことが多いのですが(といっても、まずは何か思いついたりしたときのメモは、たいていは手書き。そこらにある紙、大抵は裏紙だったり、端材だったり、に書きつけます)、時々「へーっ⁉︎」という経験をすることがある。たとえば、こんな具合。
以上、と書いたつもり、が「医女」と出てきたりして、ちょっとドキドキしたりする。「区tp雨天の位置」も同じ。これは、念のために言っておくと、句読点ですね(たまに、そのままにしておきたい、と思うことがあります。具体例は思い出せないけど)。
偶然性を嫌うのではなくて、積極的に取り入れようとするアクションペインティングなんかと、気分的にはちょっと同じなのかも(もしかしたら、陶芸なんかとも。あ、でもこちらは最後の最後を火に任せるだけで、あとはギリギリまで詰めようとするようですが)。ただ、これが味として面白く感じられることは、残念ながら、ほとんどありません(僕のパソコンの原稿の話です、念のため)。
でも、否応なしにやってくる偶発的な出来事は受け止めざるを得ないとしても、アタマの中がカオスみたいになるのなら、ちょっと怖い。
少し前の月
まだ暮れ切らない頃、顔をあげたら、目の前にまん丸いものが見えた。窓の正面に月。暗くなるにつれて、少しずつ輝きを増してゆく。満月だろうか。写真を撮ろうと、カメラを取りに行き、戻ってくると、しばらくは良かったのだが、あっという間に月は高いところに行って、雲がかかってしまった。こういう時もあります。
ささやかだけれど、それでもまだ、楽しいものはある(と、思いたいもの……)。
なんだか、文章も、断片化してまとまりを欠いたものになるようで、これはもしかして、やっぱり……。ああ、怖い。
追伸:今朝のラジオは、1973年の名曲特集。聴き覚えのある曲も出てくるけれど、73年といえば50年前、半世紀も前ということ!(おお!)。いったい何をしてきたことやら⁉︎
2023.08.05
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原点に帰って考える、生活を学び直す 27
丘の上の港町をめぐる表層と本質(?)
丘の上に広がる港町?
前回、ここは丘の上の港町だったのか、と書いた問題。周囲はほぼモノクロームなのに、そのあたりはそれぞれの住戸がたいてい水色、もう一つは薄いピンクを基本とした色で塗られていて、たまに黄色が混じる。しかも、よく見ると、けっこう広範囲にわたっている。
それにしても、海からは相当に離れているのにどうしたことか。
というのは、ヨーロッパでは、色彩豊かに塗られた家を目にすることが多い。特に港町ではそうです。過酷で危険な漁から帰ってきた時に、すぐになつかしいわが家を見つけることができるようにするために、各住戸がそれぞれ異なった色で塗られるようになった。
表層と本質の問題(ちょっと大げさ)がありそうと書いたのは、このことでした。すなわち、近所の丘の上の住宅の色は、漁師の住宅がカラフルに塗られた理由とは全く関係ない。もしかしたら、ヨーロッパの港街じゃなくて、中南米の街かも知れないけれど、こちらも自分の家がすぐわかるようにというため(いずれにしても、それほどには鮮やかな色彩というわけじゃないけれど)。
ちょっと地味な写真ですが
少し中に入ったところにも
表層だけを真似た。これがいけないことかというと、そういうわけではないと思います。港町のカラフルな建物といえば、最も有名なものの一つとして、コペンハーゲンのニューハウンがあげられそうですが、この建物群は漁師の家ではない。さらに、街中にも同じように塗られた建物群があった。しかし、海沿いの観光地としてのイメージをうまく作り上げている。
それが似合っていて、魅力的であれば、引用元の性質とは無関係でもかまわない。例えば、僕の家にはミッキーマウスのキッチンタイマーがありましたが、時計とミッキーマウスの間には全く関係がない(しかも、ドイツ製だったような気がする)。ただ、なかなかあいらしい形だったし、大きな耳がタイマーをセットするのに使いやすかった。だから、これも表層だけを真似て成功した例だろうと思います。
でも改めて、周囲を眺めてみると、カラフルな外装の家は結構あることに気づいた。淡いペールトーン、パステル調の色以外にも、かなり濃いめの黄色や緑、あるいは紫というのも見られる(それにしても、これらの色は、どういう基準で選ばれたのでしょうね)。
余談ながら、昔日本でも流行ったアランセーターは、各家で異なる模様を編み込んだもので、漁に出て事故にあった時に、それが誰か、どこの家の人かがすぐにわかるようにというためでした。
こういうことを考えないまま着る、ということはよくある、というか、今やごく日常的だけれど、知ってしまうと、簡単じゃありません。
たとえば、渡辺武信は、シェーカー家具は好きだけれど、あんなにストイックな暮らし方はできないから、自分が使うこともできない、と言っていた(わかる気がします)。
ダッフルコートを一般化した元は英国海軍だし、トレンチコートは英国陸軍のために開発された。これらについては、どうでしょうね。
ところで、ニューハウンを魅力的だと思い、我が国の丘の上の港町を滑稽だと感じるのは、ヨーロッパコンプレックスのせいじゃないかと言う人がいるかもしれない。僕自身もそんなふうにとらえていた時がありました。でも今では、もっと単純に、それが「場違い」に見えるか、そうじゃないかを考えればいいのではないかという気がしているのです。
ああ、やっぱり「表層と本質」には迫れませんでしたね(うーむ)。そして、無駄に長いようです(指摘してくれる人がいた。わかってはいるのだけれど、ねえ)。
この他にも、散歩していて何となく気になってしまうことの一つが、各住戸における自動車を停める位置。車へのアクセスの利便性以外には、あんまり考えられていないような気がします。そのせいで、リビングルームに面した庭が丸見えで、外部空間が生活空間としてつかいにくくなっているように思えるのだけれど、もしかしたら、住まい手も設計者も、内部(と外観)だけに関心がいきすぎているのかもしれません(おっと、これまでも、内部と外部の繋がり等々書いてきたけれど、もうそろそろ忘れた方がいいのか?)。
2023.07.29
* こちらは未だ、急ごしらえの試作のままですが、連絡に支障はありません。誰か、ポチッとしてみる人はいませんか。まずは試しに、遠慮なくどうぞ。
読んでくれて、どうもありがとう。
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原点に帰って考える、生活を学び直す 26
海辺の誘惑
なんということを!
えっ? ない!
瞬間、驚くと同時に、怒りがこみ上げてきのだった。そして、がっかり。夏の朝、いつも目を喜ばせてくれていた芙蓉が、根元でバッサリと切られていたのだ。これまでなんども伐採されたが、その度に蘇ってその生命力に感心していた。ほんの少し前には、蕾をつけているのを見つけて、おっと思い、今年は少し早い?いつ咲くのだろう、と楽しみにしていたのに。それで、もしかしたらと見に行ったら、この有様。あろうことか、花をつける直前になって切られてしまっていたのだ‼︎
開花を待っていた蕾
腹が立つというか、呆れるというか。
いったい、どうしてこうなるのか!マニュアル主義、効率主義の故なのか。管理者、あるいは業者は、いったい何を考えているのだろう。ふだんは、草木が視界を遮るように伸びていても、そのまま放置することが少なくないのに(やれやれ)。
閑話休題。このところ思うことは、「もしかしたら、やっぱりロケーション?」
ずっと、建築よりもインテリアが好きなのかもという気がしていたのですが(形態好み、表層を見がちな僕の性向を知っている人は、「へえ」と言うのかもしれませんが、「理屈よりも感覚」と言い換えたなら、腑に落ちるかも)、いまとなれば、それ以上にロケーション、すなわち立地、何が見えるかの方が、僕にとっては大事なようだ、と思い始めたのです(あ、これは、一住み手としての立場です)。もっと言えば、あるものが見えるかどうか。
海辺の光景は、いつでもどこでも、何度見ても、美しいと思う。唐津の海も横浜の海も、金沢八景の海も葉山の海も、どこも変わるところがない。
できることならば、こういう景色を見ながら暮らしたい、と思うのです(馬鹿の一つ覚え、まるで壊れたテープレコーダーのようですが……)。せめて、毎日、見に出かけることができるといい。あるいは、たとえば高山なおみの神戸のマンションのように、遠くからでも眺めながら暮らすことができたなら。
海じゃなくても、湖でも、あるいは大きな川でさえも(いや、小さな川だって)。水のある風景の魅力には抗しがたい、と思うのです。水を見ていると、ややもするとざわつきがちな心が落ち着き、穏やかになって、文字通り澄んでくるような気がするのです(あんまり長続きはしませんが)。
浜辺の夕景*
これは先日訪れた、海辺のレストランからの眺め。
刻々と変わる夕日と海ももちろんすばらしいですが、浜辺を歩く人もシルエットとなって絵のようです、あのドーヴィルの浜辺**と同様に。毎日見ることができるなら、どんなに素敵なことか。
でも、いつも思うことですが、我が国の海岸には、どうして桟橋が少ないのだろう?(欧米の映画には、いたるところに大小さまざまの桟橋が出てくる、ような気がする)。ごく簡単なものでも、これがあれば、浜辺はもっと楽しくなりそうなのに(景観保全?それとも、やっぱり安全管理の問題でしょうか?)。
まあ、嘆いてばかりいても仕方がないので、散歩コースの途中の、遠くに見える海を眺めに出かけた公園で、不思議な景色を見た。ある一画に彩色された建物群が目に入ったのだ(水辺でもないのに港町⁉︎)。えっ、あそこは丘の上の港町だったのか。
それにしても、海からは相当に離れているのにどうしたことか。我が国の伝統的な住宅のありようと異なっているのはもちろん、周囲の建物とも随分違っている。
これは、形態というより、色彩の問題(苦手中の苦手です)。周囲はほぼモノクロームなのに、そこは青やピンクを基本とした色で塗られている。たぶん、住宅販売会社の思惑だったのでしょうね(そうすると個性が出て、売れると思ったのだろうか。確かに個性、というか周囲との差異は際立っているけれど)。この、個性という言葉もけっこう怪しいですね(別に、個性それ自体に問題はないはずなのだけれど)。
表層と本質の問題(ちょっと大げさ)がありそうだという気がするけれど、これについては、また改めて考えることにしよう。
* 写真は、同行した人のスマートフォンを借りて撮ったもの。
** 映画「男と女」
2023.07.22
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原点に帰って考える、生活を学び直す 25
そうだ。名前をつけよう
あの名前がわかった!久しく謎だったそれは、コキア、またの名を箒木(ほうきぎ。別名、箒草)。秋には赤くなるらしい。
なんのことかといえば、先日掲載した1列に整列した丸い形の木のこと。散歩の途中で、折良く、畑仕事をしていたおじさんに教えてもらった。
で、うちへ戻って早速、ウイキペディアで調べてみたら、
果実は、薬用・食用にされ、若芽は食用にされる。淡白な味でプリプリした食感から「畑のキャビア」と呼ば
れるほどで、秋田県の特産品「とんぶり」の原料となる[1]。昔は夏から秋に固くなった茎を根元から切り採っ
て乾燥し、束ねて箒として利用した。
とあった。あの食いしん坊にして美食家の開高が、キャビア以上と評した、トンブリの原料だったのね(うーむ。知らないことばかり)。
これの名前は?
キャンディみたいなこれは、なんと言うのでしょうね。ひとつ解消したと思ったら、また新たな謎が。うーむ、じれったい。
たかが名前じゃないか、と思う人もいるかもしれませんが、名前を知ることは理解の第1歩、だという気がする。名前を知ることができたなら、調べるのもぐっと易しくなる。ちょっと振り返ってみれば、名前を知った時には、親近感が増したことがあったでしょう。だから、ペットには必ず名前をつけるし、中には愛車や愛用する機械(たとえば、”クリストファー”とか)にまで名前をつけるという人もいるようです。
あ。思いついた!
家の中のことやものに、名前をつけるというのはどうだろう。たとえば、今度の8月8日は“M −Day”(『磨き大作戦の日』、窓やら、グラスやらはもちろん、もしかしたら自分までも、徹底的に磨き上げる日)とか、掃除機には『クリーン1号』、『クリーン2号』とか。「クリーン1号君、今日は君の出番だ。さあ、ちょっと頑張ってみようか」なんて呼びかけて始めると、やる気がアップしやしないか。
ところで、新聞のチラシを見ていたら、ハッとしました(こうしたことが、時々あるのですが……)。たとえば、
惹かれます
まず目に入ってきたのは、「青春リフォーム」の言葉。
えっ!何?これは、まあ名前というよりも、キャッチコピー、惹句ですが、名前と呼べなくもない。
もはや青春時代には戻れないから(そうじゃない人もいるかもしれないが)、もう一度その頃のように、というようなことかと思ったので、読んでみたのですが、……。
いままでの夢、
これからの夢。
思い描いていた
ライフスタイルを
聞かせてください。
東急リデザイン(旧:東急ホームズ)の「青春リフォーム」は
外装を新築同様に設えたり、
古くなった箇所を新しくするだけではありません。
私たちが何よりも大切にしたいのは、
「あなたが主人公のリフォーム」。
子供も仕事も手が離れ、
自分の夢を優先できる今こそ、
理想の暮らしが、きっとあるはず。
愛着のあるご自宅にたくさんの夢をちりばめて、
これからの”舞台”にしませんか?
とあった。子供はいないし、持ち家でもないけれど(しかも、50代はとっくにすぎた)、仕事はすでに手を離れている。青春時代そのものを取り戻す手立ての提案でこそなかったけれど(まあ、あるわけがない)、古びてしまったものを新鮮だった時のようにすることを、何よりあなたすなわち僕自身の「夢」を大切にしながら考えてくれるというから、当たらずとも遠からず……か⁉︎
さらに、こちらにもまた、おおいに惹かれました。
日本の夏。
サボローの夏。
サボロー対策は、明光の夏期講習
で、どのくらい蔓延しているものかと調べてみたら、ある記事*には、こうあった。
サボローの特徴(特設サイトより)
・勉強中、ふとした拍子に突然現れる。
・食いしん坊である。
・あの手この手を使って勉強をさぼらせようとする。
・日本各地に生息している。
・誘いの数だけ増える、気づくと大勢いる。
・友だちが大好きで、さみしがりや。
なるほど。確かにね。これには、さらにぐさりとやられました。言われるまでもなく、怠け者にとっては最大の難敵。「サボロー」は日本各地に生息しているということですが、うちの近辺には、平均よりもはるかにたくさんの軍団が跋扈しているのではあるまいか、あるいは精鋭部隊が駐留しているのかも。
また、チラシの方に目をやると、「夏はサボローと子供が、一番仲良くなる季節」だけれど、「サボローの誘いを断る意志の強さも、たくましく成長」とも書いてあります。
僕は子供じゃないし、季節を問わない怠け者ですが、この講習は相当に魅力的です。
何れにしても、これらを撃退するワクチンがあればいいのですが、これはたぶん、今のところはまだ、発明されていませんね。となると、やっぱり、塾の講習やリデザイン会社の相談会に出かけるしかないのか。
なんとかしないと、大変なことになりそうです。塾やリデザイン会社が近くにはなさそうだから、まずは、やっぱり、命名大作戦からか。
* PR TIMESのサイト
2023.07.15
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原点に帰って考える、生活を学び直す 24
うんと久しぶりにiPad
まずは、思わぬ展開の顛末から。
どうやら敵は(本当は、こちらの状況もよく理解してくれて、なかなかに心強い相談役だったのですが)、Proの方を勧めたいような心算らしかった。
iPad Air はM1チップ、これに対してiPad Proは最新のMacBook Airと同じM2チップという違いには全く惹かれなかったわけじゃなかったが、さほど心は動かなかった。しかし、もう一つには、書き始めのポイントがペンを離しても示されるし、スクロールが滑らか(何か用語があるようだった*が、忘れた)というのだ。これにやられたのだった(スクロールがスムーズに動かないと、結構ストレスになる)。たぶん、もうあと何回も買い換えるということはないだろうから、練習用というのではなく、しばらくの間は気持ちよく使えそうなものを、と思っていたのだ(ちょっと大袈裟だけれど、不退転の覚悟!)。
そして、結局は、その場の勢いで(⁉︎)、Proの方を選んでしまった(プロでもないのに。このことに対しては忸怩たる思いがあって、元々はProのを冠した機種以外を選択するつもりだったのです)。また、ストレージの容量はできるだけ大きい方が好ましかったのに、このことをすっかり失念してしまっていたのは返す返すも残念。さて、どちらが良かったのか。
購入してしまったiPad
ま、買ってしまったのだから、せいぜい使い込むしかない(タテイシセンセイも、牛肉は最高級の肉の一番安い肉を買う、安手の牛のいちばん高い肉より断然うまい、と言っていたのではなかったか)。この理論をiPadに応用しても、そうは外れないのではあるまいか、と慰めた。それに、愛用のノートパソコンもちょっと不調な時があって、買い替えを検討しなければならなくなることがあるやもしれぬ気もするこの頃(この場合は、何かと面倒な状況が出来しそうなのだ)。ということで、まずはiPadを使いこなすことが先決、優先事項の第1であります。それにしても、道具選びのなんとむづかしいことだろうね。
インターネットを中心に、色々と調べては見るのだけれど、案外失敗することが多い(成功するのは、ごく稀です)。仙台を拠点にしているメーカーの布団乾燥機はすぐに壊れたし、黄色の研究用のフッ素樹脂加工のアルミフライパンも、性能自体はいいのだけれど、目的に対しての大きさがいまいちしっくりこない。
設置してみた
で、iPadはどうだったのか。
その前に、なぜ、iPadを買おうと思ったのか。
主な理由は2つありました。一つは、簡単なスケッチを描くため。2つ目は、あわよくば、不調が目立つようになったMacBookの部分的な(できるだけ大きい部分となる方が望ましい)代替機としてiPadを使えたら、と思ったため。
今のところ、たとえば物語に添える絵は、手描きのものを複合プリンターでスキャンして、しかるべきところに貼り付けるというやり方。これが、部分ごとに切り出されたりするなど、けっこう面倒な上に、元々の文章の地の色と貼り付けた絵の地の色とが微妙に違うのです(特に印刷すると、顕著になる)。これが妙に、気になったりする(暇な証拠かも、しれませんね)。
こんなものが
そして、現在使用中のMacBook Pro(!)の不調というのは、このところどういうわけか強制終了しなければいけなくなることが増えたのだ(たまには、勝手に再起動する時がある)。しかし、このMacBookは、HP*を作成するのに欠かせない(使用しているソフトが、High Sierraまでしか対応していないのだ)。
だから、これを新しくするとなると、HP作成用のソフトを買い切りから年額制のものに移行しなければならず、割高だし(というか、やっていることに見合わない気がするのです)、何より面倒だ。だから、これをほぼHP作成専用機としてスリム化に成功すれば、トラブルも減るのではないかと考えた(MacBook延命作戦。だいたい、性能的には何の不足もないのだ)のだった。そのほかの作業のいくらかの部分は、新しいiPadで(うまく使いこなせそうなら、トラックパッド付きの専用キーボードを買って)行うようにすればいい、という目論見だったのです。さらには、これを外に持ち出す時の重さも負担になってきたし……。
このほかの小さな理由としては、iPhone、こちらもほとんど使いこなせないで、ほぼ時計と歩数計の状態とはいえ、こちらへの連絡も少ないながらあるのですが、これに返事をしようとすれば、なんとも厄介。あんなに小さな画面での入力は時間がかかるし、できれば避けたいのです。若い人たちは、なぜあんなにも早く入力できるのだろう?(謎ですね)。で、もう少し大きい画面でやれればいいと思った。
で、その後の展開はどうだったのか。
白状するならば、設定からつまづいた。全くうまくいかず、わからないことだらけでありました(とほほ)。残念ながら、近くには、対面で手取り足取り(⁉︎)教えてくれて、しかも時間もあるという人がいないのです(それでなくては、右往左往するばかり……)。
iPhoneと同期するような形で設定するような画面が現れて、よくわからないまま(何しろ、初心者)、そのまま進めることにしたのだけれど、今や使っていないiPad(=他のiPad)のパスコードを要求されたり……。顔認証の手順もすませましたが、これが生きているのかどうかわからない。今のところは、結局パスコードで開く。
iPadとMacBookのメモも同期してしまっていたみたいで、iPadの容量を減らすためにと思って削除したら、MacBookの方のデータも消えてしまった(どうも、携帯電話のメールの不都合を解消する際に、iCloudの設定をしてもらっていたのが原因らしい。うーむ)。まあ残しておいた方が良いのもあったけれど。便利なようでもあり、不便のようでもあって、なかなかむづかしいものですね。
一方、これとは逆に、iPhoneのLINEとの同期はなされていないようだった(まったく。やれやれ、であります)。
このほか、Gメールも受信できない(パスワードを要求されたのですが、それがわからない。短期間のうちに2度の引っ越しの時に、まぎれてしまったよう⁉︎)。
また、入力時には手元にあったBluetoothのキーボードとトラックパッドを使ってみたけれど、これもあんがい手間がかかるし、何かとMacBookのようにはいかない。まずは、こちらで慣れてからと思っていたのだが、やっぱり、さっさと専用のMagic Keyboardを手に入れるしかないのか。
と、まあこんな具合。
ということで、iPadのMacBook化、iPhone化への道のりは、相当に厳しそうな予感。何しろ、1度つまづいていることだし。それに、何と言っても、やっぱり慣れたMacBookの方が、断然使いやすいのです(今の所は……)。
果たして、iPadが日の目をみるようになる時は来るのか?
*リフレッシュレート
** ボケ防止のためであり、わずかな外の世界との繋がりの手立てでもある。でも、たいてい一方通行で、反応はほぼないから、その役割を果たしているとは言い難い(時々、何やっているのだろう、という気になる時がありますけど……)。まあ、かろうじて、自身を客体化する手段として役立っているかもしれないけれど。となると……(でも、今しばらくは、考えないでおくようにしよう)。これも、可能性を残しておく、ということになるのだろうか?
2023.07.08
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原点に帰って考える、生活を学び直す 23
あるもので満足する
ベカと赤木*
コロナ禍の只中に、尊敬し憧れる輪島塗の塗師、赤木明登にお椀の中に光が宿るようなものをと注文し、その椀の中に盛るべき料理考えるために2人で能登の食材を探した。彼と共にした2ヶ月で学んだことは、「身の回りにあるもので満足すること」。そう語ったのはフランス人シェフ、リオネル・ベカ**。
以前、僕もここで、同じようなことを何回か書いたことがあるけれど、こうやって仕事に真剣に取り組んでいる人が言うと重みが違います。「本当にそうですね。もう一度そのことをしっかり考えないといけない」、という気になります。
「身の回りにあるもので満足すること」というと、何やら「諦める」ようなことを感じる人があるかもしれないが(僕の場合には、出発点にそれがあった)、ベカの場合はたぶんそうではなくて、それよりももっと積極的に「あるものを徹底的に生かす」という態度のことなのだろうと思う。
今の状況に対する不満を言い立てるばかりでは、不幸を増進させるだけで何も産まない。身の回りにあるものを徹底的に活かし切ろうと精進しようとすれば知恵と工夫が求められ、持てる力を存分に発揮してやがて達成した時には、自ずと喜びが生じるに違いない。それでも、まだ不足があれば、その時に自分に周りの外に求めても良いということになるのではあるまいか。「足るを知る」というのもそうしたものなのかもしれない。
でも、これまた、実践するのはむづかしい(僕にとっては、むづかしいことだらけです)。
『エスキスの料理』***
リオネル・ベカは、料理人の中でも、際立って思索的な人のうちの一人であるらしい。ベカを紹介している『料理通信』のサイトに掲載された記事によれば、彼が、コロナ禍の最中、休業中の店に毎日通って書き上げたという2021年秋の『エスキスの料理―インスピレーションから創造する料理の考え方』(誠文堂新光社刊。表紙の佇まいからもその性質がよく知れるようです。実際に手にしたくなります)の中には、以下のようなことが述べられている。彼の言葉や経歴は、ほぼこの記事によっています。
「レストランの料理はテーブルで輝く。甘美とか優美といった言葉で表現される華やかな世界です。反面、厨
房で行われるのは、生き物の生命を奪うという、ある意味、残酷な行為です。つまり、料理人という職業に
は、光と闇、対照的な2つの側面がある」
と考えるベカは、一度奪った命をもう一度食卓で殺すことにならないように、美味しく食べてもらうために、「素材がどうなりたいかに耳を傾ける」と言い、「料理人の役割は、素材に言葉を与えること」だと語る。なるほど、確かに思索的で、言葉の人、言葉で料理を考え作り出しているのかもしれません。こうした性向の人は他の分野にもいて、たとえばミケランジェロなんかもその一人ではあるまいか。「私は大理石の中に天使を見た。そして天使を自由にするために彫ったのだ」とか、「絵は頭で描くもの。手で描くのではない」というようなことを言っているようでした。
ベカは、1976年にコルシカに生まれ、マルセイユで育った。加えて、父方の祖母はチュニジア人だというから、正真正銘、生粋の地中海っ子。20歳を過ぎて料理の道へ進むと、フランスの名店中の名店『トロワグロ』で修行し、30歳の時に師のミシェル・トロワグロに指示で、その東京支店のシェフとしてやってくることになったという。
さて、「身の回りにあるもので満足」できるよう、今あるものを活かし切るには、その性質を徹底的に知る必要があるわけですが、「その国の文化の力やテロワールを象徴するものの力を料理に変換するには、季節と季節の間で揺れ動くわずかな変化さえも感知できるように、その細部まで熟知する必要があり」、そのために「日常的にその土地に暮らさなくてはならない」というわけです。頭の中だけや小手先だけでなく、文字通り身体に染み込むまで対象と付き合う。残念ながら、こうしたことが身の回りから希薄になり、失われて、どこに住んでいるかもわからないようになってしまったようだ。
したがって、ベカにとって「フランスを離れたことは心の傷」となった。これを癒やすために、彼は「日本とフランス、2つのテロワールを共存させ、そこからどうにかして第3のテロワールを引き出そうと試みてい」ると言う(災いを呪うばかりではなく、福と為すべく努力する)。
こうした一種の「地元密着」主義、「地産地消」の考え方に徹するシェフは他にもいて、たとえば、三ツ星にして、2019年版の料理専門家が選ぶ世界のベストレストラン50で1位となったフランス南部の町マントンにあるレストラン「ミラズール」のオーナーシェフのマウロ・コラグレコ。彼は、そこで取れた材料しか使わず、そのために全てのメニューを変えたといいます***。
当然のことながら、こうしたことを実現するためには、不断の努力の重要性のことを思わないわけにはいかない(ローマは1日にしてならず)。彼は、こんなことも語っている。
「哲学者の言葉を聞くと、みな、畏敬の念を抱く。確かに彼らは知の巨人かもしれない。しかし、彼らの勤勉
さを見逃すべきではないと思います。哲学者の言葉とは、彼らが寝る間も惜しんで書物を読み、知識を取り込
み、考え続けた結果なのですから。ダンサーの優美で軽やかな身のこなしを見ると、持って生まれた才能に憧
れを抱くでしょう。けれど、彼らは水面下で血の滲むようなレッスンを繰り返しています。つまり、人の心を
動かす裏側には鍛錬がある。その事実を忘れてはいけないと思うのです」
なんだかうなだれるばかりで、早々に逃げ出したくなりますが、目指すものに近づこうと思えば、こうした勤勉さに倣うしかない(それは、幾つになっても変わらないのだろう。このことも、僕にとっては、相当な難題ですが)。
* 写真は、エスキス(ESqUISSE)のサイトから借りたものを加工しました。
**「共につくる フレンチシェフと輪島塗塗師」NHKプレミアム
*** 『料理通信』に掲載記事『素材の声を聞く。素材に言葉を与える。』
**** 「“世界一”のレストラン 食彩の宝石箱」NHKプレミアム
2023.07.01
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原点に帰って考える、生活を学び直す 22
まっすぐ歩けない
また、紫陽花
同じ紫陽花でも、前回と違って、一つ一つの花びらが大きい。おもしろいねえ。紫陽花だけでも、しばらくの間は楽しめそうです。
さて、まっすぐ歩けないのが問題。と、言ったからといって、後遺症が発症したわけでもなく、病状が進行したわけでもないのです。また、新たな病気にかかったというのでもない、と思う(たぶん)。
狭い通路*
家の中の、頭の中ではない、物理的な空間のありようの話です。我が家の中をまっすぐ歩くのは、なかなかむづかしいのだ。嘘でも誇張でもありません(威張れた話ではないのだけれど)。玄関から、今やほとんど使わなくなった仕事机のある場所や食堂に入ると、通路の幅はちょうど55cmしかなかった(こちらも威張って言うことではありませんが、ちゃんと測ってみた)、ぎりぎり人が通れる寸法です。しかも、床に置いたポスターのパネルや棚から飛び出したファイル等で、実際にはもっと狭いところがある。だから時々、カニ歩きをします。ある日のこと、後頭部が痛いのに気づいて「もしや」と思ったのだけれど、触ってみたらコブができていたのは、どこかにぶつけたのだろうか。
本やら雑誌やらその他いろいろ、何しろものが多すぎるのだ。しかも、その大部分は、あればあったで嬉しいに違いないけれど、なくても困らないようなものだ。ということは、もう重々わかっているのです。しかも、逆に、大物の家電なんかを入れ替えなければいけないような状況になったら、そうとうに困る、ということも……。
でも、捨てられない。いったい、どうしたことなのだろう。いや、しかも片付けられない。どうすればいいのだろう。
ただ、一方で、いったんしまい込んだら、そのほとんどは、使わない、読まない、聴かない、観ない、ということになる。ということも、わかっている。だから、機会は少ないかもしれないけれど、できるだけ外に出しておきたい、と思う(そのために、一度は書庫を借りた)。そうすると、空いたスペースが小さくならざるを得ない。二律相反、自明のことなのだ。
空いたスペースが少ないと、ふだんの生活が窮屈になる。他方で、本当に必要なものだけを周りに置くことにすると、たしかにものは減るけれど、味気ないものになりそうな気がするのです(ただの思い過ごしかもしれないけれど……)。ただでさえ、楽しいことがあんまりない生活なのだから(大きな声で言うことじゃないけれど。これが厄介)。それで、余分なものも置いておきたい……。
当たり前のことながら、保存するものを増やせば空き領域は減り、保存するものを減らせば必要な時にすぐ手にすることが望みにくい。あちらを立てれば、こちらが立たず。となると優先順位をつけるしかないのだ。まあ、これができれば、悩まずにすむはずなのですが、できない(うーむ……)。人は理屈のみにて生きるにあらず(⁉︎)。
片付けるために生きているわけではないので、これが目的化してはいけない(こんなふうに考えるからダメなのかも)。しかし、ある程度片付いていないと、楽しくない。また、埃で人は死なないと言った人があったけれど、それにしても埃まみれというのもね。再出発するためには思い切って、毎日身を乗り出しながらアパートの窓を磨いたW・フォレスターのように、まずはしっかり片付けることを短期の目的としながら、暮らさなければいけないのかもしれない。
すっきりと片付いて、余計なものがない空間といえば、その代表的なものの一つには、教会がありますね(しかも、こちらは大空間)。静謐さに満ちて、美しい。マドリッドだったか、あるいはバルセロナだったか、街の教会での結婚式で歌う少年合唱団の声が聞こえた。そしてこれを見つめる新郎と新婦。とりわけ、にっこりと笑った花嫁が可愛らしくも美しい。思わず知らず、胸を打たれました。
ところで、西洋の造形はすべからくは完璧性、というか完結を目指すのに対し、日本はわざとこれを避けて、未完の余韻を残す。と言ったようなことが通説のように思うけれど、ヨーロッパの都市のあちこちに建つオベリスクはどうなのか。1本で閉じることが、果たしてできるものなのか。それでも、いたるところにあるようだし、ともあれ美しいのには変わりがない。こうした美しさに憧れる気持ちも。
先回お知らせしたように、新しい挑戦を始めます。ファンタジー(自称)の連載開始です。もうすぐです。今しばらく、待たれよ(‼︎)。
* 写真は梅雨空に戻る前の朝に急いで撮ったので、片付ける時間もなかった。余計なものがたくさん映り込んでいて、ちょっと恥ずかしいけれど、まあ、改めてありのままの状況を把握するにはいいかもしれない。なんとかしなくては、いけません(これがなかなか、できないのです)。
2023.06.24
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原点に帰って考える、生活を学び直す 21
「ていねいに暮らす」ということ
「今は毎日空気を吸うたびに、息をするだけでうれしいなと。
深呼吸したくてしょうがない。もったいなくて」
いいですね。こういうことを気負うことなくさらりと言えるのが、「ていねいな暮らし」を実践している人なのではあるまいか。
シェフとマダム
そんなふうに思わせる言葉を口にしたのは、北海道富良野で、夫でもあるシェフとともにフランス料理店を営むマダム*。北海道の食材の美味さに魅了されて、採れたての地元産の食材を使い、そこでしか食べられない美味しい料理を提供して、お客さんに喜んでもらいたい。そのために60歳を前に、東京でフレンチの名店として人気のあった店をたたんで、富良野に移住し、以前から築いていた生産者との関係をさらに強固なものにした。
店ではお客の要望を叶える料理をシェフに作ってもらうためにホールに立ち、パティシエとしても腕をふるう。シェフも、それが厨房の役目ですから、と応える(立派ですね)。一方では、殺処分寸前に引き取った数頭の馬をはじめ、犬や猫たちを家族として暮らしている。
映画『八月の鯨』**
そしてやっぱり思い出すのは、ここでも取り上げたことのある映画『八月の鯨』の中のリリアン・ギッシュ(当時90歳)。素敵です。毎年夏になると別荘にやってきて、目の見えなくなった姉の世話をしながら暮らす(しかも、その姉はたいへん気むづかしい)。その生活ぶりは慎ましいけれど、毎日、棚の埃を払い(まあ、ぶつぶつ言いながらですが)、庭の花を摘んで卓上に飾る。その年の夏、彼女は、部屋の中から八月の海を眺めるために、窓を開けたいと考えている。80歳をはるかに超える歳(たぶん)になってもなお、生活を彩り、美しいものにしようとすることを厭わない。
いずれも、たいしたものだなあ、すごいなあ、えらいなあと感心するばかりです。
ところで、これまで「ていねいな暮らし」への憧れを書きながら、それが具体的にはどういうものかについては触れることがなかった気がします。で、「ていねいに暮らす」ことができている、そう言えるために必要だと考えていることを記してみるなら、以下のよう(むろん、先に挙げたシェフとマダムやリリアン・ギッシュの生活ぶりほど、立派なものではありませんが)。
・さっぱりと片付いていること。
たとえば、目障りだと思うものが目に入らない。
・怠惰に過ごしたと思わなくてすむこと。
たとえば、家の中をきれいに整えた。
・嬉しいと思えること。
たとえば、いい景色を見た、何か役に立つことをした。
といったようなこと。こんな具合に、とりたてて特別に立派なことでもなんでもなく、ささやかなものなのですが、……。これが実現できたら、毎日が楽しく嬉しい気持ちで過ごせるのではあるまいか。
しかし、実際にはこれがむづかしい。
目障りだと思うものが目に入らないようにするためには、毎日の片付けや掃除が不可欠だし、怠惰に過ごしたと思わずに済むためには、計画を立てるだけでなく、それを実践することが重要だ。そして、嬉しいと思うためには、見たものや出会ったものに素直に向き合わなければ得られない。これができたら、相当の達人かも(僕などは、料理関係の番組をよく見るのですが、お店を訪ねた料理家が「これはたいしたもんですわ。……」などと言うのを聞くと、褒めながらも半分は自分お優位性を誇示しているように聞こえて、つい、エラそうに……と思ったりしてしまうのであります)。
こんなふうに、いずれもがなかなかに手強いのです(もしかしたら、ほかの人にとってはなんでもないのだろうか。うーむ)。
ほんとうならば、こんなことを書かないで実践できたらいいのですが、こうやって書いたり(時には、宣言したり)、口に出したりしながら、確認し、気持ちを奮い立たせなければ、とてもできそうにないのです。
あっ、もうひとつ。ていねいな暮らしに憧れる気持ちを失わないこと、これが一番かもしれません。
* 「富良野 シェフとマダムの物語」NHKプレミアム初回放送日: 2022年8月20日
写真は、雑誌「Discover Japan」のHPから借りたものを加工しました。
** 写真は、noteの中の記事から借りたものを加工しました。
2023.06.17
* こちらは未だ、急ごしらえの試作のままですが、連絡はつきます。誰か、ポチッとしてみる人はいませんか。まずは試しに、遠慮なくどうぞ。
読んでくれて、どうもありがとう。
お便りをこちらから気軽にどうぞ(全くないというのは、ちょっとさびしい)。
原点に帰って考える、生活を学び直す 20
等間隔に並ぶもの
いよいよ6月に入りましたが、ここ2日ほどはまた雨が続いて、昨日は雨よりも風が強かった。今日も朝から灰色の厚い雲で覆われていて、しとしと雨が降り続いている。気温も上がらない予報。いよいよ、梅雨入りだろうか。なんだかどんどん早まっているような気がしますが……。
雨の朝
こういう時は、うちの中でおとなしくしているのに限りますね(つい先日も書いたばかりだけれど、なんといったって、年金暮らし、無職の身の特権)。家の中(それが、取り立てて魅力的な空間でないとしても)にいることができることの嬉しさをしみじみ思うのです。さて、こういう日は何をしよう。映画を見て、美味しいものを作って食べるか。それとも、片付けに取り組むべきか。
いや、音楽をかけながら、グラスをそばに置いて、外の降り止まない雨と灰色の景色を眺めるのが断然いいか。
さて、僕は等間隔にまっすぐに並べられたものが、むやみに好きなのです。たとえば、あの悪名高い住宅街の電信柱でさえも。もちろん他にもたくさんあって、たとえば田園の道ばたに立ち並ぶすっくと伸びた木々、組積造のアーチの橋脚がいくつも連なる水道橋や鉄道橋、それに様式建築の列柱や『ガララテーゼ』の何層にも重なる壁柱、映画『かもめ食堂』の鉢植え等々。いずれもが、とても美しい。ただし以外はあって、整列した軍人の行進などは大嫌い、と言うよりも見ると胸が悪くなる。
不思議な植物
先日、散歩の途中の畑に小さくて丸い形をした緑の植物が、等間隔に並べられているのを見たのです。初めて目にしたけれど、やっぱりいいなあ。それにしても、『かもめ食堂』の窓台に並べられた鉢植え(西洋ツゲ、ウッドボックスなどと言うらしい)にそっくりだけれど、こちらはいったいなんという名前なのだろうか。
等間隔にきちんと並べられて、どこまでも続くようなものを好むというのは、どうしたことだろう。秩序とリズムと、さらにそれらが生み出すある静謐さのようなものを感じるためか、はたまた、自分がまっすぐには進めない、歩んでこれなかったためなのか。無い物ねだり、自分自身に欠けているものに憧れるということなのだろうか。
そのくせ、自分で並べる時は、そうはしないで、どこかでずらしたくなるのだ。おまけに、うちの中をものがきちんと並べられた状態に保つことは大の苦手、というよりできない。だいたい、ショールームのようなインテリアにしたいなどとは思いもしない。小さな棚に重ねた雑誌の前のわずかにあいたスペースに置いたいくつかのミニカーも、揃えたり整列させておくことはしない。
ある時ラジオを聴いていたら、進行役とゲストが互いに好きな曲をかけて語り合う番組で、「選びました」とはっきり言うのが聞こえた。言ったのは和久井映見。「選ばせていただきました」とは言わなかった。彼女のファンではなかったけれど、ちょっと好きになった。一方、その後のニュースでは、福島原子力発電所の処理水の海への放水が始まることに対して、県知事が担当大臣に要望書を提出した際に使ったのは、「提出させていただきます」という言い方だった。さらに、昨日発表のJR東日本の「羽田空港アクセス線」という名称には、ため息が出た。いったい、どうなっているんだろうか。
2023.06.03
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原点に帰って考える、生活を学び直す 19
久しぶりに、住宅・2
前回は、久しぶりにプランを掲載しました。データが残っていた提出図面をもとに少し修正を加えただけのものでしたが、今回は僕だったらこういう風に考えるということを加えた、もう少し大幅に変更したもの(と言っても、さほど変わっていない気もするけれど)。
前回との大きな違いをいくつかあげると、
・お風呂の位置。
・暖炉の設置。
・外部空間の内部化。
2階平面図
1階平面図
今回のものは見ての通り、お風呂が2階にあります。これは、お風呂にいつ入るかということを考慮した結果。皆さんはどうでしょうか。まさかお風呂もシャワーも無縁と言う人は、いないはず。だいたいは寝る前か、朝起きてすぐにシャワーを使うという人が多いのではあるまいか。あるいは家に帰ったらすぐお風呂に入りたいという人もいるかもしれない。このような場合には、寝室や個室に近い方が便利だし、気持ちがいい。
さらに、寝室から直接サニタリーに出入りできるようにした(これも、ずっと考えていることで、1種の基本方針)。冬寒い時などは、大いに助かるはずです。もう一つは、これに連なるバス・コートが欲しい(これは、逆に夏の暑いときに有効)。
洗濯物のことを気にする人がいるかもしれませんが、庭に干すということと家事の動線を考えたならば、朝下に降りる時に持っていけばいい(洗濯物は、乾いているときは軽い。それでも面倒と言うのなら、ダストシュート方式もありますが)。2階に干したいというのなら、洗濯機も2階に置けばいい。
浴室が1階にある方がいい場合というのは、泊まり客が頻繁にあって、彼らを1階に泊めるという時でしょうか。あるいは、お風呂から出たあとも、リビングでしばらく過ごすというような場合も。
もう一つは、暖炉を設けたこと。これについても、2つの場合が考えられそうです。冬、くつろぎながら火を眺めるたいという時と、炎を眺める以外に調理にも使いたい場合。後者に惹かれるのですが、今回は前者を採用。
さらにこの場合、暖炉とソファの関係をどうするかですが、ごく一般的な考えるなら、ソファと正対するように置くというのが素直な解決法だということになりそうです。ただ、テレビをよく見るという場合などは、ソファと正対するのはテレビにならざるを得ないのだろうと思います(ソファは、多くの場合、簡単に向きを変えというわけにはいきにくい)。
いずれの場合においてでも、ソファと外の関係も考なければいけません。すなわち、せっかく庭があるのだから、ソファを庭に対して背を向けるように配置するのは避けたい。そして、この外部(の一部)は外の部屋という性格のものであってほしい。このために、囲われた感じを強めようとして外部に袖壁をもうけたのですが、さてどうでしょうか。
でも、何事につけても時間のかかる僕が、短い時間でやろうとすると、ちょっと無理やりというところもあって、もう少し考えなくてはなりませんね。清書していると、いろいろと気づくことがありますが、これもまたの機会に(と書いたのだけれど、先日ラジオで聴いたイタリア出身の名バイオリニスト ジョコンダ・デ・ヴィートのことが気になっている。彼女は、50代半ばで突然演奏活動から引退すると、その後はバイオリンに触ることがなかった、というのです)。
2023.05.27
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原点に帰って考える、生活を学び直す 18
久しぶりに、住宅
といっても、設計の仕事がやってきたわけではありません(残念)。こののページの下のほうのバナーを、ポチッとした人がいたということでもありません。ただスケッチをした、というだけ。ずいぶんと久しぶりに、プランを考えたのだ。たまたまパソコンのダウンロードのところに残っていた提出図面をもとに、手を入れてみたのです。
来るべき仕事に備えて、と言いたいところですが、まあ、手、それと頭の運動のためですね(それに、何本か残っている黄色いトレーシングペーパーを使わなければいけません)。
さて、課題の条件ですが、これも幸いメールに残っていたので、簡単に記しておくと、敷地は、図は省略しますが、
南側を両側に歩道が付いた道路、他の3方を隣家によって囲まれた横長の形状で、大きさは幅17m×奥行
12m、面積204㎡。
求められている建物の条件の概要についても抜粋すると、以下のようです。
①3人(30〜40代夫婦+子ども、30〜40代夫婦+親、または30〜40代の成人のいずれか)で暮らすための
独立住居。
②延べ床面積は110平方メートル(±10%)。ただし、1階部分は122.4平方メートル以下とする。
③構造、階数ともに自由(ただし、高さは10mを超えないこと)。
④駐車場は屋内との融合を考慮したインナーカーポート*の他に、もう1台を確保する。
⑤建物の外側(外構)も計画し、近隣とのつきあい方を反映させたものとする。
* インナーカーポートは、必ずしも完全に屋内化されていなくても良い。
元の案
原案の説明には以下の点が挙げられていたので、できるだけこれを生かしながら考えてみることにしました。
・1階をパブリックスペース、2階をプライベートスぺースに分ける。
・外にはウッドデッキを作って、座りながら交流できるようにした。
・2階にもトイレを設けた。
・階段の下には収納スペースを設けた。
修正案(1階部分のみ)
で、主な修正点は以下のとおり。
・原案ではカーポートと室内の融合が全く考慮されていないので、これを解決する。その方法は、食堂や居間と
の連携がまず思いかびますが、ここではできるだけ元の案を変更しないということで、玄関の三和土(たた
き)の部分を広げてタイル敷きの土間とし、同じ仕上げのガレージと繋げた。
こうすることで、お客を部屋の中に上げないでも、一緒におしゃべりやお茶を飲んだり、よりカジュアルな付
き合いができる場として使える。
・土間の使い勝手を高めるために食堂と居間を入れ替え、あわせて家事の効率化のためにキッチンと洗濯室・洗
面所の連絡をよくした。
・ソファなどの家具の寸法が実際よりもかなり小さいものがあったので、一般的な寸法とした。
・このほか、1mモデュ―ルだったのを0.91mモデュールとした。
あんまり細かいことは気にしないで考えたものですが、さて、どうでしょう。2階部分も作ったけれど、スペースの関係で割愛。それに加えて、白状すれば、描き直すのがちょっと面倒。根気が失せてしまうのだ。1階平面図も、もう1回描き直すつもりだったのを断念。こんなことではいけない、と思っているのだけれど(一人あそびの限界かも。うーむ)。
次回は、僕だったらこうしたいと、もう少し大胆な修正を加えてみることにしようか、それとも、2階部分の掲載を先にするか(うーむ)。
2023.05.20
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原点に帰って考える、生活を学び直す 17
初心者の憂鬱
ある朝、思いついたことを書き留めておこうとフリクションペンを手に取ったら、なんだか変。クリップのところがちょうどバネの真上のところで折れ曲がっている。ちょっと触れてみたら、クリップは2つに分かれて、バネがむき出しになった。と、見慣れたものがとたんに違ったものに見えてきた。
何も出ていないテーブル
むき出しになったバネは、思いのほか大きく見える。ものの見え方や大きさは、全体のバランス、パーツの組み合わせによること、それらの相対的な関係の中で決まるのなだということを改めて思った次第でした。
さらにそのしばらく後に、歯の詰め物がぽろりと外れた(やれやれ)。と、なんだか、急に自分がさらに無力な存在になったような気がしてくる。
歳をとると、周辺にも自分自身(心身とも)にも、若い頃には思いもしなかったことが出来してきて、戸惑います(何しろ初めてなものだから)。しかもそれが、急に、予告なしに、次々に、あっという間もなくやってくるのだ。そのせいか、気がつけば、鬱々とした気分のときが多くなるようになった。それで、開高先生に教わった孔子の言葉「なんでもいいから、手と足を使え」に従って、録画してもらったDVD(もはや見切れないくらいの数)の整理に邁進したりしているところであります(「片付けなさいよ」、という声が聞こえたかも)。まだ初心者ゆえ、少しずつ慣れていかなければなりませんが(やれやれ)。それよりも、もっと積極的に対峙しなければいけないのだろう。
雨上がりの夕景
あかりが灯る頃の夕景
ところで、夕方の景色にはいつも驚かされます。とくに、雨上がりのどんよりとした雲の間を抜けてきた光に照らされた建物の、わずかに黄金色に染まった白い壁や木々の緑の輝きのなんと美しいことか。しかも、それらは刻一刻と変化するのだ。それこそ、まるで生き物のよう。なんでもない見慣れた景色が、光の具合でこれまで目にしてきた特別なものに負けないくらい美しいものに変わる。思えば、雨上がりの日に限ったことではなく、いつものことなのだ。日が暮れかけて、窓にあかりがポツポツと灯る頃のそれも素敵です。これらを毎日目にすることができるというだけでも、幸せだと思って満足すべきなのかもしれない。
そんな時をしばらく過ごした後に、ニュースを見ていたら、気になることが。前にも書いた気がするけれど、アナウンサーはやっぱり「これからどうなりますか」、「どうすればいいのでしょうか」と訊き、対する解説委員は当たり前のように「こうなります」、「こうする必要があります」と答える。両者ともに、そのことには何の疑いもないようだ。
これが気に障る。というか、おかしいでしょ、と言いたくなるのだ。どうして「これからどうなると思いますか」とか「どうすればいいと考えられますか」とか、せめて「どうすればいいのでしょうね」くらいにしてほしい。答える方にはもちろん、「こうなるのではと思います」、「こうする必要があると考えられます」、あるいは「こうなりそうですね」「こうする必要があるかもしれません」くらいの、絶対的ではない言い方を心得ていて欲しいのだ。
すなわち、何もわからない生徒が正解を知っている教員に、それを教えてもらう時の訊き方なのだね。一方、答える方も、その教員のように振る舞う。そこに、知るものと知らないものの2つが存在していると言わんばかりで、両者でともに考えようという姿勢が見られないのが気に食わないし、変だと思うのです(第1、そんなに明白な正解があるのなら、どうして世の中はちっともよくならないのか⁉︎)。
とまあこんな風に、歳をとって穏やかになるどころか、なんだか短気になって、始終腹を立てているようなのです。心は落ち着かずに、ざわつくことが増えるばかりなのだ(やれやれ)。かのアイザック・ウォルトンが説いた、”Study to be quiet” を手帳に挟んで持ち歩いたこともあったのに。あ、このウォルトンの言葉についても前に触れたことがある。そういえば、最近はこうした繰り返しが多くなったようだ(やれやれ)
テーブルの状態は、今のところはなんとか維持できているけれど、AV機器周りがまったくダメ。あっという間にCDやDVDの山ができて、うず高くなるばかり。原因は、その一つは、それらの本拠地が別の場所にあるせいなのだ。いちいち戻すのがめんどくさくなって、つい重ねてしまう(反省)。同じ場所にあればいいのだけれど……、と思っても仕方がない。出したものは元に戻す、ということを徹底しなければいけない。若い時と違って、年をとると、明日のことよりも、まずは今日のことを大事にすることを学ばなければなりません。
ああ、やっぱり脱却するのはむづかしい(やれやれ。本稿5つ目の「やれやれ」……)。
2023.05.13
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原点に帰って考える、生活を学び直す 16
新しい季節へのごくささやかな備え
まあ誰でもそうだと思いますが、朝起きた時、テーブルの上に何もないとうれしい。先達は、「部屋がすっきり見える」ための方法の基本中の基本と教えます。たしかに、ものの多さに圧倒され続けている我が家においてさえも、これから新しい1日を始める朝にいかにもふさわしく、清々しい気持ちになる。
ある日、例によってものが溜まり始めていたテーブルを見て、これではいけないと思った(またしても!)。で、決心した(ちょっと大げさ。でも、いったい何度目なのか⁉︎)。
せめて1日の始まる時に、1箇所くらいは、スッキリとしていて気持ちのいい場所があってほしい。
陽光がまぶしい季節となったし、少し前のことになってしまったけれど新しい年度も始まった。それで、毎晩、寝る前にテーブルの上のものを撤去して、他の場所にしまうことにした。
何も出ていないテーブル
テーブルランナーもこれからの季節に合うよう、手持ちのラベンダー色のものに変えた。願わくば、ミースとコルビュジエによって区画されている部分を解消し、ピンナップボードの上もすっきりさせられればいいのだけれど(これはまあ、すぐには実現できそうにありませんが)。と言って、テーブルの上に何もない状態を保つ、僕にとってはこれさえも案外むづかしい。今のところはなんとか守れていますが、油断すれば、すぐにものでいっぱいになる。これからも、維持し続けなくてはいけません(ここで、出したものは必ず元の場所へ戻す、という癖を身につけなければいけない)。
ただ、あんまり杓子定規になりすぎずに、たとえば野の花を一本だけ挿した水差しを置くというのもいいかもしれない。
何れにしても、そういうふうに心がけていれば、そのあとはすぐにいつもの冴えない1日になるということがわかっていても、心躍らせるようなことが起きるはずがなくても、気持ちよく始められるような気がするのです。ちょっと寂しい気がしなくもないけれど、まずはこれだけでもよしとしなければいけない。ついでに、毎日同じ格好ということからも脱却するようにしよう。
そうは言ったものの、他にも困ることはたくさんあります。そのうちの一つ、たとえばこちらの回避は、どうするのか?
ある日の夕方、なにやら音がしたので、郵便でも届いたのかと思って、見に行き新聞受けの扉を引くと、いくつか入っていた。取り忘れていた夕刊に、アマゾンからのものがいくつか。頼んでいたのは2冊のはずだったが、入っていたのは4冊。どうしたのかと思って、急いで開けてみると、たしかに頼んだものだ。でも、同じものが2冊ずつ。やれやれ。しかもその中には、あるはずのものが見つからずに注文したものが含まれていたのだった(とほほ)。
まあ、身の回りを軽くしておいて、もう一度読みたくなったら(古本で)購入し直すというのは便利でいいのですが、あるはずと思っていたものが見つからないのはちょっと寂しい。しかもそれが後から見つかったり、今回のように同じものを重複して注文したりする(こうした、不注意によるミスがけっこう起きるのだ)。すると、経済的なこともさることながら、精神的なダメージのほうが断然大きいのです。
まあ、歳を重ねてくると、避けられないことかもしれない。妻を亡くして一人暮らしを始めることになった川本三郎は、年をとると忘れることが増えたといい、ある時におかずが1品少ないと思っていたら、レンジに入れっぱなしだったとか、ガスコンロをつけっぱなしにしていて青くなったこと(これは、恥ずかしながら、一度ならず経験したことがある)等々書いていた。こちらは、物理的なことではないので、少々やっかい。
こんなことを書いていたら、せっかくあかるくなった気持ちがちょっとおもたくなった。そこで、五月晴れの外へ出て、近所を散歩することにした。雲ひとつない青空のもと、あちらこちらに様々な色の花が咲いているし、木々の緑を目にすることができる。しかし、これを眺めて楽しむはずの窓は締め切られたままなのだ(おっと、いけない。やめておかなければ……)。
2023.05.06
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原点に帰って考える、生活を学び直す 15
秘薬の研究
まずは、気になるコロナのことから。コロナに関する制約は徐々に緩和されてきて、いよいよ5月8日からは感染症5類に移行する。インフルエンザと同じ扱いになるのだね。
コロナの制約から逃れられるのは喜ばしいことだけれど、こちらも大丈夫ですかという気分が残ります。先日、クリニックに行った時には、ワクチンの案内があった(6回目!)。
ワクチンについてはしばらく前から否定的な見方も報じられるようになったようだし、治療薬については先日承認されたものだけ。そのあとの状況や開発はどうなっているのだろう。
経済を優先しているのは明らかでしょうけれど、これが短期的な見方に立ったもので、長期的に見るとマイナスの効果を与えたということにならないといいのだけどね。
と思っていたら、案の定というべきか。早くも第9波の予測が*。しかも、新型コロナウイルス対策について助言する厚生労働省の専門家会合の有志は、今後、第8波よりも大きくて、高齢者の死亡率が高まるような第9波の到来の可能性を指摘する文書をまとめたというのだ。また、新聞**によれば、全国の知事へのアンケートで、移行後の医療体制は4割が「達成不明」としている。なんだか嫌な感じです。
それでも、政策は変更されることなく、27日に正式決定された。
魔法の数字
さて、例の「新薬」はまだ発売されないようだけど、悠長なことは言ってられないので、自分で開発するしかない。で、現在、英国式の秘薬を中心に鋭意研究中。以前にも採点などの時に、集中力が続かないのを克服しようとして試みていた「タイマ」、これが効くという資料がありました。しかも、「15」が大事な数字らしい。その効き具合に応じて、これを連続して用いるのが効果的ということのようなのだ。ならば、片付けの際にも服用することを試してみなくてはいけない。なんとか救世主になればと、願うばかり。
ということで、待望する新薬はまだ開発途上ですが、ここしばらくは「柿の種」が大活躍。小腹が空いた時のおやつのみならず、お酒のつまみの助っ人としても(ただ、添加物が気になります。ま、今更という感じもしますが)。
電動ママチャリ
その小袋に書かれてあった「こばなしのたね」によれば、ママチャリが外国で大人気のようなのです。ロンドンでは、日本製のママチャリ専門店があるらしい。頑丈さと使い勝手の良さがその要因というのですが、とくに電動ママチャリのデザインはもう少しなんとかならないものかね。別にスタイリッシュであることは求めないけれど、いかにも重ったるくて、見ていてあんまり嬉しくない(最近、お下がりがやってきて、いちおう手元にあるのだ)。
もしかしたら、一本の湾曲したフレームのデザインは、最初のペダル付きの自転車を参照しているのかもしれませんが。
せめて、昔風のざっくり編んだ籐製のカゴに変えられたらいいのだけれど、なかなか見当たりませんね。これに加えて、努力義務となったヘルメット着用ですが、このヘルメットもなかなか見つからない。目に入るものといえば、ロードレーサーに乗るような人用のものばかりなのだ。いっそ災害用の白いヘルメットでも着用するしかないのかという気がするくらい(自慢じゃないが、なんといっても自転車事故は経験済みなのだ。ちょっとベテランの域かも)。
なんやかとブツブツ言いながら、それでも時々乗るのですが、それにしても世のママたちのパワーはすごい。あ、オバサンたちも負けていないから、女性たちはというべきかも。同じ坂道を、こちらはようやっとというのに、彼女たちは子供やら大きな荷物を載せていながら、スイスイという感じで登っていきます。これにも、ただびっくりするばかりであります……。
2023.04.29
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原点に帰って考える、生活を学び直す 14
名人に見透かされる
初夏のような陽気が続きますねえ(今日は、珍しく少し肌寒いですが)。
というか、あたたかい日が多くなったので、また散歩に出るようになった。真冬の頃はちゃんと歩いていたのに。いつの間にか、出なくなってしまっていた(やれやれ)。近所を歩いていると、やっぱりいろいろと気づくことがある。まだ4月も半ばというのに、初夏の季語であるひなげし(雛罌粟、別名虞美人草、英名ポピー)がもう、背筋をピンと伸ばしてあちこちに咲いているのです。
一方、住宅に目を転じれば、庭に面した壁面には、例外なく大きな窓がある(アタリマエ?)。そして、これが気になるのところなのですが、それらの窓がことごとく閉じられているのだ。ガラス窓そのもののことは言うに及ばず、雨戸やシャッター、それにカーテン等。少なくともレースのカーテンが閉じられていない家は見当たらなかった。なぜでしょうね。
庭付き1戸建が欲しかったはずの人たちが、庭を見たくないのか。そんなはずはないだろうから、道ゆく人に見られるのがよほど嫌なのか。おまけに、内部と庭の連続性はほぼ考えられていない。つまり、濡れ縁やテラスのような半屋内、半屋外の空間がないところがほとんど。
全面がシャッターなり雨戸なりで締め切られているのならわかるのだけれど、そうではないのがほとんどだし、人がいそうでもあるのです。まるで、ミースのレイクショア・ドライブのアパートメント(行ったことはないけど)か、あるいは宝塚だったかどこだったかの安藤の店舗付き中層アパート(こちらは実際に見た)のよう。これも、オープンカーの締め切った幌と同じで、可能性を残すってこと?
庭に面した大きな窓
新築中の住宅も、例外なく、同じように小さな庭に面した大きな開口部が当然のごとくあるわけですが、ここに住もうという人はどう思っているのでしょうね。そうするのが当たり前と思ったりしているのだろうか。あるいは、大きな開口部からの日差しも視界も良好なはずだったのに、すぐ目の前に新しく家が建って台無しになった残念な例も目にした(容易に予測できそうなのだけどね)。余計なことだけれど、人ごとながらちょっと心配になります。
名人の言葉
ところで、先週の日曜の朝刊にびっくり。総理演説直前の爆発じゃないよ(こちらにも驚かなかったわけじゃないけれど)。「折々のことば」の欄。そこに載っていたのは、
『道具多く持っているやつほど下手や』
そう言ったのは、稀代の名人と言われる宮大工棟梁の西岡常一。名人はお見透しのようです。まいったな。時々書いてきたように、わかってはいるのです。道具は、いやそれに限らず食器も何もかも、使いこなしてこそ。たくさん持てばいいわけじゃないことはわかっていたはずなのだけれど、つい溜め込んでしまう(貧乏性!)。しかも、使いこなさないうちに、いつの間にか新しいものが加わり、また購入しようとしてしまうのだ。
こうなると、荒療治だけれど、一旦手放してしまい、それでもまた手に入れたいものだけを購入するくらいのことを考えないと、ダメかもしれない。
本だって、CDだって、映画だって、食器だって、道具だって、洋服だって、なんだって皆同じこと。変わらないのだ。減らせないのなら、せめて気に入ったもの以外は、できるだけ目に触れないようにしなければ。まずは、場所を分けるのがいいかも。それでも、つい出しっぱなしにして、すぐにCDや本の山になってしまう癖は、簡単には治らない。
それで、どうせ散らかるなら、どうせすぐに物が出てきてしまうなら、散らかるのを回避するためにはいっそ出したままにすればどうか。ちょっとやけくそ、開き直りのような気もするけれど、その出方が美しく見えるようにすればよいのではないか。片付けてもその度にすぐにものでいっぱいになるテーブルを眺めていたら、ふっとそんな考えが浮かんだのですが……。ま、これも、言うは易く行うは難し、でしょうね。それより、焼け石に水か。
文房具用トレイ
でも、背に腹は変えられない……。さらにしばらくしてから、フリクションペンやらポストイットやら、よく使う文具類を一式載せたトレイを用意しておいて、使い始めと使い終わりにこれ毎出し入れすることを思いついた(このくらいのことにも、時間がかかる)。つまり、出し入れする頻度を減らそうというわけなのですが……。それならペン立てでもでもよさそうなものですが、文具一つ一つの全体の形が見えるのが嬉しい気がしたのです。
* 朝日新聞 20023年4月16日朝刊
2023.04.22
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原点に帰って考える、生活を学び直す 13
新薬が欲しい!
前回、ものとは一定期間はつきあう方がよいと書いた。いったん気に入ったならば、できるだけ長くつきあう方がよいとも思う。ものの場合は、手をかけるほど、使うほどに愛着が深まるというのがほとんど。鉄製のフライパンやグリルパンは、使うほどに油が馴染んで、使いやすくなる。万が一焦げ付かせた場合でも、育て直すこともできる。そして、それは苦にならず、楽しい作業でもある。さらに、また新鮮な気持ちでつきあうことができる、はずなのだ。
ただ、卵焼き器のように、気に入っているにもかかわらず、出番がないものも出てくる。卵焼きはお弁当のおかずのような気がして、お弁当を作ることが減った今は、ほとんど使うことがない(飽きっぽいのだ。反省)。力はあるのに出場機会に恵まれない選手のようで、不憫だ。お弁当を作るか、それとも酒肴にアレンジすればいいのか。
不調の古いAVアンプ
不調のFire TV Stick
そううまくはいかないこともある。こないだは、機器を切り替えるたびにAVアンプのスイッチを切り再起動して、もう一度ボタンを押さないと音が出ないという、アンプとAV機器類の間の不具合を直そうとしてやってみたところ、今度はアマゾンプライムのFire TV Stickが全く機能しなくなった(その少し前から、これを使って起動することができなくなっていて、色々試したのだけれど、結局うまくいかなかった)。それで、連続ドラマの途中だったこともあって、なんとか見れないものかとBDプレイヤー経由で見ようとしたら、見ることはできるのだが、音声切り替えが効かず、日本語吹き替えになってしまう。さて、どうしたものか……。
できないことといえば、ごくたまに外で飲んだりすると、いつの間にかつい飲み過ぎて翌朝になるとよく覚えていないような時があったりする。自分を律しながら飲むことができないのだ。とんでもなく恥ずかしいことをしでかして、老醜を晒すことになっていないのならいいのだけれど。おまけに、このところは、外で食べてもあんまり美味くない。何もかもが、うまくいかないようだ。
ところで、住宅の場合はさらにむづかしい。他のものとは違って、厄介な問題がある。当然のことながら、長く住めば時間の分だけ、いろいろなものが集まって、堆積し、場所を占めて、生活空間や住人の精神を圧迫する。借家の場合は大掛かりなリフォームは無理だから、これを避けようとすると、捨てるべきものは捨てて、日頃から掃除や片付けに取り組むことが肝心だ。そうすれば、さっぱりとした姿に保つことができるはず。これができないのだ。わかっているのにできない「私」、というのはどういうことなのか。人間失格なのか。いったいどうすればいいのか !⁉︎
ちょうど読み始めた本によれば、ピアノの巨匠リヒテルはさすらい人であり、根っからの流浪者で、ほぼ6ヶ月ほどのパリでの定住生活も耐えられなかった、ということらしい。こういう性分だと、ものはたまらないかもしれないけれど、住まいに対する愛着も深まらないのではあるまいか。これはこれで、ちょっと困るような気がする。
だいたいが、今のように気の向くままにパソコンを開いて書きつけたりしていると、生活がぐずぐずになって、メリハリがつかなくなってしまう。
書くものも、その時の気分に左右されてしまうのに違いない。これを避けるためには、やっぱり、決まった時間に決めた分を書くというのがよいのだろう。生活にリズムを生み出すという点でも望ましい。練習しなければいけない。
毎日が休日のような身であっても、まずは定時(願わくば、6時くらい)に起きて、決まった時間(午後11時くらい)に寝むということから始めるのがいいかもしれない(何と言っても、早く起きると、時間がたっぷり使えるようで、得したような気になる)。それに、行くところがなくても、毎朝きちんと髭を剃ることから1日を始めるのがいいかもしれない。
生活の全てが慣習化して、これに縛られてしまうのは嫌だけれど、日々の生活を習慣化して、生活をいくらかでも生産的なものにしたいものだと思うのだ。先のリヒテルは「朝と夜に歯をよく磨くこと。毎日プルーストかトーマス・マンを読むこと……」と記しているらしい。歯を磨くことと本を読むこと(何を)は、僕でもすぐにでも真似できそうだけれど。
ただ、片付けと掃除ができないのを克服するためにはどうすれば良いのか。四角い部屋を丸く掃く、というのでもいいから習慣化しなければ。別にショウルームみたいな部屋は望んでいないのだから。片付け上手な人は、どうして習慣化したのでしょうね。
そろそろ、「怠け者」につける薬、「掃除ができない病」を治す薬が売りだされないものかね。もしかしたら、どこかにもう、ひそかに手に入れた人もいるのではあるまいか。
2023.04.15
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読んでくれて、どうもありがとう。
感想やお便り等をこちらからどうぞ(全くないというのは、さびしいものがあります)。
原点に帰って考える、生活を学び直す 12
音楽を聴く姿勢、そしてウィスキー醸造所
このところ読む本といえば、音楽についての本ばかり、ということについては既に書いたけれど、読むほどに頭を垂れるよりない気がしてくる。
最近読んだ本
そこで取り上げられた演奏家は言うに及ばず、著書たちの対象に向き合う姿勢の、なんと真摯なことか。コンサート会場での生演奏であれ、自宅で聴くレコードやCDの再生であれ、しっかり対峙して聴く。
ぼくなんかのような、ぼんやり聴くのとは大違い。もう少し真剣に向き合わなければ、と思う。しかしその後すぐに、細かな差異を聞き分けようとするよりも、自身の感性に従って受け取ればそれで良いような気もする(まるで、最近の学生がいうことのようだ)。作曲家や演奏家たちの思いとは違うかもしれないけれど、ぼくにとっては、音楽はまず第一には、理解する対象ではなく、楽しむものなのだから。ただし、自分を甘やかすことにならないように気をつけなければならない。何も理解しないまま、上辺だけをなぞるだけになってしまいかねない。
怒れるジャズマンと呼ばれることのある、チャールス・ミンガスの代表作のひとつ『直立猿人』を聴いていた。ある本によれば、そこに聴くのは「不安と勇気のドラマ」だという。ぼくは技術的な細かなことはわからないし、音楽理論や歴史の知識も乏しいから、その独自性を理解しているかどうかは怪しい。やっぱり、ただ感覚的に受け取るだけなのだ。さて……。
と書きつけた後に、坂本龍一が亡くなったことを知った。がんで闘病中だということは聞いて知っていたけれど…‥。
ぼくはYMOは聴かなかったけれど(興味もあんまりなかった)、その後、歳を取った後の坂本龍一にはシンパシーを抱くようになっていた。反核、反戦争、憲法、環境保全等のことに積極的に言及するようになった頃からのこと。
ちょっと紋切り型の言い方になってしまうけれど、人の一生はその密度×長さで語られるところがある。とすれば、一般的な人間の何倍もなした人は、その分早く亡くなってしまうのだろうか(もちろん長生きした人もいるから、そのうちの少なからぬ人ということになる)。たとえば、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーン。あるいは、モリスやジョブス、等々。彼らは確かに早く亡くなったけれど、通常の何倍も生きたということになるのかもしれない。ならば当然、逆のことも(ああ!)
BOWMORE醸造所
LAPHROAIG醸造所
ウィスキーの醸造所の建物は、本場スコットランドも日本のそれも、いずれも変わらず単純な切妻で、質素で美しい佇まいで魅力的。
建設費を抑えながら大きな蒸留設備や多数の樽を収めるために、できるだけ容積を確保しようとすると、必然的にこうなるのかもしれない。しかし、安っぽさは微塵もない。愚直に奇をてらうことなく、工夫を重ねるウィスキーづくりの姿勢をそのまま反映しているようだ。ついでに言うと、ある時に目にしたアイラ島の民家も、同じような美しさがあった。こういうものを見ていたら、最近は遠ざかっていたアイラ島のシングルモルト・ウィスキーを飲みたくなる。
もう何年も前に、スコットランドの醸造所を巡る旅をしようと約束していて、今年もいつにしますかと尋ねられたのだけれど、さて叶うものかどうか。
簡素で美しいものへの憧れは、強くなるばかりだけれど、いざ実践となると、なかなかむづかしい。また、憧れるだけで近づけないままとなると、これはまた厄介だ。
久しぶりにつくった、オムライスはほんの少しこげ色がついてしまったけれど、こちらはまあ綺麗な形になった。
* 写真はいずれもWHIYSKY Magazineのサイトから借りたものを加工しました。
2023.04.08
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原点に帰って考える、生活を学び直す 11
高齢者としてのローリング・ストーンズ
今日は4月1日。新年度の始まり。気持ちを新たに、と思う人も少なからずいることだろう。無職の身にとっては、なかなかそうした気分になりにくいのが、残念。
例によって、少し前のこと(というか今となっては、もう何ヶ月も前のこと)だけれど、ラジオで2週連続でローリング・ストーンズのアルバムを丸ごと紹介していたので、ずっと聞いていた。初期のミック・ジャガーの歌は、まあ味があると言えばそうかもしれないけど、ちょっとへたっぴだったような気がした。時代が進むと、さすがの貫禄。
『ライヴ2016』
で、これにつられるようなかたちで、ライブ盤を聴いたりした後、最近のライブDVDを。2015年に半世紀ぶりにアメリカとの国交が回復したキューバでのコンサート『ハバナ・ムーン ストーンズ・ライヴ・イン・キューバ2016』。まだチャーリー・ワッツが健在だった(この時、75歳!声高になって自己主張するところがないし、なにより姿勢がよくて、佇まいが洒落ています。見習わなければいけない)。ミック・ジャガーとキース・リチャーズは73歳前後、そしてロニー・ウッドは69歳くらい。彼らは、いかにも悪ガキ風の面影を残しているようです(こちらに対しては、遠い憧れのようなものがある)。さすがに顔がアップになると、老いは隠せませんが、遠目ではまだまだ若々しく、相変わらず、元気がいい。
ま、高齢者が元気に頑張っているのを見るのは、悪くない(まさか、自分がこんなふうに思うとは予想もしなかった。ストーンズ最盛期の頃は、”Don’t Trust Over 30”だったのだ)。背中をピンと立てることから、また始めよう。と、思ったのだったけれど……。
それからあっという間に時間が経って(本当に早い)、最近は、聴くものといえば、クラシックばかり。たまに聴くポピュラー音楽も、女性ボーカルが中心。たとえば、カーリー・サイモンの渋いアルバムとか。
つい先日の日曜の夕方は、ラジオを聞いていたらジャニス・イアン(ジョプリンではなく)の話が出て、なつかしい曲がかかった。かつていくつかのドラマの主題曲としても使われたことがある。ジャニスの歌は、明るいとは言えない。それで、歌詞の詳細はよくわからないまま、ある種のシンパシーを持って聞いていた気がする。今はほとんど耳にすることがなくなりましたが、何かの折に耳にした時は、これもまた聴きたくなることがある。
一口に暗いと言っても、当時の暗さと今の若者(の一部かもしれないけれど)の抱えるそれとは、ほとんど全く違うのでしょうね。個人的にはともかく、社会全体としては、今の方がうんと辛いことになっているのではあるまいか(これはまあ、若者だけに限らないけれど)。しかし、生きていかなくてはいけない。
『BRUTUS』
ともあれ、このところ雑誌を見ていてもちっとも面白くないのは、どうしたことだろう。『BRUTUS』の「ジャズ特集」や「洋食特集」というのも買ってみたけれど、楽しめなかった。ついこの間も、少しは着るものも気を使わなければと思って、最新号の「ファッション特集」を手にとってみたけれど、買おうという気にはならなかった。たぶん、好奇心やら活力やらが低下しているのだ。
カザルスのCDや本他
そのあといろいろとあって、カザルスから聞き出した話をまとめた本を読んだ。最近は音楽の本、しかも昔の本を読み返してばかりいる。そこには帯に安野光雅が書いているように、美しい言葉、経験が詰め込まれている。ほんとうに、背筋を伸ばして暮らさなければいけない。
一方で、カザルスたちの美しくも厳しい音楽にしみじみと聴き入るばかりでなく(まあ、オペラなんかは、そうでもないけれど)、もっと直接的にガツンと喝を入れてくれるハードな曲と歌詞のロックを聞く必要があるのかもしれない。あるいは、あかるい女性ヴォーカルでもいい気がする。さて、どんなものがあるだろうか。
黒田恭一は、気力が失せた時や自分の中で燃えるものの勢いがなくなってきたと感じたときには、曲によらずカザルスやトスカニーニを聴くと書いていた。以前、ここで書いたことがあるような気がするけれど、このほか掃除や片付けの時にかける音楽についても2派に分かれるようだ。一つは軽快な曲を好み、もう一つは美しい曲を選ぶ。後者は、美しい曲に合うような場所にしようと思いながらやるのです、という。前者の場合はもっと直接的に気分を鼓舞してやるわけですが、僕はこちらの派、単純なのだ。
2023.04.01
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原点に帰って考える、生活を学び直す 10
番外編・オール(ド)エイジ・クライシス
この頃は、なんだか、気が滅入るようなことばかりが聞こえてくるようだけれど。
さて、ずいぶん前に書き留めていたものだけど、いつまでもあるとなんとなく気になってしまうので。
何を聴くか、何を見るか決まらないまま、結局聴かずじまい、観ずじまいのままになることがよくあります。優柔不断は若手のジジイから中堅のジイサンへと移行するにつれて、ますます磨きがかかってきたよう。しかし、磨きがかかるのはたいてい嬉しくないことばかり(たとえば身体のてっぺん、しかも外側だけとか)。皆さんはどうでしょうね。で、考えた。これを避けるためには、どうすればいいか。
ラジオや小さな映画館のように、特集番組を編成すればいいのではないかと思ったのです。たとえば、音楽なら9番特集1・交響曲編(ベートーヴェンの第九とかブルックナー、マーラー、シューベルト、そしてドヴォルザークの交響曲第9番等がある)、未完成作品特集とか。女性ヴォーカル特集とか。映画ならワイン映画特集、レストラン映画特集、音楽映画特集等々、となると、映画に使われた音楽特集も外せない。いくらでも考えられそう。順番で悩むといけないので、例えば年代順とする(作曲家や監督のアルファベット順でも、全然構わない)。これから書くことは、これを思いつく少し前の話。
『スペインは呼んでいる』 *
いつものように、何を観ようかなかなか決まらない時に、『ひかりのまち』の監督のマイケル・ウィンターボトムはどこかで見たことがある名前だと思っていたら、『グルメ・トリップ』、『イタリアが呼んでいる』の監督だった。で、これに続く第3弾、スペイン編『スペインは呼んでいる』を観た。
英国の人気コメディ俳優のスティーブ・クーガンとロブ・ブライドンがスペインを北から南に縦断しながら点在する一流レストランを食べ歩き、途中で名所旧跡をお訪れるという取材旅行の仕事の様子を描いたもの。車中や食事の席で交わされる二人のモノマネやその間にレストランや厨房の様子挿入されるという構成は3作とも変わらない。正直にいうなら、2作目でちょっと辟易したな。インターネット上の評判もさほど芳しくないようだ。それでも観たのは、プライムビデオでやっていたことに加えて、まあ厨房の様子や美しい景色が映されれば、いくらかは楽しめるだろうと思ったから(もはや、前2作の内容はすっかり忘れているし、この第3作ももう怪しい)。
同映画の1場面 *
観ながら思ったのは、これは2人の男の「ミドルエイジ・クライシス」(今はあんまり聞かなくなった)を描いたものではないかということ。
二人は欧米の大スターの声色を使って、イギリスや世界の情勢を皮肉るし、お互いに対しても辛辣で容赦がない。だから、見る方も知識が必要になるし、大人同士の関係のありようについても我が国のそれとは違うので、違和感を覚える人も少なくないだろう(むろん、僕も同じで、英国好きにも関わらず、時としてモンティ・パイソンのようなユーモアのセンスには馴染めないばかりか、嫌悪感を覚えることさえあった)。これが、評判が悪いことの一因ではないかと思った次第。
でも、この映画が、中年から老年に差しかかろうかという男の戸惑いと苛立ちの反映のようだと思って観れば、少しはマシに思えるのではあるまいか(若い人にはあんまり関係なさそうだけど、近辺にいる年配の男性の理解の一助になるかもしれません)。
僕は、子供を育てたことがないせいで、「ミドルエイジ・クライシス」をほとんど実感しないまま(見方によれば、ずっと「オールエイジ・クライシス」の只中、と言えなくもないのかも)、「オールドエイジ・クライシス」に突入したような気がするのだ(⁉︎もしかしたら、ただの能天気のせいかもしれないけど)。おまけに、その前に「ヤングエイジ」の時代もちゃんと経験しなかったのではないかという気もしてくる……。さしあたっては、この状況をいかに乗り越えるかが問題。さて、どんな方法があるものやら……。
余談はともかく、映画の話に戻ると、レストランや料理の紹介という意味では、あんまり役に立ちません。まあ雰囲気はなんとなくわかるけれども、ホールの様子もキッチンの調理も断片的**。雰囲気だけで、実用的ではないというかあんまり楽しくはなかった(と思ったような気がする……)。
それで、ルネ・フレミング を聴くことにした。しばらく、歌曲やオペラに再挑戦しようと思っているところなのです(ほんとうは、なにか楽器を習うのがいいと思うのだけれど)。
* 画像は『スペインは呼んでいる』オフィシャルサイトの予告編から借りたものを加工しました。
** 伝説のレストランのドキュメンタリー『エルブリ』や『ノーマ」なんかでは、メニューの開発と合わせて、結構詳細に調理の過程を追っていたように思うのですが(これもうろ覚え、だから違っているかもしれないので、もし見てみようという人があれば、このことをお忘れなきよう)。
2023.03.25
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原点に帰って考える、生活を学び直す 09
「デザインする」ということについてのささやかな考え
これを書いているときに、ニュースは日韓両首脳の対談後記者会見の様子を伝えていた。もし本当に両国がわだかまりを捨てて、友好的になるのなら素敵だと思うけれど、一方で何だかなあという思いが拭えない(このところ、我が国の首相を見ると鬱々とした気分になってしまうのだ。なぜだろうね)。
弁護士ビリー・マクブライド*
このところ寝る前には映画を見ていたのだけど、その谷間にアマゾンプライムでたまたま見た『弁護士ビリー・マクブライド』で思ったことから(と言っても、まだ数話しか見ていないのだけど)。以前に見ていた人気シリーズ『BOSCH/ボッシュ』と、ちょっと似ているような気がしたのです。2つを比べてみると、ざっと次のよう。
・いずれも、Amazonオリジナルシリーズである。『ボッシュ』が2014年公開なのに対し、『ビリー・マクブラ
イド』は2016年開始。各シーズンは8〜10話で一つの話が完結する。後者では、マクブライドをビリー・
ボブ・ソーントンが、敵対する権力者をウィリアム・ハートのハリウッドのスター2人が演じている。
・ボッシュもマクブライドもともにはみ出し者で、権力を嫌い、弱者の側に立って、権力と対決する。
・家族と別れ、元妻は体制側(?)にいる。そして、高校生の娘のことを気にしている(家族の問題を抱えてい
る)。
・全体に暗い(アメリカの映画とは趣を異にする。主人公が重くて暗いものを抱えているのは、そんなに古くは
ない当時のテレビでは一つの潮流かも)。
・2人とも、なぜか周りに親切にしてくれる女性が現れる。
・異なるのは、ボッシュがロスアンジェルスを見下ろす豪邸に住んでいるのに対し、マクブライドは長期滞在者
用のうらぶれたモーテル暮らしである。
まあ、いずれもAmazonオリジナルであることから、形式的には後発がヒットした番組を踏襲したのかもしれない。関係ないことだけど、劇中にゴールトベルク変奏曲のアリアが挿入されることの何とまあ多いことか。
Amazonオリジナルに限らず何であれ、ヒット作は真似される。昔から行われていたことだ。車のデザインにもよく見られる。例えば、古いミニによく似た軽自動車があったし、同様な例は今でも見られる。ハイブリッド車が登場した時は、後発メーカーも似たようなデザインだった(これは、もう一つハイブリッド車であることを印象付ける意味もあっただろう)。また手法的には、CGの技術が向上するのに伴い、つるんとした面をつまんで引っ張ってシャープなエッジを与えるデザインは、一世を風靡した。たまたま聞いていたラジオによれば、ジャズで初めてレコードを出したのはオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドで、当時の2大レコード会社のビクターからだった。これが売れるのを見たライバルのコロンビアは一旦不採用とした同バンドを起用して、レコードを作ったという。
商業的に売れることが期待される商品は、お互いに参照してきたに違いないし、さらにコンピュータやAIがこれを助長するだろう。
さて、このことを悪とするのかどうか。
昔は、悪いことだ(デザイナーの矜持はどこに?)と疑わなかった。しかし、最近はあんがいそうとばかりは言えないのではないか、という気がする。その理由はと言えば、
・デザイナーはその中で差別化を図ろうと工夫するだろうから、基本的には価格や色等の 選択肢が増える(形
態的には似たようなものばかりになって、逆のこともあるけれど)。
・制約の中で、心あるデザイナーは独自の工夫を込めるはず(そのまま真似しただけのものは論外)。
・そこに込められた想いはデザイナーが抱く理想の5/10でも、売れることで多くの人に伝えられるだろう(理
想の全てを詰め込んでも、人の手に渡らなければ理想は伝わらない)。
・やがて、これに対抗して、全く異なったデザインが出てくる契機となる(意図的に作られた流行になる危険性
もあるけれど)。
生活もその舞台である空間も、オリジナルであることを求めすぎないで、素敵だなあと思うものを真似することから始めるのがいいと、改めて思う。これは、何についても同じという気がする。言い古されたことだけれど、「学ぶ」の語源は「真似ぶ」ということだから、真似したくなる対象や人、すなわちお手本やアイドルを探すのがいい。幸い、お手本を探すのは容易になったのではあるまいか。
と言うと、「オリジナリティ」とか「自分らしさ」はと懸念する人がいるけれど、心配することはない、まったくないと思います。教えられて、学んでいるうちに、オリジナリティは出てくる、というか出ざるを得ないのだから。何もわからないままオリジナリティを求めてみても、時間がかかるだけで、良い結果にはならないだろう。それに、あんがい人生は長くない。
* 写真はアマゾンのものを借りて、加工しました。
2023.03.18
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原点に帰って考える、生活を学び直す 08
それが人間の本性だ、というのなら……
あんまり美しいとは言い難い話題から。最近、HPを見ていて気になるのが、その広告の醜悪さ。たいていのサイトで、口を大きく開けた写真や足の爪のアップが出てくる。訴求するつもりでしょうが、そうなるどころか、逆効果だと思うね。これは見たくないので、当該HPもやがて見なくなるのではあるまいか。たぶん、掲載者もわかっているはずだろうに、瞬間的なインパクトの大きさを狙ったのだろうか。
もしかしたら、こういう広告が出るのは、見る人(というか、検索ソフト)によって違うのだろうか。何れにしても、気持ちが良くないのはほぼ共通するだろうから、不思議。もしかしたら、どうせ見なくちゃいけないんだからという、広告を掲載する側のおごりなのか。見たくないなあ……。
先日、事情があって、九州へ行ってきた。ほぼ3ヶ月弱のうちで2回目(コロナ禍の中では、異例。ま、空港の混雑ぶりや電車の中の人の多さを見る限り、世間ではもはや関係ないみたいだったけど)。
急だったせいでいつもの航空会社のチケットが取れなかった、というか、高かった(年金生活の節約に慣れた身としては、ちょっと腰が引けたのでした)ので、久しぶりに別の航空会社の飛行機に。機内誌(かつては、あんまり読むところがなかった)を見るともなく見ていたら、ちょっと気になる記事が。
コロナ禍でオンライン飲み会が盛んになったのは、「飲み会」という行為が人間の本性に根ざしているせい。やがて廃れたのは、これも人間の本性に反しているせい。時空間を共有してこその楽しみ。一方、リモートワークやオンライン会議はある程度続く。これも本性の発露。人間はそもそも生産性を向上させようとする、無駄を減らしたいというのが人間の本性、というのだ*。
えっ?で、思った。ひょっとしたらワタシは人間じゃない!?「生産性を向上させる」?、「無駄を減らす」?それが人間であることの証だとしたら、ワタシはいったいなんなのか?別に自慢するわけじゃありませんけど、「生産性」とも「無駄を省く」生活とも無縁で、ぼんやりと日々を過ごしているのだから。
いや、でもこのブログや童話のようなお話をせっせと書いているのは、もしかしたら「生産性」に目覚めたのか、ようやく人間らしくなったということなのか。それとも、ほとんど読む人がいないのだから、「無駄」を増産しているということで、やっぱり人間の本性に反しているってことなのか……。
ツバメのマーク
その時に乗ったリレーかもめ号はかつてのみどり号に比べるとデザインは断然いい(このことについては、ここでも何回か取り上げた)のですが、つばめ号を転用したもの。それにしても、こうした格差、差別はなんなのか。差別化、と言って悪ければ地域性の発揮とでも言うのだろうか、それとも路線毎の収益性の差によるものなのか。
ともあれその痕跡がそこかしこに残っている。たとえば、正面のマークはツバメのままだし、座席の背面にも残っていて、そこに記された列車名がTUBAMEのまま。しかも、通路を挟んだ左右の席の刻印が並行移動しているのだ、つまり線対称じゃないってこと。どうしたことだろう(まあ、単純に座席の背面の中央に配置しても、この問題は起きなかった。写真は撮ったつもりが、なかった)。
大書されたかもめの文字
ついでに言えば、西九州新幹線のカモメの車体に大きく描かれたカモメの文字も変。小学生が書いたような文字で、もしかしたら話題作りのために公募でもしたのだろうか。つまりません)。
そういえば、追浜のショッピングビルの屋上の看板が、本来あるべき施設名の文字がないままになっていた。これらは、企業に経済的な余裕がないということなのだろうね。たぶん、関係者も、そのままになっていることに気づいていないわけじゃないはずだし、できれば変えたいと思っているに違いない。つまり、企業の顔みたいなものでさえ、実利がないところには、お金をかけることができないということなのだろう。
で、世の中の経済の疲弊は相当重大ではないか、と思った次第。こうした状況における政府の対応はいかにも対処療法、その場しのぎに見えるけどね。
* 楠木 建の頭の中、第22回 本性への回帰、スカイマーク機内誌空の足跡2023年2月号
2023.03.11
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原点に帰って考える、生活を学び直す 07
フライパンを鍛え直す
長く使って油の馴染んだ鉄製のフライパンは、温度をあげてやればくっつくこともなく、とても使いやすいのだけど、長年の間に付着した内側やとくに外側の側面の凸凹状の焦げが気になる。それで、思い切って、焼き切ってみようと思い立った。
フライパンや鍋は、内側の底面だけでなく、全ての面がツルツルピカピカが好ましい。ある若い料理人が、修行時代に親方から「鍋は新品のように磨いておけ」と言われた、ということを聞いた時、我が意を得たりと思いました。なんと言ったって気持ち良く料理することができるし、スープやソースの色もよくわかるので料理もうまくできる(らしい)。ついでながら、汚れたエプロンをつけた料理人がいる食堂もダメな気がします。
ともあれ、実は油慣らしが案外短くてすむということを知っているからね。鉄製のフライパンが一般的だった頃にオムレツ専用のフライパンを手に入れようとすると、長い時間をかけて育てなければならないと書かれていたのだ(例えば、伊丹十三の本)。
それで、ずっとそうするしかないと思い込んでいたのだけど、先日小さなフライパンをたまたま空焚きしてしまって(何回めなのか⁉︎)、改めて焼き切った後、油慣らしをしたところ、すぐに実用上問題がない程度にツルツル滑るようになった。まあ、オムレツはテフロン製があるしね。
フライパン3種
先日、アルミの行平鍋を磨いたことだし、この際鉄のフライパンも、と思った次第。で、冒頭のように、焼き切って改めて育てなおすことにしたのです(といったって、促成栽培のようなものだけど、汚れた鍋やフライパンは見て楽しくも嬉しくもないからね)。写真は油慣らしの後、くず野菜を炒めるところまでやったもの(ちょっと、ツルツルピカピカ感が足りないようだけど)。
でも、調子に乗って手持ちのものを全てやった後ほっと一息ついて、さてステーキを焼こうとしてフライパンがないことに気づいたのでありました。そのあとで、めったに使わないグリルパンがあったのを思い出したので、ことなきを得ました。やれやれ(白状すれば、こんなことを繰り返すばかり、というのが我が日常)。
ところで、アルミのフライパンはどうしたらいいのだろうね。パスタの時には不可欠(何と言っても、気分が大事)なのだけど、裏表の両面ともが焦げ付いてしまって、とくに裏面がどうにもよくないのだ。内面はクレンザーで磨くと綺麗になるけど、火が当たる方はなかなか手強い(こちらもある方法を試したら、もう少し改良すればうまくいきそうな感触を得たところまできた。乞うご期待って気分です。でも爪が黒くなって、なかなか取れないが難点)。
トルティージャ
最後に、証拠写真。というのも変だけれど、ずっと試してみたかったトルティージャ、ジャガイモのスペイン風オムレツを安物の小さなスキレット(今回鍛え直したものとは別物)で作った。ね、ちゃんと手入れして使えば、鉄製だって全然くっつかないのです。ちょっと火が強すぎて焦げたけど。
汚れた鍋やフライパンはいただけません(人や使い方によっては、実用上支障がないとしても)。先日も、人と台所を紹介する番組を見ていたら、茶色い焦げがこびりついた鍋が出てきたり、おまけに折敷の上のご飯と味噌汁の左右が逆だったりした。こういうことがあると、その持ち主の言うことがどんなに立派だとしても信用できない気がしたな(散らかった家も同じでしょ、と言われたら、その時は黙って深くこうべを垂れるしかありません)。
焼き切ってスチルたわしで洗って、クレンザーで磨いただけでもずいぶんきれいになったけど、まだ少し凸凹が残っているしむらもある(ちゃんと乾性油を使ったんだけどね)。こうなるともっときれいにしたくなる。で、その後も、クレンザーで磨き直したり、ヤスリをかけたりしました。そこからはなかなか目を見張るような劇的な改善というのはなかった。でも、だいたいでいいのだと思ったのでした。鍋は磨くためにあるのではなく、使うためにあるのだ!
でも、力を込めて窓を磨く老小説家フォレスターのようにハートも磨くものだとしたら、これではいけない?身体のある部分なんかは、こちらが何にもしなくてもツルツルピカピカ、勝手に磨きがかかるのだけどね。
後は、これをどう生かすかだ。料理は、ほんとうは誰かのために作るのがいい。目の前で食べる人がいたら、もっと嬉しいかも。週1回、予約1組限定の昼ごはん食堂をやるというのはどうだろうね(ま、無理ですね。ちらっと思っただけです)。
2023.03.04
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原点に帰って考える、生活を学び直す 06
やっぱり道具、……
先日、高橋幸宏の特集番組『NHK MUSIC SPECIAL 高橋幸宏 創造の軌跡』を見ていたら、彼の初めてのソロ・アルバム『『サラヴァ!(Saravah!)』のタイトルは映画『男と女』の中の歌『サンバ・サラヴァ』の影響らしい。そのとき、いつか自分がソロを作るときはこのタイトルにしようと決めた、と言うのだった(うーむ!)。15歳だった彼はこの映画を映画館で18回見たと言うのだ!よほど気に入ったのだ。ほとんど同じ年のワタクシはただ単純に、美しいアヌーク・エーメに惹かれていたのでした(もちろん、ピエール・バルーのボサノヴァ風の歌にも。たぶん。CDもちゃんと持っています)。それにしても、18回とはね。しかも、それを正確に覚えているとは驚き。
で、さっそく『男と女』を観ることにした。ちょっと人に左右されすぎじゃありませんかと言われても、否定はしませんが、実はこの冬の間ずっと観ようと思っていたのです。今回は、気合を入れてモバイル・プロジェクターをセットして、スクリーンを立てて大画面で観ました。
前回は、「『姫野作』だの『ライカ』だの言っている場合じゃないかも、……、美しいものは眺めているだけでも嬉しくなりそうだ」と書いたのでしたが、どうも後半部の方が大事みたいだったよう。
映画だって、画面の鮮明さ、綺麗さでは圧倒的にテレビの方がいいうちの貧しい設備でも、スクリーンで見る方が映画的な雰囲気があって、断然嬉しいのだ。
名人は「弘法筆を択ばず」と言うように、道具は何でもいい、特に名品でなくてもいいのかもしれないけど、そうじゃない者にとってはそうはいかない。腕も根気もないジジイには、道具こそが大いなる助けとなるのだ。
何と言っても、その姿、佇まいを見ると、こちらにやる気を起こさせ、持続させてくれるのだよ。形ばかりにこだわりすぎ、頼りすぎというそしりは免れませんが、もはや鍛え直す時間もないワタクシなどはこれで行くしかない、と改めて思い定めているところであります。
姫野作雪平鍋
新旧雪平鍋の比較
で、ちょうど誕生祝いは何がいいと訊かれて、ちょっとジャスパー・モリソンの皿と迷ったけれど、『姫野作』の雪平鍋をお願いしたのでした。待つことしばし、咋日昼前にやってきた。箱を開けてみると、うーん、美しいです。工芸品のようで、眺めているだけで満足。使うのが惜しいくらい(ん⁉︎)。ちょっとラフなところもあるけれど、このあたりが実用品としてはかえっていいのかも。
写真で見ていた通りで、通常のほぼ1.5倍ほどもあるアルミの厚さのせいで、予想以上の存在感。槌目も際立っていて、期待にたがわず美しい。今や、こうしたものを手で打ち出して作りあげる手打ち職人は、全国で10人にも満たないらしい。以前に取り上げた錫製のちろりもそうだが、槌目のものに惹かれるのは、美しさと、もしかしたらこれを作り出す職人の技術と根気に憧れているのかもしれない……(ないものねだり)。
先のあまり長くないジイサンが今さら物欲旺盛というのもどうかとも思うけど、一方で残りの時間を我慢しないで(まあ、できる範囲でということです)、気に入ったものを側に置き、手にしながら暮らしたいと願うのです。ただね、次々に色々なものが欲しくなることと、しかも「もの」に偏っているところが難点、という気はしますが……。
2023.02.26
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原点に帰って考える、生活を学び直す 05
思い立って、鍋を磨く
新聞を手にとって眺め始めたら(最近では、随分と粗っぽい読み方になっていて、読むというより眺めるというのがふさわしい)、『折々のことば』の一文が目に止まったので、取っておいた。普段はそのままのことも少なくないけど、これは後日ちゃんと読み返しました。
小津の方法*
「そうした場面を安い機材で一つ一つ丹念に撮る」。小津安二郎の撮影の仕方だという。「そうした場面」というのは、「慎ましく清らかなものと不浄でゴタゴタしたもの。その両面を重ね合わせて見ること」ができるような場面のこと(たぶん)。ちょっと、意外な気がしましたね。
小道具一つ取っても、場面に映らないものまでこだわり抜いたという小津のことだから、これを映し撮る機材にも相当のこだわりがあるものと思っていた(うーむ。単純すぎました。反省)。
と書くと、もしかしたら、「目をつけるところが違うでしょ」と言う人があるかもしれない。確かにね、という気もするけれど、でも今回は、あくまでも「安い機材」で、というのが要点なのだ。しかも、もそれをていねいに使いこなして、観る人の心を打つような場面を作り出す、というのだから。
凝り性と言われた世界のオヅは、機材ではなく、その使い方、そして場面の構成と撮り方に凝ったのだ。だから、自分のナマクラな腕ならカメラの善し悪しは関係ないとわかっていて、新しい道具を欲しがるジイサンというのは、オヅカントクに知れたら一喝されそうです(もはや、カントクの方が若いんだけどね)。まず、自分の腕を磨かなくちゃいけないのかな。
ところで、『姫作』の新しい雪平鍋を買うつもりだからということを言い訳にして、棚の奥から出てきた安い雪平の扱いがぞんざいになっていて、ずっと気になっていた。手に入れたばかりの大振りのステンレスの鍋を洗おうとして横を見たら、うっすら黒ずんでくすんだ雪平が目に入ったのだ。
ひとまず無視することにして、ステンレスの方をさっさと洗ってしまおうか。でも、隣の鍋が気になる。いや、やっぱり磨く方がいいか。柄も緩んできていたから、やりかえないといけない。時間がかかりそうだなあと渋っていたのですが、なぜかクレンザーを手にしていた。で、ボンスターを取り出し、磨くことにしたというわけ(見ての通り優柔不断で、筋金入りの怠け者ですが、なぜだか洗い物とか、鍋磨きとかは案外苦になりません)。
磨く前の鍋と磨いた鍋
まず、緩んだ柄を外し、穴に木片を詰め込み(なかなかぴったり合う柄が見つからない)、柄の周囲にアルミテープを巻いて、緩みを無くそうとした(それにしても、木製の柄を留めるのが木ネジ1本とか釘とかってのはどういうわけだろう)。
結局、大小3つの雪平を磨くことになった。ともあれ、一時的にせよ、がたつきも解消され、綺麗になったものを見ると、やっぱり嬉しい(やればできるのだ)。思ったほど時間もかからなかった。今度は、アルミのフライパンの底を磨こうかな(こちらはなかなか手強くて、歯が立たないまま)。
こんなふうに、計画的にやるというよりは、行き当たりばったり(計画を立てるのは好きなのに)。だから、つい本来やるべきことを忘れてしまうことも多い(これに限らず、歩き始めた後に、あれ、何をしようとしていた?ってなることも、珍しくないのであります)。その結果は、言わずともという気がしますが、結局たいしたことは何もしないまま、時間が過ぎ去ってしまいます。
先日の友人は、時間はたっぷりあるからと言ったけれど、僕はぼんやりしている時間が多いせいか、いろいろなことがなかなか進まないまま(この差はどうして生まれるのか?)。
たぶん、鍋だってくすみが気になったらすぐに磨くようにすると、もっと簡単に綺麗になるのだろう(いや、なるはず)。まとめてやろうとするから、大変なことになる。これは、何事にもおいても同じ、もうそろそろ身についても良さそうなのだけど(やれやれ)。学習する力をつける学習法ってのは、ないのでしょうか?ねえ?誰か知りませんか?
でも、せっかくこうやって磨いても、一度使えばあっという間に光沢を失って、すぐにくすんでしまうのですが(鍋のことです)。まあ、これも新品とは違う味だと思えば、それなりに楽しくなるから、物は考えよう。なんと言っても、道具は使ってこそ。眺めて楽しむというものではなのだから。
となれば、『姫野作』だの『ライカ』だの言っている場合じゃないかも、という気がしてきますが、そうは言ってもねえ、美しいものは眺めているだけでも嬉しくなりそうだなあ、とつい思ってしまうのでした。
* 朝日新聞、2023.02.09、朝刊
2023.02.18
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原点に帰って考える、生活を学び直す 04
帝王マイルス・デイビスに学ぶ
マイルスの録画DVD
ジャズの帝王マイルス・デイビスは、プロを目指してセントルイスからニューヨークに出てきた頃、当時主流だったビバップの奏法にはついていけなかった。超高音域の音を高速で、しかもたくさんの音を豪快に吹き鳴らすディジー・ガレスピーのようには吹くことができなかったのだ。唇の弱さと体が小さかったことに起因していたという。このため、ディジーの後釜としてチャーリー・パーカーのバンドに入ってからも、思うように吹くことができず、ずっとやめたいと思っていたらしい。これらのことについては、『巨匠たちの青の時代 帝王への扉を開けたサウンド』(NHKBSP プレミアムカフェ)の録画DVDを見て、書いています。
厳しい競争の中で、自分らしい特徴を打ち出してなんとか生き残ろうと、やがて彼は、トランペットに弱音器を取り付けた独自の吹き方にたどり着き、ミュート奏法と音色を手に入れた。チャーリーも殊の外気に入って、多用させたという。そのあとは、次々に新しいことに挑戦して、その結果、ジャズの帝王と呼ばれるような、頂点まで上り詰めたわけですね。
人は天賦の才能があっても、当時の主流となったもう1人の天才と同じようにやろうとしてもできないことがある。とすれば、どうするのか。マイルスのように、自分に合ったやり方を見つければ良い。流行りや周囲に合わせることはないということですね。特別の才に恵まれない者にとっては、なおさらだろう。自分の特性を見つけ、これを磨くしかない。
たとえば、根気や構想力がなければ、一般的な長編小説は書けない。また、短編小説においては、文章にある種のキレと、オチを生む洒落っ気がないとむづかしいだろう。この場合も、あきらめるのではなくて、自分に何ができるかと考えるのが良さそうです。で、考えた。たとえば、短いものを集めた連作や、あるいはうんと短い童話のようなもので練習するのがいいかもしれないと思ったのでした。
ただ、少なからず優しい心遣い、というか「しようがないなあ、読んでやるか」と思って読んでくれているだろう、当ブログの極めて限られた読者からの反応が全く何もないということは、まるっきり見込みがない、箸にも棒にもかからないものだ、ということかもしれませんが*。
渡辺の録画DVD
ジャズについての話をもう一つ。渡辺貞夫が抜擢した18歳のドラマーがツアーを終えて、「1日1日を大切にすること。貞夫さんはその日その日をすごく大切に過ごしているように思うんです、ただなんとなく過ごしてるんじゃなくて、何かしらの目的を持って…、1日1日の時間をすごく大切にされている。それはやっぱりステージの音に出ますよね」と言う。この18歳のドラマーもえらいけれど、彼にそう言わしめた渡辺貞夫がすごい。こちらは、『70歳のゴキゲンツアー 渡辺貞夫」(NHKBSP プレミアムカフェ)を見ていて思ったことです。
渡辺は、演奏中に考えすぎてうまく溶け込めないままでいる若いドラマーについて、時として辛辣なことをニコニコしながら話したりするのですが(本人のすぐ近くで)、当のドラマーに対しては「本番の時は、考えるな、もっと歌え」と繰り返していました。なるほどと感心したのですが、文章の心得とはちょうど逆ですね。若くしてピューリッツアー賞受賞という触れ込みの、敬愛するウィリアム・フォレスターは、文章は「まず、はハートで書け」、と教えた。そして、第2稿は「頭を使え」と。即興性のジャズと構成の文章、それぞれの性質を言い当てているようで、面白いと思いました(あのヘミングウェイは、立ったままタイプライターに向かい、いったん打ち終わると、そのまま推敲はしなかったというのですが)。
それにしても、何十年も生きてきたからには、自分の意のままに操れるものが何かあってもいいのにねえ(たとえば、手練の演奏家のように)、と思うのですが。でも、何にもないのだなあ。
せめて、一緒におしゃべりしているような文章が書けたらいい……、という気もしますが。なかなか、むづかしいものですねえ。
* ローレンス・ブロックによれば、彼のところに送られてきた全くダメな原稿を送り返すと、書き直したものがまた送られてきて、また返送する。これを何回か繰り返していたら、何回目かには最良とは言えないけれど、読むに耐えるものに仕上がっていたという。まあ、これを励みにせいぜいがんばることにしようと思います(ただ、僕の場合は、一人二役でやらなければいけないのが難点)。
ちょうど見たばかりのバーンスタインの言葉も心に留めながら。たとえば、『(本当の)音楽家になりたければ、心からそう思うことだ。それはむづかしいけれど、そう思うことから始めなければならない』であるとか、『自分の足のサイズで』歩き続けることの大事さとか……。(NHK クラシックTV『バーンスタインは問う 君は、音楽が好きか?』)
2023.02.11
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原点に帰って考える、生活を学び直す 03
立春ですから
本日2月4日は立春。暦の上では、もう春ということですね(まだ寒いですが)。で、春らしいことをしてみようと思い立った。
まずは、久しぶりに髭を剃った(なかなか会えなかった友人と話をするために、横浜まで遠出したのだ。その時に、鮎川誠がなくなったことを聞いた)。そのほかになにをしたかといえば、例の飾り棚の模様替え。たいしたことじゃありません。こちらは、背が少し高すぎて収まりが悪いように見えたモロゾフ製の脚の代わりになりそうなマスタードの瓶がようやく空いて、マイユ製の脚がちょうど4つ揃ったのでした。
新しい設え
花瓶はデュラレックスのコップ(幸い、今のところ爆発はしていないし、その兆候もない)から、少し細身で脊の高いガラス製のものにして(これでもまだちょっと高い?)、中心となる香炉は青磁から伊万里の白地に赤が入っているものにいったん替えてみようと思った(香炉それ自体は、青磁の方が断然いいのですが、白地のものは赤が入って、明るくて春めいた華やかさがある)。しかし、実際にやってみたらいかにも大きすぎたので、結局、有田の小皿に変えました。ま、この際は、昔ながらの決まりごとは無視して、大きさと色味を優先したというわけです)。燭台とローソクの組み合わせはバランスを考えて、高さのある方が良い気がしたので、そのままにした。
もうひとつ、その脇の親子の小鳥はどうするか。黒と白の大小の豚に変えたのですが、やっぱりバランス的にはどうかと思ったものの、変化を優先して、これもそのまま置き換えることにしました。さらに、皿の中の落ち葉は少し脇に散らして、どんぐりに万両(?)の赤い実を加えた、そしてついでに残っていた柊の緑も(ここでも、もったいない病⁉︎)。飾り棚の上部から照らす灯りが欲しい気がしてきますが、今のところはちょっとむづかしい。移動した小鳥たちは、別のところで「ピース、ピース」と鳴いています。
さて、どうでしょうね。目論見どおり、うまく行ったのかどうか。
ともかくも、こうなるとテーブルランナーも取り替えたいと思ったのですが、こちらは適当なものが見つからず、ひとまず断念。
こうやって、手と足を動かしていないと、よからぬことばかりを思いつきそうなので、「時を殺す」ためにちょこちょこと少しずつ、やらなければいけません。孔子が教えるように、頭だけで生きようとすると、この頭の中の地獄は避けられない。だから、これから逃れるためには、台所仕事でもいい、何でもいいから、とにかく手と足を思い出さなければならないようなのです(なかなか、簡単ではありませんが)。
ところで、2月1日はテレビ放送の開始から70年だったらしいね。白黒から詳細なカラー表示になり、小さくて奥行きのあるブラウン管から、今や薄型で大画面のものが当たり前になった。まさに眼を見張るばかりの進歩です。翻って、ほぼ同じくらいの歴史(?)を有する我が身はどうか……。いやあ、まいったなあ。まあ、仕方がない。受け入れるほかありませんね(やれやれ)。
2023.02.04 夕日通信
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原点に帰って考える、生活を学び直す 02
番外編 「楽しむ」ということについて
演奏家の演奏(たいていは録音だけれど)を聴いてこれについて言及するというのは、自身がその音楽についてどう考えるか、すなわち演奏家と同様にしっかり考えることを要求されるということでもあるのだろう。なんとなく聴くというわけにはいかないようです。こんなことを、今更ながら考えていたのでした。
吉田秀和の『之を楽しむものに如かず』(2009年刊)を手に入れようと思って、探していたときのこと。坂本龍一の『スコラ』にもたびたび登場していた、音楽学者の岡田暁生の文に行き当たった。曰く、
よく「音楽は楽しめればいい」という人がいて、若い頃の私はこういう言葉を聴くたびに激高していた。ただの娯楽ではなくて、それ以外(それ以上)のもの――知への洞察ともいうべきもの――があるからこそ、音楽は「芸術」として社会の中で公認されているのではないのか? 吉田秀和の文章が当時の私を魅了してやまなかったのも、それが単なる「これがいい、あれも楽しい」を超えた何かをいつも指し示してくれたからだったと思う。だから『レコード芸術』における氏の連載に、「之を楽しむ者に如かず」というタイトルがつけられていたことは、少し意外だった。グルメ・ガイド的な俗流音楽批評とは常に一線を画してきた氏が、よりによって「楽しむ者に如かず」?*
で、驚いた。というか、もっと正直に言えば、なんとまあ偉そうなもの言いであることか……、と憤慨したのでした。でも今は、遅きに失したかもしれなけれど、その気持ちは少しはわかる気がします。でも、当時の若くて気鋭の音楽学者は、自負も気負いもあったのでしょうね。「楽しむ」ということを何やら軽薄なことのように捉えているのは、まだうんと若かったのに違いない。
音楽をただ聴き流すのではないのならば、聴く側に対しても、演奏家のそれとは違うとしても、姿勢としては同じような「真剣な取り組み」が求められる、ということなのだろうと思った次第でした。ただ、僕は音楽を分析的に聴くという習慣はなく、ただ感覚的な悦びを享受して楽しむだけなので(岡田さん、ごめんなさい)、仮に何か言及することがあったとしても情緒的なものに限られるのです。もし、分析的に、というか能動的に関わりながら楽しもうとしたなら、歌ったり、楽器を演奏したりすることが伴なわなければ無理のような気がします。
それに、最近は断定的な言い方や抽象的な言い回しが、ことさらに苦手になってきました。頭がいっそうバカになってきたのかもしれません。それで、もう少しわかりやすい言い方をお願いしますという気分なのであります。間髪を入れず「もう少しわかろうとしてくださいよ」、という声が聞こえたような気もしますが、よく聞こえません。
なんであれ、ほんとうに「楽し」もうとすると「真剣」に「取り組む」ことが求められるのは、わかっていたはずでしたが……。これからは、時々はもう少し真剣に向き合うことを心がけなければなりません。
ここはどこ?
近所を歩いていると、宅地が更地になっていたり、新築工事が始まる光景を見かけることが多くなりましたた。先日は、いつものコースとは違ったけれどよく通った道を歩いていたら、やっぱり同じような場面のいくつかに遭遇しました。経済が上向いたのか?はたまた、住宅建設をめぐる状況がいくらかマシになったのか?そうであるなら、めでたい。あるいは逆に、元の所有者が手放さざるを得ない状況が出来したのだろうか。ま、その辺りことも気にならなくはないのですが、何より気になることと言えば、いったい以前は何が建っていたかということ。全く覚えていないのだよ。綺麗さっぱり忘れていて、「元からこうでした」と言われたら、「ああそうでしたか」とうなづいてしまいそうなくらいです。思い出そうとしても、全然ダメで、想像もつきません(とほほ)。
もともと記憶力が悪いことはひとまず措くとして、ほんとうに何も思い出せないのだ。思うことと言えば、ああ奥にはこんな景色が隠れていたんだ。こんな建物があったんだということ。いかに、自分が住む街に無関心で暮らしてきたかがわかるばかりで、恥ずかしい(思えば、ずっとこういうことばかりです。ああ、恥ずかしい)。
とすれば、日頃から音楽を聴く時だって、もっと真剣に聴くべきなのかもしれない……。ところで、探していた本については、市立図書館にあるようなので、ここで借りることにしました。取り寄せ等時間がかかりそうですが、急ぐわけでもないし、ただの楽しみのために読むのだから、それで十分な気がしてきて…(むむ、やっぱり……!)。
* 新潮社HP 吉田秀和『之を楽しむこれを楽しむ者に如かずに如かず』
2023.01.28 夕日通信
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原点に帰って考える、生活を学び直す 01
番外編 未だ、行き暮れるばかりだけれど
先の日曜日には、久しぶりに本屋に出かけてきました(たぶん、今年になって初めて)。『BRUTUS』の特集が「机は、聖域」というので、これを買ってきた。ならば、『Casa BRUTUS』はどうかと思って探してみたら、こちらは「憧れの家づくり」。もちろん大いに惹かれましたが、今のところは刺激が強すぎるかも、と思い直してパスした。
壁面に映る影
いつだったか、大きな壁面に映る光と影を見ることができなくなったことがさびしいと書いたのですが、ついに見つけました。身近なところにありました。それも、うんと近くに。灯台下暗し。なんと、自身が住むアパートの側面。ここに電柱と電線の影が写り込んでいた。かつて楽しんだ木々と葉っぱのそれとは趣が異なりますが、これはこれでまた別の美しさがある、と思う。でも、やっぱり海の場合と一緒で、道路沿いなのでゆっくりと眺めて過ごすというわけにはいかないのが、ちょっと残念。
日曜美術館
このところの2日ほどは、続けて日曜美術館のDVDを見ていた。写真家のソール・ライターから始めて、画家の野見山曉治、熊谷守一、染色家の柚木沙弥郎、画家の不染鉄、そして最後に安西水丸。水丸を最後にしたのは、彼が他の5人よりもひと回りからふた回りほど若かっため(彼が亡くなったのはちょうど今の僕と同じ歳だったから、何と言っても他の先人たちよりは気楽さのようなものがあるのです)。
例えば、野見山と熊谷はいずれもが長寿(熊谷は97歳まで生きた。野見山は放映当時93歳、現在102歳でまだ活躍中)であることを除くと、対照的な気がする。野見山の抽象画は色を重ね年々複雑さを増すようなのに対し、熊谷の具象画はアジサイの花を2つの円で表すほどに、極限まで単純になった。野見山が2つのアトリエ*を精力的に行き来し、社会と生真面目に対峙して、「行き暮れているよう」だと言いながら、「どんなに遠ざかっても繰り返し繰り返し現れる形」の意味を考え、自身が描きたいものを探ろうとするのに対し、熊谷の方は、70を超えた頃からほとんど家から出ないで、あくまでも個人の嗜好に忠実に従い、向き合うことに集中して、ついには無我の世界に遊んで、飄々として暮らしたようだ。
一方、柚木は、創作の秘訣はと問われて、「うれしけりゃいんだよ。なんでも、面白いなあって」と、こともなげに答える(当時、95歳。現在100歳)。こちらも熊谷同様に身構えたところがない。そういえば、熊谷は「絵は好きで描いているんじゃない」、「遊んでいる時が一番好き」というようなことを言っていました。ただ両者ともが、その奥には生真面目なものを隠しているようでもあって、迂闊には近寄り難いところがあるような気もします(創作に打ち込む人は、たいていそうしたものかもしれない)。しかし、柚木は型紙を作るのにも、錆びたごく普通のハサミを使って、創作そのものを楽しんでいるように見える(弘法筆を択ばず。凡人はこうはいきません)。
他方、将来を嘱望されながら生前は必ずしも恵まれた画家人生とは言い難いような不染は、「芸術修行は 心を磨くこと」の境地で生涯を通して描き続けた。ライターは「雨粒に包まれた窓の方が、わたしにとっては有名人の写真よりも面白い」と言って、近所のごく限られた区域を歩いて写真を撮り続けた。ともに、世間的な名声を求めないがゆえの強さと美しさのようなものがあって、透明度が高い。
ま、各人各様ですが、いずれもが立派すぎて、お手本として真似しようとするのには恐れ多いのですが、皆「私が…、私が…」、「俺が…、俺が…」というところがない。見かけもずいぶん違うし、表現の方法も異なるけれど、対象を見つめる眼差しの真剣さは共通しているようだけれど、しかしこれ見よがしの深刻さの気配はまったくない(もしかしたら、一種の諦観のようなものかもしれないけれど)。これらのことも、先回書いた有名無名の人にも共通しているようでもあるのです)。
と言いながらも、学ぶことはたくさんあるのですが、僕の場合はそれがなかなか身につかないことに加えて、生産的なこと、というか誰かが楽しんでくれるようなことにつなげることが叶わないのが残念。ま、面白がってやっているうちに、身を結ぶことがあるかもしれない(あるいは、ないかもしれない)。いずれにしても、それまでは、せいぜい格好だけでも真似することにしようか。
そして、それとは別に、気分を晴れやかにするために、身なりを整えて、街に出かけなければいけない(でも、行くところがないのだなあ)。
* 眼前に玄界灘を臨む別邸(篠原一男設計)も羨ましい。
2023.01.21 夕日通信
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原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 13
もう一度好きになるために・大方針編
自分のやっていることを好きになることだ。まだそれを見つけていないのなら、探し続けなければいけない。安住してはいけない。(スティーブ・ジョブス)
今回はちょっと長くなるかもしれません。なんといっても、本年度の決意表明のようなものであります。
ラジオをつけっぱなしにしていたら、日本の映画音楽特集になった。はじめの曲は、伊福部昭の『ゴジラ』。まあ定番ですね。しばらく主題歌が続いたあと、渥美清が歌う『男はつらいよ』のメロディが聞こえてきた。僕は、『男はつらいよ』シリーズはちょっと苦手なところがあるのですが、
男というもの つらいもの
顔で笑って
顔で笑って 腹で泣く
腹で泣く
という歌詞は、今ならジェンダー問題に引っかかるのかもしれませんが、そうだよなあと思った。そして、このブログの極めて少ない読者からの感想がまったく届かないのは、もしかしたらこの気持ちが足りないせいなのか、弱音が過ぎて見るに耐えないからか。と、思った次第でした。いや、単につまらなすぎるだけなのか。
でも、たまたま耳にしたり目にしたものが、なんだかその時に自分と関係ありそうだと思えてきたりするのは不思議ですね。目にしたり耳にしたりしたものに影響されているのかもしれないけれど、それでも悪いばかりではない気がする。少なくとも、考えるきっかけにはなる。
改めていうのも変ですが、無職となってはや2年が過ぎようとしています。それなのに、未だになかなか慣れることができない。毎日の過ごし方がわからないまま、定まらないのです。そのために、やるべきことはたくさんあるのに、ぼんやりとしたまま、1日を過ごしてしまう。気ままに過ごせることが、悪い方に作用しているのです。もとよりなまけものの僕のことだから、職場が恋しいというわけじゃないのですが。
若い人たちの間では、倍速視聴(というのだね)が流行っていると聞いた。実は、なんだかなあと思っていた。もっとはっきり言えば、本当は好きじゃない人が手短かに知るための方便だろうと思っていた。これなら、何も今に限ったことではなく、昔もあらすじを紹介したものはあった。でも、大手広告会社でディレクターをしているという若い女性も、やっぱり倍速視聴をするときがあるという。まずは情報収集、流行を見極めるため、本当に好きなものはそうはしない。もう一つ、「空白の時間があるのを恐れるから」、と言うのだった(若い人たちは、うんと真面目なんですね)。
「えっ」。と、思った(「空白の時間が怖い」とは)。僕がそういう人と入れ替わったら(逆でも)、すぐに悶絶死してしまうのではあるまいか。
さて、ここからが、本題。
今年は、「新しいことに挑戦」してみる。これをテーマに掲げ、ぼんやりと過ごして変化の乏しい生活に喝を入れるべく、日々の暮らしに刺激と変化を与え、頭と身体をこれ以上ボケさせないためにも、取り組もうと思うのです(2023年の所信表明)。
左から有田、白薩摩、黒薩摩
これまでは、ぬる燗は黒薩摩、冷たい時は白薩摩。まあ、この程度のことは既にできているのです。ルーティンは作りたいけれど、それは使うものではなく、問題は暮らし方のほうなのだ。しかし一方で、慣習は打破したい。慣れた安心感は捨てがたいけれど、いつもこれに頼るばかりなのはまずい気がする(僕の場合、好きなものを愛用すると言うよりも、なんであれ、無自覚に同じものを手に取るだけということになりがちなのだ)。これからは、たっぷり注げる薄手でモダンな有田も、使うようにしなければいけません(ほかにも、まだある)。
音楽も、耳慣れたものばかりではなく、新しいものにもちゃんと向き合う。たとえば、オペラ。オペラやミュージカルが苦手で遠ざけていた(唐突に歌い出すのは、今でも慣れない)のですが、もう一度きちんと聴いてみようと思ったのです。いくつかDVDやCDは手に入れているのだけれど、なかなか踏ん切りがつかない。それで、玉木正之の『オペラ道場入門』の中にあった、ウエストサイドストーリーの歌をオペラ歌手たちがレコーディングする様子を捉えた、メイキングのDVDを手に入れることにした。ドキュメンタリー映画は好きなので、あんがい突破口になりそうな予感がする。
そのほかにも、ブログじゃない書き物は、ぜひ習慣化したい。ブログ用の文章だって、断片的なものが溜まる一方だ。そういえば、本も何冊かをつまみ読みすることが多くて、一冊を一気に読み通すことができない。たぶん、集中力と持続力が欠けているのだ(ま、古い本が多いこともあると思うけれど。いくらなんでも、忘れてしまったわけではあるまい)。外に出ることも練習しなくてはいけません。「人と喋らないとボケちゃう」のだそう。とすれば、新しい作品、ものとの関係においても同じだろう。他にもあるけれど、まずは、こういった暮らし方の基本(習慣)を確立しなければなりません。
村上レイディオによれば、村上春樹は今自分が書いているものについては、完成するまで絶対に口外しないということでした(カッコいいですよね。よほど自分の意志の強さに自信があるのでしょうね)。僕は無理、何にしろ外圧に頼らない限り、何もしないままぼんやりと過ごしそうです。だから恥も外聞もなく、こうやって書いておいて、いったん口にしたからにはやらないわけにはいかないというわけです(だから、たまには、どうなりました?と聞いてくれると助かるのであります。別に、褒められて伸びるタイプと言う気はありませんから安心して)。もしかしたら、外圧に頼ることからの脱却が先じゃないかと言う人があるかもしれませんね。
少し前にはようやく、書きかけていた小説(らしきもの)の続きをと不意に思い出して、書き加えるようになった(と言っても、こちらもまたごく少し。毎日1ページも進みません)、というような調子だったのですが、今はまた1行も進んでいないのです。コージー・ミステリーにしようと思って書き始めていたのですが、400字換算で100枚弱ほどになっても、事件が起きないのです(あらぬ方向へ行って、ヤング・ケアラーの話になりかねない)。さて、どうしたものか(朝方に、ちょっとしたアイデアを思いついたようだったのですが……)。
もう一度、短いもので練習するのか、それともミステリーは諦めるのか。いったん流れに任せて書いた後に、編集するべきなのか。いずれにしても、書かないことには始まらない。マット・スカダーの生みの親ローレンス・ブロックは、若い頃から「日々決まった分量をタイプしない限り、それが紙の上に残らない限り、何か学校をずる休みしている気分になる」と言って、実践してきたようです。わかってはいるのですが、これがむづかしい。何しろ、2代続く正真正銘のなまけもの。妹が小さかった頃に、病気で寝込んだ父に「こうやって寝たままうちにいるのと、仕事に出かけるのと、どっちがいい?」と聞いたときに、父は即座に「この方がいい」と言ったというのだから筋金入り。僕は、その部分だけはしっかりと受け継いだようです。しかし、僕よりはずっと真面目に仕事もしたようだし、学生の時には懸賞小説で稼いだこともあったらしい。なかなかうまくいかないものですねえ。
いつの間にかまた、余談めいたことになってしまいました。今回は、ここまでにします。冒頭のジョブスの言葉は仕事についてのものですが、生活についても変わるところがないはず。いまの暮らしぶりをなんとか立て直さなけれなりません(まるで、若者のようですが。実際のところは、いったいどうすればいいのだ!今こそ、『見るまえに跳べ』ということだろうか)。「狼少年」ケンにならないように気をつけなければなりません。
2023.01.14 夕日通信
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散歩の途中で思うこと 03
不思議
この辺りでは、年末からこれまで素晴らしい天気が続いています。散歩するにはうってつけの日々(でも、ちょっと風邪気味)。
少し前の新聞によれば、80歳を過ぎ、5臓を摘出してもなお活躍する安藤忠雄は、毎日1万歩を歩き、昼休みは1時間、本を読むらしい。しかも、世界中で仕事をしているのですよね。驚くばかりです。その気力、体力、そして時間は、いったいどこから生まれているのだろう。立派ですね、うらやましい限りです。
さて、ふだんは朝散歩するのですが、ある日の夕方にちょっと離れたところのパン屋さんまで歩いて行くことにしました。道も違うので当然といえば至極当然なことですが、朝とは違う景色があって楽しい。幹線道路沿いの家と家の間から覗く景色さえもが輝いて見える。もちろん(というのも変な気がするし、残念なのですが)、街並みや家々そのものがというのではなく、山の紅葉や夕日を受けて黄色みを帯びた景色全体の色がとても美しいのです。もちろん、空に浮かぶ雲も同様であることは言うまでもありません。
これからは、時々、夕方にも散歩することにしよう。そうすると、安藤の1万歩には及ばないまでも、7〜8,000歩ほどにはなりそうです。1万歩のためには、景色に加えてもう一つ魅力的な何か必要かもしれません(たとえば、気軽にビールが飲めるカフェとか)。
先回にもちょっと触れたことだけれど、昔、学生たちに狭くても自分の庭があるのと、自分の庭はないけれど外に出れば広い共有の庭があるのとどちらがいいかと聞いたことがありましたが、その結果はもうご存知の通り、断然自分の庭を持ちたいということでした。
まあ、わからなくもないし(日本の公園は魅力に欠けるばかりではなく、いろいろと制約が多すぎるようです。ただ、川本三郎の本を読んでいたら、東京には無名のいい公園があるらしい)、テント好きの身からすれば自分の庭が持てればそれはそれで嬉しいのですが、ちょっと違う考え方をするようになりました(というか、そうしないとやっていけないということもあるのですが)。
すなわち、自分でなんでも所有しようとしないで、外にあるものを楽しむようにしようと思い直したのです。そうしたならば、とても理想的とはいえない状況の中でも、気持ちの持ちよう次第であんがい楽しめるのではないかと考えたのでした。今の時間を楽しむためには、そうしないわけにはいかない気がするのです(ま、うんと時間のある人にとっては、きっとまだ関係ないことですが)。で、広い共用庭を楽しむように心がけるというわけです。
遠くに見える海
実際のところ、僕は海を見ることのできる家にひとかたならぬ思いを抱いているのですが、これを手に入れることが叶わないことを嘆くよりも、見たいときに見える場所に出かければいいというわけです(まあ、これも色々と制約がありますが。たとえば、ビールを飲みながら眺める、というわけにはいきません)。
なんのため?
なぜ?
どうして?
以前に、個々の住宅については触れないと書きましたが、早くも撤回(某有名デザイナーか、はたまた有名アニメ監督のようですが。いや、どこかの国の首相か)。散歩していると、時には(たいてい)、変なものを目にします。これが、けっこう楽しみでもあります。たとえば、何の役に立つのかわからない段差解消スロープや、駐車場の真ん中に設けられた花壇、あるいは互いにずらして配置された門柱等々。これらは、自分がデザインするならと想像すると面白いし(あんまり生産的じゃないことは変わりませんが)、何より僕にとっては変だけれど、これを作ろうと考えた当の本人にとっては何かしらの必要性や楽しさがあったに違いないのだから。
通れません!
それでも、中にはちょっと迷惑、というようなものもあるけどね。
2023.01.07 夕日通信
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原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 12
AV機器の入れ替えを検討する
今朝の新聞に、磯崎新が亡くなったことが載っていた。91歳だっという。僕の最初のアイドル建築家だった。
ある朝のこと。コンロをつけようとコックを回したら、パチッパチッという音がするだけで火がつかなかった。何回かやっても、音がするだけで一向に炎が上がらず、ガスの匂いがするだけなのだ。煮こぼれしたことが悪さをしたのかと思ったけれど、念のために電池を取り出して残量を測ってみた。赤が最も光っているけれど、緑もついている。電池を戻してもう一度つけてみる。やっぱりつかない。電池切れに違いないと思って、急いで買いに走りました。それにしても驚くのは、単1電池の大きさ。大きいだけでなく、ずっしりと重いのだ。ふだんはせいぜい単3までだから、段違いの大きさ。なんでもコンパクトになっている中で、珍しい存在。そういえば、その前のコンロは電池は要らなかった。ま、手間を惜しむのではなく楽しむという気持ちにならなければいけません。
さて、以前に書いたようにAVのうちの映像関係の機器の一部を入れ替えようと思って、先日某専門店に相談の申し込みをした。申し込んだ日が定休日2日のうちの初日だったせいで、なかなか返事がこなかった。定休日明けに電話がかかってきたのですが、結論を言うと体良く断られた。先方に悪気はなかったと思いますが、予算が全く合わなかった。たとえば、プロジェクターは30万円以上のものしか置いていないのです、と言う(それより安いものは扱わない、とはさすがに言わないのですが)。ちょっと残念。でも、おかげで、どうしようかということを改めて考えた。すると、そのうちにだんだんと、このままでいいかという気もしてきた。
現在の機器類
AVアンプのリモコンの調子やら何やら不具合があって、いろいろと手間がかかるのだけれど、音が出ないわけじゃない。昔オフィスで使っていたものを流用したセンタースピーカーとフロントスピーカーのメーカーが違っているので、これも変えた方が良いのだろうとも思うけれど、取立て変な音でもない(ような気がする。少なくも聞くに耐えない音ではない、と思う)。時々、ちょっとぼんやりとして、聞き取りづらい時があるように思うのは、加齢によるものかもしれない。
映画は音よりも画面の大きさが効くし、大画面で観てこそと思っていたのだけれど、プロジェクターが使えなくなってからは、映画もテレビ(50インチ)で見ることにしてきた。ま、幾らかの不満、というか物足りなさを感じないでもないけれど、昼間でも見ることができるし、セッテイングの必要がなく手軽なのは良い(昼間にプロジェクターを使おうとすると、真っ暗にすることができるならいいんですが、これは簡単じゃありません)。今しばらくは、吉田秀和の言葉に頼ることにしようかしらん。たしかに、機械は立派な方がいいかもしれないけれど、それでなくちゃ楽しめないというわけではないのだ。
でも、これらのことは人それぞれ、違いがわかるかどうかは別に憧れたものを手に入れようとするのは悪い考えとばかりは言えない。それはそれできっと得るものはあるはず、とも思うけれど。
このままでもいいのか。浮いたお金を、他の分に回すともっと楽しいのだろうか(と、言うほどもないけれど)。残りの人生を楽しく過ごすために、考えなくてはいけません(ものに頼らざるを得ないというのが、ちょっと引っかかります)。
たぶん、AV機器に限らず何においてもこれでなくっちゃ、という強い気持ちが僕にはないまま過ごしてきたのだ、これが我が人生の真実(と思えば、やっぱり寂しい気がしてしまうけれど)。もはや背伸びするのは、文字や言葉の世界くらいにとどめておくのがいいのかもしれない。
この頃は、声楽に目覚めつつあって、少しずつたとえばバッハのカンタータやら何やらを聞いたりしているのだけれど、本当に演奏家によって違いますね。僕がCDで聞いているガーディナーのもの(アルヒーフ版、1990年ドーセットでの録音)は、ずいぶん速い。それぞれの個性を楽しめばいいってことか。
ま、何が幸いするかはわからない。様々な分野において、間違いから生まれたという逸品も少なくない(たとえば、ブルゴーニュのお菓子クイニーアマン、燕三条の銅器の紫金色、等々)。
ともあれ、ものを増やさず、あんまり減らしもせず、ものが過度に少ない空間の美しさではなく、高級なものでもなく、でも好きなものに囲まれながら、雑然とは見えないような空間を目指したい、と思うのであります(一足先の、新年の所信表明)。
新年のご挨拶
1年間お付き合いしてくれて(果たして存在しているのか)、ありがとうございました。楽しく大晦日を過ごして、良い年をお迎えください。少し早いけれど、新年のご挨拶も一緒に。
* ただ、先日手持ちのモバイルプロジェクターを試しにつないでみたら、やっぱりよかったのです。しかし、モバイルのものを使おうとすると、ちょっとした問題がある。暗いし、ピントも甘い。何より、適切な場所に置こうとすると、台が必要になり窮屈なのです。
* こちらは未だ、急ごしらえの試作のまま(誰か、ポチッとする人はいないのだろうか)。
読んでくれて、どうもありがとう。
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2022.12.24 夕日通信
散歩の途中で思うこと 02
隙間の誘惑
いよいよ冬らしくなってきました。一時は小春日和が続いていたのに、僕が住むこの辺りの最低気温は0度をわずかに上回る程度、最高気温も10度に届かないという日があって、日中も風を受けると寒いと感じるような日が増えた。
ピンクの葉っぱ
冬が深まるにつれて、花もだんだん少なくなってきます。ちょっと、寂しい。それでも、水仙や、とくにパンジーの類は色とりどりで元気がいい。でも花はなくても、その気になりさえすれば先日にも書いたように、葉っぱだけでもじゅうぶん楽しめます。紅葉のすすんだ木々の葉っぱとか、落ち葉とか、山々の景色とかね。他にも探せば、色々あります。例えば先日は、こんなものが見つかりました。よく見ると、石垣を背に伸びている枝の先では、1枚ではなく、2枚のピンクの葉っぱが寄り添ってハートの形を作っています。ちょっとロマンティック(ま、関係ないですけど)。
まっすぐ抜ける視線
曲がった先は何
これも以前に書きましたが、散歩の途中で目にする住宅(の形態、形式)の場合、残念ながら個々について言うなら、住みたいと思うようなものは見つかりません。しかし、その2つに挟まれた空間、すなわち隙間には思わず入って行きたくなるものがあるのです(もちろん、そこはいちおう大人なので、ぐっと我慢しますが)。まっすぐで向こう側が見通せるものもあれば、ちょっと折れ曲がっているためにそうでないものもある。いずれもが、それぞれに魅力的です。前者はいったん絞られて引き伸ばされた視線を一挙に解放するような爽快感があるし(欲を言えば、向こう側がストンと落ちて遮るものがないと、さらに理想的)、後者はその先に何があるのかという期待感を抱かせて楽しい。
でも、見る限り、たいていの場合は塞ごうとすることが多いように思います(この間取り上げた、エアコン室外機の取扱いなどのことについては、あんがいその限りではないようなのですが)。ま、わが国の伝統と言えば、そうなのですが。
それにしても、今の時代にあって、戸外生活が貧しい(というよりも、楽しもうとしない)ように見えるのはなぜなのだろう。
たとえば、その外観が一目でそれとわかるようなスペイン風の家であっても、そこにパティオはない。すなわち、住戸内の生活の延長としての戸外生活というものに対する関心が乏しいようなのだ。もちろん、庭への関心がないわけではない。それぞれの庭には様々な植物が植えられているし、おおむね多くのところでは手入れもされているようです。何年か前に、若い人に訊いた時も、自分だけの庭が欲しいという人が断然多かった。
日本の町の中に散在する小さな公園の貧しさ(と呼んで差し支えない、と思う)も、もしかしたらこの故ではないか、と言うのは乱暴すぎるだろうか。その多くの場合は緑が少なく、舗装されている部分が多い。要するに、手がかかっていないのだ。空き地があればいいだろう、くらいの気持ちで作られたのではあるまいか。もちろん、予算の制約が大きいにしても、もう少し知恵の絞り方があったのでは、という気がしてしまうのです。たぶん、維持するための手間や費用のことを考慮したせいだろうと思いますが、その結果として、結局はほとんど人が寄り付かないものになったのではないか。ちょっと、もったいないね。
もちろん、これに関わる人々のデザインする力が足りないわけでもないだろうから、もう少しの工夫でうんと良くなりそうです。しかも、もう何年も前からオープンカフェなんかはずいぶん増えているし、これを楽しむ人は多いのだからと期待するのですが、やっぱり「あれはあれ、これはこれ」ということなのか。
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2022.12.24 夕日通信
原点に帰って考える 我が家の惨状からの脱出 11
物欲が再燃!
いまのところは、どうしても新しくしなければ困るというものは、ない。プリンタのインクのような消耗品の類のいくつかは別です。すぐに無くなってしまうし、あんなに高いのはどういうわけだろう(あ、インクのことです)。
それにまあ、これから物を増やしてもという気もしていたこともある。
そんなわけで、つい最近まで新しく買ったものはほとんどなかった。靴下さえも。ただし、本は別。しかも、同じ本を買ったことが何回か(とほほ)。
ところがいつだったか、残された時間を楽しむようにしなければ、と思ったのだった。そのためには、自分の好きなものがそばにあるというのが役に立つ。
そんなふうに思ったならば、好きなものはたくさんあるが、身の丈にあったものでなくてはならない(もちろん年齡のこともあるし、何と言っても無職の身なのだ。この層に対しては、国もだんだん冷淡になっているようだし)。その限りにおいては、我慢しすぎないのが良い。
例えば、海が見える家というのは好きなもの、欲しいものの筆頭だけれど、いまはちょっと無理のよう(残念!)。
パソコンあたりから現実的な範囲に入ってきますが、これは現在使用中のパソコンが時々調子が悪くなることがあるので、必要性もないわけじゃない。このほか、BKFチェア、プロジェクターやセンタースピーカー等ホームシアター関連の機種の入れ替え、カメラ(もちろん小型のデジタルカメラで、デザインのいいもの)等々、日々の生活を活気づけてくれそうなものが、次々に浮かんでくるのだ。
鉄製と銅製の新旧の卵焼き器*
でも、第1は調理道具と食器ですね。先日はステンレスのポトフ鍋と銅製の小さな卵焼き器を買った。そしていまはと言えば、練達の職人が一つずつ何回も手で叩いて打ち出した槌目が美しい雪平鍋に惹かれているところ。そのほかにも、ローゼンタールのスタジオライン の中のジャスパー・モリソンのスープ皿とディナー皿(長尾智子が、知る限り世界一美しいスープ皿と評した)、デュラレックスのちょっと大ぶりのグラス(美しいし、気軽に使えるのがいい)も。
これらは、いずれも、実用性を備えたアート作品のようでもある。ついでに、英国製のシンプレックスのケトルを思い出し、大いに惹かれたのですが、空焚きしてしまいそうだし(これまでも、昔にコンランのハビタで買ったものや柳宗理、野田琺瑯のもの等々いくつもダメにした)。それでも、念のためにと調べてみると、うんと値上がりしていて、もはやとても手が出せる値段じゃなくなっていました。それに、ちょっと大きすぎるようでもあるしね(ま、半分は負け惜しみ)
ステンレスのポトフ鍋は主にパスタ用(これより大きい鍋も持っているのですが、いずれもちょっと取り回しが厄介)。本当は専用の鍋があればいいのだけれど、大きいので置く場所や洗うときに困るのです。ジャスパー・モリソンの皿も、パスタや煮込み料理を少なめに盛ると良さそうなのだ。早く、合羽橋その他に出かけなければいけません。いまは美術館よりもこちらが先。あ、ついでに三菱1号館あたりに寄った後に銀座でランチというのもいいかも(ただ、一人というのでは、ちょっと非日常の愉しさには欠けるきらいがあるのは否めませんが、まあ仕方がない)。
料理をするときはもちろん、眺めても嬉しいだろうし、同じ料理を盛り付けても喜ばしくおいしく感じるだろう。だから、日々の生活に彩りを加えて、楽しくなるに違いないと思うのです。
ただ、好きなものは死蔵しないで、使ってこそ価値が増すというもの。だから、使わないときにはできるだけ目に触れるよう、収納にも気を配らなければいけません。ということは、やっぱり片付けが先ということか(やれやれ)。掃き溜めに鶴というのは、嬉しくない。
* これまでの安い鉄製のものも案外上手く育ったのですが、これからは小さなものを焼くときに活躍してもらうことにして、卵焼きは新らしい銅製の卵焼き器にまかせることにしよう。そのためにはまた、しばらく手をかけて、育てなければいけませんが。
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2022.12.17 夕日通信
旅の途中で考えたこと
特急『リレーかもめ』号の怪
先日は、久しぶりに遠出をしてきたのですが、びっくりしました。電車、駅、空港、飛行機、どこも人がいっぱい。コロナ前とほとんど変わらないほど、混んでいた。
今年9月に開通した西九州新幹線の始発駅となった駅は、見違えるほどに変貌していた。より明るく、より広々として快適。お土産を売っているところも2箇所に増えて、レイアウトも洒落ている。素晴らしい……。でも、ちょっと残念な気持ちもあった。どこの駅かわからない、全国の中小の駅のどれであってもおかしくない気がしたのだ。さて、これがいいのかどうか……。
博多からは西九州新幹線が通じていないから、特急『リレーかもめ』というのに乗ることになった。これまたびっくり。ホームに入ってきたのを見た時には、思わず目を疑いました。丸みを帯びたその形と白い色は以前から長崎行きで使われていたものと変わらない。ただ、車体のところどころに、ローマ字とともに毛筆で書いたような「かもめ」の文字が大書きされているのだ。いったい、どうしたのだろう。
帰りも行きの時と同じく『リレーかもめ』号、ただ今度は車体の色が変わっていて、こちらは黒(これはもともと鹿児島本線を走っていた特急『つばめ』を流用している)。中へ乗り込むと、以前乗ったことがあるし、ここでも触れたことのあるヨーロッパでよく見たコンパートメント風(セミ・コンパートメントと呼ぶらしい)の席が現れた。やったと思って自分の席を探して進むうちに、通り抜けてしまい(なぜか1両が2室に分けられているのだ)、目の前にはごく一般的な席が並んでいて、ちょっとがっかり。荷物を上に置こうとしたら、網棚がない。その代わりに、足元が広くなっていた(これはこれで、座る身には快適)。しかし、荷物の底は汚れるから、タクシーの白いカバーを汚してしまわないか心配になる(JALは不織布のカバーをくれました)。
コンパートメント席に座れなかったのは、車内放送でマスクの着用と向かい合わせにして座らないようにと言っていたのでそのせいなのか、はたまた少し割高に設定されていたりしているのかと思ったりしたのだったが、やっぱり座りたい。で、車掌さんに訊くことにした(でも、何回も通るのだけれど、訊く間もあらばこそ、なぜかさっと行ってしまうのだ)。で、思い切って呼び止めて、訊いてみた。
すると、値段は変わらないし、お客が来ない限り座っていいと言うのだ。早速、移りました。やっぱりいいなあ。移動しているというより、旅行をしているという気がしてくる(言うまでもなく、気分は極めて大事)。
セミ・コンパートメント
もう一つ不思議なのは、中央にテーブルがあることによって、向かい側に座る人との一体感が生まれたり、逆に区画された感じになるのと、どうやらふた通りの効果があるように思えるのです。すなわち、相手との関係次第で、距離感が異なるのだ。面白いねえ。でも、いったいどうしたことなのだろうね。
それにしても、なぜこのタイプをもっと採用しないのでしょうね。特別感もあるし、他の特急と違う特徴にもなるのに(いっそ全てをこのタイプにするのもいいかもしれない)。しかも、同じ路線を走る特急には3種類あるのだよ。先に挙げた2種の「リレーかもめ」の他に、もともと佐世保線で使われていた「みどり」というのがあって、こちらは角ばった形でステンレスの車体の一部に緑と赤が着色されている(これが、一番ふつうで、特別感がまったくない)。ちょっと、ひどい気がするね。
ところで、以前に書いた近所で建設中だった平屋の独立住宅に設置されていた室外機の囲いのことですが、たしかに板が2枚、間隔をあけて貼ってありました(したがって、室外機はほとんど丸見えのまま。不幸にも、その時に思ったことを裏付ける結果となったようです)。
今回は、Nice Spaces というより、Not Nice Spaces についてという方がふさわしいものになってしまいました。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.12.10 夕日通信
原点に帰って考える 我が家の惨状からの脱出 10
小手先に頼る
片付けたと思ったらすぐに散らかって、また同じところを整理するという具合でなかなか進まない。1回片付けたら、2度と散らかさないように、出したものはしまう、使ったらその度に必ず元の状態に戻すということを習慣づけなければなりません。わかってはいるのですが、言うほど容易いことじゃないのだよ。我ながら情けない(とほほ)。
廃品利用のスタンドライト
で、少しでも気を紛らわそうと、うんと昔に空き缶とソケット、そして和紙を使って手作りしたスタンドライト(円錐形に巻かれたシェードが欲しかったのだ)に、シルキークリスマスのイベントで作成した球形のカバーをかけてみた。ソファの横に置いたが、案外(間に合わせとしては)悪くないと悦に入っているところ。こういうことに喜びを見出さないとね……。
プラダンの衝立
その前には、台所とリビングを分けるカウンターに置いたオーブントースターの背面を隠すために、プラダンを立てた(それだけでは寂しいので、支えのブックエンドを隠すことを兼ねて『男と女』の時のアヌーク・エーメの写真を貼った)。
ところで、これに限らずたいていの家電製品は背面が見られることを意識していないのはなぜだろう(たとえば台所は、だんだん開放的になってきているのに)。ジョブスが言ったように、日本の職人たちは見えるところのみならず、見えないところまで気を配ってものを作ってきたはずなのだけれど(でも、これももはや遠い昔のことなのかもしれません)。
テーブルの上の小物を隠そうとして設置した、ミースとコルビュジエのいる衝立も同様。
本質的な解決にはなっていないのです。重々承知しているのです。なぜこういうことになるのか。もしかしたら、根本的な欠陥があるのではないかと、ちょっと不安になります……。
他にも、袋が掛けられなくなったゴミ袋ハンガーには受け皿(?)がついていたので、逆さまにして受け皿を上に置いて、トランクを載せるバゲッジラック(と言うようです)のようにして、明日着る服を畳んでおくようにしてみたり(なんだか、みみっちいことをしているような気になったりもするのですが、……)。
次回の定期掲載日の土曜日は事情があるため、ちょっと早めに短いものを掲載することにしました。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.11.26 夕日通信
散歩の途中で思うこと 01
街の景観について、ひとつふたつ
このところは毎日近所を歩いていることはすでに書いた通りですが、目にする住宅は百花繚乱。和風、洋風、そして折衷、さらに屋根の形や日本瓦やスペイン風のものから平らなスレート瓦があり、外壁も色や材料は様々。外観は、一つとして同じものがない。ごく稀に、建売住宅と思われるものが並んで建っていることがあるけれど、これも屋根の形やバルコニーの付き方等が少しずつ異なっている。しかも、例えば日本瓦を載せたた和風住宅のそばには平瓦の洋風住宅があるといった具合で、隣り合うもの同士ほとんど共通点がないようなのだ。何れにしても、隣との関係や景観を意識して建てられているとはとても思いにくい。
良くも悪くもこれが我が国の一般的な住宅地、いや都市全般の有り様の現状なのだろうという気がします。好みを言うなら、いいなあと思うようなものはなかったけれど、でも、不思議なことにそんなに嫌な気もしない(中には、えっこんな色で塗るのか、というようなものもありましたが)。もう見慣れてしまったということなのだろうか。
公園の眼前に広がる風景
ウロウロと歩き回っていたら、少し切り立ったところにある小さな公園に行き着いた。そこから見る景色は、彼方に見える海はいいいいのですが、眼下に広がる民家の屋根の景色はいいとは言い難かった。すぐ眼前のマンションの屋上は、何の工夫もなく、醜い姿をさらしているだけ。これに限らず、こんな場所にというところで遭遇する公園は、たいていつまりません。空いたスペースの平らなところに、遊具とベンチを適当に配置しておしまいというのが多いようだと思わざるを得ない気がしてきてしまうのです。たぶん、使われたときの情景を想像していないのではあるまいか。でもこうしたことは、公共的なものか私的なものかを問わないようです。珍しく平屋建ての住宅が建設中だったので、気にして見ていたら、エアコンの室外機2台がむき出しで道路際に設置されていました。やっぱり、自分のうちの中から目に入らないものは気にしないということなのだろうか(その後に、室外機とほぼ同じ高さの支柱が立てられていたので、低い塀が巡らされるのかも)。
空中を横切る電線
ところで、住宅地の景観といえば、僕も、イギリスで住宅地のすっきりとした美しさに見入って感心したことがあります。と言っても、特に有名な地区でもないし、建物自体も取り立てて立派なものではなく、むしろ質素なもの。だけどそこには、日本で見慣れたものがなかった。そう、電柱と電線がなかったのです。それで、ずいぶんすっきりして見えた。一方で、その悪名高い電信柱と電線も、鬱陶しく感じるのですが、その反面、美しいと思う瞬間があると書けば、正統派の景観論者にあっというまに糾弾されそうですが、青空とこれを横切るピンと張った電線が作り出す景色が綺麗だなあと思ったりすることがあるのです。また、電柱が一定間隔で並ぶ様や電信柱の上部の造形や鉄塔も、美しいと思う時もある。
夕方、外を眺めていたら、向かいの建物に夕日が当たってあかるい黄金色に輝いてとても美しかった*。そういえばこの時間帯のことを黄昏時と言ったりもする。ここに黄という文字が使われているのはなぜだろうと思った。そこで、ウィキペディアを見てみると、
「たそかれ(たそがれ)」の語源は、「誰そ彼」である。
薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく、「誰だあれは」という意味
「黄昏**」は当て字で、本来は「こうこん」と読むとあった(語源由来辞典)
とあった。漢字の方はよくわかりませんが、黄を当てたのはやっぱり光が黄色みを帯びるということがありそうに思うのですが、どうでしょうね。ともあれ建物自体はどうってことはないし、おまけにこの場合はすぐ目の前の太い電線が邪魔だが、色合いがとても綺麗だと思ったのだ。念のために家の外に出て見たけれど、うちから見るよりよく見える場所はなかった。でも、美しい時というのはほんの束の間。あっという間に、ただの灰色になってしまった(秋の日は釣瓶落とし)。
街の景観は、単に統一性があるとか、質の高い建物で構成されているとか、余計なものがないといったことが満たされたものだけがいいというわけではなく、それとは別の美しさというものもありそうな気がしたのでした。
個々の住宅のデザインについても、いちおう僕なりの意見はあるのですが、写真を添えるのはプライバシーのことがあるのでちょっと憚られるし、写真なしで語るのはちょっと手に余るのです。ただ、庭があって花木が植えられているのはもちろん、テラスも見えたりするのですが、内部空間の延長としての外部空間での生活は考えられていないというか、ほとんどなされていないようです。これも、うちでの生活は人に見られたくない、家にいれば外の社会とは関係のない、全くの私的空間であるとする、日本人の暮らし方によるものだろうか。
* 前回、朝の写真とともに掲載しました。
**『黄昏』という映画(ヘンリーとジェーン・フォンダ親子の方)を思い出したので、探して見たのですが、これも見当たりませんでした。ないと、いっそう見たくなります(不思議ですね、ないものねだり?)。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.11.26 夕日通信
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 09
番外編 日の光がもたらす四景
朝起きて窓辺の机に置いていたコップをみたら、小さな黄色い花が咲いていた。小菊に似た花で、花は摘んで来て水切りをしていけた後にすぐに枯れてしまったが、蕾をつけていたので水だけ換えながらそのままにしていたら、ガラスの中の蕾が数日後に花をつけたというわけ。ちょっと嬉しい。ただ、芙蓉の方はうまくいきません。
眩しいコルビュジエ
朝は、太陽の位置が下がったせいで、部屋の奥まで日が届く(冬が近づいてきたことがわかる。今年も秋が短かかった、というか季節の変わり目がわかりにくくなった気がする)。テーブルの上にも細い光と陰を作り出して、素敵だ(教科書に背いて、真ん中の部屋にあるために、夏は日が届かない)。僕は、馬鹿の一つ覚えのようですが、こうした光と陰のコントラストが作り出す景色が好き(光を浴びて眩しそうなコルビュジエと同じ、たぶん)。
谷崎の言う、「陰翳」を愛した日本の伝統とはちょっと違うようです。なぜだろう。母方の祖父母の家は大きな藁葺き屋根が架けられていて、土間も、通り抜けた先の居室も薄暗かった。一方、小・中学生の頃を過ごした家は小さなアパートだったから、日差しがたっぷり入ったのではあるまいか(ほとんど覚えていないのです)。
棚の上で移動する光
反対側の窓の方に目をやると、棚の上部が光っている。日は射さないはずなのにどうしたことかと思って色々と目をやり、手をかざしたりするうちにわかりました。対面する棚の上に置いた額装したポスターを覆うプラスチックのカバー、これに反射した光を受けたものらしい。しかも、古くなって平滑性を失い、うねっているために複雑な模様を生み出すことになって、なかなか面白い。
しかし、太陽の動きは夕日のそれと同じで、とても素早い。日の光のあたる場所はすぐに変わるし(コルビュジエの隣のミースがすぐに眩くなった)、作り出される模様も変化してしまうのだ。前もって準備していないと写真を撮るのには向かないが、眺めていると楽しい。今は、周りに日が当たる大きな壁面がないので寂しいのですが、こういうことがあるとちょっと嬉しくなります。
朝日を受けて輝く建物
黄昏の中で光る建物
外を眺めてみると、遠くの建物が光っている。夕方も同じようなことがあるけれど、こちらが黄金色に輝くのに対し、朝はそれよりやや白い光を受けて、少し趣を異にするようだ。写真でそれが出ているものかどうか(何しろ10年ほども前のごく普通のコンデジだし、これを補う技術もない。『デジカメはオート+プログラム主義で撮るべし』という田中長徳先生の教えをずっと頼りにしてきたのです)。
朝早く目が覚めたら、たいていはもう少し布団の中にいようと思うのですが、思い切って起きた時に、こうした場面に遭遇するとちょっと得したようで、なんとか1日を乗り切れそうな気がしてきます。当分の間は、こうした小さな喜びに頼るしかなさそうです。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.11.19 夕日通信
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 08
飾り棚をしつらえる 3
このところは、毎朝散歩の時に花ばさみを持って出るようにしている。というのは、もちろん道端に咲く花を摘んでこようというわけです。先日の芙蓉以来、テーブルの上には毎日花があります。で、ある時不思議なことに気づいた。濃いピンクのオシロイバナでしたが、ガラス瓶の中の花が閉じたり咲いたりするのだ。食卓のある場所は、朝以外は日が差さないから、照明をつけない限り暗くなる。それで花は閉じるようなのですが、しばらく点灯しているとまた開くのです(ちょっと面白い)。それで、念のためにと思って水を入れ替え、蕾のついた茎を生けておいたら、何日か後に花が咲いたのでした(これには驚いたな。今度、芙蓉の蕾で試してみようか)。ちょっと形を変えようとして花びらに触れると、たちまちひらひらと落ちてしまう花もある。
さて、今回は「飾り棚」シリーズの第3弾。ふだん使わない折敷があったので、これを使って床の間の原型を再現してみようと思いついた。もともとのスチール棚に置いていた木の板を押板に見立て、折敷を小さな台とする。そこに三具足(みつぐそく。花瓶、航路、燭台*)を飾ろうというものです。この小さな台のことをなんというのか調べようとして本を探したところ、持って帰ってきたはずなのに見つけられなかった(やれやれ)。この卓(というようでした)には高さがないといけないので、食器棚を整理していた時に出てきたお碗を脚に使うことにした。なぜ家にあるか分からないのですが、正直なところ気に入ったものではなかったので、奥の方に隠れていた。
このところはこうした小さな作業ばかりを数時間ほど、なかなか抜本的な解消には至りません。作業をやり続けることができないのです。でも少しずつ、毎日やるのが肝心と言い聞かせています(もうお馴染みの「大盛り焼きそば理論」)。燭台もろうそくも、別のところから出てきたもの(片付けていると、行方不明になるものがある一方で、いろいろなものが出てきます)。
卓を設置した
で、出来上がったのがこちら。はじめは花瓶も口が細くて高さのあるものとしようとしていました。花は近所の石垣の上に垂れ下がっている薄紫のランタナを。一本だけ摘もうとしてハサミを入れようとした時に、車のクラクションが鳴ったような気がした。まさか自分に対するものとは思わず、そのままハサミを入れていたら、またクラクションの後で声がした。振り向くと、車の窓から妙齢のご婦人が声をかけていたのでした。一瞬、咎められるかと思ったけれど、「一本だけじゃなくて、どうぞ」と言うのだった。どうやら、石垣の上の家の住人のようでした。恐縮して、訳を話すと、再び三度「すぐに増えるから、たくさんどうぞ」と言ってくれたのでした(ほっとしたけれど、ちょっとばつが悪かったな)。
家に戻るとさっそく水切りをして挿してみたけれど、予定していた花瓶は合わないようだったので、コスタ・ボダのグラスで代用することに。これと燭台がガラス製というのが、モダンに見えるかも(?)。脚に使ったお碗はやっぱり別のものに変えなくてはいけなかった(気に入らないものをなんとか再利用しようとしたら、やっぱり気に入らない、残念だけれど、間に合わせはたいていうまくいきません)。それでガラスのカップ(モロゾフ製)に変えてみたのですが、ちょっと大きすぎた(形はちょっとポストモダン風?)。マイユ製のものがちょうど良さそうなので、これが4つ揃ったらまた試してみることにしよう。豆皿には落ち葉を数枚足した。
*並べ方にも決まりがあって、左から順に、花瓶、香炉、燭台とするようですが、『慕帰絵詞』の床の間には香炉、花瓶、燭台の順になっています。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.11.12 夕日通信
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 07
テーブルランナーをしつらえる
もはや11月。すっかり秋らしくなりました。外気温も下がってきたせいで、9月に入った頃から長い間楽しませてくれた芙蓉(冬と春に2度も刈り取られたのに、短い期間で見事に復活したのだ)も、いよいよおしまい。蕾はつけているものの、花は咲ききれない日が増えた。
ある時、急に食卓にテーブルランナーを敷いてみることを思い立った。せっかくあるのだから使ってみようと思ったのだ(もったいない病ですね)。これまでも何回か試みたことがあったのだけれど、どうもしっくりこなかった。たぶん、長すぎたのが一番、それに幅もやや広すぎた(というのも、食卓が1500×750とちょっと小ぶりなのだ)。それでもなんとか工夫して、やってみようと思ったのは、気分転換のため(うまくいけば、何枚かあるはずだから、季節に合わせて変えるのも役立つかもしれない)。
テーブルランナーを敷いてみた
やってみたら、意外にもそんなに悪くないような気がしたのですが、さてどうでしょう(少なくとも写真で見る限りは。ま、写真は何倍もよく見えるのが常だけれど)。ただ、このせいで使い方は制限される、というかほぼ飲食のためだけに限定されるわけですが、存在感が増したよう。食卓自体はもちろんですが、その周りの空間を含めてそんな気がします。無職となってからは、飲食はもちろん、書き物までたいていこの食卓でやってきたのですが、2年目に入る頃からは窓際でやることが多くなった(文字通り窓際族)ので、特に問題はないはず、しばらく試して見ることにしよう。使いながら、不都合があれば元に戻せば良い。
こういうことをやりながら、あたりを改めて見直してみると、気づくことも少なくありません。しかし、それがいいことばかりではないことが問題。まずは、食器棚を整理しなくては……。そして埃を払わなくてはいけません(『八月の鯨』のリリアン・ギッシュ、当時90歳もそうしていたし、とあるパブのオーナーはお店のボトルを全部自分で拭くと言うのだから(やっぱり、毎日の基本的な取り組みが大事なのだ)。
紺のテーブルランナーの上に、芙蓉のピンクの花を置くと映えそうです(もう咲いていないかもしれないけれど)。明日の朝見てくることにして、もし咲いていたら、初めてだけれど持ち帰らせてもらうことにしよう。
テーブルランナーの上に芙蓉
と思っていたところ、幸い翌日は朝から晴れて暖かかったので出かけてみたら、ちょっと小ぶりだったけれど運良く咲いているのを見つけることができた。で、摘んで帰って、大急ぎで水切りをして、ガラスのコップに挿したのが上の写真。なかなか美しいと思ったけれど、どうでしょう(ミースもコルビュジエもつかの間、日本の芙蓉の花を楽しんだのではあるまいか)。
テーブルの上が散らかっていないと、気持ちがいい(できれば、テーブルの上からものを無くしたいのですが)。でも、これだけのことを維持するのも案外むづかしいのです。放っておくと、すぐにものが散乱してしまう。だから、食事以外のことがしにくくなったのはいいことなのかも。それでも、やっぱり散らかりやすいのですが(どうしてなのだろうか。ものには、僕には見えないけれど、手足を出して動き回る秘密の時間があるのかもしれない⁉︎)。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.11.05 夕日通信
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 06
飾り棚をしつらえる 2
散歩の帰り、坂道の先の方を歩いていた人が立ち止まった。僕よりもさらに少しばかり年配の男性のようだ。そして腰を折って、腕を伸ばした。ああ、植え込みの間から伸びた花を手折っているのだ、と気づいた。アパートの入り口の前の道路沿いのツツジの間からは、いろいろな花が顔を出す。今はアサガオに似ていて、小さなテッポウユリのようでもある白い花のほか、ピンクと黄色のちいさな花などいくつかが咲いていて、彼はこの花を持ち帰ったのに違いない。それから、僕はいつから花を飾らなくなったのだろうと思って、軽いため息をついた(もちろんお金のこともあるけれど、それよりも気持ちの余裕がないのだ)。
そういえば宮脇檀が〇〇よりも花を買って帰ろうと書いていたのではなかったかと思い出したけれど、〇〇がなんだったかわからなかったので、探してみた(こういうことが、むやみに気になってしまうのです)。すぐ手元にあった本の中で見つかったのは、やっぱり花を買わなかったという話*。入院している時にもらった花を見た時の幸福感を維持するべく、花いっぱい運動を決意するも、退院時に持ち帰った鉢も残らず枯らしてしまい、結局続かなかったというものだった(やれやれ。でも、大家と言えども同じだということがわかりました)。
しかも同じコラムに、「いや本当にポケーとしていると一日ってものすごく早く過ぎんですネェ。(中略)。何かした実感がないのに二日、三日アッと云う間に過ぎてしまう」、とあった。僕の毎日がまさにその通りなのだ。ということは、気持ちに余裕がないばかりか、入院しているのと同じってことなのか、と呆然(そんな場合じゃないのに)。
飾り棚にろうそくの灯り
飾り棚にろうそくの灯り Ver 2
さて、今回も前回に引き続き飾り棚のことについて。前回に課題としてあげた高さの関係ではなく、ボリュームのことを考えて少し試してみた。すなわち、左の蝋燭の方にもうひとつ、ずっと前に海外からのお土産でもらった、香りのための蝋燭を置いた。まずは、左側にこちら向きに置いてみたけれど、奥や前に横置きするのもいいかもしれないので、ついでに試してみたのが下の写真。小鳥の位置を変えて、香炉も右に寄せた。
全体に暗いので、灯りが欲しいと思ったのだけれど、電源がないので、とりあえず小さな蝋燭を配して灯してみることにした。でもちょっとあかるさが足りない上に、炎の高さも不足(無印のものですが、どうしてかすぐにこうなってしまう)。これを、もう少し高さのあるものに変えてみるのもいいかもしれない(上の板に炎が当たるとまずいけれど)。これは次回以降の課題。
今回試したものは小手先のことで、前回のものとほんのわずかな違いしかないし(でも、楽しい)、抜本的な解決からの逃避のような気がしないでもないのですが、まあできることから。それに、『神は細部に宿る』と言うし(負け惜しみです……)。ま、少しずつ。完全を求めて躊躇するよりも、家の中を片付けるという大問題にはほとんど関わらない小さなことでもやる方が、まだマシなのだと言い聞かせているのです。
*『住まいとほどよくつきあう』新潮社、1986年
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.10.29 夕日通信
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 05
飾り棚をしつらえる
ここ数日は、それまでとは打って変わって素晴らしい秋晴れが続いていますね(今日、土曜の朝はあいにく雲が多いけれど、これから晴れ間が出る予報)。文字通り雲ひとつない青空の日があったり、薄い雲が浮かんだり。空気は澄んでいるけれど、さほど冷たくもなく、日差しは暖かで気持ちがいい。
一方、その後の片付けがいっこうに進まない。ぼんやりとしているばかりで、起きてから食べて寝るまでの間は、音楽を聴いたりちょっとした書き物をしたり、たまにDVDを見たりなどしていると、何にもしないうちに1日が終わってしまう(おまけに、朝はなかなか起きられないし、昼間はすぐに眠くなってしまう)。これは歩かなくなって、体力が落ちているせいだろうか。それも無気力になっているのか(いうまでもないこと?刺激もないしね)。おまけに、むやみに情緒的な対応をすることもあるようだし……。そんな折、新聞に『老害の人』の広告が。当てはまりそうなことが、いくつかありそうです。もしかして、……⁉︎
これではいくら何でも困るから(というか、あまりにも情けないので)、本や雑誌その他を処分したり、移動したりして空いたスチール棚の一画を飾るスペースとすることを思い立った(狭い家における床の間の日常化の試み?)。小さなものを飾るスペースは、というかわずかに余った場所は他にもちょこちょこあるけれど、常に自分の目に入るところにもあればいいかもと思った次第でした。これを実行するにあたって、気をつけることは、次の3点。
1 余白を大事にする。
2 季節感を取り入れたものとする。
3 複数のものを配する。
1つめは、何と言ってもわれわれ日本人が古来大事にしてきた美意識。僕自身は、ちょっとこれに欠けるようです。で、今回は、これをめざしてみようと思う。
2つめも同様。しかし、環境の変化や空調機器の普及等々で、あまり気にすることが少なくなったようです。僕には、これもちょっとハードルが高いかも。
3つめは、利休の1点主義*もいいけれど、複数のものの配置の仕方で、見え方がどう変わるか、ものとものの関係について学習の機会とするのも面白そうです。
この他、スペースは床のように固定するのか、それとも桂離宮の月見台を間仕切る障子のように伸縮自在とするのか、まあこれはやりながら考えることにしよう。そして、何を並べるかということも問題(ほかのスペースとの差別化)。好きなものというわけだから、ガラス瓶かと思ったけれど、これはすでに似たようなことを試したことがある**ので、パス。はじめはあんまり考えすぎないようにして、まずは手近にあるものを使って実践してみることに。
空いたスペースを利用した飾り棚
で、その第1弾、というか練習編。見ての通り、真ん中少し奥に青磁の香炉を置いて、左に3色のロウソク、右手には豆皿と親子の小鳥3羽を配した(小皿の中には、拾ってきたドングリを入れた)のですが、どうでしょうね。そして、その部分を明確に区画するために、左には歳時記(『秋』の巻というのは言わずもがな。これも、気分の問題ですが)、右はセザンヌの画集を立ててあります。
ちょっと高さの変化が足りないようだし、真正面から見ることができないので、このことも考慮しなければいけない。課題はいろいろとありそうです。
冒頭に掲げた意気込みとは違って、たいしたことはしていないので恥ずかしいのですが、千里の道も1歩から。ま、少しずつ整えることを続けていれば、そのうちにペースも上がるかもしれないし、片付けに取り組む癖もつくかもしれない。
*豊臣秀吉が訪問を楽しみにしていた利休邸の庭の朝顔を、利休は全部刈り取ってしまい、そのうちの1輪だけを生けて迎えた、という逸話が有名ですね。
** 『モランディに倣う』というタイトルで何回か続けました。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.10.22 夕日通信
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 04
棚は、生きざま
無職になって以来、メールの数はめっきり減ったけれど、時には、大学の同級生たちが腎臓やら膵臓やら肝臓やらあちこちの不具合を抱えていることを知らせも入ってくる(既に亡くなった同期生を含めると、かなりの割合です)。先日定期検診の時に、ずっと肋骨の下あたりが痛むので、このことと一緒に医者に伝えたら、「70歳の壁は越えたから、今度は80の壁だね」などと脳天気なことを言うのでした。
なんの時だったかアマゾンを見ていたら、『BRUTUS』のバックナンバーの紹介が目に止まった。だいたい、最近のメールはアマゾンからのものがほとんどなのだ(メールが多いのも閉口するけれど、これはこれでちょっと寂しい)。だから、きっと「お客様におすすめの商品」かなんかを見たかしたのだろう。
『BRUTUS』2022年8月15日号
2022年8月15日号の特集は棚、「棚は、生きざま」のコピーが添えられていた。まさに、僕のことを言っているような気がした(ただ、もともと「死にざま」という言葉はあっても、「生きざま」という言葉はないようなのですが)。だから、さっそくボタンを押しました。勤めをやめてから、なぜか雑誌を買わなくなっていたのだ(社会の流行に無関心になったのだろうか。だとしたら、まずい)。その近くにあった『居住空間学2022』も気になったけれど、もしかしたらこちらは手に入れたのかどうか*(これって、買うだけで満足しているってことなのか?ますます、まずい気がしてきます)。
僕はこれまで、ずいぶんたくさんの棚をしつらえてきました(大学院の時には、壁一面が本棚の住宅を設計したりしたけれど、たいていは、自分のために)。そのほとんどは、ありあわせというか手元にあったものを利用したものですが、中にはちゃんとデザインして作ってもらったものもある)。これらのほとんどはもう掲載済みなのですが、、使い方が変わったり、ものが増えたりして違う姿になっているものもある(しかも、片付かないままで、恥ずかしい)。
食器棚と本棚
既成の棚2つの組み合わせ
自分のためのもので、いちばん大がかりなものは(と言うのは、ちょっと大げさ)、いまの住まいに越してきてからつくった、壁一面の食器棚と本棚。そして、しばらく後のダイニングキッチンと居室を分けるためのカウンターくらい。あとは、大学生の時に製作したロの字型の箱もいまだに使っています。こちらはただの箱だけれど、工房があったので、組み継ぎになっています(友人たちの中には、リートフェルトのレッド・アンド・ブルー・チェアを作るものも何人かいました)。
もともと不器用な上にめんどくさがりなので、それからはだんだん簡素になるばかりで、板とブロックの組み合わせがほとんど。ある時に思い立って、オーディオ機器のために1辺が2枚重ねになった箱状のものをつくろうとしたけれど、治具がないためにどうしてもずれてしまうのでした。だから、半ば必然的に板とブロック(端材や発泡スチロール製の時もある)の組み合わせにならざるを得ないのです。これの欠点は、見栄えがしないことがありますが、それよりも何よりも、簡便なためにいつのまにか増殖してしまうということがあるのです。
でもまあ、こうして考えてみると、僕の棚と人生は、ほとんど間に合わせのような気がしてくる(ああ……)。棚は、まさに『BRUTUS』が言うように、暮らし方、生き方を正しく反映したものなのかもしれない(ちょっと寂しい。いや、かなり寂しい)。
こんなふうな生き方は、今からでも変えなくちゃと思うけれど、棚は変えられないかも。これは、もちろん経済的な理由が大きいことは言うまでもないのですが、やっぱり好きなのだと思います。とくに、置き家具や解体できる棚は、当然のことながら動かせるので、軽みを感じさせて好ましい。家にあるものは決して褒められたものではありませんが、もはやすっかり馴染んでしまったようなのです。
* 探してみたら、ありました(ま、安心したけれど、果たしてこれって喜ぶべきことかどうか)。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.10.15 夕日通信
「折々のことば」から
例外をつくり出す
急に寒くなりましたね。気温は、一挙に2ヶ月ほど進んだようで、外に出たら寒いのにびっくりしました。一気に気温が下がった木曜の朝は、毎日咲いていた芙蓉の花も驚いたのに違いなく、完全には開ききれずに、半開きのままでした。今日は、また最高気温が20度台になるようですが。
今回は、このところ気になった言葉からです。
私たちは未来を植民地してきたのだ(ローマン・クルツナリック)*
現代人は「現在時制の中毒」と英国の思想家が言っているそうです。時制の「今」だけ主義は我が国の伝統ですね。日本の国語は時制があるにもかかわらず、今だけ。一方、中国語は時制がなのにも関わらず過去と未来も重要なようです。
我々は先祖から土地を受け継ぐのではない。子供たちから土地を借りるのだ」(アパッチの格言5)**
R・クルツナリックは、北米のこの民族の言い伝えを引き、私たちが「よき祖先」であったかを最終的に評価するのは、未来のすべての子どもたちなのだと言う。遺産とはつまり、「残す」ものでなく、家族や労働者、市民皆で「育てるものだ」ということだと鷲田清一は解説している。
すごいですね。昔の人たちの思想、というのか生きるための知恵という方がいいかもしれないけれど、本当にたいしたものだと思う。すごいといえば、8月に読んだ記事を今取り上げるというのもなかなかです(とほほ)。
プロジェクトという概念は……例外状態をコンスタントにつくり出すことです。(磯崎新)***
人が陥りやすい思い込みや慣行からいったん離れて、いわば空白地帯に立ち返って考えることが必要で、それを実現するための仕掛けについて語ったもののようです。
なるほどと思って、やっぱりかつて世界のスーパースターとして活躍した人の言うことは常人のそれとは一味違う、と今さらながら感心しました。プロジェクトは、単なる大規模事業や計画ということではなく、実験的試み、すなわち、これまでと違う新しさや例外を生み出す計画ということなのだね。
ウィキペディアのプロジェクトの項を見てみると、語源はラテン語の pro + ject であり、意味は「前方(未来)に向かって投げかけること」である、とあったが、磯崎の定義からすれば、これももはや慣行化した言い方ということだろうか。
『ザ・ピーク』案
その一つが、ザハ・ハディドを見い出した香港のビクトリア・ピークに建設されるはずだった高級レジャー・クラブのためのコンペではなかったか。このコンペにおいて、磯崎は落選案の中からハディドをすくい上げたと言われているけれど、事業者の都合で、結局実現しなかった。それでも、超モダンというべきか、ポストモダンというべきか、いずれにせよそれまでの建築のあり方をそのまま引き継いだものとは様相を異にしていた。すなわち、時の常識から外れた、「例外」をつくり出そうとするものを選ぼうとしたのだということだろうと思います。
ただ、だからと言って、デザインに求められることが、常に、全てにおいて革新的な新しさを優先するというものではないだろう、とも思います。実験的な住宅がそこに住む人々に喜びを与えるものとなるかどうかは不確実、というかむしろ苦痛を強いるものになることが多いようでもある。しかし、実験的な試みがなされない限り、変化もまたないのだ。どちらの立場に立つかは、デザイナー(あるいは、住まい手においても)の志向によるのだろう。
革新的な変化をめざさない者にあっても、ただ「過去」を繰り返しなぞるばかりではつまらないはずだし、デザインするということはそういうものではないだろうと思う。「過去」にごく小さな工夫を盛り込みながらつくろうとしないなら、続けることは困難なのではあるまいか。(このことは、天才も凡才も、確信をめざす者も快適さを求める者も変わらない)。
ということは、この二つの立場は、デザイン、または創作する際の意図や意志の行方の違いによって異なるものの、基本的な取り組みの姿勢は変わらないのではないか。すなわち、天才や野心家は革新的な変化を与えようとするのに対し、誠実な凡才は小さな改善をつくり出そうとするのだ。
こうしてみると、クルツナリックの見方も、常識的な枠組みから離れたからこそ生まれたものだということがわかる気がします。僕のようなものでさえも、このことを忘れるわけにはいきません。
* 朝日新聞朝刊2022.08.04
** 朝日新聞朝刊2022.08.05
*** 朝日新聞朝刊2022.09.29
**** 画像は、WEBサイトCINRAから借りました。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.10.08 夕日通信
新しいカフェ2つ
おしゃれじゃない!
自宅の片付けは遅々として進みません……(とほほ)。僕が取っている新聞には月末近くになると一枚の月間カレンダーが入ってくるのですが、久しぶりに晴れた日の朝の新聞を開くと、もう入っていました、10月(!)のカレンダー。驚きました。そして今日は、まさしく正真正銘の10月。それにしても早い。このところことあるごとにそう書いているようですが、本当に早い。残りのカレンダーは3枚。この調子だったら、1年はおろか、うかうかしていたら10年だってあっという間に終わってしまいそうです。
その少し前のこと。テレビを眺めていたら、人口300人の島にカフェを作ろうという取り組みが紹介されていました。島民と観光客が交流する場所がなかったので、無いのなら作ろうということで農協が発案した。オープン前の室内を映して、ナレーターは興奮気味に、「おしゃれー!どこだと思いますか?代官山?自由丘?」というようなことを叫んでいたのでしたが……。
企画から運営、料理と接客の全てを任された3人の女性スタッフが心配しながら迎えた開店当日、すでに何組かのお客の姿があった。その中にはHPを見て来たという観光客も。心配は杞憂に終わって、無事にスタートを切れたということですね(よかった)。何よりでした。ただ、お客がご飯を食べる姿が映し出された時は、ちょっと残念だったな。テーブルとソファの組み合わせのようだったのですが、テーブルが低くて、食べる姿が美しくないのです。思わず「おしゃれじゃなーい!」と、まるで今時の若者のように口にしてしまいました(ああ恥ずかしい)。
お腹がくっつく!
何がいけないと思ったかというと、テーブルが低すぎるために、お皿と食べる人の距離が遠くなって、料理をお箸で取ろうとすると、腕を伸ばしながら腰を浮かせたり、体ごと伸ばさないといけないのだ。お腹が太ももにくっついて、いかにも窮屈で、苦しげなのだよ(ダメですね)。少し前から家庭でもソファに座って食べるのを見かけるようになりましたが、紀行番組やドキュメンタリーなんかを見る限りは、ヨーロッパでよく見られるようです(狭いせいですね)、アレと同じです。おしゃれを追求するあまり、ちょっと視野が狭くなってしまったね。
その翌日だったか翌々日だったかに見た、北陸の港町の元網元の住宅を引き継ぐために開店したというカフェでも、同じような光景が出現していました。和室に合わせたローテーブルと、たぶん楽に座れるようにという配慮から置かれたに違いないソファ、この二つの高さが合っていないのだ。このため、卓上の食べ物をとって食べようとすると、やっぱり体ごと伸ばさなければならない。お年寄りは「こんな(おしゃれな)ところで食べられるなんて、幸せ」というようなことを言っていましたけれど。
おしゃれで素敵な空間にしよう、あるいは楽に座れるようにしてあげようという、その志やよし。とは思うけれど、空間のデザイン、というか家具の選択を誤った。残念ながら、NICE SPACEとは言えないようです。室内の見た目や雰囲気には留意したけれど、実際に使われた時のお客の姿のことにまでは想像が及んでいなかったのだね。デザインする際に陥りやすいワナだ、という気がします。気をつけなければいけません。「差尺」という言葉があることを思い出して欲しいね。
そもそも、食事用の椅子とくつろぐためのそれとは、作り方が違うのだ。全く別物です。食事用の椅子は座面はほぼ平ら、背もたれもほとんど垂直で、背中がまっすぐになるようにできています。一方、ソファはこれに対して、座面は奥の方が少し低くなっていて、背もたれも斜めになっていて、くつろぎやすい姿勢になるように出来ているのが普通です(コルビュジエのLC2・3などは例外)。だから、ソファは食事をするには向かないというわけ。さらにテーブルが低いとなれば、食事用としては最悪の組み合わせ。
カフェブーム以来、レトロやらモダンやら様々な「おしゃれー」なカフェが人気で、いたるところに存在しているようです(と言いつつ、僕自身は外でコーヒーや紅茶を飲む習慣がないので、聞きかじりなのですが)。外観やインテリア空間のありようだけじゃなく、お客のの食べたり飲んだりする時の姿、佇まいまでを含めて考えられていたらいいのですが。
それで、歩き疲れた時はどうするのかといえば、もちろんビールに決まっている。そして席はといえば、ゆったりとくつろげるテント席かテラス席、それがなければできるだけ窓際を目指すのであります。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.10.01 夕日通信
まずは自宅から 12
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 番外編 03
自分の家の状況の報告を読んでもらうだけでは申し訳ない気がするので、インテリアを考えるときに幾らかでも役に立つかもしれない(?)ことを。まあ、本編で書いたことの繰り返しに近いのですが(やっぱり教師の時の癖が抜けないままのよう……)。一つは、家具の足元と床の関係、二つ目が家具とガラスの窓や壁との関係です。
家具の足元と床の関係というのは、面で接するのか、それとも点または線で接するか。すなわち、家具と床の間に隙間があるかないかということ。
前回、長年の懸案がようやく解決したと書いたのはこのことで、最近までは自作のオーディオラックの底面が床に直置きされていました。これはこれで理由がなくはなかった。すなわち安定性の確保と、板鳴りの防止を考えたせいでした。
ラックの底面と床が密着
ラックの底面と床の間に隙間
しかし、これがどうにも気になって仕方がなかった。すなわち、軽みが感じられない。すっきりして見えないのです。当然、広がりも感じにくい。ラックと床の間に隙間を設ければ、解消するのはわかっていたのですが、何しろ動かすのに手間がかかる。重いし、配線をやり直すのも面倒(やれやれ。こんなことではいけません)。それが、専用のラックが手に入ることになって、ようやく重い腰を上げたというわけでした。そのせいで、ずいぶんすっきり見えるようになった(と思う。本当ならば、コンクリートブロックではなく、ちゃんとデザインできればよかったのですが……)。
ただ、いいことばかりではありません。隙間があるせいで、塵やホコリは溜まりやすくなる。こまめに掃除しなくてはなりません。どちらを優先するかということですね。大昔、学生の頃に住宅の内装をデザインする機会があった時に、棚の上部に幕板を張るか張らないかで建主と意見が分かれたことを思い出しました。建主の気持ちとしては、少しでも掃除の手間を減らしたいということがあったわけです。
このことについてスティーブ・ジョブスは、初期のiPodのステンレスの背面が指紋が付きやすいというクレームがあった時、「毎日愛でるように拭けばいい」と言ったそうです。まあ、程度にもよるかもしれないし、人それぞれでしょうが、僕は基本的にジョブス派です。手間と見た目の両立を狙うなら、幕板や台輪をできるだけ中に入れることになるでしょうか。
二つ目は、ガラスの窓や壁の前に家具を接して置いてはいけない、ということについて。これは、例えば学生の課題の講評の時には必ずと言っていいほど指摘されることです。せっかくの透明のガラスの良さを殺すなということですね(ここに家具を置くつもりなら、なぜガラス面にしたのでしょうね)。外側からも家具の背面、たいていの場合、見られることを考えてデザインされていません、が見えて好ましくない。家具を置くときは、少し離しておかなければいけません。というのが、教科書の教えるところです。そうすることで、ガラス面を家具で塞ぐことを避けられるというわけです。
掃き出し窓の前に置かれた机
にも関わらず、僕の家では、小さなテーブルのみならず、棚までが置いてある。間違い?もちろん置かないで済むならそれが一番いいのですが、背に腹は変えられないのです。屋外で食事をしたり、飲んだりするのが好きなのですが、テーブルを置くにはベランダはあまりにも狭いし、出しっ放しというわけにもいきません。そこで、上記のようになったという次第。窓を開け放てば、ほぼ外です。
棚を置いたのは、外を見ながら本を読んだり書き物をするため。これは仕事としてではなく、楽しみとしてするのだから、壁に向かってやりたくはない。食卓でやるのもいいのですが、気分も変えたいということで、そのために棚まで置くことになってしまったというわけです(おかげで、本来のワークスペースはほとんど使わずじまい)。ただ、足の入るところの奥行きが狭くなってしまったのは、例のごとくあるものを利用したせい。
こちらもやっぱり、どちらの利点を取るかということですね。どちらを優先するにせよ、そのことによって生じる欠点は、できるだけ小さくすることを考えればよい。僕の場合、そのための工夫というと、掃き出し窓の下の部分を視界を遮らない高さで、防湿のためのシートを貼って、ブラインドは机の上までとして、いつでも全開にできるようにしてあります(カーテンは、スピーカーに直接日差しが当たらないようにするため)。とはいうものの、できれば棚の部分は最小限にとどめて、もう少しすっきりさせるのと快適さを向上させたい(次の課題です)。
たいていのものには、利点があれば、欠点もあります。したがって、さまざまな場面で、住まい手はどちらを優先するか決めなければなりません。だからこそ、住まいに対する関心を持って、そのありように意識的であることが大事だという所以です。
定石は尊重する方が良いと思うけれど、絶対としてはいけない。なんと言っても、インテリアはそこで暮らす人こそが主役なのだから(と考えるのです)。
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2022.09.24 夕日通信
まずは自宅から 11
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 02
片付けに取り掛かったばかりだけれど(とはいうものの、撤去が完了してからもう2週間以上が経った、早い!)、こうやって改めて比べてみていると、物が増えたことに今更ながら驚きます。
それにしても、増えすぎではあるまいか。なぜ、こういう状況になってしまったのか。
増えただけじゃなく、いつの間にか整理や掃除に手をかけなくなってしまっていたのだろう。それでなくては、いくらなんでもこんな風にはならなかったはず。そうなった理由は、いくつか思い当たらないないわけでもないのですが(やれやれ)。
で、初心に戻って考え直すシリーズの第2弾は、オーディオとビデオ(A&V)を楽しむ場所。僕は映画やドラマ、ドキュメンタリー、そして音楽をいつも身近に楽しめるような環境が欲しいのです。やっぱり前回と同じ画角の写真が撮れませんが、これは、カウンターの上がものに占められているせい。カウンターを作った時から比べてみても、変化が大きい。A&Vや料理を楽しむために設備機器類が増えるのは、まあ仕方ないけれど、不要なもので占められてしまうのは困る。「取っておきたがる病」は早く治さないといけません。命取りになってしまいそう。
最初期
中期
現在(暫定)
当初は動かないものは奥の棚だけだったのが、今では3方を(掃き出し窓の面でさえ)什器で占められるようになってしまった(ただ、写真ではわからないけれど、ずっと気になっていたオーディオラックと床の関係は、最近になってようやく解消した)。
それぞれの機器類については、配置換えや機種の入れ替えは、これからもいくらかはあるかもしれない。しかし、もうこれ以上増えることはないはず、というか増やしたくない(いや、減らさなければいけない)。これは自分の年齢を考えてということもあるけれど、それよりもものとの向き合い方の変化が大きい。新しいものよりも、使いこなすということの方が重要な気がするのです。
例えば、スピーカーはテクニクスの平面スピーカー、タンノイ、B&W、譲り受けたKEF、そして今はハーベス。テクニクスを除くと英国製、新しい製品ばかりというわけでは無いけれど、だんだんウーファのサイズも大きくなってきた。最近になってまた、レコードを聴くことが増えてきたが、盤面に傷がない時の音はCDに比べると温かく柔かみがあるようで、とても心地よい。
テレビが無い時もしばらく続いていたのだけれど、大きい画面のものになった(たまに昼間でも映画を観たくなるときがあるし、世界旅行に出かけたりもしなくてはならないのです)。
もう一つ、これを楽しむ時の椅子は、現在はMRチェア。最初は、貰いもののNYチェアだった。ついで、モーエンス・コッホの折りたたみ椅子、LC3(ソファ)、ハードイチェアもどき、そして今のMRチェア。これが実は、ちょっと上手くない。座面が高く、平らであることに加えて革が硬いし、おまけにアームレストがない。くつろいで音楽や映画を楽しむのにはちょっと不向き。LC3をなだめることを目指すべきなのか。こちらも、座面が高く(もしかして、足が短いのか?)、ちょっと硬く馴染みが悪い上に、深く座って寛ぐことがむづかしいのです。
自分の要望にあった新しい空間を手にれることはもちろん望ましいことだけれど、いまの空間を使いこなせなければ、結局同じことではないかという気もする(負け惜しみもありますが、本心でもあります)。
若い時ならば、自分の生活に合った空間を新規に手に入れる方が早いかもしれない、しかし歳を取ったらならば、空間を自分の生活に合わせるべく変えていくしかないのではあるまいか。もちろん、新しいものを手に入れることがむづかしくなることもあるけれど、変化も少ないのだからその分、工夫で乗り越えられるのではないか、その余地があるのではないか、(というか、そうすることが現実的なのかもしれない)という気がするので、頑張ろうと思います(ま、生きている限り。今のところは、そうするよりない……)。
さて、どのくらいできるのか。だいたい、我ながら呆れるほど、整理整頓や掃除が大の苦手なのだよ……。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.09.17 夕日通信
まずは自宅から 10
原点に帰って考える、我が家の惨状からの脱出 01
『海ちか』プロジェクトからの撤退作業は、周りの人々の助けのおかげでなんとか終えることができたものの、当たり前のことですが、その分我が家にはモノが溢れることに(ただでさえ多いのに!)。いっぺんには無理なので、毎日少しずつ、片付けていかなければいけません(頼りといえば、例の『大盛り焼きそば理論』だ)。
それで、初心に帰るべくちょっと恥ずかしいけれど、職を得てここに越してきた時のこと(実は、それ以来、一度も引っ越していないのです。怠け者のせい⁉︎)を振り返ってみることから始めようと思った。
引っ越してきた時には、初めて自分の好きなように手を入れられると思って、嬉しくてつい調子に乗ってしまったところがある。前橋から車を飛ばしてきてくれた友人とその仲間が、1日でやってくれた*。何と言っても、家賃1万5千円の木賃アパートから、7万4千円のRC造のテラスハウスに移ってきたのだ(不動産屋さんからもらった図面には、鹿島建設とあったけれど、もしかしたら鹿鳥建設だったのか?)。インテリアにかけられるお金はなかったけれど、モノも少なかった。
最初期
まずは、窓際の部分(一部)から。当初は、宮脇理論に従って、朝食は朝日の当たるところでと思っていたので、窓際のゾーンに作ってもらったテーブルを置いた(いわゆるDKですね。その頃は、天板をできるだけ薄く見せようとしていた)。モノも家具も今とは違って、圧倒的に少ない。それにしてもずいぶんさっぱりしている(30数年の澱は、やっぱり手強いね。案外、文章もそうなっているのかも。警戒しなくてはいけません)。
現在**
いまは、モノが増えたこともあって(もはや住まいに占めるものの量の多さでは、あの名作『中心のある家』にも負けてないかも⁉︎)。テーブルは移動したかわりに、簡単な食事や書き物ができるような、もともとは外に持ち出すつもりだった小さな机を置いています(外を見ながら、というのは何かと楽しいし、嬉しい)。正面の棚の上の照明は、カスティリオーニよりもEGGSを。しかも、長い間ソファ不要派だったのに、置くことになってしまった(イタリア製のLC3のレプリカ)。相変わらず、「あるものを流用しながら」になってしまっているけれど(これは、たぶん、経済と性格の問題ですね。なかなか解消しません)。
とにもかくにも急いで、一部屋(というか、一画)だけ、せめて目に入るところだけでも、片付いて見えるようにしなければなりません。そう思って、せっせと片付けなければならない。まずは、リビングというかAV用のゾーンから始めることにした。その時の音楽は、やっぱり元気な曲の方が合っているようです。で、毎度おなじみのペット・ショップボーイズのCD(ふだんは、まず聴くことがありません)をかけながら。
でも、ずっとやっていると、飽きるし、疲れます。で、映画を観たくなる時がある。
そして、元気を出したい時の映画は、断然ハッピーエンドのもの。底抜けにあかるくて楽しめるものに限る。ただ、そうした映画というのは、ありそうでなかなか見当たらない気がする。こないだは、そうした貴重な定番の一つの『踊れトスカーナ』、トスカーナのひまわり畑のような映画を観て気を晴らしました。
まあ、CDもDVDも手元にたくさんあるけれど、手に取るのはだいたい決まっているのだね。だから、所有するというのは、常に参照する必要があったり、系統立てて聴いたり観たりする必要がない限り、ただの所有欲を満たすだけなのかもしれません。少なくとも、僕の場合、無くては困るというものはほとんどないようです。
少しずつ、頑張ります。何もしないままになることを避けるための宣言、であります(目指すぞ、有言実行)。
* 後からわかったのですが、元々の施工が悪かったらしくて、どこも床が傾いているのですが、この時は急いでいたせいで、十分な下地を作らないでやってしまった。今となってはもはや遅いのですが、もう少し時間をかけてやればよかった。
**上の写真と画角が異なるのは、モノが多すぎて同じようには撮れないせい(やれやれ)。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.09.10 夕日通信
まずは自宅から 09
番外編 翌朝は驟雨
朝は雨
完全撤退を終えた翌日9月1日の朝は、曇りからにわかに空が暗くなり、雨が降りだした。あたりはみるみるうちに濃い灰色となって、時折、雷鳴の轟く音も聞こえる。いかにも驟雨という呼び方がふさわしいようだ。しかし、かなたには、白く光る雲も見える。やがて、雨はやみ、雲間から青空がのぞいた。それから、陽も射すようになっていった。
31日はガスの停止に立ち会うために約束の3時より少し前に到着した。当然のことながら、椅子も飲み物も何もないから、退屈を紛らわせるために階段に腰掛けて、思いついたことを手帳に書き付けるくらいしかすることがない。それにも飽きた頃、待つこと45分、3時30分頃にガス屋さんが到着。
「こんにちは」
「どうもありがとうございます」
「裏に回っていいですか」
「どうぞ」
彼はすぐさま裏に回って、メーターのところで作業を始めた。たいてい、彼らの動きは素早く、無駄がない。
「終わりました」
「もうおしまい?」
「ええ」
あっという間に完了したのだった。その間、およそ5分。
それでも立会いが必要なわけは、敷地に勝手に入ることが出来ない(特に、門扉がある場合はそうでしょうね)、もう一つは稀に、外での作業だけでは完了しない場合があるらしい。
ガス屋さんが帰ってしまうと、また退屈になる。それで、何か忘れているものがないかと思って、もう一度冷蔵庫やシンク周りを点検した。すると、冷蔵庫には練りからしとおろしニンニクのチューブが、そしてシンクにはスポンジが1個残っていた(やれやれ)。
「こんにちは」
K先生がやってきた。なんでも、朝から4時まで会議だったという。
「こんにちは」
「大家さんは、まだですね?」
「はい」
K先生は、状態を確認するでもなく、所在無さげに歩き回る。
「一応、念のために確認しておきました。冷蔵庫とシンクに忘れ物がありました」
「はあ」
「もう一度、見えるところだけでも綺麗にしましょうか?」
「そうしますか」
で、2人で確認しながら、床のゴミを拾ったり、もう一度掃除機をかけたりした。その気になれば、案外見落としていたところがあるものだ。
しばらくそんなことをやっていると、外から声が聞こえた。約束の4時30分ぴったり、大家さんが到着したようだ。玄関ホールで出迎えると、大家さん夫妻ともう一人。
「お世話になりました……」
と挨拶をしたが、返事がない。奥さんが、すぐにもう一人の人に
「まず3階から」
と声をかけて上っていく。皆で状況を確認するのかと思い、K先生共々ついていった。
白く塗った壁
まず3階の部屋(痛んだ壁紙を剥がしてペンキを塗って、僕が借りていた)を見ながら、不動産屋さんだかリフォーム屋さんらしき人には「ここはリフォームされてますけど」とかなんとか色々と説明するのだが、我々には相変わらず目もくれない。2階に下りても、変わらない。まるで、我々はそこに居ないかのようだ。1階に降りて全てを見終わったあとで、ようやく
「それでは、鍵を…」
と声がかかった。しかし、そのあとはやっぱり何もなし。これだけ。我々は戸惑いながら、鍵を渡した。これでおしまい。この間、旦那さんの方は一言も発しなかった。その後奥さんは、また業者との話に戻っていった(メールでは、「(5年契約のはずが僅か1年ほどで解約となったことに対して)ご迷惑をおかけすることになりすみませんでした」あったのは、なんだったのだろう?)。
しかたなく、2人共に顔を見合わせて、退散することにしたのだった。外に出ると、
「ひどかったですね。何か一言あるかと思っていたのですが、……」
とたまらず、K先生が言う。
「確かに、ちょっとあんまりでしたね」
と僕。残念ながら、最後の最後になって、ダメを押すかのように、極めて気分の悪い思いをさせられたのだった。おまけに、大きなレクサスも、駐車スペースは余裕があったにも関わらず、我々の車の出やすさのことは全く考えていないような停め方だった。
「もう少し下げとけよ」
思わず、僕は小さく毒づいた(坊主憎けりゃ……、という感じでしょうか。人間ができていないね。反省)。
だから、その翌朝の雨は、恵みの雨のようで、ありがたい気がしたのだ。部屋を借りてから昨日までの必ずしも愉快なことばかりじゃなかったこと(とくに大家さんの対応)が、これで綺麗に洗い流されるだろうという思いだったのだ。これからはさっぱりした気持ちで、新しい生活に取り組めそうだ。さあ、やろう(ただし、少しずつ)、という気持ちになった。
その後、空模様は結局、快晴というまでには至らなかった。それでも青空が広がった。まあ、このくらいが、ちょうどいいのかもしれない。その夜僕は、『八月の鯨』を取り出した(90歳のリリアン・ギッシュがバラの花を摘み、埃を払う場面を観るために)。
* 急ごしらえの試作のまま。
読んでくれて、どうもありがとう。
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2022.09.03 夕日通信
まずは自宅から 08
撤退作業はほぼ完了か⁉︎
ニュースを聞いていたら、オオタニサンが所属するエンゼルスの売却の話があるらしい。現在のオーナーが2003年に取得した時の買収金額はおよそ1.9億ドル、そして現在の価値は22.9億ドルに上るという。まあ、経済優先、今が売り時ということでしょうか。それにしても、アメリカの球団の市場価値も選手の年俸も桁違いで、ちょっと不思議(というか、とくに個人の所得としてはいくらなんでも、行きすぎではあるまいか、という気がしますが)。
今週の水曜日には、予告通り約束していた強力な男性2人組が片付けボランティアとして参戦してくれた(もはや戦いなのだ)。一人は引越しに慣れた名人で、率先して自ら動くだけでなく、次々に指令を出してぼんやりしている僕がやるべきこと教えてくれる(くたびれていて、いつも以上に判断力が働かず、何をすれば良いのかわからなくなって、ぼんやりと立ちつくしてしまうのです)。もう一人は若いせいか、とにかく動きが軽快だし、自発的に進めてゆく(若いというのはいいなあ。重いものも苦にしない)。
1階に下されたもの(一部)*
おかげでその日のうちに、たいていのものが1階に降ろされ、持ち帰るものと不要物との仕分けもほぼ済んだ。あとは、粗大ゴミをはじめとする不用品の処分と、運び込むものを収容するスペースを家の中に作り出すことができるかどうかだ。まずは一旦収容し、快適に暮らせるようにしつらえるのはその次だ。徐々に取り組めばいい(焦りは禁物。闇雲に急いでも、いいことはない。悠々として急ぐのだ)。
できるだけものを減らし、所有するものはきちんと使い切るという姿勢で臨みたい、というのがただいまの気持ちなのであります。ものを捨てるというのは、常に何が大事で何がそうでないかということを意識するということで、相対的な自分の価値観の位置を自覚しながら暮らすということになるだろう、と思います。
ほぼ運び出された後
そして金曜には、本棚のような大物の粗大ゴミを、助けを借りながら集積場へ持ち込んで、処分した。残りの粗大ゴミは、適宜回収してもらって捨てていくようにすればいい(これは自分一人でもできそうだ)。実際のところ捨てるのにもけっこう物入りだし、規則もあんがい厳しいのです。ゴミ以外のものも、無事に家の中になんとか収めることができた。これで、引き取られていくものと少しの積み残し分があるだけで、撤退作業はほぼ終えることができた(と思う)。やっと一安心。たぶん、今晩からはゆっくりと眠れるのではあるまいか(そうあってほしい)。
ただ、家の中は大混雑。足の踏み場もないほどものが溢れています。ここには、収集日を待つゴミも含まれているのですが、それにしても、まだまだ減らす必要がありそうです。本でいうなら、ほぼ本棚8本分の量をほぼ1本分にして、それでもいくらか余裕がある(もう少しとっておけばよかった)。
ともあれ、やることはまだまだあります。家での作業は、基本的に一人でやることになるから、今まで以上に忙しい日々が続く。たぶん、ボケる暇もないはず。しかも今度は、その分の見返りがある。お楽しみはこれからだ、という気持ちで頑張りたいと思います。
木曜日には頭の再検査に出かけてきましたが、幸い前回に比べてとくに変わったところはないということだった。ついでに、まったく暗算ができないこととの関係を訊いてみたのですが、やっぱり関係ないらしいです(ま、大きな問題がなくてよかった。ちょっと、安心)。
* またまたカメラを忘れたので、写真は金曜日に撮ったもの。
まだまだ募集中ですが、残りの仕事は最終仕上げ。いよいよ残るところあと数日です。有終の美を飾るべく、やさしい心と時間のある方はぜひ、こちらまで、確認がてら気楽にどうぞ。
* 急ごしらえの試作のまま。
読んでくれて、どうもありがとう。
感想やお便り等をこちらからどうぞ。
2022.08.27 夕日通信
まずは自宅から 07
幸福度と住まい
まだまだ暑いですが、昨日は湿度が低くてよかった。赤帽さん2台の助けを借りて、本棚の搬出・搬入作業を終えることができました(大いに助かるけれど、その分出費は大きい。とほほ)。それにしても疲れた……。
その数日前のこと。
「幸福度の高い国は、必ずしも経済力や物質的に豊かな国じゃないですよね」
「たしかに。一時はブータンが1番だったよね」
「ええ」
「何が幸せだと思う?」
僕たちはその時、どういう弾みだったのか、幸福について話していたのだった。
「同じような価値観を持っている人たちの中で暮らせればいいなあ、と思っています」
「うん。物質的に豊か、あるいは経済力ということじゃなくて?」
「はい」
「へえ」
幸福度を高める要因*
「こないだ、幸福について何十年も研究しているというハーバード大学(注:もしかしたら、スタンフォードだったかも)の論文を読んだんです」
「へえ」
「まだ、日本語の抄訳しか読んでいないんですけど」
「うん」
「価値を共有する人々とともにあることが幸福度が高い、というようなことが書いてありましたが、私も同感なんです」
「なるほどね。ひとりじゃないって思えるような、互いに理解し合える仲間がいるといいよね」
そして僕は、後輩が退職した後に言っていた言葉を思い出して、伝えた(彼はそれまで、5分で決断しなくてはいけないことが続くような、厳しい役職の生活をしていた)。
「毎日ちゃんと掃除をする、植物を育てる、散歩もするというように、日常のなんでもないことを手を抜かずにきちんと続けることが喜びになるし、ていねいに暮らすということじゃないですかね」と、彼は言ったのだった。
「ルーティーンを大事にするということでしょうかね」
「特別に何かをする、人にできないことをやる、というようなことじゃなくてね」
「ええ。私も、ささやかな幸福が得られれば、それでいいように思います」
僕は、若いのに……と思って、大いに感心した。
それから、ふと能力や才能のことが思い浮かんで、付け加えた。
「ふーん。そういえば、辻調理師専門学校の創始者の辻静雄が、『能力というものは、自分が持っているものと考える筋合いのものではない』と言っているらしいよ。『能力は、その人の仕事ぶりを見ている人が測ってくれるものなのに、人はそこを勘違いして、努力が報われないとつい他人や社会のせいにすると』**も」。似たようなことは、かつて日本一の鮨職人と謳われた名人小野二郎も言っている。
「はい」
素直に、賛同した様子だった。
ただそういった言葉を紹介しながら、僕自身はそのこと自体には感心もし、素晴らしいとは思うけれど、なかなかそういう気持ちになれない心境で過ごしてきた。
「でもね、あの『短編画廊』の編者のローレンス・ブロックは、多くの人は『あなたの自己規律が羨ましい』とは言うけれど、誰ひとりとして『あなたの才能が羨ましい』とは言わない***、と言っているんだよ」
「はい」
またも、素直にうなづいた。
「僕は、この歳になって恥ずかしいけれど、才能がある人や経済力がある人が羨ましいと思うんだよね」
「はあ」
「もし経済力があれば、この本を処分しなくてもいいし、人が集まれるサロンだって運営できるかもしれない」
「ええ」
その時僕は、これからの可能性に満ちた人生をいよいよ始めようとする、若さに対する嫉妬心があったのかもしれない。
僕は、聞きかじりのことをただ伝えるだけで、独創性に欠けるし、理解するのも遅い。見かけもさえない。愛嬌もない等々、人に好かれるような利点に乏しいので、これを少しでも補おうとして、たぶんこうしてせっせとブログなんかも書いている気がするのだ。そう思いながら、こうした思いを振り払おうと、最後に言った。
「それからね、ある評論家がね、『シャワーだけで済ませる人は、幸福度が低い』と言うのを聞いたことがある。余計なお世話だよ。そんなことは、知ったことじゃない」
「あら」
他者と交流し、理解しあって幸せな気分を得るためにも、まずはささやかでも、自分自身が不平不満を言わずに暮らせるような住空間に育てるというのが急務だ。そうすると、暮らし方もていねいになるはずだし、気持ちの余裕も生まれるだろう。負の雰囲気を出さずに済むだろうし、明るい気分で付き合うこともできるだろう(そうすると、うまくいきやすくなるのではあるまいか)。本を読むことでも自分が「ひとりじゃない」ことを感じることができるけれど、実際に会って話すことでそれが得られたなら、悦びや愉しさはさらに増す。
撤退作業が完了したら、少しずつ、しかし着実に住まいを育てることに真剣に取り組むことにしよう(それが、手伝ってくれた人たちの好意に報いることにもなるに違いない)。
さてどうなるものか。少しずつここで報告することにしようと思います。その顛末を期待して待たれよ(と、いちおう宣言しておきます)。
* 写真はPRESIDENT Online のサイトから借りたものを加工しました。
** 朝日新聞「折々のことば」2022.8.11
*** ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門、2003年1月、株式会社原書房
まだまだ募集中ですが、まだ不安。これから出かけてきます。残るところあと1週間余りです。優しい心と時間のある方はぜひ、こちらまで。
* 急ごしらえの試作のまま。
読んでくれて、どうもありがとう。
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2022.08.20 夕日通信
まずは自宅から 06
備忘録として
立秋を過ぎたとはいえ、相変わらず日中は暑いですね。33度、4度がごく当たり前という感じになってしまった。それでも、朝夕は時折、秋の気配も。
今回は、話の種を忘れないために少し(ちょっと忙しいのです)。いずれも、このところの撤退準備をしていて、気づいた、というか改めて思ったことです。
計画しているときは、こうあるのがいい、こうありたいということが先立つ。
実際にやってみると、こうならざるを得ない、こうするのが実際的だということに気づきやすい。
たくさんのものを保管するために、つい収納スペースを探したり、新たに作り出そうとする。
これが、やがて適切な容量以上のものを溜め込んでしまうことになりかねない。
片付けをやっていると、一時的には逆に散らかりやすくなるが、どうせまた同じことになるのだからとそのままにしがちだ(僕の場合)。
そうすると、散らかっていることに対する許容の閾値が上がるし、後で整理しようとした時の苦痛のたねになりやすい。
現実にはたいてい、いろいろな場面でそれぞれに制約があるけれど、一方で新しい発見の契機にもなる。
制約があることを自由を妨げる足枷としてでなく、新しい発見のためのヒントと考えるのが良さそうです。
阿部勤自邸の回廊の一部*
先日も手伝いに来てくれた卒業生は、阿部勤邸『中心のある家』を実際に見学してきた(いいなあ)。ものがたくさんあって、整然としているわけではないけれど、不快ではない。物の置き方には、ゾーニングや高さに緩やかなルールが存在しているようだったという。それが、開放感と居心地の良さにつながっているのに違いない。
たくさんの好きなものに囲まれて暮らす。いいですねえ。羨ましい。でも、心から楽しむためには、間に合わせではなくほんとうに好きなものを選択しなければいけないようです(その時は間に合わせのつもりでも、長く使うことになりやすいのだ)。
自宅の片付けも遅まきながらようやく少しずつ進んで、搬入への備えができつつあるけれど、それにしても驚くほどの廃棄物が出る(まだ、途中なのだ)。流行りの言葉で言うなら、住まいの「デトックス」と考えて、思い切ってさらに捨てることにしよう。その中にいて気持ちがいいと感じられるような生活空間をめざして、頑張ります(ああ、やってよかった、と思えるように)。
いよいよ残すところ2週間あまり。寺前の「来てね!片付けボランティア」週間は、継続中。連絡を待っています。
* マガジンハウスのウェッブサイ”100%LiFE”所収の「中心のある家 正しく古いものは永遠に新しい 41年の歳月が育んだ心地良さ」。
まだまだ募集中ですが、苦戦中。優しい心と時間のある方はぜひ、こちらまで。
* 急ごしらえの試作のまま。
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2022.08.13 夕日通信
まずは自宅から 05
家を育てる
朝から暑い日が続きます。夏真っ盛り、文字通り盛夏です。ゴミを出しただけでも汗がにじみます。クマゼミもワシワシと盛大に鳴いていた。ミンミンゼミも聞こえた。家の中に、大きなトンボが飛び込んできた時もあった。
この建物に点数をつけるとしたら?
と訊かれて、
「建てたばかりの41年前は30点だったけど、時間がいい家に育ててくれました。今は97点かな?……ほぼ満点の家です」*
と答えたのは、前回にも触れた「中心のある家」の住み手であり設計者でもある阿部勤。
家は「育てる」ものなのだ、ということを改めて思い出させられました。少し前までは、日本人の少なからぬ数の人たちは住宅は出来上がった時が一番で、あとは劣化するばかりだと(まるでパンか何かみたいに)考えていたようです。例えば、間取りを変えることのできる形式の住宅では、入居前にはいろいろと注文がつくけれど、その後5年だったか10年だったか経った時に再び調査したら、多くの家が変っていなかったという報告を読んだことがある。住宅を設計した時でも似たようなことを経験したし、たぶん、住宅を手にするまでとそのあとの熱意の落差はよく見られたことではあるまいか。インテリアに関する情報も乏しかったし、所有すること以上の関心を持つ人も少なかったのだ。いまは古い住宅を手に入れて、好きなように手を入れて住むことも、リノベーション(「リノベ」?)という言葉もごく普通になってきたし、インテリア体験も増えてきたから、変わったかもしれない)。
手入れされないままの前庭**
はじめはたった30点の住宅でも(といっても、阿部勤設計ですが)、育て方が良ければほぼ満点をつけるくらい気に入ったものになりうる。ということは、逆の場合もあるということだ。せっかく手に入れた望みを詰め込んだ家が、手をかける余裕を失なったまま過ごすうちに、快適とは言い難い不満だらけの住みにくい家になってしまうことだってあるのだ。
住宅に不平や不満を持つことはいいことだ。これが改善へと繋がる場合が、多いからだ。しかし、このことにどう対応するかが問われる。そしてそれは、もしかしたら「育て方」のせいかもしれないのだ、ということを忘れないほうがいい。
住宅に対する考え方は、いうまでもなく様々だ。それこそただ「寝ることさえできればいい」という人もいれば、「心おきなく音楽を聴きたい、映画を楽しみたい」と願う人もいる。もちろん、「家族の団欒こそが第一」と考える人も。また、「きちんと片付いていないと落ち着かない」と感じる人がいるかと思えば、僕のように「少し散らかっているくらいでちょうどいい」と思う人がいる。100人いれば100通りの考え方があるし、好みもあるのだ。しかも、それらは時間とともに変化する。
だから、万人にとっての「いい家」というのは存在しない。Aさんにとって快適な家が、あなたにとってもそうだとは限らない。そして、入居時に良かったものが今でもいいとは限らないのだ。Aさんがおいしいと言う料理が、あなたにとってもおいしいものとは限らないし、昔好きだったものが今でも好きというわけじゃないことと同じように。家だけに限ったことじゃないのだ。
ほんとうに家が大事だと思うなら、自分の生活のありようや変化に合うように少しずつ手を加えたり、家具等を買い足したりしながら、整えようとするだろう。すなわち、例えば硬い革靴を履き慣らしながら自分の足にぴったり合うように育てるのと同様に、家も自分の生活にあった家に近づくように、少しずつ育ててゆくものなのだ。
だから、このことを忘れて、いつの間にか手をかけることを怠ってしまうと、僕の家のように残念なことになる(ああ、恥ずかしい!)。入居してからしばらくの間は、手を入れることが嬉しくもあったし、いろいろな意味で余裕があった。それが、諸事情で次第にものの多さに負けるようになってしまったのだ(面目ない限り…)。このことは、基本的には、持家か借家には基本的には関わらない。
阿部は時間が育ててくれたと言うけれど、ほんとうは住まい手が時間とともに育てたというのが正確なのだ。
今のわが家に点数をつけるとしたら、10点にも満たないかもしれません。とても合格点には足りないのは、明々白々。まずは、「可」の段階を目指して頑張らないといけません。そして少しずつ引き上げるべく、育てていくことにしよう(ただこの時、工夫することや素人のDIYで対応することはよいのだけれど、やりすぎると貧相に陥る時があるので、注意が必要です)。
本日は、なじみの赤帽さんに来てもらって、レコード棚を運びます。うちの方の受け入れ態勢が整わず、分けて運ばざるを得ないのです(とほほ)。おまけに、新たな問題が出来したのだ(やれやれ)。
寺前の「来てね!ボランティア」週間は、継続中。連絡を待っています。
* マガジンハウスのウェッブサイ”100%LiFE”所収の「中心のある家 正しく古いものは永遠に新しい 41年の歳月が育んだ心地良さ」。
** もともと日常的に使うことが想定されていない、アパートの前庭。
まだまだ募集中ですが、苦戦中。優しい心と時間のある方はぜひ、こちらまで。
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2022.08.06 夕日通信
まずは自宅から 04
年を取ることから離れる
もうすぐ8月、ということは残すところ一月ちょうどになってしまったということ(ちょっと焦る)。撤退準備は相変わらず苦戦中だけれど、それでも寺前の方は卒業生たちの働きの甲斐あって、なんとか進みつつある。問題は自宅の方。なかなかうまく進められないのだ。そんな中で、パソコンをはじめとしていくつかについては、ようやく処分を完了することができた。こうやって、一つずつ片付けていくよりほかはない。
「年を取るとただあるだけで、それに就て何かと理窟が付けたくても付けられないものが段々好ましくなつて来る*」、と言うのは英文学者吉田健一。さらに鷲田清一による解説は、以下のように続いた。例えば酒。自棄、憂さ晴らし、景気づけといった「吝な精神で飲めば酒の方で気を悪くして暴れる」。飛行機だって時速が、積載量がどうのといった勘定を離れ、「飛ばずにはいられないから飛ぶ動物」としてみれば鮮やかである……。
阿部勤自邸『中心のある家』**
こうした吉田の思いは、以前ここでも取り上げた、年をとったら「できるだけ面倒くさいことをやる方が楽しい」という、阿部勤の感覚とも通じる気分があるようだ。そのせいもあってか、阿部邸には彼が長年にわたり収集してきた様々なものであふれているし、料理をする時だっていろいろな道具を揃えて、いちいち手間をかけてつくる(幸いなことに、そして羨ましいことに、名作『中心のある家**』にはそれらを収容する余裕があるのだ)。
僕のモノを溜め込む癖も、吉田や阿部のような見方に倣えば許されそうな気もするけれど、今はそんなことを言っている場合じゃない。背に腹は変えられないのだ。
まずは、捨てるものはさっさと捨てて、空いた空間を生み出して、そこに好きな本やCD、DVDの類をできるだけ収容し、わかりやすく配置するというのが第一。僕はこれらのものが好きなので、目に見えるようにしておきたい(そこにあるのをぼんやり眺めているだけでもなんとなく安心するし、嬉しくもあるのです。そのために、もう大部分を手放すことにした)。何も、ショールームのような無機的なインテリア空間を目指したいわけではないのだ(そして、たぶん物理的な空間に限らない隙間、余裕があるということが大事なのだろうと思う)。
これを実現し次の段階へ進むためには、いったん「年を取ること、年を取ってからの感覚」から離れなくてはいけないようです。そして、体を動かさないことには始まらない(というより、終わらないという方がぴったりだ)。
* 鷲田清一『折々のことば』朝日新聞2022年7月24日朝刊。吉田健一『わが人生処方』から)。
** 写真は、マガジンハウスのウェッブサイト”100%LiFE”から借りたものを加工しました。
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2022.07.30 夕日通信
「海ちか」プロジェクトからの撤退 04
モノを捨てる/今を生きる
前回書いたことの続きから。ニュースの中で、誰もが知っている大学の先生の言ったこと(正確じゃありませんよ)。「今後の真剣な***(議論だったか論議だったか、ともかくもそんな注釈がついたカタカナ語だったが、浅学にして知らない言葉だった)が待たれる」。前回は、こうしたことを揶揄したのでしたが、その後で気がつきました。彼らは悪気があったわけじゃないのかも。たぶん国際的に活躍しているせいで、ふだんからその言葉を使っているのに違いない、と(きっと、日本人ではなく、国際人だったのね。失礼しました)。
廃棄された家電(一部)
先日、かなりの量の電化製品が引き取られていった。定額での電化製品出し放題のサービスを利用したのでしたが、そのほとんどが、このために寺前から自宅に運んでもらったもの。改めて眺めてみると、よくもまあ、こんなにもあったものだという気がした(まあ、30数年間にも渡る蓄積だからねえ……)。中にはまだ使えそうなもの、あれば便利そうなものもあって逡巡したのですが、思い切って捨てることにしました(もう、後戻りはできない!)。
その気になれば、近い将来これらのいくつかは使うことができただろうし、得られることもあったに違いないが、その機会はどうなのか、それを実現するために時間を割くだろうかと考えると、その可能性は小さいようです。残された時間は潤沢にあるわけではないのだ。音楽とは違って、ビデオや録画したDVDの古いものに使う時間はもはやない、「新しいもので手一杯」なのだ(たぶん好きな雑誌も同様だ)。
モノを「捨てる」ことは、そのまま過去を捨てることでもあるだろう。過去を捨てること、過去にしがみつかないで生きることは、今を中心に生きるということになっていくに違いない。
と考えるならば、本や書籍の類も、もはやその多くが不要となる。先日から読み返していたわがアイドルにして、知性をもって世界を渡り歩いた加藤周一は、「おそらく、二十キログラムを越える私財は、生活にも仕事にも必要ないのである」と書いていた。以前に触れたように、吉田秀和もCDや本を溜め込むのは好きじゃないと語っていた(彼らは、それらについてはいったい、どうしていたのだろう?)
すっぱりと割り切って、捨て去って、新しい気持ちで生活を始めるのだ(気持ちだけは、もはや定まっているのです。だから退路も断った)。少し前から書いているように、「新しい生活」の楽しみを励みに、もうひと踏ん張り(と思っているのですが、でも自宅の方は一向に進まない、どうしたことか。たぶん、圧迫された脳みその容量のせいで、片づけなければならない量の多さに、麺から行くべきか野菜から攻めるのか戸惑っているのだ。まずは箸をつけなければ始まらないのに)。寺前の方にも、まだまだ応援が欲しい!(できれば、もう何回か)。
空になったCD&DVD用の棚
先の日曜日にも卒業生が二人、寺前の撤退作業の手伝いに来てくれました。おかげで、おおいに捗った(ありがとう!たぶん、僕はひとりじゃ何もできないようです。ああ、情けない)。しかも、一人は見かけによらず力持ちだったので、重いものも下すことができたし、さらに彼は木曜にも来てくれた(おかげで、少しだけ先が見えてきた気がします。重ねて感謝 !!)。それでも、まだまだやることはたくさんあります。引き続き、片付けボランティア募集中。
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2022.07.23 夕日通信
まずは自宅から 03
イメージを描く
いよいよ退去の期日まで、残すところひと月半ほどになった。さすがに、ちょっと焦ります。もう7月(ということは、1年の半分が過ぎた「今年ももう下半期*」)、早いねえ。本当にあっという間。
これまでは、元のゼミ生が働きかけてくれたおかげで、集まってくれた同期生たち、さらに「急募!片付けボランティア」を見て駆けつけてくれた卒業生(いまのところはまだ1名だけど)たちの働きの甲斐あって、本や雑誌の整理の方はだいぶ進んできた。ただ、このほかにも文具類や台所用品(自分で使うことは1度もなかった)をはじめとする様々な小物があるし、家具等の処分もどうすればいいのか。
そんな中で、選別された本を目の当たりにすると、ちょっと怯んでしまう。これ面白そう、ちょっと後で読んでみようかなどと思って取っておこうと避けておくと、あっという間に山となって、すぐに家の容量を超えてしまう。もともといくらかの関心があって手に入れたものだから、そうなるのも当たり前なのだ(たぶん、今すぐ必要か否かで分けないといけないのでしょうね。明日のことはわからないし、人生は短い。「ランプの火の消えぬ間に生を楽しめよ**」)。
おまけに、自宅の片付けは、ほとんど手つかずのままなのだ。ここは思い切って、捨てることに取り組まなければならない。ただ、やっぱりこちらもその量のことを思うと、つい気持ちが萎えてしまうのだ(なぜ、こんなにもできないのか)。しかし、今こそ我が「大盛り焼きそば理論」の出番だ(ちょうど今、アパートの上階の改装も、職人が一人で毎日こつこつやっている。偉いものだと感心するばかりだ)。
A&Vのためのイメージ
そのための計画を立てて(これは早い)、実践しなければならない(これができない!)。実践こそが、最良の方法なのだ(わかってはいるのだ)。一方で、それだけではなかなかやる気が出ない、というか体が動かないので、まずは出来上がりのイメージをスケッチすることにした。計画を立てるだけでは、つい「この歳になって、こんなことに時間を使わなくてはいけないなんて……」、「こんなことなら最初から……」などという詮無い気持ちになってしまうのです。
イメージを描いて、見て、確認して、これを目指して、力を振り絞って、近づいて行くのだ(と言うほど、大それた計画では全くないのですが)。僕は視覚的人間なので、イメージの果たす力は大きい、と信じたい。何と言っても、これを乗り切りさえすれば、喜びは大きいはず。そして、早く終わればその分早く、新しい喜びを味合うことができる。生まれ変わった部屋で、心機一転、心豊かな暮らしを営むことを想像しながら、がんばろう(ふう)。
* 片付けボランティア1号
** アルトゥール・シュニッツラー
まだまだ募集中。優しい心と時間のある方はぜひ、こちらまで。
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2022.07.16 夕日通信
まずは自宅から 02
番外編 続・前向きになる練習
相変わらず暑いですが、それでも梅雨明けからしばらく後までのような猛烈な暑さではなくなりましたね。それどころか、朝夕は涼しいとさえ感じることもあるし、晴れた夏空の日も少ない。まあ、得てしてこうしたもの。今日は、これから卒業生たちが手伝ってくれる寺前の撤退の準備に出かけます。
このところは、先日の不慮の事故で電源が入らなくなったiMac(27inch, Mid 2011, Mac OS 10.6.8)のTime Machineを利用して、なんとか写真だけでも復元しようと、古いMacBook Air(11inch, Mac OS 10.7.8)で試みたけれど、うまくいかなかった。ならばと、もう一つ自宅にあったこれも古いiMac(21.5inch, Late 2012, Mac OS 10.8.5)をそのまま代わりにできないかと苦戦中でした。他にやるべきことがあるのに、気になってこちらを優先させてしまった(トシヨリの癖の典型の一つでもある)。
結論から言えば、こちらもうまくいかなかった。どうしたことか、頼みの綱のTime Machineに最も重要なファイル、iPhotoの写真が入ってなかったようなのだ(ショック!)。他のたいていのものは入っているようなのに……。ならばと、せめてソフトやいくつかのファイルを利用すべく、いろいろ試みたのだけれど、やっぱり不首尾に終わった。頼りにしたアップルサポートも、この時ばかりは役に立たなかった。移行がずっと終わらずバーがあと少しのところで止まったままのようだった(OSの違いのせい?)。こういう状況を何度か繰り返し、半ばやけくそで、ままよとばかりに思い切ってえいと停止ボタンを押したら、ほぼ移行はできているように見えたのでした。
iMac(21.5inch, Late 2012)
それでも何だか気持ちが悪いので、その後手探りでいろいろと試すうちに、iMac(21.5inch, Late 2012, Mac OS 10.8.5)に外付けのSSDををつないで、これを起動ディスクとして使うようにするところまでは来た。ここに至るまでは、当該のiMac に合ったOSを入れるのになかなか難儀した。後になってみたら、なんだこんなことだったかと思うのですが、心身共に年取ったせいなのか、いろいろなことがむづかしくなった(若者よ、若さを無駄遣いしないように)。
あとは必要なソフトをインストールディスクから入れることにして、必要なファイルは個別にコピーすればいいだろう。
ところで、なぜこんな古いマシンにこだわるのか。僕のかなしい貧乏性のせいか、はたまた古いものへの感傷のせいなのか。もちろんそうではないのです。もっと即物的な理由で、古いマシンでしか動かない使い慣れた、今ではちょっと手が出ない高価なソフトがあるせいなのです。進歩はありがたいことが多いけれど、パソコンの場合は不都合なことがままある。機械とOSが新しくなれば、古いソフトが動かなくなってしまう。不経済なことこの上ない。しかも僕などにとっては、性能的には古いもので十分すぎるほどなのだ。新しいものの登場は大いに結構なことだけれど、古いものについても最低限のサポートを続けてほしいと思う(メーカーにとっては旨味がないだろうけど)。
そして、例の写真の一部はDVDに焼いていたものから取り出すことにしよう(元のようなグルーピングは無理だけれど*)。手間だし、うまくいくかどうかもわからないし、復旧できるのは一部だけだが、いわゆるクリーンインストールした新しいiMac(OSは古いけれど)が手に入ったのだと思えばいい、と考えることにしました(前向きになる練習は、少しずつ効果を上げているのではあるまいか)。
ところで、プライムビデオで見る『新米刑事モース』も、シリーズ1だけで終了してしまった。で、次に見るものはと探していたら、アメリカ製の『コールド・ケース』にいきあたった。映画『トップガン』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』のシリーズをはじめとする多くのヒット作を製作したジェリー・ブラッカイマーが手がけた(なんと、『さらば愛しき人よ』も)。迷宮入りした事件発生当時の時代描写と殺人事件発生に始まり解決に至るまでのプロットは完全に定型化されているようで、今のところは面白く見ている(神は細部に宿る)が、飽きるかもしれない。ただ、現在と未解決事件当時を行き来し、当時流行ったポップ・ミュージックで、その時代を彷彿させるのは面白い(先回はキム・カーンズの『ベティ・デイビスの瞳』が流れた)。
主役のリリー・ラッシュ役のキャスリン・モリスは表情や仕草にちょっと最盛期のメグ・ライアンぽいところがあるし、『キャッスル ミステリー作家のNY事件簿』のべケット刑事を思いださせる場面もある。そして、主役陣はやっぱりそれぞれに問題を抱えているようなのだ(性格づけを複雑にしようとするのは、ちょっとした流行り?)。しばらく、続けて見ようかな。こちらは、シーズン1−7全156話(44分/話)がプライム特典で見ることができる(でも早く見ないと終了してしまうかも)。
(そんなものを見ている場合じゃないでしょ!)わかっているのです。あとは片付けに取り組むだけなのだ。いまのところなかなか進まないけれど、いったん手をつけることさえできれば、少しでも体も動くようになるのではあるまいか(希望的観測)。
何にせよ、面白い、楽しいと思えるような場面や喜びのある空間を早く作り出さないと、「現役」として生き延びるのは危うくなりそうなのだ。諸事情で、次の展開の展望はなかなか描けないけれど、まずは自宅からだ。
* 後になってから、内臓のSSDを取り出して、専用のケースに入れてマウントできるかどうか試してみたらどうかということに気づいた(ずいぶん間の抜けたことだけれど、これは昔から変わらない。で、アップル・サポートに電話して、紹介してくれた業者に聞いたのですが、即断念。できたとしても135,000円以上かかるというのでした。これは、無理。一縷の望みは瞬時に幻となったのでした)。でも、アップルのリサイクル・プログラムというのがわかってよかった(捨てる神あれば、拾う神あり)。
そのせいということでもないけれど、昨日の七夕の空を見るのを忘れた。
そして翌日、元総理の銃撃事件のことを聞いた。
* 急ごしらえの試作のままです。
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2022.07.09 夕日通信
まずは自宅から 01
やっと気づいた、間に合わせからの脱出法
まだ6月といううちに梅雨明けし、連日30度超のもはや真夏の8月のような暑さで、ニュースでは「危険な暑さ」という恐ろしげな言葉が連発されるの中で、何もしないままずっと、試験前の中学生のような気分で過ごしているうちに、ようやく(改めて?)気づいたのだった。
卵のケースのシェード
これまで、僕は手元にあるものはできるだけ使おうとしてきた。たとえば、ベニヤの端材が出たら取っておき、ブロックなどと組み合わせて棚として使ってきたし、また卒業生が残していった照明カバーとそれとは別のミニソケットの段差を解消するために、ミニトマトの入っていたカップを流用するといった具合。それはそれで、それなりに役に立ってきたのだ。
レコードプレイヤーのラック
今回も、寺前を引き上げるに当たって、レコードプレイヤーを置く棚としてIKEAの棚を自宅に運び込むことにした。こうすると、レコードもすべて収容できそうだし、背も低いのでスッキリと見えるだろう(ただ、録画したDVDの収納は未だ最適解が見つからない)。となると、今まで使っていたエレクターシェルフが余ることになる。これはたぶんスチルラックの草分け的な存在だし、今のものとは違って、細い材を組み合わせたデザインはシンプルで好ましく、色々な使い方をしながら長い間使ってきた(それなりに高価でもあったのです)。そこで、これをどこに使おうかとずっと考えていたのだ(貧乏性!おまけになかなか適当な場所が見つからなかった)。
でも、これがいけないのだ。諸悪の根源。僕の「貧乏性」(でもいつ頃からなのだろう)が生活や空間を、思惑とは逆に、字句の意味そのままに貧しくしてきた。代わり映えもせず、何よりモノが減らないので抜本的な解決にならないのだ。
それで、今すぐに使う必要がないものは、無理に使おうとしたり溜め込んだりせずに、一旦手放して、本当に必要になった時に改めて揃えればいいのだ、と思い直した(ちょっと、寂しい気もするし、もったいない気もするけれど……。おっといけない)。すなわち、文字通りリセットするのだ。それでも、いっぺんにというわけにはいかないので、当面間に合わせで使わざるを得ないものは、おいおい入れ替えてゆくことにする。
ミニマリストのように何が何でも少ないモノの中で暮らすということでもないし、”Less is more”を実践しようというわけでもない(モノ好きな僕には、無理)。ただ、不要なモノ、好きじゃないモノのために家賃は払わないことにするのだ。
この方が、自分の望むインテリアに近づき、気持ちよく過ごせるだろうし、日常生活を丁寧に営むということにつながるだろうと思うのだ。そして、初期費用は高くついても(新しく購入するときはもちろん、捨てるのにさえもお金がかかるのだ)、最終的には費用対効果も上がるだろう。本当に必要なもの、大事なものを見極めなければいけない。思えば、これまではそうしてこなかったのだ。間に合わせの暮らしから脱出するのだ。残りの短い時間を同じようにして過ごすわけにはいかない。真剣に取り組まなければならない。
行き詰まったり、考えあぐねたりした時には、一度元の形に戻ってやり直す、素の状態に戻して考え直すというのが良さそうです。
ほんのちょっと進むのにずいぶん時間がかかったけれど(人の何倍?)、今回がそのための第一歩。あとは実行するのみだ。一進一退から3歩進んで2歩下がるという案配で、なかなか急激には変わることができません。ただ、その時のやり方として、その時々で対応する日本式がいいのか、それともあらかじめ計画を立てるヨーロッパ型がいいものか。何れにせよ、こんなふうでは、時間が足りるかどうか心配。人の何分の一分しか生きられなさそうです。でも、こうして地道に続けていくしかありません。たぶん、魔法はないのだから。と言いつつも、量の多さにひるんで、殺人的な暑さの中でさえ、つい身体が凍り付いてしまうのです。
辻仁成は、息子の独立を機に、パリの住まいを引っ越そうとしてお気に入りのアパートを見つけたのに、アーティストだという理由で断られた。それが、大学の先生を肩書きにして再申し込みをしたら、OKだったという(帝京大学の特任教授らしい)。やっぱり現役じゃなくてはいけないのだねえ。でも僕は、まずは現役の「丁寧な暮らしを目指す生活者」となるべく、頑張ろうと思います。
* 急ごしらえの試作のままです。
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2022.07.02 夕日通信
スタジオが欲しい 01
小さな三角地をめぐる妄想が再燃
先日、以前ここでしばらく取り上げていた小さな三角地のそばを通ったら、おじさんが一人枝を刈っているのが目に入った。そこで、せっかくだからと、思い切って声をかけ、「これはどなたの所有地ですか」と聞くと、この辺りの地区の共有地だという。元はテレビ塔(?)が建っていたらしい。
三角地1
三角地2
これを聞いて、ここを借りて書庫(というか、文字通りスタジオと呼べるようなもの)を建てることができたらいいと、またぞろ妄想が湧いてきた。
賃料は前金で払って、家賃保証会社とも契約して、建物はゆくゆくは集会施設として使ってもらうという条件ではどうだろう。どのくらい出せば、借りられるのだろう?妄想は膨らみはじめ、とどまるところを知らない(実際には、隣家との関係がむづかしそうだけれど……)。
ただ、そのためには、大きな壁がある。経済条件を整えなくちゃいけません。無職のトシヨリには貸してくれないということがわかっているからね。稼がなくちゃいけないのです。さて、何ができるだろう。遺産や宝くじは、実現性がゼロかほとんどない。しかも、自分ではなんともならない。投資やギャンブルも縁がない。となると、やっぱり仕事をするしかないようです。となると、まずは仕事探しか。さて……。
そういえば、安藤忠雄は、「仕事は自分で作る」と言っていた。
以前にも書いたことがある「間取りアドバイザー」としての存在を周知し、プラン集を作って公開する、というのはどうだろう。
で、大急ぎで作ってみた。
急ごしらえのため、使えるようにするためには、作り直さなくてはいけません(ちょっと、手に余るかも)。
でも、こんなことをしている場合じゃないことはわかっているのに、いつまでも試験前の生徒みたいなのは、ほんとうに困りもの……。
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2022.06.25 夕日通信
ほんとうに大事なこと、大切なもの
レシピよりも、食材よりも、道具?
これって、まさに道具が一番ということなんだけれど、いったいどういうことなのだろう(というのもちょっと変な訊き方ですが)。料理する人はまず、料理そのもの、あるいはその過程、すなわち何をどう作るかがいちばんの関心事のはず。道具よりも、レシピ、そして食材が大事。でも、僕はちょっと違うのです。だからほんとうの料理好きじゃないんだよ、と言われそうですが……。
それで、何が好きかと言われれば、料理道具、と即答しそうなのです。道具と言っても、キッチンセットやビルトインのオーブンといった大物ではなくて、たとえば包丁やら取り分けスプーンやらの手にとって使うもののこと。これは一人暮らしを始めた学生の時から変わらない。一時は鉄製のフライパンだけで大小6つほどもあったのではなかったか。中でも大事にしていたのが、オムレツ専用の22cmのもの。当時はテフロン加工などというものはなかったので、大事に育てなければいけなかった(このことを、伊丹十三から学んだ)。
鉄製フライパン(一部)
いまはオムレツ(パエリアも時々)はテフロン加工のもので作るけれど。でも、焼き物は基本的に鉄製のフライパンです。使い込んだものだとなんだか上手にできるような気がするし、共に育ってきたというような仲間意識もある。それで、フライパンの種類ははさらに増えて、鋳鉄製(ロッジ製他)のものや赤尾のアルミ製のものがあるし(これは主にパスタ用)、そのほか溝があるステーキ用、そしてもちろん中華鍋もある(もしかしたら、うんと狭い台所に、鍋類は町の小さな食堂くらいの品揃えかも)。なければないで、どうにでもなるけれど。
そのほか、アルミやらステンレスやらホーロー製の厚手の鍋も深さや大きさの違うものがいくつかある。アルミ鍋はアルツハイマーの原因と言われた時があって、それからしばらくはステンレス製(無名のものが大小いくつか。フィスラーのものは大きすぎて手に余る)の鍋に切り替えたけれど、今またアルミ鍋(主に中尾アルミのプロキングシリーズ)を使うことが増えてきた。なんといったっていかにも料理をつくっている気分になるし、底の部分だけじゃなく全体が厚いのは、頼もしく、美味しいものができそうな気分になる。それに、もはやアルツハイマーのことを気にしてもあんまり意味がないような気もするし……。ホーロー製(ストウブ)のものは、重いけれど見た目が断然いいですね。
形から入る、というのは批判されることも多いけれど、ぼくはいいと思う。見た目や佇まいが与える喜びはおおきい。実際に使うときの嬉しさもある。それは、結局は、使う者を作る喜びに導くだろうと思います。
だから「台所と道具」などという特集の雑誌があると、必ずと言っていいいほど買ってしまうのです(雑誌は毎年特集をローテーションしているようだし、同じ会社の別の雑誌でも似たような企画をすることも、知っているのです)。いまだに、時々ですけれど、台所の道具を買うことになるのです。だから、集めたというよりも集まったということで、行き当たりばったりの性格をよく表しているように思えます(計画を立てるのは好きなのに……)。一方、家具なんかは、端材板とブロックなんかを利用したりして、案外間に合わせで済ませることもあるのに(往々にして、これもダメなのはわかっているのですが)。ま、空間と経済的な制約が大きいこともあるのだけれど。
でもここにきて、いよいよこうした態度を改めなくてはならない事態が出来したわけです。今まで2つの場所に分けていたものを、一つにまとめなければならなくなった。自宅に運び込まなければならず、家にあるものも取捨選択して場所を増やす必要が生じた。調理道具に限らず、レシピよりも、食材よりも、道具などといってむやみにものを増やしたままにしておけなくなったのです。さらに、「道具は多種多様に持たないことが、料理上手への早道*」という言葉もあるようだった。道具より段取り力ということのようです。
このことも、手を拱いているだけでは進まないのも十分わかっているのですが、ただ、実のところどこからどう手をつけていいものか途方に暮れるばかりなのです(いつまでもこのままというわけにはいかない)。
今まで、本質よりも表層しか見ていなかったということ、すなわちていねいに暮らして来なかったということを思い知らされます。大いに反省しなければなりません。ま、過ぎたことはしようがないので、これからは40年近くにも及ぶツケを清算し、本当に必要なもの、気持ちを豊かにしてくれるものを精選しなけれなりません。もはや長くはないとはいえ、過去よりもこれからのことが重要なのだ(ただし、決意を新たにするばかりで、なかなか進まない。年をとると、怠け者を克服するのはますます大変だ。だから、こうしてなんとか気分を奮い立たせようとしているのであります)。
* 『ちょっとフレンチなおうち仕事』のアマゾン試し読み
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2022.06.18 夕日通信
番外編 02 久しぶりの銀座、久しぶりの再会
庭の小鳥たちに教わる
久しぶりに銀座に出かけてきました。コロナ禍でしばらくできなかった、年に1回か2回の3人(僕が最年長)の集まり。せっかくだからと思って、少し早く出かけて、伊東屋とアップル、松屋に寄ることにしました。好きなものを買う(といっても、今回はダイモのテープとビックの3色ボールペンの替え芯)のは嬉しいし、美しいデザインを見るのは楽しい。歩いていると、銀座はその間にもけっこう変化したように見えたけれど、どうなのだろう(何しろ、お上りさんです)。ブランドの旗艦店がさらに増えて、新しいビルやファサードで景観も新しくなったような気がした(実際のところはわかりませんが。それでもまあ、不思議はない。何しろ日本の代表的な高級商業地区なのだから)。
集まりは3年ぶりということで、いつも店選びを引き受けてくれる食通のYさんが今回選んだのは、いつもよりさらにちょっと高級な韓国料理店。
某韓国料理店個室内部
まずは、黒い服に身を包んだウェイターが個室に案内してくれる。3人の席としてはけっこう広い。ただ、窓がなく、夜景が見えないのは残念。続いて、コースの11皿の説明があり、僕なんかはフーンとうなづくばかり(僕は、こうしたところで食べる韓国料理は初めてだった)。一皿が運ばれてくると、その度に同じように説明がつく(食事中に、これが必要なのかどうか。その都度、会話は中断されるのだ)。この他にも、種々のサービスは至れり尽くせりだった。
肝心の味はといえば、もちろんまずいわけはないが、至福の味というほどではない気がした。ただ、仕事柄あちらこちらでうまいものを食べ慣れてきた2人はおいしいと言っていたから、僕の口に合わなかった(わからなかった)だけということですね(どうやら、分相応の庶民的なものが合っているようです)。初めて食べる伝統的な正統韓国料理は乾物が多く、ちょっと甘い味付けのような気がした(欧米人は和食について、同じように甘いと感じるらしい)。
その席で、今の状況をちょっとだけ相談すると、2人ともが、モノを保管するために新しく家賃を払うのには賛同しなかった。理由は、もう一度読む、観るというのはほとんどないし、よしんば読みたくなってもたいていのものが安く手に入れられるからというものでした。これについては、もう言われるまでもなく、確かにそのとおりなんですね。わかってはいても、改めて人に言われると重みが違ってくる(ちょっとキツイ時もあるけれど、たぶん、背中を押して欲しい気があるのでしょうね)。何しろもう一人のHくんは、本でもなんでも一定の収納量を超えると処分する(させられる)し、音楽は全てデータ化したものを聴けるようにと機器類も買い換えた(同時に、スピーカーは大きなJBLに変えた。すなわち、合理化が目的というわけではなく、家事と同じように、日々の生活をていねいに暮らすためにということなのだ)。だから僕の場合は、要点は、手元にある喜びや安心感、そして快適さ、これらと合理性との折り合いをどこでつけるか、ということになる。
庭にやってきた小鳥
さて、先に書いたように草が刈り取られてさっぱりしたアパートの前庭には、何種類かの小鳥がやってきます。これらを見るのは楽しいのだけれど、いざ写真を撮ろうとするとなかなかむづかしい。カメラを向けるとすぐに飛んで行ってしまいます。あちらこちらに移動するし、何しろじっとしていないのだ。どうやら餌を探しているよう。彼らもさっぱりと片付いているところが好きなんですね。スッキリしていると、餌も見つけやすいに違いない。
同じように、本でも何でもすぐわかるように、整理されていなければならない。どこにあるかわからずに、あちらこちらを探すようでは持っている意味がない。死蔵していてはただの場所ふさぎだ。おまけに、他の生活を圧迫することおびただしい。これからは、この考えを徹底しなければならない。もちろん、「言うは易く、行うは難し」のことは十分に認識していますよ(実は、このことも指摘された。もはや、「タラレバじゃない。ヤラネバなの*」だ)。定期試験前の中学生のような態度はすっぱりやめて、体を動かして、これを実践しないことには、使わないもののために、必要なものを置けないことになってしまう。サッパリと片づいた、快適な空間が得られないのだ。おまけに、こちらは鳥の目よりはるかに感度が悪い。
一生は一度である。
人間というものは、一生は一度だ、ということを忘れがちになって、つい、くよくよしてしまう。
人間だから仕方がないことだが、苦しんで生きても一生、悩み続けて生きても一生、そして、楽しんで生きても一生なのである。
(辻仁成退屈日記「ハッピーさんに出会うと人生がちょっと愉快になる」)
誰もが幸せに暮らす、もう少し正確に言うなら、快適に暮らす権利があるはず。少なくとも自ら招いたことばかりではないことに悩まされず、ある程度快適な空間で穏やかに暮らすこと。
これまで、誇れるようなことは何もしてこなかったけれど、決して短くない間働いて過ごしてきたのだ。残りの生活を悔いなく過ごすために、そのくらいのことを願ってもバチは当たらないだろう。と思った瞬間に、そのためにささやかな贅沢をしてもいいものかということが頭をよぎるが(貧乏性!)、思い切らなければならない。10年なんて、ほんとうに、あっという間に過ぎてしまうのだ。
* 『犯罪は老人のたしなみ』カタリーナ・インゲルマン=スンドベリ/木村由利子訳(創元推理文庫)
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2022.06.11 夕日通信
番外編 01 「人生100年時代」は甘くない
トシヨリには生きにくい世の中を実感する
本やCD、DVD等の引越し先を探すために先日訪ねた、とある不動産屋での会話。
小さな店構えの扉を開けると、すぐ右手に机があって、その奥には僕より少し若いと思しき女性が座っていた。その時のやりとりをかいつまんで、少しだけ。
「こんにちは」
「○さんですね」
「ええ。よろしくお願いします」
「今はねえ、なかなかむづかしいんですよ」
「ええ」
「大家さんからは以前は△学院と聞いていますが、今、お仕事は?」
「はい、去年退職しました」
「ということは、収入は年金?」
「ええ、まあ。ほとんどそうです」
「そういう人にはなかなか貸したがらないんですよ、定職がない人にはね。自由業の人も同じです」
「やっぱり」
「家賃のこともありますしね」
「家賃はなんとかなりそうです」
「でも、エンゲル係数じゃないですけど、収入に対する家賃の割合が高いとね。ほら若い人が月収20万なのに、家賃が15万円のところなんていうのはね、貸せないんですよ」
「はい。でも家賃はいちおう大丈夫です」
「うーん、でもねえ。これから、何にしてもお金がかかりますよ。介護付きの老人施設なんかは月に40万ですよ。うちは遺族年金なんかもあるから、まだいいですけど、それでもね、とても払いきれませんよ、年金だけじゃあ。年に480万、10年だと4800万ですよ」
「ええ。大変ですよねえ」
「なんかあったら困りますしね。お風呂の中で亡くなっていた、というようなことがあるんですよ、実際」
「そうなんですか」
「ええ、それがねえ、結構あります」
「(うーむ)」
「だからねえ、不動産業者仲間でも、老人だけ集めたマンションを作らなきゃダメだなという話が出たりしますよ」
「今のところでも70平米弱ありますでしょう?」
「はい」
「そこでなんとかならないんですか」
「はい。実は、こっちのほうもいっぱいなんです」
「私もね、ここを継ぐ前はデザイン関係の仕事をしていたので、洋書なんかもあってね、本は捨てられなかったんですが、結局5年かけてね、断捨離しましたよ」
「ええ。そうするのがいいんでしょうね(できることならね)」
「買うということならね、好きなようにできますよ」
「そうですね。でも、いつまで元気でいられるかどうかわからないからなあ」
「今や、人生100年時代ですよ。まあ、85歳くらいまで元気だとして…。うちの父親がそうでしたけれど」
「はあ。もしできるのなら、買うよりは、建てたいなあ…」
「でも時間もかかるし、面倒だし…。その点、マンションは冬なんかあったかくていいですよ。新築は無理でも、小さな中古ならなんとかなるでしょう。今が最後のチャンスですよ」
「ええ、そうですね」
「あとは、都市部を離れるとかですね」
「でも、高齢者には貸したがらないんでしょう?」
「まあ、貸してくれるところもあるかもしれません。そして安いです」
「はあ」
「方向性が決まったら、お手伝いできると思いますよ。その時は、連絡してください」
「あ、はい」
高齢者は招かれざる客*
大雑把に言えば、要するに、高齢者は持ち家がなければ、住むところさえ確保することがむづかしいということですね。五木寛之先生の『捨てない生きかた』には共感するところ大なのですが、これも持ち家あってのことのようです。
国や自治体は何をしているんだと思うけれど、すぐにどうなるものでもない。それの善し悪しは別として、自分のことは自分で守るという考えを持っていた方がよさそうです。
もはや、実際的に取りうる選択肢はほぼ限られたようです。こうした事態を招いたのも、僕自身がこれまできちんと考えてこなかったせいでもある。今回ばかりは、そのその場凌ぎも、間に合わなかったようだ。自業自得。後悔先に立たず。
若いみなさんは、なんであれ、やりたいことをやるのがよい。どうぞ、精一杯、おおいにおやりください。ただ、ある年齢に達したら、先のこともきちんと考えて手を打つ方がよろしい(かも)。
ところで、約半年ぶりに伸び放題だった草が刈り取られた前庭に、いろいろな小鳥がやってきます。彼らもやっぱり、さっぱりしたところが好きなんだね。
* 写真は東洋経済のウェッブサイトから借りたものを加工しました。
2022.06.04 夕日通信
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小さな喜びから始める 01
100を諦める
本とDVD類の引越し先がなかなか見つからない。珍しくこれはと思ったものがあっても、空きがなかったりする。まあ、今は引越しの多い季節とは言い難いから、仕方がないのかもしれない。また、高齢者には貸したがらないという話も聞いたことがある(前途多難!)。プロジェクトの貸主との交渉経過は、依然として不明のまま。
ちょっと遅きに失したと思いつつ、念願の新しく建てることを考えてみるけれど、これも土地の手配やら計画やらで、時間と経済の問題があってむづかしい。
あるものでなんとかするしかない。これまでもやってきたことだ(そのことが、今のような状況を招いた遠因であると言えなくもないけれど)。
となれば、ものを減らすか、今すぐ借りることができるもので手を打つか。この2つの選択肢しかない。
しかし、減らすとしてもすぐに減らせるわけでもないし、選んでいる時間がないのだ。ものを減らすことで実際に困ることはほとんどないだろう。ただ、ものだけでなく精神のありようの一部までがなくなってしまうような気がする。したがって、できれば捨てるのは最小限に留めて、大部分は残したいともいう気持ちが勝る。それから少しずつ減らしていくというのが、現実的なようだ。
僕が「台所で遊ぶ」ために最適化した台所は諦めなければならないが、工夫次第でそれなりに楽しむことはできるだろう。考えてみれば、慣れればたいていのことが気にならなくなるという事もある(残念ながら、欲しかったものを手に入れた時の喜びでさえもそうだ)。海を眺めるということができないのは残念だけれど、海を見たくなったら出かけることにすればよい。
となると、選択肢はほぼ定まる。100か0かではないのだと考えることができるならば、そうなる。第一、100(すなわち、理想に近いもの、よりいいもの)を求めていたら、手に入れる前に、何も手にすることなく終わってしまいそうだ。自分でデザインできないのは心残りだけれど。
少し遠くても海が見えるところか、それともすぐ近くか、何れにしても、まずは短時間のうちに手に入れられそうなところを探すしかないようだ。十分に検討することができないのが気になるけれど、そうすれば、経済的な痛手は変わらないものの、いくつかの問題は解決する(おまけに、誰かの好意や助けをあてにしないですむ)。少なくとも、今の状況は解消して、いくらかマシな気分になって、体調への悪影響も小さくすることができそうだ。幸か不幸か、お金をかけないで暮らすことは、僕にとってはこれまでと同じ、ふつうのことで、たいして苦痛じゃない。
イームズ ラウンジチェア*
そして、もう一つ、手に入れられることができるものなら、最後の大物として(といっても、ささやかなものですが)、イームズのラウンジチェアとオットマンのセットがあるといい(ここで、映画を観る。渡辺武信は、友人宅で初めて座った時につい眠り込んでしまったほどの心地よさと書いていた)。ついでに、もう一つ、ハードイチェアも。これらを新しい場所に置くことができたら嬉しい。程度のいい中古を見つけることができれば、それほど過大な負担にはならないだろう。ちょっとゴージャスだし、インテリア空間を選びそうで「掃き溜めに鶴」となる可能性も無くはないけれど、逆に椅子の方が救ってくれることもあるかもしれない(この確率の方が大きいはず)。
* 写真はハーマンミラーのウェッブサイトから借りたものを加工しました。
2022.05.28 夕日通信
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ご近所の小さな喜び 01
うつくしい草花、あたたかな心
小さな庭1
ハガキのための草花の写真を撮ろうと散歩していたところ、人通りの少ない細い道に接した庭の向こうに白いバラの花が見えたのでカメラを向けていたら、ちょうど窓を開けたそこの住人の女性と目があった。彼女は外へ出ると、こちらへ向かって歩いてきた。一瞬咎められるかと思ったが、まず挨拶をし、事情を説明すると、こちらにも可愛い花があるからと、細い金属製の扉を開けて小さな庭のなかに招き入れてくれた。
なんだか悪いような気がして、一旦は固辞したのだけれど熱心に誘ってくれるものだから、その言葉に甘えることにして庭に入り、写真を撮り始めると、「もうあれも、そろそろ終わりね」とか「ここからもいい写真が撮れますよ」とか、いろいろと教えてくれる。
小さな庭2
色とりどりの花を眺めながら、「花の名前がわからないのです」と言うと、これもひとつずつ教えてくれた(すでに、もう忘れたものもあるけれど。知識のなさや記憶力の乏しさを恥じるのはこういう時だ)。それにしても、名前がわからないというのはさびしい。花であれ星であれ、なんにしても対象の名前を知らないで、それらをほんとうに知ったことになるのだろうか。
その前にも、道沿いの少し遅めの桜の花を撮っている時に、おじさんが出てきて、色々と説明してくれたことがあった。
まだその機会はないけれど、もし、また彼らと顔を合わせたならば、会釈くらいはするだろうけれど、特に親しく付き合うということはたぶんないだろう、という気がする。
地域社会と言うと何やら大袈裟だけれど、それでも案外こうしたことがご近所に暮らす喜びかもしれない、という気がしてきたりするのだ(自分ができることは、せいぜいこうしたことくらいかもとも)。
もっと濃密な関係があってこその地域社会だとか、いや経済的な結びつきが大事だ、という意見もあるかもしれないし、もっともだとは思うけれど……。まずは、文字通りの意味での「一期一会」の機会と場所を大事にして暮らすことからはじめようと思う。そうして、日常の生活を手を抜かないでていねいに過ごすためのひとつとするのだ(小さくとも、実践こそ。ものを減らす事も、そのひとつなのだろうか)。
2022.05.21 夕日通信
*コメントやつぶやき等を、こちらから、お気軽に。
「海ちか」プロジェクトからの撤退 01
天の啓示か
その後、何か行動しなければと思って、寺前の部屋に出かけてきました。ぼんやりしていたら、時間は文字通り飛ぶように過ぎていく(今回は、ただの現場確認ということになったのだけれど)。
居室の現況1
居室の現況2
結局、内装をやりかえた後のここでの作業はといえば、家具を運び入れ、箱から本とDVDとCD、そしてレコードを出し、もう一度箱詰めし、搬出するということになる。つまり、搬入して、同じものを運び出す、ほとんどそれだけで中間はない。Nice Space として使うことができないままでした。
いくらか持って帰れそうならそうしようとしたけれど、車の使用が不許可なので、それも断念することに。それでも、せっかく来たのだからレコードでも聴いて帰ろうと思った(当然ながら、これまであんまり聴くことができなかった)。ここにはポピュラー音楽とジャズのものしか持ってこなかったから、スティーリー・ダンの「彩(エイジャ)」を取り出してかけた。少し大きめの音が鳴り始めると、やっぱりレコードはいいなあと思いながら辺りを見回した。と、しばらくして僕の耳でもはっきりと、「…get out of here」というフレーズが聞こえたのだった。1曲めの「BLACK COW」。歌詞カードを見ると、Drink your big black cow And get out of here とあった。で、思わず苦笑いして、すぐに帰ることにしたのでした。
うちに帰って調べて見ると、BLACK COWというのは炭酸飲料の1種であるルートビアにアイスクリームを浮かべた飲み物のことのよう。直訳すれば、「君のビッグサイズのブラックカウを飲み干し、ここから出るんだ」ということでしょうか。飲み物はなかったけれど、天の啓示だったのかも。
こちらの気分とは関係なしにいい天気だったので、帰りは八景まで歩いた。
2022.05.07 夕日通信
*コメントやつぶやき等を、こちらから。お気軽に、ぜひどうぞ。正直なところ、反応がないと元気が出ません。(a poor old man)
「ごっこ遊び」
台所を楽しくする方法 8
「若い時は、確かなものに憧れ、確立しようとする」(そうだったかもしれない)。「年を取ったら、それに囚われないことが大事だ」(たしかに)。という話をずっと昔に読んだか、聞いたかしたことがあった。そのせいか、(よくは覚えていないけれど)昔は「こうである」、「これでなくてはいけない」と書く人に憧れていた。今は羨ましく思わなくもないけれど、たいていの場合は遠ざけておきたい気がする。本当にそうですか、絶対に?と言いたくなるのだ(これも年取った証しなのか)。
ともかくも、習慣の呪縛から逃れるために、毎日を「ごっこ」で過ごすのはどうだろうと考えた。今日は、「居酒屋ごっこ」、明日は「ジャズ・バーごっこ」、明後日は「蕎麦屋ごっこ」という具合に。半分、空想の世界に遊ぶのだ。同時に、現実から逃れることであるかもしれないけれど。
高山邸の台所 *
元々は、料理家の高山なおみさんに触発されたものだけれど、彼女は東京での生活を切り上げて神戸で一人暮らしを始めた時に、そこでできた友人を家に招く際には、「串カツ屋ごっこ」やら「焼き鳥屋ごっこ」(たぶん)とかのテーマを決めるらしい**。
何しろ、気分が大事なのだから(先日は英国パブ風)、意識的にやるならば、習慣から逃れるのにいいかもしれない、というか、アタマの老化や劣化、硬化を抑制しつつ、退屈を凌ぐのにも。それなりに、楽しめそうです。だから、この「『台所』で遊ぶへの道」でもそうしたことを試みてきた。
好きなことは一人でも続けられるというけれど(たしかに、映画を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたりすることは相手がいなくてもできる。むしろ、その方がいい場合だってある(僕は、映画を観るときや演奏会のときに、隣に知っている人がいると、落ち着かないのです)。しかし、その後しばらく経ってから、話すことがないのは、ちょっと寂しくもある。
それにしても、「建築家ごっこ」はうまく行きませんね。いくら好きなこととはいえ、依頼主がいないと、なんとも張り合いがないのです。自身が依頼主なのだと見立てても、この場合は願望が強い分、不意に実現性のことが気になってくる。たいてい願望はあんまり変わることがない。その結果、次第に夢見る力が痩せていくようなのです。
しかも意識は、そもそも演じる人生というのはどうなのか、ということに及んでゆく。おもしろうてやがて悲しき鵜飼かな(松尾芭蕉)。むづかしいね。ま、自身が空っぽだとしたなら、演じ続るしかないようだけれど……。
先日、英国製のドラマを見ていたら、イギリスには、"You can't teach an old dog new tricks"ということわざがあるらしいのですが、なるほどそういうものかと思った。たしかに、年をとると新しいことは身につけられないかもしれない(おまけに、あんまり新しいことにめぐりあう機会も少ないのだから)。でも、自分なりにやるしかなさそうです(ドラマの主題歌の中でも、そういっている)。
* 写真は、ブログ「晴れ時々くもり」から借りたものを加工しました。
** 趣味どきっ!「人と暮らしと、台所(8)「料理家・文筆家 高山なおみ〜ひとりを楽しむ〜」(2020年9月22日)、NHK Eテレ
2022.04.30 夕日通信
*コメントやつぶやき等を、こちらから。お気軽に、ぜひどうぞ。正直なところ、反応がないと元気が出ません。(a poor old man)
外で食べたい
台所を楽しくする方法 7
皆さんはどこで食べるのが好きでしょうと書くと、もしかしたら、あのレストラン、どこそこの食堂がいいというような答えが返ってくれるかもしれません。でも、ここで言うのは家の中、というかその周りを含めた場所のことなのです。
というのも僕は、台所を楽しむための工夫の一つは、やっぱり外で食べる場所があることだと思うのです。これまでにももう何回も書いてきたように、僕は外で(いうまでもなく、外食ではなく、屋外の席ということです)食べることが好きなのです。
わが国でも街中でテラス席を目にするようになってもう久しいけれど、それでもまだ屋内で食べるほうを好む人が多いような気がする。お店に入って、テラス席もあると言われても、そちらを選ぶ人の割合はどのくらいだろうか。それほど多いとは思えないのだけれど、さてどうでしょう。特に、女性の場合は屋内の席を選ぶ人が多いのではあるまいか。もしかしたら、昼間だったら、女の人は日焼けを気にするのかもしれませんね。
ヨーロッパあたりでは、それが逆転しているかのようです。僕の小さな経験でもそうだったし(外の席から埋まって、中でもいいかと言われたことがある。高級店のことは知らない)、映画なんかでも外で食べる場面はよく出てくる。ヨーロッパでは冬が長いために、夏の間に日差しをたっぷり浴びる必要があるというような健康面での説明を聞いたことがあるけれど、僕はそうじゃない気がする。そういう面もあるかもしれないけれど、むしろ町との関わりとか開放的な楽しさだとかと言ったことの影響が断然大きいのではあるまいか。夜でも冬でも、外で食べたり飲んだりしている人がたくさんいるようです(若い人は、これから出かける機会があるでしょうから、自分の目で確かめるのがよろしい)。
ともあれ、僕の場合は、断然楽しいからですね。そこから見る景色や光や風も楽しいし、聞こえてくる音や行き交う人を眺めているのもおもしろい。気分も開放的になるから、よりくつろいだ気分で、食事もお酒もおいしく感じられるように思います。
即席のテラス席
窓辺の席
で、これまでのスケッチでもそうした場を考えてきたし、住んでいるアパートでも試みたことがあります。まず最初は、ベランダにすのこを敷いて小さなテーブルと椅子を運んで、テラス席をこしらえた。これはこれで楽しかったのですが、いちいち運んだりしまったりというのが面倒になって、結局やめてしまいました(洗濯物やらお布団を干さなくちゃいけないこともあるし、何と言っても狭いのが難点だった)。その次は、掃き出し窓の前に小さなテーブルを置くようにして、今でもここで楽しむようにしています(学生には、ガラス面にくっつけて家具を置いてはいけませんと言いながら、自分がやっているわけです)。窓を開け放てば、ひさしかテントのある外とほぼ近い気分になります。最善の策というのが無理なら、次善の策をというわけです。
完璧を求めて諦めてしまう(ま、これはこれで潔いと言えるのかもしれませんが)よりも、似たようなものでも楽しむほうがいい時が多いと思います。料理する場合でも、レシピに紹興酒とあって、これがなければ作らないというよりも日本酒で代替するほうがマシという考え方なのです。たとえば、「仔牛肉のマデラ酒を使ったソース、シャンピニオン添え」という料理が仮にあったとしたら、「豚ヒレ肉の白ワインとみりんのソース、しめじ添え」になったとしても。だからダメなんだという人もいるでしょうけれど、ま、人それぞれですね。
完璧が実現するまで我慢するよりも、今できる範囲で工夫して楽しむほうがいい。というかそう考えないと残された時間を楽しむことができないのです(結局は年取ったせいということか?でも、なかなかそうとばかりも思えないこともある……)。
* 写真は、これまでの記事の中で使ったものを再掲しました。
2022.04.23 夕日通信
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新しい道具
台所を楽しくする方法 6
滅多にものを買うことがなくなって久しいのだけれど、それでも増えるものがいくつかあります。
最近増えたものの一つは、酒器のちろり。誕生日のお祝いに妹がくれたもの。実は、錫製のちろりはずっと欲しかったのだけれど、なかなか踏ん切りがつかなかった。燗酒のうまさが一段上がると言われますが、ま、なければなくても済むし、とくに困るわけではないのだから…(貧乏性)。「鎌倉清雅堂」から送られてきたのですが、製作は「鎚起工房 清雅堂」で新潟にあるらしい。注文を受けてから作るのか、何ヶ月か待たなければならなかった。槌目のあるものとそうじゃないシンプルなものの間で迷いましたが、結局槌目のものにしました。大阪の老舗の錫器制作会社の手になるシンプルな器もどっしりとした厚みを感じさせてよかったのだけれど、最近は槌目のものに惹かれるのです(例えば、取り分けスプーンとか)。
ちろりと徳利
形は、見てのとおりちょっとおデブのペンギン(丸みを帯びていて愛嬌がある。こちらを女性的とすれば、もう一つのものは極めて男性的形態)という感じで、ふだん使っている白い磁器の徳利とは異母兄弟のよう。こちらは、細身でスッキリしています(そういえば、これも誕生日にもらったもの)。
ガステーブル
台所関係のもう一つは、ガステーブル。これまで使っていたクロワッサンの大バーナーが不調をきたしたために、やむなく買い換えることになった(実はアパートの10戸のうち、うちを含めた2軒だけがシステムキッチンじゃないのだ)。一昔前の家庭用と同じく、安全装置は立ち消え対応だけで、センサーなしの業務用。このため、強火を連続して使える。ちょっと小ぶりで、シンプルそのものです。
以前のクロワッサン同様、2口しかないし、五徳はクロワッサンのものと比べるとずっと細身だけれど、境目なしで平らにつながるので、使い勝手はいいかも。内炎式というのは初めてですが、これも面白い(鍋底に当たる火が均等に回りやすいらしい)。ただ、そのせいか五徳の口の径が大きいので、小さな鍋を使うときは気をつけなければいけない。
ま、いずれも僕の舌と腕ではあんまり影響がなさそうですが、それでも気分は違う。ささやかな楽しみのためには、この気分というのが大いなる影響を及ぼします。新しい「台所」の方がずっと赤信号のままだから、余計にそんな気がするのかもしれません。
いいニュースが少ない中、しばらくは楽しめそうです…。今回は、ガステーブルその他、とくにステンレスの部分をピカピカの状態のまま保つことを目指そうと思う。すなわち、レストランの厨房のように、一日の使い終わりにしっかり拭き上げることを日課にするのだ。
2022.04.16 夕日通信
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赤信号は手強い
台所を楽しくする方法 5
まずは、先週の訂正から。断面にスケッチにアクソメ図をあわてて描き足したら、テーブルとカウンターの高さが同じになっていました(やっぱり、急ぎ仕事はいけません)。ま、無理すればこれでもやれないわけじゃないけれど、立ち飲みも可のカウンターの方を20センチほど高くするつもりでいました(面目ありません。ごめんなさい)。
この辺りでは、桜が見頃だった時に、あいにく雨が降りました。土曜はよく晴れて、称名寺はずいぶん賑わったようですが、日曜は一日中雨が降って、週末のお花見を楽しみにしていた人にとっては残念でしたね。家からも見ることのできる一本だけ残った桜もすっかりダメになるかと思っていたら、案外しぶとかった。翌日見に行くと、花もけっこう残っていました(散歩の途中で、少し足を伸ばしたところで見たのも同様だったので、今年の桜がタフということなのかもしれません)桜は散り際の潔さをよしとするというのが伝統ですが、たくましく生き延びる姿を目の当たりにするのはいいものだと思いました。
台所からは開放的な眺め
望ましい眺め
さて、台所で遊ぶために大事だと思うことの一つには、台所と外部空間との関係。外で食事をしたりもしたいから、台所から戸外の生活空間へのアプローチがしやすいことが大事。これまでも、敷地によっては、台所と戸外の生活空間とが隣接する案も描きました。
もう一つは、キッチンに立った時に外を眺められること(どちらかといえば、こちらの方が重要かも)。住宅の計画学ではリビングや食堂の快適性を重視するから、台所の採光や通風等は機械力に頼っても良しとしています。一般的な優先順位はその通りだと思うけれど、しかしここでは何と言っても台所で遊ぶことが主題なのだから、調理しながらの眺望も軽視できません。だいたい年を取ると、昼も家で食べることになることが多いのだから。先日の新聞の広告欄で見た『70代で死ぬ人、80代で元気な人』という本には、「昼ご飯は外食にする」、というのがあって、居ながらにして海外旅行ができるということのようでしたが、そういうこともあるのかも。ま、好き好きでしょうね。
その眺望に望むことの一番は、海が見えること(湖でも大きな川でもいいのですが)。その次は、山(あるいは、森でも林でも)。さらに次は、街(ボッシュ邸のように)、そして庭。こんなふうに、できれば眼前が開けていて欲しいのです。それも叶わないのならば、いっそ中庭風の閉じた庭、内部空間の延長外の部屋がいいということなのですが…。
ま、望みを持ち続けていると、もしかしたら、何かいいことがあるかもしれません。
2022.04.09 夕日通信
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赤信号は手強い
台所を楽しくする方法 4
いよいよ春めいて…などと書いていたら、寒の戻りでまた急に寒くなってしまいました。花冷えなどと言って響きはうつくしいのですが、ちょっとこたえます。なかなか都合よくは運ばないものですね。やれやれ。それでも、気候の方は三寒四温で良くなっていくはずなのですが。
もはや、新しい台所を手に入れる望みはすっぱり諦めて、現在の住まいの整理を進めて、いくらかでも快適性を高めることを目指すべきなのかもしれないという気がしてきます。仕事もないし、ボッシュのように臨時収入のあてもない。ポターのように印税を手にする才も、望むべくもなさそうです。なかなか上手くいきませんね(ま、これまで、職を得てなんとか暮らすことができただけでも、できすぎた幸運とすべきかもしれません)。
で、あいも変わらぬ場所で、これまた同様に紀行番組のDVDを見たりするわけだけれど、これ*によれば、ワーズワースは、革命の理想とは程遠い現実のパリから故郷の湖水地方に戻ってダブ・コテージでで暮らし始めたのは、1779年のことだというから29歳の時ということになる。若いですね。だから参考にはしにくい。おまけに、1813年、43歳の時には官職を得て、終生の地となるライダル湖畔の丘にあるライダルマウントの広大な土地に邸宅を構え、移住しているというからなおさらです**。
ところで、近代のデザインは機能的かつシンプルで装飾を嫌う、と言われる。確かにその通りだと思うし、異論はないのです。ただ、それは美意識の変化(黒⇄白)で説明されることが多いようだけれど、映し出される建物や住まいを見ていると、一方でむしろ経済と労働力の問題が大きいのではないかという気がするのですが、どうでしょうね(もしかして、あたりまえ?)。いつの時代も案外装飾好きは少なからずいるのではあるまいか。
紀行番組では、歴史的建造物や街並みを見るのもいいのだけれど、一見何でもない田園風景がいい。そこには緑が広がり、川や湖、海や山がある。羊や牛などの動物が見えたりする。そして、素朴な民家が点在していたりもして、やがて駅のある都市が現れるのだけれど、今となれば、人工物よりもこれらの方がいとおしく感じられるのですが、いったいどれほどの尽力が注がれてきたことか。そして、これを打ち捨てるのがどれほど簡単なことか。
こんなふうに思うのは、いつでも何からでも学べるということなのか、得たい情報だけを選び取っているのに過ぎないというべきか。あるいは、ただの感傷なのか。どうなのだろうね。
カウンターテーブル
さて、台所で遊ぶためには、キッチンと食卓が近い方がいいということで、このふたつを一体化したものをずっと描いてきたわけだけれど、ちょっと馬鹿の一つ覚え、芸がないような気もします。ま、仕方がない。ついでに、さらにもう一つ付け加えるとしたら、調理台の前にカウンターがあると楽しそうです。
つくる人と食べる人(いや、飲む人かもしれないけれど)がほぼ同じ目線の高さで向き合うといい。とすると、カウンターの高さは高くなるので、双方が立ったままなら問題は小さそうですが、ハイスツールに座りたくなることもあるかもしれません。そのことを考えるなら、カウンターは膝が入るスペース(正式な呼び名は知らないけれど、知っている人がいたら教えてください)がある方がいい。だから、カウンターはキッチンセットから張り出していることが重要だという気がするのです。そうすると、両者の距離も程よいものになりそうです(ま、占有面積の制約もあるでしょうけれど)。
* 欧州鉄道の旅 第68回
** Wikipedia
2022.04.02 夕日通信
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赤信号に負けないために、と思うけれど
台所を楽しくする方法 3
しばらく前に、家にちょっとした変化があった。遅ればせながら、常時接続のインターネット環境が曲がりなりにも整ったのです。と言っても、何か工事をしたというわけではなく、ルーターをコンセントに繋いだだけのもの(これがどの程度のものかは、実はよくわかりません)。
で、いちおう動画も気兼ねなく楽しめるようになった。そこでプライム・ビデオ(いつの間にか、プライム会員になっていて、まあ便利だからそのままにしていた)を、容量を気にしないで見ることができるようになった。
そこで、愛好しているミステリー・シリーズがドラマになっているというので、このところずっと見ているのです(原作者もプロデューサーに名を連ねている)。通常の連続ドラマとは違って一話完結型ではなかったので最初は戸惑いましたが、いったん馴染んでしまうと、こうした連続ドラマの常として、見始めるとずっと見続けることになりやすい(と言うか、なかなかやめられない)。こんなシーンも。
主人公の刑事ボッシュが、相棒のジェリーと車でラスベガスに向かう場面。当然、音楽がかかっている。
「これ、誰のアルバム?」
「ソニー・ロリンズとマイルス・デイビスの『バグス・グルーブ』」
「いいね。曲名は?」
「『ドキシー』ソニーの作だ」
「詳しいね」
「ちょっとね」
「最近の音楽は?」
「昔ので手一杯だ」
全く同感なのです(前回ちょっと引用したのは、この場面)。ボッシュと僕はほぼ同年齢らしいのですが、小説の中の彼の方がいつも遅れてやってくる。ただ大きく違うところで、うらやましいと思うのは、彼は、映画会社から入った謝金をもとに、ロアンジェルスの街を見下ろす丘(崖)の上に張り出して建つ、ガラス張りの家を手に入れ(ジェリーは、「あんなところに住む人間がいるとは?」とからかうのだけれど)、そこにマッキントッシュ製のアンプやマランツ製のアナログ・プレーヤー、トールボーイタイプのスピーカー(Ohm Walsh というメーカーのものらしい)などが置かれていて、主にジャズを聴く。なんという題名の本の中だったか、彼はアート・ペッパーを好んでいるということが書いてあった気がする。
料理のできる囲炉裏/暖炉
さて、今回は前回も書いた料理のできる暖炉のスケッチです。人の家の写真だけでは、ちょっと芸がない気がしたので。絵は下手だし、載せる意味があるかどうかは不明ですが…。なんとか、「お休みします」と書くのを避けようというわけです。
2022.03.26 夕日通信
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赤信号に負けないために、と思うけれど
台所を楽しくする方法 2
今日は暖かかった。明日、これが掲載される予定の土曜は、さらに暖かくなる見込みらしい。この所、昼間はちょっと歩くと汗ばむくらいになった。もう、すっかり春ですね(さすがに、朝夕はまだ冷えるけれど)。青空も、冬の澄み切ったそれとは違って、やや霞んでいます。
そんなときに何ですが、もう一つ、住宅にあるといいなあと憧れるのは、(「もうわかったよ」と言われるかもしれませんが)暖炉です。それも、ただ眺めるだけじゃなく、調理ができる暖炉だとさらに嬉しいから、それは暖炉と言うよりも、モダンな囲炉裏という方がいいのかもしれません。
レネ・ゼルピの台所*
こうしたものは別に珍しいわけでもなく、もちろん僕の発明というわけじゃない。例えばモンサンミッシェルのオムレツは、暖炉で作っているようだし、「世界一のレストラン50」に4度選ばれたというコペンハーゲンの”noma”のシェフ、レネ・ゼルピの元は鍛冶屋だったという建物を改装した自邸には、もともとあったかまどを利用した調理できる暖炉*があって、これも楽しそうです(羨ましい)。
でも白状すれば、暖炉のある家に住んだ経験は、覚えている限りないのです(火を模した電気の暖炉のある家には1年ほど暮らしたことがあるけれど、これは全く別物。これがあっても嬉しいとは思わない。もちろん、これを楽しむ人があってもまったく不思議じゃないんですが)。
だから(だけど?)、もし自分が設計した家に住むとしたら、できれば暖炉、それが叶わないのならば、キッチンに組み込んだ卓上囲炉裏があるとなおいい。
実は、今回は「お休みします」としようと思っていました。それでも、細々ながらでも続けることが大事なのだろうと思って、掲載することにします(だから、いつも以上に即席です)。
ところで、今日3月11日は、東日本大震災が発生した日。ニュースを見て、ああもう11年が経ったのだと思った。過ぎたことに対する記憶は、すぐに薄れてしまいそうです。今起こっていることも、ゲームかと錯覚しそうな時があるのです。
* 写真は、AXISのウェッブマガジンから借りたものを加工しました。
2022.03.05 夕日通信
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赤信号に負けないために
台所を楽しくする方法 1
今日(3月4日)からパラリンピックが始まるという。世界がこんな状況の中で実施されるということが、信じられない。というか、とても不思議に思う。スポーツの各団体や選手団等からは、憂慮するような声明が出されているようだけれど。ロシアは原子力発電所まで攻撃しているというから、尋常じゃない(チェルノブイリの惨事を経験しているし、フクシマのことも知っているはずなのに)。
一方、国連決議や世界各地での抗議活動(例えば、ベルリンのブランデンブルク門に集まった人々は10万人を超えるという)、そして様々な経済制裁も課されているが、未だ収まる気配はない。と思えば、核兵器や軍事力に頼ろうとする政治家もいるようだ。
かつて、湾岸戦争の時に、「テレビの中の戦争」だったか「テレビの向こうの戦争」だったか、そんな風な呼び方をされたことがあった。すなわち、テレビで生中継された初めての戦争であったので、テレビに映し出される光景を文字通り対岸の火事のように捉える人々が多かったことを称したものだ。インターネットの普及等、当時よりも情報量が格段に増えた現在でも、似たようなところがあるような気がする(少なくとも、僕自身にとっては)。憤りや同情等はあるとしても、平和な時と同じように談笑したり、他の楽しみに集中することがあり、その時は戦争のことを忘れているのだ。他人事であり、自分自身の問題として受け止めていないと言われても仕方がない気がする。
それでも、僅かといえども考え続けることが大事なのだろうと思いたい。かつて吉田健一は、「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」と書いた。
ならば、せめて「壊されたくない」、と思う生活空間を想像することにしよう。
立ち飲み用のカウンター
「台所で遊ぶ」ためにこれまで考えてきたことは、主にテーブルとキッチンを合体させて、これを生活空間の中心に据えることだった。さらに、暖炉や卓上囲炉裏を空想した。この他にあるといいと思うのは、立ったまま飲むためのカウンター。ちょっと気取っていうなら、レストランのシーンで見るようなウェイティング・バーの立ち飲み版。食事までの時間を、ここで食前酒を飲んで過ごす場所。
食事の前に一杯やるところと、食事の席が別にあると気分が変わって楽しいですね。僕はかつて、正式の晩餐会で、一度だけ経験しました(この時は、文字通り場所、というか建物と部屋を変えて行われました)。まあ、結婚式の披露宴の時の待合室も、ウェイティング・バーみたいなところがありますね。そこでは皆リラックスしているために、打ち解けた雰囲気になる。
立ち呑みのカウンターは、スツールに腰掛けないから、そこでの過ごし方はうんと自由性があるし、楽しみ方も増える。まあ、本来はお店のものでしょうけれど、これを住宅に作った例を知ったのは、テレビで見た料理家高山なおみのキッチンでした。台所と食堂兼居間とを分ける低い棚に折りたたみ式の、端材を利用したという板を取り付けただけの簡単なものだったけれど、玄関から入ってきたお客をここで迎えるのです。それから、本日のメニューを紹介したり、当日の「ごっこ」のテーマ、例えば「串カツや」を知らせたりしながら、まず1杯振る舞うのだのだ。楽しそうでしょう。
せいぜい楽しく過ごす工夫をして、これを壊そうとする動きに負けない生活を作りたいと願うのです。
2022.03.05 夕日通信
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赤信号は気にしない、とはいうものの
新しい敷地で考える・仮想敷地B編 5 プランD1
このところはまたしても、探しものばかりしている気がする。
例えば、一つは録画してもらったDVD。もう一つは小説。いずれもが少し前に手にしていたばかりだった。それがどこにあるのかわからない。小説の方は、自分でしまった覚えがあるのだけれど、見つからない(要するに、どこにしまったのかわからないってこと)。こうしたことが多発するのだ。何度探そうとしても見つからない。ようやくひょんなところから出てくることもあるけれど、そのために結構な時間が取られるのだ。しかも、見つかるまでは他のことが手につかない。なんとかしなくっちゃ。やっぱりモノが多すぎる上に、整理できていないのだ(頭の衰えということも、ないとは言いませんが。先日の検査では、 変わりないということでした)。
ああ、書庫が欲しい!(それよりも、さっさと借り直すべきなのか、はたまた片付けるのが先か。それとも、……)。でも、もしかしたら、こうしたこともすでに書いたことがある気もする(自分の頭の中も探せないものでいっぱいなのか!?)。
「新しい敷地で考える」の5回目は、具体的な計画案の第4案(プランD)です。もう、見飽きたかもしれません。
プランD1
原型は一月ほど前にスケッチしたものですが、二つ前のB案をもっとコンパクトにしたようなものでした。いよいよ掲載しようという頃になって眺めていたら、狭くてもいいから寝室も1階にある方がいい気がして、急いで描き直しました。
見ての通り、1階のプランは、奥に台所と食卓。毎度お馴染みの食卓とキッチンがセットになったものですが、ちょっと短かったために、窮屈。その代わりに、独立したバーカウンターと併設するようにした。谷間を眺めながら飲む食前酒も、案外いいのではあるまいか。
南側は中庭の両翼に階段室と寝室。寝室からは、直接サニタリへ行くことができます。浴室と直接つながる小さなバルコニーも設置してある。
中庭に薪や炭を使ってグリルできる設備を設置してあるのは前回と同じ。グリルと隣接してガラスの扉の書庫もすでに試みた。
その結果、2階はほとんどが書庫や納戸、そして映画と音楽(A&V)のための小さなシアタールーム。というのは、前回と同じ。ふだんは音楽や映像も1階で楽しむことにして、時々非日常的な2階のシアタールームで、映画や音楽としっかり向き合うのがいいかと。ただ、改めて眺めていると、モノのための住まいのようと言われても仕方がない気もします。「モノのために家賃を払うな!」*と怒られそうですが、「捨てない生き方」**に心惹かれるのです(というか自身の暮らしのよすがとしたいという一縷の望みがある気がする)。
でも、ここでちょっとおもしろいなあと思ったのです。なぜ、こうやって説明しているんでしょうね。だいたい、画家は自作の説明をしないし、彫刻家だって、小説家だって、たいていそうです(ま、講演などで自作を解説することがないでもないようですが)。でも建築家は、そうじゃない。雑誌で発表する時は、必ず設計趣旨について語ります(たぶん、今でも)。しかも、たいていは長く、難解な語り口で。考えてみよう。
* あらかわ菜美、モノのために家賃を払うな!、WAVE出版、2008
** 五木寛之、捨てない生き方、マガジンハウス、2020
2022.02.26 夕日通信
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赤信号は気にしない、とはいうものの
新しい敷地で考える・仮想敷地B編 4 プランC1
このところ、HPのソフトの調子が悪くて、何回やっても画像がうまく表示されない場合があるようでしたけれど、果たして今回はどうか。ペットと同じように、ソフトも飼い主に似てくるものなのか(ま、年を経ると何であれ、いろいろと不具合が出てくる。これはしようがないと諦めるのがいいのでしょうね)。
さて、大きく息をついたところで、「新しい敷地で考える」の4回目は、具体的な計画案の第3案(プランC)です。
プランC1
簡単に説明するなら(今度こそほんとうに、蛇足ということになるかもしれません)、見ての通り、1階のプランでこれまでのものと大きく異なるところは、一目瞭然、寝室とサニタリーを1階にしたことです。したがって、これで日常生活はほぼ1階で事足りることになります。ただ、そうしたせいで、これまでより中庭は少し狭くなっています。浴室と直接つながるバスコートも作れなかったので、小さなバルコニーを張り出した。
その代わりに、中庭に薪や炭を使ってグリルできるような設備を設置してあります(これは、もう何回となく書いたように、外の空間で食べたり飲んだりすることが好き、というかおおいに憧れるのです)。そのほかには、コルビュジエに倣って、独立して洗面器を設置した。これは象徴ということもなくはないけれど、あんがい使いでがありそうな気がします。
そして、その反対側には階段室を設置しています。こうしたのは、東側のルーフ・テラスから海を眺めようとしたためですが、ここを通るたびに眺めていたら、もしかした高さが不足して、あんまり効果的じゃないかもしれないことに気づきました。そのため、急遽屋上を使うことを考えた。
ともかくも、中庭が狭くなった分、内部の部屋の延長、外の部屋としてのイメージは強くなる気がしますが、さてどうでしょう。キッチンと一体化したテーブルはこれまで通り(いかにも芸がないようなのですが、他のパタンをいくつか試してみてもどうもうまくいかず、イマイチな感じがするのです)。
2階は書庫や納戸、そして映画と音楽(A&V)のためのシアタールーム。当然のことながら、非日常的な性格が強くなって、映画や音楽をしっかり楽しもうという時はいいと思います。ただ、2階のプランはできていると思っていたら全くの手つかずで、急ごしらえしたもの(こんなことばかりなのです。やれやれ)。
正直なところ、ちょっとくたびれかけてきていますが、もうしばらく、このシリーズを続けようと思います。なかなかむづかしそうですが、思いがけず幸運に恵まれた時、あるいは嬉しい出会いに巡り合うかもしれないことを想像しながら、がんばるつもりであります。
2022.02.19 夕日通信
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赤信号は気にしない、とはいうものの
新しい敷地で考える・仮想敷地B編 3 プランB2
今日2月10日の朝刊の「折々のことば」の欄には、「土に還(かえ)すということ。そこに、命の始まりと最後を見届けるような安心と無常とを感じる。高橋久美子」とあった。著者は文筆家らしいのですが、それが載っていたという本のタイトルは「その農地、私が買います」。著者とその思想についてはこの欄に書かれていることだけしか知らないのだけれど、羨ましいと思った。その思想の直截的な表現(本のタイトル)と行動の結びつき方の直接さ。こうしたことが、なぜ自分にはできないのだろう、とつくづく思ったのです。
さて、気を取り直して、「新しい敷地で考える」の3回目は、具体的な計画案の第2案(プリンターの故障で掲載することができなかった間に、いくつか考えたものの一つ)です。
プランB2*
言わずもがなという気もしますが、簡単に説明すると、1階で前回のもの(プランA1)と大きく異なるところは、キッチン及び食卓と北面の外部との距離を短くし、あわせてバーカウンターも北側の開口部に接するようにして、より積極的に開けた外を楽しむことができるようにした(プランA1では、このあたりはちょっと無理やりという感がありました)。南面の中庭は両脇に階段室と書庫(いずれも中庭側はガラス戸)、奥にもガラス戸の書庫を配して外の部屋らしさを強調しています。キッチンと一体化したテーブルは通り抜けのための寸法調整で少し変形していますが、基本形は変わりません。階段室のドアもガラス戸にして、シンクに立った時の視線の抜けを確保しました。
2階は前回と同じく、プライベートゾーン。そして、浴室と直接つながるバスコートがあるのも変わりません。書庫の上のルーフ・バルコニーからは、海が見えそうです(昼間のビールには絶好)。他方、前回できなかった寝室から直接洗面所へ行くことは、今回はできるようになっています。階段室の踊り場の部分は小さなサンルーム的な空間のつもり。ここをより楽しくするためには、本棚とソファなんかをうまく配置できるともっといいかもしれません。
もうしばらく、この敷地での計画案が続きます。なんだか、学生の時にエスキースをサボっていたのを今頃になってやっているような感じです。ただ厳しいチェックが入ることはないので、気楽といえば気楽ですが、ちょっと寂しい気もする。おまけに、実現のめどは立っていないので、気持ちも萎えそうになるのですが、ボケ防止のための頭の体操、「暮らしと間取りアドバイザー」としての自主トレーニングのつもりで、もう少し続けようと思います。もしかして、いつか幸運に恵まれたなら、いいことがあるかもしれない。
* アルファベットの次の番号は、元の案の何回目の修正案かということです。すなわち、B1はプランBの第1回目の修正案(清書するときに手を加えた)ということ。ここに示した案B2というのは、さらにもう1回修正した案です(最初の案から掲載用に清書するまで、めずらしく時間があいたせい)。何をやるにしても、こんなふうに時間がかかるのです(やれやれ)。
2022.02.12 夕日通信(*コメントやつぶやき等を、こちらから。お気軽に、ぜひどうぞ。正直なところ、反応がないと元気が出ないのであります。a poor old man)
ひとまず、赤信号は気にしない
新しい敷地で考える・仮想敷地B編 2 プランA1
いよいよ、新しい敷地での具体的な計画案を考えて行くことにしよう(ま、そんなに力むことはないのだけれど)。
もう一度計画の趣旨をおさらいしておくと、一つ目はこれまで通り「台所で遊ぶ」ための空間とし、二つ目は書庫+台所+音楽と映画のためのスペースとしてでなく、そこで暮らすことのできるための基本的な設備を備えた住宅とする。
さらに、戸外生活を楽しめること、開放的であること、眺望を楽しむことができること等をめざす。
プランA1
まずは、最初に思いついた案(正確には、その修正版*)から。
見ての通りですが、そういっちゃ身もふたもないので、少し説明すると、1階は趣旨のとおり台所が中心で、キッチンセットと一体化したテーブルとカウンターが文字どおり室内空間の真ん中に配置されています。そして食卓からは南北の両方の開口部で外部とつながっている。
もしかしたら気づいた人がいるかもしれませんが、キッチンとテーブルの関係はこのところずっと同じ形式です。すなわち、キッチンセットの前にカウンター、そしてこれにつながるテーブルが一体化しています。そしてもうひとつ、ガスレンジと食卓の間には卓上囲炉裏(?)がある。
使い方のイメージはこんな具合です。
たとえば、もてなす人ともてなされる人がいた場合、もてなす側の人が料理を作るあいだ、もてなされる側の人はカウンターで食前酒をやりながら会話する(もちろん、お茶でもいいし、二人が一緒に料理を作るならそれはそれでいいのです)。また、一人で過ごす昼時なんかはすぐ横のテーブルにまずビールを置いて、テーブルセッティングをしつつ、外を眺めながら調理にかかる。
料理の準備ができたら、テーブルの方に移って食べる。囲炉裏は暖炉の代わりですが(何と言っても、寒い時に炎を見ると気持ちが和みます)、それに加えてガス台ではやりにくい料理、例えば直火で焼き物をするなどができるというわけです。
前面(南面)には、道路までの距離も小さいので壁を立てて外の部屋らしくした。一方、反対側(北面)は遮るものがないので、こちらの眺めも楽しめるように間仕切りの一部はガラスになっています(ちょっと無理やりという感は否めませんが、対面する両面に開口があることによって開放性と楽しさがさらに高められるはず)。また、書庫の大部分は1階に設置してあります。
2階はプライベートゾーン。このため、階段室にはドアを設けて分節度を強めてあります。そして浴室と直接つながるバスコートがある(これも、なぜかむやみに好き)。
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