ホームページの移設に伴って、名称を新しく夕日通信Ⅲと改め、初心にもどって皆さんとのやり取りを掲載するページにしようと思います。で、まずはこちらから、手紙を書くつもりで。

感想や近況等、(さて、あるかどうかは不明ですが)待っています。ぜひお便りをください。連絡や感想、コメント等々なんでも、気楽にどうぞ。

また、ここに掲載してもいい場合には、そのときに使う名前(コメントネーム?)もあわせて知らせくれると楽しいそうです。 2019.12.24 夕日通信


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ディーリアスのCDを買う


先日は車のマナーが悪いことについたばかりですが、人も変わるところがない。たとえば、歩道を歩いていて向こうからやって来る人がいるのを見て、車道に降りて道を譲っても、何食わぬ顔をして通り過ぎることが多い。というか、ほとんどがそうだ。

それがある日、向こうから歩いて来る人がいたので車道に降りると、その人も車道に降りたばかりか、すれ違う際にはありがとうございます、すみませんでしたと言うのでした。顔をあげると、白髪の上品なご婦人でした。目が合うと、にっこりと笑いかけた。ある日は、車道を掃除している人も見かけた。こういう人々も、まだいるのだ。

一方では、EU議会の議員選挙で右派や極右派の政党が躍進したらしい。自国第一主義。どうしたことなのだろう。なんだか、あっという間に怖い世の中になった。




これまでずっと、ビーチャムによるものを愛聴して来た。バルビローリの指揮のものがあることは知っていたけれど、黒田恭一がやっぱりビーチャムと書いていたので、買わないままでいた。でも、少し変化をと思っていたところに、久しぶりに見た名曲案内のムックにバルビローリのものが第1位となっていたし、2枚組だったので入手することにした(ビーチャムのものは1枚)。

悪くない。もちろん、悪いはずもないのだけれど。

もともと、バルビローリの指揮によるものは、好きなものが多かった。たとえば、ブラームスの交響曲、とくに第4番(LPレコードの時代から)。マーラーの第5番やエルガーのチェロ協奏曲(こちらには、ディーリアスがカップリングされていた、これが良かった)など。ディーリアスの曲が好きなのかもしれない。そして、バルビローリも。

ディーリアスの曲は外に向かって自身を表現しようというよりも、思いは内に向かうようだ。ディーリアスは裕福な音楽愛好家の家に生まれ育ったので、当時の有名な音楽家たちがよく訪れていたけれど、正式な作曲を学んだことはないらしい。だから、他者のためにというより、自身の好みに忠実であろうとしたのではないか、という気がするのですが。

ともあれ、僕にとっては、音楽は皆、ムード・ミュージックのような気がする。感覚的で、音の響きや連なり等による雰囲気を楽しむだけなのだ。音楽理論や音楽史のことは知らないし、オペラや歌曲その他のジャンルの歌詞の意味もわからない。これで音楽を聴いていると言えるのかどうかは怪しいけれど、そうした聞き方しかできないのだから仕方がない。




このほか、シュタイアーのチェンバロによるバッハの『ゴールトベルク変奏曲』、これは複層的な響きが印象的で、好ましい(同じチェンバロでも、スコット・ロスのものよりさらに響きが豊かのようだ)。それに、最初は結構ゆっくり目だったのに、途中はずいぶん速いところもあった。テンポや強弱を自在にしながら演奏しているようだ。楽しんで弾いているということだろうか。

今までは、ピアノによるものを好んで、チェンバロとは遠ざかっていたのだけれど、コロコロと転がるような音色のピアノとは違う魅力がある。超高速のトーマス・ファイのメンデルスゾーンの『交響曲第4番イタリア』やディアナ・ダムラウによるリヒャルト・シュトラウス『4つの最後の歌』(歌詞がわからないのが問題)等を購入した。このほかにも、予定よりも早く、昨日ジョアン・ジルベルトのものを2枚受け取った。もう、聴けないくらいのCDがあるのにも関わらず。


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2024.06.19 夕日通信

すれ違う全体と部分


最近の車のマナーの悪さは、目をおおおうばかりだ。ウィンカーを出さない人が少くない。出したとしても直前になってからというのも、同様。後ろにいると、どちらに進むのかわからないで困る。先日などはひどい光景を目にした。スーパーの駐車場の入り口に面した歩道を横切ろうとしている幼稚園生と先生たちの一団がいたので止まると、反対車線から白いベンツが彼らをかすめるように入っていったのだ。また駐車場から出ようと進んでいた時に、右から来た車を入れようと止まると、左にいたアウディが強引に割って入って来た。やれやれ、高級車に乗っていても、心に余裕はないようだし、思いやりもないようだ。利用者の自分第1主義。

ついでに言うと、法定速度を守ります。お先にどうぞ、という類のステッカーも考えてみればそうとうに変。まるで、法定速度を守らなくてもいいと言っているようではないか。

また別のある日、病院に用事があって出かけてきたのですが、案内にはいくつかの基本的な用事を済ませた後で8時40分に〇〇へとあった。少し早めに出て、所定の手続きを済ませたて指定された場所に着くと、そこには誰もいない。見ると、開始は8時40分というようなことが書かれた小さな案内板が置かれていた。そういうことだったのね。だったら、8時40分~8時50分までにとか、窓口は8時40分開始の注釈をつけるとか、別の書き方があったのではないかと思ったのでした。

そこで手続きを済ませると、まず一つ目の部分の担当者A-1がやってきて、詳しいことは後でA-2が伝えますからと、別の場所を指示された。それからいくつかの場所を経て、担当者Bから担当であることと後ほど△の説明に来ますということだけ伝えられた。だいたい何時頃か、尋ねたら前後しますがという注釈付きで教えてくれた。要するに全体ではなく、その時だけのことを説明するのですが、こちらは全体の流れの中で、おおよその予定を知っておきたいと思うので、ちょっと困った。

同じ部分のことは何回か担当者と場所を変えて伝えられたから、丁寧じゃないわけじゃないけれども、不親切に感じる時があるというわけです。これは、説明する側が全体性との関係を考慮していないせい。利用者が、初めての場所に行くときは遠く感じるのに、帰りはそうでもないと感じる心境と同じことを忘れているのですね。必要な時に、最小限の必要なことだけ。まあ、いっぺんにいろいろなことを言われるのも困るけど。

部分の積み重ねが全体になることは承知していても、部分だけの理解を積み重ねるだけで全体を理解するのは困難な気がする。本だって、一部分を精読するだけでは、わからないことがある。全体を見た後に、理解しづらかったことがわかるということだって、ままある。全体と部分の関係を知らないと理解しにくいことがある、のかもしれない。


**

昔、70年代頃の話だったか、ある雑誌の対談の中のイタリア車は壊れやすいという話題で、イタリア人が「それはあたりまえで、分業の流れ作業の中で、全体を知らないでパーツだけに関わって、愛情を持って作ることはできない」というようなことを言っていた。

ところが、全体をわかっている方は利用者に、その時に必要なことだからということで、一部分だけを伝えたがるような気がするのだ。確かに、そうしたほうが目の前の仕事が効率的に進むこともあるだろう、という気はするのですが。

建築設計の現場を離れた友人が、もう建築(家)の本は捨てたと言った。日常とかけ離れ過ぎていると言ったのか、あるいは自分本位に思えると言ったのだったか(それでも、捨てられずに、何冊か残して読んでいる本があるらしい*)。これも全体性と部分ということに関わりそうです。

設計する側は、理屈や理念をコンセプトとして提示する。そこには、全体の革新性や理想が語られる。これに対して、使う側は、感覚的であって、日常性を重視するが、部分に目が行きやすい。

一体に、提供する側は全体性を、受け取る側は部分を重視する傾向があると思いますが、これが逆転するときもある。

たとえば、建築家が細かな装飾やディテールに夢中になる、これは原初的なものを作る者としての喜びに熱中して、つい近代のデザイナーとしての役割をつい忘れるのでしょうね。一方、受け取る側にも、先の病院でのことなどがある。だからこそ、提供する側は受け取る側のことを思いやる必要があるのだろう。


**

そう言えば、60年代の頃の英国車はオイルが漏るということについて、メーカーの側がわざとそうしている、お客に車は完全なものではないことを知らせるためだというわけです(たぶん、伊丹十三だったと思うけれど、確認できません)。これは、ふだん提供する側、作る側に立つことがない利用者を生産の現場に引き入れる仕業だと言えるかもしれない。

少なくとも、なりたい自分、実現したい暮らしの姿(全体)をイメージしないまま、日常の生活(部分)を豊かにすることはむづかしそうです。

こんなことを、待ち時間の時に考えたのですが、急ごしらえのせいもあってか、なんだかスッキリしませんね。まあ、こうしたことをきちんと考察し、論理的に語っている人がすでにもうきっといるでしょうね。


* なんと言ったのか、確認のためのメールを出したら、また読みたくなって、堀口捨己の茶室に関する本などを古本屋で手に入れて読んでいる、という返事が来た(三つ子の魂100まで!)。
** 本文と写真のアルファロメオ・スパイダー(伊)とモーリス・マイナー(英)は、直接的な関係はありません。


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2024.06.12 夕日通信

まくら、だけ


もう6月。飛ぶように過ぎる気がしているのは、もしかして僕だけなのだろうか。つい、そんなことを呟きたくなるほどの速さ(!)。

昨日の火曜はまたまた誘ってくれる人がいて、外でランチをともにすることに。5月2日の渋谷から始まり、臨海パークと続いて、そして前回のベイクォーターからはほぼ3週間ですが、僕にとってはかなりのハイペース、なかなか活動的です。今回は、文庫の「カフェ金澤園」でランチの予定だった。

金澤園はもともとは料亭で、勤めているときはここで時々、食事会というか宴会があった。だから懐かしいのですが、カフェに変わったというので一体どうなっているのか。建物は当然日本家屋で、しかも古いものでしたから、いまはやりの(?)古民家風カフェに変身したということなのかしらん。

金沢八景で待ち合わせて、バスで向かうことにしていた。待ち合わせは金沢文庫でもよかったのですが、連れて行ってもらわないことにはたどり着けるか心配だったので(育ちが良すぎて、方向音痴?)。

電車が少し早く着いたらので、改札を出て待っていると、しばらくして現れたのですが、何やら神妙な顔をしている。何かと思えば、金澤園カフェが今日はあいにくの休みだ、と言うのでした(残念)。

それで、行ってみたかったというもうひとつの候補の平潟湾沿いの鄙びた喫茶店へ。どうせ、昼酒は飲めなかったのだ(ちょっとした事情があった)。さらに、せっかくの海沿いでも植え込みとレースのカーテンのせいで、海は見えなかったのは残念。しばし、会話に集中して、楽しむことにしました。新しい職場では、いろいろな出会いに恵まれているようで、本人もこのことを喜んでいて、何よりでした。改めて思うのは、若い人たちは、希望と可能性に満ちていて、いいですね。次から次に、思いが溢れ出てくる。少々、残念な話題に及んでも、落ち込むことがありません。やっぱり、前向きに考えて進まなくっちゃあね。




期待していたいい景色は、晴れ渡った平潟湾を眺めることで、満たされました。

そんなこともあって、今回は書きかけていた予定を変更して、小三治に倣ってまくら(ふう)特集で行くことにします。




もうひとつ、楽しいことから。ある朝、どこからともなくモーターが回る機械音が聞こえてきた。どこでやっているのか、もしかしたら……と思って、外を見てみると、案の定草刈りの音でした。もう人の膝丈以上に伸びた草を刈っていたのです(草の成長はあっという間なのに、大家さんは年に3回しか刈ってくれない)。おかげで、またしばらくはすっきりしているはずで嬉しいのですが、緑がないというのもちょっと寂しい。

驚いたのはその後。休憩時間には、もう小鳥たちが寄ってきているのでした。雀やそれよりもちょっと大きい小鳥たち。やっぱり鳥たちにとっても、庭の模様替え、さっぱりするのは気持ちがいいのでしょうか。刈り取られたあたりを盛んに歩き回っているのは、餌を探しているのだね。これを眺めているのも楽しい(でも、カメラを向けると、すぐに飛び立ってしまう)。やっぱり、さっぱりしていると、目指すものを見つけやすい。家の中と同じですね。

でも、世の中は何かと騒がしいことばかりで、あんまり喜ばしいとは言えないようです。

いまや、自分第一主義(文字通り、自分の利益のことしか考えないということですが)が、世界中にはびこっている。日常的な場面(例えば、突如登場した流行語のカスタマーハラスメント。これを縮めて、カスハラ⁉︎)から、国同士の関係(例えば、力によって国土や支配の拡大を図る。しかも、これに対抗するには力だという動きも)まで。政治家が、堂々と自国第一を掲げる時代のようでもある(例えば、トランプのアメリカ・ファースト。これに便乗して都民ファーストを標榜した人もいましたね)。

もちろん、たいていの場合、自分のことを考えられないで他者のことを思いやることはできないと思うけれど、自分が良ければそれでいいと言うのは、あまりにも露骨で、品性に欠けるのではあるまいか。

力のあるものはより大きな力を求め、富める者はさらに儲けようとするように見える。世界のリーダーたちには、「ノブレス・オブリージュ」の精神はもはや存在しないのだろうか。知識や技術は高まるのに、この責任感は反比例するように減じて見えるのはどうしたことだろう(これこそ、もう一つの「知る悲しみ」というものかもしれない)。

それに比して、テレビや新聞で知る、権力を持たない人、富のない人、ごく普通の市井の人々の働きぶりは素晴らしい。自分のことよりも他者の心配をし、世話を焼いたり、あるいはボランティア活動に赴く。こうした人々を真似したくてもできない身としては、せめてあんまり迷惑をかけないよう心して暮らさなければと、思い定めるのですが。

人々に安寧を与えるはずの宗教においても、例外ではないようです。それにしても、平和で平穏な日常は、いったいいつになったら実現するのでしょうね。


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2024.06.05 夕日通信

ロス


もう間もなく梅雨の季節だけれど、いよいよ本格的な新緑のころとなりましたね。




近所の歩道には、ごく短いながらも若葉と光のトンネルが出現しました。陽が射すと緑の若葉が輝き透きとおって、美しい。本当に美しいと思います(毎度同じことの繰り返しのようで、他に楽しみがないのか⁉︎と言われそう)。

ある日のこと、スーパーで買い物を済ませて、専用の台の上で品物を袋に詰め直そうしている時に、向かいの年配の女性から声をかけられた。

「こうするといいですよ」
 と言いながら、ポリ袋を長めにとってレタスにかけてくれたのだ。

レタスを買ったのですが、これが入るような大きなポリ袋が見当たらず、詰めようとしたら、外側の葉が剥がれてきたのを見かねたのだ。経験と知恵と工夫。おかげで、無事に詰めることができた。

さて、テレビドラマが終わった時に巷間よく言われるところの「〇〇ロス」。というものを、初めて経験するかもしれない。「ブリティッシュ・ベイク・オフ」の配信がシーズン8で終了してしまったようなのだ。

はじめてEテレで見たときはあんまり惹かれなかったのに、それがプライムで見るものがなくなったときにたまたま目に止まった。それで、見始めたのですが、これが面白くて毎日見るようになった(おすすめだったか何か。アマゾン、おそるべし)。

辛辣な批評の2人の審査員ポールとメアリー、ひょうきんな司会のスーとメルのコンビも回を追うごとに馴染んでよかった。が、それよりも何よりも、出場者たちが面白かった。

彼らの性格はもちろん一様ではないが、ほとんど全員が失敗しても悲観的にならず(ま、中にはケーキの生地を放り投げた人もいたけれど)、皆それぞれがユーモアで切り返す。初めて挑む難題に驚きながらも深刻になりすぎずに、これまでの経験と知恵と想像力で、前向きに取り組んで作り上げていく様は、見ていて楽しかった。それに、色々と教えられることも多かったのだ。これが、英国第1位の視聴率というのも納得。

失敗しても過度に落ち込むことなく、笑い飛ばす。真剣だけれど、悲壮感はない。忙しい作業の途中でも、うまくいかない人を慰め、ときには手伝うこともある。結果が発表されたときには、他者の成功を喜び、敗者を讃える。かくありたいものです。

自分で複雑なものを計画しておきながら、時間に追われる人もいる(段取りの不得手な僕は、つい同情するのですが)。それでも、最後の1秒まで、絶対に諦めずに全力で取り組むのだ。それぞれの仕草や物言いにも特徴があって、喜びを全身で表す人もいれば、隠すように噛みしめる人もいる。また、天を仰ぐ人があるかと思えば、うつむいて手を合わせる人もいる。これも見ていると楽しくて、つい笑ってしまうのだ。

そして、どのシーズンの回にでも、応援したくなるような人がいる。笑顔がいい人。洒落っ気のある人、最後にはなんでも笑い飛ばせる人、等々。それに、ちょっとはにかみがちというか、自信満々というのじゃない人の方が好ましいようです。ただ、応援する人はなかなか1位になれないのですが、番外編の「クリスマス・ベイク・オフ」で、チェトナが優勝したのは嬉しかった。

応援する人がいないで見るのは、ややつまらない気がする。これは、どうしてでしょうね。客観的に見ていると、臨場感というか一体感にかけるということなのか。それとも、見る側にもある種の競争意識が生まれているってことなのだろうか。


*

シーズン8から本国での放送局が変わり、審査員の一人、厳しくも実は優しい声をかけていたメアリーがいなくなって、司会者も近所の世話好きなおばさんというていの女性と最盛期を過ぎたオジー・オズボーンのような男性に交代してしまったのが、ちょっと残念。とは言っても、フォーマットは変わらないので、面白さもほぼそのまま。やっぱり、魅力の大部分は出場者の性格、魅力にあるようです。

僕は、このシーズンは、いつも微笑みを絶やさず落ち着いているデミ・ムーア似のソフィと少々不安げな表情をしたロイ・シャイダーふうのスティーヴンが贔屓でした。

見ていると、マルチタスク、時間管理、段取り等、どれを取っても僕には到底無理。とてもベイカーにはなれそうにはありませんが、パンケーキに取り組んでみようかな。そんな気になった。そういえば、危うく忘れるところだったけれど、ガレットを作ってみようとそば粉も買ってあった(危ない、危ない)。「ベイク・オフ」ロスを乗り越えるためにも、いいかもしれない。


* 写真はアマゾンのものを借りて、加工しました。


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2024.05.29 夕日通信

1枚の皿を使いこなす練習




ハーブ類は表側のベランダと裏手の玄関脇の2カ所で育てているのですが、今のところは順調のようです。これで、イタリアンパセリ、スイートバジル、そしてローズマリーがフ新鮮なものが手に入る。あとは、タイムがあるといいかも(研究してみよう)。

さて、以前にも触れたように、このところは色のついた皿が面白い。それでとくに、これは掘り出し物かと思って手に入れた安価な青い皿を生かすべく、色々と試しているところ(何と言っても、色は不得意中の不得意なので)。いつも青い皿というのも芸がないようだけれど、何しろ研究のためなのでしかたがない。

薄くてかっちりとした黒い皿よりも断然カジュアルで、アラビアのカラフルなそれよりも融通が効くようだ。定番の白は、無難で安定しているけれど、今は少し面白みに欠けるような気がしてしまう。それで、試行錯誤の成果を少し。




写真はその試みの直近のものの一つで、メカジキのソテーにラビゴットソースを添えたもの。ちょっとドレシングの汁気が多かった。その前の真鯛を焼いて玉ねぎとケイパーのバターソースをかけたもの(2回目)は、オーブントースターで焼いた、ジャガイモと人参が焼きすぎで微妙だったし、1回目は、玉ねぎが焦がしすぎで、しかも量が足りなかった。逆に、ブロッコリは多すぎた(これは、ちょっと訳があった)。なかなかむづかしいね(うーむ)。でも、青い皿は悪くない気がする。

さらに、カルボナーラも盛ってみたのですが、この時は自家製のパンチェッタが、どうしたことか焼き色がつかなかった。パスタは、盛り付けがむづかしい。上品に盛ろうとすると、量が不足して物足りない。食べ出があるようにと思うと、綺麗に盛るのが困難だ。第一、パスタは熱さが大事なので、時間が勝負(伊丹先生もどこかで、そんなことを言っていたのではないか)。盛りつけに時間をかけたり、写真をのんびり撮っている暇はないのだ(ま、ほかの料理も出来立てを食べたいので、同じようなものだけれど)。






続いてのものは、食べたいし、作ってみたいとずっと思いながらできずにいた、フィッシュ・アンド・チップス。なんと言っても、揚げ物は油の処理が気になって遠ざけてしまう。で、夜だったけれど、やって見たのがこちら。初めてにしては、まあまあですね。レシピによっては、ベーキングパウダーを加えるというものがあったけれど、そうするともっとふんわりと仕上がりそう。2回目もやってみて、こちらは別の皿に盛り付けたけれど、青い皿の方が断然合うようでした(揚げ物はふだんやらないから、むづかしい)。

目に入った時には色が綺麗だと思って買った青い皿は、使ってみると何にでも合わせやすい気がします(たしか、オルセー美術館の改装の際には、壁の色を濃紺にしたのではなかったか*)。最初は余計だと思っていた周りの白い縁取りが、抜け感というか軽さを出しているのだろうか。でも、これではモランディに倣うというよりも、色と形の組み合わせの練習のよう。

今度は、ずっと仕舞いぱなしになったままの波佐見の白山製の青い縁取りのある白い皿を使ってみることにしてみようか。そうすると、モランディ流に近づくかも(?)。


* このことは前に触れたのだったかどうか。こういうことが時々あって、とほほです。


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2024.05.22 夕日通信

久しぶりに、ロック


ある日のお昼は、ランチなのに「イングリッシュ・ブレックファスト」風。イングリッシュ・ブレックファストは、もともとは労働者たちが一日の過酷な作業に耐えるために、朝からしっかり食べていたことに由来するらしい。僕も、午後からやることがあったのだ。




例の青いお皿に、イングリッシュマフィンのサンドイッチと定番のソーセージ、ベーコン、それにグリーンサラダ(豆の代わり)を載せてみた。フライドトマトとマッシュルームは忘れた(やれやれ)。ビールにも合うし、ま、やることがあると言っても、彼の国の労働者ほど苛烈に働くわけじゃない。目玉焼きは、なぜかこのところうまくいかない。

今回もまた青い皿というのも代わり映えがしないようだけれど、青い皿の使い方を研究しているせい。薄くてかっちりとした黒い皿よりも断然カジュアルで、アラビアのカラフルなそれより融通が効きそうという気がするのだ。定番の白は、無難で安定しているけれど、少し面白みに欠けるような気もする。それで、色々と試しているというわけ。その成果(?その一部)は近いうちに。

それに、ずいぶんと久しぶりにオールマン・ブラザース・バンドのライブ盤「フィルモア・イースト・ライブ」を聴いた。即興性をたっぷり取り入れた長い曲がほとんどだけれど、飽きることがない。やっぱり、いいなあ(それで、他にも何枚かCDを手に入れることになった)。

ついでに、ギターのマイク・ブルームフィールドとヴォーカルとオルガンのアル・クーパーの『フィルモアの奇蹟』も聴いてみようかという気になった。いずれも、ニューヨークの伝説的なライヴ・ハウス『フィルモア』での演奏を収めたもの。それに、ブルームフィールドが参加しているバターフィールド・ブルース・バンドも。オールマン・ブラザース・バンドのCDは、2枚目の一部に音飛びを生じたのが残念。見ると、盤面にこすったような大きな傷があった(うーむ。どうしたことだろう?)。




いずれもが70年代前後のもので、たぶんブルース・ロックと呼ばれたようなジャンルのものだと思うけれど、まあ分類はどうでもいい。 

このところはクラシック(特にヘンデル)以外は、ごくたまにジャズ、しばらくはキース・ジャレットの最晩年のソロばかりを聴くことが多かった(どうしてか、ジャズの方は、今は全く聴かなくなっているけれど)。それが、ラジオで、この4月に亡くなったオールマンのもう一人のギタリストだったディッキー・ベッツの追悼番組で取り上げていたのを耳にして、また聴きたくなったというわけ。

でも、こうしたものばかりというわけじゃない。同じようにラジオで聞いて買った独特のリズムで歌うボブ・マーリーもいいし、ケルトっぽいチーフタンズや洒落っ気のある10ccが好きなのは変わらない。しかし、それらの間には、ほとんど関連がない。これはいったい、どうしたことだろう。

僕はロックというと、もともとは、クラシックやジャズに近い、構成的で長くて変化に富むもの、いわゆるプログレッシブロックを好んでいたけれど、時々、こうした荒々しいもの、感情の高ぶりをそのままぶつけてくるようなものを聴くと、たちまち惹かれることがあるのだ。

クラシックだって、僕はこれまでずっと、バッハとモーツァルトが好きと思っていた。もちろん、それは今でもそうだけれど、もしかしたらバッハよりもヘンデル、モーツァルトよりシューベルトが好きかもしれないと思うようになったのだ。それに、シューマンもブラームスも、メンデルスゾーンも。バッハと同時代のヘンデルは別にして、皆ロマン派と呼ばれる人たちだ。ヘンデルも、構成の緻密さというよりも愉悦感の方が優っているような気もする。

洗練や構成の見事さとは別の、もっと素朴で直截的、こうしたものとしては、やっぱり憧れは別にして、自分の好みはジャズよりは屈託のないロックのようだ。それに、ジャズと言っても叙情的なものの方が好きだし、同じアイルランドの古い歌でも、美しいキングス・シンガーズより土着的なチーフタンズの方を手にすることが多い。

つまるところは理性よりは感性、全体の構造よりは部分の叙情に反応する性質なのだ(時に、行き過ぎて情緒的になることがあるのは困るけれど)ということがよく分かったし、改めて再認識した次第でした。あるいは、全体を把握する力や仕組みを理解する力が不足しているのかもしれない。いや、それもあるには違いないけれど、感覚的で情緒的なのが第一なのだ。たしかに、考える力は不足しているとしても。それに、聴き方も少なからず影響しているのだろう。

コンサートのようにきちんと正対してというより、何かをしながら聞くことが多いのがいけないか(これからは、きちんと向き合う時間をつくるようにしよう)。


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2024.05.15 夕日通信

料理は地域固有の伝統文化


散歩の途中、屋根の間から綺麗なかたちの雲、いかにも雲といえば皆が思い出しそうな雲がぽっかり浮かんでいるのが見えた。そこで、広いところに出たら撮ろうと思ってたどり着いたら、もはやその雲はなかった。2つに分かれてしまっていたのだ。残念。ま、こういうこともある(というか、最近はたいていこうしたことばかりのような気がするけれど)。

ずいぶん前に、改めて考えるつもりと書いた、料理は地域の文化ということについて少し。

イタリアのシェフたちが声を揃えて言うのは、「料理」は「文化」であり、「伝統」だということに加えて、しかも「地域性」が大事だということ。伝統を忠実に守ろうとする派も、変化を加えようという派も変わらない。後者が革新的で、前者は創造的ではないと言われそうだけれど、果たしてそうなのだろうか。たぶん、両者はさほど遠く離れているわけではない気がする。




ローマに進駐したアメリカの軍人が配給食のために持ち込んだ大量のベーコンや卵を使って作られはじめたというのが最も有力な説という、黒コショウがたっぷりかかったカルボナーラも、豚の頰肉の塩漬けグアンチャーレや山羊のチーズペコリーノロマーノといった地域の伝統な食材を使うように作り変えられて、ローマを代表する料理となった。

伝統を忠実に守ろうとする派が旧態依然とした方法で料理を作るかというと、たぶんそうではない。ただ再現するだけでは面白くないだろうし、できもしない(もし作った、あるいは食べたとしても、それは歴史を学ぶための行為ということになるのではあるまいか。第一、昔とは道具や設備等の料理する環境が違っているし、使う材料も異なる(地元産のものであっても)。人々の味覚も、昔からずっと同じままではないはずだろう。一方、変化を加えようという派も、伝統料理から出発していることは変わらない。しかし、そこに根ざしていなかったり離れすぎたりしたものは、もはや「伝統」と「地域性」と全く関係のない料理になってしまう。

材料も方法も地域と深く関連したものに限るという派も、いいものはよそでできたものでも取り入れるという派も、基本は「伝統」と「地産地消」なのだ。お客も同じ。わが国とは違って、地元で生まれ、育ったという人々が多い。したがって、地元のお客を相手にして、これを大事にしようとする限り、この二つを切り離して取り組むわけにはいかない。このことが、地域の文化を大事にする、料理が地域の歴史と文化と不可分だということになるのだろうと思う。

バレンシアの家庭には、パエリア用の大鍋と専用のコンロがあるという。もう一つの名物、バレンシアオレンジを絞るためのジューサーも(うーむ)。大阪のたこ焼き器とお好み焼き用の鉄板みたいなものだろうか。これも地域に特有の文化ということか。

わが国は雑種文化の伝統があって、最近はそれがさらに加速されているようだから、なかなかこうはいかない。しかも、言葉さえ大事にしない国のようだから。僕がひとまずなんちゃってイタリア人になろう(正確には暮らしぶりの一部に倣おう)と思ったのはこのせいもある。これに逆らって国や地域の独自性を大事にしようとしたなら、極めて古くて限られた世界に執着して排他的になりかねないような気がしてしまうのですが、どうなのでしょうね。

我が国の首相は、ことあるごとに何かと勇ましい言葉を使うのが好きなようだ。例えば「火の玉となって」とか「命がけで」とか「先頭に立って」とか「何としても、自分自身の手で」とか、何度も繰り返す。

ただね、その後のことが問題。いくら言葉の力が大きいと言っても、風呂屋の釜じゃいけません(自戒)。使い捨てにするだけで、全く大事にしていないということだから。


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2024.05.08 夕日通信

マルセーユでパエラ


はや5月。早い。気を取り直して、風薫る季節となれば、お供はビールですね。

最近は缶ビールの上蓋全体が取れるものが増えているよう。実は、これにちょっと困惑している。先日も新しいビールを開けようとしたらこのタイプで、半分開けたところで気付いたのですが、あっという間もなく溢れた。いいと思っている人がいるからだからでしょうが、僕は缶ビールをそのまま飲む習慣がないので、困るだけ(まあ、このメーカーのものはふだん飲まないので、大被害というわけじゃあない)。ジョッキ風ということのようだけれど、缶から直接飲むとき以外に、何か利点があるのだろうか(まあ、なんにせよ需要があるということでしょうね)。

たいていの港町と同様に、マルセーユの港にも様々な魚が水揚げされる。漁船が着く岸壁では、直売もされるようなのだ。さらに驚いたことに、そのすぐ側でシェフがパエラ(パエリア)を作っていた。お祭りのために、なんと500人分だという。フランスでパエリアかと思ったのですが、まあ似たような料理はもともとあるのかもしれない(同じヨーロッパだし、何と言っても同じ地中海に面しているのだから)。

この時の主な具材は、鶏肉とイカ。この辺りの組み合わせも面白い。山と海のものを同じ料理に使うのは、パエリアではよく見られるようだけれど、日本料理では珍しいのではないか(焼いた鯛ときのこを盛り合わせるというようなことはあるようですが。混ぜ合わされていないので、別々というならそうですね)。

で、シェフのお腹がたっぷりしすぎているのが気になった(これでいいのか?)。まあ、痩せすぎたシェフが作るものは美味しくないのかと思わせるようだし、太りすぎたシェフは健康のことを考えてないように思えるのもどうか、とつい考えてしまうのですが。




マルセーユで思い出したのは、『フレンチ・コネクション』*。若くないのに、とにかく走る刑事。久しぶりに観たくなった。

その後、バレンシアの火祭りを見物していたら、人形だけでなく、パエリアのコンクールも(ま、発祥の地ですから)。参加しているのは約30組。材料も、もちろん味つけもそれぞれ違う。そのうちの1組はローズマリーが隠し味で、言い伝えでは、「畑に出て、ローズマリーを摘まなかったなら、あなたには愛がない」とうことらしい(うーむ。いちおう育てていますけど**)。

パエリアといえば、この発音のしかたはどうなのだろう。イギリスでスペイン人にきいた時はパエリアだと言っていたような気がするけれど、地域によってはパエジャと聞こえることもある。ともあれ、僕の研究は一進一退のよう。これだと思えば、次はうまくいかなかったりする。まあ、だいたいのところは、先日書いたようなやり方でいいようなのですが。

米が先か、スープが先かの問題もある。バレンシアの家庭では、米が先で炒めていた(レシピ本などではたいていこのやり方)。一方、プロのシェフたちはスープが先という方が多いようだ。

何にせよ、僕のアパートの台所には、オーブンもぶどうの木を燃やせるコンロもないけど、でもローズマリーはある。今しばらく、研究を続けなければいけません(イタリア人だけではなく、時々スペイン人にもならなくてはいけないので。何しろバスク地方には、男だけの美食倶楽部がある国なのだから)。




それで少し前のことだけれど、久しぶりに晴れた日の昼はマヨルカ島の西南端の街のシェフが作るアロス・アラ・カラマレス(アロスは米、カラマレスはイカ)のやり方で試してみた(手元にイカがなかったのでシーフードミックスで代用したものも作ってみたが、写真の具材は残っていた手羽元と野菜を合わせてローズマリーを入れたオリジナル⁉︎)。彼はオーブンに入れていたけれど、無いのでいつものロッジのフタ付きのスキレットで代用。お米を長く煮込まないというので、やや硬めに仕上げた。まあ、美味しくできた(かな?)。

ところで、巨大な人形を燃やして、悪を焼き尽くし、炎のエネルギーをもらうという火祭りの最終日には、町の消防団は全員出動らしいです。お祭りも大変だ。どこの国も、伝統的なお祭りにかける情熱は、危険と隣り合わせ、命がけのようです。すごいね。なんにせよ、それほどまでに打ち込めるというのは素晴らしいことではあるまいか。うらやましい。


* でもマルセーユが出てくるのは、冒頭の場面だけでした。あとはアメリカ、ニューヨークが舞台。マルセーユが主な舞台となるのは、2の方のよう(こちらは、まだ見直していない)。やれやれ、僕の記憶はこの程度です。
** 横に広がるのではなくて、背が伸びるタイプのはずだけれど、なかなか成長しないのはどうしたことか(もしかして、愛が足りないせい?)。


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2024.05.01 夕日通信

真剣さがもたらすものは


このところは、気温は上がったり下がったりで安定しませんね。もう初夏かと思うような日があれば、暖房が欲しくなるような時もある(今日もちょっと肌寒い)。




ある暖かな日、久しぶりに散歩に出かけたときのこと。例の切り株(何度も切られてしまった芙蓉です)のところに、緑の葉が出ているのを見つけた。通るたびに気にかけていたのだけれどずっと見当たらず、少し前になってごく小さい芽を見つけたばかりだった。順調に成長しているようで、嬉しい。自然のものというか、自生のものの生命力はすごい。何しろ短い間に1度ならず2度も伐採されたのだから。今年も、同じ目にあうかもしれないけれど、その前にきっと美しい花を咲かせるだろうし、また復活するに違いない。

先日アマゾンプライムで「ミステリー in パラダイス」を見ようとしたら、続きを見るという案内が出てきて、新しいものはなかった。いつの間にかもう、見終わっていたのだ。やれやれ。


*

しかたがないので、次に見るものを探してみてもなかなか見たいと思うようなものが見当たらなかった。ようやく行き着いたのが、「ブリティッシュ・ベイクオフ」。ドラマではないけれど、イギリス各地から参加したアマチュア料理家たちが、パンやパイ、ケーキ作りなどの腕を競うというもの。毎回、1人か2人が脱落していく。だから、参加者は真剣そのものだ。

僕はお菓子やパンを焼くことはないので、初めはどうかと思ったのだけれど、いざ見始めたら面白いことこの上ない。技術とアイデアを振り絞って取り組む、参加者の腕前と情熱は素晴らしいし、審査員のコメントもかなり辛口。なにより、力を尽くした参加者たち、勝者も敗者も、そのいずれもその目の輝きが素晴らしい。持てる力を出し切った、何かを成しえたと確信した人たちのものだ。たぶん、何事も真剣に取り組むことがなければ、満足できるような何かは得られない。

無名の人々の働きのすごさ素晴らしさ、志の高さには驚かされることが多い。声高に主張することなく、地域の住民の思いを汲み取り、人々にとっての望ましい姿やあるべき姿を思い描き、実現すべく地道に作業を続け、取り組む。

テレビを見ていたら、ニュースやら特集番組にそうした人々が続けて出てきた。

たとえば、のと鉄道の再開のために尽力した会社の人々。「日常を取り戻す光」のための一助にしようと労を惜しまずに取り組んで、地震からおよそ3ヶ月後に実現にこぎつけた。また、地元の高校生たちは、駅の清掃を行った。

日本初という難工事に取り組んだと鳶職をはじめとする職人や現場で働く人々の奮闘ぶり。

あるいは、Jリーグに参加することでコンビナート砂漠と言われた町で町おこしを図ろうとした人々。鹿島アントラーズは当時、とても参加できる状況にはなかったらしい。Jリーグのトップのところに参加の意向を伝えるために出かけた時は、可能性は限りなく0に近いと言われたという。何より、辺鄙なところにあったために観客数が見込めないので問題外、ということだったらしい。しかも、要件を満たすスタジアムもなかった。そこで、チームの親会社はチーム名から会社名を外し、署名活動を通じて賛同者は増え続け、参加が認められたという。

この活動を主導した人は、「ほとんど奇跡と言ってもいいのではないか」と回想した一方で、「背水の陣で一丸となって取り組めば不可能を可能にすることができるのではないか」とも言う。

ま、テレビのことだから、効果を高めようと強調した部分もあるだろうし、省略したところもあるだろう。だから、そのまま鵜呑みにするわけにもいかないのかもしれない。としても、大したものですねえ。本当にえらいものだと思います。

ただ、こうした志やそれを受けて努力した人々や選手たちがいる一方、そうした環境の中で育ったはずの人間やチームを応援する人々がスポーツマンシップとはかけ離れた振る舞いをすることがある(僕自身の経験では、残念ながら、後者の比率が大きいようなのだ)。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」ことがあるかもしれないが、そうではないことも極めて当たり前のことながらあるのだ。

市井の人々の営みに対する共感は、憧れであり、ある種の代替作用のようなものかもしれない。ぼんやり暮らしてきた自身を恥じて後悔するのだけれど、他者に学び続けながら、少しずつでも実践するしかありませんね(と、思ってはいるのですが……)。

せめて、残りの日々のうちのいくらかでも悔いのないように過ごせるよう、もう少ししっかりしなければいけません。


* 写真は、BBCのサイトから借りたものを加工しました。


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2024.04.24 夕日通信

モランディに倣う・2nd(パイロット版)


「料理はいつもご馳走」

オーストラリアにしばらく滞在することになった、女性料理人が言う。凝ったものでなくても、美味しいものを作ろうと心を込めて調理したものは、いつだって「ご馳走」なのだ。

メルボルンきっての老舗のカフェのオーナーは、「美味しいコーヒーを淹れる秘訣は?」と訊かれて、にっこり笑って、胸を指差した。そして、言うのだ。

「ここで出すひとつひとつのコーヒーに、誇りを持っている」

無論、ハートだけではだめだろうけれど、技術だけでもやっぱりうまくない気がする。何にせよ、そこに込められた「心」の力が肝心なのではあるまいか、と思うのだ。そのためには、美味しそうに見える「盛り付け」も欠かせない。

このところは、また、フライパンやらソテーパンやら、皿やらなにやらが急に増え始めた。料理することをもっと楽しいものにしようというせい(というか、このくらいしか気晴らしがないということですね)。おかげで、ものばかりか段ボール箱も増えてかなりの容積を占めている(やれやれ)。出費には違いないのだけれど、比較的小さな額だからつい買ってしまう(要注意。塵も積もれば山となる)。

ところで、肝心の料理の味はどうかといえば、まあ悪くはないと思うのですが、なんと言ってもその基準となるものがない(名人上手と言われるような人が作るものは久しく知らないし、第一そんなに味にうるさいわけじゃないのだ)。となると、自ずと関心が向かうのは料理するという行為そのものと、出来上がったものの盛り付け方。特に、最近は後者が興味深い。同じ料理でも盛り付け方によって、美味しそうに見えたりそうでなかったりするし、器によっても異なる印象を受けるのだ。食べたら同じ、見た目は関係ないというわけにはいかない。

ごく最近に手元に届いたのは、黒い器とカラフルな器。白い器ばかりでは単調になるので、挑戦してみようと思って手に入れた(自分で買ったものばかりではなく、頂き物もある)。これをなんとか使いこなしたいと、日々いろいろと奮闘中。

日本茶と紅茶、コーヒーを同じカップで飲もうとは思わないけれど、和風の料理を洋風の器に盛るというようなことは時々試してみる。特に、新しい器では、色々と試してみたくなる。ただ、「色」のことについては器に限らずわからないことが多くて、これは昔から変わらない。まあ、黒いお皿には、赤や黄色、あるいは緑が入るとたいていうまくいきそうだということくらいはなんとかわかる。




黒い皿は、ちょっと小ぶりで、おつまみをいくつか並べるというのが一番良さそうな気がする。で、やってみたのですが、写真のオムレツは卵1個で作るために目玉焼き用として愛用していた小さなテフロン加工のフライパンを使ったのだけれど、焦げ付いてしまったために卵焼きのような形になった(そのため、この後、小さなフライパンを購入してしまった)。アスパラガスの寸法もバラバラ。細心の注意を払わなければなりません。




カラフルな方はアラビアの定番の模様らしいのだけれど、形は円形ではなくわずかな楕円(一見そうとはわかりにくいけれど。最近は楕円の皿が好ましく思えるのだ)。こちらには、たらこスパゲティを盛ってみた。炒め用のオリーブオイルが切れてしまったので、やむなくそうしたのだけれど、まあそれほど悪くはない?なんとか使いこなせるかもしれない。どんなところに気をつけたらいいのでしょうね(なにしろ、ずっと昔から不得意なのだから)。




ついでに、これまでほとんど出番のなかったお皿も使ってみた(お寿司は買ってきた)。

習うよりも慣れろともいうから、モランディに倣うのを、瓶ではなく、盛り付け方で練習するのが良さそうだし、楽しくなりそうな気がします。


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2024.04.17 夕日通信

久しぶりにカルボナーラ




玄関の前にも花(タンポポ)が咲いていた。ポーチの床のタイルの間から出ているのだ。小さな花の生命力やおそるべし。

タンポポの元気の良さとは関係なく、このところお昼にはパスタばかり作っているような気がする(いや、気がするのではない)。

その理由は、といえば、もちろん麺類が好きなことがあるし、それにこないだ買ったパスタボウルとかトングのこともある。焼きそばやうどん、それにざる蕎麦なんかも作らないことはないけれど、その頻度はぐっと下がる。

味はもちろんのことですが、それよりも簡単でありながら工夫の余地があって楽しいし、ワインが飲めなくてはいけない(イタリア人にならなければならないので)。もちろん、焼きそばでも飲めるし、蕎麦でも飲める(一時、蕎麦屋の昼酒ごっこを続けたことがあった)。その気になれば、うどんだって飲めなくはないのですが。




中華麺は買い置きがしにくいのが難点だし、蕎麦はつゆだけ、天ぷらは揚げたことがなく(何かと大変そうです)、買ってきたものだけ。ま、工夫すれば、中華麺も買い置きができないわけじゃないだろうし、道具にも器にもこだわることができそうなのですが、味付けがワンパターンになりやすいのです(たいてい、オイスターソースが基本のシーフードになってしまう。写真は、目先を変えようと目玉焼きを添えたもの)。手軽さと作る楽しさと味とお酒に合う(お酒そのものが好き、というわけでもないのですが。何しろ、イタリア人になるという使命がある)ということでは、やっぱりパスタが一番、のような気がする。




それで、先日は久しぶりにカルボナーラを作った。もちろん、生クリームを使わない本格的なローマ式で。しかも、地元の評判のレストランのつくりかたに倣って、ふだんは火から外して溶いた卵を混ぜるところを、火をごく弱火にしたまま、卵を投入し、そこで素早く溶いて和えるというやり方で。ま、それでボロボロになることもなく(卵のことです、念のため。ベーコンは焦げ過ぎたかも)、正直なところさほど違いはわかりませんでした。

ローマ産の羊のミルクから作るペコリーノチーズは近所では手に入らないので、パルミジャーノで代用するしかないけれど、ほほ肉の塩漬けのグアンチャーレ(こちらが本格のようだけれど、似たようなパンチェッタに比べると脂身の割合が多い)は燻製にしないようなのでバラ肉の塩漬けで代用できるのではないかと思って、ただいま挑戦しているところ。

用意が整う前に、トマトジュースとシーフードミックスを使ったお手軽なペスカトーレ風を(作るものが何にせよ、本格そのものではなく、…風というのはいかにも残念な気もするけれど)。


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2024.03.27 夕日通信

イタリア人になる

と言ったからといって、イタリアに移住しようとか、イタリア人らしい服装や振る舞い方をしようというのでは、もちろんありません(残念ながら、彼と我との違いはあまりにもかけ離れすぎている。とくに、身長や陰影に富む顔立ち。頭髪については、案外、まあいい勝負のようだけれど)。せめて、イタリア人の考え方を学び、時々実践してみようという程度のことなのですが*。

彼の国の人たちが食事をどれほど重要視しているかはよく聞くことですが、あるイタリア人は「美味しい食事(ワイン付き)の後は、仕事に戻ってもしっかり取り組んで創造的になることができる」というようなことを言っていましたね。

あるナポリ人は、「ナポリの人々は十字架上のキリストに向かって、降りてきて一緒に食べようと呼びかけるのだ」と言う。「日曜には午後3時から午後9時まで、仕事がないのなら翌朝の9時まで食事をする」とも。また別のフィレンツェだったかの住人は、「食べることは体と心のケアに時間を割いているのです」と。体だけではなく、心にも効くというわけですね。

そのため、シェフになりたての若者も70歳を超えた練達の料理人も、その土地の伝統や文化、食材に敬意を払いながら、愛情と熱意を持って作ったものをお客に供そうとする。その心がけを見習わなければいけない。

ま、仕事はないので(おまけに、創造的なこともしないので)、あんまり関係ないようなものだけれど、心身のケア、分けても心のケアは気をつけなくてはいけない。で、せめて料理だけでも、心を満たすようなものにしようと思ったのでした。






それで、例によってまずは形からということで、イタリアの業務用食器の中からパスタボウル、そしてパスタを盛り付けるための道具を調達することにしたので、さっそく使ってみることに。作ったのは、ごくごく基本のボンゴレ・ビアンコ。味は、まあまあだと思ったのですが、盛り付けはどうだか……。果たして、細身のトングの効果はあったのか?これが、意外とむづかしかった(おまけに、けっこう力もいる)。この技を極めなければ、いけません。

ところで、バルセロナのとある居酒屋は持ち込みOK。お客が、分けても年金生活者たちが、好き勝手にしていて、持ち寄った材料と店の調味料やら何やらを組み合わせて、簡単な料理までこしらえたりしている。ふつうではとても考えられないはずのことだと思うのだけれど……。バルセロナの年金生活者、おそるべし。

このことについて問われた店主は、「飲み物は頼んでくれるし、和気藹々とした雰囲気を壊したくない」と言うのですが。えらいものですねえ。なんのための飲食の場なのか、コミュニティのありようということについて、改めて教えてもらいました(でも、度を過ぎると困るだろうけど)。






また、先日は久しぶりに街に出て、おしゃべりをしながら飲んで、楽しい時を過ごすことができた。これもまた、食事を共にする効用と意味を再認識するものでありました。とくに1軒目のお店は、おばあさん(といっても僕より若いかも)の接客ぶりも酒肴も、おまけに値段も含めてなかなかよかった。

写真は、2軒目のお店のテラス席(もっと早い時間に入りたかったのだけれど、席がなかった)。カメラを持っていなかったので、貸してくれたiPhoneで撮ったものと撮ってくれたもの。

もっと街に出かけることを心がける必要がありそうなのですが……。


* 特にイタリア人がよく口にする「料理はその土地の文化に他ならない」ということについても考えたいのですが、これはまた別の機会に。


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2024.03.20 夕日通信

ある日のランチ 続盛り付けの練習

何度も書いているように、僕は物覚えが悪い。だから、料理もあんまり複雑なものは、レシピを見ながらじゃないと作れない(しかも、結局はたいてい目分量になる)。特に、調味料の配分などは覚えられない。たとえば、生クリームがない場合は、牛乳を温めてバターを入れる。その時の割合は牛乳4に対してバターが1、なんていうのをずっと覚えておくのは難しい。まして、万能の和食のつゆだという醤油と酒とみりんと削り節と昆布の割合*なんて、絶対無理。

少しずつ体で覚えるというか、頭も使いながら基本的な原理原則を理解しながら、習得するしかないのでしょうね。そのためには、同じものを繰り返し作るのがいいのだけれど、そうもいきません(あんまり時間に余裕はないのだ)。

でもたいていの場合、料理は楽しい。家事の中では数少ない、苦にならないものの一つ。掃除や片付けもそうなら、どんなにいいか(やれやれ)。

料理をしたら、盛り付けにも気を配る(ただいま練習中)。これも、どうせ食べるのだからと、ぞんざいにやっていると、そのほかのすべてにおいても同じようになりそうな気がするのだ(退職してから、強く意識するようになりました。実践するのはむづかしいけど)。

で、このところは、料理をして盛り付けたら、食べる前にできるだけ写真を撮るようにしている。写真の練習にもなるかもと思いながら(でも、シャッターを切るのはほとんど1回だけ。なにしろ、食べなくてはなりません)。

これは、しばらく前にやっていた瓶の並べ方の研究(モランディのように?)と同じようなものですが、こちらの方が実益はあるかも。




ある日のランチは、ボローニャ風パスタ、いわゆるボロネーゼ。ボローニャの大衆食草で出てきたものに倣ってみた。お客は、ボローニャで一番美味しいと言っている。なんでも、伝統に則った作り方で、例えばミートソースは5時間ほど煮込むという(他の店では2時間ほどらしいのですが)。となると、俄然食べたくなったのでした。

でも、5時間も煮込んではいられない。だから、うんと省略して、1時間弱(その代わり、みじん切りした野菜はじっくり炒めたし(ソフリット)、赤ワインもたっぷり入れた。正統派はタリアテッレという平打ち麺のようですが、むろん持ち合わせがないので1.9ミリの太麺を使うことにした。チーズをたっぷりかけて食べたら、まあまあ不足のない味でした。

職場に出ていた時は近所づきあいをほとんどしていなかったから、勤めをやめたあとは人と会うことがすっかりなくなった。当然、外で食事をすることからも遠ざかっているから、家の味しかわからない。相対的な比較ができないのだ。うまいもまずいもごく限られた狭い世界だけ。これはちょっと、まずい気がするのだけれどね……。


* 醤油カップ3:酒カップ3:みりんカップ2+削り節40g+昆布20g


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2024.03.13 夕日通信

自己表現心に留めておきたいこと


文の中から一行だけを取り出した言葉は気をつけないと危険だけれど、それでも時には確かにそうだと膝を打ったり、なるほどそうなのかと教えられることがあるし、一行だけでも十分と思える時がある。




「感性は思考なしにはありえないのに、考えないことが感じることだと思っている人がたくさんいる」

という多和田葉子の言葉*は、個性的でありたいと願う人は特に、心に留めておいていい、というより留めておくべきことばだと思う(続いて紹介されている行は、本文を見ないとわからない)。


**

「ここじゃ昼間から飲むのが伝統なのさ」などと言って憚らない輩が溢れる、パリ、ロンドン、ベルリン、ニューヨーク、バンクーバーその他の欧米のカフェや居酒屋に集まる人々の言葉も真に受けると痛い目に合いそうですが。まあ、欧米に限らず世界各地の居酒屋やカフェでは、昼間からお酒を飲んでいるのを見るのは不思議でもなんでもない気がする。それに、たいてい年金生活者が昼間から盛り上がっているのにも、なんだか励まされるようでいい(?)*。

そうしたところではお客だけでなく、オーナーにも傑物がいる。たとえば、小さい頃から路上生活を強いられていたというリスボンの居酒屋のオーナーは、1日17時間も働き、「どん底から這い上がって、今は笑顔を与えることができている。これ以上の幸せはないよ」と言う。一方、開店当初からの従業員は、より高級でよその店に誘われているのにやめるつもりはないと言う。お客が入らずに儲けがなかった時もボスは自分のことよりも従業員のことを心配して、給料をきちんと払っていたのを見ていたせいなのだ。こういうのも迂闊に信じてしまうと、ちょっと危険な気がするけれど、いいなあと思ってしまいます。どのお店にも共通しているのは、自分のところの利益だけを追求するということがないようなのだ。

さて、デザインから縫製までを全て一人でこなす服飾デザイナーの女性は、自ら立ち上げたブランドを、自己表現のためのブランドなのですという。(デザイナーと着る人の双方にとって)自身の考え方、感じ方を表現する活動がすなわち自己表現、ということだろうか。

そのこと自体は珍しいことでもなんでもないが、その表現の仕方については、必ずしも一様じゃない。直接的に表出して自身を分からせようとするやり方もあれば、声高に表現することはしないというやり方もある。有名性を目指すこともあれば、匿名性に徹しようとする立場の違いと言えるかもしれない。いずれにしても、その人となりを表現するものであることは違いがないと思うのですが。

まだ十分に若いある著名なパティシエは、うんと若い頃は前衛的で新しいものを作ろうとしたけれど、今は伝統的なお菓子を作りたいと言う。その二つともが、彼の自己表現となる。自己と他者の違いは、前者の方が際立つかもしれないが、後者の場合も他者と自己の違いは明確に現れるだろう(彼が目標を変えたその理由は、伝統的なお菓子は、誰もが喜ぶから、というのだ)。

自己表現は有名無名を問わないし、芸術的な行為の他にも様々な場面で行われる。言うまでもなく、自己表現が芸術的な行為になるわけではない。例えば、怒りを爆発させて大声をあげても、芸術的、創造的な行為とは言えない。「芸術は感情の爆発」かもしれないけれど、感情を爆発させただけでは、芸術にはならない。

ヴェルサイユ宮殿の装飾品から近所の人が持ち込む鍋の補修まで、等しく引き受けて直す、自分たちには技術があるから直せるものはなんでも直す、という工房がある。また、コッツウォルズの銀細工職人も、お客は彼のデザインかお客自身のアイデアのいずれかで製作すると言い、自身のデザインを押し付けるようなことをしない。他方、シャンゼリア通り近くに立ち並ぶ老舗では、上得意は有名レストランだと言ったり、王様や王子の注文もあると誇らしげに話すところもある。

いずれも、自己(またはそのブランド)を表現し、そのことに誇りを持っているわけですが、前者の職人たちの仕事ぶりは十分に創造的だと思うし、その人自身を表現しているだろう。何よりその姿勢が好ましい。僕は芸術的かどうかということよりも、彼らの取り組み方に惹かれる、というのは感傷的に過ぎるだろうか。誰かの役に立つというのは、なかなか簡単ではない。


* 朝日新聞朝刊「折々のことば」2024年2月18日
** 動画サイト「デイリーモーション」https://www.dailymotion.com/video/x8my54o から借りたものを加工しました。ちょっと年金生活者の数が少ないですが、他に適当な画像を見つけることができませんでした。


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2024.03.06 夕日通信

ミステリードラマを見る理由


先週の土曜日は、久しぶりの青空を見ることができましたが、ちょっと寒かった。それにしても、このところの天気は一体どうなっているのだろうね。冬なのに夏日があったり、また真冬にもどったり。まるで、イギリスかアイルランドになったみたいです。ま、最近は天気に限らず、こうしたことが続きますが。

以前に、ミステリードラマを見ると映画を観る時間がなくなるからもう見ないことにすると書きました。しかし白状するなら、無理でした。また見るようになった。ミステリードラマはやっぱり楽しい。本を読んだり、音楽を聴いたりするのでもなく、映画を観る気もしない時、軽いものを楽しみたい時には、これに勝るものはない気がする。特に、アメリカ製のもの。いま時々見ているのは、『ガレージセール。ミステリー アンティーク探偵ジェニファー』。




最初に見たときは、能天気な話にもういいやと思って途中でやめたのでしたが……。主人公とその相棒は刑事という組み合わせは、昔NHKやテレビ東京で放映していた時に見ていた「キャッスル/ミステリー作家のNY事件簿」とよく似ている。「キャッスル」では、ミステリー作家のキャッスルが女性刑事ケイトに協力するという設定だったのに、こちらはちょうど逆。女性の素人のアンティーク・ショップオーナーのジェニファー(ちょっと共和党のニッキー・ヘイリー候補に似ている。ジェニファーは、こちらを少し柔和にした感じ)が、友人の刑事に協力する(まあ、こちらの方がうんと軽くて、コージー・ミステリーの趣がある)。

もちろんミステリーですから、事件は起こるし、しかも殺人事件。だから、事件そのものは、明るいとは言い難い。しかし、推理も大雑把だし、発端から展開、そして結末までがすっかり定型化されている上に、取り組み方やその間に挿入されるドラマがちょっと能天気な部分もあって、気軽に観ることができるのだ。英国製ではこうはいかない。

例えばつい先日見た回では、納屋に隠し階段があるのを見つけて、家主に断ることなく降りて行って、死体を発見したりする。それに、素人が自由に警察に出入りして刑事と会ったり、時には警察官のような真似をして独自に調査したりする。さらに、検死官のところにも出かけて行って、彼の好きなマキアート(それにしても、コーヒーの淹れ方・作り方は随分あるようだけれど、カフェチェーン店のせい?)をえさにして、見解、一応守秘義務のことがあるので間接的な言い方だけれど、を聞き出す。こういうことは、いかにも荒唐無稽という気がするけれど、ありうることなのだろうか(まさか、ね)。インテリアはともかく、時々出てくる川べりの景色なんかもいい。これは、英国製も負けていないことが多いけど。

で、つい見てしまうのですが、その後でどうしてこんなものを見るのだろうと思うのもまた事実(もちろん、もう少しシリアスなミステリードラマも見るのですが)、なのが困ります。ほんとに、なぜなんでしょうね。よほど暇を持て余しているのか、あるいは気力が萎えているのか。僕はもともと怠け者なので、暇を持て余すなんてことはないはずなのに。

まあ、大団円、と言っていいのかどうかわからないが、とにかく落ち着くべきところに落ち着く。それがハッピーエンドとばかりは限らないけれど、コージーミステリーの場合はたいていハッピーエンドなのだ。


* 写真はアマゾンから借りたものを加工しました。


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2024.02.28 夕日通信

またまた、課題が


予定していた面会ができなくなった、という連絡があった。コロナの感染者が発生したためという。おかげで帰省は、残念ながら中止。コロナはまだまだ侮れないようです。




気分を変えようと、久しぶりにオムライスを作ってみた。上出来というほどではなかったけれど、こちらの方はだいぶ安定してきたよう。ただし、巻くときは、相変わらずシェ松尾流。オムレツが売り物のお店の職人のようにはいきません(やっぱり、たまにやるくらいでは、フライパンを操ってくるくると巻くような高度な技術を習得することはできない)。

そのせいなのか、あるいはチキンライスの量が多すぎるなのか、どうしても端がうまく閉じない。ここがきちんと閉じていれば、うんと美味しそうに見えるだろうと思うのだけれど。ま、実際のところは味にはあんまり関係ないのかもしれません。それに、なめらかな曲線じゃないし(これは、おこげのあるご飯で作ったせいだ)、おまけにソースもちょっと濃度が不足気味。で、僕は、前にも書いたことがあるけれど、実質より見かけの方を取る性質じゃないかと思って、俯いたりするのです(それでも、盛り付け方の良し悪しも料理のうちだから関係ないとは言えないはず、と思い直して慰めるのですが)。

オムライスといえば、その前には卵の賞味期限が迫っていたので、2個使って作ってみたことがあった。こちらは、あんまりいい結果というわけにはいかなかった。オムレツ専用フライパン(中尾アルミ製21cm)に対して、卵がちょっと多すぎたようでした。卵液が多いためになかなか固まらないので時間をかけて焼いたら、虎模様になった。ま、これはこれで良かったのだけれど、チキンライスを包む卵が厚すぎたばかりか、薄いチヂミのようになったのは、ちょっと好みに合わなかった。もっと早く段階で包んでしまえば良かったのかもしれない。もう一度だけ、卵2個に挑戦してみようかな。いや、ぜひリベンジしなくてはいけない。

一方、これも少し前に久しぶりに作ったナポリタンなどは、あんまりしゃれた盛り付けでもかえって良くないから(というのは負け惜しみ?)、中途半端に見かけを気にする僕なんかにはぴったり。洋食特集を眺めていたら、食べたくなったのでした。今までほとんど食べた記憶がなかったのに、今年はすでに2回目。

途中でピーマンがないことに気づいたが、色合いのためにはブロッコリで代用することにしたし、ハムも少なかった。マッシュルームは諦めた。その代わりに、チーズはたっぷりおろすことにした。ま、こういうところは、見かけも中途半端な完璧主義もあんまり気にしないでできるのですが。

自分で食べるものなのだから、それで十分。ランチとしては、不足はない。オリジナルにこだわらず、あるものでなんとかする、という具合に考えることができるのです。あの元シェ松尾オーナーシェフらによる「ビストロ・アルモンデ」というムック本もあるらしい(ちょっと気になります)。

味はといえば、ケチャップ味にも慣れてきたのか、その甘さがだんだん好ましく思えてきた。ケチャプはほとんど買ったことがなかったのに、このところちゃんとストックするようになった(あ、そういえば、マヨネーズも同じだけど、いいのか悪いのか)。さらには、ごくたまにですが、煮込みハンバーグというようなものにも挑戦するようになった。

人は変わる。変わりうるのだと受け取って、これを励みとすることにしよう。


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2024.02.21 夕日通信

初めて観るつもりが


この間書いたように、先日は久しぶりに東京へ。せっかくだから新しい帽子をかぶって、美術館にも行くつもりでいたのが、あいにくの天気でしたね。で、何もかも諦めて、直接会場へ(残念)。今回は、京都系和食のお店でした。味は?僕は最近は何ごとにも、感じないようなのです(うーむ)。昨日は、打って変わって本当の春のように温かかった(風はまだ、ちょっと冷たかったけど)。




それよりずっと前のある日、観たことのない映画、それも軽い映画をと思って、アマゾンプライムで何かないかと、まずはパソコンで検索してみた。なかなか簡単には見つからなかった。いざ検索してみると、どれもが帯に短し襷に長しという気がしてしまうのです。それでも検索を続けると、「ターゲット」というビル・ナイ主演のものに行き着いた。ビル・ナイは「ラブ・アクチュアリー」以来贔屓だし、おまけに年寄りだし、しかもアクション・コメディ映画だというからぴったりと思った。




テレビでアマゾンプライムを起動して、検索しようとしたら(いつもは、これがとんでもなく面倒)、音声入力の案内が出たので、ものは試しとやって見た。すると、すぐに表示されたのでした。音声入力恐るべし。これは簡単でいい。これまでファイヤーTVスティックの使い勝手の悪さが放置されたままなのはなぜだろうと思っていたけれど、この機能があったせいなのか(知らずにいるということは、恐ろしい)。ともあれ、すぐに観ることにしてボタンを押すと、……。

なんと、もう一度観るの表示が。すでに1回観ていることになっているのでした(えっ⁈)。

ままよと思って観てみたら、全く覚えていなかった(ああ!)。きれいさっぱり忘れていて、何一つ記憶になかったのでありました(とほほ)。

覚えていないといえば、他にもある。と言うか、たいていそうだ。僕は、たくさん旅行をした方ではないけれど、それでも紀行DVD などを見ていると、あ、行ったことがある。見たことがあるぞ。というような場面に遭遇することも少なくない。しかし、具体的に覚えていることといえば、せいぜいそのくらい。行って、見たというだけで、細部は全くといっていいほど残っていないのだ。画面に映るものを見て、ああこうなっているんだと改めて思う始末。

いったい何を見ていたものか。恥ずかしながら、旅行も建物も美術館も絵も、何もかも、詳細に見る目とこれを留める記憶力に欠けていて、僕にとっては、せいぜい行ったことがある、見たことがある以上のものではないようなのだ。ちょっと寂しい、参ります。それでも意味がないわけじゃない、と思いたいのですが。

さて、映画そのものは、ばかばかしいようなものだったけれど、それでもビル・ナイはいかにもという風情。もしかして、彼は俳優ではなくスターなのか。スターとアクターは別物で、アクターは作品ごとに別人に見えるのに対し、スターはどの役柄を演じてもいつも同じ俳優という説*もあるようだから、彼はまさにそう。相手役の女優もイマイチな気がした(キャラクター設定のことです。短い間での感情の起伏が大きいのだ。そういえば、その時に読んでいた本の登場人物も同じだった)。




その後、気を取り直すつもりで、久しぶりに年寄りのお手本のショーン・コネリーのものをと思って、ジョン・ル・カレ原作だという「ロシア・ハウス」を観た。でも、こちらも全くおなじ(とほほ)。映画の出来ともあんまり関係がないみたいなのだ。でも、いろいろ懐かしい人たちが出ていた、うんと若かったけれど。ま、おかげで何回でも楽しめる。

ところで、映画を観る時に、テレビのディスプレイで映画を見るのにもだいぶ慣れてきたのだけれど、やっぱりスクリーンじゃなくちゃという気がする時がある。必ずしも全部というわけじゃないし、名作や大作の時に限ってというわけでもないようなのですが。大画面?明るさ?あるいは、色々な要素をないまぜにした雰囲気の故なのだろうか?ともかくも、スクリーンで観たいなあという時があるのです。

やっぱり、明るくて操作性のいいプロジェクターを手に入れるしかないのか(でも、今の家では、セッティングの面倒くささは免れない!)。


* 朝日新聞朝刊「折々のことば」 2023年12月18日 戸田奈津子


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2024.02.14 夕日通信

2月5日は大雪


この日は、東京赤坂で遅ればせながらの新年会。それなのに、あろうことか当日は警報級の大雪が降るかもという予報が出ていた。




家を出る頃には、もうちらつき始めていて、赤坂見附駅についた時は、すっかり本降りの様子。路面は、さらに滑りやすくなっていた。ただ、路上の車や人通りはうんと少なく、お店もガラガラのようだったのは、雪だけのせいか。

雪は、降る様や積もった景色は美しいけれど、その後が厄介だ。歩こうとすると、足を取られたり滑ったりする。しかも人が歩いた後は、真っ白で美しかったものが黒と混じっていっぺんに汚らしくなる。おまけに、翌日の朝は凍って、いっそう滑りやすくなっていることが多い。雪の多い場所に暮らす人々は、雪かきや雪下ろし等々、さぞ大変なのに違いない(僕などはきっと、生き延びることもできない気がする)。

さほどの大雪という気はしなかったが、電車も遅延や運休が相次いだ。いざ走り出したと思っても、前を行く電車との間隔調整が頻繁に行われる。駅を降りてからも、シャーベット状の雪の上を歩くと、危うくすってんころりんとなりそうになる(さいわい、一度も尻もちをつくことはなかった)。おかげで、無傷で生還はしたものの、赤坂見附から家にたどり着くまで、通常の倍近い時間がかかってしまった。

さて、久しぶりの会食、久しぶりの東京、久しぶりの雪でいっときの非日常の時間を楽しんだ後は、降り続く雪の中をようやく地下鉄の駅にたどりつき、改札を抜けてエスカレータを降りて行くと、すぐ目の前にすらりと伸びた脚が現れた。その上のちいさくてまるいお尻を包んでいるのはぴったりと沿う小さな布。ショートパンツでもなくキュロットでもなく、ごくごく短いスカートだった。ちょっと驚いて、目をあげると、金髪の外国人女性(どちらかというと、素朴な感じのする顔立ちのようでした)。背が高いのはいうまでもないけれど、その足のなんと長いことか。お尻がまるで目の高さのところにあるようで、驚きました。ついでに言うと、その隣に立っていた男性は、彼女よりももっと高かった。

ようやくやってきた電車に乗り込むと、乗客は思いのほか少なかった。立っている人はほとんどいないくらい。向かいの席には若いカップルが。女の子は目を閉じており、男の子が差し出した腕をしっかり両方の手のひらで握りしめている。一方、すぐ隣では小さな男の子が、若い母親にもたれるようにして眠っていた。いずれも安心しきっているようだ。しばらくして目を開けた女の子は、今度は男の子の腕を抱きしめるように抱えこんだのでした。微笑ましくて、なんだか温かな気持ちになった。これを物語にしたらどうだろう。ハッピーエンド症候群から逃れるためには、アニエス・ヴァルダふうにしてみるのがいいのか、などとしばし想像したのですが。

乗り換えた地上を走る電車では、窓が白くなって外は全く見えないが、乗客はさらに少なくなった。間隔調整はなおも頻繁に行われ、速度も遅くなる。これらの状況をその都度知らせる、アナウンスが面白かった。うんと若い女性のようだったけれど、ずいぶんとさっぱりした言い方が好ましかった。いつも耳にする妙に慣れたような、あの慇懃な調子がないのだ。ただ、「……して、申し訳ありません」と言う時も同じような調子で、申し訳ない感じが全くしないのがおかしかった。






翌日は、もう雪は止んでいたが、アパートの前庭には薄く雪が積もっており、民家の屋根も白くなっていて美しかった。でも、これにつられて外出などしてはいけない。そう思い定めて、今日は昼はイングリッシュブレックファースト(⁈)にして、ビールを片手にモノトーンの風景を楽しむことにしようと決めたのでありました。それから、もう一度外に目をやると、珍しく雀が何羽も電線に止まっていた。彼らも、久しぶりの雪景色を楽しんでいたのかもしれません。


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2024.02.07 夕日通信

先週は「古さ」に苦戦


今日で、新しい年の最初の月も終わり。うかうかしていると、またもや何もしないまま1年が終わってしまいそう。まだまだ寒い日が続いていて、春の到来はまだまだ先のようですが、それでももう、日は少しずつ長くなっているようです。

一方、僕は前回書いたように、先週はHPやパソコンの不調の解消に追われた。




まずは、以前にHPが検索ができないという意見が届いていたので、そのための方策を講じることから。と言っても、もちろん僕は全くちんぷんかんぷんなので、専門家である卒業生のI君の手を煩わせることになり、それが先週ようやく叶ったのだ。ついでに、Google Anaryticksの設定も(これで、HPの閲覧状況がわかる*)。




もう一つは、使用しているMacBook Pro(2016年製の7年もので、もうサポート対象外。ただ、HP作成ソフトの関係で使わざるを得ない)の不調が続いていることへの対策。主にMailやSafariがフリーズして強制終了しなければならないことが増えた。その後で、MacBookを再起動しても立ち上がらず、電源ボタンで終了するしかなかったのだ。

前者は専門家の手を借りたので、いたってスムーズに運んだ( I 君ありがとうございました)。理論的には検索可能になったのですが、いつそうなるのかというのはグーグル次第のようです。まあ、気長に待つようにしよう。それよりも、問題は後者。

アップルサポートに連絡して、その教えの通り、First Aidを実行したのですが、ほぼ1日経っても終了しなかった。それで何回かサポートに電話をかけて、おかげでなんとかCommand Key+R Key で立ち上げた後に、First Aidを実行し(今度は、比較的短い時間で済んだ)、さらにHDDの使用可能な容量を増やすことで、今のところは強制終了するようなこともなく、とくに不具合も生じずに、なんとか使えるようになっている**。

でも、当時は標準的だったメモリも今の時代には不足がちということで、買い替えは必至のようだけれど、となれば、HPのことをどうするか(HP用ソフトやレンタルサーバー、ドメインの問題がある)。スリープ画面に現れたように2030年までとは言わないまでも、もうしばらくは使えるだろうと思っていたのですが。古いものが生き残るには、なかなか厳しい状況のようです。

それでも、まあひとまずは安心だけれど、人間の方の不調は、相変わらず。それどころか、右肩痛と腕の痛みは増したような気がします。とくに、横になった時がひどい。解消のための体操をしているものの、なかなか良くならず、けっこう辛い。

さらに、このほかにも、借家の換気扇はメーカーの標準耐用年数が切れているようだし、お風呂のシャワー(貯湯式の電気温水器と2バルブ式水栓)やAVアンプ等の問題もある。人も機械も、古くなると問題が出てくるというのは、やっぱり変わるところがないようです(やれやれ)。


* まあ、わかったところで大勢に影響はないのですが、それでもいくらかの励みにはなるかも。
** と思っていたら、油断大敵。1昨日やっぱり「問題が発生したためコンピュータを再起動しました」のメッセージが出た(やれやれ)。


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2024.01.31 夕日通信

ヨーロッパのカフェ


今年に入って、散歩に出かけたのはほんの数回しかない。

正月早々喉が痛かったし、咳も出た。こちらがようやく落ち着いてきたと思ったら、雨や寒い日が続いた。そうなると、喉の具合がまあ戻っても、今度はなかなか出かける気にならない。億劫になるのだ。おまけに、このところは、初めてというほど、右肩痛がひどい(さらに、右腕にも痛みが走る。たぶん、姿勢のせい。いや、歳のせいかも⁉︎)。

僕が怠け者のせいということもあるけれど、やっぱり人間は習慣の生き物だという気がしますね。甘えや楽をしようという気持ちから逃れて、何かを続けるためには、習慣づけるのが一番。いったん習慣にしてしまえば、今度はこれを中断することがはばかられるようになる(これも、ちょっとしたことでふいにしてしまうけれど)。この欄の文章だって、習慣によるところが大きい。まあ、習慣づけることがいいことばかりではないけれど、上手く付き合わなければいけない。いい習慣が身につけばいいのですが。




習慣づけるためには、何か強力な動機づけが必要になるわけですが、僕の場合、そのひとつが遠くに見える海(朝夕の2回、出かけていた)。

ところで、ヨーロッパの人は、よくカフェを利用するようです。




朝の出勤前には、馴染みの店でコーヒーを一杯。昼は、ランチを。夜は、帰宅前にアペリティフを一杯やって、オンとオフを切り替える。さらにその間には、気分転換の一杯。と、こんな具合で、実にまあ頻繁に利用している。

カフェでは、もちろん店主や店員との会話があるし、お客同士もたいていは顔見知りのようだ。彼らが異口同音に、「この地区は、小さな村のようで気に入っている」と言うのをよく聞く(ロンドンやパリのような大都市であってさえも。個人主義と共同体の意識がうまく折り合っているようで、わが国とは正反対のよう)。

それにしても、懐の方はどうなっているのだろう(こんなことを書くと、なんととしみったれているのかと言われそうですが)。コーヒー1杯だって、そう安くはないだろうし、物価も安くはないはずだから、彼らの経済状態が、つい気になるのだ。老後の備えよりも今を楽しもうというのか、それともそうした心配がないのか、はたまた経済よりも付き合いということなのか。

ともかくも、いろいろな場面で人と人の付き合いがあるようだし、ものとお金の交換だけじゃない関係がいろいろと残っていて、こちらもまた、わが国とは大きく違っているようです。

散歩の途中に、ふらりと寄りたくなるようなテラス席のあるカフェ(に限らず、何かお店)があればよいのですが。今の散歩コースには、ありません(残念)。


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2024.01.24 夕日通信

ハッピーエンド依存症、または自己救済大作戦


このところ、折に触れてつくづく思うのは、僕は一般的な会社勤めは務まらなかっただろうということ(新しい体験がないから、こんなことを考える)。だから、ともあれ勤める場所があったのは、本当に幸運だった。はっきり言ってしまえば、改めて書くまでもない、怠け者、わかるのが遅い、浅薄、その他諸々。おまけに、あまちゃんでもあるのだ。よくぞ雇ってくれて、しかもずっと雇い続けてくれたものだ。

映画なんかでも、深く人生を掘り下げてその深淵に迫った、芸術表現の革新を試みて新たな地平に至った、などといった触れ込みのものよりも、単純なハッピーエンドが好きなのだ。例えば先日(さて、いつのことだったか?)、たまたまアマゾンプライムで観た、「ノッティングヒルの洋菓子店*」のようなもでさえも。これは、まあすでに観たような話の寄せ集めのようなものだったけれど……。それでも、心がほのぼのと温かくなって嬉しいのだ(ついでに、頭の方までほの温かくなっては、困りますけど)。




「刺激」よりも「安心」、「革新」よりも「常識」、「冒険」よりも「日常」といった具合で、我がことながら、いかにも面白みがない。「毒」のあるものや口に苦いものよりも、口当たりの良いものの方を好むようなのだ。例えば、いい例かどうかは措くとして、ジョン・レノンよりもポール・マッカートニー、ビートルズよりはビーチ・ボーイズ、20世紀以降の現代音楽よりも以前のクラシック音楽の方が好ましい(現代音楽といわれるものは、たいていのが同じようで、しかも思わせぶりのように聞こえる)。

なぜか。なんとなく想像はついているのです(まあ、あんまり嬉しいものではありませんが)。

一方、ドキュメンタリーや、紀行番組等に登場する人々は、たいてい努力家だ。一生懸命好きなことや仕事に取り組んで、今の生活を手にした。努力できる人々が登場する。見るたびに、えらいものだなあと思うのだ。

もしかしたら、そうするのが当たり前、ふつうのことだと考える人が多いのかもしれないけれど、僕は正直にいうなら、それができなかった。だから、何かをなすことはできなかったし、ひとかどの人物たること(これはもちろん、有名か無名かということではありません)も叶わなかった。役に立つということにも、夢の住まいにもついぞ縁がなかった。ただ、日々を無為のうちに費やしてきた。努力することができないのだから、当然だ。もしかしたら、就職時の幸運で、失ってしまったのだろうか(うーむ)。

達成感や自己肯定感を欠くと、自分のみならず周りにいる人々にまで悪影響を及ぼすことがあるようなので、気をつけなければいけない。そのためには、努力することに少しずつ慣れることができるよう、心がけることから。

「仕事の肩書きを失ったら、自分には何もなかった。空っぽの自分を救い出す必要があったんだ。……俺は生きている。悪くないやつだと」と言っていたのは、ヘルシンキのタルッカンプヤ通りだったかにある骨董品店の若いオーナーの父親だった。

救出作戦のためには、まずは、身の回りの環境を気持ちのいいものに整えることが第一。本や音楽、映画等にきちんと向き合うようにしよう。展覧会にも定期的に出かけるようにしよう。そして、何か小さなものでもいいから、生み出すことのできるように努力しなくてはいけません。

あ、決意はするけれど、実践が伴わないということを克服することも。これが、何と言っても一番大事(これがないと、ハッピーエンドにならない!)。


* これはもともとアマゾンプライムから案内のあったメグ・ライアンの「フレンチキス」を字幕付きで観たいと思ったせいだった。いざ見ようとしたらそれが見つからず、しかたがないのでたまたま「ノッティングヒル……」を見たというわけ。なんと言ってもノッティングヒルだし、洋菓子店だし……。お菓子はあんまり食べないし、作ることもないけれど、料理に関わる映画(もちろん、パン屋や菓子店も含まれる)がなぜか好きなのだ。その後で見た、「フレンチ……」も、まあ、ハッピーエンドでよかった。


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2024.01.17 夕日通信

朝早くに鳴る電話


朝の8時半過ぎくらいだったろうか。電話のベルが鳴った。

だいたい、この頃は電話もほとんどかかってくることが無いし、おまけに、何しろこちらももういい歳だし……。こんな時間に、何かあったのか。まさか、悪きことが起きてなければいいけど……などと思いながら、受話器をとった。歳をとると、若い時はなんでもなかったことがけっこう堪えることがあるのですが、これもその一つ。

「粗大ゴミの回収に来たんですが……」
 電話の主は回収業者の人だった(何があったのかはわからないが、ま、たいしたことではないだろう)。
「(えっ)はい。8時前に出しておきました」
「道路沿いのところですよね」
「はい」
「ないんだよなあ」
「え、ちょっと出て行きます」
「お願いします」
 出て行くと、回収車とともに年配の男の人が立っていた。運転席にはもう一人いて、こちらを見ている。




「ここらあたりですよね」
 男の人が指差したが、確かにそこには何もなかった。
「ええ。そこです。そこに置いたんです」
「ああ、誰か持って行っちゃったんだなあ」
「はあ(でも、壊れたから出したんですけど。腕に覚えがある人が、ってこと?)」
「わかりました。それじゃあどうも」
 年配の男の人はシールの控えを確認することもなく、車に乗り込むと、さっと立ち去っていった。

今日は定例のゴミの回収日でもあったので、もしかしたら燃えるゴミとして扱われたのだろうか。それにしてもちゃんとシールも貼ってあったのに……。

不思議な出来事でしたが、まあ、そのくらいのことですんでよかった。


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2024.01.10 夕日通信

新年の抱負 2024


先日は、年末のことでもありちょっとくたびれたので、懸案の「夕食をサラダとメインディッシュの一皿だけで済ます」という問題を実践した(有言実行。ちょっと、我ながらえらいのではあるまいか)。

作ったのは、かぼちゃのサラダと鯖缶を使ったパスタ(いずれも、家にあったもの)。サラダはデリ風のかぼちゃサラダというもので、かぼちゃのほかクリームチーズやアーモンドが入るようだった。パスタのソースは、鯖とトマトのソース。生のトマトを使って、即席に作った。

で、肝心のアルコール消費量はどうだったのか。

それが、あんまり変わらなかった(残念!)。

というのは、デリ風のかぼちゃサラダですが、これが「ワインにぴったり」とあったのだ(写真は撮るのを忘れた。だいたい、ふだんは料理を撮る習慣がない)。それで、仕方がないから、飲み残しのワインを合わせた。




もちろん、パスタにはまた別のワインを合わせなくちゃいけない(色の話です。味の話ではありません。そもそもが安ワインなのだから)。だから、アルコール摂取量は変わらなかった、というわけ(もしかしたら、増えたかも。やれやれ)。おまけに、洗い物も大して変わりませんでしたね。

でも、これでめげているわけにもいかないので、来年の抱負を明確にしようと、やるべきことのリストを作ってみたので、記しておくことにします(備忘録)。

やるべきことのリスト 2024
掃除:せめて、ふだん過ごす場所くらいは、快適なものにする。
   そのためには、普段の掃除と定期的な片付けが不可欠。ものを減らすことも。
練習:頭と身体の鍛錬(退化防止)と努力する練習に取り組む。
外出:せめて月に数回は電車に乗って出かけることにして、街の時間を過ごす。
お酒:これはもう、摂取量を減らす。
創作:頭の体操+のつもりで取り組む。
HP:構成の見直し等の他、ソフトおよびサーバーの変更(こちらは、Macのこととも関わる)を検討する。
視聴:映画と音楽を過不足なく楽しめる環境とするべく、特に映像関連の設備を再点検し、整備する(ことに、
   センタースピーカーが貧弱)。
機器:iPadを使いこなせるようになる。
   Kindleを活用するべく、試みる。
   Macbook Proの不調への対策を考える
実践:実行あるのみ!反省や計画よりも実践を(わかってはいるのだ。ええ、わかっていますとも)。

うーむ。これだけで、もう10を超えている。やるべきことは、ざっと挙げただけでもたくさんあるものだなあ。がんばりましょうね(誰に言っているのか?)。

もうひとつ、日本がまともな国になりますように(政治だけでなく。ここで暮らす多くの人々は、そうしたことと無関係なのに違いないのだけれど)。


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2024.01.03 夕日通信

新年のご挨拶






今年最初の1枚。


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2024.01.01 夕日通信

久しぶりにブックオフ


朝から、何やら大きな騒音が聞こえてきた。どこでやっているんだろうと外にでてみると、騒音源はうちのアパートの庭。伸び放題になった枯れ草を刈っていたのでした(なにしろ、年に3回しか刈ってくれない)。

ところで、最近は本もCDもほぼ中古を買うことが多く、しかも多くはアマゾン経由だ。その朝の散歩はちょうどブックオフへ続く方向へ歩いてたので、夕方の散歩の時に行ってみようと思い立った(この時は、財布も何も持っていなかった)。

お目当ては、「スタインベック短編集」。大学の図書館から借りてきた開高の新刊本*を読んでいた時に、「朝めし」(文中では「朝食」と表記)のことが載っていて、読みたくなったというわけ。おまけに新聞にも、この「朝めし」のことが取り上げられていたのだ。アマゾンなんかでは、送料を入れると新刊本を買うよりも高くなりそうだった。市立図書館の図書館にあるようだったから借りて読もうかと思ったけれど、結局は欲しくなるのだ。その結果、古本を手にすることが多くなった。これは、もちろん、経済的な理由によるところが大きいのですが。

さらに、別の一節を思い出した。

「これらの本がことごとく一度は誰かに読まれたことがあるのだと感ずると、言いようのない劣等感を抱かされた」。

確かに、そのことを思うと、ちょっと怖くなる。さらに、初めて手にしたつもりが、もしかしたら、すでに読んでいたのではないかと思うと、もっと恐ろしい。




さて、はじめに見た外国人作家のコーナーには見当たらなかったから、やっぱり置いてないかと思ったのだけれど、別の場所にも同様の文庫本があったので、探してみると、ありました。220円なり。ラッキー!(たまには、こういうことがなくちゃあね)。さて、読んだものだったかどうか。

ついでにと思って、CDのコーナーへ。こちらは、ジャズ・ボーカルのトニー・ベネットあたりを見てみようと思ったのだけれど、その隣のワールドミュージックのところでチーフタンズを見つけたので、これも購入することに。「The Long Black Veil」(630円)。チーフタンズと、スティングやミック・ジャガー、ヴァン・モリソン、ライ・クーダー、マーク・ノップラー等々豪華ゲストとの共演。帰ってさっそく聴いたけれど、なかなかよかった。なんと、アルバムの最後では、ローリングストーンズが演奏に加わった曲もある。ただ、トム・ジョーンズが歌い上げる「テネシー・ワルツ」は曲自体はいいし、カントリー・ミュージックも元は、アイルランドやスコットランド、そしてイングランド移民が持ち込んだ音楽とアメリカのものが音楽が融合したものだからいいようなものだけれど、ちょっと気分的には違和感がある。

思えば、チーフタンズをよく聴くようになったのは、20年ほども前、飛行機でたまたま隣り合わせたアイルランド出身の若者と話をしたせい(光陰矢の如し。確かに、時は飛ぶ!)。「アイルランドの宝」と言うのだった(たぶん)。でも、持っているCDのがほとんど他の歌手とのコラボレーション。はじめに手にしたのは、ヴァン・モリソンとの「アイリッシュ・ハート・ビート」。以降、購入したものはなぜか共演盤が続いている。と言って、他のアイルランドの歌手、たとえばコアーズやケルティック・ウーマンの方がいいと思うわけじゃないのだ(エンヤは一時、聴いていたけれど)。うーむ。どうしたことでしょうね。でも、言うまでもないかもしれないけれど、どれを聞いてもチーフタンズなのだよ。




夕方になって改めて外を見たら、さっぱりとして綺麗になったのだけれど、そこにどこから来たものだか洗濯バサミがそのままになっていたのはどういうわけだろう。午後の散歩から帰る頃には、道端に落ちた枯れ草を綺麗にはいてまとめていたのに(臥龍点睛を欠いた⁉︎)。


* 「開高健の本棚」、2021年、河出書房新社
(もちろん、再編集されたアンソロジー。だから手に入れるべきかどうか……)


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2023.12.27 夕日通信

もうひとつのレモンパスタ




お昼前の散歩の途中で、門柱に薄い灰色がかった茶色のフワフワ、フサフサしたものが乗っていた。なんだろうと近づくと、その物体は、急に動き出し、すぐにフェンスの向こうの木の細い枝に飛び移った。リスですね。日向ぼっこでもしていたのか、それともランチの食材を物色していたのだろうか。別のところから、もう1匹が現れましたが、写真を撮る間もあらばこそ、あっという間に木々の間に消え去った。

惜しかったけれど、なんとなく嬉しい気持ちになった。僕が初めて街の中でリスを見たのは、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学の広大な構内だったことを思い出した(食堂のテラス席だった気がする)。大学の中にリスがいるほど自然がたっぷり残っているのだな、と感心したのでした(今の時代は、単純に喜べなくなっているようですけれど)。

昼食はコーヒー1杯だけと言うのは、ウィーンのキッチン用品店の店主。食べると眠くなるから、というのが理由。真似をしてみるのはどうだろう、という気がした。眠くなるわけじゃないし、眠くなったらなったで、別に困るわけじゃないのですが。アルコールの消費量も、減る。できるかなあ。

ついでに、夜はサラダと主菜1品だけにするというのはどうだろう。さらにアルコール消費量の減少に役に立って健康にもよさそうだし、おまけに手間も経済の負担も減る。一石三鳥だ(いいことづくめ。めったにある話じゃない)。

さて、先日のジャガイモとレモンのパスタ(ちょっと具材の大きさのバランスが悪かった)の後に、どうせならと思ってテレビで見た方、トスカーナ帰りだという鎌倉のイタリア料理店のシェフが紹介していたレモンパスタを作ってみた(何しろ時間はあるし、怠け者とはいえ、こうしたことは苦になりません)。

材料は、当然ながらパスタと茹でる時の塩、国産の無農薬のレモン、あとはバターと胡椒だけ。チーズもその他の具材もなし。いたってシンプルです。

大きな鍋にたっぷりのお湯を沸かし、沸騰する前に塩を入れてパスタを茹でる。一方でフライパンにバターを溶かし、レモンの皮の表面だけを削る(そうしないと苦くなる。国産の無農薬のものを、というのはこのせい)。さらにそれを絞り入れてから、そのままフライパンに投入。皮も汁も実も全てを使いきるというわけ。イタリア人はとにかくものを捨てないというのだが、これもそのあらわれか。そこに、茹で汁を少し入れて乳化させ、茹で上がったパスタと和えたら出来上がり。お皿に盛って、黒胡椒を挽いてかけると、あとは熱々のうちに食べるだけ。




さっぱりして、美味しかった。

うんと昔、手元不如意の学生の頃は、バターであえてチーズ(当時は紙缶入りの粉チーズ)をかけただけのスパゲティ、スパゲティ・アル・ブーロというらしいですが、をよく作って食べていた(たぶん、伊丹十三の本のせい)。これを、くだんのシェフはアル・ビアンコと言っていたようですが。バターのスパゲティと白いスパゲティ、まあこの辺りの正確なことはわかりません。

チーズなしのレモン入りの方が、よりさっぱりとして、ほかに主菜がある時などにはとくに美味しく食べられるかもしれない。前にも書いた通り、暑い時に食べたら、さらによさそうです(よく冷えた白ワインがあると、いうことなし。主菜がなくてもかまわない。ただし、これは季節を問わない、かも)。

アルコールの摂取量の減少には、まあ、役立ちそうにありませんが。


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2023.12.20 夕日通信

空っぽの空




散歩に出かけると、葉っぱをすっかり落とした木々が目立つようになった。いかにも冬が来たのだという気がする。そして、その上には雲ひとつない青空が広がっているのだ。こないだの新聞の俳句欄に、「空っぽがかっぽしているあきの空」というのがあった。雲ひとつない澄んだ青空を「空っぽ」の空と言い表した(虚空というのとは違う)のには感心させられました。そして、冬の空は、さらに深度があるようにも思えてくる。

一方、街の道は、空っぽでも虚ろな方、あまり嬉しくない。かつては美しい余白だったのが、いまではゴミ箱のよう。空白をゴミで埋めているのだ。この散乱するごみについては、すでに書いたことがあるような気もするけれど……(なんでも、すぐ忘れてしまうのだ)。でも、毎日、見るたびに思うのだから、しかたがない。

散歩をしていると、いたるところで、実に様々なゴミに遭遇する。ビニル袋やらペットボトルやら空き缶やら食べ物の容器やらマスクやら何やら、少なからぬ数、種類のゴミが落ちていて、数歩も歩けば、また別のゴミを見ることになる。まるでゴミの博覧会のよう。

かつて、日本人は綺麗好きだと言われ、幕末以降少し前までは、街の美しさ、清潔さに驚きを隠さない外国人も多かった。最近でも、少し前のサッカーW杯カタール大会での日本人の応援は終了後に綺麗にして帰るということで賞賛された、というのだが。

この二つの間の違いは、なぜなのだろうか。

僕は、以前から思っていたことは、日本人は「綺麗好き」かもしれないし、「決まりを遵守する」かもしれないけれど、別に公共心があるというよりも、罰則(人の目を含めた)によるところが大きいのではないか、ということ。人目があるところでは決まりに従って行動する、あるいはそつなく振る舞うけれど、そうでないところでは文字通り傍若無人に振る舞う人がいるのだ。その数は決して少なくないようだし、近年は特に増えているようなのだ。これは、見かけ上の個性優先教育、誤解された個人主義の普及のゆえということもあるのだろうか。

ところで、かつて「民度」という言葉がよく使われていて、僕はそれを耳にするたびに、なんだか嫌な言葉だなあと思っていたのですが、今は道に散乱するゴミのことに限らず、日本人の「民度」が著しく落ちたことを感じずにはいられないのです(いうまでもなく、自分のことはまずは棚上げすることにして)。




空っぽの空に別のもの、たとえば雲、様々な形状、色の雲が投げ入れられた時は、たいてい美しいのとは大違い。電線が多すぎることに、ちょっと辟易することもあるけれど(でも、これとても、美しいと思う時があります)。


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2023.12.13 夕日通信

冬の黄色




夕方散歩に出たら、もう花を撮るには遅すぎて、結局遠い海を撮るくらいしかない。それでも、毎日違った表情を見せてくれるので楽しい。しかも、時に思いもよらない美しい色合いの光景となって現れることがある。

加えて、もう摘むことのできる花もなくなってしまった(なにしろ、路傍の花しか摘むことができません。これらはツツジだけを残して、なぜかみな伐採された)。だから、家に持ち帰ることのできるものはといえば、落ち葉くらいしかありません。それももう枯葉をつけた木も少なくなってきたけれど、家の前にはこれから全体を鮮やかな黄色に染める木がある。こないだは、殻が割れていないきれいなどんぐりの実を拾ってきた。

さて、気がつけば、もはや12月(ああ!)。この1年は何をしていたのだろう。どこにも出かけず、ごく限られた人以外にはほとんど人と会うこともなかった。いくらかでも生産的な活動を願っていたけれど、またしても果たせないままだ。

そんなことをぼんやりと考えていたら、気が滅入るばかりなので、じゃがいもとレモンのパスタを作ってみることにした。テレビでイタリアンレストランのシェフがレモンのパスタを作るのを見て、食べてみたかったのだ。皮も使うので農薬無しの国産のものが望ましいと思っていたのですが、なんとその旬は冬だというのだ。

レモンというと、夏にふさわしいイメージがあったので驚いたけれど、イタリアの田舎で暮らしたことのある人も、真冬になると野菜がぜんぜんなくて、地元産のじゃがいもやにんじんの他には柑橘類しか手に入らないような時には、レモンとじゃがいもを使ったパスタを作っていたらしいのです。

で、材料はパスタ(今回は1.4ミリのもの)、昼食はこれだけで済ませるので、ジャガイモ、ケイパー、そして主役の皮ごと使える国産レモン。それにチーズ。これだけ。あと、ケイパーの緑だけでは寂しいので、飾りにイタリアンパセリを加えた(あ、ジャガイモの入らないレモンだけのものもあって、件のシェフが作っていたのは晩御飯の立派な主菜付きだったのでこちらの方)。




肝心の味は、どうだったのか。作り慣れないせいで段取りが悪かったけれど、まあ美味しくいただきました。さっぱりしていてよかった。ただし、僕の味覚はあてになりません。たいていのものが、まあまあのように思えるのです(だいたい、美味しいものを食べたいという気がどれほどあるのかも、あやしい)。できれば、じゃがいも抜きのものなんかは真夏に食べたいのですが、国産レモンの旬がねえ。ちょっと残念。

それにつけても、パスタの盛り付けはむづかしいね。僕は、たぶん多くの日本人たちと同様に、前菜ではなく主食として食べるので、どうしても量が多くなる(とても、70gだの80gだのというわけにはいきません)。すると、必然的に皿の大きさに対する比率も大きくなるし、しかも熱いうちに食べたいので(何と言っても、パスタは熱さが命)、大雑把な盛り付けになってしまうのです。

なにかいい方法がないものか。今回は冬らしくいつもの厚めの皿にしましたが、いっそリムのない皿の方がいいのだろうか。じゃがいもは思ったより存在感があるようだったのでもう一回り小さく、飾りに足したパセリも手でちぎるより刻んだ方がよかった。あるいはうんと小さめに切り分けたブロッコリでもいいかも。

料理で、見た目を重視しすぎるのは本末転倒というものですが、これを軽視して食べられればいいとするのもなんだか興ざめのような気がするのです(何しろ、「ごっこ遊び」でもあることですし)。ただ、なかなか、うまくいきませんね。


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2023.12.06 夕日通信

今度は、霧に包まれた街




朝起きて外を見たら、白い霧に覆われた光景が現れた。まるで、街全体が浮上して、薄い雲の中に紛れ込んだかのよう。その景色は、時間によって刻々と変化して、ちょっと幻想的。きっと日中と夜の温度差が十数度と、大きいせいなのでしょうね。






翌日も、同じように霧に覆われた景色でしたが、上空の雲の有り様が少し異なり、時折り雲の間から赤い太陽が顔を覗かせて、昨日のそれとは違った趣の情景。これまた見ていて飽きることがない。しかし、残念なことに、いざその変化を写真に収めようとすると、なかなかむづかしいし、きりがないのです。

ところで、博多駅のエスカレーターは2列に並んで立ち、歩く人はいないようだった。こちらではもう、定着したのだろうか。同様に優先席も、これはずいぶん前からですが、若い人が座っているのを見たことがない。これに比べると、東京や横浜方面では、若い人も空いていると見るやすぐに座って(まあ、年寄りがいない限り、座ってもかまわないとは思うのだけれど)、スマホを注視し、前に誰が立とうがおかまいなしのように見えるのは、いったいどうしたことでしょうね。朝の景色のように、地域性のゆえか、それともたまたまだったのか。


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2023.11.29 夕日通信

黄金色に輝く街


暑くなくなって(というより、もはや寒いくらいに日が増えましたが)、また夕方散歩するようになると、見慣れた景色がずいぶん違って見える瞬間がある。夕日が沈んでしまう前の一瞬、街が黄金色に輝くときがあるのだ。これを見るのが、時間的にもむづかしくて、ちょうど金網越しだったり木々の間からだったりで、なかなか写真に撮る機会に恵まれなかった。で、2周目を試みることにした。






すると、ちょうどいいタイミング。黄金色に輝き始めました。やったと思いましたが、でもあとで確認すると、以前にも同じような写真を撮っていたのでした(やれやれ)。写真の出来は別にして、なかなか素敵でしょう。




また、別のある日の薄暗い雲に覆われて冬ざれた街の景色もまた趣があって、美しい。ま、曇っても、晴れても、ということですね。


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2023.11.22 夕日通信

水道管の埋設は30メートル/日、またはながら族


先週末は寒かった。突然、冬が来たみたいでした。今年は、秋があったのかどうか。秋めいて来たと思ったことはあったけれど、一挙に季節が進んだよう。




このところ、散歩をしていると、水道管の交換、地震に強いものに取り替える工事をよく見かける。いったい1日にどのくらい進むと思いますか。先日、そのことが気になって、ある時に訊いてみたら、だいたい30メートル/日だそう。どこもこんななくらいのものです、と現場監督らしき人が教えてくれた。えっと思うくらいに、短いですね。それでも、地道に継続されるならば、いつかは完成する。

ところで、昔流行った言葉ですが、今はほとんど耳にしなくなった言葉の一つが、「ながら族」。もはや、そうしたことはないのだろうか。あるいは、皆がそうしているのかもしれない。何しろ、少なくとも若い世代の人たちの多くにとって、スマートフォンとイヤフォンは必須のようだから。だけど、なんにせよ、そのやり方は今の僕の中にも生きている(というか、ふだんの生活はそんな感じ)。いつも、音楽がかかっているか、たまに映像が映っていることもある。

考えてみたら、僕は音楽を聴くのに、正対してそれだけに向き合うということがほとんどない。たいてい、というかほとんどの場合なにか別のことをしながら聞いているのだ。うんと昔には、スピーカーと正対して聴いていたことがあったけれど(ウィスキーを飲みながらですが)。これではいけない、とは思うものの、なかなかむづかしい。つい、他のことをしてしまう。音楽を軽視している、というか付属物としてみているかといえば、そうではないつもりだったのだけれど。




今は、こうやって書き物をしながら、マーラーの交響曲の10番を聞いているのですが、演奏は指揮サイモン・ラトルとベルリン・フィルハーモニーのコンビ。ラトルが、同フィルの常任となる少し前のもの(今や遠い2000年製!)。これは以前に車の中で聞いて、いいなあと思ったのでした。それで、さっそくCDを購入した。気負わずに聞いていたせいで、すーっと耳に入ってきたのではあるまいか。美しいものには、そうした力があるのかもしれない。だから、真剣に、構えて聴くことだけがいいわけではないのだろうという気もする。付け加えるならば、映画『ベニスに死す』で使われたことでも有名な第5番のアダージョも美しいですが、10番のそれも負けず劣らず、です。

いったい、マーラーといえば、たいてい長大だし、音は大きいし、どれがどの曲だったかも判別しがたい気もする(ま、僕の場合はなんでもそうですが。おまけに、家にはなぜかたくさんのCDがあるのだ)。でもね。やっぱりね、今こうしているうちでも、手を止めて、耳をすませば、とても美しい。そうしてこそ、聴こえてくるものがあるのに違いない。真剣に向き合わなければわからない、理解し得ないものがあるのだね、きっと(ま、極めて当然のことですが。となれば、やっぱり早くプロジェクターを手に入れなければならない?)。

でも思い返せば、これまでのほとんどが同じようなことのようだった気がする。たぶん、対象に真正面から取り組むことをしないまま過ごして、真剣味に欠けた向き合い方しかしてこなかったのだ。それでも、先の10番の時のように、美しいものと触れ合う瞬間はやってくるのではないかとも思うのですが、まあ、ごく稀にということでしょうね。そのつけが大きいことを今更ながら思って反省するのです。、

それにしても、最近はまた、聴くのがクラシック音楽でしかも決まったものばかりというのは、どういうわけだろう。CDもレコードも、その他の分野のものがたくさんあるというのに(中には、中森明菜のものだってある*)。これも慣習化、硬直化のあらわれか(と思って、その後で、ポピュラー音楽を取り出して来て、聴いてみたらそれはそれでよかった)。

それでも、なんであれちゃんと取り組み続けていれば、多少なりともわかることがきっとあるのに違いない。ただ、なかなか道は遠いようです(ふーっ)。


* これはうんと昔、スキー場で聞いて、買った。


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2023.11.15 夕日通信

ない!




幾度かの伐採を乗り越えて花を咲かせ続けてきた芙蓉も、いよいよ終わりかもしれない。昨日は、まだいくつか花は咲いていたものの、赤い花びらを抱えた蕾はひとつしか見つからなかった(雨のせいかもしれないが、ちょっと寂しい)。

さて、つい先日、外出の練習と日常を打破しなくてはと思い立って、以前から気になっていた帽子を手に入れようと横浜まで出かけることにした。

ジャケットにネクタイを締めた時に、合うようなものが欲しくなったのだ。以前に手に入れた中折れ帽は、ちょっとドレッシーすぎる。カジュアルといっても、キャスケットやベレー帽とは違うものがあると楽しそうだ、と思ったのだ。で、目をつけたのが英国発祥のボーラーハット 、別名ダービーハット、和名は山高帽。頭部全体が丸い、そして硬い。ちょっと調べてみると、元々は使用人がかぶる頑丈なものとして作られたようだけれど、主人の側もクリケットの時などにかぶるようになり、やがてスリーピーススーツに合わせることが大流行したらしい。今では、むしろカジュアルにかぶることができそうな気がする。

ちょっと脱線しますが、これはちょっと興味深いね。たいていの場合は、上流で流行ったものが次第の大衆化するのではなかったか。例えば、ジュエリーを身につける習慣。わが国の住宅では、床の間。それがこの場合は、もともと使用人のために作らせたものとはいえ自分ではかぶることをしなかったのが、やがてスポーツ時に取り入れて、それがまた一般に広まるという往復運動。これは面白いと思ったのだけれど、よくあることだったのか知らん。

閑話休題。

さて、それでは、なぜそう思い立ったのかといえば、先の日常性の打破。これにに加えて、遅々として進まない片付けをしていた時にネクタイがたくさんあることに気づいたせい(おまけに、まだ封を開けていないドレスシャツも結構あったのだ*)。外に出る時にスーツをとは言わないけれど、きちんとネクタイを締めると気分も改まるに違いない。さらに、そのあとで観た『マイ・インターン』のロバート・デニーロのこともあるかも(別に、デニーロと張り合おうというわけじゃありませんよ。念のため)。

そんなわけで、さっそく店に入ってお目当ての帽子を探してみると、ない。どこにも見当たらないのだ。で、お店の人に聞いてみることにした。カウンターの向こうに若い女の人2人がいたのだけど、何やら話し込んでいる。たぶん僕のことは目に入っているのに違いないとは思うのだけれど……(なぜ?貧弱すぎて、お客には見えなかった?)。

その時、もう一人、お店のバックヤードから出てきて、2人がそちらへ目をやったのを捉えて、声をかけてみた。すると、一人が反応して、ようやく対応してくれたのだった。

「ボーラーハットが見当たらないのですが……?」
「はい、こちらへどうぞ」
 ん?そこは見たはずだけれど。
「ここです」
 彼女が示したのは、棚の最上段。そして、下ろしてくれた。
「ああ、なるほど、そこでしたか」
「2種類ありまして、こちらはラビットファー製で白しか在庫がないのですが。こちらはウールのフェルトで、黒、グレー、茶があります」
「白は、ちょっとね」
「もしかしたら、他の店舗にあるかもしれませんが……。ごめんなさい」
「初めてだから、ウールでもいいのかなあ」
「ええ、普段使いには全然大丈夫。安っぽく見えたりしませんから」
「僕は頭が大きいのですが(そのせいか、内部には空洞ができている)」
「サイズはXLまでありますよ」
 
 それから試着してみると、案に相違して、Mで良さそうだった。
「で、色は、何色がいいだろうね?たいてい、紺か、グレーのヘリンボーンのジャケットにジーンズなんだけどね」
「黒ですかねえ」
「ごくたまに、スーツを着る時もあるし……。そういえば、中折れ帽の時は、焦げ茶を勧められましたけど。あ、それは、ビーバーファーだったかも」

「こちらのグレーなんかは、よりシックなりますし……、でも黒の方が何にでも合わせられそうですね」
「うん。スーツの時は、中折れ帽にすればいいんだね」
「そうですね、使い分けるのもいいと思いますよ」
「それじゃ、これをもらうことにしようかな」
 ということで、黒を購入することにした。
「ありがとうございます」

「ところで、当店のアプリはお持ちですか。登録してもらえば、ポイントがつきますよ」
「携帯はあるけど、登録がね、できないんです。だいたい、使い慣れないから……」
「それじゃ、いっしょにやっていきましょう」
「ありがとう」

ずいぶん親切に、丁寧に対応してくれた。そんなことがあって購入した保管用の箱の中の帽子の入った袋を下げて、ちょっと嬉しい気分でお店を出た。

さて、そのあとはランチを、と思ったのですが、人の多さに気圧されたのか、結局どこにも入らずじまい。




食事もしないまま家に戻ると、早速箱を開けてみて、一人でうんうんとうなづき、にんまりした。ちょっと、嬉しい(ちょっと、単純)……。

それから、ふと気づいた。

あっ、(購入したのはいいけれど)、かぶる時がない!ああ‼︎


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2023.11.08 夕日通信

2極化




遅くに咲いた芙蓉は、ちょっと小ぶりになったようだけれど、まだ咲き続けています。近所の、先に咲いた花はもうほとんど終わってしまったよう。もしかしたら、遅咲きは、長持ちするのだろうか。

一方、もうずいぶん前のことからのことだけれど、道に落ちているゴミが大幅に増えましたね。マスクやらビニル袋やら空き缶やら紙やプラスチック製のコーヒーカップやらペットボトルやら何やら、いろんなものがあちこちに落ちている。かつての姿はどこに行ったのだろう。

江戸時代の終わりころ、日本を訪れた外国人は一様に町の美しさ、清潔さに驚いた、というのに。江戸の町を、洗いたてのようだと評した人もいた。そうしたことは、それほど古い時代だけではないのだ。20年ほど前、イギリスで、日本を訪れたばかりという人から、日本の街の美しさ、清潔さに驚いたという話を聞いたことがある(ま、当時のイギリスの街の散らかりようからすれば、それも無理からぬことという気もするけれど)。それが、今は昔。すっかり様変わりしたようです。

でも一方で、清掃活動に精を出す人々もいる。正反対の人々。2極化が進行しているのだろうか(もちろん、どちらでもないという人々もいるに違いないし、多数派であることのだろうけれど。かつては、家の前を掃除をするときは向こう3軒両隣りの分までという時代もあった)。




僕は、ゴミ拾いならぬ落ち葉拾い。11月になっても、まだまだ夏日があるということだけれど、いつの間にか落ち葉が舞うような季節になりました。これらを拾ってきたものを皿の上に並べてみたのですが、なかなかむづかしい。皿は有田の深川製磁製。

2極化は、ゴミ問題に限らない。例えば、再三の要請や警告にも関わらずハロウィーンの街で騒いで迷惑をかける人々がいる*かと思えば、その後の片付けに協力する人もいるし、困っている人を助けようとする人たちがいる。厳戒態勢で迎えた今年も、やっぱり変わらなかったよう(やれやれ)。

「経済」、「経済」、「経済」と連呼する首相の率いる政府の対応も同じ。所得税を払う人たちには恩恵を、そうでない人は無視。ある時は増税に言及し、ある時は減税という。なんだか場当たり主義。言葉を弄んでいるだけのようにも見える。おまけに、あんまり恩恵を受けるという実感はないだろうと指摘する人もいるし、批判的な専門家も少なくない。それでも、そんな風にして進んでいくのでしょうね。しかも、これは経済のことにとどまらないようだ。

生活の豊かさは、必ずしも経済がいちばんというわけではないけれど、これが安定しないことには、安心して暮らすことはできないのではあるまいか。それにしても、識者というのはたくさんいるようだし、彼らの知恵というものは、集められて、もっといい施策にまとめられるというわけにはいかないものかね。

40年ほども前から指摘されてきたような気がする、日本の「格差社会化」。このままでは、早晩完全にそうなってしまいそうです(ノブレス・オブリージュを旨とする貴族もいないのに)。何もかもがバラバラで、デタラメな、ひどい国になるのではないか、と思ってしまう。目先の利益のために手段を選ばずといった風もある。大げさのようだけれど、もはや矜持、誇りといったものは、もはや風前の灯なのだろうか(なかなか簡単ではないけれど。自戒)。


* 厳戒態勢の中の今年の渋谷は、いくらか減ったようですが、それでも10月31日21時3分付けのweb版の東京新聞には、「ハロウィン当日…厳重警戒の渋谷は仮装した若者と外国人であふれ、商店街理事長がため息をついた」の見出しと、記事の末尾には「渋谷センター商店街振興組合理事長の鈴木達治さん(59)は「商店街として経済的なメリットは何もない。今夜は朝までごみ片付けです」とため息をついた」とあった。


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2023.11.01 夕日通信

住宅の外の置物について




これは階段に映ったただの影ですが、時間帯によって、その形を変えるのがおもしろい。基本的には規則的な繰り返しだけれど、時々にそこに異質なものが加わって、飽きることがない。

ところで、住宅の外に置かれた置物のことを気にしながら歩いてみると、けっこうありますね。

まずは種類ですが、動物が多いようです。植物や人物像もある。

種類だけでなく、置き方、すなわちどちらを向いているのかということも気になる。家の中から眺めるのか、それとも道から見えるものか。さて、どちらが多いと思います?たいていは、道の方を向いて置かれているようなのです。

住む人の気持ちのありようを垣間見るような気もして、ちょっとおもしろい。すなわち、自身が楽しむためなのか、道ゆく人々に見せるためなのか。どちらかといえば、というより、圧倒的に後者の方が多いのはどうしたことだろう。そして、その分、特にリビングルームのプライバシーは不足しがち(江戸末期から明治にかけてまでのことはともかくとして、戦後からこちらはプライバシー意識は高まるばかりのようなのに。だから、レースのカーテンは閉めっぱなしだし、時には、特に夕方になると、カーテンや雨戸で視線を遮断している)。

また、動物を中心にかわいらしいものが多いのは、単に住まい手の好みなのか、それともかわいらしいものが好きな人の家であるとの表明、いうことなのか。




たとえば、門柱の上のアヒルと猫という脈絡のない組み合わせ。後ろには、小さい子供たちの像。いったいどんな思いで選ばれたのだろうか。うまく行っているかどうかは別にして、住人が好きなもの、可愛いと思うものが置かれたのだろうか。






上の二人の子供の像とその周辺に置かれたいくつかの像ですが、これらも脈絡はなさそうです。しかも家に背を向けて置かれているから、道ゆく人に対してのものでしょうね(ま、庭に出た時に見るということも考えられないわけじゃないけれど)。他の家では、手すりのこちら側にレリーフが設置されているところもあった。




そして、フェンスの近くに置かれた野菜の置物。これはどうしたことだろう(まさか、たまたまあったものを置いた、というわけでもないでしょうから)。両脇にあるのは照明器具か。でも、その角度からして見ると、野菜を浮かび上がらせるものではなさそう。

他にも、例えば先日の小さな犬の他、動物や水を入れたペットボトルなんかが門扉の外に置かれたものもありました。

こうやって並べてみると、多くのものが自ら眺めて楽しむというのではなさそうなのです(ま、帰ってきたときに、「我が家らしさ」を確認するということはあるかもしれませんが)。とすれば、道ゆく人の目を楽しませるためという心意気というのがまだ生きているせいなのか、はたまた、人に見せようとしただけなのか。

僕は、いずれでもないのではないか、ただなんとなく置いたということではないかと想像しているのですが。強いていうなら、見せることかもしれませんが。たぶん、あんまり関心が無い(あるいは、失った)、と言って悪ければ、そこまで手が回らないというところなのではあるまいか(置きっ放しというのが、多いようなのです。人ごとではない、気をつけなくては)。これは、家の内部−庭−通りの視線の遮りかたとも通底している気がします。

理由はともあれ、人は飾りたくなる衝動があるということは間違いなさそうなのですが。


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2023.10.25 夕日通信

「指標」としての映画


「若い時は習慣を作らなければならず、歳をとったらこれに縛られないようにしなければならない」、といったようなことをどこかで読んだような気がするのですが、なかなかむづかしいですね。きちんとした生活をするための習慣は身につかず、ふだんの食器などは決まったものしか使わなくなってしまう。

これが手近にあるもので済ます、すなわち面倒ということのあらわれだとすると、まずい。硬直化の証拠で、相当にまずいですね。これを撃退するには、まずは使うときの手間を減らすか、またはそのこと自体を楽しめるように仕向けなければいけない(特に僕のような怠け者にとっては。たとえば、鉄のフライパンを育てるようなことは全く苦にならないどころか、むしろ楽しいのです)。




先日ようやく新しいお皿を手に入れたのですが、これがうまく使えるかどうか。こればかりを使ったり、逆にほとんど使わずじまいになることのいずれからも逃れなければいけないのですが。

ところで、映画『ラブ・アクチュアリー』の続編が作られたことは知っていたのだけれど、これを観てみたいと思いつつも、すでに配信もされていないようでずっと果たせなかった。ということになれば、よけいにその思いは募ります。それが先日、『ラブ・アクチュアリー』を観た後、ようやく観ることができたのでした。

続編といっても、BBC Oneのチャリティ番組『レッド・ノーズ・デイ2017』で初放送されたという15分程度の短いもの(『レッド・ノーズ・デイ・アクチュアリー』)。主だった出演者が元の役柄そのままに登場し、13年後の姿を演じている。ただ、エマ・トンプソンは、夫役だったアラン・リックマンが亡くなったために出演していない。




そこで、遅ればせながらささやかな追悼(7周忌?)のつもりで、『ボトル・ドリーム』を見ることにしたのでした。ここでリックマンは、パリでワインショップの隣に世界初のワイン愛好家向けスクール「アカデミー・デュ・ヴァン Académie du Vin」を開設し、フランスワインとカリフォルニアワインの対決(『パリスの審判』と言うそうですが)を仕掛けた英国人スティーヴン・スパリュア役を演じた。

この映画も、くたびれた心に効くものの一つで、見るたびに新しい発見というか、教えられることがある(ま、覚えと理解が悪いだけなのかもしれませんが)。数あるワイン映画の中でも、僕が観たものの中では出色な気がする。世評に名高い『サイドウェイ』よりも好きです(あんまり苦いところがないためかも)。つい忘れがちな、「矜持」を思い出すのにもいい。以前書いたように、屋外で試飲するときの景気もすばらしい。

ワインは葡萄畑で生まれる。「水ももらえず、苦しんだブドウは風味が増す」というのは、ブドウだけに限ったことのようだけれど。「水と肥料をたっぷりもらったブドウからは、まずくて退屈なワインしか生まれない」というのはどうでしょうね。鉄のフライパンは?所有者はどうなのか?

そのついでに、映画初出演で冷酷非道な武装集団のボス役を演じて強烈な印象を残した『ダイ・ハード』(1988年)も観たけれど、昔のDVDは予告編がなくていい。もちろん、主役のブルース・ウィリスが若い。当然、アラン・リックマンも。日系企業が、まだ元気だった頃ですね。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が出たのはいつだったか*。

何本かの映画を観た後は、それが何回めかのことだったせいか、歳をとったんだなあ、と思うことしきりでした。

そういえば、開高健は「書物ほど容易に、優しく、謙虚に、過去の自身を見せてくれ、辿りつかせてくれるものは他にあまりないから、こいう本はどんなことがあっても売り払うわけにはいかない」と書いていましが、映画も同じだろうという気がします。自身の今を知る指標としても格好(ただ、苦い思いをすることが多いようだけれど。僕の場合です)。


* 1979年でした(!)。ずいぶん遠い日のことのようだけれど、最近は、またも力対力の単純な世界に戻っているような気がする。


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2023.10.18 夕日通信

「バランス」が問題


先週末から今週の初めにかけては、本当に寒かったですね。今度こそ、季節が確実に一歩進んだのではあるまいか(考えてみれば、もう10月も半ば。でも、11月並みだったのだそう)。昨日は外出の練習で、歯医者のついでに横浜まで、注文していた品物を受け取りに出かけたのですが、あんがい暑かった。そして、途中で寄った帽子屋で、富山にいるはずの卒業生とばったり。正規に勤めるようになったと聞いたばかりだったので、もうクビになったのかと心配したけれど、そうではなかったは何より。お互いに用事*があったために、短い邂逅でした。




今日の水盤の花は、ピンクと黄色のランタナ。元は黄色味が勝っていたのが、数日のうちにピンクが目立つようになってきていた(それほど濃くはないのだけれど、もう少し薄いピンクの方が好ましい)。ちょっと葉っぱの量が多いのは、花が枯れた後も蕾をつけていたので、もしかしたら咲くかもと思って、そのままにしていたせい(今回は、残念ながら、咲くことはありませんでした)。




まずは、先週の映画(を含めたDVD)のベスト1から。これまでにも何度か書いたことのある、『フォロー・ミー』(キャロル・リード監督)。はじめは別のものを観ようとしていて、見つからなかったので(このところは、こうしたことばかり)、観ることにしたのですが。やっぱりいいなあ。

ちょっと心がくたびれた時に、(僕にとってはですが)いちばん効くかもしれない。いや、2番目か?(この部門は、あと何作か拮抗するものがある)。ミア・ファーローやトポルはどちらかといえば苦手なのに、この時ばかりはぜんぜん気になりません。

哀愁を帯びたメロディと「フォーロウ、フォーロゥ……」と繰り返される歌詞が耳に残る、007シリーズの音楽でも有名なジョン・バリーの手になる主題曲もいいです。時々、例の永遠のマイ・ベスト3(観たいのに、ほとんど観ることができない)の一角を崩してもおかしくないのかも、と思う時があるくらい。ま、感傷過多の誹りは免れないかもしれないけれど。

さて、最近、時々ふと頭に浮かぶのは、バランスの感覚のこと(先の映画を手にしたのも、このことがあったかも)。何にしても、これを欠いたら上手くない。たとえば、食事、肉や魚と見合うだけの野菜を取らなくてはいけない。これを食べるための調理でも、塩味の調整が肝心。塩が足りなければ全然うまくないし、塩が勝ちすぎると食べられない。飲み物にしても、たとえばウィスキーと少しだけ加える水の量のバランスがおかしいと美味くないのだ。ピアノだって、右手と左手のバランスが大事らしい。ま、塩梅という言葉もあることだし。

ともあれ、改めて振り返ってみると、分けても人との「距離感」というのが不得手のよう。これがずっと、うまくできないようだった。気がゆるむと近づきすぎてしまったり、気にし始めると逆に遠くに離れたり。今頃になって気づくのだけれど、やっぱりちょっと困ったことなのではあるまいか。うーむ。この年になってもなかなかうまくいかないようなのだね。本当にむづかしいのです。


* いちおう、絵本のコンテストに応募することができました(会った時に、今日が締め切りと伝えると、「まだやってんの?」と言われましたが)。あとで思ったのですが、終わりの部分がちょっとポターに似せすぎたかも。


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2023.10.11 夕日通信

秋の入り口


ようやく、猛暑の居座る時間帯が減ってきましたね。日差しも伸びて、部屋の奥まで届くようになってきた。秋ももうすぐ。あ、夏のうちに観るつもりだった映画も観ないままだ(時間はたっぷりあったのに!)。

だからというわけでもないのですが、ちょっと気になっていたのが、「ナポリタン」。時々目にして(テレビですね)、懐かしい思いをするのですが、実際にはあんまり食べた記憶がありません。それにしても、よく登場する。正統派パスタ(今やスパゲッティとは言わないのだろうか?)とは全く違うものですが、いわばこれは、「とんかつ」みたいなものなのだろうか。

僕が覚えているスパゲッティ体験といえば、まず伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』。本の中の出来事、です。そのあとは、和風パスタのブームの最中の、『壁の穴』。本来の「ナポリタン」を食べる機会には、ついぞ恵まれなかったような気がする(伊丹のせいだったのか。ま、あんまり喫茶店にも行かなかったし……)。若かった時代が、本当にあったのか⁉︎(うーむ)。





インターネットで検索したレシピを頼りに作ってみたら、ちょっと甘くて、いつものパスタとは全く違っていましたが、まあなかなかおいしかった。そして、なぜか懐かしい味がしたような気がした。




さて、このところの少し早い夜の音楽は、たいていジャズ。マイルスの『COOKIN’』や『Sketch of Spain』、『Somethin’ Elth』(キャノンボール・アダレイ名義)。それぞれに、『マイ・ファニー・バレンタイン』(LP盤の『MY FUNNY VALENTINE / MILES DAVISE IN CONCERT』にも)、『アランフェス協奏曲』、『枯葉』が入っている。耳に馴染んだ曲というか、元はと言えば、最初のものはミュージカルの曲だし、その次がクラシック、最後がシャンソンで、いずれもが編曲されたもの。暑い日が続く中でも、時折り秋を感じるような時が混じるようになってから、これらが似合うような気がして、かけることが増えた(ただ、LPとCDの両方がある場合は、ついCDの方に手が伸びてしまうのは、どうしたことだろう。余裕がないってことなのか)。

20世紀を代表するピアニストの一人であるリヒテルは、作曲家自身によるもの以外の編曲を嫌い、繰り返しの指定を省くことさえ否定した*。どうやら彼は、自身を自己表現をめざす演奏家ではなく、作曲家の音楽を忠実に再現する「作曲家の鏡」であるべき、としていたらしい。自身のオリジナリティを重視するというのとは異なるが、生粋のオリジナル尊重主義者と言えるかもしれない。

理屈としてはわからないでもないけれど、もっぱら音楽は聴いて楽しむだけの身としては、一つだけではない、「演奏」を楽しみたい。大体が、『オリジナル信仰を疑う』という文を書いたことがあるくらいなのだ。第一、楽譜だけでは作曲家の頭の中でどんな音楽が鳴っていたのかわからないのではあるまいか(だからこそ、譜面に書いてあることに忠実に、ということか?)。うーむ。演奏家とは何か、対象と主体との関係、創造的行為とはなにか、等々いろいろと考えてみなくてはいけない。

ところで、以前にグールドとグルダの最晩年の録音がずいぶん遅いことについて、思ったことを書いたばかりだけれど、遅いといえば、ビル・エヴァンスのピアノの音で始まる『カインド・オブ・ブルー」も、ジャズにしてはかなり‘遅く始まるのではないか。すぐに、ジャズらしさを感じさせるけれど、それでも比較的ゆっくりしたテンポに戻るようですが。

ジャズを聴いていると、時々メロディを感じさせない時がある(というのか、音と音の間隔が開くだけで、メロディはちゃんと存在している、という気がするのですが)。

たとえば、キース・ジャレットの『メロディ・アット・ナイトウィズ・ユー」。先のマイルスの『カインド・オブ・ブルー」の冒頭も。でも、クラシック音楽(先日のグールドやグルダの最晩年の録音)と比べると、一種の諦観のような感じはしない。どこか、あかるいのだね。出自が、決して恵まれた人たちの音楽ではなかったにも関わらず(逆に、その分、あかるくなったのだろうか?)。もしかしたら、演奏することに没入することで、悪いことを忘れたかったのかもしれない。

それから、唐突に終わる感じがするのはどうしてだろう(たとえば、『カインド・オブ・ブルー』や『Sketch of Spain』のことです)?それが「モード・ジャズ」というものだと聞いたけれど、正直なところ音楽の理論についてはさっぱりなので、よくわかりません。これらは、やっぱり、マイルスが先駆け?

何れにしても、これらの音楽をクラシック音楽と呼んでも、全く不思議じゃない気がしてきます。たぶん、ジャンルというよりは、どれだけ長く聴かれてきたかということの方が大事なのではあるまいか。そういう意味では、いわゆるクラシック畑の現代音楽がクラシックというジャンルで語られるのは、ちょっと不思議(こうした領域では、なかなか「パラダイム転換」というのは起こりにくいようですね)。


* バッハの『パルティータ』でいっさいの繰り返しを行わなかったグレン・グールドを、「つまりはバッハの音楽をそれほど愛していないということなのだ」として、断罪している。(「リヒテル」271p)。また、リヒテルは画家としての腕前もなかなかのものだったらしいのだけれど……。


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2023.10.04 夕日通信

ジェンダーレス?


今日の水盤の主は、アパートの入り口の近くに咲いていた青色の小さなアサガオ、と思っていたのですが、うまくいかないので久しぶりに飾り棚の方に。でも、こちらはあのツユクサ以上に早く閉じてしまう。しかし、愛らしいことは変わりません。




飾り棚はちょっと暗いので、何か簡便でいい照明方法はないかと考えていたのですが、小さなものを見つけたので使ってみた。しかし、光の色が寒色系で残念。電球の色味は選べないようなのですが、探せばある?

最近は、いや最近に限らないかもしれないけれど、世間の常識と自身のそれが大いに乖離していることを思い知らされることが多い気がします。

もしかしたら、表層しか見てこなかったせいかもしれない。

これまでのことを振り返るなら、表層ばかりを見て来たということになりそうです(ちょっと残念)。もちろん(と言っていいのかどうか)、願ってそうしたわけじゃない。でも、実際にはそうやって来たのだと思うしかないようなのだ。

たとえば、映画を選ぶ時は、主題よりも物語、ストーリーよりもロケーション、監督よりも出演者が優先。好きか嫌いかというときも、全体よりも一場面の方が重要だった。「本末転倒」、「わかっていませんね」等々、そう言われても仕方がありません。ま、だからと言って、来し方を書き換えるわけにはいきません(残念)。

これは、粘り強く考え続けることができない、または丁寧に書き込んだり、描きこむということができない、あるいは片付けや掃除がきわめて不得手、という性質が関係しているのだろうか。

また、たまにウィスキーを飲むことにしようかな。表層に惑わされない練習のためにも。

だから、それはシングルモルトではなくて、ブレンデッドのごく一般的なものでなくてはいけない。たとえば、「バランタイン(良くて、12年まで)」、「ジョニー・ウォーカー」の「赤」や「黒」、あるいは「カティサーク」(思えば、これでウィスキーに入門したのだ)、そして食通の恩師が日常酒としてこれで十分と言っていた「フェイマス・グラウス」なんかが好ましそうです。




ということで、まずは手に入りやすい「カティサーク」から。グラスは何がいいだろう。バカラなんかよりも、Hard Rock Cafe なんかのロゴ入りのものがふさわしいだろうか。

さて、人は、果たして表層しか見ないで生きていけるものだろうかね。

先日の日曜の朝、テレビの報道番組を見ていたら、例の首相の「女性ならではの……」発言が取り上げられた時に、「わたしは非常にムカつきました」という新聞社所属の女性がいた。スタジオ内にはこれに賛同するような雰囲気が漂ったように感じられたのですが、正直に言えば、僕はおかしいなと思ったのでした(上っ面をなぞっただけのような「岸田の発言」は何を聞いてもムカつく、ということはひとまずおくとして)。

もとより男女が平等であることに異論はない。男性の中にも、女性の中にも様々な人が存在していて、一様ではないことも承知している。そして当然、それぞれが尊重されるのがあるべき姿とも思っている。しかし、同時に気になることもあるのです。先の、岸田発言はそんなにムカつくような発言なのか。男女に違いがあることを認めるのは、間違いなのか。

もしそうだとしたら、ほかの事についても、男女の別があることについて言及する方がいいのではあるまいか。スポーツの競技大会とか、天皇継承の問題とか(また別の、むづかしい問題があると思いますが)。

また、たとえば、「今の男はこうだ」と言うのはいけない、と言われる。「男の中には、いろいろな男が存在する。だから、多様性を認めなければいけない。なんでも十把一絡げ、一括りにしてはいけない」というわけです。

一見、正しい議論のようでも見えるけれど、気をつけないと全てを個人に還元した議論しかできなくなりそうで、まずいことがある気がする。

成績の上位を占めるのが女性だという状況を指して、「最近の男はどうも形勢不利のようだね」などと言ったりしたら、とたんに「今は、男は……(あるいは、女は)、などとと言っちゃいけないんですよ」と弾劾されるに決まっているし、「今の時代、日本人は節約する傾向があるようだ」などという言い方も、「散財する人もいますよ。一般化した言い方は良くないですよ」、なんて諭されそうだ(こう言う人も、一方で、他のところでは、あんがい慣習的なことに従っているような気がするのは、僻目というものだろうか)。もちろん、安易に普遍化しようとするのはいけませんが(自戒)。

場合によっては悪平等になりかねないし、統計的な議論もはばかられることになって、結局は別の全体主義になる可能性もあるのではあるまいか。

ある時にうんと若い人と少しだけ話す機会があって、話しているうちにこんなことを思ったのだけれど、こうした考え方は、いびつで歪んでいるのだろうか。これも表層的?

もう少し考えなければいけません(ただ、僕にとっては、易しくはないようですけれど)。同時に、マッカーサーの演説での引用句を思い出したりもしますが。


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2023.09.27 夕日通信

明快であること


久しぶりに、道端の花を摘むことができた。





久しぶりに摘んできたのは、薄いピンクの、アサガオ?摘んだ時は、花びらが欠けているように見えたのに、翌日は綺麗に綴じられていた。ちょっと、嬉しい。 

さて、今回は、文章について、思うことを書こうと思います。

もちろん、僭越なことはじゅうぶんに承知しているつもりですが、自戒を込めた覚書のようなもの。だいたいが、僕のここでの文章は、である調とですます調が混じっている。これは、まず褒められない。ある時に、国文学の人に言われたことがあります。「ですます調」と「である調」を混ぜてはいけない(もちろん一般論で、僕の文章のことではなかったけれど、今でははばかられるような言葉で言ったのでした)。

この2つの書き方を混ぜることは、もちろん僕の発明でもなんでもなく、丸谷のエッセイに教わったことです。彼は、「ですます調」だけ、あるいは「である調」だけでは、文が単調になって退屈だと言うのでした。その混ぜ具合が重要。でも、そうしたところで、読ませるにはまた別の芸が必要になるようだけれどね。

先日、たまたま手に取った加藤周一の著作集の中の月報に、興味深い文があったので、そのことから。冒頭は以下のように始まる。




 加藤周一氏の言論が常に明晰なのは、それが根本のところで常識に基づいているからである。言論の基底に常
 識があって、たとえどんなに難解なことを論じていようと、彼の言論は判る。

と書いたのは、小田実。ちょっと意外な気がした。かつて、小田は行動する人として知られていました。その姿勢は、まだ誰もが海外旅行をするという時代ではなかった頃、一枚の航空券を持って世界を貧乏旅行して見て歩いた体験を記したベストセラー『何でも見てやろう』の時から変わらなかった。だから、ややもすると論だけの人と揶揄されることもあった加藤を(小田と同じく行動する作家であった開高健は、加藤をそんな風に批判したことがあった)、小田も、最終的に批判するのかと思った。しかし、読み進めて行くとそうではなく(まあ、月報に載るくらいだから、それはないのが普通なのでしょうけど)、以下のような文を含む段落で閉じたのだ。

小田自身の「言論も常識に基づいている」し、「絶えず彼にならって、そこからことを出発させようとする」と書く。しかし、共感はそれだけでなく、「彼の言論には、全体を通して、世の非常識、反常識に対しての怒りがあるように思えて、その怒り—常識の怒りの通底が私の心をとらえる」と書いているのだ。

もしかしたら、えっ、「常識」に基づくって、何それ、と思う向きもあるに違いない。これについての小田の説明を要約するのはちょっとむづかしいけれど。

常識というのは、例えば、「その生物体としての構造、機能から言って、人間は100メートルを1秒で走ることはできない。あるいは、人間は困ったとき助け合う、人間は人間を殺してはならない、の倫理がある」とし、「こうした常識としての認識の蓄積があって、判断、倫理、の蓄積があって、人間は野蛮を脱し、廃止、文明を形成してきた」。

一方、もちろん常識だけに頼ればいいと言うはずもなく、「100メートルを1秒で走れる、いや、走りたい。この夢が想像力の飛翔を喚起して、見事な詩となり絵画となった」とし、加藤も、「こうした人間の可能性を斥ける人ではない*。〈中略〉ただ可能性の中には、くだらぬものと素晴らしいものとがあって、加藤氏は、可能性をただその名の下に丸ごと肯定するのではなく、可能性の種類と質をみきわめようとする」と書き、「その根拠は、それがいったい人間にとって、人間がつくり出し、維持してきた文明にとって何の意味があるかということだ」と続ける。

「人間は人間を殺してはいけない」。この「倫理を否定して行けば戦争の無限肯定、大量虐殺に至る」が、逆に「肯定に徹して行けば戦争の無限否定になる」。どちらの道がいいか。後者の道がいいなら(小田はもちろんこちらを取る)、じゃあ後者の道をゆけ、歩め。つまり、これが常識」なのだ。

加藤は、もしかしたら、「常識」や「分かる」文章を書くことを優先したために、ある種の詩情(彼が本来有していたはずの)を封印することになったのかもしれない、という考えが不意によぎったのですが……。

いずれにせよ、いたずらに常識を無視した、というか一般的には誤用とされかねない書き方を本人もよく理解しないままに、何やら意味ありげで思わせぶりな文を書くべきではない、と思う。自覚しつつ、常識を逸脱した用い方をして、別の世界に飛翔しようとする思いがあるなら、そのことを投げかければいいのだと思う。そうでない場合は、他の部分にまで疑いを抱かせかねない。これは、書いた人も望まないだろうし、書き手と読み手の双方にとって、不幸なことだ。

一方で、受け取る側に、受け取ろうという気持ちがなけれ理解されるわけもない。

江戸時代の歌人、国文学者の香川景樹は、読んでわからないのは、二つの理由があって、「読む方にわかりたいという気持ちが欠けているか、書いた本人がよくわかっていなため」というようなことを言っているそうです(うんと昔に読んだ)。むづかしいものだねえ。

さて、僕が文章を書く理由はと考えてみたら、書くことで自分の考えを明確にしたい、あるいはささやかな自己確認(なんでも目に見えるようにしないと把握できないし、しかも理解するのが極めてゆっくりなのだ)。すなわち自己確認(ボケ防止)、そしてできれば他者(せめて近くにいる他者) と共有し、共に考えることができればと願うからなのです。だから、論旨が明快にわかるように書かなければならない、と思い定めているのですが……。

後者の場合は、対話を通じてこそなしうることなので、一方通行ではどうにもなりません。対話しようという気持ちになるような文章を書かなければいけないってことだけれど、うーむ、これもまた、なかなかむづかしいのだね。


* 加藤は、元々は医者でもあって、大学在学中には中村真一郎、福永武彦と「マチネポエチック」という定型詩のグループを形成していたことがあるし、中田喜直、別宮貞夫らが曲をつけた「さくら横丁」の歌詞もある。


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2023.09.20 夕日通信

突然降る雨


もう9月も中旬。天気予報を見ていたら、もうすぐお彼岸と言っていた!年々、時間が経つのが早い気がしていたけれけれど、こんなに早いとはね。わかっていても、なかなかなのです。




そして、今は摘んでくることのできる野の花がないので、水盤は葉っぱだけ(それまでここにあったアイビーは、小さな植木鉢に植え替えを準備中)。

それにしても、先の8月の猛暑ぶりはひどかった。連日30度超え、体温をも上回ろうかという気温が続いた。もはや恒常化した「異常気象」による災害も、頻発するようになった。世界各地でも同様だ。この先、いったいどうなっていくものやら。

先日の台風は、またも各地で甚大な被害をもたらしましたが、皆さんのところはいかがでしたか。大事に至らずにすんだのならば、いいのですが。家のあたりでは、幸いにも雨も風も大したことがなく、ちょっと拍子抜けするくらいでした。しかも、翌日も台風一過の青空というわけにはいかなかったし、秋が深まるどころか、まだまだ厳しい残暑が続いています。

こういう時は、雨が恋しくなりますね。このところは、異常気象の一つなのか、晴れていても、急に雨が降り出すことも珍しくないようです。


  

暑い日が続く中、空がにわかに曇って、雨が降り始めるとたちまち水墨画のような涼しげな風景が出現して、ちょっと嬉しい。雨のカーテンの向こうに景色ががうっすらと透けて見えるのも好ましい。ほっとします(ただ、窓を開けることができないのは困るし、何日も降り続くのは嫌だけれども)。

その雨もひと通りではなく、様々。激しく降る雨、やさしく降る雨、長く降り続く雨、すぐに止む雨、朝から降る雨、昼に降る雨、夕方に降る雨。それから、雷光を伴う雨等々、ほかにもたくさん。

分けても、昼下がりに、静かに降る細い雨を眺めながら過ごすのが、楽しい。「驟雨(しゅうう)」、という響きが良く似合う気がする(前にも書いたかもしれません)。本来の意味は、「急にどっと降りだして、しばらくするとやんでしまう雨。にわか雨。夕立」のことですが(デジタル大辞泉による)、でも僕は、その音の響きから、細い雨が静かに降っている景色を思い浮かべるのです。静かに汚れを洗い流してくれているようで、気分が落ち着くのです。ずっと眺めていられます。しかも、しばらく降ると、何事もなかったかのように、さっと止んでしまう。何もかもが、さっぱりしている。

なんであれ、雨の日は、何もしないで、雨を眺めながら、音楽を聴いたり、本を少しずつ読むのが良い。というわけで、片付けをしないでも、良心の呵責を覚えないで済む、そんな気になるのです(ということは、降っても晴れてもってこと?)。

雨が上がると、清潔であかるい世界があらわれるのも、また嬉しいことです(ただ、長続きしないのが残念)。

冒頭の台風は嫌われ者の代表の一つですが、昼でも暗く、なにやら不穏な雰囲気が漂う。でも、家の中にいる限りは安心していられるのです。大雨や暴風のせいで災害が起きるのは困るけれど、木々が激しく揺れ、雨が窓を打つ様子を家の中から眺めながら過ごすのも、案外わるくない気がします。


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2023.09.13 夕日通信

黄色の研究・第3弾」を開始


しばらく留守にしていたうちに、プリンターも、無事に修理を終えて戻ってきました。ホッとしたのですが、なんだか印刷のスピードが遅くなったみたい。と思ったら、今度はインク切れ(やれやれ)。

家に帰ってきて、散歩に出かけるときに気になるのは、あの芙蓉の行方。


  

さっそく確認したところでは、背丈は順調に伸びているものの、蕾はありません。やっぱり、伐採された時期が悪かったのか。予想していたことではあったけれど、心のどこかでは期待していたのでした。うーむ、残念。こうなると、いよいよさし穂に挑戦して、自分でなんとかするしかないという気がしてきた。


 

一方、アパートの前の朝顔は、ようやく小さな花を咲かせていました。最初に葉っぱを見つけたところとは違う場所に、しかも葉の陰に隠れるように咲いていたのですが、これは嬉しい。おまけに、道路沿いの植え込みの中にも、さらに小さな赤い花を見つけた(なんという名前だったか、思い出せない。ああ)。




ところで、ごく稀ですが、美味しそうな写真を見たりした時なんかに、ホットケーキを食べたくなる時がある。で、初めてホットケーキを焼いてみました。

ホットケーキミックスの袋に書いてある通りの割合でボウルに溶いた時はけっこうどろどろで、これでうまく焼けるのかと思ったけれど、案ずるよりも生むが易し、まあまあうまく行った。一袋で3枚焼けました。




使ったフライパンは、内径15cmの鋳鉄製フライパン(ふだんはスパニッシュオムレツ用)。

今後はもう少し薄い色にすることと、厚さを均一にする技を身につける必要がありそうです。黄色の研究第3弾を始めようと思う。

ところで、ホットケーキの写真は、なぜ2枚、3枚重ねてあるのでしょうね?

今回までは休もうかと思ったのですが、短くても書くことにしました。なんと言っても、怠け癖を克服しなければなりません。




お知らせ:「アーツ・アンド・クラフツとデザイン ウィリアム・モリスからフランク・ロイド・ライトまで」展の招待券(1枚)を差し上げます。

開催日時は9月16日〜11月5日、開催場所は横浜そごう美術館。

ご入用の方は、メールでお知らせください。1枚だけですが、先着の方に、お送りします。


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2023.09.06 夕日通信

すごい生命力!


驚き、感嘆して、そして、嬉しくなった。


  

 

散歩コースの途中にある、例の無残に切り取られてしまった芙蓉が、新芽を出していたと思ったら、今やたくさんの葉っぱをつけている。さすがに蕾はつけていないけれど、もしかしたら、花も咲かせるだろうか。凄い生命力!あやかりたいものだ。いや、見習わなければいけません。

その後も順調に成長しているけれど、やっぱり蕾はみあたらない。調べてみると、剪定時期で花を咲かせないことがあるらしい(ま、蕾をつけた後に切られてしまったのだから。残念!)。でも、さし穂というやり方があるようなので、葉っぱをもらってきて、育ててみようかな。

一方、アパートの入り口近くでいつも咲いていた小さな朝顔が、まだ咲かないし、葉っぱも見えない。こちらは雨が少ない上に猛暑が続くせいかと心配していたら、側溝のところに小さな葉っぱがあった。こちらはいずれ、花を咲かせそうな気がする(まあ、期待というか、願いですが)。

それやこれやで、今年の夏は、野の花が手に入らず、テーブルの上の水盤はアイビーと石垣に生えていたのを摘んできた赤い葉っぱだけ。ただ、植木鉢の方のアイビーが枯れかけているのが心配。水のやりすぎで根腐れを起こしたか、はたまた逆か、それとも葉焼けなのか?

と思っていたら、まだ緑の葉っぱをつけていた茎の分も枯れて、全滅してしまった(ああ!)。水盤に飾っている分と、念のためにとコップで発根させてさせていたものを使って、育て直すことにしよう。うまくいけばいいのだけれど、ちょっと、心配。

ああ、生き物を相手にするのは、むづかしい。




これに比べると、「黄色の研究(卵1個編)」のその後は、まあ順調。

ようやくプリンターを修理に出すことができた。当分帰ってこないようだけれど。

しばらくお休みします。


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2023.08.23 夕日通信

「やぎさんゆうびん」の謎


朝のラジオで、「やぎさんゆうびん」を聞いた。

歌詞は、みなさんご存知のように、以下のよう。

 1 白やぎさんからお手紙着いた
   黒やぎさんたら読まずに食べた
   仕方がないのでお手紙書いた
   さっきの手紙のご用事なあに


 2 黒やぎさんからお手紙着いた
   白やぎさんたら読まずに食べた
   仕方がないのでお手紙書いた
   さっきの手紙のご用事なあに


これが繰り返されるわけですが、その仕掛けがおもしろいし、愛らしくて、おかしみがあって、聞いていて楽しい。ですが、ちょっとした疑問が湧いたのです。


*   

やぎさんたちは、お返事を書く紙があったのなら、どうしてそちらの方を食べずに、お手紙の方を食べたのでしょう?

読まずに食べるくらいだから、相当にお腹が減っていたはず。それなら、まず手近にあった紙の方を先に食べそうなもですが。僕がお腹を減らしていたら、迷わず家の中にあるものから食べますね。

このやりとりをいったい何日続けたのか。たぶん、郵便屋さんが届けてくれたものを、家の中で食べたはず(郵便屋さんから受け取ってすぐに食べたのなら、郵便屋さんが注意するだろう)。もし、届いてすぐに食べた直後に手紙を書いて、待ってもらっていた郵便屋さんに渡すことを繰り返したとするなら、どうしてお腹いっぱいにならなかったのだろう(第一、ゆうびんやさんは、そんなに暇ではないような気がします)。

彼らは、節約家だったのか(はじめだけ?いや、それはなさそうだ)。それとも、紙に書かれたインク(それとも墨汁?)が調味料の役割を果たして、おいしかったりするのか。はたまた、よほど忘れっぽい粗忽者だったのか。ただ、郵便屋さんがやぎじゃないのは確実のような気がしますね。だって、もしやぎだとしたら、ハガキを食べないではいられないはずでしょう?

他にも不思議に思うことはあって、謎は深まるばかりですが、さて真相は?まあ、気掛かりで眠れなくなるほどのことはないのですが、ちょっと気になります。


* プリンターが故障中のためにスキャンすることができず、カメラで撮影したもの。
プリンターが使えないと、印刷したものを見て手直しすることができない。これも大いに困ります(それにしては……、と言う人があるかもしれませんが、あくまでもこちらの思いです)。
 ついでに下は、この機会にと思って、わからないまま初めてiPadで描いた挿し絵。背景に色がつかないのはいいけれど。なかなかむづかしそうです(練習しなければ)。

初めてiPadで


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2023.08.16 夕日通信

まいった!


 「もしも君の愛が愛として相手の愛をよびさまさなかったとすれば……君の愛は無力であり、一つの不幸であ
 る」


   

と言ったのは、かのカール・マルクスらしい(らしいというのは、「折々のことば*」で知ったから)。先日のマルクスの言葉というのは、これのことでした。曰く、「愛は愛と、信頼は信頼とのみ交換できる」。だから、もし反応を得たいのなら、それが「現実に魅力的で、彼にひしひしとせまるものをもつ」ものでなければならないというわけです。すなわち、差し出したものに対する反応がないというのは、差し出されたものに「現実に魅力的」が感じられなかったということ。なるほどね、うーむ(別に、恋愛についての話というわけじゃありませんよ、念のため)。

考えたり、試みたりした成果を伝えようという場合、それを楽しんでくれる人(それが、たまのことであったとしても)があってこそであり、続けられるというものではあるまいか。

たとえば、発表会や講評会で反響がないのは、何か返してやろういう気持ちにならないということだから、つまるところ、呈示されたものが誰かしらに訴えかけるものがなかった、ということにほかならない。何か決定的なものが欠けているということですね。それが、いったいなんに起因しているのか(僕の場合は、ほんとうは、わかっているような気がするのですが)。

マルクスと同じところで少しだけ触れたミケランジェリの言葉についても、ちょっと検索してみました。まずは、その周辺の言葉から。

マイルス・デイビスは「ビルにアルトゥーロ・ミケランジェリ(原文のまま)というイタリアのピアニストを聴くように勧められた。聴いてみて、本当に惚れ込んでしまった**」、と語っているようです(ビルというのは、もちろんビル・エヴァンスのこと)。

一方、当のミケランジェリは、「私は他人のためにではなく、ただ自分自身のために、作曲家への奉仕の為に演奏する***」と、あるインタヴューで語ったらしい。つまり、作曲家の音楽に敬意を払い、愛を持って演奏するということの表明であると言える。

これが、ラジオで聴いたことと同じかどうかはわからないけれど、たぶんこんなことだったような気がする。こうした思いで演奏したミケランジェリ、恐ろしく鋭敏な耳と技術を持っていたという彼の演奏に対して、同じく20世紀の偉大なピアニストの一人であるリヒテルはこんなふうに評している、しかも、以下のように何度も(全て、ブリューノ・モンサンジョン著『リヒテル』に依っています****。




 見事な演奏会。ただ音楽に対する愛は感じられない」
 「まさに『霊感』こそが欠けているのである」
 「何もかもが少しばかりしゃちほこばっていて表面的で、いかにも『練習曲』風だ。中略「それでももう少し
 高いところを目指したいものだ」

という具合に、容赦がない。とはいうものの、全てを否定しているわけでもないのだ。

 「このピアニスト特有の冷たい音がここでは見事に溶け合っていて、音楽と対立することが全くない」

という記述もある。しかし、いうまでもなく、リヒテルは、他者にだけでなく自身にも厳しい視線を向けることを忘れない。厳しいのは他者に対してだけで、自身には甘すぎるといった輩とは大いに違うのだ。

僕にとっては、どちらかといえば、ミケランジェリの方になじみがあるから、そこまで言うかと思う気持ちがないわけではありませんが、ともかくも2人の偉大な音楽家の間の、願いと受け取られ方の相違に驚くばかりだけれど、偉大な音楽家でさえ、自身の思いがその通りに伝わる、というのがいかに至難であるかということなのだろう。

宜なるかな。こういうことを知るなら、浅学菲才の身ならば、自身の思いを伝えるなどということは到底できないような気持ちになる。となれば、ボケ防止に徹するしかないかと思わざるを得ないのも仕方がないけれど、今やこれにもたいして役に立っていないようなところもあるのだから……、ちょっと寂しい。たぶん、その原因の一つには、これまでの暮らし方のツケが回ってきていることがあるのだろう。

ハッピーエンドが好ましいと思っていることや、教訓めいたことを言うのはおこがましいというようなことを含めて、自分の気持ちに素直に書こうと思っているのですが、このせいで、逆に凡庸でぬるい勧善懲悪の話になっている気もします。さらに、これに加えて、時間をかけて、練り上げながらいいものにするという根気強さに欠けるのも要因かもしれない。

それでも、「踊れトスカーナ」や「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」なんかを観ていると楽しいし、なんとはなしに元気になるような気がする(ま、「ノッティングヒルの恋人」でも。「ラブ・アクチュアリー」の方が好きですけど)。

とまあ、こんなわけで、研究材料には事欠かないのですが、その意味が怪しくなるにつれて、意欲もだんだん衰えてきているのが問題。となれば、ふだんの自分ではないことを想像(妄想)して書くのがいいのだろうか(まあ、あんまり正直すぎるのも困るだろうけれど)。いずれにしても、自分の矩を超えるというのは、なかなかむづかしいでしょうけれど。


追伸:もう一つ困ったことが。プリンターが故障。ちょうどお盆休みに入るために、修理に時間がかかりそう。やれやれ、まいったな。


* 『折々のことば』、朝日新聞、2023年7月12日
** 音楽関係らしいサイト。 タイトルがわからない。
マイルスの自伝に書いてあるらしい。ビル・エヴァンスとミケランジェリの関わりについては、他のサイトでも見られました(学術論文もあった)。
***クラシック音楽の中古LPレコードの販売店『ベーレンプラッテ』のサイト

**** 『リヒテル』ブリューノ・モンサンジョン 著 2000年9月 筑摩書房


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2023.08.09 夕日通信

欲しいもの、といえば


あるゆうべのこと。さて、それが居酒屋でのことだったか、はたまた別の場所でのことだったか……。

「物欲が再燃しているんですってね?」
「ああ。うん」
「今頃になってねえ。でも、別の年配の人も、そんなことを言っていましたよ」
「そう?」
「なぜでしょう?」
「どうしてだろうね?」
「自分じゃわからない?」
「まあ、なんとなくは、わかる」
「ふーん。どうしてですか?」
「たぶん、残された時間が少ないから」
「というと?」
「いつまで生きるかわからないことに、気づくからじゃないのかね」
「ふーむ。気づいたんですね?」
「うん、まあ」
「いつ?」
「ある時に、突然に」
「へえ。徐々にじゃなくて?」
「うん、不意打ちできたね」
「そうなんだ」

「ところで、今一番欲しいものはなんですか?」
「いくつかのサイ」
「えっ。サイ?それって、高いんですか?」
「えっ?売ってりゃ、世話ないけどね」
「えっ?サイって、どんなものなんですか?」
「べつに珍しいものでもなんでもない」
「えっ、わからないなあ。なんですか?」


*   


「ある能力のこと。知っているだろ?」
「えっ。あの才能の才、ですか?」
「そう」
「ものじゃなくて?」
「ああ」
「なあんだ。でも、今更、ですか?あ、ごめんなさい」
「たしかに。今更、なんですけどね。ついこないだ、気づいた」
「たとえば、どんな才能?」

「いくつかあって、一つ目は、たとえば、伊丹十三、加藤和彦、高橋幸宏、とか」
「ふーん」
「二つ目は、渡辺武信、中村……。あれ、名前が出てこない……。そう、好文、中村好文のような人たち」
「うん。それで、三つ目は?」
「加藤周一、吉田秀和、丸谷才一」
「ふーむ」
「あ、開高健も。全くバラバラだけど」
「へえ。なるほどね。もう少し詳しく言うと?」




「一つ目は、洒落た感覚と感性」
「ふーん。洒落てなくちゃいけないですか?」
「そうね。まあ、洒落っ気という方がいいかもしれない」
「はあ」
「まあ、人それぞれ、好き好きだろうね」
「で、二つ目は?」



「これは、日常性に根ざした感覚と感性」
「今度は、日常性?非日常じゃなくて?」
「ああ。そう思うけどね」
「そうなんだ。それで、三つ目は?」




「博学と知性」
「ふーむ。それは、なんとなくわかる」
「あ、そう?」

「最後のは、開高健?」




「博識。そして、なんと言ってもそれ以上の行動力」
「なるほど。フットワークは、軽くなくちゃいけませんものね」
「そうね」

「あ、皆共通していますね」
「あ。うん」
「ひとつだけじゃなく、いろいろなことができる人たちですよね?」
「どうやらそうらしい。」
「しかも、ほとんどの人たちが文章を書いているようですが」
「そう。いずれも、明快で、わかりやすい」

「それではいったい、どうして?」
「君が何かに憧れるのは、なぜ?」
「自分にないからですかね。あるいは、もっと近づきたいということもあるかも」
「そういうことだよね」
「でも、それは、むづかしいですよ。皆、一流の人たちですもんね。あ、これまた失礼」
「ああ。でも、別に同じにならなくてもいいんだ。のようなもの」
「えっ?」
「そんなに立派じゃなくてもいい。それに、四つが完全に揃わなくたってかまわない」
「そうなんですね?」
「そう。まあ、残念な気がしないわけじゃないけれど、そのくらいはわきまえている」

「だったら、ホームページで公開したりしているし、いいじゃないですか?」
「まあね。でも……」
「でも?」
「独りよがりの自己満足、のような気がする」
「どうして?」
「誰も読まない」
「そんなことはないですよ。まあ、数は少ないでしょうけど。物欲のことだって、ブログで知ったんですから」
「ありがとう。でも、誰も楽しまないようだし」
「そうですか?」
「反応はない」
「まあ、みんな忙しいですからねえ」
「そうね」
「それじゃ不満ってことですか?」
「不満というより、不足と言うべきかも」
「どういうことですか?」
「こないだ、マルクスの言葉というのを読んで思った」
「へえ。どんなこと?」
「ちょっと、一口じゃ言いにくい」
「そう」

「でも、あえて言うなら、人は差し出されたものに対して、その価値に見合う反応しか示さない、ということのようだけどね」
「ふーん。なるほど、きびしいですね」
「それに、ミケランジェリが音楽について語った言葉と、彼の演奏に対するリヒテルの評も気になる」
「へえ。どんな?」
「……」
「あ、もしかして、こちらも一口じゃ言えない?」
「まあね。ラジオで聞いたので、ちょっと正確なところが確認できない」
「それじゃ、また別の時に」

「ところで、他にはもうないんですか?」
「何が?」
「欲しいもの」
「あるよ」
「何ですか?」
「努力する力。徹底する力、まだまだあるな。穏やかになる力、というのも入れてもいい」
「やっぱりね。うん」
「えっ?」
「いやいや。よくわかりました」
「ん?」
「なんでもありませんよ」
「?」
「なんでもありませんってば」
「⁇。あっ。コノサイ、イチバンハ、ステルサイ、コワスユウキカモ……」
「はあ⁉︎」

あ、また無駄に、長くなってしまった(うーむ)。


*あるはずと思っていた本が、見当たりません(やれやれ)。


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2023.08.02 夕日通信

プロじゃないので、やっぱり


コーヒーは、「特別なカフェイン飲料」っぽい*、というのですが。

たまに覗くギズモードのサイトに、以下のような記事が載っていました。


*   

 コーヒーを飲んだ被験者は、ワーキングメモリ(作業記憶)ならびにプランニング(計画)などを担う脳部位
 の活性化が観察できたとのこと。さらに、考えたり記憶したりする働きを担う前頭前野が、ただカフェインを
 摂取したグループより、一段と働いていることが確認されたそうです。

これは、いいかも。大いなる助けになるかも。

で、久しぶりにコーヒーを淹れることにした。ま、少しばかり豆が古くなっていたけれど。でも、結論を先に言うなら、なんの変化もありませんでした。効果がなかったばかりか、ミルを掃除して使おうとしたら、挽いたあとの粉を受けるカップがきちんと嵌っていなかったようで、コーヒーの粉が飛び散って散々な目にあった。

ま、記事には、「一段と……」とあるから、もともと活性化してないものには効かないってことなのかも?読みが甘かった⁉︎藁にもすがる思いだったのだけれどね(やれやれ)。

ところで、かねてからの懸案の「iPadをパソコン化」。こちらも、今のところは残念ながら、相当にむづかしそうな予感(うーむ)。




カーソル移動やら画面のスクロールやら、iPadの方が手間がかかるような気がする(Mac OSとiOSの違いということなのか?)。

入力しやすいようにと繋いだBluetoothのマジックキーボードやトラックパッドも、なんだか使いにくい。スクロールバーもトラックパッドで操作することはできないようなので、画面にタッチしてやらなければならない(カーソルキーは使えた。よく知らないだけかもしれないけれど、よくわからない)。ともかくも、いちいち一手間余計にかかるような気がするのです。ちょうど、Macに慣れた身にとってのWindows機のようなのでした。今は、どうなっているのかは、知りませんが。

さらに、慣れているはずの純正Bluetoothキーボードに入力する時の感触は、唖然とするほど、違和感があった(まあ、いずれも、慣れが必要なのかもしれませんが、相性ということも少なからずありそうです)。これが、iPad専用のMagic Keyboardの場合はどうなんだろう。

いずれにしても、このところの苦戦を思えば、少なくとも今しばらくは、スケッチのためと(まだ試していないですけど)、iPhoneの代わりとすることの2つにとどめておく方ががよさそうだという気がする(もちろん、けっこうな値段のiPad専用のMagic Keyboardもなしで)。そして、なんとか使いこなせるようにしなければ。

となると、MacBook(今度は、Air。でも、ちょっと大画面にも惹かれる)の購入を検討しなければならなくなりそうですが、そうなると、いつまでもぐずぐずと迷ったりせずに、さっさと買ってしまう方がいいかも(昔から、Macは欲しいと思った時が買い時、と言われていたのではあるまいか)。

なんと言っても、あとどのくらいの間使えるのかわからないのだし、少なくとも、そう長くもないのはたしかでしょうから。購入するとしたら、たぶん最後の、あるいはせいぜいその一つ手前の機種になる可能性が大。となると、十分に検討しなければいけませんが、ただしスピーディに(といっても、政治家をはじめとする人たちの口癖である「スピード感を持って、……」とは違うことが求められます)。さて、うまくこなせるだろうか。


* 写真は、ギズモード・ジャパンのサイトから借りました。


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2023.07.26 夕日通信

エコの時代なのに、使い捨て⁉︎


   

朝起きて、テーブルの上を整えようとしたら、卓上スタンドの足元に置いた水盤が目に入った。なんだか変な気がした。ランタナの花びらの色が薄くなった?(普通は、濃くなるようなのに?)。確かに色味が変わったように見えた。よく見たら、2つだった花が4つに増えていたのだった。なんだか嬉しくなった。このところ水の減り方が激しいなと思っていたのは、そのせいだったのだ。ちょっと楽しい。

ところで、先日、満を持して近所の金物屋に行ってきた。インターネットで調べて、すぐ近所にまだ存在していたのか!と喜んだのだった。しかし、1度目は臨時休業。

2度目は、ちゃんと開いていた。高まる期待を胸に、店に入ったのですが、金物屋というより、雑貨屋さんの風情。ちょっと気勢を削がれたけれど、気を取り直す。そして、店に座っていた主人らしき人(僕より2回りほども若い)に声をかけた。

「こんにちは」
「こんにちは」
「ちょっとお尋ねしたいんですが」
「はい、なんでしょう」
「雪平鍋の修理はやっていますか」
「修理はねえ。やってませんねえ」
「そうですか」
 ちょっと、がっかり。もう一度気を取り直して、訊く。
「そうですか。じゃあ、雪平鍋の柄は売っていますか」
「雪平鍋はありますがね」
「柄が欲しんですけど」
「え、柄だけというのはねえ。ありませんねえ」

柄を取り替えるくらいなら、誰でもできる。キリとドライバーさえ使えれば、ごく簡単。当然、僕でもできる。それなのに、金物店を頼ろうとしたのには、当然訳があるのです。




柄が焦げたり、古くなったりして、緩んできたのを、穴の位置を変えたり、アルミテープを巻きつけたりして、もう何回か凌いできたけれど、うまくいかなくなった。それで、柄を交換しようと試みるのですが、鍋に合う柄が簡単に手に入らない。確かに、通販では様々な柄が売られているけれど、どれがピッタリ合うかは判別しにくい。 20cm用とあっても、柄の直径も形も穴の数も異なっていて(規格の統一化がなされていない)、ウェブサイト上では詳細がわからないことが多いから、それが実際に届くまで手持ちの鍋に合うかはわからないのだ。




鍋の大きさは標準の規格があるけれど、柄の取り付け方は様々。別の言葉で言うなら、オープンシステムではなく、クローズドシステムで作られていることが多いのだ(肝心なところで、変わらない日本を象徴しているような気がする)。僕はこれで何回か失敗したのでした(威張れませんけど)。少し離れたところにある、ホームセンターにもなかった。困るなあ。また、試しに取り寄せてみるしかないのか。

あ、念のためにいうと、別に名品でもなんでもない、無名の鍋です(でも、適度に薄手で深さがあったり、さらに薄手のものなどは早く火を入れたいときなど、なかなか使いやすいのです。わが家には縁あって、名人の手になる厚手で槌目もはっきりとして美しい雪平鍋もやってきているのですが)。白状すると、けっこう飽きっぽいのですが、それでも、こういうことが少なからずあるのです。

「通販で買うと、なかなかサイズが合わなくて」
 なんとか、いい情報が得られないかと、続ける。
「はあ」
「どこか今でもやっている店はありませんか」
 なおも、食い下がる。しかし、返ってきたのは、
「さあねえ、今は、みんな買い換えるからねえ」
 という返事。特に残念がるふうでもない。当たり前でしょ、という感じ(まあ、通販に押されている風潮というのも、さもありなん)。
 
相変わらずの、使い捨ての時代のようです。

それが、専門店でも、変わらない。それを当たり前のように受け入れているようなのだ。がっかりして、店を出たのでありました。

金物店の看板を掲げている店でも、こんな按配なのだ。まあ、これだけではやっていくのは、なかなかむづかしいのでしょうね。店先に置いてあったアイスクリームの入った冷蔵庫が、夏の日差しを浴びて、やけに白く光っておりました。

一方で、若い人たちの間では、環境問題に悩み、気持ちが沈む「エコ不安」が広がっている*という(ちょっと、驚きですが)。

日本は、(今更のような気もしますが)相当に変な国になっているのではあるまいか。

そういえば、戦争放棄を言い、平和主義と人道主義を掲げて、ウクライナ支援に関しては武器は供与しないとしながら、その一方で殺傷能力のある武器を輸出できるようにしようという議論も、相当に変、というか「やばい!」のではあるまいか。


* 朝日新聞 DDIGITAL 2023年7月4日16:30分 エコ不安 若者らに広がる 環境問題に悩み気持ちが沈む
新聞は、写真を撮る前に古紙回収に出してしまっていました。


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2023.07.19 夕日通信

黄色の研究・2 経過報告編


黄色の研究の第2報、経過報告です。果たして、研究は進んだのか⁉︎

まずは、文献研究から。最初に目に留まったのが、「【プロ直伝】オムライスの作り方!美しい包み方のコツとレシピ*」。


*   

これによると、卵はスクランブルエッグのイメージでとか、チキンライスは形を整えてからフライパンへとか、包むときはゴムベラを使い、フライパンを火から外すか弱火にするとか、さらには温度調整のために濡れ布巾を用意しておくといったことが書いてあってびっくり。なるほどそうだったのか、失敗の原因はこれだったかと思うのでありました。

また、使う卵は3個で、溶いたら漉してから使うとか、チキンライスを包む卵は焦げてはダメということもあったけれど、こちらはほぼ無視しようと思う。少しくらいムラがあっていいし、何も茶巾寿司みたいな薄焼きである必要はないと思うのだよ。第一、オムライスの時の卵は昔風の薄い方が好きなのだ。

だいたいの基本がわかったところで、次に、実践的な動画の研究。これは、それぞれに料理人の個性と工夫があって、どれを採用すべきか迷います。

まずは東西の老舗洋食店の2つの動画**から。オムライスの元祖とも言われる大阪「北極星」のベテラン職人は、とにかく早い。テフロン(フッ素樹脂)加工のフライパンに油もひかずに、おたまですくった卵液を入れて太い菜箸で素早くかき混ぜたら、火にかけたままのフライパンの上にチキンライスをほぼ全体にのせたら、箸で卵を奥に押しやることもせずにクイックイッと、数回先端をあおると出来上がり。特にチキンライスを乗せる場所や形を整えようともしないのだけれど、ほぼ綺麗な形になっている。これにかけるソースは、いろいろ。

一方の東京の有名店「たいめいけん」のシェフは、同じく強火にかけた鉄のフライパンにバターをたっぷり溶かして(この時は火を消すのではなく、バターが焦げないようにフライパンの方を火から遠ざけます。たしかに、手数が減ります)、おたま1杯分の卵液(卵3個分)を投入すると、箸で端の方から中央に向かって勢いよくぐるぐるかき回し(この辺りは、北極星と同じ)、中央部分あたりにチキンライスを乗せたら、火から外して、手前の卵を少し奥にやり、さらに柄の方をトントンと叩いて巻いていく(この時は、火にかけないとうまく巻けないのだという)。皿に乗せ、ケチャップをかけて完成(別の時は、お玉ですくってかけていた。とくにソースをフライパンで作る場合には、これが肝要。美しくかけることができるのだ)。技があるし、もっとも正統的で、美しいように思う。最終的には、これを目指したいね。

あとは、煽ったり、トントン叩いて巻く方法はとらず、チキンライスを乗せた卵の全体をヘラで奥の方に押しやり、皿を持ってきてフライパンをV字型に当てて移せば良いとするもの(下手をすれば、薄焼き卵乗せチキンライスにもなりかねないようだけれど。まあだいたいうまくいく、はず)。中には、薄く焼いた卵をラップの上に乗せてから巻く、という大胆不敵なものまであった。

伊丹十三の『たんぽぽ』以来、チキンライスの上にオムレツを乗せたものを供し、これを崩して食べるやり方が好まれているようですが、僕は昔ながらのオムライスの方が断然好きだし、ふわふわよりも少し焦げのついたくらいの薄い衣で包まれたものがいいので、今日もこれに挑戦します。

フライパンは、鉄製ではなく、テフロン加工のものに頼ります(残念ながら、使い込んだオムレツ専用の鉄製フライパンがありません)。いまや、プロの料理人もテフロン加工のものを使うことが多いようです。

卵を1個、韓国のマッコリコップの中で溶いて、牛乳を少々(これは卵をしっとりさせるのとかさましのため。卵2〜3個分を1個で済ませようというのだ)。オムレツではないので、塩と胡椒は入れないし、かき混ぜることもしない。その代わりに、フライパンの方を回して卵の皮の厚さを慣らす(これは、シェ松尾の元シェフ松尾幸造の動画に教わった)。僕の場合、卵1個で作るので、今のところはこちらの方がうまくいくようです。マッコリコップは少し前に買ったのだけれど、今はまた、こうしたことを普通の食器でやる方がいいのではないかという気がしています(手元の器の使い道ができて、死蔵したままになることが減るはず)。今度は、お皿も変えることにしてみようかな。

フライパンを温め、バターを溶かして、卵を投入して、フライパンを回しながら素早く混ぜ合わせ、固まり始めてきたら、用意していたチキンライスを載せる。それから火からおろして、手前から包み、ついで奥の方も包む。トントンすることも、きれいに巻く必要もない、まあ綺麗に見える。下になる方は、完全に閉じている必要はないし、しかも皿の上でキッチンペーパーで形を整えても良い。ということなのですが、ま、できることなら見えない部分も綺麗であって欲しいのです(かのスティーブ・ジョブスがたたえた、日本の職人の仕事ぶり)。もう少し習熟した暁には、これを目指したい。なお、ソースは、ケチャップに水と少々の醤油とウスターソースを混ぜ合わせて、煮溶かしたものにします。

ところで、今回の出来栄えはどうだったか。




だいぶ安定してきたものの、やっぱり端の方がうまく閉じないのは、ご飯の量が多すぎたことと、18cmのフライパンが小さい***ためではあるまいか。しかも、皿に移す時にちょっと端に寄りすぎましたね(今回は、端が問題)。




ということで、もう少し練習を重ねようと思う(その後も、やっぱり端の収まりが悪い)。鋭意、励んでいるところです(このくらい単純なことなら、なんとか独習できるのです。まあ、動画もあることだし……)。でも、こうなると、21cmのものを試したくなる。こちらのメーカーのものは他社製に比べると底の径が絞ってあるので、もしかしたらちょうどいいかもしれない(おっと、いけない。用心、用心!)。


* 「【プロ直伝】オムライスの作り方!美しい包み方のコツとレシピ」。卵3個分の厚みを感じさせるきれいな仕上がりですが、……。
** 両店ともに、いくつかの異なる版があるようです(たいめいけんのものはフライパンも違う)。
*** 一般的に目にする他のメーカーのものに比べると、同じ大きさの表示でも底径が小さいことに気づいた(やれやれ)。むづかしいねえ。で、手持ちの20cmの鉄製フライパン(こちらも絞り気味)をオムライス用に育てるべく奮闘中(何と言っても、手入れが楽なのです)。片付けは苦手でも、こういうことは苦になりません(どうしたことだろう?)。


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2023.07.12 夕日通信

また、久しぶりに銀座



   

本日の花は、うちのすぐ前の道端から摘んできたランタナ。黄色とピンクのランタナはあんまり好みませんが、これはまだ、ピンクは目立たず、黄色も薄くていい気がしたので。

つい先日、雨が続くようになる前にと思い立って(髭もちゃんと剃って)、銀座まで出かけることにした。

平日にも関わらず、電車は混んでいた。今はもう、マスクをしていない若者も少なからずいるようだった(優先席に何食わぬ顔で座って、周りを気にしないものも相変わらず)。品川駅付近にはタワークレーンが林立していて、不景気と言われる中でも、建設業界は活況だったのか……。




銀座に着くと、地下道から三越に上がったのだけれど、化粧品売り場に出て、これが1階ではなくB1Fとあったのには、驚いた。地上から入る時には、よさそうですね(あそこを通るときはどうしてだか、少々度胸がいるし、それにあの強烈な匂いも気になるのです)。

ともかくも、地上階に上り、中央通りに出てみたら、ここでもなんだか様子が違った。見慣れたものがない。あるはずのものが見当たらないのです。そこは更地になって、新しく建て直されるようだった(そういえば、前回銀座に来た時には、黒い養生シートが被せられていたことを思い出し、もう解体されたのかとちょっとびっくり)。

実は、アップルストアに用があって、11時15分に予約をしていたのですが、その時は11時ちょうどあたり。ああどうしようと思って、やむなくガラス越しに、入り口付近に女の人がいるのが見えた、近くのお店に飛び込んで尋ねてみたら、7丁目か8丁目あたりに移ったと、ちょっとばかり愛想のない口調で教えてくれた。

で、急いで探してみたけれど、見当たらない。約束の時刻も迫ってきて、通りに面していないと厄介だなと思いながらさらに焦って、オメガだったかの店(ちょっと失念)の前にお店の人らしい人が2人立っていたので、訊くと、こちらは愛想よく、信号のすぐ先ですよと教えてくれた。で、急いで歩いたのですが、やっぱり見つからない。えーっと思って、もう一度とあたりをよく見ながら、引き返すとありました。なんとか間に合った(ふーっ)。




まずはほっとして、中に入ると、ここもやっぱり賑わっていた。iPhoneを手に近づいてきた受付担当だという人によると、ここは新しいビルができるまでの仮店舗で、24(?)年の何月だかに(正確な数字は、こちらも忘れてしまった)、また元の場所に戻るということだった。

で、用件はなんだったのか。それはなんと、iPadについての相談。思うところがあって、iPadの購入を検討していたのでした。

しばらく待たされたけれど、やってきたのは聡明そうな若者。初心者に対して、親切、かつていねいに、教えてくれた。望む使い方や一度ならずiPadをうまく使いこなせず失敗していること(このため、断念していた)等、こちらの状況を伝えながら相談を進めていくと、iPad Airに落ち着きそうになった。なんとなくあらかじめ考えていたこととも一致していたので、それではAirの256GB、スペースグレイを注文しますというと、ちょっと待ってくださいと言いながら、Proとの比較を出して見せてくれたのでした。iPad Air 256GBとiPad Pro 128GBの価格差は1万弱しかないのでどちらを選ぶ方がいいか、ということだった。(えっ。思わぬ展開!)。

「あるもので満足する」ということに改めて賛同し、一度失敗しているにも関わらずまた、iPadを手に入れようとしたのはなぜか。関心のある人は、まあいないでしょうけど、次回以降に触れることにしようと思います。それにしてもこのところ、物欲が高まっていてうまくない気もするけれど……。まあ「先も長くないのだから、いいんじゃない」という言葉に励まされたので(喜んでいいのか?)、分不相応にならないよう気をつけながら、これに従うことにするのも悪くないかもと思っているところ。

そのあとは、このところ銀座に出た時の恒例のランチへ(滅多にないですけど)。アップルストアを出た時には、このまま帰ろうかとも思ったのだけれど、せっかくだからと思い直して、三越の新館12階のお店へ。休館の方からエスカレーターで上がっていったのだが、平日にもかかわらず結構どの階も人がいるようだった(やっぱり、第2類から第5類への移行が大きいのだろう。新聞に小さく載っていたけれど、第9波の恐れありという、首相と面会した政府の新型コロナウイルス対策分科会の元会長の発言もあるようなのですが*)。

ちょうどお昼時に入ったばかりで、30分弱も待っただろうか。案内されたところは、今度もまた、縦格子の引き戸のついたほぼ個室。シェードを少しあげて、ゆっくり写真を撮ることができる。ただ、銀座の街を上から見ると(つい見たくなるのですが)、あんまり美しくありません。

次回は、天ぷら膳にしてみよう。天丼はごくたまにしか食べないから、美味しいことは美味しいのだけれど、すでにつゆがしみ込んでカリッとした感じがなく、見た目が、つゆがかかかっていない場合と比べるとイマイチのような気がする(カウンター席で食べる贅沢が許されるなら、また違うのでしょうけれど)。それでも、百貨店に入っているような多店舗展開している店の中では、ここが一番口に合うようだ。店内もすっきりしているし、眺めも開放的なのが良い。さらに、接客もソツがないのだ。

でも、ビールと天丼を食べ終わると、そのあとで行ってみようかと思っていたマチス展はおろか、すぐ近くの松屋にも、トラヤにも、伊東屋にも寄る気分にならなかった。なんだか急に、つまらないような気分になったのはどうしたことだろう。


* 全国的に微増中で、致死率も急激に落ちているわけではないと言うのですが、今頃になって言うかという気がしますね。なんだか、この頃は何もかもが見切り発車、具体的な方策は後から考えればいいというような態度のようで、腹が立ちますけど(だいたい、腹を立ててばかりのようなので、気にしないでください)。


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2023.07.05 夕日通信

黄色の研究・序章


  1 文芸の知識――ゼロ / 希薄
  2 哲学の知識――ゼロ / 希薄
  3 天文の知識――ゼロ / ゼロ。星の名前を覚えられなかったことが残念
  4 政治の知識――不十分 / 希薄
  5 植物の知識――物による。ベラドンナ、阿片、毒物一般に詳しい。実用園芸には無知 / 希薄。花の
    名前を覚えてこなかったことを悔んでいる
  6 地学の知識――実用的だが、限られている。様々な場所の土を一目で見分けられる / ゼロ
  7 化学の知識――該博 / ゼロ 
  8 解剖の知識――正確だが、体系的ではない / ゼロ。血を見たら貧血を起こしそうなほど
  9 怪奇事件の知識――計り知れない / ゼロ
  10 ヴァイオリンの名手 / 憧れるも疎遠
  11 シングル・スティック、ボクシング、フェンシングの達人 / 無縁
  12 英国法の極めて実用的な知識あり / 無縁。日本国憲法も第9条の他にはごくわずか

好きな人にはもうおわかりだと思いますが、左はあの高名な2人組の片方、ワトソン博士による相棒シャーロック・ホームズの能力についてのリスト*、右は別の誰かの自己分析であります(余計な気もするけど、ホームズのちょっとばかり偏った博識、多才ぶりがいっそうよくわかるかも)。

この稀代の名探偵は、新聞に、

  注意深い者なら、綿密で体系的な調査をもってすれば、出くわすあらゆるものからおびただしいことが知り
 うるという。〈中略〉他の技芸と同様に、分析と演繹の学問も不断の努力修練の末、得られるものだ。名人の
 域に達するまでには、人生はあまりにも短い。この道を求める者は、最も難解な精神面の推理を始めるより先
 に、初歩的な問題をこなすことから始めるといい。

と書いた。

一方、相棒となるワトソンは、筆者が誰かを知らないままこれを読んで、

 「どうせ書斎に引きこもって、肘掛椅子にもたれかかりでもして、筋が通るようこんなちんけな逆説をこし
 えたんだろう。実用には向かんよ。」

と揶揄するが、ホームズは、臆することなく以下のように言い放つ。

 「そう、僕は観察と演繹の才を兼ね備えている。僕がそこに書いた理論は、君には鵺みたいな話に思える
 もしれないが、実用も実用――実用的すぎて僕はこれでパンとチーズを得ているくらいだ。」


何とまあ、自信満々ですねえ。なかなかうまくできないことばかりの、僕などにとっては、羨ましい限りです。たとえば、黄色の実験もその一つ。黄色のつもりが茶色の斑になってしまったり、実験中に破裂したりと、これに関するだけでいくつも挙げることができる。

ということで、唐突ですがしばらく黄色の研究をしようと思った。ただ、よく考えてみたら、別の黄色の研究もあって、その2とすべきかも、ということに気づいたのだけれど、ま、どうでもいいですね。ところで、黄色は「罪」の色ではありませんよ*。

さて、その2(?ややこしいね)の序章。手始めに、ホームズのいう「不断の努力修練」と「初歩的な問題をこなすことから始める」という言葉に従うことにした。すなわち、黄色の研究をうまくやり遂げるために、復習を兼ねて勉強しようと思ってパソコンの前に座ったら、目から鱗。やっぱり、ものには理ということがあるのだねえ。


   

ただ、頭ではいちおうわかったつもりでも、実際にやってみるとうまくいかない(ある時までは、うまくいっていたのに⁉︎)。あ、黄色の研究対象はなにかといえば、「オムライス」であります。




で、フライパンを新しく購入することにした(素人は、道具に助けてもらうのが一番の策)。いろいろと参考にしながら選んだのはアルミのフッ素樹脂加工をした業務用の18cm のもの(いざ届いたら、ちょっと小さいような気がしたけれど、手持ちの22cm のものは大きすぎるようだったので、選択肢はこれしかない。でも、なかなかかっこいい)。というのも、卵は1個で作りたいし、昔ながらの薄い卵焼きで包まれたものの方が断然好きなのだ。

で、さっそく作ってみた。出来栄えはどうだったのか。




見ての通りですが、久しぶりにまあまあの出来ではあるまいか。ただ両端がきちんと閉じていないところ(これはフライパンの大きさ、ちょっと小さいことが原因かも。ま、ご飯の量を減らせば解決するかも。と言っても、限度があります)など、いくつか気に入らないことがある。

ということで、今しばらくの間は、黄色の研究を続けなければいけない。ま、結果はささやかなものであるに決まってますけど。研究の成果の詳細は、次号以降を待たれよ(と書いたものの、さて誰かいるのか?)。


* 「緋色の研究」(コナン・ドイル)の引用は、青空文庫版「緋のエチュード」(大久保ゆう訳)を参照しました。
** 色言葉というものがあるようで、緋色が「熱い想い」や「罪」。これに対し、黄色は「希望」や「光」を表すとのこと(うーむ)。


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2023.06.28 夕日通信

皿の中にもイタリア?


先日、短い間だったけれど、また帰省してきた。




バルコニーからぼんやりと街を眺めていたら、もしかしてこれはイタリア?と、思うようなものが目に入ったのでした。白い壁に、赤い屋根。九州の小さな田舎町の中の小さなイタリア。ま、当然のことながら、下へ降りてそばで見たなら、まったくイタリアは感じられないのですが(それでも、あんがい楽しい。でも、屋根はもっと赤かったような気がするのだけれど……)。

当初の予定では、このところようやく再開した研究のうちのどれかの中間報告を、と思っていたのですが、その成果の写真を撮っていなかったことに気づいて(やれやれ)、断念。で、今回は、イタリアついでで思い出したことを。

紀行番組を見ていると(このところは、英国からイタリアへ)、そこに出てきた料理がみな、とても美味しそうで、食べてみたくなる。先日、見たのはシチリア特集。シチリアは、地理的にアフリカに近いこともあって、北アフリカやアラブのほか、ノルマン等々、様々な地域の文化が入り混じるようです。

そして、シチリアといえば、何と言ってもマフィア、ゴッドファーザーの地だから、まずはゴッドファーザー3部作を観直してみようかという気にもなるけれど(でも、そのためにはちょっとした気合いと体力が必要だ)。で、やっぱり食。骨付きの羊肉と野菜を煮込んだものが美味しそうだったけれど、うちあたりでは骨付きの羊肉は手に入りにくい、というか近所のスーパーで売っているものは薄くて、しかも高いのです(少し前までは、羊肉はもっと安かった)。

で、もうひとつの名物のパスタを作ろうと思った。土曜、日曜とちょっと食べ過ぎたので、軽いものにしようと思って、そのうちの『スパゲティ・アッラ・ノルマ』を(それでも、ワインはしっかりいただきましたが)。その『ノルマ』という名は、19世紀前半に活躍したイタリアの作曲家ヴィンチェンツォ・サルヴァトーレ・カルメーロ・フランチェスコ・ベッリーニの歌劇『ノルマ』に由来し、以来、傑作についてはこの名を冠するらしいのです。

『スパゲティ・アッラ・ノルマ』は、揚げるか揚げ焼きにしたナスとシチリア特産のリコッタサラータを使ったシンプルなトマトソースのパスタのこと。




リコッタチーズはないので、手元にあったパルミジャーノ・レッジャーノをすりおろすことにした(オリジナル主義は、とっくに手放しました)。オリジナルに忠実であろうとすれば、ハードルは途端に何倍にも高くなる。地産地消をよしとする当地のシェフは、別の料理でしたが、どうしてチーズじゃなくてパン粉を使うのかと訊かれて、「パルミジャーノ・レッジャーノはそもそも北部のものだろう」と言っていましたが。

味はといえば、まあ美味しかった(まあ、誰が作っても美味しい。ちょっと皿のソースの汚れがよく拭き取れていなかった!*)。

パスタを作るときは、茹で上がりの熱々を食べるというのが基本だから、パスタよりもソースが先にできていなければならない。きわめて当たり前のことですが、僕なんかは言われてはじめて、ああそうかと気づくのです。

開高健は料理学校に通うことを愚の骨頂と否定したけれど(たぶん、講釈よりも実践しろということでしょうか)。また、ある英国人シェフは、料理学校に通うよりも街のまっとうな食堂に半年ほどいるのがよほどましというようなことを言っていますが。まあ、いずれにせよ、先達に教えてもらってはじめて気づくということは大いにありそうです(少なくとも、ぼくの場合は)。

ここで、ついでに初挑戦の予告を。

先日、直接には見知らぬ人から夕日通信宛てのメールをもらって(何と言っても、初めてのことで、嬉しい。ちょっとむづかしい助言もありましたけれど)、励まされたので、ずっと書きかけのまま放置していたファンタジー(自称)に取り組むことにしました。

文章はまだしも、絵が苦手で、なかなか描けないので、これをなんとか回避できないかと、連載形式にしてみたらと思った次第。先回、書いたように、怠け者のゆえ、不言実行ができないので(ま、有言実行ができるかと言われれば、これもまた簡単ではありませんが)、実行する確率を少しでもあげようというわけです。

これがうまくいったなら、一応の連載を終えた後に、もういちど全体を見返して、加筆修正をして、再度一括掲載すればよいのではないか、という魂胆なのですが。

さて、どうなるものかどうか。

近々中に開始予定です。


* バジルの黒い穴は害虫のせい?それにしても、もう少し盛りつけ方が上手くなればいいのですが。


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2023.06.21 夕日通信

人間を描く?




今日の花は、紫陽花ですね。不覚にもこれまで花の名を覚えてこなかったけれど、このくらいは知っている。花の名前がわかると、嬉しい。今日のは、名前のとおり紫色。でも、いろいろな色や形、大きさのあじさいがあるのだね。

さて、人間を描く?と言ったからといって、むづかしい議論をしようというわけではありません(できもしませんけど)。ただの、ドラマを見た感想に過ぎませんから、心配無用です。

それにしても、どうしてこんなに暗いのか。

英国のドラマが、たいていいつも暗いのは、どうしたことだろう。などと、またまた思ってしまった。軽い(本格物ではない)ミステリードラマでさえ、事件とは無関係の人間の生活、おどろおどろしくも不幸な話までをも描こうとする(まあ、それが日常生活だと言えなくもないのかもしれないけれど)。その結果、暗くて、皮相的なものに満ちたドラマとなる。しかし、同時に、ずいぶん楽天的な見方も示されるのだ。(バランスをとりながら、「深く人間を描き出」そうというのだろうか)。他にすることもないから、ちょっと考えてみようというわけです。

彼の国といえば、言わずと知れたマナーの国、紳士の国、騎士道の国(今や死語?いや、逆に弾劾されるのかも)、または「ノブレス・オブリージュ」の国、すなわち痩せ我慢の国、階級社会にあって恵まれた階級の人がその責任を自覚した国*でもあったはずではなかったのか。

そんなふうに、筋違い(的外れ?)を承知しながらも、毒づきたくなってしまうけれど、考えてみたら、自身の欲望を満たすために国の宗教のありようさえも変えてしまうような国王がいた国なのだ。強さも弱さも、あるいは醜ささえも認めてこその人間とするのは、ごく当たり前なのかもしれない。それにしてもねえ、もう一度言うなら、軽いミステリードラマなのだよ。


**

見ていたのは、『グランチェスター 牧師探偵 シドニー・チェンバース』。少し前には、今後シリーズ物のドラマはもう見ないようにするつもりと書いたばかりなのに、送ってもらった録画DVDの中にあったので、つい見てしまったというわけでした。1950年代のイギリスはケンブリッジの近郊の小さな村グランチェスターが舞台というので、手にしたのだった。なんといっても、英国の田舎の風景や古い街並みは魅力的です。

牧師からぬ牧師、若きシドニー・チェンバースが身近に起こった事件を友人であり相棒である警部ジョーディーとともに解決しながら、その一方で、たいていは出会った女性とのことで悩む(その結果、ついには教会を去ることをも……)。

シドニーを演じるのは、ジェームズ・ノーマン、ケンブリッジで神学を学んだというから***、絵に描いたような適役(⁉︎)。次のボンド役の候補の一人とも目されているらしい。対する相棒のジョーディーは、ちょっと渋めの風貌。『冒険者たち』のアラン・ドロンに対するリノ・バンチュラというと褒めすぎか(ジョーディーの方が、断然癖がある。「人間らしい」という人があるかもしれない。彼に比べると、バンチュラはうんと「いい人間」のようで好ましい。ミースは、「面白い人間よりも、いい人間でありたい」というようなことを言っていたようですが)。

この二人の協力で事件は解決するわけですが、これとは別に、ドロドロとした人間模様が加えられる。さらに、二人の、互いへの辛辣な批評の応酬にはびっくりする(まあ、彼我の文化の違い、表現の仕方の差異に驚くわけですが、きっとその分、彼らの間には互いに対する信頼がある、ということなのでしょうね)。






それから同じ頃に、多くの人が読み、楽しんだという読み物(ファンタジー)がどういうものか知りたくて、市立図書館で借りてきたのが、少し前に評判になった『ぼく モグラ キツネ 馬』。英国人の画家が書いたものだというが、主人公のぼくとモグラ、キツネ、馬たちとの会話の中に、箴言めいた言葉があちこちに散りばめられている(『星の王子さま』と同じ趣向)。すでに聞いたことのあるような、いかにもという感じがすることを直接的な言い方で説教する。という言い方が悪いのなら、ある価値観をわかりやすく伝えようとすると言えばいいのだろうか。

世界中でベストセラーだといい、わが国でもずいぶんと人気があるらしくて、予約して手にするまで数ヶ月待った。ということは、多くの人が、こうしたものを求めているということのだろうけれど。ただ、正直に言うと、挿絵にも、日本語の文字にも馴染めませんでした(ということは……。うーむ、まいったな)。

たぶん、人それぞれに受け入れやすい言い方があるということだろう。そして、その数に差がある。直接性が好まれる傾向がある。ただ、それだけのことなのだろうと思いたいのだけれど(さて、ほんとうにそうなのか?)。


* 英国は、言わずと知れた階級社会の国(昨今の状況を見るなら、いまや日本もか⁉︎)。それでも、そうすることによって自身も喜びを得られるもので、滅私奉公というものではないのだろうと思う(そうじゃないと、続かないのではあるまいか)。このあたりは、わが国とはちょっと違うようです。
** 写真はBS11から借りたものを加工しました。
*** Wikipedia


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2023.06.14 夕日通信

朝日?それとも夕日?




この頃は時々、先日書いた水盤に見立てた皿に、道端で摘んできた野の花を飾るようにしている(と言っても、ただ投げ入れるだけですが)。名も知らないことが多いけれど、いっときの気晴らしにはなる。花が枯れても、葉を楽しむこともできる。

さて、朝日と夕日。どちらが好きかと訊かれたら、迷わず夕日と答えます。先日10何年ぶりかで会った短歌の大家は、「後ろ向きなんだよね。だいたいがブログのタイトルからして、『夕日通信』だものね」と茶化したけれど、わが国においては、まあ昔から夕日派が多いのではあるまいか。和歌でも朝日よりも夕日を歌ったものが多い気がする(よく知りませんが)。で、「日本人の遺伝子のせいだね」と返した。でも、今や事情が違っているのかもしれない(土曜の夜にはNHKが『世界サンライズツアー』というのをやっているようだった)。

いうまでもなく、朝日はこれから新しい1日が始まるという時のものだし、一方夕日は1日が終わろうかという時に目にするものだ。だから、単純に考えるならば、前者は明るい希望に結びつくし、後者はほろ苦い悔恨に繋がりやすいだろう。


*

*

その光がつくりだす景色は、大雑把に言ってしまえば、朝日は輝かしいけれどやや光の変化に乏しく、夕日は残照までの変化が早く大きく陰影に富むようだ。

したがって、ある程度歳をとると、夕日と親密にならざるを得ない気がする。他方、朝日は、やっぱり若者に似合うのでしょうね。これは、姿勢が前向き、後ろ向きということともちょっと違う気がする。肌の皺や心の襞の数によるのに違いないと思ったりするけれど、情緒的、感傷的な心情のせいかもしれない。あんまり馴染みがないけれど、「諦念」というものに近いのかも(うーむ、結局、「後ろ向き」ってことか)。

あるいは、(視点を逆にしてみると)同じ穴の空いたジーンズでも、若い人が着るとおしゃれに見えたりするけれど、歳をとった人間が着たらただみすぼらしいだけということと似ているのかもしれない。

「わからないなあ、やっぱり私は朝日の方が好き」という人は、「幸いである」、とまでは言わないけれど、安心するのがよろしい。少なくとも、あなたはまだ十分に若くて、前進力に溢れているということなのだから。

何回か書いたように、僕はハッピーエンドの物語が好き。しかし、その一方で、朝日よりも夕日を好ましいと思うのは、ちょっとした矛盾のような気もしなくもない。バランスをとっている……、のか?

こないだの朝、早くに目が覚めて、枕元のラジオをつけたときに、某通販会社の創業者へのインタビューが流れていた。彼は、「自分は失敗したことがない」と言うのだ。成功したからそう言えるのではとつい思ったりもするけれど、そうではない。それはうまくいかなかったことがないというわけじゃなくて、そこで学ぶことがあるから前に進むことができるので、失敗じゃないと言うのだ(彼は年を取っていても、朝日の方を好んでいそうです)。なるほどと感心はするものの、なかなかむづかしい。そうはいかないのだ(前向きになれない性分ってこと?うーむ)。

最近は、夜寝る前に聴く音楽は宗教曲が多くなった(別に、急に信仰に目覚めたというわけではありません)。それまでは、たいていクラシックやジャズのピアノ曲を聴いていたけれど、こちらはややもすると次第に沈潜していき、時に逆効果に陥りやすいのだ。

人は、たぶん、1日の生活を満ち足りた気分で過ごしたのなら、心穏やかに1日を閉じることができるのに違いない。一方、それがなければ、心はざわつくばかりで落ち着かない。しかも、その自覚があっても、ていねいに暮らすというささやかな願いさえかなえられず(なんと困難なことか)、それを克服する努力が苦手なことも思い出して、さらに落ち着かなくなる。それで、これを宥めるために、今晩もミサ曲をトレイに載せるのであります。


*写真は雨が上がった日の夕方に、何分かおきに撮ったもののうちの2枚(なかなか、それにふさわしい瞬間を見逃さないで撮る、というわけにはいきません)。


追記:次回はお休みします。


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2023.06.07 夕日通信

驚いた。見た。飲んだ。


今朝早くに目が覚めた時は、音が聞こえるくらいの雨が降っていた。次に起きた時は、もう止んでいた。このところは雨模様の天気が続いて、5月にしてもう梅雨入りかと思わされるようだ。

この歳になっても、驚くようなことがあるものです(ま、以前にも書いたことで、日々その連続といえば、そうには違いないのだけれど)。ただ、残念なことに、嬉しい驚きというのは滅多に出会えることではありません。

先日、メールが届いた。もちろんアマゾンからのものではない。身近な人からのものでもなかった。何しろその人からメールをもらうのは少なくもこの10年ほどの間では初めてだったし、はじめは差出人もわからなかった。しかも、夕日通信経由で届いたのものだった。そして、(付け加えるならば)女性からのものでした。

で、3人で会うことになった。そのいずれも、かつての同僚。一人はもちろんメールをくれたご本人だし、もうひとりは同期。所属した科は違っていたけれど、よく一緒に食べたり飲んだりしていた(その間というのは、せいぜい5年か6年くらいだろうか)。それが、やがて互いに職場が変わり、物理的な距離が遠ざかると、次第に会うことも少なくなった。その結果、一人は10数年ぶり、もう一人も10年くらいはたっているのかもしれない(去る者は日日に疎し。これは正しい使い方か)。だから、待ち合わせの場所でちゃんと見つけられるだろうかと心配したけれど、すぐにわかった。

それから、近代文学館で開催中の『小津安二郎展』へ(彼は、そのために、遠くから、久しぶりに横浜にやってくることになったというわけだった)。




ちょっと小津安二郎の展覧会のことについて触れるなら、まず、彼の絵コンテの綺麗な線に驚いた。たぶん鉛筆で描かれた絵そのものは簡素なものだけれど、迷いがなく、揺れも歪みもない滑らかな線で描かれているようだった(晩年のものは、ちょっとラフ)。日記も、何が書かれているのかは分かりづらかったけれど、やっぱり小ぶりの手帳に小さな文字の楷書でびっしりと書きつけられていた(書きたいことがあふれていたのだろうか)。ただ照明が暗すぎて、中身は読めなかった(なんといっても、書かれている文が主役のはずだろうに)。それでも、何事もないがしろにしないという意志の表れのような気がして、感心したのでした。

そうして、もう一つ。

 「僕の生活信条として、どうでもいいことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う
 から、どうにも嫌いなものはどうにもならない」

というのが印象的だった。どこかで読んだことがあったけれど(たぶん、伊丹か開高あたりだろうか。ひょっとして丸谷?)、小津の言だということはすっかり忘れていた。

オノトの万年筆、ファーバー・カステルの色鉛筆、カランダッシュの鉛筆といった筆記具へのこだわりをはじめとする多彩な趣味のことにも、なるほどなあと、感心したのでした(もっと直接的に言うなら、その佇まいには遠い憧れを抱いていた)。

ただ、映画のことについては、ちょっと褒められすぎじゃないかという気もする(と言うと、反対する人もいるでしょうけれど)。こないだからいくつか見返したけれど、ぼんやり観ていると、よく似ているところも多い。美の神は細部に宿る、ということかもしれないけれど。彼自身が、「自らトウフ屋の看板を掲げているんですよ。人間の資質、個性は急に変わるものじゃない」と言っている。まあ、シリーズものと考えればいいのかもしれない(映画で言えば、『男はつらいよ』、絵画ならセザンヌやモランディの『静物』シリーズなどのような)。

画面には映らない小道具の一つまでこだわったというインテリアについても、あれっと思うような場面も少なからずあった(たとえば、電灯の高さ、あるいは建具の見付の太さ。まあ、本人の好みではなくて、それが当時の主流ということなのかもしれないけれど)。台詞も、繰り返しが多いようだった。たとえば、原節子の「……なの」、「だから……していたいの」という具合に、ずっと「の」が繰り返される。畳み掛ける効果があるのかもしれないけれど、ちょっと単調なようで気になったのです。また、描かれる世界については、もしかしたら、一方には古き佳き時代への憧憬があったのか、とつい思ったりもした。

寄り道はこのくらいにして元に戻ると、久しぶりの再会は、ほんとうに楽しかった。社会的立場の違いを感じさせられることは全くなかった。ほとんどはなんということもない馬鹿話で、これが愉快なのはもちろんだけれど、生活者、あるいは創作者としての取り組み方を聞くのも大いに興味をそそられたのでした(さらにいうなら、いずれにも、ちょっと羨ましい気持ちを抱いた)。

ところで、その後で、ケイト・ブッシュをこれまた久しぶりに聴いたのですが、矢野顕子とずいぶん似ている気がしたのだけれど、どちらかが憧れたのだろうか。調べてみたら、ケイト・ブッシュは1958年生まれで1977年デビュー、対する矢野顕子が1955年生まれの1976年デビューということだから、あんまり変わりません。生物学なんかでいうところの、あの不思議な「同時発生」ということなのか。


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2023.05.31 夕日通信

何がしたいのだろう


何か思いついて、パソコンを開く。よくあることです。

と、……。あれ、何をしようとしたのだったか?これも、しばしばあるのです。

ほんとうに、まいります。

暑くなりましたね(と言って、上に書いたことを暑さのせいにするつもりはありませんよ)。ついこないだまで寒いと言って着込んでいたのに、それが今では薄着じゃないと済まないようになっている。そして、数ヶ月前のことはすっかり忘れて、暑くなったことに悪態をつく(やれやれ)。

ところが、昨日は一転。朝から雨模様で、外気温は最高でも15度に届かず、前日比なんとマイナス10度以上。こういう日は散歩どころか、家から出る気がしないし、おまけに前日のワクチンのせいか体のあちこちが痛い。で、豚の角煮に挑戦してみることにした(材料は買ってあった)。じっくり時間をかけて、本格の角煮を作ろうというわけ。これは時間はかかるけれど、大部分は煮込む時間なので、調理自体はそうでもない。だから、少々背中や腰が痛くても、たいした負担ではないのだ。

今回のお手本は、前沢リカ先生(ただし、ちょっとばかり手間がかかりすぎるので、適宜臨機応変に対応することにする)。たとえ、「できそこなたって、焼き豚の代用としてラーメンに入れるによろし」いという心強い言葉もある。えーっと、そう言ったのは流浪の作家檀一雄センセイ。

道端に咲いていた小さなタンポポを摘んで、花瓶に投げ入れておいた。しばらくそのままにしていたら、それがある時、真っ白な綿帽子に変わっていて驚いた(ちょっと面白い発見だったけれど、やっぱり、ここを明るくする工夫をしなければいけません)。今は、外でも棉帽子がいっぱい。






そんなこともあって、デスクランプの脚元に、水と草花を楽しむために水盤に見立てた皿を置いてみた(ベース部分に乗せたのは、ちょっとテーブルが狭いせい)。どうやら、僕は付け加えたがる性質のようだ。つい溜め込んでしまうのも、このせいかもしれない。削ぎ落とすことがデザインの「かなめ」と思い、いわゆる「引き算の美学」というものに憧れているにも関わらず。やれやれ。まいります。

それでも今の所は、テーブルの状態はなんとか維持できている、ミースとコルビュジエの壁の向こう側は相変わらず手つかずのままだけれど。朝のお茶も、すっかり定着している。あ、サツキもちゃんと夜は寝ているようです(暗くなると花びらを閉じ、朝になるとまた開くのだ)。

ところで、抹茶といえば宇治のものと思い込んでいたけれど、伊勢やら知覧、それに八女などにもあるらしい。ま、考えてみると当然か。調べてみると、比較的安いものもあるようだから、慣れ親しんだ渋めの嬉野や甘い八女のものから試してみようかしらん。静岡や狭山のものもあるかもしれない。ただ、通販だと当然送料がかかるので、安いものでも結局その倍ほどになるのが気になる(貧乏性⁉︎いや、貧乏⁉︎)。しかし、横浜まで買いに出かけると考えたら、さほど変わらないのかもしれない(ま、これだけを買いに行くってことは、まずないわけだけれど)。

雨の日は、静かな音楽をかけて、外を眺めながらあれやこれやぼんやりと考えるのには最適の日です。それに飽きたら、しばし国外に脱出するのもいい。行き先は好きなところへ、どこにでも行ける。最近は、英国とイタリアが多い。

ま、こんな調子だけれど、考えてどうなるということばかりでもない。せいぜい面白いこと、気晴らしになることを探して、楽しい気分で過ごせるようにしなければなりません。

でも、本当のところ、いったい、何がしたいのだろう。ねえ……。


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2023.05.24 夕日通信

久しぶりに、パイレーツ・ロック


今朝は、床屋に行ってきた。気がつけば、ずいぶん長いこと行っていなかったのだ。だいたい人と会うことが少ないし、あったとしてもたいてい帽子を被っている。ところで、人の髪はなぜ中心から無くなっていく?その周辺にはまだ残っているのに(眉毛も伸びるから、そのために床屋に行かなければならないのだ)。

さて、少々前のことになるけれど(どのくらい前のことかはさておくとして)、久しぶりにローソクを灯してみようと思ってライターを探したら、見つからない。しようがないので、マッチでつけることにした(これまた久しぶりですが、マッチはすぐに見つかった)。で、点けることはできたのだけれど、今度は、マッチの軸を捨てるところがない(やれやれ、こういうことばかり)。しかたがない、えいままよと、軸はローソクのところに放り込んだのでしたが。

と、なんということか、きれいな炎があらわれた。木軸がローソクの芯の代わりになったのだ。こういうことがあると、嬉しい(ささやかなものですが)。しばらく、見入りました。オイルサーディンと素揚げした根菜のカレー醤油あえ(有元葉子ふう)をつまみながら、白ワインを飲んでいた時のことでした。

もはや日も長くなって、ローソクの火をたのしむ季節じゃないかもしれないけれど、まあかまうことはない。ローソクをたのしむ達人の北欧諸国では夏の昼間でもローソクをつけるし(かつて見学したコペンハーゲンの老人施設では、昼食の卓上にワインと一緒に)、欧米の国でも昼間からランプをつけたりしている(たとえば、『ユーガットメール』のメグ・ライアンの住まい)。たしかに、小さな火や灯りは心を和ませ、穏やかにする。これからも、せいぜいたのしむことにしよう。それにしても、無印のものはなぜ、小さな炎しか出ないのだ(安いのはいいとしても)。もう少し、がんばって欲しいものだ。




前にも書いたことがあったかどうか。プロジェクターが壊れて以来、手元のモバイルプロジェクターが使えないかと思っていたのですが、あいにく入力端子はHMDIがひとつだけ。AVアンプ側もHMDI出力端子は一個しかついてない。困ったと思いながらも半ば諦めかけていたところ(テレビとプロジェクターの両方に出力したいのだ)、インターネットで見つけたHMDI切替器を使ってみることにした(安かったのでダメ元でも、ものは試しというわけ)。




で、その前にTVの画面で観た『ノッティングヒルの恋人』と同じく、リチャード・カーティス監督の『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』を試してみることにした。と、映像と音に関しては問題なく観ることができた。画質のことはさておき、やっぱり暗い中で観る大きい画面は格別。

ただ、プロジェクターの場所が問題(椅子の横におくと、ちょっと窮屈)。おまけに、ちょっと暗いし、ピントも甘いのだ。映画は、僕が記憶していたものとはほとんど違っていたけれど、最後まで見た。

さらに気晴らしのために、続けて同じ監督の『パイレーツ・ロック』を。こちらも、思っていた以上に面白かった。さらに言うなら、楽しい、嬉しい、素晴らしい、そして切ない。反権力と権力に媚びる勢力、協力と対立、友情と嫉妬、強さと弱さ、矜持と卑屈、恋とそして当然のように失恋、等々がある。

でも、ラストは予想外だったな(やっぱり、覚えていないんだね。ま、たいていこうしたもの。だから、何度でも楽しめるというわけ。さて、これがいいのか悪いのか)。喪われたものに対する憧憬、というようなものだろうか。

ただ、こちらは、良くも悪くも、たとえばカーティスが脚本を担当した『フォー・ウェディング』(ちょっと苦手ですが)のような英国的な皮肉が効いている面が少なく、全体にはハリウッド的(製作は英国とドイツで米国資本は入ってないようなのですが)な要素が大なような気がした。しかし、選曲をみる限りでは、イギリス的な要素も含まれているようでもある(例えば、ビーチボーイズ等のアメリカ勢よりも、キンクス等のイギリス勢の曲が多い。ま、当然と言えば当然か)。これも、彼の持ち味の一つかもしれない。

そう言えば、こないだアマゾンで探していた時にも、R・カーティスの新しいものがあった気がする。ぜひもう一度探してみよう。

でも、彼は引退宣言をしたのではなかったか(思い違い?)。

遅くならないうちに、据え置き型のプロジェクターを手に入れることにしたいなあ。本当ならば、合わせて、スクリーンやAVアンプ、センタースピーカーも置き換えたいところだけれど、他にも出費を強いられそうなものがある(というか、無職になってからというもの、なぜか次々と出てきます。このことも、マーフィーの法則にあるのだろうか。「出費は収入がなくなってからやってくる」)。今少しの間、我慢することにしなければいけません(何しろ、年金生活者。何か仕事はないものか)。

追伸:今回の記事を書く前に、久しぶりに住宅のプランを作ろうとしてみたのですが、なかなかうまくいかない。なんであれ、下手でも、毎日やることが大事だということを思い知りました(ま、ごくわづかですが、やや改善しつつある……、という気がします)。


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2023.05.17 夕日通信

言葉と音楽について考えてみるつもりが


新しい季節の始まりに合わせて、何か新しいことをと思っていたところ、先日の友人は毎日夫婦で和菓子とお茶を楽しんでいるという。そこで、お茶を点てて楽しむようにするのはどうだろう、と考えたのだった(影響されやすいワタシ)。彼は甘いものが好きだというからいいけれど、お菓子のない抹茶というのはどうなんだろうね。気分としては、なんだか画龍点睛を欠くという気がしてしまうのだけれど。それに、抹茶は何と言っても高いしね(これには、2人ともがため息をついた)。




で、朝のお茶を、薄茶ではじめることにしてみた。器は、季節に合わせて、薄手の白っぽいもので。禅宗では、僧侶たちが毎朝お茶を点て、生きるものと逝けるものとの心を合わせるという。お茶を点てていると、何とはなしに、こころが落ち着くようだし、背筋も伸びる。おまけに、朝ならお菓子なしでも、不足を感じる気分にはならないですむ。よし、これでいくことにしよう。ただ、そうなると今度は、茶杓やらくたびれかけた茶筅の代わりやらが欲しくなるのが難点。

さて、言葉と音楽が深く関わることはよく言われるところです。言葉とメロディの関係を思えば、よくわかる。これは、歌曲だけに限ったことではないし、別に目新しいことでもない。わざわざ書くことでもないかもしれない。ただ、これは論文でもないし、教科書でもない、ただのブログなのだ。これから書くことは、いつものごとく、僕が感じたことでしかない。ちょっと残念な気がするけれど、それでよしとしなければいけません。

もちろん言葉の多義性ということはあるのだけれど、それでも聴き手はその意味するところに縛られてしまうことからは逃れられないのではないか。それが、言葉の持つ力でもあるのだろう。

一方、言葉(歌詞)を持たない音楽は、それがどう聞こえるか、その響きをどう受け取るかは聴き手にゆだねられる。同じ曲でも、たとえば、

 ほら、見てごらんよ。とってもきれいでしょ
 生きていればこそだよ

という風に聴くこともできるし、

 だめだな。ばか言うんじゃないよ
 さっさと諦めなさいな
 
というような感じに聴こえる場合もあるに違いない。まあ、曲にもよるだろうし、何より聴く方の気持ちのありよう次第ということがあるのだろう。




少し前のウィークエンドの昼下がり、マルゲリータ(冷凍ですけど。それに、ワインもちょっとですが)を食べながら、ブリュッヘンやビルスマらによるヘンデルの『木管のためのソナタ全集』を聞いていたのです。

ヘンデルは、聴き手に優しい感じがありますね。バッハは、もっと厳しい受け取り方を求められているような気がする時が多い(例によって、情緒的な感想)。まあこれも、聴く側によってそれぞれだし、どちらを選ぶかもその時の気分によっても違うだろうけれど。

ところで、そんなことを考えていたら思い出したのだけれど、英国の食べ物は不味いと言われた時期がありました。でも、僕が短い間暮らしていた時は、チルドや冷凍食品(の一部)は、当時の日本のそれに比べるとずいぶんマシだったような気がする。日曜の昼はよく、ピッツアやラザニヤやら、主にイタリア料理を食べていたのですが(ワインかビールと一緒に)、これがあんがい美味しかった。ただ、そのことを、イギリス人のマダムに言ったら(英語で)、「えっ⁉︎」というような怪訝な顔をされましたけど。

その後、イギリスはもともと家庭料理の国だということを教わって、なるほどと思った。当時は、ゴードン・ラムゼイがテレビショーをやっていて人気があった*けれど、彼なんかが英国のスターシェフの走りかも。その後は、ジェレミー・オリバーをはじめとしてスターシェフが登場して、レストランの味もずいぶん進化したようです(むしろ美食の国として紹介されることもあるらしい)。でも、パブ料理も時々、美味しいものに当たることがありましたけどね。余談はおしまい。

と思ったけれど、余談(いや、ただの思いつきか)ついでに、ヘンデルはイギリスとは縁が深かったわけだけれど、例えば『ラルゴ』なんかを聴いていると、ふと国民的作曲家とも呼ばれるエルガーの曲を思い出したりするのは、やっぱり影響を与えているのかも、と考えたりするのですが、どうでしょうね。

まあ、なんであれ、過去と現在、そして未来とも繋がっているということなのでしょうね。このことを忘れるわけには、いきません。


* その番組だったか他の番組でだったか、彼を見ていて仰天したことがあったけれど、それはまたいつか。


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2023.05.10 夕日通信

別の世界で、戦争


席に着くと、彼は小さなバッグの中から、何やら取り出した。「これ、みんなにも渡そうと思っているんだけれど」と言いながら、リボンのシールのついた細長い包みをこちらに押しやった。それから、パスタとビール(僕だけ)、それからデザートを食べようと言うので追加して、3時間。話は尽きることなく、続いた(彼の話ぶりは、達観したふうがあった。こないだと同じ)。そして握手をして、別れた。彼は、もう東京には来ることはないと言って、帰っていった。




あっという間にもう5月。色とりどりの花が咲き、新緑が濃さを増して輝く初夏。

でも、ウクライナとロシアの先頭は、いつまで続くのか。いっこうに終わる気配がない。この戦争の一部を世界中が毎日、目にしている。しかし、もう1年と2ヶ月を超えても、事態が好転する兆しさえ、今のところ、ない。

第二次世界大戦を防具ことができなかった国際連盟の反省を踏まえて第2次世界大戦後創設され、現在では日本が承認している世界の独立国196カ国とほぼ同数、合計193カ国が参加している国際連合も、ほとんど役に立たない。ロシアを非難し即時撤退を求める決議がなされても、ロシアは従う気配がない。なぜだろうと思ったら、従わなくてもなんら罰則が課せられることはないというのだ。また、安全保障理事会で決議しようとしても、当事者であり常任理事国のうちのひとつのロシアが、拒否権を行使すると採択されることはない。非道い話だ。

これは、一体どことどこの戦争なのだろう。

ウクライナに対してはアメリカやNATO加盟国をはじめとする国々からさまざまな武器が供与され、その量と質は増大している(ただ、足並みの乱れも出てきているようだ)。一方、武器の不足が喧伝されるロシアには北朝鮮やベルラーシ、それに中国の影までもがちらつく。

なんだか正義、と言って悪ければ、人道的な立場よりも自国の利益こそが、味方を増やすことこそが最優先されているように見える。その余波も大きい。世界的なエネルギー不足や食糧危機を招いていることはよく伝えられるところだけれど、日本でも物価の値上がり幅は尋常ではない。

それでも、世界は手を拱いていることしかできないように見えるし、まるで遠い世界、どこか別の惑星の戦争を遠くから眺めているようでもある。スーダンの内戦やミャンマー等々のことも。

さらに、このところ続いたアメリカで続いた銀行の破綻も。インターネット社会のゆえということもあるようで、科学技術の進歩について考えざるをえない。得るものも大きいとしても、失うものもある。当然のことには違いないけれど。

ところで、「神様お願い」、というのはうんと昔のグループ・サウンズと呼ばれていた頃に人気のあった、テンプターズの曲。ボーカルのショーケン、萩原健一は当時はあんまりうまくなかったような気がする。彼はその後、俳優に転身して、再び成功した。そして、歌手としてもうまいとはいいがたいけれど、なかなかに味のある歌を聞かせるようになった(もう、亡くなってしまったけれど。そういえば、同じように俳優で渋い歌を聴かせた原田芳雄も、とうに鬼籍に入った)。

僕は、彼を一度だけ実際に見たことがある。昔、時々行っていた生麦にあった鮨屋でのこと。その時、彼は倍賞美津子と一緒だった。ただ不思議なことに、隣合わせに座っても特別のオーラを感じることはなかった。たぶん、それは彼がスターじゃなかったのではなくて、スターらしく振舞わなかった、ごく自然体でいたせいだろうと思う。余談おわり。

今、神様がいるのなら、神様にお願いしたいことがある。

これ以上、世界を壊させないでください。

大きな災害や人災を見るにつけ、神様や仏様がいるとは思えない、いやいないのだと思い定めるしかない気がしてくる。その一方でどうしたことか、遠い昔に門前の小僧よろしく覚えた「頌栄541番」が、口をついて出るのだ。

もうこれ以上、罪なき人々を苦しむ姿を見ていたくない。少なくとも、人災は知恵と理性で防げるはずと思っていた。しかし、それも今となってはそれも無理なのではないか、という気がしてきてしまう。人間が愚かだとしても、たとえばウクライナの住民はロシアの侵攻によって住む家や大事な人を失ったりしなくていいし、死ななくてもよかった。他にも、自身の所業とは関係のないことで苦しんでいる人々がたくさんいる。

精神的な支えとしての神様がいてくれるのなら嬉しいけれど、人々に苦しみばかりを与えて、助けることをしない神様はいてほしくない。というか、その存在を信じにくいのだ。『願わくば、我に七難八苦を与えたまえ』と祈った山中鹿之介のような気分には、とうていなれない。

ただ、先日書いた宮大工棟梁の西岡常一のことばは、それにしてもまさにぴったりのタイミングだった(もしかしたら、やっぱり「神様」がいるのだろうか)。

ジタバタしない暮らし方(握手して別れた友のように)を、学ばなければいけない。そのために、なにかひとつ美しいものを残せればいいのだけれど……。これこそ、簡単にはいかない、むづかしいことですが。


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2023.05.03 夕日通信

依存症がこわい⁉︎


びっくりしたことといえば、前回も書いたばかりだけれど、まあ次々に出てきて、尽きることはありませんね。浜の真砂は尽きるとも……。まずは、その一つから。


*

政府が認可した大阪のIRの整備計画では、年間来訪者予測の2000万人のうち、外国人観光客は3割となっているらしい*。これまでの説明とはずいぶん違いますね。確か、外国からの客を集めるというのではなかったか。ギャンブル依存症の人々が増えなければいいのだけれど。最近では、誤給付した新型コロナウイルス対策の臨時特別給付金4630万円を全額を別の口座に振り替えた事件では、その目的がオンラインカジノで使うだったということだし、10年ほど前にも当時の製紙会社の会長が、関連会社から借り入れた106億円を海外のカジノでのバカラ賭博で失った例もあった。事件性のあるものばかりでなく、けっこう悲惨な状況を生んでいるようだから。

こういうのを見るにつけ、このところの政府や自治体は、何であれ税金を取れるところから取ろう、例えばそのために依存症が増えたとしても、その時に考えればいいと思っているのではないか、という印象を持ってしまうけれど、そうだとしたら、あまりにも想像力に欠けた無責任な所業。いったいどうなっているのだろう。

一方では、バラマキをする。ていねいに検討するよりも、それが思いつきにすぎないように思えることでも、今時の政治は、易きに流れるように見えてしまう。取るべきところは、他にもたくさんありそうだけどね。大局観よりも短期的な利益を求めた対応ばかりが目につき、なんだか弱いところ、文句が聞こえにくいところから、という戦術のようにも見える。また、そうした政策の実現のためには手段を選ばず、嘘でもなんでもついて、バレたらその時のことと思っているようでもある。

政治家にしろ公務員にしろ、はじめは人民、わけても一般の大衆のためにという志があったはずだろうと思うのだけれど……。なんだかなあという感じが拭えません。いったい、いつから、どうしてこうなってしまったのだろう。でも、昨今の選挙やその投票率の低迷を見ていたら、まあ、そうなって当然かという気がします。

ところで、『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』を見終わった(全10回だった)。まあ、終わり方も悪くなかった、カミラのことは残念だけれど、それ以外はまあハッピーエンドでよかった(と書くと、いつまでも子供のままのようで、成長してないのだなあと改めて思います)。あ、でも解散の後のビリーがずいぶん穏やかな表情で語っているのを好ましく思ったのは、それなりに年だけは重ねたということだろうか(と言って、別に嬉しくなるわけじゃないけど)。

でもこれからは、テレビドラマはこれくらいにしておいて、映画に戻るこことにしよう。ドラマを見始めると、映画の時間がなくなってしまうのだよ。君子危うきに近寄らず、君子でなくとも遠ざけておくのが一番のようです。依存症になるのもまずいしね。


* 朝日新聞朝刊「天声人語」、2023年4月19日


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2023.04.26 夕日通信

本の読み方が変わった


このところ、本を読むときのやり方がすっかり変わってしまった。以前は、フリクションペンを横に置きながら読んでいた。気になったところに傍線を引き、余白のところに簡単なメモ書き付けるようにするのが常だった。




それが最近では、本の種類によらず、もっぱら付箋を貼るようになった。そのために、本を読み始める前には、細く切った付箋を表紙の裏側に用意しておく。

これは、第1には、図書館で借りてきて読むことが増えたせい(その後で、アマゾンの中古本を購入することも多い)。もうひとつには、読むときの姿勢がある。文字通り、どんな格好で読むかということですが、ベッドで横になって読むことが多いのだ。必然的に、筆記用具を使うのがむづかしくなったというわけ。別に、転売を考えているわけじゃないのです。だから、付箋が途中でたりなくなったら、取りに起き出さなければならない。おまけに、集中力というか、続けて読める時間が短くなった。ちょっと残念。

と言って、利点もないわけじゃない。たとえば、
・印をつけるのに逡巡することがない(貼ったり、外したりが自由にできる)。
・読み返したときに気になりにくい(本は2度読め*。傍線が綺麗じゃないと、気分も滅入る)。しばらく経っ
 てから改めて読む時にも、また新鮮な気分で向き合うことができるのだ。
・教わったこと、気づいたことの量の多さが一目でわかる(これは、いかに自分が知らないかということでもあ
 るので、喜んでばかりではいられないのだけれど。しかも、あんまり身につかない)。

ただ、これからはマーカーを併用してみようかと考えているところ(書き味と色味のいいものがあればいいのだけれど)。それに、ベッドで読むのはもうやめたほうがいい気もしている。

ところで、ファイヤーTVスティックがうまくいかなかった時に見たかったドラマというのは、いったい何か(誰にも訊かれないけど)というと……。


**

誰にも訊かれないのに言うけど、それは『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』1970年代の架空のロックバンドのありようとその周辺譚を、当時や解散した後のメンバー等のへのインタビューやコンサートの模様を交えたドキュメンタリーふうのドラマ。成功の後のメンバーの確執やら何やら、まあありがちなこと(まだ全部見たわけじゃない)。ザ・バンドの最終公演のライブを収めたマーティン・スコセッシ監督の『ラスト・ワルツ』あたりを参考にしたのかもしれないし、架空のバンド、ストレンジ・フルーツを描いた『スティル・クレイジー』にもちょっと似ているかも。

有名な男女混成バンドで、女性が2人というとフリート・ウッドマックやアバを思い出す。2人の担当するのがヴォーカルとキーボードといえば、全盛期というかポップ路線に転向した後のフリート・ウッドマックでしょうね(ウィキペディアもそのことに触れていた)。僕は、どちらもあんまり聴かなかった。ついでにいえば、フリート・ウッドマックは、ピーター・グリーンがいた頃のブルージーなロック時代が好きだった。

話の展開としては新味はないけれど、まあ今のところは面白く見ている。しかし、主人公の一人デイジー(演じるのは、エルビス・プレスリーの孫だという!)がどうにも気に入らない。たぶん、彼女が自信がありすぎるふうに振る舞い、その分自己中心的になるのが嫌なのだ。一方の主人公であるバンド・リーダーのビリーもはじめはそうだったから、回が進むと、気にならなくなるのかもしれないけれど。

音楽が好きなのか、ロックバンドが好きなのか、ドキュメンタリーが好きなのか、それとも遠い憧れの故なのか。よくはわからないけれど、ロックに限らず、音楽映画は好き。

ともあれ、まずは先回にも書いたように、生活様式を整えるのが、第一だ。




近所で摘んできたツツジを挿してみた。この季節ならタンポポやヒナゲシのような小さな花が可憐で好ましいのだけれど、今はちょっと派手で明るい花の方が効きそうな気がしたのだ。


* というのは、梅棹忠夫の教え。
** 写真は、アマゾンのサイトから借りたものを加工しました。


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2023.04.19 夕日通信

つきあうのは大変だ


身の回りに気に入ったものがあると、生活は楽しくなる。当たり前すぎて、何をいまさらと言われそうなことですが、これを実際に手に入れようとすると、なかなか簡単にはいかない。あちらを立てようとすれば、こちらが立たず。運よく手に入れたとしても、その後も安心はできない。




たとえば、オペラのアリアは美しい音色の楽器のようでいいのだけれど、最高の歌手でも、込められた感情が強すぎるような気がして馴染めない時がある。

また、『スカーボロ・フェア』や『ダニー・ボーイ』等のイギリス民謡を、クラシック畑のキングス・シンガースで聴くと、美しいけれど、きれいすぎて情緒な部分が不足しているように感じてしまうこともある。そうした時は、前者は耳慣れたサイモン&ガーファンクル、後者はハリー・ベラフォンテやアンディ・ウィリアムスで聴きたくなってしまうが、これらも地域独自の情感は感じにくい。たぶん、聴く側の気分にかかわるのだろう。『マリイの結婚式』は、断然ヴァン・モリソンとチーフタンズがぴったりくる。

お気に入りでも、つきあいは、ことほどさように大変だ。さらには、せっかく手に入れたものの、すぐに使わなくなるものもある。

これが物理的に形あるものとなると、もっとむづかしくなる。形についてだけでも、全体的にはとても気に入ったとしても、小さな不満が徐々に大きくなってしまうといった具合で、易しくない。せっかくこれはと思ったものでも、こんどは機能や価格の面で折り合わないことも多い。


*

土曜の夕方に、夕刊を見るともなしにめくったら、黒縁メガネをかけた顔が目に入った。誰だろう、おかしな表情をしているからお笑い芸人の人かと思ったら、大江千里。彼がポップスターとして活躍している頃から知らなかったわけじゃないけど、当時はまったく興味がなかった。それが、住宅への関心を表したり、NYへ移住してジャズプレイヤーへの転身を実現しようとした頃から、ちょっと気になるようになった。

ま、そんなことはどうでもいいことだけれど、その小さな記事の中にぐっと胸を突くような一文があったのだ。一段落分だけ引いてみる。

なのに心の老眼はジワジワ進む。人との縁はズバズバ切れていく。

たしかにそうかも、と思った。いったん環境が変われば(とくに、僕のように無職ともなれば)、役割も関係もまた変わる。連絡し合うことも少なくなるのが世の常。こうしたことに無関係でいるわけにはいかないけれど、そうは言っても、これもなかなかむづかしい。だいたい、職場を離れてからは、外に出かけることも減ったし、人と会うことが極めて少ないのだ。新しく知り合うことがないのは言うまでもない。既知の人たちと言えども会う機会が減れば、その分、心的距離も遠くなる、というのが自然だろう。

ものよりも、人の方が、断然むづかしいそうだ(いうまでもないことだけど)。




何事においても中途半端で飽きっぽい、僕が言うのもおこがましいけれど、気になったものを手にしたら、一定期間はとことん使い続けてみることが大事なような気がする。しばらく付き合ってみないことには、わからないことが多いのだ。少なくともものに関しては、時間をかけて使い込んでいるうちに、情がうつって愛おしくなるということがある。これが、いつもいいことかどうかはわからないところもあるけどね。


* 朝日新聞 20023年4月8日夕刊


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2023.04.12 夕日通信

大いなる誤解!


ああ!

10時24分に、わずかに間に合わなかった。寒くなかったのが幸い。次のバスまで30分ほども待つことになる。ま、時間はあるので、急ぐこともない。

元気で活躍する姿を見て嬉しくなるのは、何も高齢者たちばかりではない。うんと年の若い人の場合でも、変わるところはない。それで、例のうら若き画伯の展覧会に鎌倉まで出かけるところだったのだ。

予定では30分ほどのはずが1時間弱ほどかかって、到着した。途中、平日にもかかわらず、鎌倉に近づくにつれ、乗客は増え続け、ついには乗りきれない人々も少なからずいたほど(鎌倉はこんなにも人気があったのかと驚いたけれど、後で教えてもらったところでは、春休みのせいらしかった)。




地図を頼りにと言いたいところだが、よくわからず、尋ねながらようやく行き着いた会場の小さなカフェは、細い路地を曲がり、さらに細くなった路地に入ったところにあった。







黒壁に小さく設けられたドアを開けて入ると、店内は薄暗かった。しかも、いくつかのスペースに分かれているようだ。仕方がないので、ウェイトレス(今でもこう呼ぶのだろうか。なんだかうんと年取ったような気がした)と思しき女性に案内されて、急勾配の階段を上った先に、小さな屋根裏部屋風のアトリエっぽい空間が現れた。そこにいたのは画伯が一人だけで、他には誰もいなかった。それで、作品を見ながら、ほぼ1時間半ほども話し込んだ。

色々と驚かされることもあったし、へえっと思うことも聞いた(たとえば、その創作に費やす時間は、予想とは違っていた)。画伯は、創作する上での様々な葛藤があるようだった。

たとえば、絵を友人や知人たちに買ってもらうこと。好意に甘えているような気がするし、一方これがないと制作費が賄えない、と言う。あるいは、時々こういうものを描いてほしいという人がいるけれど、注文に応えようとすると、意に沿わないことも出てきそうだ、等々のことで悩んでいるようだった。でも、裏を返せば創作の幅を広げる機会となる可能性だってある。

おそらく、どちらに転ぶかは本人の取り組み方次第だと思うし、正解はないのだろう。たぶん、紙の表と裏のようなものなのだ。でも、そう割り切れないのは、若者だけが持っている生真面目さの故かもしれない。

それらをひっくるめて、羨ましく思うのだ。二十歳になるかならないかの女の子がよく口にする「もうおばさんだから」などといった、若いことこそが絶対的な価値であるかのような言い方は好まないし(実際のところ、彼ら自身はどのくらい信じているものか)、愚かだと思うけれど、それでもやっぱり眩しいのだ。彼らには、希望と可能性と、これを試みる時間が十分にある。歳を取っても、いくらかの未来がないわけじゃないが、長いとは言い難い。ならば、密度を上げれば良いということになりそうだけれど、ぼくの場合、それができない(むしろ、怠惰に流れるばかりなのだ)。




あいにくの曇り空だったが、帰りのバスから見た段葛の桜は綺麗だった。入り口の方こそそうでもなかったが、バスが進むにつれて、中も外も混み合うばかりだった。それにしても、春休みとはいえ平日にも関わらず、町中すごい人出だ。その多くがカメラを手にして、思いおもいの対象に向けているのだけれど、若い人はスマートフォン、年配の人はカメラ、しかも大きくて、重いはずの1眼レフを手にしている人が目立った。僕などはとても持つ気にならないのに、年配の女性3人組はいずれも大きくて長いレンズをつけたカメラを手にしていた(少し前に流行っていたことは知っていたけれど、目の当たりにするとやっぱり驚いてしまいます)。やっぱり、気分が大事ということなのか。それとも、いい写真のためにはいい道具が必要、ということだろうか。

ある午後には、一人の陶芸家を取り上げた番組を見ていた。彼は、周囲から無理だからよせと言われた試みについて、「やるか、やらないか」、「やるしかないと思った」と言う。そして、彼はやり遂げた。

僕はといえば、ある年齢の時にもう研究はしなくていいと思い定めたのだが、どうせ自分がやれることは高が知れているし、とても立派な研究成果といえるようなものにはなりそうもなかったのだ。数学者の森毅のエピソードを聞いて、真に受けてしまったこともある。

でも、今ごろになって気づくのは、それが浅はかな考えだったということ。研究のことはともかくとして、何をやるか、またはやらないかは、成果を出せるものかどうかということじゃない。自身の心の有り様との関わり方次第なのだ、という気がするのだ。大いなる誤解をしていたために、ずっと自分を甘やかすことになって、何事も中途半端なままに過ごしてしまった(ちょっと遅かったね)。

その後で、暗殺者ふうのパスタというのを作ってみた。ごく大雑把に言えば、パスタを短く折らずにそのまま使って作るトマト風味のパエリアみたいなもの。ちょっと物珍しかったので作ってみたけれど、どうにも妙なものができあがった。食べてみても、再チャレンジはしなくてよさそうな気がした。


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2023.04.05 夕日通信

ビーチサンダルの怪


テレビをつけっぱなしにしていたら、時々うんと昔の懐かしい歌、たとえば『ブルーライト・ヨコハマ』(調べてみたら、1968年というからなんと半世紀以上も前の歌!)なんかがかかることがある。そうした時にはつい気になって、テレビの前に移動するのだ。

そこに、たまに登場するのが、村下孝蔵の『初恋』(本人の歌だったり、誰かがカバーしたり)。

特に、本人が出てきたときに、ああ、…、と言うかなんと言うか、まあある種、シンパシーと言ってもいいようなものを感じるのです。で、ちょっと、切ないような気持ちになる。別に村下さんの青春時代を知っているわけではもちろんないから想像に過ぎないし、全く外れているのかもしれない。

もちろん含むところは全くないのですが、いかんせん見た目もうんと地味だし、若々しい、はつらつとしたところに欠けている。すくなくとも、彼の魅力はそこにはない(と思う)。で、自身の若い頃(と言って、今も変わるところはほとんどないのですが)と、つい重ねてみるというわけです。

で、その歌詞を思い出すことがある。それは、

 好きだよと言えずに 初恋は
 ふりこ細工の心
  〈中略〉
 浅い夢だから 胸をはなれない

というものですが、僕はこれを、

 さよならと言えずに 初恋は
 ふりこ細工の心 浅き夢だから

と覚えていた(不覚!。でもまあ、たいていがこうしたもの)。

そして、詩は、心に染み入る1行や、そうなのだあと思わせる1行があれば、ソネットだろうが、散文詩だろうが、歌詞だろうが、誰が書いたものだろうが関係ないのだ、と思ったりする。もしかしたら、ずっと昔に渡辺武信や泉谷明といった人たちから学んでいたことなのだけれど。




ところで、ある朝、窓を開けて外に出てみると、年末に伸び放題だった雑草が刈り取られて以来、未ださっぱりとした状態を保っている庭に、何かが落ちていた。何だろうとよく見てみると、ビーチサンダルが一つ。少し前までは上階からいろいろなものが降ってきていたのだけれど、引越して行って以来そういうことはなかった。

別の日に見たら、サンダルは依然としてそこにあった(どうして、誰も取りに出ていかないのだろう?)。ただ、位置が少し変わっているように見えた。それからさらに別の日には、もう片方らしきものが増えていたのだ。うむ⁉︎


「ねえ、どこに行ったんだい?」
 目が覚めた片方のサンダルは、声に出して訊いてみたけれど、返事はない。

 ある夜のこと。大雨が降って、嵐のような風が吹き荒れた。翌朝は、雲ひとつない快晴。
「あ、いた!」
 片方のサンダルは思わず大きな声で言った。

「ねえ、どうしてそこにいるのさ?」
「えっ、わからないわ。私にもわからないの」
 もう一方のサンダルが答えた。
「ふーん。でも会えてよかった」
「うん。でも、あなたこそどうしたの?」
「えっ?」
 片方のサンダルがよーく見ようと大きく目を開けて眺め回すと、そこはついこないだまで見下ろしていた庭の片隅だった。
「ともかく、よかったわ」
「うん」
「早くこっちへ来なさいな」
 もう一方のサンダルの方が言った。
「うん」
「早く」
「でもどうしたら、そっちへ行けるのかな?」

 それからしばらくして、また夜の間少し雨が降った。このときは風はほどんどなかった。翌朝、目がさめるとふたつのサンダルは同じところにいた(今度は、ちょっと違う方を向いていたけれど)。
「やあ。おはよう」
「また、一緒なのね」
「ああ」
「よかったわ」
「うん」


それにしても、二つのビーチサンダルはどこからやってきたのか。そして、どこへ行くのだろう……。

ところで、さっぱりとしたままだった庭は、このところ続いた雨のせいで、どんどん緑を増しています。すごい生命力!


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2023.03.29 夕日通信

欠点は山ほどあるけれど


職場では、文房具がすぐ手に入った。ボールペンの芯がなくなっても購買部に行けばすぐ手に入れられたし、プリンターのインクが切れても、用紙がなくなった時でもすぐに補充することができた。さらにもう一つ、これはいつもというわけじゃないけど、レーザーカッターや裁断機等の道具類もたいてい好きな時に使えた。職場を離れると、こうはいかない(ちょっとばかり困ることもたまにある)。それで、思い出すときがあります。




先日、うら若き画伯の誘いで、少し前に書いた童話を近く開催される画伯の個展の片隅に置くことになったのだ。それで、急遽製本することになったのだけど、当然、手元にある材料や道具はきわめて限られている。で、かつての環境を懐かしんだというわけ。

道具のことはともかく、材料は買いに出かければすむことなのに、それもしないまま期日が迫っていたのだった。熟練の手になる手作りの品々はたいそう魅力的だけれど、素人のそれはたいてい貧しいものになってしまいがち。だから、デザインそのものを手作りを生かすようなものにすることも考えないわけではなかったが、全体との調和にかけるような気がした(たとえば、挿絵は、同じ下手は下手でも、比較的なめらかな線だ)。

やむをえずそうしなければならない時には、できるだけ丁寧に、時間をかけて作るしかない。それが方法と知っているにもかかわらず、それができないのだ。その理由もわかっている。

欠点は山ほどあるけど、その一つは先延ばしすること。映画の中で、ソール・ライターはできるだけ先延ばしする(早く決めすぎないほうがいい)と言っていたけど、やっぱり早く取りかかるほうがいい、決定するのは後からでもいいかもしれないけれど、と思う*。でも、昔からこれができないまま、それどころか、その傾向は歳をとるにつれ、ますます顕著になってきたようなのだ。ずっと自分を甘やかしてきたことの、ツケが回ってきたのだ。

しかも、これが自分だけに関わることならまだしも、他者が関わるとなると迷惑をかけてしまうことになる。それだけは何としても避けなければいけない。

結局、中途半端にやっつけたものを持っていくことになった(人にはうるさく言っていたのに!反省)。おまけに、直前になって、机の前に印刷した紙があるのに気づいた。手にとってみると、2ページめの分だった。綴じ方を失敗したあと、一度分解してやり直した時に忘れたらしい。あっと思って、綴じたものを読んでみたら、別になくても大勢には影響はないような気がしたので、そのままにしておいた(これって、余計なものが多いということですね。とほほ)。改めて眺めていると、他にもいろいろと気になるところが出てくる。

当初は見本のつもりでいたのだけれど、打ち合わせの当日もいくつか不測の事態が出来して、そのまま渡すことになってしまった。さて、これでよかったのかどうか。まあ、画伯は人の目に触れさせることが成長のためになると言っていたことだし、良しとするしかありません。

ともあれ、早く取りかかっておけばこうした失敗も回避できるし、いったん取りかかったら案外早く済んでしまうこともよくあるのですが、なぜかなかなか始めることができない。始めるまでに、けっこうな時間を要してしまうのだ。なんとかしなくっちゃ。


* たまたま今朝読み返していた本の中で、黒田恭一が、「 NO、といってしまえば、それまで、である。しかも、 NOは、いつでもいえる。だから、 NOをいうことはできるだけ保留する」と書いていた。なるほどなあと思った。彼は音楽を聴く上での彼の流儀について言っているわけですが、何にでも当てはまりそうだと感心したのでした。


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2023.03.22 夕日通信

桜の花が咲く頃に、なんですが……


先日は、「ひょっとしたらワタシは人間じゃない!?だったら、ワタシはいったいなんなのか?」と書いたけど、ぼくが人間であることはまず間違いないので(生物学的に)、正しくは「人間的」ということだね。

とまあ、どうでもいいようなことから始めましたが、これから書くことも同じくどうでもいいこと(だいたい、このブログ全体がそうなのだから、あらためてそう言っちゃあおしまいというものだけど)。

さて、もはや春、桜の開花も聞かれるような時になってなんですが、どうにも気になることがあるのだ(もちろん世の大勢にとっては全く関係ないことですが)。少し前に、これまで親しんできた著者による本を読み返していたところ、次のような文に遭遇したのだ。




 朝起きて、お日さまが出ていると何はともあれ布団を干す。〈中略〉冬、ほかほかの布団にもぐり込む時の嬉
 しさといったらない。

どうでしょう?ぼくは、「えっ?」と思った。昼間の日の光を浴びた冬の布団は、たしかに気持ちがいい。でもね、ふんわりと軽くなっているかもしれないけれど、ちょっと冷たく感じるのではないか、ほかほかと暖かいというわけにはいかないのではあるまいか、と思った。冬の間は日が陰ると布団はすぐに冷たくなってしまうし、風が吹いても同じこと。もし、ほかほかとあたたかい時があったなら、よほど幸運なのだ(冷たい風に当たることもなく、あたたかいまま取り込んで、すぐにもぐり込むことができた時)。もちろん、著者も幸運だったのかもしれないけれど、前後の文脈からはそうは読み取りにくかった。筆が滑った、というか紋切り型の書き方をしたのではないかと感じたのだった。

となると、それまで抱いていたある種の親近感が一挙に覚めてしまう。それで、他にもいろいろと気になるところが出てくる。たとえば、東日本大震災を取材するジャーナリストが取材する自分の後ろめたさを記した記事を紹介した後に続く文。

 取材する側の「後ろめたさ」につねに自覚的であること。ジャーナリストの良心だと思う。この自覚がなく、
 「がんばれ、東北」とか「がんばろう日本」と言うことがいかに空しいか。軽々に「がんばれ」などと言うな
 と思ってしまう。

その一方で、次のように書く。

 大地震の後、友人、知人たちからもらう手紙で、誰もがまず震災後の思いを書いている。
 「震災地のことを思うと毎日悲しい思いです」「自分に今何ができるかを考えています。結局、今までの仕事
 をきちんとしてゆくしかないのではないかと思っています」「大震災の後、今までより物事を真剣に、深く考
 えるようになりました」
 誰もが心に響く言葉で手紙を書いている。

いずれも、確かにと思わないでもないけれど、前段も後段もそう言う人や書いた人たちの思いはそれぞれ、真意はわからないではないかと反駁したくなるのだ。で、これらの書きようも画一的な書き方になっているんじゃないか、と言いたくなってしまうのだ(ほかに、たくさん教えられることがあったにせよ)。


*

咋日の朝刊に掲載されていた大江健三郎を悼む池澤夏樹の文中にあった、ディラン・トマスの「ロンドンの大火亡くなったで少女を悼むことを拒絶する」という詩と同じことを言っているわけですが、トマスの方がいっそ潔いと思った**。

なんだか自分が偏屈になり、ますます独りよがりになっていくような気がしてきて、ちょっと怖くなる。先人たちは、どうやってこの弊害から逃れたのだろうね。


* 朝日新聞 2023年3月14日朝刊
**新聞に書かれていること以外は知らないので、その限りではということなのですが。

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2023.03.15 夕日通信

これって、ちょっと変、のはずが……


明治神宮外苑地区の再開発が取りざたされてどのくらいになるのだろう。 再開発計画では、神宮野球場や秩父宮ラグビー場の建て替えのほか、高層ビルなどが建設される予定というのだけどね。

少し前のことだけど、これに関するニュースを見ていたら、文化財の保護に取り組むユネスコの日本国内の諮問機関「日本イコモス国内委員会」が、計画通りの場所に新しい神宮球場が建てられれば、名所のイチョウ並木が枯れるなどとして懸念を示しているとのこと。


*

事業者は743本の樹木を伐採する計画を示す一方、名所のイチョウ並木については保全するとしていて、これについて、専門家などからは伐採本数や保全方法などについて疑問の声が上がっている。また、超党派の国会議員による議員連盟は、計画の見直しを求める決議書を都に提出していて、決議書では「樹木の大量伐採やイチョウ並木の枯死の危機、高層ビルによる景観の破壊など懸念される内容が数多く含まれている」と指摘しています**。その後、低木を入れたら、さらに多数の樹木を伐採することがわかったけれど、当該区はこれを認可するという。
ん、これっておかしくないかと思ったのが発端。人間が暮らす町のことだから人工物を作るなと言うつもりはないけど、これはおかしいでしょ?

もう一つ、同じニュースの中で、上野動物園のパンダ、シャンシャン(香香)というらしい、が中国に返還されるということを伝えていたのですが、その中で感謝していると言うのはいいとしても、残念がり、惜しみ、涙を流す人や思い入れや思い出を切々と訴える人々も多くいたのでした。でも、正直に言うなら、僕は、これがよくわからない。へーっというふうに感じているだけ。

僕は、人に関心がないわけじゃないし、(ちょっと自分い甘いと言われるかもしれませんが)薄情な人間ではないと思っていたのに(不覚?)。自分から積極的に近づく方じゃないけれど、はじめから人に冷たく当たったりはしないという気がするし……(というか、それが数少ない取り柄だと思っていた)。

で、ふっと思った。もしかしたら、私も変かも?今更という人もいるかもしれないけれど(ま、自分でもなんとなくそういう気がしなくもなかった…)。暗算はできないし、昔のことはまったく覚えていない。おまけに、日がなぼーっとしていても、気にならない(と言うか、ごく当たり前の日常なのだけどね)。

ともあれ、他にも変だと思うことはほかにもある(いちいち書きませんが、たくさんあります)。不適切な発言をした秘書官は、即罷免(という言うか、辞任)。しかし、それまで同じくらい不適切な発言をしてきた大臣や政務官に対してはずいぶんと慎重のようだったけどね。

それやこれやの中、ついこないだの日曜はあいにくの雨模様の天気予報だったけれど、横浜まで出かけてきました。珍しくもありがたいことに、若き女性の2人組が誘い出してくれたのでした。ちょっと困ったのは、何を着ていけばいいのかということ。何しろ外出はごく稀なので、街の様子がわからないのです。

一人は最近、転勤でこちらに戻ってきた。もう一人は、今後のキャリアについて考慮中のよう。久しぶりに会っても、2人はあんまり変わった感じはしなかったけど、2人ともが仕事に熱心に取り組んで、楽しんでいるようだった。一方、こちらはなんだか年取った気がしたのはなぜだろう。それでも、やっぱり3時間ばかりのランチを楽しみました(今度は、小瓶を2本飲みましたけど、一人で)。

あ、もう一つ。今まで貧乏性と書いてきたけれど、よく考えてみたら、本当に貧乏だったことに気づいた(まあ、幸い食べるのにも困るといほどではないけど)。海の見える家なんかはとうてい持てそうにないし(まあ、離島ということになれば、別かもしれないけど、別の意味で現実的ではありません)、美味しいものを食べ歩いたり、好きなものをあんまりためらわずに買うというようなこともできないのだった(これは、ただの小心者ということもあるかもしれませんが、それだけではない)。不覚(やれやれ)。

で、翌日の昼前に、元気を出そうと、メンデルゾーンの交響曲4番『イタリア』を少し大きい音で聴いたのでした。


* 画像はNHKのニュースの写真を借りて、加工しました。
** 低木を含めると、伐採される木は一部のエリアだけでも3,000本を超えるようですが、このことにかかわらず、当該区はそれを認めるらしい。


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2023.03.08 夕日通信

久しぶりに東京・その3 赤坂見附編


日本橋で老舗の底力を思い知った後は、赤坂の新興の和食店へ。えーっと、老舗の店(老舗店)に対して、新興の店はなんと言うのか。調べてみたら、新店(しんみせ)と言うそうです(この歳になっても、知らないことが多いねえ。ことあるごとに、物知らずねえ、と呆れられます)。恒例の、と言ってもなんのことがわからない人がほとんどでしょうが、年1回の3人による食事会があったのです。3年ぶりの昨年は6月初めだったから、ほぼ7ヶ月ぶり。

ホンダクンは何ごとにつけても、好き嫌いがはっきりしていて、きっぱりと言い切る(それまで携わっていた仕事の性質上なのか?次々の持ち込まれる案件に、極めて短い時間のうちに判断し、指示を出さなければならなかった)。音楽の好みは、もともとロック派で、今はジャズが中心だけれど、クラシックもよく聴く。この頃は、またロックも聴くようになったらしい。いずれも基本的には古いものの方が多いと言っていた(現役の時は、時代に遅れないようにと、最新のものを追いかけていたのにね)。





お店へ向かう道すがら、「バッハは、朝から聴くのはけっこうきついんですよ、だからハイドンを聴きます。バッハは構成がきっちりしているけど、ハイドンはその辺がゆるいところがあるので」と言う。なるほどね。僕などは最近の朝は、もっぱらヘンデルです。早朝の『古楽の楽しみ』でたまたまかかっていたヘンデルがことのほか良かったし(枕元にラジオが聴けるように、小さなセットが置いてある)、朝はなんとなくバロックが似合うと思っているので。手持ちの楽曲は限られているけど、しばらくはこれで楽しむことにするつもり。

対するヨシダサンは、これまた職業柄(会社の経営からは3月で完全に手を引くけれど、講演などの個人事務所はまだ続ける気満々のようでした)、食や酒をはじめとして、いろいろなことをよく知っている。そして、それぞれに一家言持っている。




たとえば、コーヒーの話題が出た時さえも。僕が「コーヒーを豆から挽いて入れる楽しみは、香りとお湯を注いだ時に粉が膨らむ様子を見ることだから、炭酸ガスを抜いた袋詰めの豆はどうもいけない」と言うと、「最近のドリップ式は侮れないですよ。〇〇のドリップコーヒは冷蔵だけれど、よく膨らみますよ」とすかさず返ってくる。彼の音楽の好みはよくわかりませんが、ジャズか、クラシックか。吉田秀和も読んでいたようだけど、理系のオーディオ・マニアだったというから、なんとなくジャズのような気がするけどね。

さて、久しぶりの高級店はどうだったのか(あ、他の2人が上に挙げたような理由で、高級店に慣れているのです)。

店に着くとすでに地下に続く入口のところで和服姿の若い女将(福岡は糸島の出身ということだった)が待っていたし、案内された個室に座ってしばらくしたら、料理長が挨拶に出てきて、深々と頭を下げた。中居さんは、いちいちメニューの説明を細々としてくれる。こうしたサービス精神だけでなく、出てくる料理は、どれも小ぶりで、盛り付けも凝っている。材料も伝統的なものばかりでなく、洋風のものもあるし、生産地にもこだわりがあるようだった。いかにも、新しい店の趣向らしい気がするけど(実際のところは、よく知らない)。こういうサービスを喜ぶ人がいるのかな(いや、いるのだろうね、きっと。お客が入ってのだから)。

でもね、説明は食べた後で、「美味しかった、ところでこれはなんというものですか」と聞かれてからにして欲しいのだよ。お客は、別に情報を集めるためではなく、当然のことながら美味しいものを食べるため、そして会話を楽しむためにに訪れているのだから。

結論を言うなら、僕は、やっぱり高級店とは肌が合わないみたいです(分不相応はいけません、ってことかも。うーむ)。

あんまりよく知らないけど、少ない経験からすると、こうしたニューウェーブの店というのは、気取るばかりで、たいてい味はたいしたことがないね。そんな気がします(負けおしみかも)。ついでに言っとくと、通路は明るくして欲しい(せめて、足元くらいは明るくしておいてもらわないと。おかげで、階段の最後の段のところで、こけそうになった。危なかった)。あれもこれも、なんだか見栄えだけを気にして、肝心のところでは、本当の意味のサービス精神に欠けているような気もするけど……。ま、やっぱり、貧乏人の僻みだろうね。

ああ、もう3月です。


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2023.03.01 夕日通信

久しぶりに東京・その2 日本橋編


銀座での残念な思いを振り切って、次にめざしたのは日本橋高島屋。地下鉄の改札を出ると、濡れることなくそのまま行くことができる(って、いつからのこと?昔から?)。おまけに、本館と新館があった(百貨店受難の時代にあって、どこのデパートも同じようなのは、まだ好況の時に建てられったてことなのかしらん)。


*

ここでの目的の第1は、ローゼンタール。ジャスパー・モリソンの手になるスタジオ・ライン、ムーン・シリーズの深皿を見たかったため(見ないで買う度胸がない、小心者です)。えーっと、食器売り場はどこだろう(今や、リビング用品とかいうのだね)。案内板で確かめた。あ、本館8階ね。エスカレーターでとも思ったけど、そこはもはやジイサンの身としては、すぐにエレベーター利用を選択。各階の探索は、主目的を済ませてからでよい。エレベーターはどこだろう、と思ったらすぐ近くにあった。近づいてみると、昔からのいかにも古めかしい佇まいのエレベーターがまだ健在(昔は、エレベーターガール(!)が案内してくれていましたね)。写真を撮るのを忘れたのは、心が早っていたせい?

へえ、いまも現役かと思いながら待っていると、扉が開いて出てきたのはなんと案内のオジサン。頭も少し薄くなりかけていたかも(少なくとも、…。まあ、いいね。細かい描写は、やめておくことにしましょう)。いやあ、驚いた。しかも、そのオジサンが案内するときの身振りや物言いが、実に柔らかいのでありました(まるで、エレベーターガールみたい)。驚愕的!

立場が人を作るとはよく聞くことだけど、男女や老若の壁も超えるとはね(しかも、軽々と)。ボタンの操作は一般的なエレベーターと同じように乗客が自分でもできるから、やっぱりサービスなのだろうね。念のために付け加えると、見かけは古くても、動いている機械は最新式のようです(どうぞ安心してお乗りください)。何回かその柔らかい物腰、案内ぶりを目にしながら、目的の階についたときは不思議な気分だった。

気合いを入れ直して(⁉︎)、さあローゼンタールの売り場を目指そうと、近くにいた妙齢の女性の店員に聞くと、案内してくれると言う。ついて行った先は、予想に反して案外狭かった。あ、ないかもと半ば諦めた。別の店員に「お客様がローゼンタールのお皿をご覧になりたいそうです」とかなんとか言って、引き継いでくれた。すぐにやってきたこれまた妙齢の女性の店員に、「スタジオラインのムーン・シリーズの深皿を…」と伝えると、「ああ、とっても綺麗ですよ。ディナー皿は奥にあるのですが、深皿はあったかどうか…。見てきますね、こちらでちょっとお待ちください」と椅子を勧めながら、こともなげに言ったのでした(うーむ)。

しばらくすると、ディナー皿を手にして戻ってきた。残念ながら、深皿はやっぱり無いようだったが、ディナー皿は同じジャスパー・モリソンのアレッシーのものに比べると、断然薄くて艶があった。そのことを言うと、深皿の方はカーブがとても綺麗ですよということだけでなく、自分でも使っていると言うのだった。ドイツ製の皿は、一体にカーブがスプーンの動きに沿いやすくできているらしい(モリソンは英国人だけれど、まあ注文はつけたでしょうからね)。

おまけに、照明のせいかもしれないけど、ちょっと有田の深川製磁のものとは色味が違うような気がしたので、そう言うとこれまたすぐ反応した(うーむ。老舗の実力、ベテラン店員のすごさを垣間見た思い。恐るべし)。でも、後から考えてみると彼女が売り場の製品のことだけじゃなく、デザイナーのジャスパー・モリソンのことを知っていてもおかしくはないね。だって、たぶん僕よりは若いはずだから、デザインに幾らかでも興味があったなら、当然その名前は聞き知ったはずなのだから。

一方、他の売り場でも訊きたいことがあって若い男性の店員に聞いてみたのだけど、こちらは全然だめ。まあ物腰はともかくとしても、商品知識が全くないのでした(隣の売り場のベテラン店員が助けてくれた)。年寄り、いやベテランの力を夢々過小評価してはいけませんよ、諸君(くれぐれもお気をつけるのがよろしい)。どこの店にもこういう若い店員もいるかもしれないけど、それにしても老舗、伝統の力は未だに大したものがあるようです。

まだ見ないままだけど、深皿とディナー皿、買おうかな。それにしても、学んだはずのことが長持ちしないのはなぜ?


* 写真は、日本橋高島屋S.C. のHPから借りたものを加工しました。


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2023.02.21 夕日通信

久しぶりに東京・その1 銀座編


こういう時勢にあってなんなんですが、ある本を読んでいて、自分の文章についてちょっと考えました(ま、暇ですから)。自分以外にはほとんど役立たず、社会性(ちょっと大げさ)がないことおびただしい。読んでくれた人が誰も楽しまないようなものになっているのは、なぜなのか(こないだも、書いたかも)。もしかしたら、ディジーのように吹くことをめざしていたマイルスと同じことをしていたのではあるまいか。自分の特性とは異なった行き方をしていたのかもという気がした、というわけなのでありました。

いわゆる雑文(©️丸谷)で、これまでよく読んで、楽しんできたのは丸谷才一、開高健、内田洋子といった面々のもの。最近では、特に丸谷のものを再読することが多かった。いずれも、当たり外れなしに楽しめる。知的であっても俗っぽく、こむづかしいところがない。思わずクスリとさせらるユーモアがあって、知識欲を満たしてくれる上に、最後にはたいてい洒落たオチがつく。この類の文章のうちで、最上のもののような気がする。もとより、こうしたものと張り合う気はさらさらありませんが、でも、このブログは、扱うものと書き方にちょっとズレがあったのかもしれない。これを解消できたら…(と、浅はかにも考えたのでした)。

どうせ日々ぼんやりしながら考えた、いや思いついたことなら、これをもっと実際の生活と関わらせて、もっとストレートに、もっとさっぱりしたふうに書くのが良いのではあるまいか。つい最近手に入れた本を読んでいて、そう思ったのであります。何しろ、読みながら、思わず声を出して笑ってしまうのです(そばに人がいたら、きっと訝しがるだろうね)。

で、ちょっとそのことを気にしながら書いてみようと思う。さて、どうなるものか……。ま、ローマは一日にして成らずというからね(だから、たまたまこれを読んでいる人は、期待しないでください)。

昨日はまた遠出をしてきた。今度は、なんと東京。前回の倍の時間、距離です。銀座から日本橋、そして赤坂見附。雨が降っていたので、合羽橋には行けなかった(途中の電車の中で足がつったので、降っていなくても行けたかどうかは怪しいけど)。それにしても、最近は天気予報が外れることが多い気がするのに、この時ばかりは当たりというのはどういうわけかね。

一番の目的は、前にも書いたことのある毎年恒例の夜の3人での食事会なのだけれど、まずはその前に銀座へ。めったに電車に乗って出かけるということはないのだから、この機会を十分に生かさないわけにはいかない、という覚悟なのだ(貧乏性!)。銀座でなにをするかといえば、天一で天丼を食べて、アップルストア、銀座松屋のデザインギャラリー、伊東屋、そして、ライカ銀座店を巡ろうという魂胆(けっこう、ハード)。

このところの銀座のランチは、もっぱら天丼なのです(どういうわけか、時々食べたくなる)。お寿司もいいけれど、ちょっと高いしね(何しろ年金暮らしの身。貧乏性に、さらに磨きがかかってきた)。蕎麦屋は、1人で長居はむづかしい。その点、天丼は銀座の一人ランチにうってつけな気がする。

で、勝手知ったる、眺めのいい、というか開放的なテーブル席のある天一銀座三越店へ。えーっと何階だったか、新館へはどう行けばいいかなどとよたよたしつつも、ようやく12階のお店にたどり着いた。ほっとして見てみると、7、8脚はありそうな空席待ち用の椅子は全て埋まっていて、立っている人もいた。ああ、もっと早く出なくちゃいけなかった。後悔先立たず。思えば、人生こうしたことの連続だったような気がします。別のところにしようか、どこも混んでいるかも、やっぱり…、と気持ちは右往左往したあげくに、結局予約カードに記入しました(カタカナで)。

と、待てば海路の日和あり。案外早く順番が回ってきたばかりか、案内されたところは縦格子の引き戸で仕切られた個室風の席だったのでした(ラッキー!)。おかげで、ゆっくりと過ごすことができて、小一時間ほどいました(他にも、こういう幸運があればいいのだけどね。もうちょっと大事な場面でお願いできるなら、もっと嬉しいけど)。

その味はといえば、まランチの天丼だからね(なんと言ったって、夜の食事と出費が待ちかまえているので、ここは控えめにしました)。





それでも、1人で占有した開放的な席で、ビールを飲みながら、人の目をはばかることなくゆっくりと食事の時間を過ごすのは、味以上に楽しいものがある。味より、眺めや雰囲気が重要ってことだね。

ビルの屋上の景色はいいとは言えないけれど、この界隈には高いビルがないのも好ましいし、遠くのビルの上の方がが雲に隠れているように見えたのもちょっと幻想的だった。おかげで一時、幸せな気分に浸ることができたのでした。ただね、ビールのすぐ後にお茶が出てきたのはいただけません。






食事を済ませて、エスカレーターでゆっくり降りていくと、珍しく和服を着た人がいたので、1枚。別に、着物の女の人が好きっていうわけじゃありません(言い訳することはないけど、念のため。それに、ストリート写真は、その時の気持ちが大事、と言います)。さらに降りていくと、ずいぶんと人だかりがしているところが。何かと思って近づいてみると、チョコレート屋さん。ふーん、翌14日はバレンタインデーだったのね(と言って、ジイサンの身には何の関係ないけですけど…)。

三越を出て、アップルストアをめざすと、ない。目の前にあるはずのりんごのマークが見当たらないのです。改めてよくみると、当のビルはすっぽりとシートに囲われていて、どうやら改装中のようでした(やれやれ)。仕方がないので、次は松屋を覗いてから、伊東屋へ。ここは本館、新館ともに以前とはずいぶん変わっていて驚いた。それから銀座の締めくくりはライカへと思ったのですが、場所がわからない。いちおう、アイフォンを持って行ったので、ならばと調べてみたけれど、めぼしいものは何も出てこない。何回やっても同じ!それも当然、調べ方がわかっていないのでした(ああ!)。

銀座は、最後まで計画性のなさ、準備不足にたたられたようでありました。皆さんはくれぐれもこういうことがないように。と言っても、まあ誰もそんな目には会わないだろうけどね。

それにしても、街に出かけると、いろいろな場面に遭遇するし、刺激的なのだねえ(日本橋では、もっと衝撃的!)。

イメージ・チェンジはなかなかむづかしいけれど、千里の道も一歩から、と言うし……。


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2023.02.14 夕日通信

久しぶりに横浜、感嘆符の日


先日に少し触れたように、久しぶりに横浜へ出かけてきました。こちらに転勤してきてもうずいぶん経つけれど、昨年の3月で事務所を完全にやめたことを契機に、家のある福岡に帰ることにした友人と会うために。

何ヶ月ぶりかに乗った電車がコロナ前とほとんど変わらないことに驚いたけれど、出かけた甲斐がありました。楽しかったな。なんと言っても、ランチセットで3時間、アルコールなし。ほとんど初めての経験ではあるまいか。

別の同期生から具合が悪いらしいと聞いていたのだけど、連絡がつかなかった。年末まで、手術をしたり、そのために入退院を繰り返していたようでした。最初は痛みに耐えかねて「もう殺してくれ」と頼む毎日だったと言った。今でも痛むようだけれど、その辛さを乗り越えて、おだやかな表情で「人間の体は不思議だねえ、我慢していればやがて体の方が慣れてくれる」と言うのです。10歩(?)から始めて、今ではもう1万歩(!)でも大丈夫らしい。

奥方に合流する形で12年ほど前からピアノを習い始めて、退職してからは絵を描くようになった。そして、最近では小説も書いているよう(やっぱり100枚ほど書いたところから進まなくなって、なかなか終わらない、というのがおかしかった)。




今はショパンをさらっているらしい。「ピアノはいいよ」と、何回か繰り返した。「ま、時間はたっぷりあるから」とこともなげに言う。




ピアノねえ。「僕もピアノを習うことにしようかな」と言うと、「あげようか」と返してきた。本当なら、是非と言うところだけれど、残念ながら、家にはそれを置くスペースがないのです。やっぱりエレキギターを抱える、ロック老年になるしかないのか。でも、ピアノで弾きたい曲が、実はあるのです。ああ、ピアノが置ける家が欲しい!杉本博司の江の浦測候所からの眺めはいいですねえ(うらやましいなあ)。先日の野見山曉治の糸島のアトリエと同様、海を見ながら暮らすことへの欲求をかきたてます(うーむ)。

もう一つ驚かされたのは、彼ではなくて、彼のお姉さんのこと。彼女は60歳を超えて仕事を辞めてから近くの某国立の大学院に入学し、それまでの仕事とは全く関係のない「哲学」(!)で博士号の学位を取ったと言うのです。偉いなあ。こういう人がいるのだねえ。ほんとうにたいしたものだと思います。

僕も時々、どこかの学校に学士入学して(受験勉強はもはや無理)、ちゃんと学びなおすのがいいかと思ったことがあったので(半分は、健康というか、気晴らしのためですが)、余計に衝撃でした。

佇まいも、力みもこだわりもなく、さっぱりとして、枯淡と形容するのに近づいているようだったのは、何度か大病を克服したせいかもしれない。

彼は、高齢の母親が骨折したことに触れて、「自分の老後のことしか考えていなかった」と言ったが、僕は自分の老後のことさえ考えていなかったのだ。

ところで、写真家が晩年になって絵を描くことに熱中するようになった例は他にもいくつか知っていたので、なぜだろうと訊いてみたのですが、「絵は自由だからね」と言い、「例えば君の顔だって、いかようにも描ける」と笑うのでした。これに対して「写真はリアリズムだし」と付け加えたのでしたが、僕はちょっと異論があったのですが、黙っていることにしました。でも、ヴァレリーとドガの話を思い出して、「集中して取り組むことのできる時間の長さも関係しているかも」と言うと、「そうだね」と­頷づいた。

異なることはもちろん多かったけれど、思った以上にいろいろと共通点があったことにびっくりした。教えられることも多かった。でも、それより何よりたのしかったなあ。


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2023.02.08 夕日通信

音楽は素敵ですよねえ

こんにちは。
夕日通信を読みました。

私も実はピアノを再開したくたまらないので、
アトリエ併設の珈琲空間ができたらピアノをおきたいと思っております。
一緒に練習できるひを夢みて、頑張ります。

音楽は素敵ですよねえ、全く……。


2023.02.08 窓際のウェンズデー

窓際のウェンズデーさま

こんにちは。
どうもありがとう。

あまりに久しぶりのことだったので、この欄の作り方をすっかり忘れていました。
苦戦しました(やれやれ)。おまけに、ウェンズデーではなく、サタデーに掲載します。

早く、ピアノが置けるアトリエ併設のカフェができるといいですね。


2022.02.10 夕日通信

えっ、またオリンピックですか?


1月もあっという間に終わって、今日からはもう2月。早いですねえ。毎度のことではありますが、ほんとうに早い。あっという間に時間が飛び去り、ついこのあいだのことと思っていたことが、瞬く間に古くなってしまいます。でも、ちょっと思い出させるようなことがあったので……(あんまり楽しい話ではありません)。

それにしても、正月のテレビというのは、見たくなるものがありませんでした。どのチャンネルでも、バラエティ番組かスポーツ中継か。ま、気分が明るくなって元気が出るようなものを、ということかもしれませんが。僕にとっては、見たいと思うようなものではなかった。

で、ラジオをつけてみると、ロックのライブコンサートのよう。アメリカのグランド・ファンク・レイルロード。あ、なつかしい。これしかないかと思っていたら、すぐに終わってしまった。この1曲だけで、歌謡曲に変わってしまったのでありました。

歌謡曲は聴くような気分じゃないので消そうかと思ったのですが、思い出の70年代のヒット曲をというので、そのままにした(どんなものがあったのか、確認しようというわけです)。聞こえてくる歌の一つひとつは、それぞれ聞いた覚えがあるのがほとんど。「また逢う日まで」や「花嫁」、「雨の御堂筋」等々。平山三紀の「真夏の出来事」はレコードもあったかも。曲については聞き覚えがあったのですが、それにまつわる思い出というものが全くないのです。ほんとうに、当時どんな様子だったか、一切思い出さなかった。さて、これがいいことか、そうでもないのか。それは記憶力のせいなのか。それとも、覚えていたくなかったのか(でも、もしそうだとしたのなら、僕の人生の大半はそうしたもので占められてきたということになって、ちょっと困る)。


*

それでも、トワ・エ・モワの「虹と雪のバラード」が聞こえてきたときには、ちょっと耳がこわばりましたね。また、札幌でオリンピックを誘致しようとしていて、しかもそれが案外有力らしいということを耳にしていたので。僕にとっては、理解不能なのです。これだけスポーツを取り巻く世界が変わり(例えば、ほとんどがプロ化した。さらに、それぞれの種目のほとんどが、世界大会を開催している)、しかも先の東京オリンピックにおいては当初からこれまで次々に不祥事が次々に明らかになっているのに、と思うのです。ナショナリズムの発揚という側面も、なんだか嫌です。そこにまた、「400億円の談合」疑惑が浮上してきた。もはや札幌誘致どころじゃない、と思うのだけどね。

話を元に戻すと、流れてきた歌には、脈絡がなくて、それぞれが自立(?)しているようでした(演出なしで、時系列に準じた)が、当時の歌はおしなべてのんびりしていますね。歌われる言葉も、ごくふつうに聞き取ることができる。いまの歌い方に慣れた人の中には、刺激がないという人がいるかもしれませんが。まあ良くも悪くも、時代性ということでしょうか(ただ、僕個人の時代性とは全く関係ないようなのですが)。

なんだかつまらなくなったので、その後でおせちの残りを大皿に盛ってみた(小皿にすることも考えたのでしたが)。お皿はちょっと和風のモダン(白山陶器製。以前に、葉っぱを盛ったことがありました)。周りを飾る模様が皆同じ。プリントされているのだから当たり前かもしれないけれど、模様の一つ一つは同じでもなくてもいい気がしました。たぶん、元の原画は手書きのはずだろうから、全部を同じように描かないようにしてもよかった。いや、むしろそのほうが趣があるのではあるまいか。

ところで、最近はいろいろなことが欧米と変わらなくなってきましたね。暮らしぶりは言うに及ばず、犯罪までもが。日本人もすっかり洋風化が進んで、精神のありようも欧米人のようになったということか。それが全体としていいことか、あるいはそうではないのかはわかりませんが、一体にいろいろなことが情緒的であるよりもドライになったような気がします。こうした変化が、さてどこまで進むのか。

変化の行方がどうであれ、社会全体が他者に対する思いやりを失わないのならばいい、と願うばかりです。


* 朝日新聞、2023.01.30、朝刊


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2023.02.01 夕日通信

絵を描くこと、または写真を撮ること


ある日曜の夜、テレビをつけたら、車を紹介する番組をやっていたのですが……。とある軽自動車を評して、進行役の評論家2人がそれぞれ「かっこいいですね」と言ったのだ。大袈裟のようだけれど、衝撃でした。それは、軽自動車によくある形で、容積を目一杯とって、派手めのフロントグリルをつけたもの。とても美しいとは言い難いデザインで、僕はCMで見るたびに、言葉を選ばずに言いますが、なんでこんなに品のないデザインになるのかと思っていたのだったのだ。で思わず、はしたなくも口をついて出たのが、年甲斐もなく、「えっ、マジっすか⁉︎」。

でも、そうしたデザインにはそれなりの理由があるのでしょうね。開発する人たちの思い入れにはひとかたならぬものがあるようだし、決していい加減に作っているわけじゃない(ま、商品なのですから)。デザイナーだって、与えられた制約下で一生懸命に取り組み、持てる力を全て出し切ってデザインしただろう。その車毎に、目的や購買層も異なるだろうし、好みだってそれぞれだし、何を重視するかも人によって違うだろう(それにしても……、と思わないでもないのですが)。

自信過剰や独り善がりは禁物。だから、気に入らないデザインを悪し様に言うのではなく、横目でみるくらいに留めておくことにしておいて、自分が使うものについてはせいぜい自分の価値観や感覚を大切にすることにしよう。一方で、売らんがためのデザインに対しては、批判的な目を失わないようにしなければいけない。




ここ数日は10年に一度の「最強寒波」が襲来するということで、24日の朝などはどんよりと曇っていて、いかにも冬ざれた景色でした。ちょっと思うところがあって、このところはカメラを替えて撮っているのですが、さて、違いが現れているのだろうか。といっても、残念ながら欲しいと宣言したライカを手に入れたわけじゃありません。その前に古いカメラを使って、画角の練習をしようというだけのことなのです。




使ったのはいつものLUMIX DMC-F1よりもさらに古くて、もはや13年程も前になろうかというRICOH GXR+S10ですが、このズームレンズはステップ・ズームと言って、何段階かに焦点距離を固定できるというもの(ライカD–LUX7でも同じようにできるらしい)。この機能を使って、焦点距離と画角の関係を学ぼうというわけです*。焦点距離は、24mm、28mm、35mm、50mm、72mmの5段階。液晶が荒っぽいけれど、構図を決めるだけなので大して気にならない(と思ったけれど、やっぱり晴れた日はちょっと辛いものがありました)。いざとなれば、ファインダーも使えるけれど、ファームウェアの更新はカードリーダーが必要になるなど一手間かかる。ただ、それよりもなによりも、GXRは角張ったところのないちょっと昔のカメラっぽいデザインなので、スタイリッシュなライカとは趣が異なるけれど、持ち歩いていても楽しい気がする。ま、いずれにしても僕なんかの腕では、カメラの性能よりも気分なのだ。

アンリ・カルティエ=ブレッソンのDVDを見ていたら、晩年の彼は写真は撮らずに絵を毎日描いていたようだった。そういえば、ソール・ライターも絵を描いていたという。さらには、僕の学生時代からの写真好きの友人も、絵を描くようになったようだ。写真から絵画への転身、これには何か共通する理由があるのだろうか。

このことは以前に書いたことがあるけれど、吉田秀和は自分で写した楽譜を切り貼りしながら、「原稿を書くってのはね、僕にはこういった手仕事の楽しみなんですよ」と言い、続けて、若い頃ドガと知りあったポール・ヴァレリーの話を引用しました。ドガが葉っぱのひとつひとつを細かく描いているのを見たヴァレリーが思わず、「なんて絵描きは辛抱のいる仕事だろう」と言ったのに対し、ドガは「なんておまえはばかだ、こうやって描くことが楽しいのが絵描きなんだ」と返したのだそう。

また吉田は、別のところでも、
 
ポール・ヴァレリーのエセー《ドガ・ダンス・デッサン》に出てくる話だが、ある日マラルメと一緒に夕食をとっていたら、ドガが詩を書く際の苦労を訴えて「何たる職業だろう! たかだか一篇のソネットを書こうと思ってまる一日かけて一歩も進まない。イデーがないわけじゃない。それどころかイデーは掃いてすてるくらいあるんだ。だが書けない」と言ったら、マラルメがいつもの穏やかな口調で「でもね、ドガ、詩はイデーじゃなくて、言葉でつくるものなんだ」と応じたという。

と書いています**。

イデーというのは、「理念」と訳されることが多いようですが、大雑把に今の流行りの言葉で言うなら「コンセプト」というところでしょうか。たぶん、詩も写真も絵も、始まりはイデーであるのかもしれなけれど、やがて一筆一筆ていねいに書(描)き込むことによって、身体化されてだんだんとコンセプトを超えた作品になっていくのではあるまいか。これは、住宅のデザインについても変わるところがないはず(と、思います)。

僕が絵を描くのではなく、写真を撮る方に関心がいくようになったというのは、性格的な事情によるところが大きいようです。彼らと違って、何しろすぐに関心は移ろってその前のことはすっかり忘れてしまうので、たとえばドガのように根気のいる仕事が好きになれず、そのせいでそのような作業を粘り強くていねいに続けることができない(これは数多ある僕の欠点のうちでも、最大のものの一つ)。要するに、すぐに集中できなくなってしまうのです。そういえば、ブレッソンもドガを褒めていました。少しずつ、慣れていくように心がけなければなりません。


* 田中長徳センセイは、デジカメに付属するズームレンズを「『のんべんだらり』と考えなしに使うのは『視神経の堕落』である」と書いています。さらに、著名な写真家たちが好んだ焦点距離についても。これによれば、24ミリはジョゼフ・クーデル(最近知った)、28ミリはウィリアム・クライン、35ミリはハッセルブラッドの使い手のリー・フリードランダーという人らしい、そして50ミリはあのアンリ・カルティエ=ブレッソン、さらに72ミリが木村伊兵衛ということらしいです。
** https://www.webchikuma.jp/articles/-/933


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2023.01.25 夕日通信

もう一度好きになるために・お手本編


今年になってすぐだというのに、風邪をひいてしまった*。幸い、熱は2日ほどで下がったのですが、まだ咳が出たりする。思えば、昨年も風邪をひいたのは今頃だった(緊張感がないせいだろうか)。僕は発熱に強い方だと思っていたのですが、今回はなかなか集中できず、何をやってもうまくいかない(というのは、加齢のせいかも)。で、手帳を作ることにした(といっても、何種類かのスタンプを押すだけですが)。ふだんはよく失敗するのに、今回は一つもミスしなかったのは、ゆっくりやったせいか。

以前にこの欄で、「シャワーで済ませる人は幸福度が小さい」といった女性評論家に毒づいたことがありますが、年をとると体を冷やすのがいけないらしいです。川本三郎は、そのためにお酒もぬる燗に変えたし、ビールも炭酸がきつくなったと書いています。冬の間は浴槽に入ることにしようかしらん。

ともあれ、お酒もこのところずっと飲んでいないし、何にもしないでも後ろめたさがない(なにしろ、おとなしくしていることが仕事みたいなもの)。勢い、早く寝ることになる。そのこと自体はいいのです。ただ、早寝をしても、早起きができないのが癖になっては困ります。

さて、ここからが、今回の本題。前回の続き、本年度の決意表明なので、ちょっと短いです。というのか、いいお手本があったから、そのことを。

今年は、新しいことだけでなく、苦手なことにも挑戦してみる。というか、そうしないわけにはいかないことがあるのです。その筆頭は、掃除や片付けですね。これを毎日やって、習慣化する。そして、簡素ながらも美しい暮らし方の基本(習慣)を定めることを目指す。まずは、ここから始めたい。


**

風邪をひいていると何に対しても集中することができないので、ある夜にテレビをつけたら、たまたま坂本龍一を特集したドキュメンタリーをやっていた。彼は、闘病中でずっと入退院を繰り返した***。それでもかつてバンド用に作った曲をソロピアノ用に編曲したりするなど創作を続けてきて、さらに現在はオーケストラ用の曲を構想していると言う。偉いなあ。そして、自身の『技量でできるかどうか……』、とも。それに、ちょっと驚いたのだけれど、かつての、若い時の自信にあふれたもの言いとは違って、ずいぶん穏やかで謙虚な話し方だった…。こういう歳の取り方をしたのだなあ(まあ、途中から見たので、部分的な印象にすぎませんが)。


**

また別の昼には、テレビ欄を見てみるとちょっと面白そうなものがあったので、つけてみることにしました。もともと、高級割烹で働いていた若い料理人が、石川県の山奥に移住。築150年の古民家を自ら改修して、新たに開業を目指す!という番組。見始めたら、感心することばかり。

高級料亭で働く内に、「お金持ち相手の仕事はしたくない」と思うにいたり、移住、自身の店を持つことを決意したという。

移住した先は、住民がわずか17人という集落。住まいとお店となるべき建物は廃屋寸前の民家(大家さんがタダで貸してくれた)。これが大変な代物で、床はもちろん、剥がしてみたら基礎はボロボロの状態。当然業者に頼んで修理するお金はないので、これを自力で改修することにした。友人たちの手を借りるだけでなく、SNSで呼びかけておいしい食事付きの改修イベントとして進めた。その奮闘ぶりは、1年ほどかけてプレオープンの日を前に、進捗状況を大家さんに聞かれて、「半分、大工モードです」と答えるほど。

空いた時間には、キッチンカーで販売することと合わせて、車体にはをQRコードをプリントして、収入の確保もSNS戦略も怠らない。

そのおかげで、プレオープンした3日間は全て埋まった。そして、その後には集落の人々を招待してコンサートを開催。料理を提供するだけでなく、コミュニケーションの場にするという目論見も着々と実現しそうということで、感心しきりの25分でした。

この他にも、偉い人というのはたくさんいるようです。彼らは不可能なようにさえ見える困難さを前にしてもしのごの言わずに、まずやるのだね。それが、「自分の面倒を自分で見ることができる」ということにも連なるような気がしたのでした。


* 定期検診に出かけた時に、ワクチンの話をしたら、今日できるというのでその場で予約して、急いで接種券を取りに戻ることにした。で、問診票を書いていたら、この1ヶ月に発熱したことがあるかという問いがあったのだ。すぐに電話したら、抗原検査キットがあるのでまず検査してからというので、出かけてきた。その結果はめでたく陰性でした。
** 写真はいずれもNHKのHPから借りたものを加工しました。
*** 元YMOの高橋幸宏は亡くなってしまった。僕はYMOは聴かなかったけれど、高橋が何かで話しているのを見て、なかなかかっこいいなあと思ったことがありました。


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2023.01.18 夕日通信

物欲が再燃・その2


明けてしまいましたねえ。新年。

おめでとうございます。

正月早々で、気が引けるのですが……。

ああ。また、ライカが猛烈に気になり始めたのです……。

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを見ていたら、終わりに、ゲスト出演していたウィーン・フィルのヴァイオリン奏者のヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルクという人が新年の抱負を尋ねられて、東京で開催中の写真展のことを話題にした。彼は音楽家としてだけでなく、写真家としても活躍しているらしい(こういう人たちが、実際にいるのだ。うらやましくなりますね)。その彼の愛用機が、ライカのフィルム用カメラ(ま、当然か。小さいのが欲しかった、と言うのですが……)。で、俄然欲しくなったのだ。

手に入れたらどうなるのか。きっと、新しいカメラで撮っても、写真はいまの古くて小さなルミックスと変わらない。たいていの素人の撮る写真はほとんど構図、技術よりも感覚によるところが大きいのではあるまいか、と思う。とくに、ほとんどをオート、カメラ任せで撮るばかりだし、しかもプリントはせいぜい葉書大という僕なんかにとっては、カメラの差はほぼなさそうです(まあ、自然なボケ味とか、歪まない水平線なんかはカメラの性能に左右されるかもしれませんが)。

あ、念のために付け加えると(もうわかっていると思うけれど)、僕が言うライカは、和樹さんのようなプロが使うような本格的なものでも、まして超高級品でもあるわけがなく、パナソニックがOEMで作っているものですよ。と書くと、あなたは(もしかしたら、ちょっとイラっとして)、こんなふうに訊きたくなるかもしれません。

「じゃあ、パナソニックのものとどう違うんです?」
「違わない」
「えっ?」
「中身は元になったルミックスと同じ」
「全く?」
「そう。特にチューニングもしていないらしい」
「値段も変わらない?」
「いや、それは2倍弱ほど違う」
「えっ⁉︎ 欲しい機種の値段は?」
「約10万と約18万」
「中身が同じなのに?」
「うん」
「値段が違いすぎます」
「……」
「やっぱり、パナソニックでいいじゃないですか」
「そうもいかない」
「値段が違いすぎるでしょ!」
「たしかに」
「どうして?だいたい、500円くらいのグラスで悩むのに?」
「はい」
「文庫の中古本でもなんでも、安くなるまで待つのに?」
「そうね」
「瓶も捨てないでとっておくのに?」
「うん」
「どうして?やっぱり、訳がわかりませんけど……」
「でも、デザインが違う」
「えっ⁉︎」


*

**

「ほら、よく見てごらんよ」
「うーん。まさか、赤いバッジじゃないでしょ?」
「それもいいけどね。余計なものがない」
「へぇ」
「なんでもいいから、欲しいんだよ」
「機能的には同じでも?」
「もちろん」
「値段がうんと違っても?」
「うん」
「はあ?もしかして、やっぱり、ブランド好きだったんですか?」
「いや。表現のし方が違う、でしょ」
「そうですか?」
「そう。持っていると嬉しい気がしそう」
「自己満足、ってことですか?」
「そうかも」
「豚に真珠かも……」
「ああ」
「猫に小判?」
「まあね」
「いや、馬の耳に念仏、ですね」
「たしかに」
「それとも、宝の持ち腐れか?」
「うーむ」

誰かに話すと、こんな感じになるかもしれません。変だと思う人がいるかもしれないけれど、手に取るもの、近くで見ることができるものには、「官能的」であることが大事なような気がするのです。だから、これからは、できるだけそうしたものをそばに置きながら過ごしたいと願うのです(いつのまにか、ルーキーの時代を過ぎて、もはや中堅の老人になったようなのだから)。あ、蛇足ですが、もちろんデザインの話ですよ。

ちょっと、真剣に考えてみてもいいかも。AV機器の一部の入れ替えを延期して(それでも、きっと楽しめなくはないだろう。少しくらい画面が暗くても、ピントが甘くても、昔のフィルムらしいと思えばいい、なんなら目のせいにしてもいい……、かも)、ライカを手に入れることを真剣に考えることにしようかな(元になったルミックスのものは、すでに製造中止になったそうだから……)。

2022年の年も終盤に差し掛かった頃、今年も何もなすこともなく終わってしまいそうだ、と思っていたら、案の定そうなってしまいました(ああ!)。それなのに……。今年は卯年。逃げ足は早そうです。心してかからなければなりませn。


* 写真はヨドバシカメラのHPから借りたものを加工しました。
**写真は価格コムのHPから借りたものを加工しました。


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2023.01.04 夕日通信

小さな差異に頼る


このところ、困っていることがある。どうにもならないようなのだ。上半身が縮こまっている。寒くなって、余計にひどくなるばかり。散歩の時などは、肩が上がって、背中が丸くなってしまうのだ。で、よけいに年取って見えるし、疲れる。

そのことに気づいて以来、気をつけるようにしているのですが、すぐに元に戻ってしまいます(先日も、このことを指摘された)。以前に書いたことがあるのですが、姿勢のいい人は凛とした雰囲気をまとって、生活そのものも意志の強さに貫かれているのではないかと思って、憧れるのです(ただ、何事にも例外があることを知ってしまいましたが)。

たとえば指揮者は、幾つになっても姿勢のいい人が多いようです。それにたいてい若く見える。頭と体を使い、人前に立つことが多いせいだろうか(もはや、いずれも縁がありませんが、せめて散歩したり、頭を使うことくらいはしなければいけません)。ただし、指揮台を降りてインタビューを受けているときは、年相応にやや年取って見えた(先日見た、74歳の井上道義の場合ですが。それでもやっぱり若々しいね)。

ところで、皆さんは料理をしたり食べたりするときに、道具や食器に気を使う方ですか。フライパンで作ろうが卵焼き器で作ろうが大した違いはない、どんな皿に盛っても(場合によっては、コンビニのトレイのままでも)、食べれば一緒、大して変わらないじゃないかという人がいると思います。というか、その方が多いかもしれません。たしかに、そのとおりですね。小さな差を気にしないならば、それですむ。弘法筆を選ばずとも言います。でも、僕はそのごく小さな差に頼りたいのです。これを意味がないということにしてしまえば、自分自身の存在理由も危うくなりそうなのです。

「…と思うんだけどね」
「似たようなことを、誰それが言っているよ」
「そう。じゃ、僕が言っても言っても意味がないということかね」
「そうね」
 ということになれば、僕はもう何も言う必要がなくなる。

ほとんどのことについて、誰かが僕より的確に表現するだろう。だから、僕とは違う人々が僕より上手に表現するから、自分で表現することを無意味だと認めるならば、もはや書くことも喋ることも作ることも意味がなくなって、最終的には僕は居なくてもいいということになる。だから、今のところは発言したり、書き続けたりする方がいい、と言い聞かせているのですが……。

さて、以前に書いたデュラレックスについては、どの大きさにしようかと調べていたら、突然爆発するという記事を見てちょっと怖くなった(強化ガラスというのが危ないらしい)。で、購入は延期。ちょっと小さいけれど、手持ちのコスタボダを使うことにしよう。と、思ったのですが、どうせならもう少し大振りのものが良いと検索してみたのですが、結局見つからず。昔のものの方がシンプルで、いいようでした(こうしたことはコスタボダに限らないようですが、なぜこういうことになるのでしょうね)。


*

そこでさらに、雑誌やインターネット上で色々探してたどりついたのが、Bormioli Rocco 、イタリアのメーカーの手になる260cc。雑誌で見たものはこれとは別の円柱形のものだったが、いずれも安価だし、美しいと思う(おまけに、ルナの底には気泡が入っているのだ!しかも、昔使ったことのある形だということに気づいた*)。

このところは、ふだん使いのグラスはぽってりとした大ぶりのものが好ましい気がしているのですが(回顧趣味?)、なかなか見つからず、一時はあきらめかけたのですが、探せば見つかるものですね。というか、これを見つけた人、目利きがいたということですが。なんの分野であれ、こうした人たちがいてくれるのが助かるし、嬉しい。と書くと、「あなたらしさは?」とか「人の意見に従うのはちょっと」などと心配する人がいるかもしれません。個性の発揮というのは、その中から選び取る時に発揮すればよろしい。一番大事なのは言うまでもなく、評論家たちなどではなく、ほかでもないあなた自身の感覚なのですから。

一昨日、エネオスの童話賞の入選作を集めた「童話の花束」が送られてきたので、最初の一つをざっと読んでみたのですが、正直なところ「ふーむ」という感じでした(ま、こういうこともあります)。


* 記憶の中のものはもう少しぽっちゃりとしていた気がするのだけれど(今のものは、よりモダンに、ほっそりなった?それとも記憶違い?)。そのことに加えて、もう少し底が厚くて気泡が大きいとさらに好ましい。


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2022.12.28 夕日通信

おそるべし、銅製玉子焼き鍋


いつの間にか、めっきり寒くなりましたね。でも街に出ないので様子がわからず、たまに外に出かけようというときに何を着ていいものかさっぱりわからない。とくに、朝昼晩の温度差がひどいので、困ることおびただしい。もはや、ほかのことはいざ知らず、世間の情勢に疎いことにかけては山奥に潜む仙人並のようです(やれやれ)。

それはともかく、日々やるべきことには事欠きません(実際には、これがなかなかできないで、ついぼんやりとしているうちに時間が経ってしまうのです)。


*

それでも、暖かくなった日曜日の昼は、これまで使っていた雪平鍋を磨き、ぐらついていた取っ手の穴の位置も変えて締め直した(新しい木柄が見つからないのです。鍋のサイズを頼りに以前に注文した時は、結局合わなかった)。いざ写真を撮ろうとしたら、けっこう磨き残しがあるのに気づきました(やれやれ、こういうことが多いのです)。

その後でもう一度磨き直しましたが、日頃の無精がたたったせいで、焦げは取りきれず、なかなか新品同様のピカピカというわけにはいきませんが、新しい雪平鍋を買うならこのくらいはしないと申し訳が立たない気がします。鍋を磨くのはまったく苦にならないのですが、爪の間が黒くなってしまうのと手がガサガサになるのが難点(ビニールの手袋をしても役に立ちません)。

そのあと、届いたばかりの銅製卵焼き器(製造元の中村銅器製作所では「玉子焼き鍋」と呼ぶ)の油慣らしをしました。送り状とともに入っていた説明書には、

食器用洗剤をつけたスポンジで洗って、水でよく流し完全に乾かします。その後、鍋5分目を目安に油を入れて火にかけ、キッチンペーパー等で鍋内面周りを軽くこすりながら弱火で45分煮てください

と、あるだけ。えっと思って念のためにインターネットを見てみるとやっぱり同じように思った人がいたようで、慣らしの過程をうんと念入りに行った人が見つかったので、これを読んで僕も説明書の手順を数回繰り返すことにしました。正確に言うなら、火にかけたまま周りをこするのはこぼれて危険だったので、火を止めてからにした。冷めるまでの待ち時間はありますが、それでもたいした時間はかからない。鉄製のものとのあまりにも違いに、ちょっと驚きました。油は、卵焼きを作るときのものと同じものがいいだろうと、太白胡麻油を使った(この辺りはちょっと、杓子定規でしょうか)。

インターネットは、なかなかどうして侮れませんね。今の生活に不可欠と言っていいほどの存在で、時代の寵児だけのことはある。昔は、『インターネットはからっぽの洞窟』という本があって、なるほどと思ったりしたのでしたが、ずいぶん様変わりしたようです(その分、受け取り方にはよりいっそう注意する必要がありそうです)。

で翌日、さっそく卵焼きを作ってみたのです。銅製卵焼き鍋、おそるべし。ほぼ1回の油慣らしで、これほどまでにくっつかないとは。まずは試しに卵1個で作ったので、卵液は2回しか分けることができないのですが、滑るように巻き上がり、見た目もふっくらと仕上がった。味は、いうまでもありません。ひとり美食倶楽部のメニューに『鮭と卵焼きのお弁当』を加えてもいいかも。

ひとつひとつはどうってことはないのですが、こうしたことをていねいに続けることこそが、日々の生活を喜ばしいものに変えるのかもしれない。他にも磨くべきものがあり、その中には必ずしも磨ききれないものもあるのですが……。


* それでも磨き残しがあった(とほほ)。後日差し替えることにして、このまま掲載します。


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2022.12.21 夕日通信

久しぶりにラブコメ


先日のランチは、何年かぶりに明太子スパゲティ。この頃は控えていたのですが(コレステロール値が高いのです)、帰省した折に懐かしくて買ってきた。和風スパゲッティの元祖(渋谷『壁の穴』の発明)みたいなものですね。作り方は色々あるでしょうけど、なんと言っても簡単、手軽。たらことバターと青じそまたは小ねぎ(好みでパルメザンチーズも)をあえて、刻み海苔を乗せるだけで完成。だから失敗なしで、しかもまあ美味しい(ただ、今回のものはちょっと塩辛かった)。

その後、音楽DVDで「素顔のままで」を歌うビリー・ジョエルを見ていたら、シルヴェスター・スタローンに似ているような気がした。次に「アンジー」を歌うミック・ジャガーは「時計じかけのオレンジ」のマルコム・マクダウェルに、そしてウィングスのポールとリンダ・マッカートニーのふたりもちょっと似ている。最後に出てきて『SHE』を歌ったエルビス・コステロは誰にも似ていなかったし、頭頂部はすっかり薄くなって、まったくさえないオジサンのようだったが、よく見ているうちに案外本家のシャルル・アズナブールに似ているところがあるような気もしてきた。

だからといって、どうだというわけではありません。ただの感想ですから。でも、顔が似ていると、他の部分でも似るのだろうか。声は似てきますね。これは顔の骨格が似ているのだから、当然と言えば当然か。性格はどうだろう。ビリー・ジョエルとシルヴェスター・スタローンには正反対のような気がする。ミック・ジャガーとマルコム・マクダウェルは見た目よりも似ているところがあるのかも。もちろんそんなイメージがあるというだけのことです。




で、『ノッティングヒルの恋人』を観てみようかという気になった。もちろん、コステロの『SHE』を聴いたせい。映画もこのところずっと観ていなかったし、今観るならむづかしいことを気にしないで楽しめるものがいい。大ヒットした映画だけれど、ちょっとうるさい本格派の映画好きには受けなさそうですが、僕は今ではごく稀に観たくなることがあります。いかにも作り物めいた、大甘のラブコメですが、後味は悪くない。

脚本は、のちに『ラブ・アクチュアリー』、『パイレーツ・ロック』、『アバウト・タイム』を監督したリチャード・カーティス。いずれも時々観ることがあります。ただ、それまでに脚本を担当した「Mr.ビーン」や「フォー・ウェディング」、「ブリジッド・ジョーンズの日記」は、世間の評判はいいようですが、ちょっと苦手。

ラブコメは、全体的にはキュートでなくてはいけない。そのためには、

① 明るいこと。深刻な思想や批評性は不要。
② ちょっと切ない気分になる場面があること。いくら明るいのがいいと言っても、初めから終わりまで能天気というのも困る。時々、ハラハラ、ドキドキ、しんみり、そしてほろ苦さがないといけません。
③ ハッピーエンドであること。そうじゃないと、ラブコメとは言えない。不幸な結末ならわざわざ映画で観るまでもない。

と思うのであります。だから、これを満たしていないと、不満が残る。先にあげた苦手の映画は、僕にはちょっと諷刺性が過剰なのかもしれません。

今度は、ヒュー・グラントではなくエルビス・コステロと、ジュリア・ロバーツではなくジーナ・マッキー(こちらの方が、断然贔屓なのです*)を主人公にしたような大甘のロマンスものに挑戦してみようかな(あ、小説のようなもののことです)。でも、書きかけのものも進めなければ……。中途半端な癖は自戒しなければいけません。


* で、その翌日は何を観ようかと、『ひかりのまち』か、それともいっそ『モース警部』か『ルイス警部』がいいかと迷ったのですが、ワールドカップ開催中でもあることだしと思って『リトル・ストライカー』を観ることにしました(こちらもまあ甘いのですが)。


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2022.12.14 夕日通信

新しい欄を公開しました


遠出から戻ったら、応募していた絵本大賞の結果が届いていました。

実のところまあ悪くないと思っていたし、淡い期待もあったのですが、あえなく落選。かすりもしませんでした。力及ばず。ま、世の中には才人が多数いるということですね。残念。

事前に何人かの人に見てもらったところでの感想は、悪いものではなかった。でも、きっと遠慮したんですね。

ま、仕方がない。そこで急遽新しい欄『Fantasy』を設置して、臨時に何回かに分けて掲載しようと思います*。

今回はぜひ、忌憚のない、忖度なしのご意見を待つことにしたいと思います。育てると思って、ご意見をお寄せください。いいところがあるのか、何が不足しているのかを理解して、書き続けることにしたいと思います。どうぞお助けを、よろしくお願いします。三度目の正直というのもあるし、七転び八起きということもある。今しばらく、取り組んでみようと思うのです。


* 今まで使ってなかった『Photo Gallery』を新しい欄として使用しますが、文字の大きさや挿絵の大きさと位置など、少し変えてみたところもあるものの、基本的にはこれまで通りのHP仕様です(いろいろとやり方を忘れてしまったのです。やれやれ)。


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2022.12.11 夕日通信

美食倶楽部


まずは訂正から。先日の文の中で「木村硝子製の『うすはり』」と書きましたが、思い違い。松徳硝子が正しい。面目ありません(当該箇所の文は修正しました)。

グルメ紀行のDVDを見ていたら、バスク地方の美食倶楽部が出てきた。場所は、近年美食の町としてつとに有名なサン・セバスチャン。スペインとフランスにまたがり、北側は大西洋ビスケー湾に接するバスク地方の都市(ゲーリーのグッゲンハイム美術館で有名なビルバオも近い)。ここには100年以上も前から美食倶楽部というものがあって、元々は家庭に居場所がない男たちが集まっていたらしい(今は、女性も出入りが許されているようだ。以前にも、別の番組で見たことがあったのを思い出しました)。


*

ここには本格的なキッチンがあって、会員たちが腕をふるって、皆で食事を楽しみながら、会員同士のつながりを深めてきた。会員の中にはプロのシェフもいて、長年通って料理をしているシェフの一人は、「ここでは、いつも完璧な料理じゃなくていい。気の合った仲間と食べるのがいいんだ」と言う。確かに。お店で出す料理ではそうはいかない。常に安定したおいしい味が求められるから、気が抜けないだろう。それが、美食倶楽部ではリラックスして、仲間のために料理するの楽しむことができるのだ。いいですね、美食倶楽部(まずは、ひとり美食倶楽部を始めてみようかな)。

さて、ひとり美食倶楽部の初ランチは何にしよう。本当ならば、スペイン料理にしたいところだけれど、パエリアはこないだ食べたばかりだし、卵料理もそう。仕方がない。ならばと、パスタを(パスタは、色々と味を変えられるし、何より手軽だ)。で、今まで作ったことがないジャガイモを使ったパスタを。菜の花と合わせたものが有名のようだけれど、あいにく今は晩秋、いやもはや初冬か。菜の花は来春まで待つことにして、ブロッコリで代用することにした。思ったより美味しかった。次は、ジャガイモのパエリア(というのもあるらしい。具材はなんでもいいのだ)にも挑戦してみることにしよう。

パエリアといえば、世界一のパエリア名人と紹介された女性シェフが作るのは、具材はエスカルゴとウサギの肉の2つだけが入ったもの。火はブドウの木を使う。そうすることで、火が鍋の中に回り込んで、燻すのとも違う独特の香ばしさを付け加えるらしい。やってみたいけれど、エスカルゴも、ウサギの肉も、ブドウの木も無理。エスカルゴはアサリで、ウサギの肉は鶏肉で代用するとして、ぶどうの木の火はどうしよう。うちには2口のガスコンロしかないのだ。

でも、明日はパエリアだ。休みの日ではないけれど、まあ天気は悪くなさそうだし、気にしない。いや、スパニッシュオムレツにするか。いっそ、タパス料理でバルを気取るのもいいかも。そのうちに、ランチメニューなんかもデザインすると楽しいかもしれない。

ひとり美食倶楽部は案外楽しめそうだけれど、その前に舞台装置(主にキッチン)を整えなければいけません(やれやれ)。


* 写真は、「地球の歩き方」のHPから借りたものを加工しました。


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2022.12.07 夕日通信

散歩の途中で ある朝の収穫


朝起きて、まずやることはラジオをつけること。それから窓を開ける。ただ、日曜日はテレビにします。日曜の朝のラジオは現代音楽の日なので、ちょっと苦手。おまけにテレビの方は、ニュースの後に、各地の季節それぞれの自然のありようを伝える『さわやか自然百景』がある。

でも、昨日の日曜は驚きました。7時を回ったばかりだったからニュースの時間のはずですが、目に入ったのはサッカーの情報。昨日中継していたのをちょっと覗いた民放だったかと思って、リモコンを操作したけれど変わらない。いくら日本が難敵のドイツに勝ったからといって、(ほぼ)冒頭からサッカーなのか、しかもずっと……。と思って新聞を見たら、今度は1面に日曜版の特集記事の紹介、「たかが髪、されど髪」とあった(やれやれ)。




そのあとの散歩では、落ち葉を数枚。いつものようにカメラを持って歩いていたら、真っ赤な綺麗な落ち葉が目についた。いいなあと思いながら歩を進めたのですが、思い直して引き返した。そこで拾ったのが、先のツヤのある小さな赤い葉っぱ。他にないかと思って探したけれど、なかなかうまくいきません。色が綺麗で、形がいいものは、簡単には見つかりませんね。

となると、断然気になり始めた。花より落ち葉。写真よりも拾い物。それで、ずっと下を見ながら歩きました。時々人とすれ違ったけれど、不審者に見えなかったらいいのですが。これはというものは見つからなかったのですが、ふと、傷や染みも味のうちと思い直して、何枚かを折らないようにしながら持ち帰ってきた。




それから、こないだ拾ってきたドングリを加えてみた。はじめてどんぐりが落ちていることに気づいて拾ってきたのは去年の秋だったから、もう1年が経ったことになる。早いねえ。ちょっとまいります。

その散歩の時には、アイフォンを持っていくのを忘れた。まあ、困りはしないのですが、ちょっと残念。果たしてどのくらい歩いたものか、わからないのだ(このところのアイフォンは、ほとんど歩数計なのです)。

葉っぱやどんぐりを皿に並べて写真を撮っていたら、白磁の長皿が欲しくなった(うーむ)。


追伸:2枚目の写真を撮ったあと、皿を動かした時に崩れた配置が案外よかった。さて、これは並べ方がイマイチだったか(ちょっと整然としすぎている?少し回転させるとまた違って見えるかも)、それともどうやっても美しいということなのか。この配置のしかたで、しばらく楽しめるかもしれません。事情があって、早めに掲載しました。


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2022.11.28 夕日通信

YEBISUのロゴ入りビアグラス


片付けるのは、むづかしい(ぼくにとって、ということです)。計画的に1箇所ずつきちんと仕上げていくということができないし(計画を立てるのは好きなのにね)、長い時間続けることが容易じゃないのです。それでも、極めてのろいスピードですが、ごくわずかずつ、変わりつつあるような気がする(希望的観測。片付け名人たちによれば、3日で家中を綺麗にするとか、4日で全て完了とかありますが、つい実際のところはどうしているのだろうと思ってしまいます)。先日は、しばらく食器棚に取り組んでいましたが、これを整理していると、使っていないものがたくさんあることに驚くのです。楽しいものもあるし、その存在をすっかり忘れてしまっていたものもある。




食器棚の下2段分と3段目の一部はいちおう入れ替えを済ませた。飾るためか使うためかの目的や、置くものの素材や用途でまとめようとしたけれど、それらの量や大きさとスペースとの関係で一部は混在することになった。ガラスの扉のついた上の段は未だ手つかずのまま。こちらもふだんよく使うものとそれ以外のものをうまく分けて収容したいのですが、同じ問題が起こりそう。こちらも少しずつです。

おまけに、ガラスの扉のヒンジの部分の不具合が目立ってきた。できるだけ早いうちに、修理を依頼しなければならない。まずは、頼めるところを探さなければ*(このこともあって、こちらは手つかずのまま)。

それでも、ほんの少しだけとはいえ、片付けが進むと嬉しいし、気兼ねすることなく堂々と飲んでいいのだという気にもなる。で、今回は何、どういう器で飲むかということについてです。




食器棚の中には、同じような用途のものが何種類もあることにも気づいた。たとえば、ビールグラスは、底に入った気泡が素敵なコスタ・ボダや飲み口が極薄の松徳硝子製の『うすはり』等々大小取り混ぜて何種類もあるのだけれど、いつも使うのはYEBISUのロゴが入ったグラス、景品でついてきたものです。あとは佐々木ガラス製の脚のついたもの、それからごくたまに、水を飲む時用のデュラレックス製も。

これってどういういうことなのか。もしかしたら読んでくれているかもしれない、皆さんはこんなことはないのだろうか。居酒屋風でちょっとパブを思い出させせる感じがするからいいのかしら。今度は、昼ビールの時は東洋佐々木ガラス製の背が低くて、大ぶりのコップを使ってみようと思っています。元はビール用ではないと思うけれど、ちょうど缶ビール1本分が入るし、たっぷりとしているので、ランチ時には良さそうな気がする。ワインの時はどうしよう。

こうしたことは、ウィスキー用のグラスの場合も同じ。まあ年を重ねたから、それなりにショットグラスからオンザロック用まで、何種類かずつ揃っている。一時はバカラ製のものをよく使っていた(さらに、卒業生が退職祝いに送ってくれたものが加わった。たしかに、持ち重りがして、美しいのだ)。それがいまでは、先のデュラレックス製ばかりを使う(もう一回り、大きいといいのですが。だいたい、ウィスキーを飲むことが減ったことに加え、昔はシングルモルトにこだわっていたけれど、今はたとえばウィスキーを飲み始めたころのカティサークやデュワーズのようなごくふつうのブレンデッドのものでいい)。皿の場合も同じで、洋風料理の場合は、ほとんどがジャスパー・モリソンデザインのちょっと厚手のアレッシィ製。ほかにももっと薄くて、きれいなものや楽しいものも少しはあるのに、です。

なぜこういうことになるのか。同じものばかり使うというのは、めんどくさがりやということなのか。それとも、……。

ものは、使ってこそ価値がある。僕はこれまでずっとミーハーというのか、つまるところ表層を撫でていただけという気がしてくる(やれやれ)。これからは、もう少し中身を知らなければいけません。CDは聴いてこそ、DVDは観てこその価値なのだから。

さて、いくらかでも取り戻すことが、できるだろうか。間に合えばいいのだけれど、と願うのです。

写真を撮った日のランチは、久しぶりにトルコ名物のサバサンド(ビールに合わせなくてはいけません)。バゲットに焼いたサバ(今日は手軽な塩鯖)とレタスと玉ねぎをはさんで、レモンをかけただけのシンプルなものです。僕は鯖が好きなので、時々作ります。特に、天気のいい日などは、とくにいいです(イスタンブールの海沿いで食べているような気分になるかも)。


* 製作してくれたところは、ずいぶん前になくなってしまいました。


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2022.11.23 夕日通信

小春日和の日のランチ


朝食を済ませた後に雨が降っていなかったら、散歩に出かけます(花ばさみを忘れずに持って)。はじめは道端の花を摘むことを目的にしていたのですが、知らない道を歩いてみようとしたり、毎日遠くの海を眺めることにしたりしていたら、だんだん距離が伸びてきた。

行く先々で、こんな家が建っていたのかとか、いろいろな木や花を見つけることができて面白い。こないだはずっと気になっていた道を初めて通ってみたら、行き止まりになっていましたが(クルドサック⁉︎)、その代わりに落ち葉を拾うことができた(ま、暇ですからね)。でも、何十年も住んでいるのに、すぐ近くのことさえほとんど知らなかったことに今更ながら気づいて、ちょっと感慨深いものがありました。

で、お腹も減るわけですが、勤めていた時は急いで食べなくてはいけなかったので、お昼はたいてい温かいうどんかそばだった。無職となってからはパスタ、というかスパゲッティが多くなった(ショートパスタは、なぜか機会がありません)。時々、ピッツァも食べます(こちらは自分で作るというわけにはいかないから、冷凍のものを。まあまあのマルゲリータを見つけたので、これにバジルを足して焼く)。

なぜかと言えば、すっかり昼酒に慣れたしまったせい。温かいうどんでは飲めません(ま、飲もうと思えばできなくはないでしょうが)。ランチのために、時々つくるカルボナーラ。今まではベーコンとパルミジャーノ・レッジャーノを使っていたけれど、いつものようにグルメ紀行のDVDを見ていたら、本場ローマでは、ベーコンではなくグアンチャーレ、チーズはペコリーノ・ロマーノだった(そういえばそうだったことを思い出したのだけれど、たいてい見たらすぐに忘れてしまうのです。ただ、初めは第二次世界大戦の終了後ローマに滞在したアメリカ兵が配給のベーコンとチーズを使ってつくったと言います)。

グアンチャーレはなかなか手に入らないけれど、ペコリーノ・ロマーノは近所のスーパーの中の輸入食品を扱うお店で手に入るようだし、量も手ごろなので、まずはこれを使って作ってみることにして、さっそく行ってみた。

ところが、残念ながら見つからなかった。その代わりに、同じ棚に生ベーコンがあった(これって、パンチェッタ?)。後から思えば、買ってくればよかった(僕はこういうことが多いのだ。やれやれ。やっぱり年のせいだろうか?人と会って話をする機会もないものね)。でもこうなったからには、次はグアンチャーレを用意したい。簡単には手に入らなそうだからどうしようと思っていたところ、自分で作ることができるらしい。でも豚の頬肉を手に入れるのはむづかしいので、バラ肉でパンチェッタを作ることをめざすのがよさそう(脂分が少なくなるようです。ベーコンと違って燻製しなくていいから簡単)。挑戦してみることにしよう。


*

で、仕方がないので、しばらくはふだん通り、一般的な塊のベーコンとパルミジャーノ・レッジャーノで作るしかない。でも、ちょっとがっかりしたので、今回はミニトマトのペペロンチーノにしてみたけれど、案外よかった(ソースと和えた後に、香りの良いオリーブオイルをかけるのが効く)。色合いも、小春日和のランチのぴったりです。今度は、バターとレモンのソースも試してみようかな。パッとつくれて、これも白ワインに合いそうです。

ただ、昼酒は週末くらいに留めなければいけない(緩かったジーンズが、ちょうどよくなってしまった)。正統ローマ風カルボナーラも、手に入りやすい材料で作るものとの差がどれほどのものか、しばらく先の週末を待たなければなりません**。そして、年金生活者といえども、平日と休日の区別をつけることを考える方が良さそうです(でも、例の『居酒屋シリーズ』を見る限りでは、ヨーロッパの年金生活者たちはたいてい昼酒で盛り上がっているようなのですが)。


* 盛り付けはイマイチ、もうちょっと綺麗に盛り付けられたらいいのですが、盛り付けにこだわることはできません。写真は一回だけ、何回も試すわけにはいきません。なんといったって、熱々のうちに食べなくてはいけないのだから(イタリアの小さなレストランでも、フライパンからお皿に直に移していて、こだわっていないところもあるようでした)。少量ならば、大きいフォークで巻き取って盛り付けるようですが、こちらは道具もないし、なんといっても主食なのでそうもいきません。でも、今度はセルクルを使ってみるというのはどうだろう。
** これにしろ、このブログにしろ、独りよがりの危険がありますが、残念ながら確認のしようがありません(せいぜい気をつけるようにしなければ)。


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2022.11.16 夕日通信

僕が映画と紀行番組が好きな理由


いつの間にか日没も早くなって、いよいよ秋本番(というか、もう立冬も過ぎて、暦の上では冬)。長い夜をどう楽しむのか。読書か、音楽か、それとも映画か。片付けはむづかしいので、もっぱらDVDを観ることが増えた(本は、ベッドの中で)。その中でも、映画と紀行番組を選ぶことが多い。それにごくたまにミュージックビデオを。

なぜ映画が、そして紀行番組が好きなのか。自分でも不思議な気がするくらい。で、ちょっと考えてみた(ま、他の人にとってはどうでもいいことでしょうけれど)。

一番好きな映画のベスト3は、いつものごとく『冒険者たち』、『男と女』、『アメリカの夜』で変わりません。でも、観返したくなって観て、やっぱりいいなあと思う映画は、また別(なぜか、ベスト3はあんまり観返すことがなくなった)。例えば、最近観たのは、『はじまりのうた』(監督は『ONCEダブリンの街角で』のジョン・カーニー。キーラ・ナイトレイは『ラブ・アクチュアリー』の時とは見違えるよう)、『踊れトスカーナ』、『八月の鯨』、『バベットの晩餐会』のほか、『ボトルドリーム』、『プロヴァンスの贈り物』(ワイン映画は、なんといっても、土と木と葉と空)など。そして、『ストリート・オブ・ファイヤー』も、つい先日観た。監督はウォーター・ヒル。いわゆるB級映画と呼ばれてもおかしくないかもしれませんが、僕はけっこう好きで、『ストリートファイター』、『ウォリアーズ』、『ザ・ドライバー』、『ロング・ライダーズ』等のDVDを持っている。続けて、『唇からナイフ』も(モニカ・ヴィッティの別の側面。いかにも60年代という趣だった)。




今また観たいなあと思っているのは、『マーサの幸せレシピ』、『リストランテの夜』、『ソウルキッチン』等のレストラン映画*をはじめとして、『リトルロマンス』(ラジオでヴィヴァルディの曲を聴いて思い出した)、『明日に向かって撃て』、『ハリーとトント』、『ラブ・アクチュアリー』(もうすぐクリスマス!)、そして『ワイルド・ギース』(ちょっと切ないアクション映画)等々、たくさんある。DVDの整理していると、さらに増える(先の『ストリート・オブ・ファイヤー』と『唇からナイフ』もその一つだった)。少しだけあげると、『イル・ポスティーノ』、『ニュー・シネマ・パラダイス』、『セント・オブ・ウーマン』、『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーズ』、『脱走山脈』、『キンキーブーツ』、『ショコラ』、『ビフォア3部作』等々。でも、持っていると思っていたのが見つからないのもあるようだったのが残念。早くプロジェクターをなんとかしたい!(そのためには、もう少し片付けてからと思っていたのだけれど……)。

ともあれ、こうしてみると、自分の好み、というか性格が改めてよくわかったような気がします(うーむ)。だいたい10年以上も前のものばかりで、新しい映画のことはよくわからないので、アマゾンプライム頼みです。この間は『ブルゴーニュで会いましょう』(もちろん、ワイン映画)と『幸せは、ここにある**』等を見ました。

映画と紀行番組を見ることについては、共通点がある事に気がついた。僕にとっては、この二つはどちらも擬似体験するものなのだ。ということは、裏を返せば現実にはできないということに他ならない。つまり、実際に体験できないことを映画や紀行番組で補っているのだ。ちょっと寂しいね。しかし、ないものはないのだ。仕方がない。なんであれ、不在を埋めるための代替作用としてやっているようなのだ。

先日も昼時に紀行(というかグルメ紀行)番組のDVDを見ていたら、もう一つのことに気づいた。世界の各地の酒飲みの実態が知れる番組なのですが、同時に人々のやさしさ、コミュニティ(あんまり好まなかった言葉ですが)としてのつながりを感じさせられるのです。例えば、不況の時のことを振り返って、居酒屋の主人が言ったこと。
「彼らをリストラするつもりはなかった」
「老後のために蓄えたお金は失ったけど、彼らを守れたことで心は満たされた」
 あるいは、
「経営者と従業員ではなく、家族のようでありたい」

また別の都市の居酒屋のオーナーは、
「居酒屋は文化だ」
「家にいては出会えない人たちが集う場所さ」
「そこで共有する時が実り豊かなものなのさ」
 と言う。

「ぬるいビールが掟」と言うのは、コッツウォルズのパブの酔客たちだった。「冷やしたビールを飲むのは、アメリカ人くらいのもんだ」とも。僕が経験した限りでは、イギリス人もたいてい冷たい(少なくともぬるくはない)ビールを飲んでいたはずという気がするだけれど(やれやれ。記憶ももはや曖昧)。まあ、テレビ番組や個人の経験というのはこうしたものだと思っていた方がいいのでしょうね。一方、別の番組で、日本のバーの主人は「ウィスキーは奥が深いし、魅力的ですし、人生をかけて追い求めていきたい酒」だと言うのを聞いた(これはこれで、学ぶことがあるし、他の国にもたくさんいると思うけれどけれど、今の心境としては欧米の先の居酒屋の主人たちのように、使命感もありながらも楽しもうという気分を忘れない方が好ましく思えます)。

毎回、昼酒は たいてい出てくるし、朝からビールという光景もさほど珍しくないので、ちょっと飲みたくなるのが難点。何日か楽しみました。居酒屋の主人に限らず、他の紀行番組を含めて登場する人々は、口を揃えて、自身の住む地域や村の良さを自慢し、住人同士のつながりを誇るのだ。

ともかくも、自分の人生が代替物に頼らざるを得ないということならば困るし、ちょっと寂しい。

ところで寂しいことばかりでは気分が滅入る一方なので、最近のいいことを一つ。ようやく、1年ほども待った後に、不具合のあった車を整備工場に送り出すことができた。しかも珍しいことに、中四日ほどで戻ってきた(信じられないほどの速さ!)。ラジオが聴けるようになったのは嬉しい(ラジオなしの運転は、ちょっと寂しい)。陥没していたシートも蘇って、正しい姿勢で運転できるようになった。その他の不調もほぼ解決した。嬉しい。あとは、塗膜が剥がれかけている木製のパネル類が問題(毎度のことだけれど、ちょっと負担が厳しいけれど)。


* 以前やっていた映画とインテリアについてのブログ(トップページ写真下のアイコンの一番右)でもいくつか取り上げています。『マーサの……』のほか、『ソウルキッチン』も『厨房で逢いましょう』もドイツ映画。ドイツは実は食の国なのか。『マーサの……』で使われていた音楽の多くを録音したレーベルECMもドイツ。
** 主演は『恋人たちの予感』のビリー・クリスタル(これまでは、ちょっと苦手だった)。


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2022.11.09 夕日通信

フードパントリーって何?


片付けは遅々として進みませんが、それでも配置換えする際に別のところに仮置きしたり、しまったりしたものが見つからないことが頻発。ついこないだはCDにプリントするためのトレイを壊さないようにと思って、ひとまず避難させたのですが、それが見つからない(その前は、小さな置き時計も)。これでは、以前と何も変わらない。探し物をしないで済むために、ものを減らそうとしているのに。探し物ばかりの人生は、ちょっと困ります(やれやれ)。

ところで少し前のニュースで、「フードパントリー」の試みの広がりを伝えていた。トラック協会やら何やらの団体も協力するという。でも、何をするのか分かります?食料庫のことなのか。そんなわけはないけれど、関係がないわけじゃない。食事を満足に取れないひとり親世帯や一人暮らしの高齢者世帯等生活に苦しむ人々に対して食料を援助しようというもののようでした。以前よく聞いた「フードバンク」はどうなったと思ったら、こちらは世帯や個人ではなく、施設を対象としたものらしいのですが。まあ、言われたら、なんとなくわかった気にならなくもないけれど……。




それにしても、何回も書いているけれど、なぜ「食糧支援庫」とか「みんなの食品配給室」とか(もう少し、ましな言い方でなくちゃ使えないのはわかっていますが、ここではひとまず措くことにします)、なぜわかりやすい日本語で言わないのか(英語でなくちゃ伝えられないわけじゃあるまいに)。経済で国力のことを言うのも結構だけれど、その前に言葉を大事にしないでどうすると思うのです。そういう意味では、政治家の物言いもひどいね。

いただきます、と言ったからといって何か食べようというわけじゃない。大臣が、急遽「指示をさせていただきました」というのはいったい何だという気がする。考える力も言葉によるところが大きいはず。軍事費を増やすよりも、国語の防衛に力を入れる方が、何倍も有効だと思うのですがね。

先日、老・中・若年の3世代の男女がランチの席に集まった時にも、国語についての話が出た。考え方は当然のことですが、それぞれ。ごくごく大雑把に言うと、「国語こそ国の要(権力者は、たいてい使用する言語を支配しようとする)」(と言うのは僕)、「ひとつの国に、複数の民族、複数の言語が存在している」、「言葉は変化するもの」と、論点もちょっと違った。

そして、そのあとでアマゾンプライムで観たスウェーデン映画の中で、退職した初老の男性が、何かと英語を挟んで喋りたがる若者に毒づく場面があった。ああ、どこの国でも変わらないのだなあと思ったけれど、果たして喜んでいいことなのか。それが国語を大事にしなければということだったのか、それとも年寄りの居直り、老害なのか。どうでしょうね。それにしても、知らないうちに随分ズレが生じてしまったものだという気がする(ま、当たり前といえば当たり前のような気がするし、しようがありませんね)。もはや、流行とは無縁でけっこうと思っているけれど。それでも、英語というかカタカナ語を挟みたがる癖に限らず、肩書きに「創作あーちすと」とあるのを見たりした時などは胸が悪くなるのだ。「わたし的には」というのも嫌だ(なぜ、わたしにとっては、とか、わたしはではいけないのか。なんだかいよいよ、年寄りの妄言のようになってきた)。

それで、若くして亡くなった職場の先輩(享年46歳)のことをふいに思い出した。彼は今の状況をどう思うだろうか。彼には、ずいぶん良くしてもらったのだ。これは別のところ*でも書いたけれど、就職したてというか、正確には正式に勤め始めるその直前の3月に開催された親睦会に出かけたら、その後でいきなり妙高高原のスキー場へ連れて行かれたり、いつの間にか週に2回、場合によっては3回、学生の部活動に付き合った後でテニスをすることになったり。そして、毎回しっかり飲んだ。時々、新宿まで遠征することさえあったのだ……**。まあ、驚いたけれど、ほんとうに楽しかったな。そして、途中でしばらくは口を聞かないような時もあった。それでも、彼が入院して亡くなってしまうまで、今でもなぜかはよくわからないが、本当に良くしてもらったのだ。僕には実際にはいないけれど、少し年の離れた兄のような存在だった(おっと、思い出話になってしまった)。

彼は国文学の研究者だったから、言葉には敏感だったはずだけれど、どう言うのだろうか。もちろん研究対象こそ平安時代のものでも、彼は現代に生きて現代語を話していたのだから、言葉が変わるものだということについては肯定するに決まっているのだけれど。

* この時の職場の同窓会誌の最終号。
** こんな生活をしないで、毎日真面目に勉強していたらどうだったろう、という思うことがありましたが、でも、後で奥さん(お世話になりました)に聞いたところでは、彼はどんなに夜遅く帰ってきても必ず勉強していたというのだ(ほんとうに立派な人は、たいていこうしたものでしょうね)。


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2022.11.02 夕日通信

なんでもお金。でも……




応募しようとしていた小説の締め切りを確認しようとしたら、すでに過ぎていた(ああ!来月だとばかり思っていたのに)。ちょうど1年ほど前に書いていたものを、提出前にようやく推敲に取り掛かろうと思っていたところだった。間抜けなことおびただしい(やれやれ)。毎日が日曜日の生活というのは、なんにせよ、こうしたものかも。ボケ防止のための仕事が見つかったということで、よしとすることにしよう。まずはこれをゆっくり手直ししながら、書きかけのものを再開するのもいいし、新しいものに取り組むのでもいい。とにかくはじめなければ(片付いてからなどと言っていたら、永遠に再開できない。なんと言っても、光陰矢の如し!)。

変なことは相変わらずですが、家の外でも気になることには事欠きません。


*

このところ何かと話題の、宗教団体の解散命令を視野に入れた調査の手続きに入るようです。でも、これに至る状況を考えるとやっぱり変という気がしてしまうのです。これが話題になる前と現在との違いは、さほどないのではあるまいか。霊感商法や多額の献金の集め方等々、以前から問題視されていた。それが、元総理の事件があって以降、急に大きく取り上げられるようになった。ということは、権力の側にある政治家は自分たちに害が及ばない限り、気にしないということか。今時の言い方をするなら、マジ恐ろしい気がしてくる、というところでしょうか(合ってる?)。これまで居直り続けていた大臣がここにきてやっと辞任して、総理も説明責任を認めたということだけれど、あんまり反省したふうでもありませんね(こうなることは容易に想像できたはずなのに、本当に愚かだったと思います)。もし解散命令まで行くなら、そうした団体と繋がったり、支援を受けていた他の議員の人たちも辞めざるを得ないというのが筋だと思いますが、きっとそうはなりませんね(蜥蜴のしっぽ切り)。

一方、政府は、マイナンバーカードの普及を急いでいるらしい。ただ、思惑通りに進まないようで、いろいろと手を変え品を変えて、促進を加速しようとしていますね(健康保険証と一体化については、当初は河野デジタル担当大臣のスタンドプレーと目されていたとの見方もあるようですが……)。先日のニュースによると、全国で最も普及率の低い群馬県では、手続きをした人にはいくらかのお金を付与し、さらに抽選で特産品が当たるようにしたらしい。

なんでもお金さえばら撒けば解決できる、とでも思っているかのようです。旅行の補助もそう。まあ、経済を潤おそうとする試みのはずですが、ちょっと人を甘く見ているのではあるまいか。しかも、目先の対応ばかりが目立つ。それよりも、根本的な解決をしてくれないと。たとえば、物価高はどうなるのか。円安はどうか(また介入したようですが、対処療法で効果は今回も一時的のよう)。電気代は、幾らかの補助をするというのだけれど、少し前までガス代は触れられなかった。これらの元々の原因は何かということについては、あんまり考えていないのではないか。以前にあったいくつかの給付金の一律配布の時は、対象範囲の線引きがむづかしいということだったようですが、随分あっさりと決められた。でも、このことは、政権のみならず、野党の提案も大して変わるところがないようです。

その前には、NHKが受信料を引き下げるというニュースがあったけれど、その財源は訪問勧誘をやめるということだった。まあいい面もあるけれど、一方では弱いものを切り捨てて本体の身を守るという、日本風のやり方のように見えるし、うまくないのではあるまいか。

とはいうものの、この風潮は必ずしも日本だけに限ったことではなく、大国の他国に対するやり方も同様(特に、従わせようとするときは、お金と軍事力に物を言わせようとするようです)。

なんだかなあと思うことばかりですが、政治に関心があるというわけでもなく、よく知っているわけでもないのに、このところはこうしたことに目がいく、というかここに書くというのは、僕自身の側が変化、というか変になっているということなのだろうか。一人だけで考えていると独りよがりになりそうで怖いのですが、それでも書くことによっていくらかは回避できるのではないか、という気もするのです。

そして、考えているうちに、でも自分だって似たようなことをしているのかもしれない、という思いがよぎって、恐ろしくなってきたのでした(自戒しなければなりません)。


* 写真は、2022年10月26日朝日新聞朝刊第一面。


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2022.10.26 夕日通信

不思議が解消!


先日も書いたばかりだけれど、なかなか秋晴れが続きませんね。で、思い出した。イギリス人はだいたい天気の話から始めると言うことを聞いていたので、ある時に試みたことがありました。

「……。そうそう、『日本には女心と秋の空』という言い方があります」
 と言うと、すかさず、
「お、いいねえ。確かにそうだよな」
 カレッジの宗教関係の重鎮は、我が意を得たりと言わんばかりに即答したのでした。それで、安心して、
「もしよければ、〇〇チャーチの見学のお口添えをお願いできませんでしょうか」
 とお願いしたのでした。にこやかに応じてくれるかと思いきや、そしたら、
「俺にそんなことをしろって言うのか」
 と、すごい剣幕で怒りだしたのです。僕は何がなんだかよくわからないまま、「結構です」と早々に退散した次第でした。変わりやすいのは、日本の秋の空と、女心ばかりではないということを知ったのでした。これもやっぱり、階級社会の故だったのだろうか。

さて、ずっと不思議に思っていることがありましたが、でも、先日そのうちの一つがようやく解決したのです。

僕は食べたり飲んだりするのはもちろん、日常的に料理をするのですが、ずっとどうしているのだろう思っていたことがあった。飲食に関わる疑問のうちのトップ3。

1 お茶やコーヒーのお茶碗やカップにはすぐに茶渋がつくし、しかも簡単には取れないのに、お店ではどうしているのか。
2 お寿司屋さんやカウンター割烹で目にする包丁。どうやったら、あんなにもピカピカで美しくできるのか。
3 イタリアンレストランのアルミのフライパンが、焦げひとつないように見えるのはなぜなのか。


*

このうちの一つが、先日ようやく解決したのであります。それは一番目にあげた、カップにつく茶渋問題。当然ながら、レストランやカフェでは目にすることがない(もしそうしたことがあったなら、すぐに帰ってしまいそうですね)。僕は、これを取るために、漂白剤に浸けていたのだけれど、なんとなく環境にも悪そうだし、面倒なので、つい多少の茶渋は仕方がないと我慢して使っていた(やれやれ)。ところが、これはわかってしまうと、なんでもないことでした。それはどういうことかというと、しっかり洗うということ。たぶん、今までは洗う力が足りなかったのだ。このことは、歯医者さんに行った時に気づいた。歯磨きの仕方をチェックしてくれた歯科衛生士の人が、もっと力を入れて磨いても大丈夫ですよと言ったのでした。それでわかったのですが、目から鱗、わかってしまえばごくごく当たり前のことでした。

②や③も同じかもしれないし、たぶん、正しいやり方があるはずと思うのだけれど、やってみるとなかなかうまくいきません。包丁を研ぐのは好きで、時々研ぐのですが、切れ味はたいてい戻るものの、長い時間研いでもあの輝きは手に入らないのです。しかも、どうしてもうまく研げない時もあるのです。フライパンや鍋の焦げや染みも同様で、レストランのフライパンや割烹のそれをめざして、洗っても擦ってもなかなか取れません(特に、外側が難敵)。アルミの場合、お酢やらクエン酸やらも試したけれど、ダメ(クレンザーで削り取るしかないのか)。お店では、いったいどうしているのだろうか。

ついでに、もう一つ、四つ目の疑問。僕は基本的にコーヒーを飲まなくなったのですが、それでもたまに豆を挽くことがあります。その後が問題で、豆を入れる方も、挽いた粉を受ける方もなかなか掃除がむづかしいのです(取り外せなかったり、外せても手が入らなかったり。これは家庭用のミルの構造上の問題ではあるまいか)。このミルの掃除はどうしているのかね。

ま、いつまでたっても不思議なことやわからないことはたくさんあって、尽きることがないのですが……。


* 愛用中のマグカップは、青山辺りで280円くらいで買ったもの。安かったのは、取っ手の付け根のところに釉薬のムラがあるせい、ということにずいぶん後になって気づいた。漂白してからけっこう経ちますが、茶渋は見当たりません。


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2022.10.19 夕日通信

耳が悪いのか?


このところ、気温の方はぐっと下がってきて、ずいぶん秋らしくなってきましたが、なんだかすっきりとした秋晴れが少ない気がします。このまま冬になってしまうと、ちょっと寂しい。

最近は、昔はまったく受けつけなかったオペラや歌曲等の声楽曲を聴くようになりました。ようやく、人の声の美しさの魅力に気づいたのだね。

ラジオをつけっぱなしにしていると、合唱コンクールの模様が放送される時がありますが、これがどうにも気になってしようがない。僕の耳では、ほとんど同じように聞こえます。

僕は合唱のことは(というか、音楽のことも)ほとんど知らないのですが、高い音を出そうとしているのか、それとも全員の声を揃えようとしているのか。見当もつきませんが、なんであれ、芯がなく、重みもない、薄い音に聞こえてしまうのだ。おまけに、日本語なのに意味もわかりづらい。耳が悪いということなのか。本来、音楽と言葉は切り離せないというから、きちんと歌われたものなら、たぶん意味もわかるはずだと思うのだけれど。どうもすっきりしません。

それから、CDを整理していた時に、多すぎて聴くことがあるかどうか心配になった話は書いたけれど、せっかくあるのだからもう一度とにかく聴こうと思って、ポップス、クラシック、ジャズのジャンルにかかわらず聴いてみようとしたのです。

で、たまたま手にしたのが60年代のポップス。懐かしく聴きました。ただ、懐かしい気持ちはするものの、具体的な思い出や場面とは結びつかない。いつ聞いたものやらどこで聞いたのかさっぱりわからないのです。でも、きっとこうした音楽を聴いたり、楽しんだりしたことがあるはずなのに。

このような音楽を作り出した才能を羨むのです。そして、ただの日常のささやかな記憶の幸せを持つ人々のことも。




それからしばらくして、グレン・グールドを特集した番組を見ていたら、最晩年(と言ってもまだ50歳になる前)の「ゴールトベルク変奏曲」を演奏する映像が出てきた。遅い事で有名な遺作となったレコード(CD)よりも遅い気がした(彼が初めて出したレコードで弾いた同曲では、けっこう早いのです)。それで、やはり死の直前に自宅のスタジオで録音したというフリードリヒ・グルダの弾いたシューベルトの「「4つの即興曲」を思い出した。こちらもグールド同様に、うんとゆっくりしたテンポで弾き始めます。ややもすると情緒的になりやすい気がするのだけれど、彼らの場合は感傷的というよりは、慈しむように弾くことで音楽と一体になろうとしているように思える。

音楽を演奏するということは、作品と向き合うことのほかに、自分自身との対話、あるいは自分自身を見つめるという側面があるのだろうと思う。それが、わずかな音の違いとなり、積み重なって現れるのかもしれない。演奏がたんに技術上のことにとどまらず、経験や思索と結びつけて語られるのもそうしたゆえかもしれない(これは、演奏者のみならず、聴く側においても同様なのかもしれません。あ、かもが多いのは、いつにもましてよくわかっていないせいです)。

それで、ふと思いついたのは、先にあげた合唱コンクールの歌がつまらなく聴こえるのは、ひとつには、歌う側と歌との関係が抜き取られているせいではないかということでした。さて、どうでしょうね。違っていたら、合唱コンクールに参加した皆さん、ごめんなさい。その時は、やっぱり僕の耳が悪いということですね(アタマの方もか?)。


* 写真は放映時のものが手に入らないので、「最晩年のグールド ゴールドベルク変奏曲」で画像検索したときの写真を加工しました。たぶん同じものとみられる動画がいくつかあるようでした。


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2022.10.12 夕日通信

乱れる気持ち


今、若い人で知っている人はどのくらいいるのだろう。元プロレスラー、アントニオ猪木は、僕の学生時代を通じて、たぶんずっと絶頂期。プロレスブームの最中で、ちょうど、ベストセラーとなった村松友視の『私、プロレスの味方です 金曜午後八時の論理』*もその頃のはず。彼とジャイアント馬場が2大スターだったけれど、僕は断然猪木派でした。彼が亡くなったことを知らせたNHKのニュースでは、結構長い時間を使って、彼の足跡を紹介していました(翌日の新聞でも、同様)。とかく毀誉褒貶が多かった人のようでしたが、以前、闘病中の彼を特集した番組をたまたま見たときもそう思ったのと同じく、前向きで、周りを明るくする本当に得難い人柄だったのだなあと、今一度思い直した次第でした。彼は、政治にも関心があって国会議員もしていたし、北朝鮮との関係修復に尽力しているようだった。その時は正直なところあんまりいい印象は持っていなかったのだけれど、このところの政治状況を見るにつけ、まだ志と行動力がある分マシだったような気がしてきます。

同じニュースの時間の中で、災害で一部不通になっていたJR只見線が全面開通したことを伝えるニュースも。こちらは、めでたい。ただ、不通となっていた区間は大幅な赤字路線だったらしい。これを、「覚悟を持って再開した」というのだけれど、他の同じような区間ではなぜできないのだろう。一方で、反対意見がある中で西九州新幹線やらリニア新幹線やらには、莫大な投資をすることは厭わない。こうした無駄な投資をやめたら、当該区間での儲けは望めなくても、赤字路線が廃止になって苦しまなければならない人々を助けることができるのではあるまいか。一部の限られた人たちの大きな利益よりも、もう少し薄くてもいいからもっと多くの人々の利益につながる施策ができないものか。

それにしても、これからの世の中はどうなっていくのだろう。プーチンの戦争や温暖化、エネルギーや食料の危機、国内では物価高騰、特定団体と政治の癒着、国家を挙げたスポーツイベント、東京オリンピック・パラリンピックに関わる収賄の横行(それにしても、まあ次々に出てくる)、等々。これらに対して小手先だけ、口先だけ(のように見えてしまう)日本の政権の無策ぶり。暗澹たる気持ちになるばかりだけれど、果たして、いくらかでもマシな未来はあるのだろうか。

ここしばらくは、CDの整理、並べ替えをしていました。本当ならば、もっと他にやるべきことがあるような気がするのだけれど……(ま、いつものことかも)。一応、クラシック、ジャズ、ポップスのジャンルごとアルファベット順に並べ替えるのは終えた(たぶん)。結構な数があって、これだけでもなかなか大変でした。おまけに足元が狭くて(片付いていないってことですが)、作業もしにくい。あとは曲目順(ま、これは少しずつ、おいおいと)。でも、気がつけば、それよりもDVDの方が多いのだ。相当数を処分したのだけれど、それでもまだたくさんある。今度はこれを整理しなければならない。しかもこちらは、市販のものだけじゃなくて、録画したものもたくさんあるのだ。映画やドラマ、音楽、ドキュメンタリ、紀行、芸術等々のジャンルも多岐にわたっている。いったいどのくらいかかることやら。

それで、改めて気づいた。もう何回か書いたことだけれど、僕は耳より眼、断然視覚的人間なのだ。そして、もう一つ、複雑なことをすぐには理解できないのだ(大量の物を片付けなくてはいけない時などは呆然とするばかりで、どうしたらいいかわからない)。そして、飽きっぽいというのもありそうだ。片付ける時はもちろんのこと、何をしていても一つのことに集中することができないで、すぐに他のことに目がいってしまう。やっぱり、怠け者というべきか。




写真は録画DVDの一部。量が多く、あちらこちらに分散していて、なかなかすっきりというわけにはいきません。でもこうしてみると、持つことは嬉しいけれど、それだけでは価値じゃないことを改めて思う。大量の本を手放した時は寂しい思いをしたけれど、結局読んでこその価値なのだ。ごく一部を除いて、読まないものはほとんど場所ふさぎになるだけ。CDDVD類も変わるところはない。並べ替えている途中で、これを聴いたり観たりする機会はどのくらいあるのだろうと思った。もしかしたら、これも処分、というかふさわしい人に譲るのがいいのではないかという気がしてきたのだ。

一方で、図書館や音楽ホールの所有は無理だとしても、ごく小さな映画館を所有するということは、特別な高画質や音響の効果を望まないなら、可能ではないかと思ってしまうし、魅力的な気がするのは、未練がましいというべきなのか、それとも長年の性というものだろうか。


* 情報センター出版局1980


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2022.10.05 夕日通信

時々世界旅行 バルセロナ編


*

昨日は国葬。「ていねいな説明」によって理解を深めるはずが、各種の世論調査でも反対が増えるばかりの中での実施。心がひんやりとします。先の英国女王の時とは大いに異なるようです。

ひんやりするといえば、すっかり秋めいてきましたね。外に出ると、朝などはちょっと寒いくらい。それにしても、ついこないだまでの暑さが嘘のよう。後になってみると、あまりにも時間の過ぎるスピードが早いことに驚きます(これって、もしかしたら僕だけ?)。と思っていたら、また暑さがぶり返しました。まあ、このところの天候はなかなか一筋縄ではいきません。




先日の昼下がり、久しぶりに世界旅行に出かけたときのこと。行先はスペイン、バルセロナ。ちょっと懐かしい。見所はたくさんありますよ。ご存知サグラダ・ファミリアのアントニ・ガウディ(正直なところ、僕はあんまり得意じゃないけれど)や彼のライバルと言われたリュイス・ドメニク・イ・モンタネール(カタールーニャ音楽堂は素敵でした)をはじめとするスペイン版アール・ヌーヴォーのモデルニスモの建築やリチャード・マイヤーの正統モダン建築からサンティアゴ・カラトラバやジャン・ヌーヴェルによる超モダンな建築まで楽しめます。そうそう、復元されたミースのバルセロナ・パビリオンも忘れるわけにはいきません。いちいちあげていたらきりがありません。




でも、僕が一番好きなのは、有名建築ではありません。いずれもバルセロナに特有なものというわけではないのですが、市場(世界一美しい市場とも言われるサン・ジョゼップ市場がある)と街のあちこちで見かけるテント席なのです。大通りはもちろんのこと、こんなところにと思うようなところにもテント席があるし、何十という規模のものもあれば、一つだけというものまであるし、テントの形状を含めて実に多様です(そして、街によって少しずつ趣が異なっているような気がします)。席は外、というか街の中にはみ出しているわけですが、完全に屋外空間というわけではない。テントで覆われているので、周辺の屋外とは緩やかにわけられている(あるいはひらかれている)。この緩やかな感じがいいのです。だから、テント席を見るとつい座りたくなってしまいます。座って街と行き交う人々を見るともなく眺めていると、色々なものが目に入ってきます。

で、とある昼下がりのこと。商店のシャッターを下ろしている男性がいます。ちょっと声をかけてみると……。
「もう閉店?」
「いや、5時になったらまた開けるよ」
「お昼休みってこと?」
「そう、2時から5時までね」
「結構長いのね」
「食事の時間だからね。仕事は最小限なのさ」
「へえ、最小限ね……」**

ちょっと、不思議な感じがしますが、案外ヨーロッパでは多いのかも。「人生を楽しまなくっちゃ」ということをよく聞きます。「仕事は人生を楽しむためにする」ということも。少なくとも、「人生の楽しみ」と「仕事」は必ずしも一致しないことがあるってことですね。僕がささやかなイギリス生活で経験したことは、勤務時間の終了時になるとすぐ帰ってしまったり、勤務時間内でも、与えられた役割と異なることは断るということを、一度ならず目にしました。

「楽しむ」ことは、「仕事」に対して無責任というわけじゃない。いわゆる「オン」と「オフ」の区別を明確にしようということなのでしょうね。当たり前といえば極めて当たり前のことですが、案外われわれ日本人は不得意の人が多いのではないか(長い間、「仕事をしてこそ……」という価値観がずっと続いていたのではないかという気がするのですが、どうでしょうね。

「仕事は最小限」はともかくとしても、自分自身の時間をきちんと認識することが大事のような気がします。たぶん、仕事を言い訳にして、私生活をおざなりにするということも少なからずありそうです。(信じないかもしれないけれど)一時の僕にもあったのではないかしらん……。いずれにせよこれは、どちらも中途半端になりやすいのかもしれません(反省)。


* 2006年5月に、オックスフォードで撮ったものがあった。こんなに無防備?というくらいでした。
** 「世界ふれあい街歩き バルセロナ編」の中でのやり取りはこんな感じでした。


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2022.09.28 夕日通信

続々・最近の不思議を1ダース+1


日中はともかく、朝夕は涼しくなった。今朝などは半袖では寒いくらい。今回は、もはや古くなってしまったものもあるけれど……、暑かった日を懐かしんでください。。

01 アメリカの連邦最高裁判所が、これまでの判断を覆し、世界の趨勢に逆行して、人の健康や権利よりもある宗教的な信条を優先したこと。今の時代にあって……、と思ってしまうけれど、今でも宗教が自分の人生において「非常に重要だ」と回答する成人の割合が40%ほどで最も多くを占めている国*だから、宗教が政治や司法の場においても、良くも悪くも影響することがあるのでしょうね。ただ宗教上のことに限らず、別の価値観を持つ人々を封じ込めてしまうと、衝突するばかりで共存はむづかしくなって、多様性は失われるのではあるまいか。

02 宗教といえば、宗教団体と所属議員の関係についての自民党の説明はどういうことだろう。幹事長は何回も調査ではなく、点検だと言い、首相の方は調査という言葉を使っていた。ま、結果が中途半端なのは同じですが。それにしても、その癒着ぶりに驚きます。また、元首相の関与については、故人のことについては確認できないという説明には呆れました。




03 元首相の国葬が閣議決定され、実施されそうなこと。アンケート調査では半数を超える人が反対し、少なからぬ人が元総理は負の遺産をたくさん残したと思っているのにも関わらず、不慮の死を遂げた元総理を特別視して祭り上げようとする行為はとても正気の沙汰とは思えない。早々と決定し、動かしようがなくなった後で説明するってどういうことなのか?説明も在任期間が最長であることや海外からの弔意に応える等4項目は到底納得できるようなものでなく、その後もさしたる議論も進まないままずるずると時間だけが過ぎて結局実施されそうです。党利党略、党内の政治的な思惑の結果のように見える。新しい首相になっても、揺り戻し効果も何もありませんでした。でも、若者に賛成が多いってどういうことだろう。

04 今も円安が止まらない。日銀は、世界の動向とは逆に、相変わらず金融緩和策を続けると言い、日本政府はただ傍観しているだけのようだ**。経済のことはさっぱりだけれど、物価は上がるし、年金生活者にとっては多大な痛手なのだ(それにしても、恩恵を受けるのは、輸出産業や外貨建ての資産を持っている人等、すなわちごく一部に違いない、と思うのですが)。これって、もしかしたら国が抱える借金の利息を減らしたいせい?(いくらなんでも、ねえ)。

05 コロナの感染は相変わらず落ち着かず、減少傾向にあるものの、集団感染の発生等社会活動への影響は続いたままだ。もう第8波への言及やインフルエンザとの同時流行の可能性も聞かれるようになった。一方、政府は注意を喚起すると言いつつも、これまでと異なる具体的な方法の提示や特に手を打つことはせず、緩和策は継続されるのですが。経済を優先しているようだけれど、新しい推進策を定めたと思ったら、延期したり。なんだか、その場凌ぎの対応を繰り返すばかりで、後手後手を踏んでいるように見えるのです。一方、一般の人々の間でももはやコロナはインフルエンザ並みとでもいうような対応も増えているようですが、さて大丈夫なのか。

06 こうした状況に対して、それがコロナであれ、円安であれ、政治家が言うこと。その筆頭が「しっかり受け止めて」、「注視して参りたい」。その結果、どう言う具体策を取るのかについては、結局示され仕舞いとなる。参りますね。こんな調子では、本当に困ります。

07 またもや、オリンピック・パラリンピックにおける不祥事が発覚。スポンサー契約を得るために、理事に対して賄賂を贈ったという。しかも1社だけにとどまらない。スポンサーになるとそんなに旨味があるのか。一人の理事にそれだけの権力が集中していたのか。トップは関知していなかったのか等々の疑問がわく。これが昔からあったことなのか、最近になって始まったことなのか、いずれにせよ明々白々なのは、もはやアマチュアスポーツの祭典ではなく、営利事業であることのようです。

08 またまた、大企業の不正が明るみに出た。しかも20年ほどにも及ぶという。トラックやバスの製造メーカーで、主に燃費や排気ガス規制に関わることというから、直接人命には関わらないのかもしれない。でもこうしたことが、人命に関わることも含めて、あいも変わらず明るみに出るということは、効率第一、儲け第一主義ということだろうから、誠実で正確という日本のものづくり産業、ひいては経済の信用回復はおぼつかないのではあるまいか(でも、大なり小なり、こうした状況がありそうだ)。これまでも同種の事件が報じられているのに、これを他山の石とするということがないのだろうか。それだけ、余裕がないということなのか。それとも、これもまた「今」と「ここ」だけを重視する結果なのだろうか。

09 NHKの災害発生時の報道のしかた。これをずっと続けて、本来の番組をやらない。もちろん、災害報道は重要であることは当然のことだけれど、なぜオリンピックをはじめとするスポーツ中継の時にやっているようなサブチャンネルを使わないでレギュラー番組を変更するのか、不思議です。おまけに台風被害のさなか、ニュースの時間の大半を使って英国女王の国葬を生放送した後に、特別番組を放送したのは、予定されている我が国の国葬への布石なのか、それとも……。それにしても、彼我の国民感情のありようは大いに異なっているようです。

10 松本清張は、生涯に1,000以上の作品を出版したという。それでも、時間が足りない。書きたいものが多すぎると言ったらしい。すごいね。41歳のデビューというから、決して早いわけじゃない。飽きっぽい性格だったらしく、これを避けるために異なる分野の小説を交互に書き継いだらしい。そういうことができる人がいるのですねえ。しかも、売れっ子になってからも、新人編集者からでも学ぼうとしたというのだ。勤勉な人だったのだね(どうしたらそうなれるのだろう……)。

11 先日の新日曜美術館は、皆川明の特集。その中で、「皆川さんはデザイナー歴25年、〇〇のエキスパート…」というような説明があった。25年でエキスパートになる人があれば、35年ほどもかけてもそうなれない者もいる。まいります。

12 新聞によれば、世界の10人に一人は飢餓の危機にさらされているという。予想をはるかに変えた高い割合で、驚いた。コロナウィルスの感染拡大と、ロシアのウクライナ侵攻がさらに悪化させる恐れも懸念されている。一方には、大量の食品ロスがあるのに。現在のように科学技術が進歩し、輸送手段が整備され、情報化も進んだ世の中にあってなお、なぜ救済できないままなのだろう。

1 家のローズマリーが枯れ始めたので、それからはこまめに水をやることにした。すると、去年ダメになったはずの寄せ植えにしていたイタリアンパセリが出てきた。しかし、ローズマリーの方はすっかりダメになってしまったよう。そこでちょっと調べてみると、ローズマリーが枯れる原因の一つは多湿、水のやりすぎとあったのだ。ハーブ類の寄せ植えということでやってみたのだけれど、ダメだったのだね。ああ、知らないということは恐ろしい!


* Forbes JAPAN のサイトの記事による。
** 今頃になって、為替介入の準備を始めたということだけれど、効果は限定的で、疑問視されているようです。


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2022.09.21 夕日通信


散歩の途中で スキマも劇場編 002


ゴダールが亡くなりましたね。91歳というから長生きでした。若い頃はずいぶん年上のような気がしていたのですが、たいして変わらなかったのだ。ヌーヴェルヴァーグで言うなら、僕はどちらかというとトリュフォー(こちらは52歳で早逝した)の方が馴染みやすくて、ゴダールのものは『勝手にしやがれ』、『気狂いピエロ』、『軽蔑』の有名作品とストーンズの『ワン・プラス・ワン』くらいしか覚えていない(他にも何本かは見たかもしれないけれど)。彼の方が、メッセージ性がより明確に現わされていて、かつ強く感じられたせいだろうか。







さて、近所を歩いていると、色々と楽しいものに出くわします(というか、たいていの場合、なんでも面白く思えてくるのです)。隙間から見える景色もその一つ。

隙間から見る景色は、いうまでもなく、切り取られた、または縁取られた景色ということになる。その切り取られ方や縁取られ方は様々で、しかもそれを囲むものだけでなく、見る者の位置によっても異なるわけですが、それぞれに面白く、興味が尽きないのだ。一時ここで紹介した『モランディに倣う』シリーズのお手本のモランディも、もしかしたら同じようなところがあったのかも。すなわち、風景の切り取り方は、モノとモノの関係とそれを見るものとの関係のありようにも通じるような気がするのですが、どうでしょうね。

こうした感覚を忘れると、画一的になりやすいようです。例えば、オペラ座を紹介するリポーターが古い扉を開けるとき、重厚な扉…という。しかし開けてみたら、ごく薄いのだ。つまらないですね。これは、自分の感覚を大事にするよりも、通念や常套句に従ったせいではあるまいか。

つまり、あるものに対する感じ方や受け取り方には優劣、もっと言えば正解があるという考え方なのでしょうね。それをそのまま受け取るだけなら、他者の感覚を優先して、自分の感じ方を閉じ込めてしまうことになる。すなわち、それを見た自分が、自分で無くなってしまう。まあ、世の中には自分だけがよくわかっているというかのように、「こうなんです」と断定する人も少なくないからね。

だからと言って、自分の感覚だけを信じて他者のそれを理解しようとしないということなら、それも同じようにつまらないだろう。自分自身の殻の中にとどまって、進歩することがない。

こんな風に、いつの間にか意識が浮遊して、別のところへ行き着いたり、かと思えばまた漂ったりするというのもなかなか楽しいのだ(それが的を得ているのか、ほかの人が面白いと思うかは別としても)。



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2022.09.14 夕日通信

30数年後の本棚の行方は……


 時折吹く風の中には、はっきりと秋の気配を感じるようにあなったというのに、ちょっと動けば汗ばんでしまうほど暑い。

 朝早く、ゴミを外に出しただけで、すぐに汗ばんで、Tシャツにも汗のシミが浮いている(何しろ書庫の分の処理があるので、量もたくさんだし、それにひとつひとつが重いのだ)。それで、一仕事終えた後にすぐに着替えなければならなかったほど。しばらく前から撤退までは、こうした状況がずっと続いていたのです。




 ところで、皆さんは、粗大ゴミがどのように処分されるのか、知っていますか。僕は先日、就職して以来研究室が変わるたびに調整しながら、終わりまでずっと共にあった本棚7本を運んだ時に初めて見たのですが(その前の時は、なぜ気がつかなかったのだろう?)。

 車から降ろしたらただちに、不揃いの制服を着た数人の見事に日焼けしたオジサンたちの手で、すぐそばに停車していた自動車の後ろまで運ばれてゆく。
「ほい、次」
「はいよ」
 何しろテンポがいいし、手際がいい。
「どうなるんですか?」
「ま、見てなよ」
 で、運ばれて行った先を見ていると、なんとオジサンたちは、本棚を後ろからそのままぐいと押し込んだのです。
 と、本棚は押しつぶされ、粉砕されながら吸い込まれていき、やがて見えなくなったのでした(えっ⁉︎)。
「へえ。すぐに処理するんですね?」
「ああ」
「金属の場合はどうするんですか?」
「隣に同じような車があるだろ?」
「ええ」
「あれに入れるのさ」
 金属も、別の自動車で同じようにするらしい。処理してすぐに、運ぶのでしょうね(そうしないと、すぐにいっぱいになってしまう)。それにしても驚いたな。そしてつい、嫌なこと、困ったこと、忘れたいこと等が、こんな風に処分できたらどんなにいいだろう、などと考えてしまったのでした(やれやれ)。でも、これも気の持ちようで、口に出せば済むのかもしれない。

「嫌なことはこちらでしたね」
 と訊けば、
「そうだよ」
 と答えてくれるはずだし、
「悩み事はそのお隣に捨てればいいんでしたね」
 と言えば、
「そうそう」
 と請け負ってくれるに違いない。
 それだけで、気分は軽くなるだろう。

「ガラス板なんかは、どうすればいいんですか?」
 僕は、ガラスの天板のことを思い出して、訊いた。
「ほら、あそこに箱があるだろ?」
 オジサンは、奥の方を指で示しながら、教えてくれた。
「あそこに入れてくれればいいよ」
「はい」
「予約もお金もいらないよ」
「へえ」
「大きいのはダメだけどね」
「はい」

 オジサンたち、親切だったな。

そんなやりとりを思い出しながら書いていたら、おかげでなんとか撤退作業も終わり、このところは急に涼しい日が混じるようになった。最高気温の前日比が、−5度なんていう日もある。そして、精神的にもうんと落ち着いた。

と書いたところで、また暑くなった。今度は前日比なんと+7度という。青い空と白い雲は、夏の空そのままだ。ま、しばらくはこんなふうなのでしょうね。そして、僕と大量のモノとの格闘も、舞台を移して、相変わらず続いております(けっこうかかりそう……)。


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2022.09.07 夕日通信

速報 撤退完了




本日16時45分に鍵を返して、撤退作業は完全に終了しました*。

ありがとうございました。

準備を始めた頃はどうなるものかと心配しましたが、多くの皆様の大いなる助けにより、なんとか期日に間に合わせて終えることができました。円はいちおうは閉じました。

重ねて感謝します。ありがとうございました。

ただ、これからは会える機会が減ることを考えるとちょっと寂しい。


* ただ、終わり方は必ずしも気持ちのいいものではなかった。この顛末はまた別の機会に。


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2022.08.31 夕日通信

あやかって、復活⁉︎


いよいよ8月も今日で終わり。

年末(だったか?)と春に2度も根元からバッサリやられてしまった道路沿いの芙蓉が、見事に復活していました。よかった。毎年楽しみにして見ていたので、嬉しい。

それにしても、成長が早いことに驚かされる。一方、見境なしに伐採してしまうやり方には改めて怒りを覚える。その割には、雑草の背が伸びてやってくる車が見えにくいのはほったらかしのままだ。どんな計画で実行しているのだろう。市民の利益よりも別の利益を優先しているように見えてしまう。バッサリ切ってしまいたいくらいだけれど。こんな時は、一市民が勝手に伐採してもいいのだろうか(ま、ダメでしょうね)。




それからしばらくのあいだ、花はまだ咲いていなかったけれど、蕾をいくつもつけていた(実はその前に、一つだけ花をつけていたのを見ていたのです。その時はちょっと遅かったので、もうしぼみかけていた)。その後、何回か足を運んでいたら、やっぱり一輪だけでしたが、きれいな色の花が咲いていたのです。それにしても、花の命のなんと儚いことか。前にも書いたように、うちのアパートの入り口の前の小さなアサガオも、あっという間にしぼんでしまう……。

嬉しいといえば、もう一つ、本日31日が期限の撤去作業も、たくさんの人の助けのおかげでなんとか間に合いそうだ。29日月曜には、残っていたテーブルやスチール棚等が引き取られていって、大物は全て無くなった。それで、1階から3階まで掃除機をかけた。30日は引き取り手は決まっているものの忙しくて取りに来れないために残っているもの(忙しい中、手伝ってくれて本当にありがとう)を持ち帰るのと当プロジェクトを企画したうちの一人K先生と一緒に最終チェックをしてもらった。最後に残った忘れ物とゴミ類を搬出したら(これはギリギリまで待たなくてはなりません)、撤去作業はいよいよおしまい。

退去時のガスの停止については立ち会いが必要だというので、3115時〜17時の間でに立ち会うことにして、大家さんとK先生との立ち会いが16時半のようなので、その時に鍵を返却したら、めでたく全てが完了する。

それにしても、この一月半ほどは忙しかった(僕にしては、まあよく働いた方です)。何人もの人に助けられました。その中には、一度ならず何度も来てくれた人たちもいる(つい甘えてしまいました。ごめんなさい)。ありがとうございました。それに何と言っても、気分が重く、体調もあんまりよくなかった。

思えば、突然、一方的な撤退の連絡を受けてから(メールを確認したら、4月30日だった。決まりでは、退去の6ヶ月前には知らせなくてはならないはずだけれど)、ずっと気分は滅入ったままで、焦りはするものの、体が動かなかった(このため寝ていても、いったん目が覚めたら、気になってもう眠れない日が続いた)。長かったな(ふう)。いまとなれば、もっと早くからやっておけば……、というのは毎度のことだ(反省。これからは、この轍を踏まないようにしなければいけません)。

ところで、せっかく嬉しい気分でいた時に、ニュースを聞いていたら、国葬に関する当該部局に対するヒアリングで、警備の費用を考えると実際には数十億円かかるのではないかという質問に対して、警護すべき人数や警官の数が確定していないので、答えかねるというような答弁があった。一月弱ほど先のことだというのに、そんなに計画なしの大雑把な思いつきのようにやっているのかと思うと、背筋が寒くなる(そして、気分が悪くなる)。このところの政府のやり方は、国葬のゴリ押しだけにとどまらず、逆に原発などでは自分たちの決めたことをあっさりとひっくり返そうとしたり、あまりにもひどすぎるのではあるまいか(「聞き流す力」か)。

ま、あと半日で全てが変わる。その後は、まずはリセットして、一つずつ片付けながら、芙蓉にあやかって、なんとか「復活」を目指すことにしよう。


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2022.08.31 夕日通信

撤退期日、迫る


それにしても、古本の価値はどうやって決まるのだろう。関係部署の許可を得て、古本屋さんに来てもらったのだけれど、引き取り額は予想以上に低く、搬入した時の輸送費の何分の1程度にもならないというほどのものでした(保管できていたならよかったのに、とつくづく思いました。それでも本が本のまま残るのは嬉しいし、案外さっぱりもした)。

さて、撤退作業は残すところ、あと1週間。いよいよ大詰めを迎えた。泣いても笑っても、7日間(色々あって、実質は4日ほど)の戦いだ。さて、無事に笑って終えることができるか。時間となんとか助けてやろうという優しい心がある人は、今度こそ最後のチャンスですぜ(是非どうぞ)。

選別するために、搬入したまま長い間しまい込まれていた封筒や箱を開けてみると、すっかり忘れていたものが次々に現れる。そのうちの一つに、新聞の切り抜きがあった。




『人生の贈り物』というシリーズで、吉田秀和の回。2008年3月3日から。第1回のタイトルは、『知る人から楽しむ人へ』。と言うともう、中身はだいたい想像がついたのではないでしょうか。吉田が妻を亡くした後ようやく回復して再び仕事を始めた頃(たぶん)の、レコード芸術の連載『之を楽しむに如かず』の題名をめぐるエピソードを回顧して書かれている。もちろん孔子の言葉で、『論語』のなかにある。すなわち、知識がなくて良いとは言わないまでも、素直に楽しむ方が大事ということですね。全く覚えていなかった。それにしても、なんと身についていないものか(でも、きのう何を食べたか覚えていなくても栄養にはなっているだろうから、それと同じと考えればいいのか)。

研究しよう、あるいは批評しようなどと考えている向きにとってはこうはいかないけれど、それ以外の場合は(もしかしたら、年をとったなら)、何であれむづかしく考えるよりも楽しもうという気分で向き合う、この態度で臨むのが良さそうです。

ところで、吉田はこの『論語』をどこで読むか。なんと、便所の中だと言うのです。「便所の中の愛読書」らしい。

ちょっと以外で、驚いた。トイレの中の読書といえば、妹尾河童を思い出します。本が何冊も置いてあるのは言うに及ばず、家庭新聞やスクラップするために切り抜き用のハサミ等まで揃えていたらしい*。僕の友人の中にも、新聞はトイレの中で読むに限ると言う人がいましたが。

僕は、彼らと違ってトイレの中で本来の用を足す以外のことをする気はないし、長く居たいとも思わないのですが、彼らに学ぶことがないわけじゃない。おおいに学びました。すなわち、どこであれ、清潔に保ち、快適な場所にしつらえると、長い時間、気持ちよく過ごすことができるようになる。

吉田のところには、「こんなじいさんなのに、毎日のように何かしら用事を持って訪ねてくる人があって……、どうしたことだろうね」と言う。人に会い、仕事をすることが元気の素だったのでしょうね(当時、なんと94歳)。そのためには、住まいを清潔に保っておくことも必要だったに違いない。

まもなく、今回の撤去作業は完了するはずだけれど、その後も色々とやることは尽きないようです。日常生活を楽しむことのできる(できれば、人が来ても恥ずかしくない)ような空間とすべく、尽力する覚悟であります。

幼児教育関係の業界誌「週刊教育PRO」誌上での連載『住まいと教育』の原稿も見つかった。若い時のものですが、100回ほど続いた。ハンマースホイ展のWEBマガジンに書いた文章も。辻仁成の『リサイクル日記』に倣って、これらをもう一度改めて考えて、書き直してみようかと思った。


* たぶん『河童が覗いたトイレまんだら』(文藝春秋、1996年)。もはや運ばれて行ってしまって、確認のしようがありません。


今日も強力な助け人2人が来てくれます。「来てね!ボランティア」週間は、依然として継続中!事情が許すなら、ぜひ来てね‼︎頼りは、あなたです!!!ちょっとピンチであります!!!!


いよいよあと7日。焦り気味。まだまだ仕事あります。片付けボランティア、募集中!
心優しく、しかもいくらかの時間があるという方は、ぜひこちらまでお知らせいただければ助かります。焦り気味は、急拵えのバーナーを見てのとおり。どうか、よろしくお願いします。


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2022.08.24 夕日通信

速報 行ってしまった




今日午前に、残っていた本や雑誌のほぼ全てが運ばれて行きました。

手元に置いておきたかったのだけれど、かないませんでした。残念。本はともかく、雑誌はもう2度と手に入らないでしょうね(実は手元に置いておきたいものが何冊かあったのだけれど、探せなかった)。そう言いながらも、本もちゃんと読み返すものは多くない、というかほとんどないでしょうが、読まないまでもパラパラと見ることができなくなるのは残念。本はまだしもインターネットで探すことにができそうですが、雑誌はたぶんやっぱり手に入れることはむづかしいかも(雑誌好きにとっては、残念至極)。でも、さっぱりした。




それにしても餅は餅屋というのか、手際がいいね。約束通り11時に到着して、1時間弱で運び出して行った。詰めるときの大変さに比べたら、本当にあっという間の出来事(夢でも見ているようだった)。ま、なんにせよ、持って行ってもらっただけでもありがたい。

時間と人手等の都合上、選別もあまりできないままの処分になってしまったのが、返す返すも残念。手元に残しておきたかったもののいくつかは、探しようがないまま(と言うか気力もなく)、行ってしまいました(残念)。

でも、こちらの方は空に近づいて来たけれど、家の方がどうなるのか、心配。

それにしても、ほぼ1年のうちに2度も搬出入を繰り返すとは思いもよらないことでした。このところは、ずっとその準備で、くたびれ果てました。でも、まだ終わったわけじゃない。ああ!



いよいよあと7日。焦り気味。仕事あります。片付けボランティアは、まだまだ募集中!
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2022.08.23 夕日通信

号外編 あ、雨が……


なんだか最近は、梱包したり、荷を解いたりを繰り返してばかりいるようだ。昨日も、心やさしきボランティアと袋に入れたり、もう一度解いてやり直したりしていた(僕のミスでしたが、怒らずに付き合ってくれた。どうもありがとう)。




今日、月曜は2週間に1回の紙ゴミの日。朝から、撤退作業中に大量に出たダンボールや紙類を出したのだ。その時にパラパラときたのだった。雨⁉︎どうしよう!雨天中止になったら困るのだ。

先日、赤帽さんに家具やCDDVDを搬入してもらった時に、ダンボール等紙ゴミ類も運んでもらったのだけれど、紙ゴミの日までの2日間に雨の予報があった。濡れたら出せなくなってしまう。そこで、濡れないように、ダンボール類は家の中に運び込み、中に入りきれなかった紙類が詰め込まれた紙袋はポリ袋でくるんで外に出しておいた。当日の朝は早くから、それを家の中から運び出し、ポリ袋を解いてようやく運び出したのだった。量が多いため、集積所にはとても収まりきれず、入り口の塀のところに並べることになった(幸い何も植えられていない花壇があるのだ)。

この作業を、もう一度繰り返すとなると堪える。文字どおり、弱った身には荷が重いのだ。

ゴミは8時前に出すようにということなので、8時を過ぎてから時々覗いてみるのだけれど、まだゴミは残されたままだ。8時15分、30分、9時になっても変わらない(ドキドキ)。10時になってようやくなくなっている、と思って近づいてみると、なくなっていたのはごく一部で、ほとんどが残されたままだった。どうしたことなのか。困った。そこで、回収業者に電話してみると、今回は回収量が多いので午後までかかりそうですが、後で伺いますということだった(よかった!)。その後、雨はなんとか持ちこたえて、11時頃には、無事に運び出されて行った(ほっ)。と思ったら、袋が1個だけ残されていた。分別ができていないので回収できませんと書いた紙が貼ってあった(うーむ……)。まあ、このくらいはよしとしなければ(やれやれ)。

それにしても、なぜギリギリにならないと進められないのだろう。きっと、夏休みの宿題も、終わり頃になってようやく取り掛かっていたのに違いない(計画を立てるのは好きなのに)。村上春樹は依頼された原稿は締め切り3日前には完成させるらしい。羨ましい、この方がいいに決まっているのだ。

早朝に咲いていた小さな淡い紫のアサガオは、10時頃にはもうしぼんでいた。なんと短く、はかない可憐さであることか。

そんなわけで、「来てね!ボランティア」週間は、依然として継続中!事情が許すなら、ぜひ来てね‼︎頼りは、あなたです!!!ちょっとピンチであります!!!!



いよいよ10日を切った。焦り気味。仕事あります。片付けボランティアは、まだまだ募集中!
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2022.08.22 夕日通信

刑事ドラマ、そして撤退作業の状況


12日夜に、台風は横浜付近を通過した。このあたりは幸いさしたることはなかったけれど、他のところではどうだったのだろう。大きな被害が起きていなければいいのですが。でも、翌日起きてみると、相変わらず雨が降っていて、台風一過の晴天というわけにはいかなかった。これも異常気象の一つだろうか。でもいくら何でもと思い直して、やっぱり単なる時間の問題なのかという気したのですが、いっとき晴れたものの、その後も雲が広がって、いつまでたっても快晴というわけにはいかなかった。


*

さて、ただ今の状況を顧みずに続けて見ているドラマは、過去に迷宮入りとなった事件を扱う。例えば、1999年に失踪した母娘のうち母親が銃殺された事件**。池の底から引き上げられた車中で見つかった。殺人事件を扱う刑事ドラマだからハッピーエンドにならないのはもちろんのことだけれど、アメリカ製のドラマにも関わらずけっこう暗いし、重い気分にさせられることもままある(というか、ほとんどですね)。

その当時の車や出来事が映し出される。音楽もその当時のヒット曲が使われている(このことがDVD化の障害になっているらしいのですが)。ああこういう時代だったかと思い出すこともあれば、そうだったのかと改めて知るような時もある。音楽も知っている曲があるのは当然だけれど、聞いたことはあるけれど曲名を知らない場合もあるし、全くわからない時もある。今回は本筋とは関係のところで、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』のレコードをかける場面が出て来た。

しかし決まって思うのは、なんだかうんと昔のことのようで、ずいぶん年取ったのだということなのだ。でもつい見てしまうのは、根暗な性格の故ということなのだろうか。




寺前からの撤退準備は、14、15日は卒業生(もはやレギュラーと準レギュラー)がそれぞれ来てくれて、おかげで大いに捗りました(前半戦は別のグループが活躍してくれた。本当に一人の時は進まないのです)。14日は、マップケースや机の下のケースが空になった。15日には大量の文具類と書類等の細々としたものについても、ほぼ捨てるものと残すものの分別が済んだ。残るはもう少しだ……。

好意に甘えて、ついお願いしてしまうのだけれど、その度に彼らはえーっという顔をしながらも(それとともに声にも出す)、助けてくれるのがほんとうにありがたい。何の得にもならないのに、僕のようなもののために時間を使ってくれることに対しては、いくら感謝してもしきれません(ありがとう!)。彼らに愛想尽かしされる前に、片がつけば良いのだけれど……。あ、そう言えば、初めの頃に活躍してくれた卒業生たちからは、今では全く音沙汰がない……。こちらは、いよいよ見放されたってことなのか(おお‼︎)。

さて、無事に間にあわせることができるだろうか。


* 写真は、ツイッターから借りたものを加工しました。
**コールドケース シーズン4 #18「宝くじツイッター」


そんなわけで、「来てね!ボランティア」週間は、継続中!事情が許すなら、ぜひ来てね‼︎頼りは、あなたです!!!ちょっとピンチであります!!!!



いよいよ2週間を切った。焦り気味。仕事あります。片付けボランティアは、まだまだ募集中!
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2022.08.17 夕日通信

伊東ゆかりの矜持と僕の「片付けられない」病


いつの間にかもう立秋を過ぎたことを、昨日来てくれた強力な片付けボランティアに教えられました。我ながら、余裕がありませんね(ああ、恥ずかしい)。そういえば、日中はまだ猛烈に暑いけれど、確かにその日の朝の風の中には秋がかすかに潜んでいる気がしていたのです。


*

その数日前、久しぶりに聞いた気がするNHK–FMの「今宵、ロックバーで」のゲストは伊東ゆかり。何と……。ずいぶん懐かしい名前で、ちょっと驚きました。

彼女は「小指の想い出」で大スターになったわけだけれど、小さい時からミュージシャンだった父の影響で、英語の歌を歌っていたらしい。だから、英語の歌に自信があった。その彼女が言うには、あるとき(コニー・フランシスが『ボーイ・ハント』を日本語で歌ったとき)から、英語の歌もできるだけ日本語に訳してもらって歌うようにしているというのだ。その時に、スタッフから日本語で歌う時の歌い方を勉強するように言われたというのだ(聴き手に伝わるように、美しい発音でていねいに歌う、ということですね)。

いいなあ。日本人が外国の歌を歌うのだから、これが正しい方法のような気がする(訳ももちろん大事だけれど。昔はずいぶん変な訳詞もあった)。かく言う僕は、外国映画を見るときは原語版主義です(これは、外国で作られたものだから。言葉がわからないのは、字幕を頼るしかありません)。吹き替え版は、できるだけ避けたい(作品がもともと持っている性質を損ねてしまうし、雰囲気も大きく変わると思うので)。

それから彼女は、自分が歌ったもの(レコードやCD)は持っていない、と言うのです。あらばかり目立つから、という理由で遠ざけているらしいのですが……。すごいねえ(村上春樹も出版されたものは読み返したりしないそうです。もちろん、その前の推敲は怠らない)。ま、聴きたくなったときは、いつでも聴くことはできるのでしょうけれど、それにしてもたいしたものだなあと思います(生きる姿勢というか、自分がそれまでにやってきた仕事、そしてこれからのことにかける覚悟が違うような気がする)。歌手生活70周年記念のコンサートの話題も出ていたから、ずいぶん長い間活躍してきたことになる。えらいものですねえ。まあ、彼女に限らず、僕にとってはたいていが感嘆すべき対象になるのですが。

ところで、なぜ片付けをしない。なぜできない(これは、何か病気ではあるまいか)。と思うようになっているのだけれど、このところはようやく一人でも少しずつ取り掛かることができるようになってきた。残すところあと20日ほど(実質は、その2/3程度)で、いよいよ正念場。果たして、無事に終了することができるのか。




そんな中、昨日は強力な助っ人が来てくれた(もう何回めになるのだろう。多謝)。おかげで、文具類その他の小物類が大いに進んで、プラスチックのケースやボビーワゴンが空になりました。やっぱり、一人じゃないと、進み方が全然違います。自慢するわけではありませんが、僕も背中が痛くなるほど働いた(ただ姿勢が悪いだけだという声もあるけれど)。




そして、もうひとつ頭が痛いのは、大量の雑誌と本の処分法。ちょっとばかり面倒な問題が出来したのだ。ただいま関係部署に問い合わせ中(ま、どうであれ、なんらかの決着はつくはず)。あと数週間だ。


そんなわけで、「来てね!ボランティア」週間は、継続中!事情が許すなら、来てね‼︎頼りは、あなたです!!!ほとほと困った。


* 画像はNHKの「今宵、ロックバーで」のHPから借りたものを加工して、使用しました。



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2022.08.10 夕日通信

速報編 残るは小物類の選定、そして廃棄物?


本日水曜日は、わが精鋭たちの中でカルテット(Ys,SI)を編成、志願して手伝いに来てくれた。本日の作業は、いくつかの機器類をはじめとする搬出作業。そして、本類を中心とする選別作業だった。おかげで、かなり進めることができました(と、思う)。

どうもありがとう。


*

さて、撤退作業は、ほんとうに進んでいるのか。佳境に入ったのか。いよいよ大詰めに迫ったのだろうか(ちょっと不安)。

それにしても、一人の時にはまったく進まないのは、いったいどういうわけなのだろう。やっぱり、人格的な欠陥なのか?(なんだか、冗談では済まされないようなのだ)。

それでも、今週末にはレコード棚を自宅へ搬送してもらう予定となった(それまでに、そのためのスペースを確保しなければいけない)。

さらに付け加えるなら、もちろんまだ、寺前の撤退作業は終了したわけではない。やらなければいけないことは、まだまだたくさんあるのだ。

だから、「来てね!ボランティア」週間は、もちろん継続中!事情が許すなら、来てね‼︎頼りは、あなたです!!!ほとほと困った。


* 写真を撮り忘れたので、今回は写真なし。NO IMAGEの画像は、フリー素材ブログから借りたものを加工して、使用しました。



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2022.08.03 夕日通信

片付けボランティアとパスタランチ


暑いですねえ。このところは連日、「命に関わる危険な暑さ」が続き、天気予報の中でも「命を守ってください!」という呼びかけや、さらには各地で最高気温の更新も、次々と。

そんな暑さの中で、先の月曜日は片付けの作業に邁進したので、ほんとうに暑く感じました。

その日は、もともとは僕自身のものの片付けではなく、共同で使う場所の清掃をするために、K先生とゼミ生が来てくれたのでした。過日、撤退準備を少し長くやって、久しぶりにそこに入った時に、汚くて、ちょっといくらなんでもこのまま退去するわけにもいかないだろうと思った。そこで、当プロジェクトの責任者の一人であるK先生に伝えたところ、こういう仕儀に相成ったというわけ。

考えてみれば、このことに象徴されるように、最初から最後まで、全てがちぐはぐだったようです。たぶん、関係者が皆それぞれに自分に都合のいいように捉えていたのに違いない(当事者の一人として、反省。他の関係者も、それぞれに反省すべきところがありそうです)。

作戦会議のあと、まずはK先生と2人の3年生には、食堂の天板を外されたテーブル(スチール製のファイルケース)の上に選別用に並べておいた本を箱詰めするところから。学生2人は、本を手にしながら、時々これ面白そうと言うので、いちおう確認してから、持って行っていいよと言うと、わあと声を上げる。それから僕は、家から持って行った道具や調味料等を並べて、ランチの用意に取り掛かった。すると、あるはずのまな板やトングがなかったり、買っておいたはずのレモンが見つからなかったり(仕方ないので、こちらは2人に買いに行ってもらった*)で、大苦戦。


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K先生はトイレと冷蔵庫の掃除にかかり、2人には板の間の雑誌や本を種類ごとにまとめて重ねてスペースを作って、そこに玄関に積んであった雑誌や段ボール箱を運んでもらった。玄関が片付くと、スッキリして、ずいぶんと進んだ気がしました。

コロナが一時落ち着いていたころに、ランチのあと映画鑑賞会という企画(これは、元々ちょっと無理筋ではなかったか)が何回か生じて結局ボツになったあとにも、リクエストがあったし、1回くらい台所を使うのもいいかという気になったので(ガス代も電気代も払っているしね)、パスタランチを作ることにしたのでした。最初問われた時は、やっぱり面倒な気がして、外で食べませんかと申し出たのだけれど、暑いし、これはこれでまた面倒な気がした。で、作ることにした。トマトソースの冷製パスタとカルボナーラの2種。

食べたあとは、2人は色々と気になる本が見つかったことに味を占めたのか、カーサブルータスを見に行っていいですかと言って、物色に取り掛かった。ちゃっかりしているといえばそうですが、まあ積極的に(文字通り)掘り出し物を見つけようとする姿勢や良し。結局一箱半ずつくらい持って行ったのではないか(K先生は、やっぱり気合いを入れて板の間の本も探し始めたので、もう少し)。

3時頃までの作業だったが、K先生も2人の3年生もよく働いてくれたおかげで、当初の共用部分だけではなくた本や雑誌、CDDVDについては、けっこう先が見えてきた(とい気がします)。あとは、いくつかの棚と小物類類だ。曰くのあったスチールケースの類の処分も目処がついた。

いよいよ残すところあと27日(事情があって、実質的には2週間とちょっとなのですが)。それにしても、一人では何もできないのはどうしたことだろう。

今日は、これから精鋭部隊の一つとともに撤退作業をするために、出かけてきます(さて、どのくらい進めることができるか)。

「来てね!ボランティア」週間は、継続中!吉報よ来たれ‼︎


* 家に帰ってみたら、台所のカウンターの上にあった(こうしたことが多すぎるのだ。やれやれ)
**当日は、カメラもスマホも忘れたので、翌日の写真。



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2022.08.03 夕日通信

緊急! 来たれ、片付けボランティア!!


完全撤退の期日まで、あとひと月。しかも下旬になると、検査やら何やらいろいろと予定が入ってしまっているので、実質は20日ほどだ。ピッチを上げなければならない。

もはや、ボランティアを待っているわけにはいかない。募集ではなく、呼びかけることにします。

来てね、ボランティア!




作業の内容は、本の箱詰めが少々、文具類等の小物の箱詰めが主です。
ご希望とあらば、パスタランチも作ります。



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2022.07.30 夕日通信

号外編 ない!? ない!! あった!!!


あるはずのものが、なかった。電源が入らなくなったiMacにつないでいたTime Machineに、本来ならあるべき写真が残っていなかったことについてはすでに書いた通りですが(ほぼ20年弱ほどの写真が失われたことになる)、そのうちの極く一部ですが保存されているはずと期待していたDVDに入っていたのは、それとは違うものだった(おまけに、パソコンにコピーしようとすると恐ろしく時間がかかるのだ)。で、もう一度、データ復旧のサービスを行う会社に頼むべきかどうか、考えることになった。成功してもしなくても13万5千円からというのがちょっと(いったんは、このためにすぐに断念したのでしたが…)。

もともと僕は記憶力がないから、そうしたものは必要ないと言えばそう言えそうだし、だからこその思い出のよすがだと言えばそのとおりであるような気もする。さて、どうしたものか。

そこで、我ながら潔くないなあと半ば呆れながらも、念のためにもう一度だけと思って、Time Machine用のHDDをつないで、ファイルを一つずつ当たってみたら、出てきた。




なんと、115.96GB分のiPhoto Library が現れたのだ。それまで、どうやっても発見することができなかったのに。“iPhoto”で検索しても見つからなかったし、アップル・サポートに相談した時にも、iPhotoの写真は全てそこにあるはずと言われた「ピクチャ」(または「写真」)という名前のフォルダにも入ってなかったのだ。でも、嬉しい。

これで、壊れたパソコンを心おきなく廃棄することができる(実は、ちょっと恥ずかしいのだけれど、個人情報のことも気になっていたし、何より消えてしまった写真には未練もあったので、こないだの家電捨て放題の時に捨てきれずにいたのです)。ふだんは思い切りの悪さがモノが溜まる原因の一つなのだけれど、今回はこれが功を奏した結果になったようです。ともあれ、よかった(ほっ。ふーっ)。

もしかしたら、心配してくれた人もいるかもしれないし、ちょっとお騒がせしたので、取り急ぎ報告まで。



まだ、ほっとすることができません。仕事あります。片付けボランティアは、まだまだ募集中!
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2022.07.28 夕日通信

1,500円/日


ある朝の天気予報の中で、今日はもう4時半頃からセミが大合唱していましたね、と言うのを聞いて、へえと思った。家のあたりは緑もそこそこに残っているのに、あんまり聞かない気がするのだ(耳が悪いのか?)。皆さんのところではどうでしょう。それでも、空は朝からもうすっかり青地に白が浮かぶ夏の空だし、気温も上がる。

物価の上昇も止まりませんね。ニュースでも、これに関わるこれが話題になることが多い。先日は、乳牛1頭の1日あたりの食費が取り上げられていた。1日1,500円。これが高騰して酪農家の皆さんは大変らしい。そこで、乳製品メーカーの大手3社と異例の年度途中での交渉を行った。政府はどうしているのでしょうね(もしかしたら、片付けを前にした僕と同じ?まさかね……)。

この食費ですが、僕よりも多いじゃないか、ということに気づいた。最初はえっと驚いたのでしたが、すぐに牛さんは毎日牛乳を産出して利益を生み出しているのに、僕はただ食べているだけで生産的なことはしていないのだからしかたがない、と納得した。それから、やっぱり悔しい気がしたので、僕はいわゆる燃費が良くて、経済的にできているのだと思うことにしたのでした。


*

一方、経済的じゃないのが、先日からずっと書いているモノの多さ。モノをできるだけ減らすと言いたいところだけど、今回は使わないものを少なくすること、わけても探しものをしなくていいようにすること、すなわち必要なものがどこにあるかがすぐにわかることを目指したいのであります。これまでは、読みたい本やら聴きたいCDやらを手にするまでに時間がかかることが多すぎた(今は本もCDも狭い家の中で分散していて、あちこち探し回ってようやく見つけた時には、なぜ探していたのか忘れるくらい)。今や、そんなことに時間を使っているわけにはいかないのだ。

少なくも、探し物や不要なものが目に入ることによるストレスをなくして、穏やかでていねいな生活を営む余裕を手にしたい。そうすることで、いくらかは生産的なことができるようになるかもしれない。余裕がないと、例えばゴミが落ちていてもすぐに拾おうという気ならないこともある。散らかっていることに対する閾値が上がって、まあいいかと思ってしまい、つい先延ばししてしまうのだ。レコードをゆっくり楽しもう、スクリーンを立てて映画を見ようという気にもなりにくい。知らず識らずストレスがたまり、「ていねいな暮らし」からはどんどん遠ざかるばかりだ。

しかも、そう思いつつも、此の期に及んでも相変わらず体が動かないことが多いのです。なぜなのだろうか。その代わりに、赤のフリクションペンを手にとって、たとえばこのHPのような文章にごく小さな修正を加えたり、パソコンを開いたりしてしまうのだ。そして、書いていることと実際との乖離が大きいことを思って、自分が言うだけで実行できない、いかにもダメな人間のようでほとほと嫌気がさしてしまいます(思わず苦笑いをすることも……)。

本音を言うなら、もはや一旦ゼロにして再出発したいくらい。しかしそうもいかないので、少しずつ近づいていくしかない、と思い定めて頑張らなくてはいけません。モノを少しでも減らして、片付けて、「ていねいな生活を営む」、これは自分との約束だ(テレビドラマの中の人物だって、娘のことを託した友人との「約束は破るわけにはいかない」と言うのです)。そして、翌日の朝刊の小さな欄には、「人間は、思ったり、したり、できはしない**」とあった。思いよりも願望よりも、実践ということですね。ああ、わかっていてできない自分をなんとかしなくては……。


* ほんとうは、もっとすっきりしたいのです……。
** 折々のことば、朝日新聞2022726日朝刊。「しようと思うのけど、どうかしら」と聞いた白洲正子に、青山二郎が返した。



まだ、仕事あります。まだまだ募集中!ボランティアを募っています。
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2022.07.27 夕日通信

ドラマの中の複雑、現実社会の単純


アメリカ製の刑事ドラマ『コールドケース』は、いよいよいくようだ。回を重ねるごとに、暗くなるのが止まらない。これでは、イギリス製の『主任警部アラン・バンクス』と変わらなくなってしまう……。


*

事件(殺人事件)はもともと明るいものではあり得ないが、歪んだ人間関係やそこに潜む怨念や残酷さも、複雑さと暗さが増すようだ(事件当時の社会性を色濃く反映したつくに理になっているようだから、これもしかたがないことかもしれない)。そして、これに劣らず、主役陣を取り巻く環境も簡単ではない。もはや、単純明快な正義のヒーロー/ヒロインではいられないようなのだ。

ヒロインのリリー・ラッシュは、父親が失踪して不在な中、アルコール依存症の母親の元で育った。妹が一人いるが、この妹はいろいろと問題を起こすようで、かつてリリーのボーイフレンドと関係したために溝が埋まらないままだ。人との付き合いにも慎重で、自宅では2匹の障害のある猫と暮らしている。もう一人の主人公である相棒のスコッティは幼なじみのガールフレンド(精神的な疾患があった)が自殺した後、リリーの妹と付き合い始めた。このせいで二人の間にもすきま風が吹く。時々、酒で紛らわそうとして、仕事にも支障をきたすことがある。

ま、現実の世の中が単純でもなければ、明るいばかりであるわけもないから、当たり前といえば極めて当たり前のことと言えるのかもしれないのだけれど(それにしてもねえ、……)。もはや、最終的には必ず事件を解決に導く有能な刑事が主人公のドラマでさえ、一種の理想的な、完結した世界を描写するだけでは、受け入れられなくなってしまったのだ。

主人公をただ強くて明るい人物としないで、表も裏も何もかも描写しなくてはならない。こうすることで、現実に近づけようとしたのはわかるけれど……。見る方としても、単純に楽しむことができにくくなる。この辺りは日本のそれとは大いに異なるような気がする(久しく見ないけれど)。例えば、特命係杉下と相棒の間に常に確執や非難の応酬がある、などということは考えにくいのではあるまいか。

こうした傾向は、21世紀初頭の頃にはじまったのではなかったか。映画の方では、たぶんアメコミのヒーロー『スパイダーマン2』(2004)の時だったかに、悩めるヒーロのことが話題になったような気がする。バットマンやスーパーマンもこれに続いた。と思って、ちょっとグーグルで調べてみると、『悩みのスーパーヒーロー』という本がすでに1979年に出版されていた。ということは、これ以前から悩めるヒーローの兆しがあったのだろうか。

戦争の世紀20世紀を引き継いだ21世紀も、相変わらず戦争が続いている(「外交」ではなく、単純な「武力」による決着)。もしかしたら、『幸福な時代という希望』の終焉。いつか『絶望の時代』と呼ばれるのかもしれない。あるいは、その時を待つことができないのかもしれなのでは、とさえ思わされる……。

ニュースを見ていたら、ある大学が行った『SDGsの実現のための住みやすい街づくり』の提案の取り組みが紹介されていた。そこに招かれた街づくりが専門の講師を中心に提出されたのは、「『ウォーカブル』というコンセプト」。歩きやすい街並みとすることが、人(特に高齢者)を外に連れ出し、人と街、人と人の関係を生み出して、持続可能な街となるというもの。

この考え方を説明する時に日本語で置き換えるのなら、なぜ初めから「歩きやすい」街としないのだろう(このキャッチフレーズのように、日本語でわかりやすく伝わることをわざわざ英語にするやり方はよく見られることだけど、このことからして、ジ・エイジドにジェントリーであろうとしないプロジェクトではあるまいか。「SDGs」も同様)。


**

具体的な方策の例としては、道沿いに置かれたベンチが取り上げられていた。歩くのに疲れた人々は、ここで休み、話をして交流が始まるというわけだ。街の中のベンチはヨーロッパの大小の通りや通路でよく見かけたし、実際によく使われてもいた。昔のわが国の都市においてもかつては存在していた(古くは商家の前に設置されていた床几。その伝統は学生の頃にもまだ残っていて、観察調査をしたこともある)のに、今ではショッピングモールの中で見るくらいしかなくなった。と思っていたら、歴史は繰り返す、単純なものこそが効果的ということか(ただ、ベンチを使う側はどうだろう。ま、ショッピングモールでは座っている人もいるようだから、大丈夫か)。


* 写真はアマゾンから借りたものを加工しました。
**写真は、スペインバルセロナの大通り。僕は、一時ベンチ写真家を目指したことがありました(その頃は、人がいないベンチだけを撮ろうとしていた)。残念ながら、例のパソコン破損事件のために、すぐに使える写真が手元にないので、以前のHPで使ったものを流用しました(ちょっと画像が粗いのはこのせい)。



仕事あります。まだまだ募集中!随時ボランティアを募っています。
心優しく、いくらかの時間があるという方は、ぜひこちらまでお知らせいただければ助かります。焦り気味は、急拵えのバーナーを見てのとおり。どうか、よろしくお願いします。


読んでくれて、どうもありがとう。
感想やお便り等をこちらからどうぞ。

2022.07.17 夕日通信

号外編 『大盛り焼きそば理論』大公開!


久しぶりにコメント(質問)がありました。

大盛焼きそば理論とは? y

どうもありがとう。

それでは、お答えしましょう。久々だったし、ちょっと張り切って、大急ぎで本編の号外編として。




「えーっ。そんなに食べるの?」
「ちょっと多いかな」
「そうよ」
「でも大丈夫」
「そうかしら?」
「食べられるさ」
「そーお?」

 食べ始めてからしばらくは、食べても食べても、皿の中はほとんど大盛りのままのだ。何も変わっていないように見える。
「ほら、全然減ってないじゃない。やっぱり、普通盛りにしておけばよかったのよ」
「でも大丈夫。少しずつ減っている」
「ほんとに?」
「ほら」
「たしかに。少しだけどね」

「もう、半分になった」
「そうね。でも、ぜんぶ食べられる?」
「大丈夫」
「……」

そして、やがて大盛りの焼きそばはすっかりなくなって、皿の中は空っぽになった。

「ね、大丈夫だったろう?」
「ええ」
「僕はね、これを通して学んだんだよ」
「ふーん。何?」
「大盛りでも、食べてしまえばなくなる」
「えっ?」

「とてもできそうにないような量の仕事でも宿題でも、少しずつやればやがて終わる」
「ええ」
「ね。大事でしょ」
「まあ……」
「これを称して、『大盛り焼きそば理論』と言います」
「うん」
「だから、がんばってね」
「ええ……」


日々、膨大な作業量を目の前に呆然としているみなさんは、ぜひこの『大盛り焼きそば理論』を思い出すのが良い。同じように困っている友達には、ぜひ教えてやってください。



こんな号外を書いている場合じゃないのです。
まだまだ募集中!随時ボランティアを募っています。心優しく、いくらかの時間があるという方は、ぜひこちらまでお知らせいただければ助かります。焦り気味は、急拵えのバーナーを見てのとおり。どうか、よろしくお願いします。


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2022.07.17 夕日通信

片付けボランティア第1号現る


昨日、今日と連続して、卒業生が手伝ってくれることになった。ありがたくも、片付けボランティアの募集を見て、申し出てくれたのだ。まあ、途方にくれたトシヨリを見て憐れんでくれたのでしょうね(僕は、今しばらくは自分のことを「老人」、「トシヨリ」と呼ばないようにしようと決心したばかりだったのですが、ここは迷わず甘えることにした)。

「急募!片付けボランティア」は、いったい効果があるものかどうかも不明なまま、大急ぎで書いたのでしたが、翌日朝には案の定、反応はなかった(ま、書いてすぐに読んでくれる人が何人いるのかもわからないので、我ながら焦りすぎ)。そうした時に、「学生なので、平日手伝います」とのメールをくれたのでした(書いたかいがあった。さらに聞けば、これを読んだのは、元ゼミ生たちのSNSのせいらしい。改めて彼女たちに感謝)。彼女は今年から大学院に進学して(ということは、僕のところのゼミ生でもなかった)、新しい環境で学び始めたばかり。

その時のやりとりのメールで、新しい学究生活はどうか尋ねたところ、「学びが多く、楽しいです」とあった。自分が知りたい、わかりたい、理解したいと思って取り組めば、学ぶことは面白いはずだし、得ることも多いに違いない(すなわち、好奇心を満たして、対象への対応を易しくするばかりでなく、これを応用する力を手にする)。そして、自分が一人ではなく、同様に考え、活動する人たちがいることを身近に見出したならば、大いに勇気づけられることだろう。




おかげで、片付けは時間のわりには進んだ。1日目は、新しい環境での生活について話を聞く時間もあったのだ…。

その何日か前、片付けのために寺前に出かけた時、やっぱりやる気が起きずに、仕方なく誰もいない部屋で少し大きな音で古いレコードをかけてみた。歌声が伸びやかに広がって、なかなか良かった。そこで、古いポピュラー音楽の何枚かを持ち帰って、家でも聴いてみることにしたのだった。早速かけてみると、歌い方とアナログレコードの特性ゆえか、音が柔らかく響いて、心が落ち着くようで、心地よかった。




それは、リアルタイムで聴いたわけでもないし、よく聴いていたというわけでもない(当時の実家には、そうした装置はなかった。どこも貧しかったのだ)。しかも、レコードを入手した頃にふだん聴いていたような音楽とも違っていたのに、なぜ、手に入れようと思ったのだろう。ともかくも、いい音楽は、時代やジャンルを選ばないということなのか。それとも、他の理由があるのだろうか。




まだまだ募集中!随時ボランティアを募ります。心優しく、いくらかの時間があるという方は、こちらまでおしらせいただければ助かります。焦り気味は、急拵えのバーナーを見てのとおり。どうか、よろしくお願いします。


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2022.07.13 夕日通信

捨てる技術

先週ぐらいに本屋さんで辰巳渚の「新捨てる技術」なる文庫の新刊をみた。手に取ってまた読んでみようかかなと思ったが買う程でもないかとその場を立ち去った。
このブログを読んだので、新刊のお知らせをしようとAmazonを検索すると、その「新捨てる技術」はもちろん検索にヒットしたが、それと同時に
「あなたがひとりで生きていく時に知っておいてほしいこと ひとり暮らしの智恵と技術」という本が上がった。レビューをよむと彼女と遺作となると書いてあるではないか!
そう、辰巳渚さん2018年に交通事故で亡くなったいたのでした。
彼女の本をすごく読んだというのではないのですが、生活哲学者と自分をなのるそのライフスタイルに共感することが多かったのです。年齢も同じだったので、なにか考え深いものがあります。
合掌。 2021.06.09 
y

yさま

こんにちは。

「捨てる技術」、たぶんこうした本は「技術」そのものよりも気持ちの問題が大きいのでは。確かに技術的に解決することもあるとは思うけれど、それほど大した違いがあるようにも見えない気がします。むしろ、受け取る側の気持ちによるところが大きい。すなわち、技術の背後にある著者の思想がどれだけ読み手に影響するかということが分かれ目ではないか、と思うのです。 2021.06.10 夕日通信

速報編 急募!片付けボランティア


今日日曜と昨日の土曜は、卒業生が手伝いに来てくれて、寺前の引越しのための本の箱詰め作業を行なった。

進捗状況は本と雑誌関係のおおよそ半分程度といったところだろうか。昨日は総勢5名、今日は3名という布陣、それぞれ実働3時間と2時間ほどの作業だった。1日目は一挙にかたづくかと思っていたけれど、それほど捗らなかった。量が多すぎるのだ。それで、持ち帰るもの、保管又は譲渡するもの、廃棄するものの分類も早々と諦めてしまった(やり方を考えなくてはいけない)。




2日目の今日はどうかと思っていたけれど、今度はあんがい進んだ。慣れたのだろうか(3人のうち2人は昨日からの連投)。3人ともがテキパキと動いてくれて、まだやれそうな気配だったけれど、明日のこともあるので、遅い昼食の時間までとなった(3人ともが明日は仕事がある)。

予想以上に進んだとはいえ、全体から見ればまだ道半ば。一人でやろうとしても進まないのです(片付けができないと、なんだか人間失格の印を押されたような気がする)。




そこで、随時ボランティアを募ります。心優しく、いくらかの時間があるという方は、こちらまでおしらせいただければ助かります。どうぞよろしくお願いします。


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2022.07.10 夕日通信

号外編 民主主義の行方


*

片付けの準備に出かけた寺前から帰ったら、安倍元総理が銃撃されたというニュース。

残念の極み、というしかない事件が起きた。元総理はその後亡くなり、誠に痛ましく、気の毒な結果になってしまった。

日本はどうなってしまったのか。我にもなく、これからどこへ向かって行くのか、これまで以上に心配になる。

これが伝染することはないのか。果たして、民主主義は続いていくことができるのか。暴力にひるんで歩みを止めることはないのか。力に屈せず、萎縮することなく進んでいくことを願うばかりだ。

そして、我が国には、死者を悼むのと同時に、もはや鞭打つことはしないという伝統がある。その後のニュースで聞く内外からの言葉も、故人を讃える言葉ばかりだ。バイデンは「世界の損失」と言い、プーチンは「卓越した政治家」と評し、与党の党首は「アベノミクス」を持ち上げた。凶行の現場には花を手向ける人が絶えないともいう。無論、これはこれでわからなくないけれど……。

ただ、これが今後、死者に鞭打つことはしないという伝統に従って、故人のしてきたことに対して情緒的な対応となって、民主主義のあるべき姿の追求をやめてしまうことを恐れるのだ。

さらに、今世界で起きていることに連なって、力によって相手を屈服させようとすることの連鎖がさらに拡大することがないよう願うのだ。

文字通り、あるまじき痛恨の極みという事件となった。

今日は参議院議員の投票日。


* 写真は、『朝日新聞』2022.07.10朝刊


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2022.07.10 夕日通信

最近の不思議を1ダース+1


昨日は、赤帽の人と会って、寺前から撤収する家電製品を自宅に運んでもらった(そのうちのいくつかはシェアハウスで使うからというので運び入れたものの、使われることはなかった)。ちょうど前日に、新聞に定額で家電製品出し放題のチラシが入っていたのが不幸中の幸い(こちらは、計ったようないいタイミングだった)。追浜の方に幾らかのスペースを用意してくれるという話があったので、聞いて見たところ、残念ながら断られていたのです(なかなかうまくいかないものです)。

そして、最終的に自宅で使うものの搬入準備の進め方について打ち合わせをした。だんだんお尻が決まってくると、やらざるを得ないから、これでまた一つ進んだ感じがする(微々たるものですが。楽天的?)。おまけに、ひょんな事でずっと探していた『独学大全』が見つかった(これは良かったのだけれど、探し物がすぐに見つからないようではダメですね。片付いていなければいけない)。


さて今回は、最近不思議に思ったことを、あんまり古くなる前に、1ダースほど。

01.町の職員が約3年間で1億5千万円を着服し、使ったという。何に使ったかと思えば、オンラインゲームやアイドルグッズというのだ。一体何をどのくらい買ったのだろう?なぜ、3年間も見過ごされたのだろう。しかし、お金というのは、その気になればあっという間に使ってしまえるものなのだねえ。

02.東京23区では、高校生以下の医療費の無償化を実施するという。それはいいとしても、収入に関わらずというらしいのです。こういうことが最近はよく見られますね。バラマキ、やっつけ仕事と言われても仕方がない。いろいろと手間はかかるだろうが、なぜ、高所得者層からは取ることにしないのか。一方では、医療保険の負担は増えているから、余裕があるわけじゃないはずなのに。こういうのを悪平等というのではあるまいか。

03.今や参議院議員選挙の真最中。今回もタレント立候補者が含まれているようです。その人が国政にいかせるよな活動に取り組み、発言してきていたことが認められての擁立なら全く異論はないのだけれど、政党がその知名度だけに頼ろうとするように見えるのはなぜなのだろう。


*

04.各党、各候補者が様々な公約を発表している。似たようなものもあれば、正反対のものもある。共通していることは、「国民」や「皆さん」のためという言葉。立場の違いはあるとしても、ただの思いつき、媚びじゃないとするなら、それを集めて比較し、とるべき政策を定める知恵は望めないものか。専門家が知恵を絞って国民生活を守るという視点に立てば、自ずと政策は定まってくると思うのだけれど、これを阻むものはなんなのだろう。もしかしたら、「国民」や「みなさん」の定義が違うのだろうか、いくらなんでもまさか。ただ、その場しのぎになりかねないものもありそうなのです(いまや、契約も約束も紙一枚、髪一本ほどの重さも無いようだ)。

05.国政選挙の投票率が5割に満たないのはなぜだろう。若い人たちの間には、投票したところでたいして変わりそうにないという意見もあるようだし、残念ながらそのようなことも、ままありそうだ。ただ、投票しなければ変わらないままというのは確実だ。

06.理想主義だと言って、これを排する言い方がある。ただ、理想を最終目的にしない計画、政策や公約が存在しうるのだろうか。少なくともこれを目指すべき目標に定めて、これの実現のための短・中・長期的な計画を描くのがいいと思うけれど、これとは無関係に短期的な目標に終始しているように見えるのはどうしたことだろう。あるいは、理想のみでどうやって実現するかは語らないことも。

07.今頃になって、節電要請とライトアップの中止。震災直後こそ節電があったが、いつの間にか元の姿に戻っていた。まあ、まだ6月のうちに40度越え、さらに連日の30度超、27日に関東地方の梅雨明け等々、季節外れの異常気象が続いていたから、仕方がないところもあるかもしれないが、長い間見過ごしてきて、今頃になって慌てているのはちょっと変。一方、鳴り物入りだった太陽光発電の買取価格は、固定買取制度が終了して以来下がった。そして、オゾン層破壊の被害に対する情報が聞かれなくなったのはどういうわけだろう(回復はしているようなのですが)。

08.アメリカでまた、警察官による射殺が問題になった。さらに独立記念日にも、銃撃事件が相次いだ。彼の国における銃乱射や発砲事件の頻発に対して、なぜ銃規制をしないのかという人は多い。一方で、ウクライナ侵攻等を背景に国防力の強化を唱える人々もいる。この二つを支持する人は案外少なくないようだ。もしそうなら、僕は矛盾していると思うのだけれど、どうでしょう。違いは、交渉の余地だろうか。

09.少し前になりますが、ある時雑誌を見ていたら、純粋な「ジャパニーズ・ウィスキー」の定義というのが決まったらしい。中身はこちらを見てもらうとして、決めたのは国ではなく、日本洋酒酒造組合という業界団体らしい。一方、ビールについては、先に書いたようにいろいろなフレーバーをつけたものも認めるようになった。こちらは2018年に改正された酒税法による。税金の取り方に関わること以外は自己努力で決定せよということなのだろうか。

10.尼崎の市民46万人のデータが入ったUSBメモリを紛失したというニュース。その後見つかったということで、まずは良かった。46万人分のデータが小さなUSBメモリに入ることに改めて驚いた。いったい、一人当たりどのくらいのデータが入っていたのだろうか。

11.戦争は悪。疑いようがない、と思う。しかし、ウクライナ在住の人々の中には怒るどころか喜んでこれを受け入れる人がいるようなのだ、親ロシア派の人々、ロシア人の人たちという)。彼らは、避難していく人々のことを気遣うこともしない(外国のテレビ経由の情報だけれど)。ということは、少なくともふだんから親しんでいたわけじゃないということか。さらに、ウクライナ侵攻のせいで、エネルギー不足や食料危機が懸念されている。ウクライナは小麦の輸出国第5位だった。それでも、GDPEU諸国の中で最下位の国のそれをさらに下回るという。

12.コロナ感染者がまた増えている。これは、不思議でもなんでもないか。

+1.KDDIの通信障害が、完全復旧までに86時間かかった。過去最大級の通信障害だといいう。その影響は広範囲で(うちの固定電話もつながらなかった)、手術ができない等の命に関わるような被害も含まれる。なぜこんなにも甚大な不具合がという気もするが、完璧な機械、システムはありえない。こうしたものに、全てを委ねなければならない状況が、むしろ不思議な気がするのです。


* 写真は、『朝日新聞』2022.07.06朝刊


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2022.07.04 夕日通信

号外「夏鮨」

ここ数日は朝晩はいくらかしのぎやすいとはいえ、相変わらず殺人的な暑さが続いていますが、お変わりありませんか(当方は、はやふらつきぎみですが、さて何に起因しているものか)。

昨日、ありがたいことに箱詰めを手伝いますと申し出てくれた卒業生(嬉しいですねえ)との打ち合わせのために寺前に向かう駅のホームで、「夏鮨」と大きく描いたポスターが目に入った。

「夏鮨」ってなんだろう。どういうものだと思います?初めて聞くけれど、でも、スズキや カレイといった白身魚やちょっと早い新子などの青魚を中心にした一皿を想像すると、なんだかさっぱりとして美味しそうです。

どこでやっているのだろう、何か説明がないかと近づいてみると、神社の鳥居の写真がいくつかあるだけ。神社との連携?新手のキャンペーンなのか。お鮨と関連のある神社があっても不思議じゃないような気もする。今は、たいていの神社は何かのご利益を謳うものだし、中には包丁供養のように調理と縁が深い行事をやっているところもある。でも、見たところお鮨の写真はおろか、店の名前も何一つ記されていないようなのだ。




それで、近づいて、よく見たら、詣とあった。夏「鮨」ではなく、夏「詣」。

漢字を見間違えた、というかまんまと騙されたわけですが、これはこちらの視力のせいもあるけれど(ちょっとお腹も減っていたかも)、もしかしたらこのポスターを作成したデザイナーの仕掛け、思惑ではないかという気がするのは、負け惜しみだろうか。ふつう、「詣で」と書くところをわざわざ「詣」としたのは意識的にやったことで、夏鮨と思わせておいて、つまり興味を引いておいて夏詣に導こうとしたのではないかと思うのです(だいたい、神社詣でよりもお鮨の方に関心がある人の方が多いでしょう)。そして、その狙いは首尾よく成功した、という気がするのですが、さてどうでしょうね。

よく似ていて、しかも全く違うものを連想し、その2つを置き換えること。ただのダジャレのようでもあるけれど、あざとい感じはしないし、しかも出来上がったものはどこか涼しげでもあって、いかにも夏にふさわしい。この2つの字が似ていることを利用することを思いついたデザイナーは、「やった」と膝を打ったのではあるまいか。僕のように騙された方はしばらくして、「やられた」と思うに違いない。それから、神社にでも行ってみるかと思い、そのついでにお鮨を食べようという気になるかもしれません(その逆かもしれないけれど)。何れにしても、彼/彼女の狙いは見事に当たったわけですね。

ただ、こうした(思い込みによる)見間違いは、このところよくあるような気がするのです。こないだは新着メールの知らせが入った時、「アサヒビールから?」と思ったのですが、開いてみると「Amazonの『ビール職人の…』の案内」でした。やっぱり、年取ったせいか(これも、老人の性向の一つのような気がするのです。やれやれ)。

そしてもうひとつ、ついでに思ったことは、自分が大技よりも小技、根本的であるよりも小手先に走りがちな性格なのかもということでした(あんまり嬉しくない)。

明日は、最初の寺前の引越しからずっとお世話になっている赤帽の人と、今後の進め方を相談するために会うことになっています(いったい何度、頼りにしてきたことか)。2歩下がって3歩進見ながらも、少しずつ前進しているということだ、たぶん(!?)。


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2022.07.04 夕日通信

英国製ミステリドラマ『主任警部アラン・バンクス』


このところは、映画よりもミステリというか刑事ドラマをよく見ている(映画はスクリーンで見たいけれど、今は家にプロジェクタとスクリーンがない)。ミステリドラマは昔から好きで、古くは『主任警部モース』やそこから派生したシリーズ、『刑事フォイル』等々を楽しんできた。最近はアマゾン・プライムで、『ボッシュ』とそのスピンオフや『ニュー・トリックス』を経て、ここしばらくはずっと『主任警部アラン・バンクス』。毎日90分ほどは必ず見ているのですが、次第に気になることが……。


*

それにしても、なぜこうも暗いのか。アメリカ製の『ボッシュ』だって、決して明るいわけじゃないけれど。同じチームの中での当てつけ、妬みや嫉妬の故と思われる場面が、これでもかというくらいに出てくる。さらに主役の3人は、それぞれに家庭の問題を抱えてもいる。英国製はこういう側面も描くことが多いようですが、ちょっとこれはミステリドラマとしてはやや度を越しているのではないか、という気がするのです。

それが現実的、実際の人間模様はそうしたものだというのかもしれないが、これはフィクション、テレビで見るドラマなのだ(僕が表層的な理解をしがちというせいかもしれません)。それでも、創作ドラマは、そこまで現実を写さなくちゃいけないなのか(ま、この方が「地に着いた」とか「良質な」というような褒め言葉が似合うのかもしれません。あるいは、直截的に「リアル」に描いた、とか)。そうした要素が全くゼロというわけにもいかないだろうけれど(それはそれでものたりなくなりがちという気がする)、バランス加減が好みの分かれるところなのでしょうね。

ハッピーエンド(僕はあまちゃんなので、基本的にはそうあってほしい)じゃなくちゃだめという気はないけれど、人間の嫌な面、不幸な場面ばかりを見せつけられてもという気がするのだ。ま、いつの頃からか、我が国のミステリー本の分野でも「イヤミス」という言葉も定着したようだから、こうしたものを好む人が少なからずいるということですね。一種の「怖いもの見たさ」や「自虐的」と通じるところがあるだろうか。また、バンクスのすぐに感情を爆発させるところも気になる。

それでも、やめてしまおうと思わないのが、我ながら不思議で、結局全部見た(これを書いている途中で終了してしまったのでした。シリーズ5までで、しかもシリーズあたりの本数が少ない)。次のものを探そうと海外ドラマ紹介サイトを見てみると、英国製にはこれをもっと暗くしたミステリドラマがあって、やっぱり人気があるというのですが(国民性なのでしょうか)。

それで、今はどうしているのかといえば、『新米刑事モース〜オックスフォード事件簿〜』をプライムで見ています。『主任警部モース』(英語版のDVD32話も持っている。これは手に入れやすかったというだけの理由です。モースの生みの親で、そのうちの何話分かの原作となったコリン・デクスターの小説も全部読んだ)の若い頃の物語(原作にはないので、そのキャラクターを借りて、テレビ用に新しく作られたもの)。

すでにもう、1回は見ているのだけれど(NHKBSで放送されたものを録画してもらった)、改めて見てみるとやっぱり面白い(こちらも、ちょっと嫌味なところがあるけれど、それがドラマに人間味や厚みを与えているのかも)。舞台であるオックスフォードの街並みや、古いジャガーやミニ等の車が出てくるのも楽しい。ドラマであれ、小説であれ、ミステリは一度楽しんだらすぐに綺麗さっぱり忘れてしまう。だから、何度でも読んだり見たりすることができるのだ。

でも、こんなことに時間を使っている場合じゃないのだよ(「現実逃避」ということも、わかっているのです)。

ところで、6月27日に関東地方の梅雨は明けたという(異例の早さ!)。片付けも、かくありたい!それにしても暑いです。

*写真は『主任警部アラン・バンクス』公式サイトから借りたものを加工しました。


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2022.06.29 夕日通信

最近の不思議を1ダース


01.ウクライナ侵攻による難民の受け入れが、我が国でも進んでいるようだ。ただ、他の事情による難民の受け入れは進まない。これは、人の命の順位をつけるということではあるまいか。

02.ロシアによる侵攻を否定する国ばかりではないこと。これまでも何回か書いたことだけれど、高度な教育を受けて、平和や人の命の重要性を学んだはずのリーダーたちが、これを無視し、時に戦争を始めてしまうのはなぜなのか。これに対抗する手段は、武力しかないのだろうか。


*

03.憲法改正の理由のひとつに、押し付けられたものだからとするのがあるのはなぜだろう。テレビでもお菓子でも、与えられたり売られているものを喜んで受け入れているのに。

04.我が国は、なぜ核兵器禁止条約を批准しないのだろう。それどころか、オブザーバーとしての参加さえもしない。

05.原発事故の国の責任は認めないというのが、最高裁の判断。事故の前の予測の正確性が論点だったようだけれど、国が推進し、認定した原発の事故に責任がないというのは不思議。

06.さらなる円安を容認する。自国の経済力や国民の生活、現地生産の輸出を主体とする大企業は別にして、中小の企業や商店を圧迫することに対して手を打たないように見える。例えば、ずっと追随してきたアメリカのやり方とは、正反対なのはなぜだろう。

07.議員の定数是正について。都市部対地方の格差が2倍を解消するということのようで、一見正当なようですが、なぜ都市部選出の議員数が多いのを当然とするのだろう。結果的に、弱者を無視することにつながらないのだろうか。

08.なぜ、週刊誌はスクープできるのだろう。先日も議員が追い詰められていたようです。このほかにも、新聞広告を見るだけでも飲まない方がいい薬だとか、例えばトランス酸を含む食物のように食べてはいけない食品リストが載るのはなぜなのだろう。それが正しいのなら、販売禁止にしないままなのはおかしい。

09.人はなぜ、自分だけ良ければよしとするのだろう。特に、命に関わるような手抜き工事や偽証が相変わらず続いている。これまで真面目な国民性とされてきた日本で、けっこう昔から見られるのはどうしたことか。

10.ビールの定義。いろいろなフレーバーをつけたものも認めるようになったらしいが、ビールの本場、ドイツの「ビール純粋令」とはずいぶん違う。これに該当しないものは別の飲み物とすればいい、と思うのだけれど。

11.NHKの中立性や公平性。ことあるたびに、中立性や公平性をいうけれど、ニュースに登場する商品名を隠したり隠さなかったり、また商店や会社名を匿名にしたり明示したりするのはなぜだろう。明確な基準はないように見える。少なくとも、守られてはいないようだ。

12.なぜ片付けられないのか。片付けたい、スッキリとした空間で過ごしたいという気持ちはあるし、その(現実的な)イメージも明確なのに体が動かない。無論、怠け者のせいというところまではわかっているのですが、それ以上のことはやっぱり謎なのです。

これらの不思議は、その原因の大半は、それぞれについて僕自身がよくわかっていないせいですね(最後のものだって!)。


* 写真は、『朝日新聞』2022.06.22朝刊


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2022.06.22 夕日通信

懐かしいもの、新しいもの


先々週(ああ。もう先々週!)の土曜日は、これまた久しぶりに室の木校地に出かけてきた。中庭まで入ったのは1年以上も前のことになる(去る者は日日に疎し)。

チャペルで、昔お世話になった人の「偲ぶ会」があった。構内に入るのはあんまり気が進まなかったのですが、不義理をするのもはばかられるし、土曜日で出席者以外は人もいないだろうと思ったので出かけてきました。

最初は受付だけ済ませたらすぐに帰ろうかと思って出かけたのですが、行けば、キャンパスはもちろんのこと、会の前にはうんと昔にいっしょに働いていた人とも会うことができて、懐かしくて、案外楽しかった(なんといってもこれまでの人生の約半分、35、6年ばかりも通ったところなのだから)。十何年かぶりに顔を合わせて話し込んだ人に、せっかくだから献花だけでもしていったらと勧められて、これを終えたら早々に引き上げるつもりでいたのですが、結局第一部が終わるまで待つことになった(このあたりが優柔不断)。その中で『頌栄451番』を聴いた時は、時が巻き戻されたかのようだった。ただ、久しぶりに耳にしたパイプオルガンは響きがずいぶん薄い気がしたのは、第1にはやっぱり空間のせいだろうけれど……。ようやくそのあとに退出して、しばらく中庭を眺めて、写真を撮って退散してきました。




中庭はシロツメクサに覆われ、白い花が咲いていて、あんまり人が立ち入ってないような感じでしたが、どうなっているんでしょうね(ちょっと心配。ま、もはや気にしてもしようがないけど……)。

しばし、しみじみと感じ入りました。




一方、先の銀座では、建物以外にも新しいものがありました。ニュースにもなった(と思う)『サイクルポリス』、というようですが、彼らが乗る自転車で、アップルのビルの脇に停めてありました。まさか、欧米の都市のように馬というわけにはいかないだろうから(僕はイギリスで実際に遭遇して、驚いたことがあります)、自転車に乗って移動するおまわりさんは見ても楽しいかもしれません。

Hくんは、集まりの席上で、どうした経緯だったか、「自分で決めたつもりでも、案外、そうなっていたということが多いのではないか」と言ったのだった。だから「天職なんかないですよ」とも。その直後に、例の「折々のことば」に養老孟司のことばが引用されていたのですが、ほぼ同じようなことでした。だから、何があってもくよくよ考えないと思い定めることにしよう。あれこれ考えてもどうにもならないことがあるのだ。ならば、前を向くほうがいい。

「天職」については、僕が知っている限りでは、古くはあの伝説的な鮨職人が、「天職などというものはない。与えられた仕事を一生懸命やっていれば、やがてそれが自分の方に近づいてくる」というようなことを言いましたが、この辺りになると僕はちょっと真似できそうにありません。ま、もはや無縁のようでもあるけれど(いや、案外そうでもないのかも)。そういえば、Hくんは建築の大学院を出たけれど、最終的な職場はそれとは無関係のゲームソフト制作の会社だったし、Yさんも大学の専攻とは全く別の分野の業界誌を立ち上げて、発行している。

ところで、つい何日か前には古いものにとらわれないようにしようと書いたばかりなのですが、年をとると、なぜか新しいものよりも古いものの方が勢力を増してくるようです。最近の歌にはちっとも惹かれないのに、古い歌に心が動くことが多くなった(たとえば、『ダニー・ボーイ』や『ムーン・リバー』)。しかもそれは、昔よく聴いていたというものばかりではないのだよ(たとえば、『島原の子守唄』や『五木の子守唄』)。

ビデオはラジオ・スターを葬ったけれど、トシヨリの中ではやがてまた息を吹き返すようです。でも、脳は騙されるというから、どうせなら、あかるい歌の方がいいかもしれない、たとえばあの『バラ色の人生』とか。

何にせよ、自ら動いて変化しなければ、苔が生えてしまうと言います。易しくはないけれど、今度こそは、一生懸命に取り組まなければなりません(自戒)。


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2022.06.15 夕日通信

番外編 前向きになる練習


今日は何ヶ月ぶりかで、寺前に出かけてきた。

必要なものがあったので取りに行ったのだけれど、ついでだからと少し持ち帰るべきものを持ち帰ろうとしたら、これがいけなかった。

作業中に、デュアル・ディスプレイとして使っていたモニターが倒れて、画面に大きな傷がついた。それからデスクトップ・コンピューターに入っているアプリケーションソフトのキーコードを調べようとして電源を入れようとしたら、全然反応しない。何度やってもダメ。参った(このところ、寺前ではどうもよくないことが起こる。どうやら相性が良くないようだ)。これで、古いソフトは使えないかも。このほか、ある時期までの写真がすべて、ここに入っている。これは困ったことになった。どうしよう。


*

でも、しばらくして思い直した。起きたことはしようがない。後悔しても元には戻らない。受け入れて、くよくよしないようにしよう。思い悩まないことの練習だ。そのあとタイムマシーンがあったことを思い出して、これでなんとかなるかもしれないと一安心した。何れにしても覆水盆に返らず。古いものを溜め込まないことや、過去にとらわれないことの契機にもなる。ただ、その時の写真を撮るのを忘れた(やっぱり動揺していたのかも)。




そんなことを考えながら帰ったら、あたりがにわかに暗くなり、雨が降り出し、そして雷鳴が轟いた。しばらくすると、やがて雷鳴は小さくなり、雨も上がって、日が射して明るくなった。積もった埃は綺麗に洗い流して、さっぱりとした気分で暮らそう。


* 写真は、少し古いものを使いました。


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2022.06.12 夕日通信

僕の欠点、憧れはあるのに


とある昼下がり、例のごとくぼんやりと過ごしていたら、スピーカーを通した女性の大きな声が聞こえてきた。どうやら夏の参議院議員選挙に向けての活動のようだ。

その第一声は、「おはようございます。……」でした。これはもうダメですね。何人の子育てをしてきただったか、しているだったか、何のかのと立派そうなことを言ってもダメ。聞こうという気になりません。国政選挙に出ようという陣営の大人が、昼過ぎに「おはようございます」とは、笑止千万。こういう人が国語教育だの日本の未来だのと口にするから恐ろしい(と書いても、当の本人は、なぜそんなふうに言われるのか、たぶん見当もつかないのでしょうね)。


*
*

まあ、時代は変わるし、常識も変化するので、念のために調べて見ると、多くの会社で10時までということになっているようでした。また、例えば『日経STYLE 』のサイトに載っていた2017年61日付のコラムには、NHK放送文化研究所の調査結果として、1位が午前10時までOKとする人が45%、2位は午前9時までOK26%、そして3位は午前11時までOK13%とあった。ただ、これに対し、見つけることのできた放送文化研究所のサイトの20065月6日付の記事には2002年の調査結果が掲載されており、図のように9時の「おはようございます」をよいとする人が9割、10時の「おはようございます」をよいとする人は6割強となっていて、先の『日経』のものとは異なります。さらに、若い人ほど遅い時間帯を許すようです(僕自身は10時頃までと思っていたので、案外厳しい見方をする人が多いような気がしたのですが、20年も前の調査なので、こうしたものかもしれません。ま、いずれにしても調査の詳細が不明なので、正確さについては不明ですが)。

少し前まで、僕は、学生たちが時間帯にかかわらず「おはようございます」と言うのにいちいち反応して煙たがられていたのですが、まあ、おおむね同じような感覚を共有している人が多いことがわかって、良かった。

ただ、相変わらず血圧は上がりっぱなしで、まあ、こんなことで喜んでいる場合じゃないのです。

僕はいちおう「住まいのデザイン」について講じることを仕事としてきたので、「住宅のデザイン」についての関心は当然ながら人並み以上にあるつもりですが、いわゆるショウルームのようなスッキリと整えられたインテリアが第一、というわけじゃない。じゃあ何を住宅に求めるかといえば、本を読む、音楽を聴く、映画を見る、書き物をする、台所で遊ぶということ等を楽しめればいいのです。

ということは、そのためのスペースと機器類がありさえすれば、どんな場所でもいいと言えなくもない。たしかに、たいていのことはそれでなんとかなるので、そうに違いないのだけれど、それをいいことに放っておけばやがてモノが溢れて、次第に心まで圧迫し、ざわつかせて落ち着かなくすることになってしまうのだ(手元に「ある」ものを工夫してしのぐのもいいのですが、これが勝ちすぎるとみすぼらしくなる)。だから、ていねいに暮らすということ、質素でもさっぱりとした空間に憧れるのです。

そうした気持ちはあるものの、一方ではなかなかそのことに集中できないで、すぐに飽きてしまう。長続きしないのです。意志が弱くて、怠け者でつい楽な方を選んでしまう、というのが僕の大きな欠点のひとつ(……)。十分すぎるほどわかっていながら、それでもなかなかやる気が出ないのが困りもの(さあ、どうしよう……)。

追記:ここまで読んでくれた人に、どうもありがとうございます。辻仁成の「JINSEI STORIES」を読んでいたら、末尾に必ずそういう謝意が記されていました。彼の場合はいざ知らず、僕の場合は読む人の役に立つようなことや立派なことは書けないし、いったい読んでくれる人がいるのかどうかさえ定かじゃない。今更ながらですが、もしたまにでも読んでくれている人がいてくれたのら、ちゃんとお礼を言わなくてはいけない気がしたのでした(こんな大変な時代に、それがたいしたことじゃなくても、能天気にみえるようなことでも、書くということは誰かに読んでほしいということでもあるのだから)。


* 写真はNHK放送文化研究所のウェッブサイトから借りたものを加工しました。


2022.06.08 夕日通信
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La Vie en rose


先日録画してもらっていたDVDがようやく届いたので、早速観ていたら、久しぶりに少し元気になったような気分になった。「前向きに考える」ことを改めて教えられたのだ(いくつになっても教えられっぱなし。しかも、すぐに忘れてしまう)。必要ならば、いつでも、何からでも受け取ることができるということを、またしても思い知るのだ。


*

何を観たのかと言えば、『ボンジュール!辻仁成の春のパリごはん』とその続編の『秋のパリごはん』。それまで、辻仁成の名を知らないわけではなかったけれど、なんとなく遠ざけて来た。特に理由があったということでもない。だから、小説も読んだことはない。作った料理をブログやSNSで発信して、それが評判になっていると聞いていたし、それも趣味としてではなく、シングル・ファーザーとして作っているという。それでも無縁だったのが、彼の料理を中心としたテレビ番組として放送されるということを知って、録画してもらったのだった。

僕はシングルファーザーでもないし、子供もいないけれど、十分楽しめました。そして、教えられることも多かった。彼は、自分のことを「自分で自分を励ます天才」と言い、ブログには「美味しいものを食べていれば、きっといつか幸せがやってくる」とも書き、そのことを息子に伝えるために、ごはんを作ると言うのだ。こうした積極的な思考と、それを実践しようとする姿が羨ましい。ただ、「料理は愛情表現だから、自分のために作れるか」ということを心配するようなところもある。

正直に言えば、観はじめは違和感があった。なんだか若づくり(幾つになっても若者風の佇まい)のようだし、ちょっと気取っているようにも見えたのです(まあ、テレビの番組を撮っているわけだからね)。おまけに、最初に目についた鍋はル・クルーゼだったし(別に、ル・クルーゼが悪いわけでも、恨みがあるわけでもありません)。その後、ストウブの鍋が出てきて、色も薄いグレイ(うちのものと一緒)だった。で、だんだん親近感を覚えるようになったのでした(若づくりなどと揶揄しながら、こちらはミーハー)。ただ、彼が若づくりなのは、自身が若くありたいことに加えて、たぶん年の離れた息子に対して若々しい父親でいてやりたいのだ。

彼は僕より10ほども若いけれど、観ていくにつれてお手本にしなければならないと思うことがたくさん出てきた。僕は、恥ずかしながら、幾つになってもお手本が必要なのだと思わざるを得ないようだ。自分で考えて、自分で決めることができないことの表れで、このことを残念に思うけれど仕方がない。できるだけいいお手本から学び続けるようにするしかない。残りの人生を楽しむために。たぶん、辻仁成だったら、「僕の未来を精一杯楽しむために」と言いそうですが。

今回初めて彼の歌を聞いたけれど、まあ、また聴きたいというものではなかった(好みの問題ですね)。あれだけていねいに日常生活に向き合っているのに、歌うときはなぜあんなふうに過剰になるのか。不思議に思ったのだ。しかし、考えてみれば歌手でもある彼が平穏な日常生活を保つためには、むしろ自意識過剰とも思えるような表現、すなわち表現者としての強烈な自負が必要になるのかもしれないと思い直しました(あ、こうした手段を持たない場合はどうすればいいのだろう?)。自分には表現したいこと、自分には表現するのに値するものがあるのだと信じられることが羨ましい。

彼はコンサートであれ日常の場であれ、折に触れて『La Vie en rose(ばら色の人生)』を歌う、口ぐさむという感じではなくて、しっかりと大きな声で歌う。歌えば手に入るとでも言うように。『ばら色の人生』は知らないけれど、これからは僕も大きな声を出すことにしようと思う。時間はかかるかもしれないけれど、運がよければ幸福な時間にたどり着くことができるかもしれない。

明日から、気を取り直してやるべきことをやることにしよう。

と書いておいてすぐに言うのもはばかられるのですが、その後の不動産屋さんでのやりとり思うと、気分はなかなか軽くなることが許されないようなのです(やれやれ)。しかたがないから、美味しいものに挑戦しようと思います。


* 写真はNHKのウェッブサイトから借りたものを加工しました。


2022.05.25 夕日通信
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時代は変わる


いつものようにラジオをつけっ放しにしていた土曜の朝、ストーンズらしき曲が聞こえてきた。聴き覚えのない気がしたので、新作が出たのかと思ってインターネットで調べようとした。そしたら、日本人のグループのことがずらりと出てきてびっくり。ストーンズといえば、『ローリング・ストーンズ』のことに決まっていたのに。「時代は変わっている」のだ。


*

おまけに、新作ではなかったよう。でも、新発売のものらしい。HMV&BOOKSのウェッブサイトによれば、1970年代の半ば頃に、新しくロニー・ウッドをサポートギタリストに迎えて製作したアルバム『ブラック・アンド・ブルー』の発表に伴うツアー中に、カナダのトロントの小さなクラブ ”エル・モカンボ” で行なった伝説のシークレットライヴを収めた全23曲のCD2枚組完全版が発売されたとのことだった。

今まであんまり高齢者バンド、というかバンドのメンバーの年齢を気にしたことはなかったけれど、ちょっと気になった(高齢者ミステリ小説であれ、高齢者が元気で活躍するのに励まされるというか、刺激を受けないと気が滅入る一方だ)。少し前までは、こんな気持ちになることもなかった。むしろその逆で、たとえば、選手や歌手たちが「同世代の人々を励ましたい」、「人々に勇気を与えたい」などの言い方をするのを聞くたびになんだか違和感があって、嫌な気がしたのだった。ともあれ、そんなわけで、一時高齢者映画やミステリ小説から離れたと書いたことがありましたが、また復活したのでした。

でも、人の声はあんまり、というかその年齢ほどには変わらないのかな。チャーリー・ワッツは亡くなったけれど、主役の二人が78歳のストーンズは今でも元気がいいし、まもなく80歳になるというポール・マッカートニーの新作を聞いても、昔とさほど変わった気がしない。一方、『時代は変わる』を歌ったボブ・ディランは81歳、人気が絶頂に向かおうという頃、まだ若い時にフォークギターをエレキギターに持ち替えて大変貌を遂げたけれど、歌い方や声はそれほど変わらないようだ。

まあ、何れにしても自分よりも年配の人々が活躍するのを見るのはいい気分です。ということは、「老い」の自覚の表れということなのかもしれません。時が移れば、自分も、そして周りも変わるのだ。


* 写真はHMV&BOOKSのウエッブサイトから借りました。

2022.05.25 夕日通信
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大人」であるということ


「大人って、何ですか?」

「二十歳の頃の話を聞かせてください」
 ある時、不意に言われて、
「むづかしいね。覚えていないんだ」
 と、ちょっと驚いた僕は答えたのですが……。

以前にも書いたことがあると思うけれど、僕はその頃に限らず、過去の記憶が乏しい。はっきりと覚えていることが、ほぼないのだ。これは誇張でもなんでもなく本当のことで、例えば大学の同期の友人たちと会った時に、あの時はこうだった、ある時はああだっと言うのを聞いて、感心するばかりなのだ(いろいろなことをまるで昨日のことのように覚えている、むやみに記憶がいいやつがいるのだね)。




それでも諦めないで、食い下がってきた。なんでも、雑誌「POPEYE」の特集に『二十歳のとき、何をしていたか? 』という著名人の二十歳の時の話をまとめたものがあって、これに感動した彼女は、自分でも身近な人にインタビューして、同じようなものを作りたいのだと言う。ほかの人がいいんじゃないかと言っても、聞かない。それで、苦しまぎれに「大人じゃないし、まして立派でもないし」と答えたのが、さらに質問を呼ぶことになった。それで冒頭のようなことを聞かれたという次第なのだ。

「大人って何ですか」と改めて問われると、なかなか明確に答えきれない。それなのに、自分が「大人」じゃないことは、不思議とはっきりわかってしまうのだ。

皆さんなら、何と答えるだろうか。

僕は急いで、
「字も下手だしね」と付け加えた。
「えっ?」
「ひとかどの人物は、それなりの字を書く、というようなことを読んだことがある」

実はこれは丸谷才一の『女ざかり』の中に、そう言う場面があった(はず)。と書くと、「おや、ずいぶん記憶力がいいじゃないか」と思う人がいるかもしれない(何しろ、この小説が出版されたのは1993年なのだから)。しかし、これは不思議でも記憶力がいいというのでもなくて、つい最近読み返したばかりなのだ(おまけに、正確にはどういう風に書かれていたのかは覚えていないし、確かめようとしても探せなかった、確かにあったはずなのに)。

また、「記憶に残るというのはそこに何かがあるからで、決してノスタルジーではない」(秦早穂子)というのがあった*から、僕の場合には、これまでその「何か」がなかった、ということになるのだろうか。

「大人」ってどういう人のことですか?

「引越し」に関しては、なんの進展もない。おかげで、このところはずっと早くに目が覚めてしまうし、血圧も上がり気味。このままでは、体調にも影響しそうだ。一方、億劫さが先立って、なかなか準備に取り掛かろうという気にもならない。さらには、気分もささくれだってくるようで、この辺りも、老人ではあっても、残念ながら一人前の「大人」とは言いにくいようだ。


*こちらは、忘れないようにパソコンに書いておいた。「折々のことば」、鷲田清一、2022年2月8日朝日新聞朝刊


2022.05.18 夕日通信
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海ちか」プロジェクトからの撤退 03


先日、プロジェクトの企画者の一人である先生からメールがあり、新しい引越し先(とりあえずの荷物の仮置場、という方が良さそうだけれど)の候補をいくつか案内してくれるというので、出かけることになった。






で、木曜の朝、一縷の希望を持って見に行ってきたけれど、結論から言えば、残念ながら、検討するまでもなく適切とは言えないものだった。写真を見てわかるように、平屋の方は傷みが激しいし、後のものは急階段を登らなければならないし、片付ける必要がありそうなものもあった。前者は、時間がたっぷりあれば、改装するのも楽しいかもしれないが、そうもいかない。後者は、これから時間のみならず、体力も乏しくなるものにとっては、とても使えそうにない。

早く、次の場所を探さなければならない。しかし、場所や広さと経済の折り合いがある(これがなかなかうまくいかない)。さらに気分を重くするのが、引越しに伴う負担。箱詰め、搬送、荷ほどき、そして設置に至るまでの作業は、精神的にも肉体的にも、文字どおりおおきな負担なのだ。したがって、もはや何度もできるというものではない。となると、慎重に選択したい。当分、この「葛藤」、「たたかい」は続きそうだ。一方、「契約」は紙より軽いようだ。

これをブログに書くのは、心の整理、備忘録、頭の体操等のためのつもりだけれど…。もしかして、運が良ければ、アドバイスがやってくるかもしれない。でも、こういう話ばかりではあんまり楽しくないね。考えなくてはいけない。

帰りに、床屋に寄って、伸びていた髪を切ってもらった(髪は、その多寡その他とは関係なしに、伸びる。予約なしだったが、運良く空いていた)。ともかく、頭の外側は、さっぱりした。


2022.05.14 夕日通信
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海ちか」プロジェクトからの撤退 02



先日の久しぶりの訪問の続き。




写真は、1階の共用スペース。プロジェクトでは、在学生や卒業生、そして入居者のためのブックカフェ風のサロンになるはずだったけれど、こちらは文字通り手付かず。本や雑誌も箱から出して、とりあえず棚に詰めて込んだという状態(別の部屋に新しく入ってくる入居者のために、箱に入ったままの荷物を移動して部屋をからにする必要があった。結局、最初に入った2人から増える事はなかった)。プリンタやTV、食器等も同様。

これには、住人の一人として、責任を感じる。しばらく体調のことがあって通えなかったり、車の禁止といった個人的な事情があったほか、コロナ禍に関わる事等々、諸々の事情・状況が重なって、進めることができなかった。ここも「Nice Space」にはなり損なった(一人でも整備しようという気力も、もうなかったのだ。もう一人は、もともと関心がないようだった)。




一方で、いつの間にか、冷蔵庫置き場に入らないほど大きな冷蔵庫をはじめとする家電製品がいくつか運ばれてきたりしたが(たぶん、大家、プロジェクト企画者、入居者の3者の思惑のすれ違い)、このことも当初の計画を狂わせ、困惑させられた。僕自身は、台所を使うことが一度もなかった。

そんな中で、不幸中の幸いと言うべきか、解いた段ボールが処分しないまま残っていた。まずは、これを使って箱詰めを始めるのが先のようだ(使えるといいけれど)。

と、一旦は思ったものの、いっそ専門の業者に頼んでしまおうかという気にもなる。作業量が多いことにもうんざりだけれど、今度はその先には何もないのだ。次第に、残り少ない時間をこんなことに費やすはずじゃなかったのに、という気がしてくる(気分はますます重くなる一方。気力、活力が乏しくなっているのだ)。

その後のある朝、ゴミを捨てに出ると、ゴミを入れるネットの外にダンボールと本らしきものが目に入った。紙ゴミの日でもあったんだと思い出しながら近づくと、小さなダンボールがいくつかと紐できちんと結ばれた本がいくつかが、きれいに並べられてあった。裸の本の表紙を見てみると、多くが歌集のようだった(きっと愛読していたものに違いない)。やっぱり捨てることを考えるしかないのだろうか、という気がした。

このところの新聞を見るとなぜか、「断捨離しました」という番組だの、誰でも迷わず捨てられるコツが満載の「捨てる決心をつけてラクしてキレイが続く家に」という特集の雑誌だの、「なんでも溜め込んでしまう夫婦、死の間際に片付けを決意する老婦人、本を捨てられない新聞記者」等の話からなる小説だのの文字が目に入ってくる。

また、別のある朝、お湯を沸かしていたときのこと。何か燃えているような匂いがした。コンロの火は消してあるはずなのだけれど…と確認すると、たしかに消えている。でも、匂いは消えない。おかしいと思っていたら、左手のミトンから炎が出ていたのだった。でも手は熱くなかったから、ミトンの耐火性能に感謝しなくてはと思っていたら、今度はベストの裾が焦げていたことに気づいて、びっくり。なんだか、急に、というかさらに老人になったのだという気がした。


2022.05.11 夕日通信
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春、なのに


今日は憲法記念日。ゴールデンウィークのちょうど真ん中あたり。今年は3年ぶりの制限なしということで、どこも盛況らしい。皆さんはいかがでしょう。僕は、帰省することも叶わず、どこにも出ないままで、これまでと変わるところがありません。というか、ちょっと気が重い。

先日、寺前の部屋の大家さんから契約を解除したいという申し出があったいう連絡が、この「海ちかスタジオ・プロジェクト」の立案者の一人の先生から届いた(驚きはしたけれど、青天の霹靂というのでもなかった)。

このイベントスペース+シェアハウスを軸とするプロジェクトは5年を目安にして契約されたものだったから、ほぼ1年とちょっとで打ち切りに相成ったということになる。

僕自身も、参加を決めた当初の条件が次第に変わってきて、思惑通りに使えないようになったので、5年を待たずいずれ出なくてはいけないと思っていたけれど、先方から言われると話はまた別。踏ん切りがつく一方で、時間的制約のある中での引越しの大変さが気分を重くする。何しろ本と雑誌だけでも、段ボール箱が何百個もあるのだ。その思いが日が経つにつれて強くなってきた。寝ていても、途中で目覚めたら、このことが頭に浮かんで眠れなくなってしまうときがある。

今思えば、ここに越してくるときに、本も思い切って処分すればよかったのかもしれない(その時は、「ブック・カフェ」風という魅力的な話で、渡りに船だった。だから、ある種、自業自得)。此の期に及んでは、捨てられない性格をなんとかしなくてはいけない。空間には限りがあり、残された時間も長くはないのだから(わかってはいるのですが……)。

研究室を出るときもなかなか大変だったけれど、その時に比べると、交通手段、マンパワー、資材の入手、体力、使える時間、経済状況等々の条件が、段違いに悪すぎるのだ。おまけにコロナ禍のこともあって、当時箱詰めやら何やら手伝ってくれた卒業生たちのほとんどをここに招くことのないまま閉じてしまうことも気になる。

まずは、この日に日に重くなる気分を整えなくてはと思うのだけれど、考えれば考えるほど鬱々としてきて、気分はいっそう滅入りそうでもある。さっさと作業に入るほうがいいのだろうか。




それでも、外は春。あかるい陽の光に満ちている。


2022.05.03 夕日通信
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老いることは、他者が死ぬこと


何週か前に、映画「ONCE ダブリンの街角で」に触れましたが、同じ監督がアメリカで作った「はじまりの歌」(2013年)もなかなか良かった、やや甘い気もしますが。僕はキーラ・ナイトレイがちょっと苦手だったのですが、ここでは気にならなかった。彼女が今や37歳だというのには、ほんとうにびっくりした。初めて見たのは、「ラブ・アクチュアリー」だったけれど、それからもう20年ほども経っていたのだ(ああ!)。プライムビデオで見ることができます。




「老いることは、自分が付き合っている他人が死ぬことなんです」。

先日の朝刊の小欄*にあった。そう書いたのは、鶴見俊輔。その文章の後には、「他人の死を見送ることです」と続く。だから、他人というのは文字どおり、自分じゃない人のことを指す。たしかにそのとおりだと思う。年をとると、自分より年長の人はもちろん、時には年下の人も亡くなってゆく。多少の長短があるけれど、誰もがずっと生き続けるわけにはいかないのだ。

しかしそれだけではなく、同時に、自分の中のもう一人の自分としての他人も死んでいく、と思うのだ。人は年をとるにつれ、たいてい頑迷になり、自分のことだけを第一に考えるようになりやすい。ということは、自分を客観的に見る力、すなわち自分の分身である他者が死ぬということなのだ。

だから、自戒しなくてはいけない。しかし、だからと言って避けることができないというのが、年をとることの残酷なところだと思う。

世の中には、年をとると種々のしがらみから解放されて自由になると言ったりして、老人になることをむしろ喜ぶべきこととして、(半分は励ましとしても)語る人も少なからずいるようだ。たしかに、社会的な制約からはいくらかは自由になるかもしれない。しかし、自身のありようは身体的にはいうまでもなく、精神もむしろ不自由になる部分が多いような気がする(と思うのは、自身が人間的に未熟だということなのだろうか)。

と書きながら、なぜこういうことを書きつけているのだろうと思うことがある。知識があるわけじゃないし、理解するのも少しずつだ。ましてすぐれた洞察力があるわけでもない(考え抜くということができない)し、大勢と異なる独自の意見でもない。ただ、思ったこと、しかも途中経過を書き続けているのにすぎないのだ。

もしかしたら少し前までならば、学生に向けて書くのにはいくらかの意味があったかもしれない(読む側にとっても)。とすれば、もはや意味がないのじゃないかと言われると、そのとおりで返す言葉がない。それでも、(怠け者にも関わらず)こうして書き続けているのはなぜかなのか。われながら、ちょっと不思議です。

結局のところそれは、頭の体操、自己確認ということなのだろうか。書くこと、それを読み返すこと、そしてそれらを繰り返すことが、自身の中の他者を拡張させることはあるだろうけれど……。

でも、そうだとすれば、自分だけの日記の中にでも書いていればいいことだ。何も人に読んでもらおうとすることはない。それがわかっていながら、こうして公開しているということは、やっぱりそれだけじゃない何かがあるということなのだ……。

この欄の冒頭に記したように、手紙のつもりで書いているわけですが、さて、宛名のない手紙の行方は……?


*「折々のことば」、鷲田清一、2022年416日付朝日新聞


2022.04.27 夕日通信
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散歩の途中で 石垣劇場編 2022・01


自分がまさかこんな状況に遭遇するとは思ってもみなかった。パンデミック、そして戦争。こんなふうに思う人が他にも、多くいるのではあるまいか。特に戦争は人為的なものだから、衝撃だった。20世紀は戦争の世紀と言われるけれど、今世紀に入ってからも、小国同士の戦争、内戦等々はあった。しかし、まさか常任安全保障理事国の任にある超大国が隣国に侵攻し、戦争を始めるとは露ほどにも思わなかった。でも、その2つに違いはありませんね。いくらルールがあるとは言っても、戦争は戦争。非人道的な攻撃、武器と言うのを聞くたびに、本来戦争にも武器にも人道的なそれがありうるとは思えなかった。

しかし、ますますエスカレートするばかりのロシアの非道さを見るにつけ、さらに残虐な攻撃、すなわち非人道的と言う他ないような行為というのが存在するのだと思わないわけにはいかない気がしてきました。赤十字の旗を掲げた救助のための施設や子供や民間人が集まった場所への攻撃等々、そしてこのところ目にするのは、虐殺、拷問、処刑等々の文字。もはや「ジェノサイド」という声もある。ネオナチから救うと言って、かつてのナチと同じことをする。自身が掲げた屁理屈の言葉さえも裏切っているのだ。

そのロシアへの他国の対応を見ていると、最初は経済制裁(と言っても、初めは自国に不利益が生じない範囲)、次は武器供与という具合になってだんだん厳しさを増しているようだけれど、政治的な判断、それも損得の感情次第というところが垣間見れるようだ。この経済制裁や批判さえにも加わらない国もある。しかも、ニュースによれば、今のところ経済制裁は全く効果がないという。その理由は、ロシア最大の輸出品である石油や天然ガスの需要が堅調なせいらしい。ロシアからの輸入でエネルギーの半分近くをまかなっているヨーロッパ諸国が背に腹は変えられないということだろうか。

残虐行為が次々と明らかにされるなか、上記のような対応はあるものの、難民や罪なき人々が命を落とすような攻撃を直ちに停止させる有効な手立ては、未だなされない。テレビや新聞には悲惨な光景が映し出されるのと同時に、知識人や専門家という人々が様々な見方を示し、解説が溢れている。しかし、解決の道は示されず、事態は深刻の度合いを深めるばかりのように見える。こうした状況や次々に映し出される戦争のあ利用を平和な国の家の中でテレビの画面越しに見ていると、腹立たしい思いの一方で不思議な気がしてくる。一体、理想主義的に走りすぎず現実的で、かつ平和的に解決する方法というのはあるのだろうか。






それでも外に目を向けると、春の明るい陽射しがあるし、その他にも石垣の上にも変化があって、小さな花や緑の葉がさらに勢力を増して、春が来たことを知らせている。それにしても、小さな草花の生命力の力強さや美しさには見るたびに驚かされるのだ。本当にすごい。今ある戦争を止めるには役に立たないけれど。

そして、跋扈する、声が大きくて自分だけが正しいと思っているような輩が、自身の姿に気づけばいいと願うのだ。


2022.04.20 夕日通信
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東京駅、ソフィア駅


急に暑くなりましたね。その変化も急激で、昨日と今日、朝と昼と夜の気温がそれぞれ独立していて、無関係であるかのよう。この他にも、気になることがある。と言って、別に目新しいことでもないのですが…。おまけに先日、ひょんな事から学生の発表を聞くことになって、思うことがありました。


*

**

さて、東京駅は知っての通り辰野金吾の設計ですが、オランダのアムステルダム駅を参照していると言われています。これを否定する説もあるようだけれど、先日見ていた紀行番組***の中では、「東京駅がこの駅舎を真似てつくられたことでも有名です」という言い方をしていた。また、別の回****では、ブルガリアのソフィア駅は、「ミュンヘンオリンピックの競技場をモデルにして建設された」と言う(気になって、Wikipediaで調べてみると、構造のスタイルが同じということらしい)。建設当時のことを想像すると、首都の駅舎は国の象徴とも言うべきものの一つであったはずなのに、それにもかかわらず、比較的はっきりと参照した例があることを承知で、建設が認められたということならば、ちょっと不思議な気がします。

目指すべき先進的な文化ということだったのか、いいものはいいという態度だったのか、それとも、「真似」と「参照」の違いを意識していたのか。もしかしたら、単に気にしていなかっただけなのか。

気になったというのは、要は言葉の使い方ということなのですが、これにあんまりこだわるのもどうかという気がしなくもないけれど、やっぱりもう少し気を使うべきなのではないかと思ったのです。すなわち、「真似」たというよりは「参照」した、「参考」にしたという言い方がいいのではないか。

というのは、デザインに限らず創作行為には、ほとんど必ず、そうした側面があるはずなのだから(その直接的な例は、「本歌取り」の伝統)。念のためにいうなら、もちろんただ真似しただけという例も少なからず存在しているけれど、作り手の意識のありようにおいて、それとは違うことは言うまでもありません。

参考にしたり参照しようとするときは、その対象にある美点や特質を見出し、その時の環境や状況を考慮しながら、これを生かすべく再構築する。そうすることで、新しさを付け加えることになるのだろうと思います。

何かをデザインしようという場合、作者自身の感覚や考え(主観)を大事にすることが大切であると考えるのですが、それだけを頼りにするわけにはいきません。同様に、他者(客観性)だけを重視するというのでもないだろうと思います。そのどちらから出発してもいいけれど(僕自身は、あんまり頭でっかちになりすぎない方がいいような気がします)、自身の感性と批評的な精神の双方を持つことこそが、創造的でありうるための方法だろうと思うのです。

さらに、何をするにせよ、相対的な見方を一方に置かないかぎり、普遍性(妥当性)を獲得することはむづかしそうです。すなわち2つ以上を比較することによって、それぞれの類似と差異を知ることができる。この見方は、例えば仮説と検証ということにも連なりそうです。先の学生の発表の多くは「こうしたい」という意図はあっても、出来上がったものについて見直して「それがうまく実現、または表現できているか」という視点が乏しいように見えたのが残念なことでした。偉そうに言うことはできませんが、相対的な見方を身につけたからといって、すぐに普遍性を得ることができるかと言えば、それはまた別の話(というのが辛いところですが…)。

ついでに言うなら、「あなたらしくあればいい」とか「個性を大事に」というのも、その通りだと思うけれど、気をつけなければいけない。あんがい誤解して捉えられていることも多いのではあるまいか。自分の世界に居座ってひとりよがりにならないためにも、相対的な見方をするということを意識するのが良さそうです。自分を大切にするというのは、自己中心的になることとは全く違うし、自身の信じるところを主張するのと独善的であることとは全くの別物であるはずだから。

ところで、ニュースの伝えるところでは、ウクライナに侵攻しているロシアのプーチン大統領の支持率が4年ぶりだかで上がったらしい(独立系の調査会社によるものという)。今の時代にあっても、自国の利益さえ満たされれば、他者はどうであれそれでいいとする人が少なからずいるということに驚いた。それが、宣伝の効果によるものだとしても。そして、操作された情報を鵜呑みにするということにも。少なくとも、一時は別の世界の空気を吸っていたはずなのだろうに、と思ったりもしたのですが、この支持者の多くが高齢者というから、こうしたことも年をとることの影響なのだろうか(怖いです。より意識しておかなければ)。


* 写真は、復元後の東京駅。Wikipediaから借りたものを加工しました。
** 写真は、現在のアムステル中央駅。Wikipediaから借りたものを加工しました。
*** 欧州鉄道の旅第61回 風と共に生きる国 オランダ(前編)
**** 欧州鉄道の旅第65回 東洋と西洋が出会う国 ブルガリア(前編)

2022.04.13 夕日通信
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ストリート・ミュージシャンの胸中


何回か前には羨ましいこと、そして不思議に思ったことについて書いたけれど、今回はまた奇異に感じたことを。

ヨーロッパを旅する紀行番組を見ているとよく目にするのが、ストリート・ミュージシャン。実際にも、海外に出かけたときは、よく目にしました。ポップミュージックだけじゃなく、ワールドミュージックからクラシックまで、あらゆるジャンルの音楽が聴けそうです。我が国よりもはるかに目にする機会が多いようなのは、法規制のせいだろうか(これは、いったい何に起因しているのだろう)。
路上で演奏を聴いて楽しんだ人々は、楽器ケースや空き缶等にお金を入れてゆく。こうした聴き手と演奏者の顔が出会った時は、お互いににっこりする。良いものを聴かせてくれてありがとう、聴いてくれてありがとう、というわけですね。いいなあ。とりわけ、演奏者は嬉しそうです。


*

ところが、先日見ていた時は、いつもと様子が違った。ギターを弾きながら歌う若者を、何人かの人々が少し離れたところで取り囲んで聴いていたところまではいつもと同じ。ただ、演奏が終わるや否や、画面をさっと横切るものがあったのです。白いシャツに黒いパンツを履いた、痩身の女性のようだった。まだ拍手が鳴っている中、彼女はギターケースのところまで近づくと、コインをさっと投げ入れて去っていったのだ。果たして、彼女は演奏を聴いていたのだろうか。それとも、ただ助けになればと思ったのかもしれないけれど。

この時の演奏者の思いはどうだったのだろう、と気になったのだ。

お金を入れてくれたことはありがたいだろうが、ちゃんと聴くことなしに、あるいは拍手もなしにお金だけを投げ入れて立ち去った人に、彼はどういう気持ちを抱いたのだろう。感謝したのか。それとも、複雑で苦い思いを飲み込んだだろうか。

そんなことを考えていたら、2007年に公開されたアイルランド映画「ONCE ダブリンの街角で」を思い出して、また観直したくなった(でも、ついこないだ観たと思っていたのが、もう15年近くも経っていることに気づかされて、恐ろしくなりました。ああ)。


* 写真は、手元にないために、映画「ONCE ダブリンの街角で」の一場面を、映画等に関するデータベースIMDbから借りたものを加工しました。ついでながら、同じくアイルランドを舞台にした音楽映画「ザ・コミットメンツ」も面白いです。


2022.04.06 夕日通信
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散歩の途中で 中古品を買う





いよいよ春めいてきましたね。ずいぶん暖かくなって、散歩もしやすくなった。コロナのせいで遠出はまだまだのようだけれど、当方にとってはもとより大して影響はない。先日外に出てみたら、家のすぐそばに1本だけ残った桜が花をつけていました。昨年までとは違って、1種類1本だけというのはちょっと寂しいけれど、あるだけマシとしなければいけません(かつて、隣接する道路沿いの桜並木がバッサリ切られてしまった)。その代わり、梅はけっこう見ることができた(どちらかといえば、梅の方が好きなのです)。

さて、アマゾンの中古品(主に、本とCD)を利用するようになったことは、すでに書いたことがあります(一時、ずいぶん重宝したことがあったな)。最近になって、それよりももっと強力なところを見つけたのです。近所のブックオフ。その気になれば歩いていけるところにあって、何より安いし、送料もかからない。ちょっと待っていれば、文庫本などは100円で買える。おまけに、20%引きなどというセールもやるのです。ミステリーなどを楽しむのには、これで十分。最初に見たときはこんなに安くていいのだろうかとも思ったけれど、とても助かる。ま、中には買うんじゃなかったと思うものもないではないけれど、それでもそんなに惜しくない(全くないわけじゃないけれど。と、思うところが貧乏性。ちょっと寂しい)。

ただ、困ることが一つ。古本を買うことはあっても、売ることがないのです。つまり、増える一方なのだ。安く手に入る分、そのスピードは増す。救いは、欲しいCDが見つかりにくいことと、さらに本ほどには安くない。映画は事情があってテレビのディスプレイで見るしかできないので、できるだけ録画してもらったDVDとプライムビデオ に頼るつもり(と思っていたら、「ボッシュ」が終了してしまった。なかなかうまい具合には運ばないものです)。中古の代表的なものの一つである古着は、買ったことがない。興味がないわけじゃないけれど、もはや必要性もほとんど無くなったようです。

ところで、若い人は古着が好きな人も多いようだから、新しいということに執着しない人が増えているのかもしれませんね。とするなら、日本人の新しいものをよしとする風潮も変わるかもしれません。もしかしたら、住まいも街並みについても。

でも、ガステーブルはそういうわけにはいかないから、ようやく新しいものを買いました。他にも、新品じゃないと困るものがありますね。最近買ったもので言うなら、例えば電動歯ブラシの替えブラシ、とか靴クリームとか…。そして、これは困ると言うより嬉しいと言う方がいいかもしれませんが、その他にも僕は、ちょっと口には出せないけれど、思いつくものがあるのです……。


2022.03.30 夕日通信
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なんだかなあ。でも、もう春


日曜の夕方は、いつものようにぼんやりとラジオを聴いていました、「岡田惠和の今宵ロックバーで」。ゲストは歌手の藤原さくらさん(初めて聞きました。今や、こういうことは日常茶飯事。ほぼ同年齢のボッシュ刑事の言い方を借りるなら、最近の音楽については「昔ので手一杯だ」というところでしょうか)。

岡田が藤原さくらのCDを持っているという話から、彼女が英語で歌う歌がいいとホメる。「これを聞くと70年代の洋楽を思い出す」(たとえば、ジュディ・コリンズやジョニ・ミチェルあたりだろうか)というようなことを言い、これに対して「嬉しいーっ」と答えるわけですが、これが不思議。たしかに、そういう雰囲気があるのだけれど。ちょうどその前の番組では、ミーシャが今の状況を憂いて、ルイアーム・ストロングの「この素晴らしき世界」を英語で歌うのを聴いたばかりだったのです。

ま、いろいろな感想があるでしょうけれど、僕は日本人に聴いてもらおうとするなら、わざわざ英語で歌わなくてもと思ったし、英語で歌うのは何の意味があるのか全くわからないのでした。結構好きな番組だったのに、なんだかなあ。




ところで、そうした気持ちとは関係なく、もう春です。青空も冬のそれとは違って、うっすらと霞をまとっているようだし、石垣の上にも確実に春がやってきているようなのです。嬉しい気がする反面、一方ではあまりにも早く進む時間のスピードが怖ろしい気がします。


追記:思わぬHPのトラブル(まあ、思ったより早く解決してよかった)のせいで一週間遅れの掲載ですが、その間にも冬に逆戻りしたような日もありました。なかなか一筋縄ではいきません。


2022.03.23 夕日通信
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「スロー・ライフ」


ヨーロッパを中心とする紀行番組を見ていて羨ましいと思うことは、実は他にもあるのです(なんだか、羨ましがっているばかりの生活のようだけれど)。その一つがトラム。路面電車ですね。かつては当然、日本の各都市でもたくさん走っていたわけですが、今ではその多くが廃止されてしまった。

廃止された理由はいろいろあるだろうけれど、最も大きいのは、たぶん「効率」が悪いということではあるまいか。トラムは地下鉄等に比べると、工事費ははるかに安価だけれど、道路上に線路や架線を設置しなければならない。設置された線路の上を走るから軌道は一定で、自在性がない。このため、自動車の走行の邪魔になりやすい。後ろからクラクションを鳴らされても、脇に避けるわけにはいかない。さらに、速度もバスに比べると遅い。制限速度は地域によって違うようだけれど、時速にして5〜10㎞ほどの差がある。したがって、公私ともども忙しくなった現在の人々には、これらが受け入れなくなったのに違いない。一方、こうして得られた時間はどれほど有効に活用されているのでしょうね(あ、これはできないものの僻みですね。いけない、いけない)。


*

僕はご承知の通り暇人だから、横浜や東京なんかでもトラムが復活してくれないものかと願うのです。利点としては、例えばCO2の排出を抑えられることなんかが実際的なものでしょうが、このことはひとまず措くことにします。ここでは、僕が惹かれる「楽しみ」という点から書いてみたいのです。

バスに比べると、乗りたり降りたりするにしても、「自由な気分」があるような気がします。バスに乗っていて、ここで降りてみようかと思うことはまずないけれど、トラムにはそれがあって、しかも簡単に降りることができる。まあたいていの場合が、旅行者という気楽さのせいかもしれないけれど、外国のいくつかの都市ではそうした経験をした。

座面の高さもバスのそれに比べると低いから、歩いているときの感覚に近い。その分、街との関係、風景との関わりが強くなる。つまり、ゆっくり向き合うことで得られる楽しみがあるのではないかということです。すなわち、「スロー・ライフ」の効用。ところでいつも、やたらに外国語を使う風潮を嫌う文章を書いているのに、タイトルをカタカナにしたことを訝る向きもあるかもしれません(ま、気にしないかもしれないけれど)。これの方が、より積極的にそのゆっくりと暮らす生活に対する考え方を含んだ言い方だ、と思うからです。

以前に書いた建築家の阿部勤が、年取ってからの台所を「その中にいることが楽しくなる場所」と言い、そこでの作業はできるだけ「面倒くさい方がいい」としたことと通じところがあるかもしれませんね。とするなら、「ゆっくりと楽しむ生活」がいいと思うのは、こちらがただ年取っているからということだからだろうか(でも、これを楽しむ人は年取った人ばかりじゃないはず)。それとも、トラムの楽しさもやっぱり、記憶が美しくしてしまったということなのだろうか。

ただ、現在また、路面電車の新設や延伸を考えている自治体も出てきているようです。もちろん、課題もあって、先に挙げた効率の問題に加え、誰もが使えるようにするためにはホームの安全性や快適性の確保等、そしてこれに伴う経済の問題がありそうです。これらを解消するためには、自動車との関係が問題になりそうですが、これを解決するためには、結局は使う方、街に対する人々の考え方次第によるところが大きい、ということなのかもしれません。


* 写真は、手元にないために、ウィキペディアから借りたものを加工しました。


2022.03.09 夕日通信
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今、昔、そして未来


威張れることではないのですが、僕はこのところずっと、何をするでもなくぼんやりと暮らしているのです(やるべきことはあるはずなのですが)。それで、昔の紀行番組やら映画を見たりするのですが、時々、かの国々の人々が羨ましいと思うことがある。分けても、若い人たち、特に学生やその同世代の人々。


*


古い建物の中で、学ぶことができる、あるいは街に出れば、至る所で過去の時代(中世)に出会うことになるだろう。これは、そこで過ごす人々のものの見方や感じ方に影響を与えずにはおかない。美的感覚のみならず、とくに歴史に対する認識の仕方においてそれは大きいのではあるまいか。

すなわち、「今」だけと付き合うのか、「今」と「過去」の二つと向き合うのか。この二つの空間体験の違いは、未来との関わり方に大きな影響を及さずにはおかないだろう。これは単に想像というのではなく、しばらく彼の地で過ごした経験や当地での若者に対するアンケートをした結果でもその思いを強くしたのだった。むろん、前者はわが日本のことだし、後者はイギリスの古い大学都市での経験。

もちろん、だからと言って幸福な体験ばかりというのではない。逆のこともあるのだ。少し前の時代には、彼らのうちの一部はいくつかの戦争や紛争に参加せざるを得なかった(そしてまさに今、そうした過去や歴史から学ばかったような指導者たちが跋扈している。いったい、どうなっていくのだろう)。

ただ、見ていたDVDは10年ほども前のものだし、映画に至っては新しいと思っていたのにも関わらず20年以上も前のものだったということも少なくないのだ。もしかしたら、こうした感じ方もそのくらいには古いと言われるかもしれない。

だいたい記憶力に乏しいのは何回も書いたことがあるし、体験してこともたいてい忘れている。しかしそれでも覚えていることがあるし、そうじゃないことも自分の考え方やものの見方にいい影響を与えていると信じたいのだ(ただし、それが実際以上に増幅されているかもしれないことを恐れるけれど)。

「過去に学ぶ」という言葉のほかに、「歴史は繰り返される」という言い方もある。結局、人間の本性は変わることがないのだろうか。自身が学んだこと(これがどれほどのものかが心配)を大事にするよりないのだろうと、心に刻むのだ。


* 写真が手元にないため、ウェッブサイトフォートラベル から借りたものを加工しました。


2022.03.02 夕日通信
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スーパーの紳士に教わる


先日スーパーで見かけたのは、カゴを手に買い物をするチェックのツィードのジャケットを着た初老のおじさん。下もジーンズではなかった。ちょっと新鮮でしたね(背は高くなかったけれど、痩身で姿勢も良かった)。その時の僕はといえば、日差しがあったので、歩いて行ったのですが、ハイネックにダウン・ジャケット、頭にはつばなしのニット帽という格好だったのです。


*


だいたいこの1年ほどは、ジャケットを着る機会もほとんどなくなって、毎日ほぼ同じ格好をしている(黒のハイネックにジーンズ。というと、ちょっとジョブズみたいだけれど…、ぼくのはくたびれ加減の安いものばかり)。まず人に会うことがないので、全然支障はないのですが、それでもちょっと困るようなことが出来してきた。生活そのものも緊張感というのか、ハリがなくなったような気がするのです(怠惰になるばかりで、最近では髭を剃ることも忘れることがあるくらい)。「身なりに気を使わなければいけないのは、子供と老人です」という、かつての同僚の言葉を思い出しました(けだし、名言)。

そんなふうなので、ここはあの紳士を見習って、外出するときにはジャケット着用ということにしたほうがいいのではないかと思った次第でした。だいたい、外出すると言っても、近所の簡単な買い物や本屋くらいしかないのですが。

ところで、洋服はそれを見る他者を意識して語られることが多いようですが、一方で着る人自身の気持ちのありように与える影響はかなりのものではないかという気がします。さて、それで着るものを変えたなら、いまの自堕落な気持ちに1本筋が入ることになるのかどうか。ただ、まだまだ寒いので、その上にコートやダウンを着ることになりそうなのですが、その場合はどうなのか(ということを考えるならば、やっぱり他者の目というものが関わることには違いなさそうです)。

となるとやっぱり、ロバート・デ・ニーロ**に倣って、家の中でもジャケットを着るしかないのか(この誕生日を機に、それもいいかもしれない)。まずは、床屋に行くことにしよう。

ところで、アップロードした後、確認しますかというメッセージが出るので、OKボタンを押して確認するのですが、アップロードしたはずのものが反映されていないようなのです。なんどやっても同じ。一体、どうしたことだろう。ソフトの不具合?それとも、パソコン?


* 写真は、ウェッブサイトBEST TiMES から借りたものを加工しました。

** 以前にも書いたことがある映画「マイ・インターン」の中でのデ・ニーロは退職した後も毎日、朝起きると髭を剃り、ネクタイを締めるというのではなかったか。



2022.02.23 夕日通信(*コメントやお便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

再び、イーストウッドにならう


映画を見ようとして、何を見るか決まらない時、芝山幹郎の「映画一日一本365」を手にすることがある。ページをめくると、1月は「イーストウッドとシーゲルの月[闊達]」とある。

で、イーストウッドの映画を見ようと思ったのです。本の最初に取り上げられているのは、「続夕陽のガンマン」。柴山はこれを21世紀になった今でもベスト1候補の一つだという。「空間に対する嗅覚が鋭く、アクションに工夫が凝らされていて、しかも笑える」、すなわち「三拍子そろった映画」というのだ。おまけに、ちょうど今も、イーストウッドの新作が上映されている(監督50周年記念作品「クライ・マッチョ」。90歳のときに撮ったもの!)。

すごいですね。「運び屋」(2018)の時も驚いたけれど、それからさらに2年が経っている。と思ったら、その間に「リチャード・ジュエル」(2019)が公開されているのだ。ハドソン川の奇跡」(2016)以来ほぼ1年に1作のペースで撮っているのだ。なんという驚くべき創作意欲とエネルギー!

前回は訃報のことだったから、高齢になってもエネルギッシュな創作を続けている人を見るのは嬉しい。

ならばと思って探してみたけれど、家にはなかった(たいてい寺前に置いてあるのだ)。で、手元にあった、いくつかイーストウッドのドキュメンタリーを見ることにした。

初めは「クリント・イーストウッド 走り続ける76歳」、次に「クリント・イーストウッド自らを語る(前・後編)」、「クリント・イーストウッドの真実」他。


*


常に創作活動の中に身を置いているせいか、若々しいし、凛としている。おまけに語り口は静かだし、物腰も穏やかで、これ見よがしのところがない。「クリント・イーストウッド自らを語る(前・後編)」では、学生の質問に、きちんと顔を向けて答える。しかし、硬いばかりではない。もし天国の門についたら神になんて言われたいですかと尋ねられ、「ようこそ。ここに永遠にいていい。どこへも行かなくていい」と言った後で、「72人の処女が待っているぞ*」と続けてニヤリとしてみせたりもする。こうした時にも、少しも下卑たところはなく、飄々として、しかも品があるのだ。

彼の父親は労働者階級の出身で貧しかった、それでも「人生から常に学び続けなければならない」。「それをやめたら、後退するばかりだ」と教えた。そして、イーストウッドはそれを忘れずに実行したらしい。例えば、ユニバーサル・スタジオの大部屋俳優となった時は、なんでも吸収しようとして、そこの学校のようなところに、週一日しか出席しないようなものもいる中で、毎日通い、周りを観察し、演技のコツを学んだ(続けているうちに、やがて「気がついた」らしい。そして、「ある日突然感じたんだ。いよいよ道に踏み出せたとね」と言う)。

彼は、スタントもほとんど自分でこなしたらしい。そのことを聞かれると、「ビルの10階から飛び降りろと言われたら断ったけどね」、「やる気になればなんでもできる」、「本当に役に入り込めばできるよ」と答える。

撮影する時にスタートやカットというような大声を出さず、現場を静かに保つやり方も、出演中に学んだことだという。学ぶ気があれば、どこでも何からでも学ぶことができるとはよく言われることだけれど、これを実践するのは簡単なことではない。そうして身につけた力と自信と謙虚さが、インタビューの時でも、後年の演技においても反映されるのだ。

さらに、2月6日の朝刊で久しぶりに見かけた日本の画家野見山暁治は、101歳を超えてなお創作意欲が衰えることなく描き続け、新作の個展を開催中という。こういう人たちを見ると、能力のことはさておき、生活や対象に取り組む姿勢、常に新しいことに挑む積極性等々、見習わなくてはならないと思う。頑張らなくちゃね。




先日散歩していたら、大きなマンションに、隙間の3つの型が揃っているのに気づいた。一つは先まで続いているもの(写真左)、もう一つはすぐ行き止まりになっているもの、そしてもう一つがその中間で、半分がスロープになっている(写真右)。面白いです。でも、今まで気に留めなかったというのは、いかにぼんやりしているかということですね。イーストウッドのように、もっとしっかり観察しなくてはいけません。


* 写真はAmazonから借りたものを加工しました。
** 元々は、イスラム教徒の間に伝わる話らしい。


2022.02.16 夕日通信(*コメントやお便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

モニカ・ヴィッティの表層


購読している新聞の朝刊に「折々のことば」というのがあって、鷲田清一が気になった言葉を取り上げて、これに短い解説をつける。2月6日は「いかに精巧をきわめた造花でも、これを天然の花に比べては、到底比較にならぬほど粗雑なものである」という寺田寅彦の言葉が載っていた。

これを見たとき、すぐにスティーヴ・ジョブスのことを思い出した。よく知られているように彼はデザインを検討する際に、日本の大工の仕事ぶりを例に、内部の基板の美しさにまで注文をつけた。僕は、これを内部の見えないところまで気にしなければ、外部の見える部分も十分に気を配ったデザインはできないと理解していた。でも、それだけではないのだね。内部の作りが外部にそのまま反映することがあるし、外部だってそれを構成する組織のありようが美しさにかかわる。言ってしまえば、当たり前のようなことだけれど、なかなか気づくことができないのだ。

その少し前、2月2日にモニカ・ヴィッティが亡くなった。90歳だったというから、まあ長命のほうですが、こんな歳だったとは……。


*

僕はどういうわけか、少年の頃からこの気だるい表情のイタリアの女優が好きだった。当時もう一人の好きな女優はアヌーク・エーメだったから、ちょっと大人びた物憂げな(アンニュイという言葉もはやった)雰囲気に惹かれていた**ようだけれど、どうしてそうなったのかは全くわからない。覚えていないのだ。

僕は田舎育ち(しかもかなり昔の)だし、自分でいうのも変だけれど、純朴な少年だった。女の子たちとの接触はほとんどなかったはずだし、周りには、モニカ・ヴィッティやアヌーク・エーメのような佇まいの女の人もいそうにないのです。第一、どうして彼女たちの存在を知ることになったのか。ちょっと不思議。

そういえば、好きな映画の上位はハッピーエンドではなかったり、あるいはある種の謎を残したままのものだ。一方、ふだん好んで観たくなるものはその逆で、爽快なものや幸福感に包まれるようなものであってほしい。どうも、頭と心のせめぎ合いがあって、いちおう頭(わずかながらもあるとして)の方が勝っているようなのだ。ただ、これは自分にないものへの願望、あるいはかつて憧れたアイドルたちから受け取ったものの呪縛なのかもしれないという気がします。

モニカ・ヴィッティの代表的な映画は(当然)いくつか観たことがあるし、ミケランジェロ・アントニオーニ監督と組んだ「情事」、「太陽はひとりぼっち」、「赤い砂漠」と、そしてちょっと毛色の変わった「唇からナイフ」(ジョゼフ・ロージー監督)はDVDを持っている。「太陽がいっぱい」よりも「太陽はひとりぼっち」の方がいいと思っていたような気がします(もはや、どんな映画だったか、よく思い出せませんが)。

ともあれ、実際の女の子たちとは無縁だったからこそ、現実の世界(実)ではなく、想像上の世界(虚)に憧れたのだろうか。自分では覚えていないのだけれど、不登校の時期もあったようだから、ますますその癖が強くなったのかもしれない。

幸か不幸か、長ずるに及んでも、現実の世界よりも想像上の世界の方が居心地がいいのはそのせいなだろうか(書きながら気づいたのですが、この方が怠け者にはたやすい)。そして、今となってはもはや手遅れだけれど、ちょっとまづかった気がしなくもないのです。

モニカ・ヴィッティやアヌーク・エーメも心のありようはもとより、表層の下にある骨格や筋肉等々が、その表情のありようをつくったのだ(考えてみれば、これまた至極当然)。とすると、僕などはせいぜい心のありようを鍛えるしかなさそうです。


* 写真はブログ「わたしという寓話」から借りたものを加工しました。
** 雑誌の映画特集で知ったのですが、好きな映画として、ほぼ同世代の栗野宏文が「唇からナイフ」を(別の号の特集では、「男と女」を挙げていたことがある)、一回り下の松浦弥太郎は「情事」とモニカ・ヴィッティを絶賛していた。二人ともが東京育ちの、都会っ子ですね。


2022.02.09 夕日通信(*コメントやお便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

ミースと古いアパートメント


新聞を読んでいたら、広告欄にあった落語CD全集が目にとまった。時々同種のものを見かけるから、きっとまあ人気があるのでしょうね。その時は、古今亭志ん生から柳家小さんまでの12人の名人の話芸を集めたもの。もちろん全員がとっくに鬼籍に入っていることは言うまでもないけれど、僕も彼らが存命中に演じるのを聞いたことがない大家も混じっている。

先日80歳で亡くなった柳家小三治はもとより、それよりも前の古今亭志ん朝や立川談志の世代も含まれない。彼らよりもさらに前の名人ということなのだ。どうやら人は、同時代の名人だけでなく、どうかするとそれ以上に自分が生まれる前の名人の話芸を聴きたくなるらしいのだ。これはいったいどうしたことだろう。

と思って考えてみれば、それは不思議なことでもなんでもない。つい忘れがちだけれど、僕たちは日常的におなじことを経験している。絵画は言うに及ばず(何百年も前のものをごく普通に楽しむ)、音楽もクラシック音楽に限らず、ポピュラー音楽だって流行りの新しいものだけでなく、古いものも聴く(あのビートルズやビーチ・ボーイズも、もはや半世紀以上も前のグループなのだ。ああ!)。


*

近代建築の巨人ミース・ファン・デル・ローエは、自分が設計した摩天楼には住まずに、古いアパートメントでごく普通の家具に囲まれて過ごすのを好んだと言う。アメリカの建築家A・M・スターンはこれを評して、「ミースは古いアパートメントに住み、グラスを片手に自分が設計したビルを眺めるのが好きなのだ」というふうに揶揄した*

僕は初めてこのDVDを見たときに、えっと思ったし、ちょっと嫌な気がした。ミースに対してです(スターンの物言いも気になったけれど)。これがいいですよと人に差し出すものと自分が日常的に好むものが違うことについて、違和感を覚えたのでした。

しかしよく考えてみると、これもまた至極当たり前のことではないかと思ったのです。私人というか生活者としては古いものを好むけれど、公人というか創作者としては新しいものを創り出したいと願う。すなわち、立場の違いによるもので、ミースはその二つともを大事にした。二つの才能に恵まれたことを生かした、むしろ羨ましいいき方ではあるまいか、と思ったのです。もしかしたら、皆さんはすでに気づいていたのかもしれませんが。

ただ、大いに憧れはするのですが、二物を持たぬ身としては、以前にも書いたように、「建築的革新」よりは、「生活」によりそったいき方に、「建築」よりは「住宅」に徹するほうが良さそうです(「間取りアドバイザー」の用はありませんか?)。

それにしても、このところは落語を聴く機会がめっきり減りましたね。ほとんど放送されなくなってしまった。落語家のみならず漫才師も出番は、ほとんどバラエティ番組に限られているようですが、本拠地である演芸場のお客の入りはどうなのだろう?。


* DVD「ミース・ファン・デル・ローエ」で見たのですが、今手元にないので正確な言い方は不明。なお、写真はアマゾンHPから借りたものを加工しました。


2022.02.02 夕日通信(*コメントやお便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

日本語殺し


今の人たちは昔の人に比べて若い(というか、正確には昔の同年齢の人に比べて若く見える)ことについて、以前にも書いたことがありますが、今回もまた年齢に関することから。

少し前のことだけれど、久しぶりに映画「マイフェアレディ」を観たのです。1964年製作、ジョージ・キューカー監督、イライザを演じるオードリー・ヘプバーン、イライザをレディに仕立てようとするヒギンス教授役のレックス・ハリスンが主演のミュージカル映画ですね。アカデミー作品賞のほか8部門を制した。
この2人は今の感覚からすると、ちょっと年取っているように見える(大人びていると言うべきかも)。ヘプバーンは1929年生まれで当時24歳、ハリスンは1908年生まれの当時56歳。それからもう一つ、主演の2人の年の差、21歳。これに限らずヘプバーンの映画は、そうしたものが目につくのはなぜでしょうね。

たとえば、「ローマの休日」(1953公開)のグレゴリー・ペック(1916年生まれ)の時は、13歳差(ま、これは大した差じゃない)。「麗しのサブリナ」(1954)のハンフリー・ボガート(1899年生まれ)とは、30歳差。「パリの恋人」(1957)のフレッド・アステア(1899年生まれ)の時も、同じく30歳差。「昼下りの情事」(1957)のゲーリー・クーパー(1901年生まれ)とは、28歳差。という具合に、けっこう年の差が大きいものがある。しかも、それは見た目にもあきらかなのです。

それにしても、不思議な気がしますね。同じようなことを感じた人は他にもいるようで、年齢差について調べたものもあったし、今ではSNS上に年齢差を気持ち悪く思う若者たちの意見が散見されると書いたものもありました。おっと、横道に逸れてしまった。


*

さて、ニュースを見ていたら、株式市場の呼び方が変わるらしい。東京証券取引所は20224月、現在の1部、2部、マザーズ、ジャスダックの4つの市場区分を「プライム」「スタンダード」「グロース」の3市場に再編するということなのだ。
ちょっと驚いた。いや、もはや驚かないけれど、いやな気分になったのだ。もちろん、幸か不幸か株にはまるで縁がないのだけれど、なぜ英語のカタカナ表記なのか。日本語を使わないのはどうしたことだろう。他にもありますね。すぐに思い出すのは、JRJAJT等々のアルファベットの略称。つい最近も日本通運がグループブランドをNXとしたようです。

最近は、テレビやラジオで見聞きする話し言葉の半分というのはちょっと言い過ぎかもしれないけれど、それに近い割合でカタカナ語が混じる。「ガバナンスが重要で、そのためにはコンプライアンスが大事」、「まずコンセプトを何にするか」等。さらに、「真のポリティクス(政治)においてはマジョリティ(多数派)の声はもちろんだが、マイノリティ(少数派)の声にも耳を傾けることがインポータント・マター(重要な事柄)だ」というような、わざわざカッコ書きで日本語訳をつけた文章などは笑止千万。ヒギンズ教授に倣って言うならば、「日本語殺し」。

日本語で表現するのがむづかしい時は仕方がないけれど、ごく普通にいうことができる場合は日本語を使えばいい。これは別に僕が愛国主義者というわけではないのです。ま、単に僕がわからないだけというせいなのかもしれないけれど。

「本日のブリーフィングのアジェンダは、一つ目はダイバーシティーの実現に役に立つインフルエンサーをどうやってみつけるかについてです。二つめは我が社の事業のリノベーション。特にアセットを生かしつつイノベーションを実現する際のセルフガバナンスの重要性について、レポートしてもらいます。ぜひコンセンサスを得たいと思います。エビデンスを残しておくことを忘れないように」**と言われて、すんなり耳に入ってすぐに意味がわかるあなたは偉い。ですが、やっぱりちょっと変なのではあるまいか(これって、ただのコンプレックス?)。

こうして、日本語が滅び、やがて日本がなくなりはしないかという気がしたのでした。

* 写真は、日本取引所グループのHPから借りたものを加工しました。
** 流行りのカタカナ語を適当に組み合わせてみました。


2022.01.26 夕日通信(*コメントやお便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

大昔」って、いつのこと


*

先の日曜の夕方、ラジオを聞いていたら、「大昔のことですが、…」と言う。さていつ頃のことかと思っていると(みなさんはいつごろを思い起こすのだろうか)、「1982年のこと、…」と続いたのでした。

そう言ったのは、音楽評論家の湯川れい子(御年85歳)。えっっ、一回り以上も違うのに。しかも、僕はそんなに昔のこととは思わないのだ(その当時の記憶はほとんどないけれど)。80年代をなんだか新しく感じたままなのは、ほんとうに新しい時代だったということだろうか。それとも、僕自身がもはや成長しなくなってしまったせいだろうか。このほかにも湯川さんとは異なる感想を持つことがあったのですが、ことほど左様に、年代や時代性に対する感覚は人それぞれのようです。

自覚している以上に、身体的にも精神的にも年寄りであることを痛感した出来事でありました。

プリンターが壊れて修理に出したことは先に書きましたが、僕は目で見ないと文の校正ができないので(この理由は、以前にも書いたように、なんとなくわかった気がしている)、しばらく短い文でお茶を濁すことにします。

* 写真はNHK FM 「岡田惠和 今宵、ロックバーで」のHPから借りたものを加工しました。


2022.01.19 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

号外 初積雪


ちょうど松の内を過ぎた時にメールがあって、「夕日通信」の謹賀新年の年号が2021年になっていたことが判明。やれやれ、今年も前途多難かと思ったのですが、これは前年度に作成したものだから、今年は違うかもと思い直すことにしました(是非、そうあってほしい)。

もう一つ、こちらは少し前、まだ松の内のこと。珍しいことに、2信目の賀状が届いた。「10坪あれば十分住めます。書物はどこかに寄付しよう」と、大きな字で書いてあった。この歳になって自前の住宅が欲しくなったと書いたことに対する返信で、励ましてくれたのだ。さらに、「死ぬまで建築設計をすることに決めました。後継ぎはいませんが。やるだろ!!」とも。最初は10坪を10年と読み違えて、やっぱり10年か。それでもやるべきか、10年持つだろうかなどと思ったりしていたのですが(やっぱり、今年も怪しい?)。歳のことは忘れた方がいいのかもしれませんね。

頑張ろうという気になりました。何をどうするにせよ、残された年数をぼんやり過ごすわけにはいかないのだ。




さて、1月6日は雪になると聞いていたのに、午前中はその気配がなかった。それが、午後になるとチラチラと小雪が舞いはじめ、あっという間に暗くなって本降りとなり、庭や木々はみるみる白くなっていった(雪が積もるのが本当に早いことは、これまでも何回か経験している)。

雪や暴風雨などは外に出れば、必ずしも楽しいものではない。濡れたり、滑ったり、大変だ。しかし僕は、家の中から外を眺めていると、むしろ外が荒れれば荒れるほど嬉しい気分になる。守られている気がして快適さが倍増するのだね。住宅の役割のうちの一つ、シェルターを実感するのだ。これが、気に入った空間ならばなおさらのはず。




でも、夜や翌朝は大変だ。雪に覆われた白い景色は美しいけれど、道路は凍結し、滑りやすくなって、安全に移動するのが困難になる。そのせいで、注文した本も予定より遅くなった。それでも僕にとってはたいしたことじゃないし、困りもしない。いまの僕なんかは、美しさだけを享受して、ああこれは「外に出るな」ということだ、いまの状況下での天の配剤だと思ったのだけれど、仕事のある人はそうはいかない。だから、雪は楽しいとばかりは大ぴらには言えませんが。

でもそっと言うなら、このくらいのことで、大きな被害が出ないのならば、たまにはいいような気がする。色々と気づくことがあるのだから。


2022.01.12 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

号外 謹賀新年





2022.01.01 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

散歩の途中で スキマも劇場編・1




年末も押し詰まった頃になって、やっと前庭がすっきりした。枯れ草がぼうぼうの状態だったのが、ようやく刈り取られたのだ(大家さんがなかなか渋いのです)。すると、早速小鳥がやってきて、何かをついばんでいた。やっぱり、小鳥だって、すっきりした場所が必要なのですね。

その後で、石垣の方もさっぱりとなっているのに気づいて、残念(ま、それなりの理由があるのでしょうね)。

さて、僕は一時、ベンチ写真家になろうと思ったことがありました。当時いろいろなところで目にしたベンチ(特に、芝生の上に置かれた少々古びた木製のベンチ)が新鮮で、これを主役に写真を撮ろうとしたことがあった。しばらく続けました。それを元写真家だったという女性に見せたらあんまり感心しない様子だったので、そのままになっていました。次はスキマ写真家が面白そうと思って、鹿沼の路地の写真集を見せてくれた「かぬま通信」の主筆に話したことがあったのだけれど、これも芳しい反応がなかったために結局撮らずじまい。今は石垣劇場写真家(これだって、誰も褒めてくれたわけじゃない)ですが、スキマ写真家もベンチ写真家も捨てがたい。これからまた始めてみようと思います。






小さな隙間から覗くと、切り取られた景色がそれぞれに面白い。まずは第1弾、うちのアパートと隣家の擁壁の間(典型的ではないけれど)。赤い実が鮮やかなセンリョウ(たぶん)と枯れススキと冬の青空。そして、隣家のバルコニーを支えるスチールの脚。もう1枚は逆から見たもの。同じところだけれど、ずいぶん違う。


2021.12.22 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

散歩の途中で 石垣は劇場編・3


前回の掲載原稿を書いていた翌日のラジオからは、ハリー・ベラフォンテのカーネーギー・ホールでのライブ盤が。完全版かと思っていたら、ダイジェスト盤のようで、「ダニー・ボーイ」は冒頭の語りの部分が省略されていたのが残念。
紹介していたのは、南佳孝。ほとんど年は変わらないのに、都会っ子の彼は、小さい時からこういうのを日常的に聴いていたのですね。

もう一つ、先日久しぶりに卒業生からメールが届いたのですが、「隕石を手に入れました」という件名がついていました。文中には、「素晴らしい宇宙の写真集を発掘し、隕石を手に入れました」とあったから、手に入れたのが写真集だけなのか、それとも隕石(のかけら)の実物も手に入れたのかは不明ですが。
これに対して僕が返信に書いたことといえば、「僕はどんぐりを5個拾って、持ち帰りました」(しかも、正確には6個だった。もう一個は、その後でポケットから出てきた)。

これらの彼我の違いには、ちょっと感慨深いものがありましたね。




今回の石垣劇場の舞台は、擁壁の石垣を穿って作られた車庫の上。真ん中に草が紋章のように生えています。排水のために開けられた穴に根付いたもののようです。面白いなあ。かぬま通信なら、何と言う?「車庫の上の不思議、」、それとも「野草としての主張、」だろうか(それより、読点の意味を早く教えて欲しい)。
でも、壁の上の排水口やら何やらの並び方がバラバラで気になるのが、残念。


2021.12.15 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

散歩の途中で 石垣は劇場編・2


今年も残すところ1ヶ月を切った。結局、たいしたことはほとんど何もしないまま、過ごしてきたことになる。
本当にあっという間だ。
コロナがようやく落ち着いてきたと思ったら、また新しい変異株が出てきた。強力だと言うので、ちょっと心配。
さて、どうなるのやら。





それにしても、石垣の上の植物はたくましい。
小さいけれど、それぞれに美しい花を咲かせ、きれいな葉の色を見せている。
この一輪の黄色い小菊も鮮やかです。

ラジオからは、ナット・キング・コールの歌が流れている。レコードを聞きたいところだけれど、あいにく手元にはない(昔、あんまり年の離れていない叔父が好きで、教えてくれた)。最近は、こうした古い曲が心地よい(必ずしも、リアルタイムで聞いていたわけでもないのに)。思い切って、寺町へ取りに行きたくなった。



2021.12.08 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

散歩の途中で 石垣は劇場編・1


前回のNice Spaces で、「住宅に対する欲求はあるから、かろうじて人間らしさの全面喪失は免れているのでは」と書いたけれど、解説者はただ「人間は着飾りたいという欲求を持っている」と言っているだけで、住まいに対する「欲求」が人間らしさの条件かどうかはわかりませんね。
どうも、自分に都合よく受け取っていたのではないかという気がします(反省)。おまけに、いつも後になって気づくのだよ(やれやれ)。



生きる権利、

ちょっと「かぬま通信」を真似して書いてみたのだけれど、どうでしょう。もしかしたら、「石垣の上の奇跡、」か。
ところで、最後の「、」はどういう意図なんでしょうね、気になります。はじめは読点の間違いかと思ったのですが、どうもそうではなさそうです(このスタイルは、けっこう多用されている)。

でもね、僕はもう少し饒舌にならないと気が済まないようです。

名も知らぬ植物はどこにでも生きている。しかも、美しい。石垣の上を這うようにして伸びるこの葉は、なんという名前なのだろう。名前を知らないというのは寂しい。

というふうに。さらには、名前を知らないうちは本当に知ったことにはならないのだから、なんて筆が滑りそうです。

だから、イケナイのだね、たぶん。


2021.12.01 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

ライカじゃないけど


ニュースを見ていたら、ピンクのチョコレートがあるという(当然、着色したものでなく、カカオそのものに由来する)。ただ、この色を取り出すのには相当苦労したらしい。だから、こちらは人工的に作り出したものではないけれど、以前には人為的に青いバラを作り出したという報告やオリンピックに向けて秋に桜を咲かせようという試みがあったことを思い出した(その後どうなったのだろう)。これらには技術的な意味があることはわかるけれど、でもちっとも面白いと思わないのです。どうして、本来の良さや好ましいイメージを壊す必要がある?と思うのだ。これは、やっぱりこちらの感覚がもはや古いまま進取の気性を欠いてしまったせいなのか、はたまた時代のスピードが速すぎるのか。でも、こうしたことを面白がりたいという気にもならないのだ。

このところは、近所を歩いていて、写真を撮ることが多い。これを1枚の葉書にするのだ。その気になって見てみると、近くにも案外面白いものがたくさんあることに気づく。今はけっこう花が咲いている。野の花や草木も、それぞれに美しい。ただの葉っぱにだって見とれてしまうことがある。そして、自然の妙というのか、造形的にも面白い景色がある。おかげで、町、いや近所を歩くときの目が変わった気がします。

しかし残念なのは、その名を知らないものが何と多いことか。花の名前に限らず、星の名前もそうだ。いかに大事なことを知らないまま過ごしてきたことかと、思い知らされるようだ。で、調べて見るのだけれど、なかなか見つからない(スマートフォンだとほぼ一発でわかるソフトがあるというのだけれど)。おまけに、運よく見つかって、その時は分かってもすぐに忘れてしまう。覚えられないのだ(ま、今に始まった事ではない……)




だから歩く時は、小さなデジタルカメラを必ず持って出る。画質にも大きな不満はないし、何より軽くて良い(スマートフォンのカメラ機能はなかなかのものだと聞くけれど、たぶん気分が違う)。そして、目についたものがあると、カメラを向けてパッと撮る(ちょっと木村伊兵衛ふうでしょう。ライカじゃないのが残念)。

本当は構図をきちんと考えて撮る方がいいのはわかっているけれど、なかなかそうはいかない。第一、ピントを合わせるためには被写体を真ん中に持っていかなくてはいけない。それに、液晶画面ではすぐには決めかねる時があるし、花があるのは人家の周りということも多い。別に急ぐわけではないけれど、ぐずぐずしていて不審者と思われるのもかなわない。で、後から切り取ることになるのですが、これがまた、けっこう悩ましいのだ。加えて、ソフトの使いこなし等の制約もある。

ただし、たぶん、見る人はあんまり気にしないかもしれない。ああ綺麗な花だ、美しい色だなあと思いこそすれ、もうちょっと左を切って、右に寄っていればいいのになどと思いながら見る人は、そう多くはいないのではあるまいか。

しかし、作る側はそうはいかない。もしそうなら、自分で作る必要もない気がする。もとより、「美の神は細部に宿る」などと大げさに言うつもりはないけれど。

どうせ同じことだからということにして、例えばどうせ明日も使うのだからと思って、ものを出しっぱなしにしたのなら、何も考えず、何も感じないで暮らすのと同じということになりそうだ。全てのことが、どうでもいいことになってしまいそうな気がするのです。日々の小さなことを大事にしないのなら、大きなことを大事にすることはさらにむづかしいのではあるまいか。さて、それできちんと暮らしていると言えるのだろうか、という気がするのです(ちょっと大げさかもしれないけれど)。ただ、「言うは易く、行うは難し」という格言はここでも生きているようなのです(やれやれ)。


2021.11.24 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

続・スコットランドの鳥、コルシカの豚


このところはメールを読む機会が少なくなって、届くのはアマゾンからのものばかりと書いたばかりだけれど、社会との接点がほとんどこれだけ、買い物だけというのはどうにもいけない気がするのです。元々が社交的な性格じゃないし、一人でいることが苦になるわけでもないのですが、いくらなんでもまずいのではあるまいか。このままでは、無精髭(デ・ニーロを見習わくてはいけない。映画の中の彼は、退職後も毎朝きちんと髭を剃り、ネクタイを締める。たぶん、自分を甘やかさないために)と同様、いよいよ頑迷さばかりが増すようで、ちょっと怖くなる。それで、ついグラスに手が伸びてしまうのですが……。

はじめは、少し前に雑誌やニュースで知った、ビールやウィスキーの定義をめぐるヨーロッパと日本における違いについて考えようとしていたのだけれど……。実は、先回例に引いたスコットランドの村々の人々とは大いに違うことを改めて確認して、反省しているところなのです。例えば、スペイサイドのウィスキーの名門蒸溜所の所長である職人は、自分がそこに移ってから初めて仕込んだウィスキーが来年やっと市場に出るんだと言う。しかし、彼はもうすぐ定年で、見届けることができないかもしれないのだ。それでも、彼は少しも悲観することなく、「良いものを次の世代に引き継ぐことが、使命なのだ」と誇りを持って言い切る。

別の村では、廃線となった駅舎をカフェに改装し、コミュニティの核として再利用している。そこで働くのは、ボランティアのおばあちゃんたちだ。何のためにと問われて、「村の心」、「村のまとまり」のためだと口を揃えて答える。


*

そしてまた、金色に輝く大麦畑脇の小道を、安全に通れるようにとせっせと一人で整備し続ける年配の男性もいる。リタイアしたので「コミュニティへの恩返し」をしているのだ、と言う。これを聞いて、自分は全然できていないと恥じる若いアナウンサーに対しては、「年取ってからでいいんだ。若い時はいろいろと大変だから」と励ます。もはや若くない身にとっては、耳が痛い、ちょっと堪えます。

イギリスやアイルランドに張り巡らされたフットパスの存在も、きっと、権利と義務、あるいは受け取ることと与えることの釣り合いとも言えそうな、そうした気持ちがあってこそだろう。

ところで、英国に限らず、ヨーロッパの人々が街の魅力について言う時に、一様に「まるで、村に住んでいるよう」と口にするのをよく聞く、と言うか目にします(元は、たいてい紀行番組やドキュメンタリーです)。大きな都市の中にあっても自分が住んでる地域の住み心地の良さを測る指標の一つに、「村のよう」というのがあるようなのだ。この時の村というのは、自然ということもないではないけれど、むしろ人と人の交流のありようについて語ったものですね。このことも、わが国とはずいぶん違っているようです。

我々の国では近代以降、若者にとって村は出るべきところだった。「ムラ」は近代的な生活とは正反対の封建主義の生活の象徴。以来、村は見捨てられ、人々は都市に集中することになった。そして、人と人の結びつきは煩わしいものとされて、付き合いは極めて限定的なものとなって、地域の共同体としての姿はもはや失われたように見える。時々、例えば大きな災害の後などには、決まって隣人のありがたさ、絆などという言葉が持ち出されて流行ったりするけれど、やがてすぐに忘れ去られます。

おしなべて欧米好きの国民が、生活の仕方、取り組みについては、案外お手本とすることは少ないようです。ついでに、思い出したことを一つ。最近、近所では歩道沿いのツツジが刈り込まれて綺麗になった。同時に、その片隅にあって美しい花を咲かせて楽しませてくれた芙蓉は、バッサリとやられてしまった。以前には桜の並木が切り倒されたこともあった。こうした仕業には、疑問に思う以上に、腹がたつ。

なぜこういうことになるのか。これらの態度に共通することがあるのかないのか。あるとすれば、それは一体何なのか。何故のことなのか。

融通無碍の柔軟性のなせる技(発揮される時と、ない時がある)なのか。もしかしたら、都合の良いものだけを取り入れるということなのか。それはやっぱり、「いま」と「ここ」という時間と空間認識によるものなのだろうか。

原則主義と現実主義。どちらを重視するのか。いずれにせよ、バランスが大事なのだろうと思います。しかし、軸を持たないことにはそれもむづかしそうです。建前と緩やかさの並存は、白洲次郎が言うところの「プリンシプルのない日本」ということになるのだろうか。とすれば、自身もそうだということにもなりそうです。心しておかなければいけません。


* 写真は、ブログ「日々の出来事」から借りたものを加工しました。


2021.11.17 夕日通信(*コメント、お便りをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

スコットランドの鳥、コルシカの豚


スコットランド人の女性が北部の田園地帯を貫く細い道を歩いている途中で、農場から道に出てきた数羽のキジを見て「おいしそう」と言ったのだった。あまりにも唐突で、一緒に歩いていた日本人は驚き、当惑します(当然ですね)。


*

日本語を話すスコットランド人女性が日本の女性アナウンサーを案内しながら6日間かけて、ウィスキー醸造所が散在する地域を貫き内陸部から北海に達するスペイ川沿いの道を歩く。途中で見学したウィスキー醸造所では、22年間も樽の中で眠っていたウィスキーを試飲する。そして、道端のラズベリーを摘んで食べたりしながら歩いていくのだけれど、その途中のことだった。なんの前触れもなく、突然、冒頭の場面が現れたのだ。

そして、別の一本では、コルシカの養豚家が「毎日、愛情いっぱいに育てていますよ。それでこそいい製品になる」と言い、「命と命をつなぐ仕事をしている」のだと誇りを持って言う。歩いている「ファガティ(豚の血のソーセージ)」を見せようと案内されて、放し飼いの黒豚を見てかわいそうだと言って涙ぐむ日本人の女性アナウンサーに対して、同行していたコルシカ人女性は「彼らは嬉しい気持ちで過ごしたし、彼らの命の目的は加工食品になることですから」と慰めながら、歩いている「ファガティ」を見やるのだ。

「いい製品になる」とか「目的は加工食品になること」とか、ほとんどの日本人は、違和感を覚えこそすれ、そんなふうに考えることはないのではあるまいか。

それで、今やイギリスの代表的なカリズマシェフとして知られるゴードン・ラムゼイのテレビ番組を見ていた時のことを思い出した。昔のことなので細かいことはもう覚えていないけれど、こちらも負けず劣らず衝撃だった。彼は幼い娘たちと一緒に七面鳥を飼っていた。名前をつけて、毎日可愛がりながら、世話をするのだ。ある日、クリスマスの日だったか、鳥小屋に行き、いつものように「〇〇ちゃーん」と声をかけ、小屋から出す。そして、その七面鳥はディナーのテーブルを飾ったのだった。小さな女の子たちは知っていたのだったか。そのことを知った時、彼女たちはどう思ったのだろう。

もうひとつ、このところ寝しなに読んでいる「ドリトル先生航海記」では、高名な博物学者で獣医でもあるドリトル先生は、様々な動物と話ができるし(今は貝語に挑戦中)、たくさんの動物を飼っている。以前いっしょに暮らしていた妹よりも有能だという家政婦のアヒル、ダブダブもいる。にも関わらず、皿の上のソーセージやらお肉を食べるのだ。一体どうなっているのかしら、と思ってしまう。しかも、仲間としての動物たちと学問のための資料としての動物は明確に区別されているようなのだ。

それで、ふと思いついたことがあるのです。それは、「かわいそう」は、今や世界語となった「かわいい」と同じではないかということ。もちろん意味のことではなく、その出自、背景ということです。それは、よく言うなら、日本人は全体をみる、総体に関心がある。悪く言えば、情緒に傾きがちで、表層的である(これはまさしく僕自身のことに他ならない、ということに気づく)。

とにもかくにも、彼らと我らの気持ちのありようはかくも違うようなのだ。我々もたいていの人は動物をかわいいと思いながらも、肉食をする。それでも、食肉用の動物とそうではない動物(例えば牛)に対する感情はあんまり変わらないのではあるまいか。食肉用の動物を見てもやっぱり可愛いと言い、売られていく時にはかわいそうと思うのではないだろうか。少なくとも、生きている動物を見て、「ああ美味しそうだ」と思うことはほとんどなさそうだ。

彼と我の精神のありようにおける割り切り方や合理性の違い、このことに、今更ながら驚く。わかっていても、つい感傷的な気持ちを抱くのが我々の多くに共通しているような気がするのです(ただ、これが持続するかというと、また違うようなのだけれど)。

さらにもうひとつの違い、いつも感心させられることがあるのだけれど、もはや長くなってしまったので、これは別の機会に。


* 写真は、ツィッター「ヨーロッパ旅行 情報部」から借りたものを加工しました。


2021.11.10 夕日通信(*コメントをこちらから、ぜひどうぞ。 a poor old man)

小説とエッセイのあいだ


思うところがあって、「赤頭巾ちゃん気をつけて」、ついで「風の歌を聴け」を読み返した。後者はご存知村上春樹のデビュー作ですが、知らない人のためにちょっと説明しておくと、前者は発表された時ちょうど僕と同世代の高校生の「薫」くんが主人公で、作者は同名の庄司薫。大ベストラーだった。ついでに言うと、庄司薫は「ライ麦畑でつかまえて」の影響が大とされて批判されることもあったけれど、その饒舌で柔らかな口語体の文体をはじめとして、村上春樹との関係もよく言われるところです。




読んだのは、高校生の頃、新潮文庫になって再発売されたことを知った時、そして今回と、覚えているだけで3回目。初回の時は、シリーズ4部作はもちろん、別名で書いたものからエッセイ集まで、出る度に全部読んだ。一方の村上春樹は、たぶん自分で発見した初めての作家だった(誰かの紹介や既に定評があるというのではなく、自分が本屋で手にとって、ちょっと立ち読みした後で購入した本ということです)。しかし、ある時まで新刊が出るたびに熱心に読んでいたけれど、それ以降は文庫本で出るエッセイを時々読むくらい…。

「赤頭巾ちゃん気をつけて」の2回目は出版社を変えて文庫本で再発売された頃で、シリーズ全4冊を読んだ。その時は「僕の大好きな青髭」が一番のような気がした(よく覚えていないけれど)、今読むとしたら「白鳥の歌なんか聞こえない」をいいと思うかもしれない(もちろん薫くんではなく、死んでいく人へのシンパシーのせい)。今回は、さすがに昔と同じような受け取り方はできないし、違和感を覚えたところもあった。

それでも、薫くんの信条である他者に対し「やさしくあること」、そして、できるだけ「自分のことは自分でする」ということに対する思いは変わらない。この二つは一見遠く離れているようだけれど、たぶん、他者に対し「やさしくあること」は自分に対しても「やさしくあること」だし(もちろん、自分に甘く、他者に厳しいという態度とは全く異なる。自戒せよ)、「自分のことは自分でする」という態度は「やさしくある」ということと不可分であるに違いない。そして、歳をとるとなかなかこれが困難になるようだ…。

いや、こんなことを書こうとしたのではないのだ。「赤頭巾ちゃん…」は、地の文、あるいは独白という形で語られる薫くんの「思い」の量が多い気がしたのだった。これに対し、「風の歌…」の方は会話体の方が断然多い(こちらもやっぱり、印象はまるっきり違った。随分書き込みがあって、会話するように読んでいたようだったのに。でも、おかげで得るところがあったけれど)。いずれにしても、人は年を経ると相手は変わらないのに、こちらの受け取り方、感じ方が変わるということを改めて実感する(もちろん、逆もあるはず。ま、いつまでも変わらず一緒というのも困るといえば困るけれど)

アメリカのミステリー作家クーンツが「思想や信条についての考えを述べたいのならば、エッセイで書けばいい。小説は物語を書くものだ」というようなことを言っていたことを思い出して、なるほどこういうことだったかと思ったのだった。

どこに住みたいかということについて説明するのにはエッセイが向いていそうだし(もちろん、小説でも書けないわけじゃないと思うけれど)、なぜそう思うに至ったのかという心の動きを記述するには小説が向いているかもしれない(これも、逆もありうるだろうけれど)。

それで今度は、イタリアを題材にしたものを書いている(または、書いた)女性3人のことがちょっと頭に浮かんだ。塩野七生は小説、須賀敦子はエッセイ(フィクションを交えた)、そして内田洋子はエッセイの形を借りた小説と言えるのかもしれないと思ったのだ。

今や、小説らしい小説、エッセイらしいエッセイからエッセイの姿をした小説まで、あるいは小説のようなエッセイと言っていいようなものまであるのだね。それでも、形式にはそれにふさわしい内容が一応はあるのだろうと思います。ひとまず変化球はよして、直球の会得を目指そうと思う(今更ですが)。

ちょうど届いたばかりの「移動祝祭日」(「いどうしゅくさいじつ」と読むということを初めて知った)。この冒頭に、「この本はフィクションと見なしてもらってかまわない」とある。これを読んで、不意に気づいた(これも、今頃かと言われそうだけれど)。エッセイは何となくノンフィクションと思い込んでいたのは誤りだった。考えてみれば、エッセイはルポルタージュである必要はないし、ただ、ある「思い」や「考え」を伝えるための形式の一つなのだ。

対象が何であれ、小説であれエッセイであれ、あるいは建築であれ住宅であれ、形式とその性質、そしてそこで扱われるべき内容の関係を正しく理解して取り組む必要があることを、改めて思い知った気がしたのでした(なんだか当たり前のようで、パッとしないけれど。あ、これはいつものことか)。


2021.11.03 夕日通信(*コメントはこちらからどうぞ)

辞書に対する不満


なぜ、載っていない!? 正確には、なぜ説明がないのか。

僕は、比較的よく辞書を引く方だと思う(といっても、何の自慢にならないのですが)。わからない言葉が出てきたら引くし、正確にはどういう意味なのか確認するためにも引くし、どんな漢字だったかをみるためにも引く。あるいは、対義語は何か、類義語はなんだったか。こんなふうに、辞書を引く機会は四六時中事欠かないのですが、なんのことはない、知らなかったり忘れたりしたものが多いってことです。おまけに、案外、知っているつもりでも、改めて問われるときちんと説明できないことも多い。

そんなわけで、とにかくよく引く。その時、僕が手にするのは、たいてい電子辞書。さすがに今となっては紙の辞書を取り出すことは滅多にないし、インターネットで確認することもあんまりないのです(いつも接続しているわけじゃないし、パソコンと向き合っているわけでもないので、即時性に欠けるし、手間もかかる。ただ、英語ではどういうのかを知りたい時は、インターネットに頼ることが多い)。世の中は、音楽の聴き方などと同様に、こうした調べ物もインターネット経由が主流なのだろうか。




ともかくも、それで不満に思うことの筆頭は、辞書を引いた時に「…に同じ*」とあること。いかにも不親切じゃないか。早く知りたいから引いたのに、これでは辞書を引いた意味が半減する。仕方なく「…」を引き直すのだが……。なぜ、同じ説明を載せないのか。辞書を手に引く身としては、すぐに意味が知りたいのだ、確認したいのだよ。

紙の時代なら、わからなくもない。同じものを繰り返し載せていたらページ数が多くなって、厚いものとなってしまい、扱いやすさはもちろん経済的にもうまくないことになりかねない。編集作業も煩雑かもしれない。

ところが、今や電子ファイルの時代なのだ。同じことを繰り返し載せても、ファイルのサイズはさほど増えないだろうし、大した手間じゃないはず。

たぶん、電子辞書用に新しく編集し直したというよりは、紙のものをそのまま流用しているせいではないかと想像しているのですが、どうでしょう(ただ、たまに、紙のものよりも説明が簡便になっているような気がすることもあるのだけれど、これは手元のものが古いせい?)。そう言えば、手に馴染んだ電子辞書のメーカーのSSIは、トップブランドの一つだったのに、すでに製造をやめてしまった。もはや、電子辞書も過去の遺物になりかかっているのだろうか(もしや持ち主も、か)。それとも、今でも辞書は、やっぱり紙のものが基本なのか。

もしそうならそれはそれでいいけれど、媒体が変わる時には、その形式にあった作り方をしてもらいたいと思う。せめて、電子辞書の中でリンクが貼ってあって、「…に同じ」とあったらすぐに「…」のところへ飛べるくらいにはして欲しいのです。もしかしたらこれは、現在の技術ではむづかしいことなのか。あるいは、経済的な問題?とにかく、もっと使いやすい電子辞書を作ってくれ!


* このいい例がないかと探そうとすると、今度はなかなか思いつかなくて、またイライラする(探しようがないし、八つ当たり気味であることはわかっていても、それでも腹が立つ)。品も何もあったものじゃない気分になるのだ(ああ、嫌だ)。



2021.10.27 夕日通信(*コメントはこちらからどうぞ)

無いのと、一緒


この間書いた後で、思い出しました。お手本になりそうな老齢の女性。少し前に亡くなったけれど、八千草薫、そして存命中の草笛光子。前者はいかにもたおやかだし、後者は凛としている(ヴァネッサに近い)。いずれもが、気品がある。こんなことから始めたのは、ちょっとイライラすることがあって、我ながら気品のかけらもないなあと思ったから。

探すのだけれど見つからない。必ずあるはずなのに、どこにあるかがわからない。確かに持っていたはずの本を探していたのです。




あちこちに分散して置いてあるし(同じ家の中のことです)、奥深くにしまいこんでいるものもある(棚の中の本やCDは二重三重に)。このために、どこに置いたかわからなくなってしまったのだ。それもこれも、ものが多いせい。

本末転倒も甚だしい。すぐに手に取れるように所有しているはずなのに、見つけられずに時間ばかりかかって、腹立たしくなってくるのだ。おまけに不経済でもある。以前にここでも書いたように、遠ざけようとしまい込んだ、キース・ジャレットのCDを買い直す(さらに悪いことには、それ以外のものまでも*)羽目になってしまうようなこともある。

考えてみると、本にしろ、CDにしろ、DVDにしろ、取り出すものはそう多くはない。読んだり、聴いたり、観たりするのは案外限られているのだ(たまに例外があるけれど)。

とするなら、そこから外れるものは廃棄するか、手放すか、それとも一旦箱に詰めて収納するか(こちらは一時的な収納スペースの確保のためにしかならない)。何らかの手段を講じなければならない。考えるまでもない。わかりきったことなのだ。

まだ学校にいる時、幌を上げないオープンカーの話題が出た時に、それは「可能性があるかないか。可能性を担保するためなのだ」と教えられたことがあった(すなわち、鎌倉の近くにいながらなかなか行かないのと同じ。すなわち、行こうと思ったらいつでも行ける、幌を上げようとすればいつでも上げられるという安心感ってことですね)。

一方、たまたま開いた本の中で、吉田秀和は「本でもなんでもあんまりたくさん所有するのが好きでな」いと書いていた。「少し溜まってくると重苦しい気がしてくる」そうなのだ。うーむ、そうなんだと思って、所有欲がなく、その分音楽にしっかり向き合っているのだろうと、羨ましくもちょっと憧れたりしたけれど、もしかしたら彼の場合は、必要になったらいつでも手に入れられる「可能性」は常に保たれているということもありそうな気がする(これは、ただのジェラシーかも)。また、本が、今読んでいる一冊だけが、目に見えているといいという話しになったこともあったけれど、こちらは所有するのがその1冊だけというのではなかった。

読むのかどうか、聴くのかどうか、あるいは観るかどうかわからないものに執着するというのは、ずいぶん女々しい(こういう言い方は、いまなら性差別とされるかも。悪気はありません)ような気がしてくるけれど……。なぜこういうことになるのか。

でも、僕と同じような人はいるもので、吉田と同じ音楽評論家でもある片山杜秀がそうらしい。彼は吉田とは逆に、聴くことができないこと(あるいは、観ることだったか)はわかっていても「エアチェックがやめられない」、と書いていたのを読んだことがある。ま、これで安心してはいけないけれど)。ついでに言うと、村上春樹は本に関しては吉田派で、レコードについては片山派ということのようです。

人のことはともかく、なんとかしなくてはいけない。整理しなくてはいけない。捨てなくてはなりません。しかも残された時間のことや、本やCD、DVDの類の保管場所として借りた寺前の状況のことを考えるならば、すぐに取り掛からなければいけないのに。それができないのだ。

それでも、ごくたまにだけれど、いいことがないわけじゃない。先日のBRUTUSの特集で村上春樹が紹介していた『アメリカの鱒釣り』を読みたくなって探していたら、武信の『詩的快楽の行方』とか和田誠の『倫敦巴里』とかホッパーの絵の表紙が素敵な『and other stories とっておきのアメリカ小説12編』とか、はたまた吉田秀和の全集の一部だとかが出てきて、また読んでみたい気になることもある(『アメリカの…』も、時間がかかったけれど見つかりました。となると、次は酔っぱらいのブコウスキーか。たしか、『町でいちばんの美女』があったはず)。

ところで、こうした態度はいったい何故なのか。やっぱり「可能性」?僕の場合はただの「なまけもの」、しかも貧乏性の、それなのかもしれない。しかし、そんなことばかりも言っていられない。もはや、猶予はないのだ。まずは必要になったときに比較的手に入れやすいもの、例えば大小のダンボール箱や美しい瓶の類は、できる限り捨てることにしよう(捨てることに慣れるのだ。できるだろうか…)。


* アマゾンで中古を買うことを覚えたのですが、安く買えるのは助かるけれど、簡単にぽちっと買えるのが怖いのです。


2021.10.20 夕日通信(*コメントはこちらからどうぞ)

こないだの続き、のようなもの


こないだは、バッハばかりに手がのびて困る、というようなことを載せたけれど……。

それでその時にも書いたように、ラジオをつけっぱなしにしていることが多くなった。ま、気分が変わっていいのだけれど、なかにはすぐにスイッチを切りたくなるような番組もあるね(この対策としては、手元にあるCDを端からかけるという方法はどうだろう)。

それでもラジオを聞いてると、思いがけず懐かしい曲が流れてくることがある。たとえば、ある日の夕方は「霧のサンフランシスコ」、「アンチェインド・メロディ」、「イエスタデイ」等々がかかった。もちろん、リアルタイムで聴いたものばかりではないし、しかも当時に聴いた歌手のものでもなかったけれど、これらが妙になつかしく感じられるのは、いったいどうしたことか。これまで何回か書いたように、僕は記憶力が極めて貧弱なので、たいていはいつ頃聴いたものかも定かでないし、それらの歌と結びついた思い出というようなものはほとんどないのにも関わらず……。


*

懐かしいといえば、聞けば必ず一番と言っていいくらいなつかしく思うのはビリー・ヴォーン楽団の「浪路はるかに」。2度目の大学受験の準備のために家から遠く離れて暮らしていた頃に、何をするでもなくラジオを聞いていた時によくかかっていた気がする(というのは、本当はよく覚えていないのです)。たぶん、夕暮れ時ではなかっただろうか(だから、何かの番組のテーマ曲だったのかもしれない)。のんびりとしてのどかな調子のこの曲を、ぼんやりと窓の外を眺めながら聞いていた気がする(いつだって、ぼんやり。ぼんやりとした記憶の中でさえ、ぼんやりとしているのだ。だから、だめなのだね。三つ子の魂百まで)。とくに好んで聞いていたわけではないと思うけれど、ごく稀に思い出すことがあります。そしてもうひとつは、前にも書いたことのある「頌栄541番」 。こちらは時々、ふとしたはづみに口をついて出ることがある。

なぜなのかしらね。ほとんど当時の記憶がないにも関わらず、こういったものを不意に思い出すというのは。不思議です。

ところでそのあとに、新聞で片岡義男が、コーヒーと小説の関係について訊かれて、「ストーリーを進めるには、少なくとも2人の人が要る」、「一人でしみじみコーヒーを味わう、といった描写からはストーリーは展開しない」と書いている*のを読んだのです。なるほどね。僕にストーリーが書けないわけがわかったような気がした。それからもうひとつ、かつて何人かで話をしているときに、問いかけながら話すと自分の考えが前に進んだり、新しいアイデアを思いついたりするのが多かったことも思い出しました。こんなふうに、やっぱり一人では何をやるにしてもむづかしいのだ。

しかし、その一方で、一人でいることを好むようなところがある(人見知り、わがままということだろうか)。能動的に活動しようとする積極性に欠けるのです(我ながらこれではちょっと困るのではないか、と思う時がある)。さてどうしたものか。もしかしたら、1人称で考える、というか、書くことから一旦離れてみるのがいいのかも知れない。


* 写真はビリー・ヴォーン楽団の「波路はるかに」EP盤のジャケット。いかにも古いことがわかります(1957年のリリースのよう)。アマゾンのHPから借りたものを加工しました。
** 朝日新聞2021年10月6日朝刊「語る 人生の贈り物」片岡義男編第13回


追悼:落語家柳家小三治が亡くなった。享年81歳(それほど大きく違うわけじゃない)。志ん朝のような華やかさはなかったかもしれないけれど、飄々とした佇まいと話芸が好きでした。文庫本で出た「ま・く・ら」、「もひとつ ま・く・ら」も面白かった。

2021.10.13 夕日通信(*コメントはこちらからどうぞ)

演奏者の向く先


演奏会では、たいてい主役が聴衆の方を向く。ヴァイオリニストは聴衆と正対するようにして弾くし、アリアを歌う歌姫は聴衆に向かって歌う。なぜか、というのも変。というかあたりまえすぎる。至極当然。音や声も良く届くし、なんといってもその姿を正面から見てもらうことで、主役が誰かをはっきりと知らせることができる。聴衆も安心して聴くことができて嬉しいに違いない。

でも、ピアニストはそうはいかない。正面を向こうとすると、ピアノの陰に隠れてしまうし、ピアノの大きさも目立たなくなってしまいそう。だから、斜めというかちょっと横向きにならざるを得ない。それでも演奏者の表情や身振りの半分は、聴衆から見える。

そう考えると、指揮者はいやでしょうね。たぶんその日の音楽のありようを主導してきた主役であるはずの彼や彼女は、聴衆からは背中しか見えない。特にカラヤンやクライバー(息子クライバーの方)のように、見せることを意識していたと思われる指揮者にとっては不満だったのではあるまいか(それでも、背中で十分に語ることができた)。これは指揮すべきオーケストラの方を向かなければ、その役割を十分に果たせないことになるので、仕方がない。


*

しかし、オルガン奏者はどうなのだろう。

演奏会が終わって、付録みたいにつけられていたパイプオルガンの独奏を見ていたら、気になった(残念ながら実際のコンサートではありません。こないだテレビを見ていて、思ったのでした)。パイプオルガンの奏者は、ほとんどが後ろ向きに弾く。なぜ、正面を向かないのか。

まず、あのおびただしい数のパイプは、聴衆の正面の壁に取り付けられているのが普通。音響的には、それが最も効果的なはず。だからコンサートホールでは、ほとんどすべてがそうなっているのではあるまいか。

でも、演奏者までが聴衆に背を向けているのは、なぜなのか。聴衆の方を向いて演奏することもできそうだけれど…。ちょっと気になったので、考えてみた。オルガンの位置は、音響効果を損なわないため、ということはわかるのだけれど…。もしかしたら、パイプと演奏者が正対しなければならない機械的な制約があるのだろうか(小さなチャペルで、横向きに座った演奏者を見たことがあるような気もするのですが…)。それで、以下のことを思いついたのだけれど、どうでしょう。

ひとつには、もともと教会でのパイプオルガンの演奏は、まず何よりも神に捧げるものだった(教会で入り口側に設けられることが多いのも、祭壇側には形状的に取り付けにくいこともありそうだけれど、このせいもあるような気がする)。あるいは、神の偉大さを信者に伝えることが目的だった。

もうひとつが、一番目の理由と関連するけれど、パイプオルガンの演奏者が聴衆と正対すると、演奏者自身が神またはその代理人として君臨することになるのではないか(これは神様の座を奪うようで、上手くないのではあるまいか)。というようなことだったのですが、どうでしょうね(でもこの場合、神様から聴衆への贈り物を届けるという風に考えるとどうなのか)。

いずれにしても、教会ならばいざ知らず、コンサートホールではもはや関係なさそうな気がする。やっぱり、なにか機械的な制約があるのだろうか。こんなふうに中途半端で、最後まで自分で追求しようとしないのがなまけものの証拠のようで、嫌になってしまう(やれやれ)。

ところで、そんなことを考えて何の役に立つのか、という人はまさかいないと思いますが(ここに書いたものの、ほとんどすべてがそうなのだから)、中にはそういう変わった人があるかもしれません。さて、何か役に立つことがあるのか。もちろん、何の役にも立ちません(少なくとも、これを読んでいる人にとっては)。

ただ、何とどう向き合うか、それによって受け取るものが異なるようです。そして、人にはもう一人の自分、あるいは他者と言うべきか、そうした存在が必要なのかもしれないと思ったのでした。

そういえば、このところ聴くのはバッハばかり、しかも限られた曲ばかりになるのはどうしたことだろう。モーツァルトさえも聴くことが少くなった。吉田秀和が妻を亡くした時に、かろうじて聴くことができたのがまずバッハだったという。あんまりうまくない兆候に違いない気がする。これからは意識して、別のものを聴くようにしなければ(こういう時、ラジオが役に立つ)。


* 写真はサントリーホール、ヤマハのHPから借りたものを加工しました。


2021.10.06 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

年をとってからの顔


繰り返して観る映画がある。と言って、世に名高い名作映画というわけではないし、新味があるわけでもない。それでも時々観返したくなるような映画のタイプというのがいくつかあるのだけれど、一つには「ハート・ウォーミングな」と言われるようなもの(やっぱり、甘ちゃんなのだ)。ちょっと気持ちを和らげたい時に観る。先日見たのは、『ジュリエットからの手紙』。

舞台となったのは『ロミオとジュリエット』の街、イタリア・ヴェローナ。ジュリエットの生家には、世界中から手紙が届く。これに対して、「ジュリエットの秘書」と呼ばれる人々によって返事が書かれるようになったというのだ。映画はそんな「ジュリエットの手紙」から始まる。

原題が“Letter to Juliette” なのに対し、邦題は『ジュリエットからの手紙』となっているのが面白い。前者は物語の発端の元を表しているのに対し、後者は直接的な始まりを示しているように見える。あるいは自らの働きかけか、受け身か。一方、ヒュー・グラントの『Re:LIFE~リライフ~』は原題が“The Rewrite”だったので、ちょうど逆ということになるのだろうか。ということは、彼の国とわが国の特徴を示すものではないということなのか、ちょっと残念な気もするけれど。でも、主体の有り様の違いを示しているとも言えそうなので、この点では二つのタイトルの付け方はやっぱり同じと言っていいのかもしれない。

ソフィーは雑誌『ニューヨーカー』で働く調査員。早く自分の記事を書けるようになりたい、と願っている。婚約者で、近々イタリアン・レストランの開店を控えるヴィクターとともに、ヴェローナにやってきた。観光を楽しみたいソフィと、レストランのための食材業者巡りが一番の目的のヴィクター。やがて2人の気持ちがすれ違いはじめ、お互いに別行動することに。翌日、ソフィーはひとりで『ジュリエットの家』を訪れ、そこで壁に貼られた手紙を回収して返事を書く「ジュリエットの秘書」と呼ばれる女性たちと出会い、記者志望の彼女は手伝わせてもらうことになる。

ソフィーが手紙を回収していると、壁の煉瓦の一つが抜け落ちて、見るとその奥には一通の古い手紙が。それは50年前に書かれた、クレアというイギリス人女性からのもの(これが原題の所以)。手紙を読んだソフィーは、その手紙の返事を書かせてもらうことに。そして、届くかどうかわからない手紙を時間をかけて書き上げる(こちらが邦題)。


*

それから数日後、手紙を受け取ったクレアに付き添ってヴェローナにやってきた孫のチャーリーが、「ジュリエットの秘書」たちのオフィスを訪れた時に、ソフィーと出会う。ソフィーは、チャーリーに余計なことをしたと非難されながらも、異国での恋の相手、ロレンツォに会おうと決意したクレアと物語の結末を見届けたいと、「同行させてほしい」と頼み込んで「ロレンツォ」を探す旅に出発する。

絵の勉強をするためにやってきたイタリア、シエナで、15歳の時に出会った青年を50年後に探しにやってきたクレアを演じた、ヴァネッサ・レッドグレーブが美しい。僕は年寄り映画が好きだった時があったけれど、その時はもっぱら男の俳優に注目してみていた。いわば、老後のお手本としてみていたわけです。女性だってお手本にできないわけではないはずだけれど、なかなか、そんな風に考えることはなかった。そのせいか、年取った女優で印象に残っている人(役)があんまりいないのです。

かろうじて思い出せるのは、例えばジュディ・デンチ、シャーロット・ランプリングくらい。そうそう、わが国には樹木希林がいました。いずれも個性的な俳優で、美貌や若さを売り物にした女優ではないけれど、ある種の美しさ、というか気品があるように感じたことがあった。ただ、当時既に70を越えていたヴァネッサ・レッドグレーヴは、彼女たちとは異なり、味があるというようなものではなく、凛としていて美しい(女性的というよりは、男っぽい顔立ち)と思ったのです。さらに言うのは、ちょっとはばかられる気もするけれど、なんと魅力的な老女であることかと感じ入ったのでした。

リンカーンの言葉だったか、よく「40過ぎたら自分の顔に責任を持て」ということが言われますが、これは男に限らず、女の人も同じなのだね(当たり前か。原文には"Every man over forty is responsible for his face"とあるようだけれど)。それまでの生き方、過ごし方が顔に現れるというのだ(ヴァネッサは反体制の闘士としても知られた)。持って生まれた造作は仕方がないとしても、それが表すものは自分の責任なのだ。僕はいまや40をはるかに超えてしまったというのに、このことを思うとちょっと恥ずかしいね。ずいぶん長い間、ぼんやりとした顔で暮らしてきたのだ、と思い知る。もはやこれまでのことはどうにもならないけれど、これからは責任の持てる顔を作るべく暮らしていかなければならない。さて、いったいどういう暮らしをすれば良いものか。果たして間に合うものだろうか(と言って、誰に見せるというわけでもないけれど)。


* 写真はhmhmから借りたものを加工しました。元の画像は予告編からということです。


2021.09.29 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

保守性を自覚する


とある午後、例によってラジオをつけっぱなしにしていた時のこと。こんなことを書くのはちょっと気がひけるけれど、嫌な気がした。


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そのうちに、ノイジーな音でポップスを編曲し直したような音楽が聞こえてきたのです。

「ジャズ・トゥナイト」の再放送。夕方の番組構成が変わって、それと知らずに聞いていた頃から、進行役の大友良英の誠実な語り口を好ましく思っていた。しかし、この曲はどうしたことか。

彼が若い頃に作ったアルバムの曲ということのようだったけれど、聞いているうちに、何となく覚えのある曲だという気がしてきた。しばらくして、思い当たった。そして、あの曲をここまで汚い音でやるのかと思ったのだ。実験的、新しい試み。それ自体は結構なことだし、必要なことだけれど。

曲の名は、「悲しき天使(Those Were the Days)」。その昔、ポール・マッカートニーの秘蔵っ子というメアリー・ホプキンスが歌って、ヒットした。僕は、これを耳にすると今でも、ちょっと切ない気持ちになる。かつて若い頃、洋々たる未来あり、それを手に入れることを信じて疑わずに、グラスを掲げていたのに、やがて歳をとって、その居酒屋の窓に映った自身の姿を見て、そうではなかったことを思い知らされる、といった歌詞だから(ま、大抵の大人に当てはまりそうです。それにしてもなぜ、こんな歌を若い女性が歌うことになったのだろう)、ハッピーエンドの歌ではない。甘く叙情的な音だけでなく、苦いものが混じるのは当然だ。だから、その部分に注目し、強調するやり方があっていい。

しかし、音をガリガリと思い切りノイジーにして歪ませ、捻じ曲げて叙情性をひとかけらも残さない。そこまでやらなくてもいいだろう、と思ったのだ(というか、何も「悲しき天使」じゃなくてもいいじゃないか)。しかし、感じ方、作り方は人それぞれだ、というのが当然だろう。実験的な音楽、新しいジャズの試みだと言うのなら、これもその内の一つに相違ない。僕の反応は、昔流行った言い方に倣えば、守旧派だと弾劾されるべきものかもしれないし、筋金入りのジャズファンには分かってないなあと言われそうな気もする。

しかし、やっぱり僕はこれを好まないし、こういう音楽を聴きたいとは思わない。気持ちの上ではそうじゃないつもりでいたのが、案外、自分が保守的な性向だったのだということに思い至りました。改めて思えば、小説の嗜好、映画の好み、好きな建築なんかもそういうところがあるね。

加えて、このところの関心は、本であれ、音楽であれ、映画であれ、なんであれ、もっぱら古いものに向かっていたのだけれど、もしかしたらこれから、積極的に新しいものに触れようとする方がいいのだろうか。


追記:この時の僕は、黒田恭一の教えるところの、わからないものを知ろうとする「尋ねる耳」を忘れていたのかもしれません。そうした耳をもって何回か繰り返して聴けば、嫌じゃなくなるかも(慣れの効用ということもあります。ま、好きになることはあんまりなさそうだけれど)。


* 写真はNHKのHPから借りたものを加工しました。


2021.09.22 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

レコードを磨く


エアコンを新しくしたら、2週間に一度フィルターを掃除するようにとあった。今の時代、なんでも省力化、時短化が当たり前かと思っていたら、そうでもない。便利なものをただ便利に使おうという無精は、やっぱりそう簡単には許されないようなのだ(自動フィルター掃除機能付きというのもあるけれど、これはこれで問題がある。業者に依頼するクリーニング等、主として経済の問題ですが)。ま、自分を甘やかさないための工程だと考えて、ありがたく受け取ることにしよう。

LPレコードを聴こうとする時もそう。音はいいのだけれど、似たようなところがあります。馴染みのない人のために書いておくと、まず30cm角*ほどのジャケットから盤面に触れないように気をつけながら出して、盤面と針先についた埃を払って、プレーヤーの蓋を開けてターンテーブルに載せて、針のついたアームを盤の外周のところへ持っていき、ゆっくりと針を下ろしたところでようやく音が出るという一連の手続きがある(レコードは、盤面に刻まれた溝をダイヤモンドやサファイヤの針でなぞって音を拾うのです)。スイッチ一つで聴けるというわけにはいかず、CDやインターネット等による聴き方に比べると、ややこしいし、ちょっと手間がかかる。面倒といえば面倒だ。しかしその分、気分は否が応でも高まります。

おまけに、レコード盤そのものの手入れというものがあって、手入れをしながら「聴き込まれるほどに盤の見た目はくたびれていく反面、音は良くなる」と中古レコード店の店長は教えているし、レコード好き、レコード収集家としても知られる村上春樹はLPレコードの利点は、「第一に、レコード盤の入れをしてあげればそのぶん音が良くなる」、「第二にオーディオ周りを整備すれば、音質が向上するというメリットもある」と言います。すなわち手をかけたらかけた分の「レコードの恩返し」があり、そうした「ヒューマンなリレーションシップのあり方が、〈略〉堪えられないのだ」と書いている。これに対して、「CDではそんなことはまず起こらない」とも。




効果を求めるなら、それなりの投資(エネルギーの投入)が必要だということですね。ま、特に第二の利点は至極当たり前だけれど、こちらは残念ながら誰にでも実践可能というわけにはいかない。それができる人はいいけれど、僕などはとてもそうはいきません。だから、簡単な道具を手に入れて、せっせと磨くことにしたのだ。元々から手元にあるものについては購入時に静電気対策等の簡単な処理はしていたから、まあ綺麗にしていると思う。問題は、これからやってくることになっているレコードだ。ずいぶん長い間聴かれていなかったようだから、汚れもついているに違いない。なかなか大変そうだし、面倒といえば確かにそうなのだけれど、靴を磨く、あるいは窓を磨くことと同じと心得よう。これからは、できることをやって、心豊かに暮らすのだ。人に対するのとは違って、期待しても悪くない「恩返し」が必ずあるのだし(何と言っても、村上センセイのご託宣だ)、そのための手続きも慣れれば苦にならないはずなのだから。

汚れの具合に応じて、ただホコリを取ることから、クリーニング液と専用クロスの組み合わせ(ここまではすでにやった)の他、今は水洗いという荒療治まであるようだから、いずれ試してみることにしよう。


* この大きさが良くも悪くもレコードの特徴の一つ。収納には不利だけれど、モノとしての存在感は圧倒的。例えばCDと比べると、面積は6倍ほどもある。レコードを聴こうとする時、または磨こうとする場合には必ずジャケットを手に取ることになる。したがって、アートワークとしてのジャケットをみる時に、その印象は圧倒的だ。一方のCDジャケットは残念ながら、小粒でもピリリと辛いというわけにはいかないようだ。このことには、また別の機会に。

2021.09.15 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

悔恨の日


日頃なんとなく思っていることを、ある時にはっきりと思い知らされる、といういうようなことがあります(もう聞き飽きたと言うかもしれないけれど、ぼくの場合、たまにではなくしばしばあるのが困りもの。しかも、今更ながらというのが結構あるのです)。




エレクタ・シェルフの足元のキャスターを取り付ける鋳物の部分が壊れたために、詰め込んでいた本やらDVDやらを全て一旦出さなくてはならなくなった。その時に目についた、昔の雑誌の1冊が気になって読んだのです。それは俳句入門の特集だったのだけれど(最近になって時々、俳句らしきものを作るようになった)、「あっ」と思ったのはそれではなくて第2特集を読んだ時。早世した落語家、古今亭志ん朝の小特集だった。彼は早くから天才と呼ばれていたのですが、若い時から親しく付き合った俳優の寺田農は、むしろそれとは逆に「努力の天才。〈中略〉噺家はここまでしなければいけないのかと思うほど、凄まじい努力をした人です」と言うのです。

志ん朝に限らず、名をなした人はすべからくこうしたもの、だろうと思う。自負とともに(たぶん)、打ち込み方が尋常じゃないようなのです(自ら吹聴こそしないけれど)。これは有名無名を問わず、そうなのではあるまいか(ごくごく稀に、例外的な天才というのもいるかもしれないけれど)。

僕は早々と自分の能力に見切りをつけて、教師(文字通り教える人、というかもっと正確に言うと、僕の場合は浅学非才ゆえにただの伝える人)に徹しようと思い定めた(ちょっと甘えた言い方ですが。これも、もう終わった)。能力のことはもちろん本当だけれど、もっと大きな原因は怠け者のせいなのだ。

僕は最近になってようやく、このことを改めて後悔するようになったのです。誤解のないよう急いで言うなら、名を成したかったというわけじゃありませんよ。何かを成し得たかも、と言うつもりもないのです。ただ、成した事の大小にかかわらず、何かに打ち込むことによってはじめて、人は達成感や満足感みたいなものを得ることができるだろう。それが生活に充実をもたらすだろう、と思うのです。そして、体の芯に錨のようなものを据えることになって、ふらふらと揺らぐことがないと想像するのだ。ま、「無駄な時間を楽しむ」というベネチア人の生き方にも惹かれるけれど(こちらの少なくとも半分は得意中の得意)。

思うだけではいけないので、これからは何かに打ち込んで暮らさなければと願うのです。まずは、住環境の整備だろうか。最初は片付けから始めるべきか。それとも、比較的たやすく取り組むことができそうなことからか、例えば、お酒のつまみの作り方を極めるとか……。

その前に、一日にリズムを与えるような幾つかの日課を定めて、定着させることの方が先かもしれません(言之易而行之難)。


2021.09.08 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

アタマと眼


エアコンの取り付けに関しては、量販店の外注による取り付け工事はけっこう良くない評判が多いようだったので、ちょっと心配もしていた。しかし、背に腹は変えられない(第一選べないし、ここ何日かは寒いくらいですが、何と言っても、立秋は過ぎたとはいえまだ夏真っ盛りだったのだから)。

量販店での購入時には、時間指定不可なので、7時半ごろに連絡が入るということだったのが、8時近くになってもかかってこない。その後、ようやく連絡が入って、待ちくたびれた頃にやっと現れたのは一人きり。販売店では二人1組ということを聞いていたので、尋ねると一人だという答え。なんだか、怪しいなあ。ちゃんとやってくれるだろうか。ちょっと不安がよぎった。





でも、いざ始まってみると、意外にも丁寧な仕事ぶりだった。大家から聞いていた取り付け方を伝えると、そうじゃないと言う(すでに、パイプスペースには塩ビ管が設置されていたのだ。ま、あたりまえか)。そして、古いエアコンを外して3本の菅を見るなり、「ひどいな、これは」と呟いて、ほらと見せてくれたのが断熱処理をしていない排水菅。さらに、本体と排水管や冷媒菅等3本の菅を収容するパイプを繋ぐ蛇腹は規定よりも短く切ってあったらしい。

ちょっと安心して(と言うのは、彼の取り組み方のことです)、「実は心配していたのです。……」と言うと「そうなんですよ。いい加減な業者が多すぎるのです」と困ったように答えるのだった。話し好きで、友人とお酒の席を楽しむことと温泉や旅行が大好きで、今はこのふたつともができないので、ストレスが溜まっているとのこと。僕は温泉にはさほど惹かれないと言うと、信じられないという顔をして、「えーっ」と言った。一方、家賃が自分たちよりも新しい居住者の方が安いことについては、二人ともに大いに憤慨した。

こんな風に、取り付け作業は極めて順調に進行して、2時間ほどで完了した(どうやら、当たりの業者だったのようでした)。ただ、テキパキと仕事を進めてくれるのは良かったのだけれど、それでもちょっと気になることがいくつかある。




一つには、エアコン本体の取り付け位置。引き戸の縦枠に中心を揃えてくれれば良かった。もう一つは電源コードが手前から出ていること。

なぜなのだろうか。本体の取り付け位置は取り付けマニュアルの指定通りということだろうし、電源コードの方は天井のコンセントが手前の方にあるせいだろうか。たぶんそうでしょうね、正確さと効率を大事にしているようだったから。他にも、技術的な制約があるのかもしれない。

さらに、本体からの蛇腹のホース、そしてこれと壁の穴の隙間を埋めるパテの処理も気になった。カバーはないのですかと聞いたら、あるけれど16,000円かかりますという。たぶん、無駄な出費を強いらないようにということだったかもしれないけれど、事前に訊いて欲しかったな(あ、これは販売店の側の問題か。その時は、いかにも貧乏な顔をしていたのだろうか)。

ともあれ、人には、それぞれ得意不得意、あるいは関心の行方、デザインに対する感覚はさまざまだということですね。ただ、こうしたことを訊きながらやってくれたらもっと良かったのに、と思ったのでした(でも、たいていの職人やデザイナーの本心は、そうじゃないのかもしれません)。

ま、慣れてしまえば、さして気にならなくなるけれど(気にしすぎるのもどうかと思うけれど、これはこれでちょっと困る)。

しかし、それよりも何よりも、さらに重要なことがある。なかなかはかどらないけれど、まずは片付けなくちゃいけません。散らかっていると、なんだか落ち着かない(よく言われるように、部屋の状態は頭や心のありようなのだから)。捨てられないのが最大の難関(これは一体どうしたことか。捨ててしまえば、無くてもさして困らないのは十分すぎるほどわかっているはずなのに)。


2021.09.04 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

反省


用事のついでに、本屋に寄った時のこと。


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ちょうど、よく読む雑誌の発売日だった。退職してからは定期購読はしなくなったものの、やっぱり雑誌が好きなのだね。で、雑誌売り場に行ってみると、確かに並んでいた。特集は「やさしい気持ち」。ちょっと気になって、手にとってパラパラとめくって見たけれど、目新しいものはなさそうな気がした(焦って買うと、同じような特集の雑誌がすでに何冊かあったり、時には再編集版とか番外編というのもあったりするのです)。

で、もう一つの雑誌のところへ。そして、結局こちらを買うことにしたのでした。

帰りの車の中で、このことがなんだか気になって、考えているうちに思い当たったのだ。

「やさしい気持ち」という言葉に慣れすぎたのではないか。ということはつまるところ、そのことに鈍感になっていることであり、傲慢な態度で接していることではないか。もしかしたら、実際にはもはや失ってしまっているのではあるまいか、と思ったのだ。

一方、買って帰ったのは「映画特集」号。毎年繰り返される企画の一つ。

結局のところ、易きについたのだ、という気がしたのでした。さらに、これまでにガラクタ類はずいぶん溜め込んできたけれど、一方で失った大事なものがあるかもしれないとを思うと、ちょっと恐くもなった。反省。

ついでにもう一つ。

先日、エアコンを入れ替えたけれど、もしかしたらその必要はなかったかもしれないという話。別の用で来てくれた業者の人が、エアコンの室外機が汚れているせいかもということを教えてくれたのだった。室外機の掃除なんて今まで聞いたこともなかったけれど、確かに真っ黒。そして、恐る恐るつけてみると、動いた。しかも止まらない。知らないということは、実際に損をすることでもあるのかもしれません。気をつけよう。


* 画像はマガジンハウスのHPから借りました。


2021.09.01 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

カタカナ語の隆盛について


ぼんやりと暮らしていても、なんとなく気づく。というか気になることはいつだってあるということは、もう何回も触れたとおり(ま、僕がぼんやりしすぎで暇にしているということかもしれませんけれど)。さらなる問題は、それが意味のあることかどうかということですが……。


*

夕方ラジオを聞いていたら、松任谷由実のアルバム「時のないホテル」を紹介していた。1980年発表という。僕は松任谷由実と言うと、うろ覚えだけれど、学生だった時の学園祭に荒井由実として活動していた、まだ有名になる前の彼女がやって来るという時に、家で汗をかきながら課題の図面を描いていたことを思い出す(呼んだ人は、先見の明がありましたね**)。

最初の曲がかかって、ああいかにもユーミン(!?)らしいなあと思って聞いていたのだけれど、しばらくして違和感を覚えた。途中で英語の歌詞が挿入されたのだ。

なぜなのだろう。彼女の歌は音のひとつひとつに言葉が一音一音乗せらているように感じがするのに。たぶん、英語でなくちゃメロディに乗らないわけではないし、伝えられないわけじゃない。英語の歌詞が入っているのは1曲だけだったから、海外進出のための戦略でもないだろう。

英語の歌詞がなくても十分に新しさを表現できただろうと思うけれど。というかむしろ、日常的な一場面を切り取った歌詞ならなおさらそのはずだろう。洒落た雰囲気を作り出そうとしたのだろうか。はたまた、もしかしたら別の理由で英語の歌詞が必要だったのだろうか。それとも、純粋に音の響きの効果をねらって取り入れたのか。でも、他の曲にはそうした試みはないから、ちょっと不思議。

ところで、多くの人がカタカナ語を使いたがるのはなぜだろう。例えば、最近では価値観の多様性を言うのにダイヴァーシティと言い、趣旨あるいは狙い、目的とでも言えばいいところをコンセプトという。何か外国語を使えば、格が上がるとでも言うようだ(かつては、漢語が流行った)。自国第一主義(ここはナショナリズムというのがしっくりくうるようだ)を言う人たちがこのことに言及しないようなのはなぜなのだろう。

ホットケーキはホットケーキでいいし(ま、パンケーキと言いたいのならそれでもいい)、ビーフステーキをわざわざ焼き厚切り牛肉などと言う必要はもちろんないのだけれど。

田村隆一が、「ニセ詩人といふのはモテる。普通の詩人はモテない」と言って、ニセ詩人、すなわち作詞家やコピーライターを詩人と呼ぶ風潮を揶揄したという気持ちがわかるような気がするのです(ま、例外はあるとしても)。と言いながら、ついカタカナ語を使う自分に気づいて恥ずかしくなることがある。


* 写真はNHKのHPから借りたものを加工しました(でも、文字の部分の改行は直せない。気になります)。
** 僕が通っていた学校は九州にあって、しかも4学年が揃っても全学で4学科480人という極く小規模だった。観客動員数はあんまり見込めなかったのではあるまいか。


2021.08.28 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

白昼夢、か


コロナ感染の勢いが止まらない。ま、このことはオリンピックの開催前から予測されていたことだし、オリンピック開催期間の状況を見ていても、こうなることは想像できた。安全、安心、国民の命が第一と言いながら、それでも開催し、しかも対策の不備が度々指摘されることになったのはなぜだったのだろう。やれば、何かしらやった意味がある。そのことは疑いようがないけれど、これが今のような状況下でやることが多数の人々にとって有意義かどうかということではあるまいか(相対的に考えるということは教わったはずなのだけれどね)。

閉会式をたまたまよそで見たけれど、しばらくすると猛烈に腹が立ってきた。これを見た人々、特に若い人たちはどう思っただろう。一方で大はしゃぎなのに対し、他方は自粛を求められている。このことを「受け入れよう」という気持ちになるものだろうか。


*

そして、今度はパラリンピックが始まる。さらなる感染拡大の契機とならないことを願うばかりだ。

緊急事態宣言の適用範囲の7府県へ拡大することに際して、ある知事は担当の経済復興担当大臣(厚生労働大臣ではない)に事前相談したというニュースがあった。これはなぜなのだろう。もしかしたら、病床の確保等医療体制のことよりも、安全の確保よりも、何より経済を基本に考えるということなのだろうか。

学校の一済休校はしないということについての、文部科学大臣の説明。学校は児童生徒にとって学習だけでなく、セーフティネット等としての意味はコロナ禍下でも変わるところがない、ということのようだった。例えば、お店の経営者にとっての経営はコロナ禍下で意味が変わるということだろうか。もう少し、丁寧な説明がされないのはなぜなのか。

パラリンピックは、オリンピック同様無観客で開催。ただし、学童、生徒の見学は例外。教室で授業を行うのと変わるところがないためだと言う。本当にそうだろうか。

さらに、オリンピックが多様性、平等性の象徴だと言うのなら、なぜパラリンピックと同時開催しないのだろう。あるいは同じ名称としないのか。運営団体も別だし、ま、想像がつかないでもないけれど、ちょっと不思議。

あるニュースキャスターが日本人のゲストには低姿勢なのに、韓国人のゲストに対しては随分と高圧的な物言いをするのを見たけれど、これはどうしたことだろうか。

もう一つ政治的な話題(不得意だけれど)。一方の経験の乏しかった党派の失敗は許さず(期待が大きかったから失望した)、他方ずっと中枢を担ってきた党派に対しては不手際を責めながらも失望することがなさそうに見える人が案外多いこと。これは、政治の場面に限ったことではないはずなのに。可能性よりも安定性を、ということなのか。「やり直せる社会」は求めない、ということか。

どうしたことか、その他諸々、不可解なこと、理解しがたいこと、腹立たしいことには事欠かないのです。

あ、でもこれは本当にあったことなのか。正しく記憶したことのなのだろうか。もしかしたら、やっぱり悪い夢でも見ていたのではあるまいか。

追伸:今日の夕刊に、チャーリー・ワッツが亡くなったことが載っていた。享年80歳。とくに年取ってからの彼は、ストーンズの中にあって端正さが際立ってかっこよかった。


* 2021年8月23日朝日新聞「天声人語」


2021.08.25 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

死はわが隣人


歳をとるということはこういうことなのか。今までなんでもなかったことが、簡単にはできなくなってくる。しかも、それは不意にやってきたという気がするのだ。おまけに、使い慣れたものを中心に、身の回りのものが次々に壊れてゆく。ま、当然古いものということになるから、仕方がないのかもしれない。

プロジェクター、DVDプレイヤー、AVアンプ、ガスコンロ、エアコン、譲り受けたオーディオアンプ、LPおよびCDプレイヤー、スピーカー等々。そして、長年使っていたエレクターシェルフの足元もついに破損した(しかも複数)。修理ができるものあれば、できないものもある。そして先日は、とうとう自身が壊れかけた。

そんな時に、最初に務めた職場の広報誌が届いたので、懐かしくなって開けてみた。と、「えっ」とおもう人たちの訃報が載っていた。僕より少しだけ年上の人かほぼ同じくらいの人が数人含まれていたのだ。あんなに溌剌として素敵だったのに、という人も。


*

急に、「死」が身近なことに感じられたのだ。文字通り「死はわが隣人」ということを、いつでも我身に起こりうることとして、改めて思い知ったのだった。同時に、これからの行く末のことが気になってくる(もちろん、来し方が気にならないわけではないけれど、もはや過ぎたことだ。「終わりよければ、すべてよし」という言葉もある。今となっては、こちらの方が重要。というか、もはやこちらに賭けるしかない)。

「このままぼんやり暮らしていいのか」という問いが、頭から離れない。何が重要かは人それぞれに違うはずだけれど、僕の場合、なんと言っても「終の住処」のことが気になってくる。先日新聞の投書欄で見た、81歳で家の建て替えを決意し、実行したという人のことが思い出されて、もう一度取り出して読み返した。その家は十分に快適なのだけれど古いものなので、予測されている南海トラフ地震で建物の下敷きになって親が死んだら子供たちに申し訳ないということだった。わが家も、地震が来たら本やらDVDやら棚やらに襲撃されることは間違いがない。

僕には子どもはいないけれど、それでも、新しい場所で「あと何年暮らせるのか」ということは、もはや意味がない気がしてきたのだった。何年であれ、賃貸であれ持ち家であれ、自身が気に入った空間で、気持ちよく暮らしたいのだ。

とはいうものの、実際には簡単ではない。何と言っても、年金暮らしの身なのだ。どうしたら工面できるのか。無芸の身には、これが難関。これが若い時だったら……、と思わないこともないけれど、それはもはや叶わないことなのだ。さて、どうする。ちょっと焦る。


* 2021年7月25日朝日新聞「声」欄掲載


2021.08.21 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

僕がブログを続ける理由


僕が怠け者であること、一つのことを続けることがなかなかできないことについては、これまでも何回か書いたことがあります。それでも、このブログだけは続いている。読者はごくごく限られているのに(しかも残念なことに、その数は一向に増えそうにない)。

それでも続けられているのはなぜだろう、と考えてみた。

もちろん、そのごく限られた人達に読んでもらいたいということがある。

だとしたら、これはメールだけでも事足りるかもしれない。むしろその方が確実に届くだろうし、読む人の手間を省けそうでもある。

ならば、他に理由はないのか。

と、不意に思い当たった。

だいたい僕は頭の中だけで考えることができない。簡単な計算だって、紙に書かないとできないのだ(暗算ができる人の頭の中はどうなっているのだろう)。文章だって、材料を書き出しす事から始めなければできない。あるいは図にして見るまでは、わからない。要するに、目に見えるようにしないとだめなのだ。




だから、何か思いついたら、まずはあり合わせの紙にメモをする(たいてい、裏紙のことが多い。まっさらの紙はなぜかかしこまってしまい、なんだか書きにくい)。これを元に、パソコンで書く。そして印刷したものに、付け加えたり削ったり、修正を加える。さらにこれを印刷し、また朱を入れてゆく、ということを繰り返すのだ(ま、その割には……、というのは仕方がない)。

つまり、もう一つの大きな理由は、僕がいっぺんに考え抜くということができないということによる。文章を作り、それをほんの少しだけ良くしようとすることについてはいうまでもない。そしてそれ以上に、そのことを通じて、ゆっくりと少しずつ考えを進めるために書く。複雑なことがすぐには理解できないので、理解を深めるために書くことが必要なのだ。だから、読んだ人の意見を聞くことができるなら、僕にとっての書くという行為はさらに意味のあるものとなるだろう。運が良ければ、第3の考えに辿りつくことがあるかもしれない。そしてさらに運に恵まれたならば、読んだ人にもわずかながらでも何かしら益になることがあるかもしれない、と願わないわけでもないのです。


2021.08. 18 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

オリンピックの開催に反対する


いよいよ始まってしまいますね。コロナ禍が勢いを増す中、東京は非常事態宣言下での、東京オリンピック。

僕はもともと政治的な人間じゃないし、ここでなんと言おうと別に変わるところがないのですが、ただこうした場を(極めて細々ながらも)運営しているのなら、(自己満足だとしても)もう一度書いておく方がいい気がしたのです。




開催地の東京をはじめとしてコロナ禍は収まるどころか、ますます増大している。緊急事態宣言が出されて、飲食店や酒店に対しては圧力が強められる一方、オリンピック開催についてはさまざまな綻びが報告されているにも関わらず、相変わらず「安心・安全」を繰り返すばかりのまま、今日まで来た。一体なぜなのだろう。

今、参加しようとする競技者の数以上に、会いたいのに会えない、提供したいのに提供できない、働きたいのに働けない等々の状況を抱えている人々が多数存在しているはず。こうした状況を放置したまま、誰のため、何のためかについては置き去りにされたままのオリンピック開催に突入する。

その中で五輪辞退をいう選手も出てきたようだ(プロテニス選手に多い)。これを評して別のスポーツ選手は「テニス選手のようにオリンピック以外の場があるからいい」というような発言をした。あるいは、「五輪を開催するにあたって国民の税金がたくさん使われていると思うんですよ。なのに国民が見に行けないっていうのは、じゃあ一体誰のための、何のための大会なのか、という疑問がもちろんある。アスリート*はやっぱりファンの前でプレーしたい」(これって、結局はアスリート、というか自分第一ということですね)、等々。

おかしいですね。悪気はなかったかも知れないけれど、つまるところは自分の事しか考えていないのだ。

自分のことを大事にしないで他者のことを大事にすることはできないはずだけれど、それは他者のことをないがしろにしていいということではないのだ。こういう人たちが「アスリート」だと誇り、オリンピック出場を当然のことのように言い、「有観客の開催」を要望するというのには全く共感できない。笑止千万と言いたいくらい。彼らがオリンピックに出場したい気持ちはわからないわけではない、複雑な感情を抱えたまま出場する選手もいるようだ。しかし、そのこととこの状況下で開催するということとは全く別のことだと思う。

バッハ会長の一連の発言にも驚く。「日本の皆さんのリスクはゼロと言える」、「選手を歓迎してほしい」、「新型コロナウイルス感染状況が改善した場合は観客入場を検討してほしい」等々の要請、さらには我が国の首相のこれに対する返答に唖然とする(他のJOC関係者の発言も同様)。

これでは、オリンピックに期待どころか、商業主義の人々に主導される状況を見ていると、その存在意義を疑わないではいられない。気分が悪くなる。いつの頃からかプロ選手の参加が認められたが、こうした競技には大抵W杯をはじめとする世界規模の大会があるのだ。オリンピックは商業主義と国威発揚の合体ということなのだろうか。知性や理性、教育の効果は無力のように見える。なんだか、このことはオリンピックに限らず、そして、世界の行方さえも危ういように思えてくる。

思えば、今回のオリンピックには様々な不祥事、嘘が付いて回った。過去のオリンピックではどうだったかは知らないけれど、このことはとりもなおさず関係者の大義は言葉だけとする商業主義、認識の甘さが増大していることを示しているようだ。

「舐めた真似をするんじゃないよ」、と言いたい気がします(ちょっと、品がないけれど)。

そして、気分を晴らすために、荒唐無稽なアクション映画を見るのです。


* この言葉もいつの間にか定着しているようだけれど、なぜ競技者じゃいけないのか。


2021.07. 21 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

終の住処


例によって、ぼんやりとテレビを見ていた時のこと(まるで、ぼんやりとしていない時はないようだ。やれやれ)。

NHK Eテレ(それにしても、なんという名称だろう)の「ハルカの光」。震災後、訳あって故郷を後にして、東京の照明器具店で働くようになった少女ハルカが主人公。自ら名作ドラマと銘打っているのはどうなのかと気になるけれど、毎回照明器具の名作が登場する。

その最終回、照明器具のことは忘れた*けれど、その中で気になる言葉があったのだ。


**

照明器具店にやってきたハルカの父(演じるのは甲本雅裕。故郷を出奔した娘と対峙する、不器用な父親の滲み出る切なさ、哀愁があって、いいです)が、住宅を建てようと思うのでこれに合う「電気」を選びたいのだと言う(「電気」というのは、照明器具のことです。これをハルカに咎められるのですが、ちょっと残酷)。

彼と彼の妻は震災によって家を失った後、仮住まいに暮らしている。事情があってハルカが出て行き、生きる力も喪失した夫婦はこれに甘んじていた。すっかり諦めていたのに、不意に「このまま終わっていいのか」、「終の住処がこれでは、寂しすぎないか」(正確じゃありません。だいたいこんな感じのことということです)と思い至って、もう一度家を建てることを決心した。それに至る過程についての説明はない(ま、ハルカのことが含まれることは確実だろうけれど)。

ちょっとグッときました。鋭い矢尻の矢で胸を射抜かれたような気がした。参ったな。もう一度、自身の「住むための空間」を設えることについて考えてみようと思った。これを物欲と言うのか、そうではないのか。

僕は若い頃は政治にほとんど関心がなかったものの、「借家政策」こそが取るべき政策だと思って支持していた(すでに書いたことがあったかもしれない)。観念主義、教条主義の陥穽に陥ってしまっていたのかもしれない。あるいは、ただの若気の至りか、とにかく家を「所有する」ということについては考えないようにしていた。

思えば、僕が敬愛する大学院時代の先生たちは皆、共産主義または社会主義の支持者のようだった(たぶん)。同時に、彼らは全員が自身の住む家を持ち家として所有していた(このことについて、すでに書いたことがあっただろうか)。これは、共産主義・社会主義的な考え方と持ち家を持つことが対立しないということなのか、それとも住まいに関心があるならばこれを所有すること(そして、これを自由に作り変えること)の魅力には抗し難いということなのだろうか。

今の僕の場合、経済的な効率の点から言うと、もはや不合理というのは論を待たない。家を新しくしたところで、そこであと何年暮らせるかわからないし、第一いつまで生きているのかさえ不明なのだ(もうそんな歳になったのだ)。

ともあれ、いや、だからこそ、残された時間が短いからこそ、悔いのないようにしたいという気持ちが強くなるのだ。そして、分を超えているかもしれないのだけれど、怠け者でぼんやりと過ごしたまま何も成さなかったこれまでのことを思うと、せめてこのくらいのことは実現したいものだと願いたくなるのだ。


* 写真を見たらわかると思うけれど、ポール・ヘニングセンのテーブル・スタンドでした。
** 写真はNHKの番組HPから借りたものを加工しました。


2021.07. 17 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

もっと困った


暑い日が続きます。気がつけば7月ももう半ばで、梅雨明けも近そうだから、無理もない(でも、僕はなぜか季節の感覚を失いつつあるようです)。そして暑さは、これからさらに本格化する。

それで、エアコンを使う機会も増えてきた。日中は、窓を開け放って凌いでいるけれど、雨の日や夕方になるとそういうわけにもいかないので、エアコンに頼らざるを得ないのだ。

そんなある日のこと、点けたと思っていたエアコンが止まっているのに気がついた。で、改めて点け直す。すぐに動き始めて、涼しくなる。

別の日、点けたはずのエアコンがまた止まっている。誤って、タイマー設定でもしたのかと思って設定し直して電源を入れた。何事もなかったように動き始めた。やれやれ。

それからしばらく経つと運転音が聞こえなかったので見にいくと、やっぱり停止していた。今度は本体をよく見たら、緑のランプが点滅していることに気づいた。除湿を示すランプ。能力を超えたのかと思って、冷房に切り替える。と、また涼しくなったので、一安心。


*

ややあって、また見るとやっぱり緑のランプが点滅していた。ああ。これは不具合が生じたのに違いない。説明書が見当たらないので、インターネットで調べて見るとありました(便利ですねえ)。点滅回数で故障の種類がわかるというので、改めて確認したら3回の周期。室外機基板/コンプレッサーの故障らしい。

困った。これからが夏本番というのに、故障なんて。「雨あがりの夜空」の気分。でも考えてみたら設置してから10数年も経っているのだ。仕方ないといえば、仕方がない。暑さのピークは、あとひと月ほどか。ならば、だましだまし使えるのか。いっそエアコンなしの生活に戻って見るのも良いかも、という気がしてくる。

ただ、よく考えてみれば老朽化はこちらも同様。機械以上に年を経ているのに、無理は禁物なのだ。でも、機械を入れ替えるとなればそれはそれでまた大変。経済的なことはもちろんだけれど、機械の搬入と取り付けのためのスペースを作り出さなければないけないのだ(やれやれ)。

それにしても、「ものは必要な時に壊れる」(マーフィーの法則)というのはよく当てはまる。しかも、こうしたことには連鎖があるようなのだ。古いオーディオ機器類は軒並み修理が必要だし、コンロも怪しくなってきた(しかも同じものはすでになく、似たようなものは随分割高だ)。他にも色々とあって、なんと物入りであることか(ふーっ。年金暮らしに入ったばかりというのに)。参ったな。

でも、もっと困るのはこの状況で、もはやオリンピックやむなしとする雰囲気ではないか、という気がするのだけれど……。


* 画像は、ジャパネットたかたのHPから借りたものを加工しました。


2021.07. 14 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

ちょっと困った


以前、ここに書いた年寄り(ミステリ)小説は、まだ読んでいない。白状すれば、未だ入手していないのだ。

言い訳をするなら、いくらなんでも89歳の主人公というのはどうか(参考になるかのか)とか、字が大きくなっているのはありがたいけれど、そのせいで上下2巻本となり、文庫本なのに合わせるとほぼ2,000円ほどにもなるしなあとか(ちょっとせこいようだけれど、年金暮らし)、ちょっと評判がよくないぞとか(しかし好きな小説が恋愛小説というのが気になる)等々がある。




分けても大きいのは、丸谷才一の「快楽としてのミステリー」のせい。これを改めて読んでいると、どれもがむやみに面白そうで、未読の気がするものをいくつかアマゾンに注文している(最初に読んだ時も、購入予定の印があるからもしかしたら重なりがあるかも)。先に誘惑に抗しきれずに注文した「ストリート・キッズ」が新作と変わらずに楽しめたこと、しかも中古本で安く手に入れたのが案外綺麗で良かったことが後押ししてくれる。

おまけに書店の本棚には、これまで馴染んできた作家の新作が全く見られなくなった反面(例えば、SJ・ローザン)、一方チェスタトン等のミステリの古典と目されるものは目にするようなのだ。

中には読んだ気がするようなものもあるけれど、中身はどうせ覚えていないのだ。でも、そうしてばかりいると、他のジャンルの本を読む時間がなくなってしまう(いくら良くできたミステリ、たとえばチャンドラーのような探偵小説が優れた文学でもあるとしても)。

ところで、少し前にジャズの本をまとめて読んだ時があった。ジャズそのものについてはもちろんのこと、ジャズ・ヴォーカリストとポピュラーの歌い手の違いがわからなかったのだ。そん時に、寺島靖国という人が「古いものはもういい。とにかく新しいものを一枚でも多く聴きたい」というようなことを言っているのを読んだのだった。

その時は、そんなものかと思っていたのだけれど、いまの僕はちょうどその逆の状態のようだ。読む小説といえば再読を含めて古いものにいきがちだし、音楽もそう。新しい音源といえばラジオくらいで、新譜のCDはずいぶん長い間買ったことがない。サブスクリプションとは無縁。

分けても映画が特にそうで、なぜか未見のもの、特に新しいものにはさして食指が動かない。映画を観ようと思って、棚を探していても大抵は、結局すでに見たものを選ぶことになるのだ。

これはなぜなのだろう。新しいものへの憧れを失ったのか。冒険心や好奇心の喪失か。もはや回想する時期に入ったせいなのか。はたまた生きる力の減衰の現象のためなのだろうか。

もしかしたら、ずっと子供っぽい暮らし方をしてきて、ついにそれに耐えきれずに、一挙に老境へと突入してしまったのかもしれない。

さて、何をやればいい。


2021.07. 10 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

不勉強を恥ぢる


今頃になって知ること、がある(恥づかしながら、この年でも。しかも少なからず……)。ま、当然と言えば、しごく当然ですが。ただ、そんなことも知らなかったの、と言われそうなことです。

ビールを前に、窓の外を眺めながら、目黒区総合庁舎を舞台にした番組をチラチラ見ていたときのこと。


*

外観は縦の線が強調されたルーバーが目につく。よく見ると、縦の線と横の線が交わるところの内側は直角ではなくわずかなアールがつけられている。設計は村野藤吾。旧「千代田生命保険本社ビル」(1966年)。

いかにも村野好み(あんまり知らないのに)、という気がした。建物に辿り着くまでのアプローチも、とても気持ちよさそう。中に入ると左右対象ではなく、東西の開口部から入ってくる光の具合を考慮して設計されている。


*

外部の通路にかけられたアルミの庇を支えるのは、ランダムに並べられた細い柱。ちょっと驚いた。今頃になって知ったことというのは、このことなのです。僕がランダムに並べられた柱で覚えているのは、コールハースのパリの家「ヴィラ・ダラヴァ」(1991年)、屋上に作られたプールの先にはエッフェル塔という、あれです。いかにも脱構築主義という気がしたのだけれど、それよりも前に村野がやっていたことに驚いた。(ま、コールハースの方はランダムに並んでいるだけでなく、垂直でもないけれど)。知っている人は、当然知っているわけで、今頃かよと言うでしょうね。今頃になって、と言ったけれど、本当のところはたいていこんな風なのだね(よく教壇に立っていたものだ。ああ、恐ろしい。汗顔の至り)。

でも改めて考えてみると、案外不思議じゃないのかもしれない。村野は、西洋の近代建築に精通していたのは無論のことだけれど、日本建築にも通じていた(彼の自邸は民家を移築したものだし、そこには桂離宮の残月亭の写もある。しかも、これにはいくつかヴァリエーションがあるようだし、数寄屋造りの傑作とされる作品もある。決して合理主義だけではなかったし、視覚的な喜びにも心を砕いていたはずだから。

それでついでにと言うと変だけれど、ちょっとニーマイヤー(あんまり褒められることは少ないようだけれど、結構好きです)のことを思い出した。一筆書きのようなシンプルな美しさと楽しさに満ちている。彼も初期の近代建築の洗礼を受けた頃を除くと、直線だけで構成されたものはない(たぶん)。西洋のモダニズム建築に学び、その影響から逃れようとしたけれど、自身が育った国の気候風土や文化的環境からは逃れられなかった、というか向き合わざるを得なかったということなのかな。

村野の階段はいいなあ。番組によれば、「階段の魔術師」と言われたそうだけれど、恥づかしながらそのことも知らなかった。移動のための設備ということだけと違った、インターナショナル・スタイル以前の西洋建築に見られるような合理的だけじゃない造形的な美しさや見るものを楽しませる仕掛け等の工夫が凝らされた階段の魅力がある。

過去や先達に学びながら、しかし形式主義にとらわれない柔らかな態度がそこにあるということだろうか。誰か教えてください。

ちゃんと勉強しなくちゃいけませんね(いくつになっても)。


* 写真はテレビ大阪のHPから借りたものを加工しました。


2021.07. 07 夕日通信(*コメントはこちらからもどうぞ)

テニスの頃


ビールを手にして、テレビをつけたら、ウィンブルドン大会の中継をやっていた。コロナ禍がなかなか収まらない中で、やっていたのだね(たぶん、経済優先ということなのだろうけれど、大丈夫なのだろうか。イギリスでも感染者は